ウマ娘 Big Red Story   作:堤明文

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 本作は『ウマ娘プリティーダービー』の二次創作小説ですが、作者の競馬という競技に対する個人的なこだわりにより、本来なら「ウマ娘」と表記すべき部分を「馬」または「サラブレッド」、「トゥインクルシリーズ」を「競馬」と表記させていただきます。それ以外にも原作とは設定や名称が異なる部分が多少あります。
 原作に思い入れのある方には不快な思いをさせてしまうかもしれませんが、どうかご了承下さい。




第一話「刹那の強者」

 

 

 忘れられない記憶がある。

 

 どれだけ時が経とうと色褪せない、黄金のような思い出がある。

 

 十年以上前――まだ故郷にいた頃、両親に連れられて行った競馬場。生まれて初めて、現地で観戦したGⅠレース。

 

 アメリカ合衆国ニューヨーク州、ベルモントパーク競馬場。

 

 アメリカ三冠競走最終戦、ベルモントステークス。

 

 そこで、見た。後に伝説の存在となるサラブレッドの、歴史に残る異次元の走りを目の当たりにした。

 

 大歓声が湧き上がる、最後の直線。

 

 無人の野のような土の走路を、一人の少女が疾走する。

 

 後続は、遥か後方。先頭を行く少女の走りに誰も追いつけず、差は広がるばかり。

 

 風になびく黄金色の髪。風を裂いて躍動する長い四肢。巻き上がる土煙と、大地を揺るがすかのような剛脚の音。

 

 少女の走りは、何もかもが異次元だった。

 

 過去のどんな名馬をも凌駕するほどに、どんな強敵も置き去りにしてしまうほどに、その疾走は速すぎた。

 

 いや、速さだけではない。持久力もまた異次元。スタート直後から先頭を譲らず、殺人的なハイペースで走り続けたというのに、その脚は全く衰えない。それどころか、ゴールに近付けば近付くほど、際限なく加速していく。

 

 他の誰にも真似出来ない走り。

 

 いまだかつて誰も辿り着いたことのない領域の走り。

 

 競馬の常識を覆し、競馬の歴史を塗り替えた、唯一無二の走り。

 

 詰めかけた大観衆の目にそんな走りを焼き付けて、美しい栗毛のサラブレッドは、栄光のゴールを駆け抜けた。

 

 二着につけた差は、驚愕の三十一馬身。

 

 走破タイムは、二分二四秒〇。従来のレコードタイムを二秒以上短縮する、不滅のスーパーレコード。

 

 圧勝や楽勝などといった言葉では到底言い表せない、あまりにも現実離れした、この世のものとは思えない形の勝利。

 

 史上九番目にして、史上最強のアメリカ三冠馬が誕生した瞬間だった。

 

 その瞬間に立ち会った幼き日の自分は、感動に打ち震えながら、大観衆から喝采を受ける少女を見つめていた。

 

 ――いつか、自分もああなりたい。

 

 ――あの人のような、誰よりも強いサラブレッドになりたい。

 

 そんな想いを胸に秘めながら、母国の英雄となった少女の姿を、いつまでも見つめていた。

 

 

 それが、競走馬グラスワンダーの原点。

 

 史上最強のサラブレッドを知り、その走りに魅せられた時から、始まったのだ。

 

 命を賭してただ一つの頂を目指す、茨の道程が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 日本サラブレッドトレーニングセンター学園。

 

 東京都府中市に建つ、日本最大のサラブレッド育成機関である。

 

 二月も終わり間近となったこの日、各種のコースが設けられた広大な練習場の一角に、学園最強のチーム「リギル」の姿があった。

 

「全員揃っているな?」

 

 リギルの指導者である東条ハナは、目の前に並ぶ教え子達の顔を見回して言った。

 

 シンボリルドルフ。

 

 エアグルーヴ。

 

 ナリタブライアン。

 

 ヒシアマゾン。

 

 マルゼンスキー。

 

 フジキセキ。

 

 タイキシャトル。

 

 テイエムオペラオー。

 

 エルコンドルパサー。

 

 グラスワンダー。

 

 晴れ渡る冬空の下に集った、日本最高クラスの実績と実力を誇る十人のサラブレッド。

 

