妖狐の陽子と人斬り鴉   作:四十九院暁美

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妖狐の陽子は覚悟する

 茫然としていた。

 朝一番にかかってきた電話。

 昭亥の母親から聞かされた事実は、陽子の心に大きな影を落とし、自分が何をやっているのか認識できないほど、自失の極みに追いやった。

 今朝、親友は迎えに来てくれなかった。

 学校、親友が座っていたはずの席が伽藍洞としていた。

 放課後、親友と歩くはずの帰路は静かで寂しかった。

 途中で警官に言われて、事情聴取にも応じた。その日はどこで何をしていたのか、何かおかしな様子はなかったか、そんな質問をいくつもされた。

 思い出すたび、心が削げ落ちていくような筆舌し難い苦しみがあって、頭が真っ白になってく。生きながらに死んでいくのに似た感覚、生きていた中でもっとも苦しい痛みを味わった。

 別れは何度も味わったはずなのに、どうしてこんなにも苦しくて、辛くて、悲しいのか。”妖狐”にはまだわからなかった。

 帰宅しても心は戻らない。

 喪失感が全身を包み込んで、全てが遠くで起きた出来事に思えてしまう。生涯を預けた半身を失ったような気分だ。彼女の身に何があったのか、何が起こったのか。心配で頭がどうにかなってしまいそうで、それなのに足が動かなくて、陽子は部屋の真ん中で立ち尽くしていた。

 いつまでそうしていただろう。

 不意に湧き出てきた悔しさがあまり、陽子は自分の額を思い切り壁に打ち付けた。

 ゴッ、鈍い音が鳴った。痛みが頭を駆け抜けた。

 腑抜けた気持ちが抜け落ち、全身に活力が戻る。

 思考の歯車が回り始めて、固まっていた心が解けていく。

 痛みは良い気付けとなった。

 喪失から復帰して、多少はマシな気持ちになった陽子は、鴉切六紋を背に隠したまま家を飛び出す。

 彼女を捜し出さねばならない。

 これは妖、おそらくは鴉の仕業だろう。殺さずに連れ去ったのは少しばかり不可解だが、とにかく。最悪の形で見つかってしまう前に、なんとしても彼女を助け出さなければならない。時は刻一刻を争う。座して待っている暇はなかった。

 帰り道で行方不明になったのならば、その間で誰かに攫われたか、何かにまき込まれた可能性が高い。陽子の家から昭亥の家まで、直線距離でおおよそ五百メートル弱の間に何かが起こったのだろう。まずはそこを調べてみようと思った。

 住宅街には多くの警官がいて、昭亥を捜索していた。

 陽子も彼らの中に混じって、何かしらの痕跡、妖にしかわからない手がかりが残っていないか、注意深く観察して道を歩いた。

 何度か警官に危ないと叱責されたけれど、陽子を止めるにはいささか力不足で、少ししたら誰も何も言って来なくなった。

 どれだけ歩いただろう、どれだけ往復しただろう。

 靴擦れで痛む足も気にせず、ひたすらに彼女の痕跡を探した。

 

「……!」

 

 そうして夜も更けた頃、ひとつの手がかりを見つけた。

 黒い羽根、鴉の羽根だ。

 ただの羽根ならば気にも留めないが、ここに落ちていた羽根は明らかに違っていた。血で汚れていたのだ、目に見えてわかるくらいに、血がべっとりと付着した痕があった。間違いなく、人斬り鴉の羽根だった。

 最悪の結末が一瞬だけよぎって、すぐに頭を振る。

 血は既に乾いて固まっており、昨日今日に付いたものではない。ならば、まだ昭亥は無事なはずだ。

 羽根を拾って、握りつぶす。

 同時に。

 懐にしまっておいた符が反応した。発せられた音は大きく、まるで来るのをわかっていたみたいに近くを示している。

 どこかへ誘い込もうとしているのだろうか。ならば好都合、こちらから出向いてやれば良い。

 陽子とて妖の端くれ。たとえ何が待っていようと、相手がその気ならばもっとも原始的な方法、暴力によって親友を奪い返してやろうと決意した。元より相互理解なぞ不可能な相手だ、ためらいもない。

