――Case.3
雪村時子には、愛する夫との間に生まれた自慢の息子が二人いた。
長男は人好きのする笑顔が魅力的な、穏やかな性格。
次男は才能豊かで品行方正な、静かな性格。
結界師という世間から外れた職務を真摯に受け止め烏森を守ろうと働く、最愛の息子達がいた。
(ああ、素敵な息子を二人ももてて私はなんと幸せ者なのかしら)
どこに出しても恥ずかしくない、立派で自慢の息子だった。
そう、〝だった〟。
現在進行形ではなく、過去形。
時子が抱いていたその幻想は、ある日、突如として破壊され尽くした。
『暫く世界を見て回ってきます。 時祓』
リビングに置かれていた、たったこれっぽっちしか書かれていない置き手紙。
最初は性質の悪い冗談かと首を捻った。
次男の時祓は幼い頃から中学一年に至るまで、母である時子自身大きい声を発したことは赤子の時以来見たことがないほど物静かな性格で、そして真面目だった。
結界師の術を教えた日から来る日も来る日も鍛錬を怠らず、家族が心配して休むよう声をかけたくなるような入れ込み具合。
鍛錬だけしかしていなかった訳ではなく、たまに長男の時雄と公園へ遊びにいったり昼寝をしていたりと、本当にたまにだが息抜きもしていたので実際に声をかけたことはなかったものの、とにかく時祓は家業とひたすら向き合う真面目な子であった。
そんな子だったからこそ、時子は最初、この置き手紙を時祓が生まれて初めてついた拙い冗談ではないかと思ったのだ。
しかし、門限を過ぎても時祓が家に帰ってくる気配はなく。
このメモ書きにも似た紙は真実を伝えているだけではないかと、そんな考えが頭を過り。
ありったけの式神を解き放って町中を捜索した。
父、兄、時雄。式神を作成できる術者は限界まで式神を使用したが、時祓は見つからなかった。
何故唐突に時祓はいなくなったのか、「世界」が「海外」を指すのであれば未成年がどのようにして向かったのか、恐らく協力者がいる筈だがそれはいったい誰なのか、何の為に世界を見るというのか。
疑問は泉のように湧いて出るが、それに対する答えは何一つとして浮かんでは来なかった。
そしてその次の日、家族それぞれの枕元に、時祓からの手紙が届いた。
『雪村時子様へ
伝えたいことだけを書きます。
外の世界を直接この目で見てみたいと思ったので見に行くことにしました。
家も街も烏森も嫌いじゃないし寧ろ好きだけれど、だからとはいえ行きたい場所に行けない現状は嫌でした。
ここにいるだけでは自分は永遠に井の中の蛙のままだと感じたのです。
各国で活動している筈の其々の妖たちを一通り堪能したら必ず戻ってきます。
定期的に連絡はするので、ご安心ください。
雪村時祓より』
――私はこの子のことを何も分かってあげられなかった。
時祓の本心が綴られた手紙を読んだ時、時子に襲い掛かってきたのは自責の念だった。
あの子はずっと鍛錬を続けていた。 何が理由で?
あの子は滅多に喋らず首を動かすばかりだった。 何が理由で?
あの子は昔から目の前の景色ではないどこか遠くを見つめていた。 何が理由で?
時祓は、外の世界に行きたかったのだ。
烏森のみ見つめている現状が嫌で、だから飛び出したのだ。
この手紙に書かれていることだけが真実だったのだろう。
時祓からの手紙を読んで、まずそう思った。
抱いた感情は悲しみ。母親たる自分が息子の想いを察してやれず申し訳なく思う気持ち。
ただそれだけだった。
明言こそしていないが、自分も含めた結界師一族は多かれ少なかれ烏森にこの身を縛られていることを全身の肌で感じているのだ。
方印が浮かび雪村家21代目正統継承者となった自分こそ、その事実を一等強く理解していた筈なのに。
時祓は本当の感情を誰にも打ち明ける事なく抱え続け、ついにそれが我慢の限界を超えた。
そして、世界へ向かって行った。
本来なら母親である自分が、大人である自分が、先達である自分が、息子であり子供であり後進である時祓を導いてやらねばならなかったのに。
悔やんでも悔やみきれない事実だけが、胸に残った。
400年対立し続けた墨村家21代目正統継承者・墨村繁守が時祓の出奔を揶揄してくることは一度としてなく、自身の父と彼の父が激しく口論するのみだった。
そのことが寧ろ時子の胸を締め上げる。
時祓の一件で、時子が思うことは一つ。
――これは私の至らなさが招いたものだ。
時子は次男を信じていた。
なんて出来の良い子なのだろうと。なんて素晴らしい術の腕前なのだろうと。
そんな表面的なものしか見ていなかった。
時祓は母親を信じていなかった。
都合のいいものしか視界に入れない相手を、信じる気にはなれなかったのだろう。
だから何も言わなかった。
時祓がいなくなって数日は学校には風邪を引いたと連絡していたが、次の週からは時子が己の式神に時祓の容姿を模らせ、毎日通わせ続けた。
父は怒った。
あのような輩は結界師として相応しくない、扇一族にでも処分させるように依頼を出すと豪語していた。
「やめてよっ……! おじいちゃんはいつも自分勝手だっ!」
それを必死に押し止めたのは、時雄だった。