 彼女達の服装は普段の練習で着るトレーニングウェアではなく、実戦用の服――勝負服と呼ばれる、煌びやかな衣装だった。

 

 この日の練習は普段とは内容が大きく異なるため、例外的に着用が認められたのだ。

 

「前から言っていたように、今日はこのメンバーで模擬レースを行う」

 

 ハナがそう言うと、十人の少女は一様に表情を引き締める。

 

 緊張感のない顔をした者や無駄な軽口を叩く者は、一人もいなかった。

 

「お前達十人を二人ずつに分けて行う、計五回のマッチレースだ。各々の競走能力、競走成績、相性、得手不得手などを踏まえ、組み合わせとレースの条件はこちらで決めさせてもらった。今更だが、異論はないな?」

 

 全員が声を揃え、「はい」と頷く。

 

 異論など出るわけがない。既に組み合わせとレースの条件は知らされており、全員がそれに納得している。

 

 模擬レースとはいえ、手は抜かない。

 

 今日対戦が組まれた相手と全力で戦い、必ずや勝利する。

 

 そう胸に誓い、学園最強のサラブレッド達は勝負服に袖を通したのだ。

 

「なら始めるぞ。まずは第一レースの二人――シンボリルドルフとエアグルーヴ、ゲートに入れ! お前達のレース条件は、芝Aコースの二千メートル。秋の天皇賞と同じだ!」

 

 

 

 

 

 

 十人を五組に分けて戦わせる、異例の模擬レース。

 

 二月の最終週にそれを行うと告げられたのは、年明け早々のことだった。

 

 その時リギルの面々は、誰もが驚きを隠せなかった。彼女達が知る競馬の常識では、到底考えられないことだったからだ。

 

 レースで勝敗を競うという行為は、サラブレッドの身体に多大な負荷をかける。通常の練習とは比べ物にならないほど体力を消耗するし、最悪の場合、レース中に大怪我をして二度と走れない身体になることもある。

 

 そのため練習時間中に実戦同様の模擬レースを行うなどということは、基本的に無い。あまりにもリスクが大きすぎるのだ。

 

 にもかかわらず、反対の声を押し切って、今回の模擬レースは強行された。

 

 間違いなく、何かある。

 

 この模擬レースの裏には、何か特別な事情がある。

 

 海外のビッグレースに挑戦させる者を選ぶためか、国内のビッグレースに優先的に出走させる者を決めるためか――それは分からないが、何か特別な事情があることだけは確かだ。そうでなければ、この時期にこんなレースを行うわけがない。

 

 青い勝負服を身に纏い、自らの出番を待ちながら、グラスワンダーはそう勘繰っていた。

 

 そんな彼女に、赤い勝負服を纏った年上の女性――マルゼンスキーが声をかける。

 

「ようやくこの日が来たわね」

 

 視線を向けると、マルゼンスキーの穏やかな微笑みが目に映った。

 

「何か色々と大人の事情があるみたいだけれど……結局のところは模擬レース。勝ったところで賞金もトロフィーも貰えない練習試合。怪我をするリスクを負ってまで勝敗にこだわるようなレースじゃない」

 

 そう言ってから、どこか楽しげな眼差しを向け、試すように問う。

 

「……けれど当然、負けるつもりはないんでしょう?」

 

「ええ」

 

 迷いのない面持ちで、グラスワンダーは即答した。

 

「負けるつもりはありません。今日の勝負、絶対に勝ちます」

 

 模擬だろうが何だろうが、レースはレース。真剣勝負の場であることに変わりはない。

 

 手抜きの勝負などしないし、負けてもいいなどとは思わない。

 

 本番と同じ気構えをもって臨み、全力で走る。持てる力を一滴残らず振り絞り、勝利を掴み取る。

 

 グラスワンダーの青い瞳は、そんな揺るぎない意思を宿していた。

 

「そう言うと思ったわ。大人しいように見えて、負けず嫌いだものね。あなた」

 

 マルゼンスキーは笑顔のまま、眼差しだけを真剣なものに変える。

 

「でも、気をつけなさい。あなたの今日の相手は、半端な相手じゃないから」

 

「……ええ、分かっています」

 

 栗毛の少女の顔が、僅かに強張る。

 