 地べたを踏みしめて、疾と駆ける。

 脇目もふらず、人目も気にせず、音の鳴る方へただ走る。断続的になる音を頼りに住宅街を抜け、郊外の工場エリアに入り、さらにその奥へ。

 追いかけて、追いかけて、追いかけ続けて。

 気が付けば、もはやどこかもわからない、廃工場の一角に辿り着いた。

 工場の裏。いくつかある棟のうちの、一番右端。

 鎖で封鎖された大扉のすぐ横にある、錆びついた鉄のドアに、符が貼り付けられていた。どうやらここに、鴉はいるらしい。

 鴉切六紋を背から抜き取ると、鞘を投げ捨ててドアを蹴破る。

 妖の膂力によってあっけなく吹き飛んだドアは、派手な音を立てて工場内に転がった。

 やがて、無音だけが残った。

 少し見まわしてから踏み入ると、靴音だけがいやに響いて、無気味に暗闇を彩る。

 大きな機械や道具なんてものは運び出されたあとなのだろう、だだっ広くて、薄暗くて埃っぽい伽藍洞な空間だけがあった。

 警戒しつつも奥へと進んでいくと、違和感に気付く。

 いくら歩いても、景色が変わらないのだ。

 工場の見た目からして、もう反対側の出入り口に着いてもおかしくはないのだけれど、いくら歩いても辿り着く様子がない。どうやら鴉の妖術により、この工場の内部は、空間が引き伸ばされているらしかった。

 すなわち、空間拡張。

 厄介な術だ。発動の難易度に反して扱いやすく、熟練者が行使すれば百キロは引き伸ばせる。鴉の技量が如何ほどかは知らないが、最低でも一キロは伸ばされているだろう。小癪な真似をする。

 昭亥の姿も、鴉の姿も、見当たらない。

 いったいどこに隠れ潜んでいるのやら。

 あらゆる死角に意識を向けながら、慎重な足取りで奥に向かう。迷い家の時には上から奇襲されたから、次もどこからか奇襲をしてくると踏んでいた。

 しかし、その警戒はあっけなく裏切られた。

 

「……嘉平さん!?」

 

 棟の中を少し進んだところ、ちょうど入り口からは覗けない奥まった場所に、よく見た侍姿の男がいた。

 

「狐か」

 

 溜め息混じりに言われて、安心した気持ちになる。

 彼もまた、鴉を追ってここへ来たのだろう。ミカがいないのは少し気になるが、もしかしたら、外で待たせているのかもしれない。

 思わぬ再開だ。僥倖である。

 

「あの!」

 

 ほとんど悲鳴に近い声で、陽子は言う。

 

「友達が、昨日からずっと行方不明で……もしかしたら、鴉に捕まったかもしれないんです! この奥にいるかもしれないんです!」

 

 聞くも悲痛な言葉を受けた嘉平は、押し黙って陽子の瞳を見つめた。 

 

「あたしは、あの子を助けたい。まだ話してないこともたくさんある。話したいことがたくさんある! 絶対に死んでほしくない……だからあたしに、力を貸してください!あの子を助けるために! お願いします!」

 

 沈黙が場を包む。

 何も言わず。何も語らず。ただ黙したまま、嘉平の瞳が真っ直ぐに射抜いている。黒々としたその瞳に、この嘆願はどのように見えたのだろうか。ひとつだけ確かなのは、今にも泣きだしそうな顔の陽子が、しかと映っていることだけだった。

 数秒、いや数分だろうか。

 ついと目を逸らした彼は、おもむろに工場の奥へ歩き出す。

 どうしたのかと立ち尽くしていたら、彼は振り向いて。

 

「往くぞ、狐」

 

 それだけ。たった二言だけ、彼は言葉を発した。

 しかし、陽子にはそれで充分だった。

 

「っ! はい!」

 

 頼もしく見える背中に、陽子は凛と返事をした。

 こつ、こつこつ、こつ。

 二人分の足音が響く。

 だだっ広い暗闇の中を進んでいく。

 

「嘉平さんも、鴉を追って?」

 

 問えば彼は懐から何かを取り出す。

 それは羽根だった。真っ黒な羽根、人斬り鴉の羽根だ。陽子と同じように、誘い出されたらしい。

 

「わからぬことをする」

 

 はたして何が目的で、二人をここへ呼び寄せたのか。罠であることは確かだが、わざわざこんな手間をかけてまでするものか。無気味極まる鴉の思考が理解できず、嘉平は眉をしかめる。

 だが、今はそれを議論している時間はない。

 今はとにかく、先を急ぐことが重要だ。

 

「どこにいるんでしょう」

 

「さてな」

 