「時祓だって勝手だけど、おじいちゃんはそれ以上に自分勝手だ! 結界師の誇りだとかなんとか耳触りの良いことばっかいって、本当は墨村の人に馬鹿にされるのが嫌なだけだろ!」
「ただ下に見られるのが耐えられないだけなんだろっ!? この、自己中!」
「そんなくだらないことで時祓は殺させない!!」
家族の中ではいまいち影が薄く、実力主義者の祖父から悪く扱われていた孫の長男。
猫可愛がりしていた時祓が出て行った途端、冷遇していた筈の自分に目をかけるようになった掌の返しっぷりに辟易していた時雄は、初めて明確に祖父に反抗した。
一気に燃え上がった激怒の感情で孫に手をあげようとする祖父。
自分にとっての父の手を止めた時子は、ハッキリと時雄の意見に賛同し――
(……後悔は、していません)
一見すれば、雪村家で大々的に巻き起こった内輪揉めの原因は時祓に違いない。
だが時子はそうは思ってはいない。
火種は元々存在していて、長い間……そう、本当に長い年月もの間、燻り続けていたのだ。
着火した理由が偶々時祓だった。その程度のこと。
この一件が起こったことで寧ろ、開祖・間時守の正当なる継承者を巡る400年の争いを鎮火させる目途がついて、溜飲も下がった。
繁守の父もそろそろいい年だ、大人しく天に昇って貰えると助かるのだが。
そうすれば少なくとも、開祖の弟子たる結界師一族間で長年続いた継承者争いにて死人が出ることはなくなるだろう。
くだらない争いもこれで終いだ。
自分がしっかりとしてさえいれば、十分に防げていた。
犠牲者も、死人も、時祓も。
防げなかったのは一重に自分が至らなかったから。
全ては己の責任、つまりそういうことだ。
「まったく時祓は、唐突に家を飛び出したかと思えば日本どころかイタリアへ!?半年から一年ごとに式を送って現在地を伝えてきましたが、貴方はまさかこれが連絡を寄越した内に入ると思っていたのですか!!?」
それでも、私は――――
あのような出来事を招いた上で、雪村の正統継承者として、このような憎まれ口を叩く事しかできないのもまた事実だった。
「はい」
「ハァ……! 本当に呆れた子だこと!! この七年間、私たちが墨村にどれほど冷たい目で見られてきたことか……!! 貴方を心から信じて頼っていた昔の自分が恥ずかしいです!!」
本当に本当に恥ずかしくて仕方がない。
息子の気持ちに気付けなかった自分が、知って尚謝罪することもできない自分が。
墨村家から、いや21代目からは……繁守から冷たい目でなど見られていない。
あの目は、寧ろ……。
同情?
憐れみ?
――いや。
そうだ。
次は自分がこうなるのではないかという、恐れにも似ていた気がする。
馬鹿な奴。
アンタは精々私を反面教師にして、あの能面みたいな一人娘と仲良くしてたらいいのよ。
ま、へたっぴには難しいことなんでしょうけど。
「烏森を、封印――」
「はい」
「……貴方を信じろと? 不敬にも開祖・間時守様の名を持ち出し、現実味のない計画を垂れ流す、貴方は……墨村と手を組むと?」
「はい」
様々な国を渡り歩き、七年もの月日を経て家に帰ってきた時祓の雰囲気は、昔と変わっていた。
必要最低限以外の言葉を喋らなかったあの頃と違い、なんてことのない軽口も話すようになったし、時祓の方から取るに足らない話題を振ってくるようにすらなっていた。
時祓は頭が良い子だ。更に見識を広げ、もしかすると結界師など辞めて表社会で真っ当に生きたいと言い出すかもしれぬと、一先ず高等部を卒業する日まで式神は通わせていた。
しかし時祓はその真逆で「これからは俺が烏森を守る」と言いだし、時雄の仕事を肩代わりした挙句、表社会に歩み出そうか迷う兄の背中を押した。
――この七年できっと色々な人と出会い、色々な困難にぶつかってきたのだろう。
時雄と違い、時祓が辿ってきた七年の成長をこの目で見れなかったことは残念だったが、それを口にして嘆く資格が自分にないことは分かっていた。
「……暫し時間を置かせてください」
だからせめて、400年のタブーに触れようとするこの子を見て見ぬふりにしようと。
この子がやりたいと思ったことを、今度こそ、近くで見つめていたいと。
(好きにしなさい、私では貴方を止められない)
(……まあ、我々結界師の中で最も身軽で自由な貴方なら――)
「――――どこへだって、どこまでだって飛び立てるのでしょうけどね」
雪村時子には、愛する夫との間に生まれた自慢の息子が二人いた。
長男は人好きのする笑顔が魅力的な、穏やかで芯はしっかりとした性格。
次男は才能豊かでたまに突拍子もないことを仕出かす、静かで破天荒な性格。
結界師という世間から外れた職務を真摯に受け止め、それぞれが自分に出来ることをしようと働く、最愛の息子達がいた。
どこに出しても恥ずかしくない、立派で自慢の息子である。
雪村時子はずっと、そう思っているのだ。
時祓が家出した後の雪村家は結構火が燃えました。対岸の火事を見て明日は我が身と考えた墨村の21代目はそれなりに頑張って娘と交流していたという感じ。
心理描写を頑張って書いてみましたが、諄かったかな……。