「彼女の速さも、強さも、痛いほど知ってるつもりです。ずっと近くで見てきましたから」

 

 今日の対戦相手――芝二千四百メートルの第五レースで戦う相手は、強い。

 

 リギルの中でも間違いなく上位に入る実力者。

 

 全身全霊を振り絞って挑んだとしても、勝てるかどうか分からない難敵だ。

 

「でも……だからこそ、手は抜けません。彼女と長く一緒にいて、その強さを間近で見てきたから…………私は、彼女に負けたくない。勝ちたいんです」

 

 真摯な想いと、強固な決意を込めて放たれた言葉。

 

 自らの後輩であり、愛弟子とも言える少女の言葉に、マルゼンスキーは温かな眼差しで応じた。

 

「本当は先輩として、中立な立場でいなきゃいけないのだけれど…………応援してるわ。頑張ってね」

 

「――はい」

 

 

 

 

 

 

 白熱した戦いが順次繰り広げられ、勝敗が決していった。

 

 第一レース。Aコース芝二千メートル。シンボリルドルフ対エアグルーヴ。

 

 直線での長い競り合いの末、シンボリルドルフが半馬身差で勝利。

 

 第二レース。Cコース芝千六百メートル。ナリタブライアン対ヒシアマゾン。

 

 ナリタブライアンが終始ヒシアマゾンを圧倒。五馬身差をつけて貫禄勝ち。

 

 第三レース。Dコースダート二千メートル。マルゼンスキー対フジキセキ。

 

 元祖≪怪物≫マルゼンスキーが格の違いを見せつけ、八馬身差の圧勝。

 

 第四レース。Bコース芝千八百メートル。タイキシャトル対テイエムオペラオー。

 

 先行するタイキシャトルをテイエムオペラオーがゴール手前で交わし、クビ差で勝利。

 

 そして、この日の最終戦。Aコース芝二千四百メートル。左回り。

 

 日本ダービーと同条件で行われる第五レースに出走するのは――

 

「では、次が最後のレースだ。準備はいいな? グラスワンダー、エルコンドルパサー」

 

「「はい」」

 

 ハナが言うと、並び立つ二人の少女は声を重ねて答えた。

 

 すぐ隣にいる対戦相手――赤いマスクで目元を覆った黒鹿毛の少女を、グラスワンダーは横目で一瞥する。

 

 エルコンドルパサー。

 

≪怪鳥≫の異名を持つ、リギルの若き俊英。昨年のJRA賞年度代表馬。

 

 通算成績十一戦八勝。主な勝鞍は、NHKマイルカップ。ジャパンカップ。サンクルー大賞。

 

 GⅠレース三勝、凱旋門賞二着の実績を誇る、学園屈指の強豪選手。

 

 その実力は既に日本最強とも囁かれる、正真正銘の超一流馬だ。

 

 相手にとって不足はない。

 

 いや、これ以上の相手は何処を探してもいない。確信を込めてそう断言出来る。

 

 だからこそ、心が燃える。かつてないほど熱く燃え上がる。

 

 絶対に倒してみせるとグラスワンダーは胸に誓い、スタート地点に置かれたゲート式発馬機へと向かった。

 

 

 

 

 

 

「なーんかピリピリしてね? あいつら。ケンカでもしたのか?」

 

「単に集中してるだけだろ」

 

 ヒシアマゾンの言葉に、ナリタブライアンが応じた。

 

 既にレースを終えた彼女達は、練習場に併設された観覧席に移動している。

 

「普段は親友でも、レースとなれば別。勝負の場に私情や馴れ合いは持ち込まない……そういう奴らだ、あいつらは」

 

 コース上の芝を踏み締め、スタート地点へと向かうグラスワンダーとエルコンドルパサー。

 

 普段は姉妹のように仲が良い二人だが、今は互いに無言。負けられない大一番を迎えたかのような緊張感を纏いながら、静かに歩を進めていた。

 

「ふーん…………で、お前はどう思うよ? ブライアン」

 

「どう、とは?」

 

「あいつら二人の、どっちが勝つかっつー話」

 

「……さあな」

 

 突き放すように言ってから、ナリタブライアンは僅かに目を細める。

 