 もうだいぶ奥へ進んだが、いまだに鴉の姿は見えない。不自然なほど気配もなく、ただ静謐のみが満ちている。奇襲のタイミングを計っているのか、だとしたら相当に用心深い奴だ。いつまで歩かせれば気が済むのやら。

 それから、さらに進むこと数分。

 

「埒が明かぬ、走るぞ」

 

「言われずともですっ」

 

 歩いていては夜が明けてしまう。

 地面を蹴り飛ばし、前へと飛び出す。

 風が如くと二人は駆けた。

 常人ならば三十分はかかるであろう距離を、二人は五分も経たぬ間に通り過ぎていく。

 驚くべきは嘉平の脚力だ。妖たる陽子の脚力は尋常ではなく、その速度は実に五十キロを超えるというに、彼は悠々と隣に並んでいる。おおよそ人の範疇を超えていた。陽子のせいでそれらしい力は出していなかったが、やはりこの妖狩りもまた人外であった。

 健脚を以て往く二人は、グングンと進んだ。

 そうして、どこまでも続いているのでは。なんて思ってしまう距離を過ぎた頃、不意に終わりが見えた。 

 現れたのは別棟と続くはず鉄扉。

 だが、明らかに異様な雰囲気を放っていた。

 扉の前で立ち止まれば、隙間から流れ出る血の臭いが鼻を衝く。微かに聞こえるのは刃物を研ぐ音だけで、あとは自分たちの呼吸音だけ。怖気がするほど無気味で、吐き気がするほど悍ましい雰囲気が、その扉にはあった。

 

「行きますよ、嘉平さん」

 

 ごくりと唾を飲み込んで、陽子は勢いよく扉を蹴り開けた。

 

「やっときたか、ヒヒヒ」

 

 目の前に現れたるは、吹き抜けの大部屋。

 そして人斬り鴉。

 猛禽類の嘴と、巨大な黒い翼、血と誇りに塗れた山伏の服、そして一本歯の下駄。伝承に伝わりし鴉天狗そのままの姿で、それは悠然と野太刀を肩に担いで立っていた。

 

「アキちゃん!」

 

 鴉の後ろ。部屋の最奥には、結界の中で手足を縛られ、床に転がされてる昭亥がいた。

 ぐったりと横たわる彼女の姿に、陽子は全身が粟立つのを感じた。最悪の事態が脳裏をよぎり、そんなはずはないと目を見開いた。

 服は汚れているけれど怪我はなく、ただ気絶しているだけのように見える。無縁が上下しているから、おそらくまだ死んではいないのだろうが、結界の中にいるから何か悪い状態になっているかもしれない。

 

「鴉……ッ!」 

 

 憎しみと怒りで奥歯が鳴る。感情の昂りに合わせて、尖った耳が、白色の尾が、琥珀の瞳が、尖った犬歯が、鋭い爪が、恐ろしい獸のそれへと変化して、人の皮がはがれていく。

 

「抑えろ、狐」

 

 気を抜けばすぐに爆発しそうな感情に、低い声が冷や水を浴びせる。深呼吸と共に、少しだけ平静を取り戻す。

 鴉は下卑た表情で目を細めて、野太刀の切っ先を昭亥に向ける。あからさまな挑発だ、乗るはずもない。

 

「アキちゃんを……その人を離してください」

 

「ヒヒヒ、力づくで来い。拙僧は今、飢えておるのでな」

 

「飢え、ですか」

 

「惰弱な人間を殺すのは、些か飽いた。そろそろ骨のある妖と死合いたいのだ、拙僧は」

 

「ならば望み通りにしてやろう」

 

 嘉平がすらりと刀を抜く。

 鈴の音にも似た音が、両者の間を通り抜けた。

 

「さて、どうだろうな。拙僧が待っているのは、主らよりは骨のある輩がおるやもしれぬぞ」

 

 馬鹿にした態度で鴉が言う。

 他に来るとするならば、あのスーツの女性とコートの女性の二人組だろうか。鴉を追っていたところに接触してきて、首を突っ込むなと忠告してきたのだから、おそらくはそうだ。どれほどかかるかはわからないが、きっとここへも辿り着くだろう。

 鴉の言葉から察するに、昭亥を餌にして陽子と嘉平を釣り、さらにそれを餌にして、あの二人の女性を釣る。そういう魂胆だったのだろうか。

 だとするならば、なんとも回りくどい方法だ。本当に戦いを望むのならば、わざわざこんな回りくどい準備をせずに、あの女性たちがいそうな場所へ直接乗り込めば良い。もっと言えば、そこらの強そうな妖に喧嘩でも吹っ掛ければ、それで足りるだろう。

 にもかかわらず、それをしない。

 口では人殺しには飽いたなどと言っているが、そもそも、鴉はこれまで人間しか殺していないはずだ。加えて、戦いたいなどと嘯きながら人質を取っているところを見るに、この鴉は単に弱者を嬲り殺しにしたいだけにも思える。

 神通力がないゆえに自身の力が及ばぬ相手には挑まず、明らかに狩れる相手だけを選んでは弄ぶ。

 すなわちその正体は、闘争を好いているのではなく、勝利という結果を好いているということ。勝利の愉悦に浸れるならば、過程や方法の一切を度外視する外道の証左に他ならない。

 

「貴方の目的なんぞに興味はありません。戦いたいならば、どうぞおひとりでやっていてください。鏡の中に、きっとちょうど良い相手がいますよ」

 

「ずいぶんと憤っているな、狐。そんなにこの人間が大事か」

 

「ええ、大事ですよ。その子を取り返すために、あたしはここまで来たんですから」

 

 努めて静かな口調で答える。

 人質がいては戦えない。引き合いに出されては、土俵にすら上がれず斃されてしまう。まずはどうにかして、昭亥を救出しなければならなかった。

 人質救出のためには、陽子の陰陽術による結界破りか、退魔刀である嘉平の殺生石の刀で結界を斬り裂く必要がある。

 陰陽術での結界破りは、この上なく確実に結界を破れる。この術は式神を行使する必要があるため、式神を斬られてもすぐに取り返しが効くのも利点だ。斬られたならばまた同じ式を召喚すれば良い。ただし使役している術者、すなわち陽子が斬られてしまったらそこで終わってしまうのが難点か。

 対して。殺生石の刀で斬り裂く方法は、素早く一瞬で終わるため、昭亥を確保できしだい早急に場から離れることができる。しかし、結界に辿り着くには鴉を斃すか誰かに抑えていてもらう必要があった。しかも嘉平の刀を使う関係で、足止めできるのは実質的に陽子だけという制約付きだ。

 そして昭亥を覆う結界がどんな性質かわからない以上、増援を待っている時間はない。即決即断が重要だ。リスクを無視してでもリターンを取る必要があった。

 

「嘉平さん」

 

「黙れ」

 

「まだ何も言ってないじゃないですか……」

 

「友人ならば自分で助けろ」

 

「……任せても、いいんですか」

 

「黙れと言った」

 

 不安げに見上げれば、彼はこちらを見ずに答えた。

 その横顔は、どこか死を覚悟した人の顔をしていて。本当に任せて良いのか、迷いを抱いてしまう。ともすれば本当に死んでしまうのではないかとさえ思えた。

 けれど今は、それが最善だった。

 

「わかりました。必ず、アキちゃんは助け出します」

 

 頷いて、陽子は正面を見据える。

 

「だから、死なないでくださいね」

 

 答えは返ってこなかった。

 作戦が決まれば、あとは実行するのみ。

 嘉平が一歩を踏み出して鴉に肉薄、一太刀を浴びせんとする。風切り音と金切り声が響く。交差した刃は火花を散らして、幾度となく打ち合う。

 

「来て、食岩(はみいわ)悪水(うすい)穿針(うがちばり)

 

 激しさを増す斬り合いを尻目に、陽子が上衣から紙を三枚取り出し、式神を呼びだす呪を唱え、宙へ放った。

 舞い散る紙を依代に、現れたるは三匹の獸たち。

 黒色の岩でできた碧眼の兎、食岩。

 流体とも個体ともつかぬ猿、悪水。

 鋼鉄の翼で飛ぶ乳白色の燕、穿針。

 それぞれ弱いながらも結界破りの力を持つ式である。本当ならばもっと強力な式を呼びたかったのだが、それには多くの妖力を必要とするため、あとのことを考えれば呼びだすのは躊躇われた。

 

「みんな、力を貸して」

 

 真剣な眼差しで見つめれば、式たちは一様に頷く。知能はさほど高くないが、信頼と忠義の心は誰よりも高い。親愛なる主のためならば、死なずの身すら礎とする覚悟があるのが式たる彼らだ。

 結界破りの式に気が付いた鴉は、その目を細めて殺気を飛ばす。絶対の死を予感させる視線に、しかし陽子は、一瞬も怯まずに突撃した。

 人質を助けるならば、近くにいたほうが動きやすい。危険かもしれないが、彼が死を覚悟をして戦っているのだ、こちらも命を懸けずしてどうする。

 

「食岩は変化を、悪水は側面を押さえて、穿針は上から。悪水、くれぐれもアキちゃんを傷つけないように」

 

 冷静に指示を飛ばし、嘉平の横をすり抜ける。立ちはだかる鴉が野太刀を振るうが、すぐさま嘉平が割り込み受け止めた。

 

「小癪ッ」

 

 悪態。鴉が怒号と共に発した。

 背中に突き刺さるものを感じながら、決して足は止めず。嘉平を信じて走り続けた陽子は、ついに部屋の最奥、人ひとりがやっと収まる大きさの結界の前に立った。

 式たちに目配せをして配置につく。悪水が身体を二つに別けて万力みたく側面に取りつくと、穿針が上で杭になって結界のてっぺんに突き刺さる。食岩は身体を槌に変えて、陽子の左手に納まった。

 

「……行きます!」

 

 両足に力を籠め、身体をばねのように縮こませ、そして。

 跳躍。

 月兎もかくやと跳び上がった陽子は、食岩を振りかぶり、呪言と共に渾身の力を以て振り下ろして叫ぶ。

 

「破錠解鎖邪根刈奪妖力退散幻消現戻! 急々如律令ッ!」

 

 轟音。

 爆発のような。

 杭となった穿針に食岩の槌を叩き付けた瞬間、結界が軋みを上げて罅割れた。

 トドメに万力になった悪水が結界を締め上げれば、一秒も経たずして、耳鳴りめいた破壊が大部屋を満たした。

 結界は粉々に砕け散り、淡い煌めきとなって辺りを舞う。

 思いの他、拍子抜けするほど呆気なく、陽子は昭亥に触れた。

 

「アキちゃん、助けに来たよ」

 

 しゃがみこんで、そっと頬を撫でる。

 少し冷たくなっているけれど、確かな生命を感じた。

 

「おのれ、小狐風情がよくもやったなッ」

 

 憎々しげに鴉は叫ぶ。歯牙にもかけていなかった陽子に、こうもあっさり人質を奪還されたのだ。その憤怒はまさに怒髪天を衝く勢いなのだろう。

 

「退け、狐」

 

 鴉と陽子の間に立ち塞がる形で、嘉平が大きく後ろへ下がる。彼女を救出した今、形勢は二人に傾いた。あとは援軍が来るまで防衛に徹するだけで良い。勝敗を決するのも時間の問題だった。

 

「ぐ、ヒ……なんと、なんと愚かなりや……」

 

 片手で顔を覆い、地に膝をつかんとするほど俯いて、鴉が声を絞り出す。それは主要な感情が読み取れないくらいに震えた声で、もはや正気を失ったのではと疑うほど。しまいには野太刀を地面に突き刺して、苦悶ともつかかに呻き声まで出し始めてしまった。

 あれでは冷静な判断もできまい。戦いとは平静を欠いた時点で負けである、油断さえしなければあしらうのも簡単だと思われた。

 だが。

 しかし。

 

「っ!?」

 

 ゾクリと。

 背筋を冷たいものが走る。反射的に立ち上がった。

 その直後。

 陽子と昭亥は結界に包まれた。

 

「これは……ぁ、ぐっ……!?」

 

 全身から力が吸いだされ、式たちが紙切れに戻っていく。身体が麻痺して、重力に潰されそうになる。変化を保つことも、立っていることすらもままならない。四肢が、顔が、人から獸のそれへと変化して、ついには白いだけの狐に戻ってしまった。

 妖気を吸い取るこれは、名取の結界。妖が長く居続ければ、やがて存在そのものすら失う陰陽道由来の結界だった。

 

「何……!?」 

 

 驚きと共に振り向いた嘉平が、突風に吹き飛ばされるのが見えた。天井近くまで打ち上げられ、落葉のように宙を舞った彼は、受け身も取れないまま地面へ叩きつけられてしまう。

 脱げ落ちた旅笠が、鴉の足元に転がっていった。

 いったい何が起こったのか。

 陽子がそれを理解した時。

 鴉は、邪悪に笑った。

 

「苦労したぞ、”名”を得るのは」

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