「スタミナと器用さならエルコンドルが上、パワーと瞬発力ならグラスが上、総合力で比較すれば僅かにエルコンドルが優勢……と見るが、あくまで私の勝手な見立てだ。それが正しいかどうかは分からん」

 

 百戦錬磨の三冠馬の目をもってしても、このレースの結果は見通せない。

 

 それほどまでに、実力が拮抗した二人だ。

 

 グランプリ三連覇の≪怪物≫グラスワンダー。

 

 凱旋門賞二着の≪怪鳥≫エルコンドルパサー。

 

 同年齢で同学年。アメリカ合衆国出身という共通点もあり、デビュー当初から何かと比較されてきた両者だが、どちらが上かという点については未だにファンの間で論争が絶えない。

 

 実績はほぼ互角。グラスワンダーは有馬記念、エルコンドルパサーはジャパンカップと、共にGⅠの中のGⅠと言える大レースを制し、日本を代表するサラブレッドと世間に認められている。

 

 直接対決は過去に一度だけ。一昨年の秋、毎日王冠という重賞レースで激突した。

 

 結果はエルコンドルパサーが二着。グラスワンダーが五着。

 

 エルコンドルパサーが先着した形ではあるが、レースの勝者となったわけではなく、グラスワンダーには骨折による長期休養明けという事情があった。あの一戦だけで格付けが済んだとは、彼女達自身も思っていないだろう。

 

 これから行われる模擬レースこそが、彼女達の格付けを決める重要な一戦なのだ。

 

「まあ何にせよ、すぐに答えは出る。怪物と怪鳥、どちらが上かはな」

 

「っしゃあああっ! タイマンかぁ! 面白くなってきたぜ!」

 

「うるさい黙れ」

 

 

 

 

 

 

 ゲート式発馬機の中。

 

 開始の合図と共に目の前の扉が開くのを待つ、静寂の時間。

 

 グラスワンダーは、すぐ隣に立つ親友の声を聞いた。

 

「グラス」

 

 前方を見据えたまま、一分の隙もない凛とした横顔で、エルコンドルパサーは告げる。

 

「全力で来てください――私の全力で、叩き潰しますから」

 

 闘志を剥き出しにしたその言葉に、グラスワンダーは心底から震えた。

 

 気圧されたのではない。嬉しかったのだ。

 

 エルコンドルパサーが――無二の親友であり、長きに渡り切磋琢磨してきたライバルが、全力で来いと言ってくれている。手抜きのない真剣勝負を求めている。

 

 これほどまでに胸を熱くさせることはない。

 

 心の奥深くから煮え滾る溶岩のような感情が込み上げてきて、思わず頬が弛む。

 

「……ふっ」

 

 淡い笑みを浮かべただけで、返答はしなかった。

 

 自分の気持ちなど、とうの昔に伝わっているだろう。

 

 それに、今更余計な言葉はいらない。闘う意思は、行動で示す。

 

 自分の全身全霊を注ぎ込んだ激走で、親友の想いに応えてみせる。

 

 そう誓い、静かな闘志を極限まで高めた直後。

 

 ガシャンと音を立て、目の前の扉が開いた。

 

 

 

 

 

 

 開け放たれたゲートから、弾丸の如く飛び出す二人。

 

 絶妙なスタートダッシュを披露し、先を行く形となったのは、エルコンドルパサー。

 

 そのまま洗練された無駄のないフォームで人工芝の上を駆け、グラスワンダーに背中を向けながら第一コーナーへ突入する。

 

 コーナーワークにも隙はない。歩幅をあえて狭くしたピッチ走法で内ラチ沿いの経済コースを走り、道中のスタミナの消費を巧みに抑えていた。

 

 その走り――絶妙なスタートダッシュから鮮やかなコーナーワークに至るまでの流れを、三馬身ほど後ろを追走しながら観察して、グラスワンダーは思った。

 

 美しい、と。

 

 エルコンドルパサーのレースは映像で何度も観たが、やはり一緒に走りながら観察すると、伝わってくるものがまるで違う。

 

 エルコンドルパサーは美しい。

 

 同期の誰よりも、チームの誰よりも、学園の誰よりも、そして日本の誰よりも、ターフを駆け抜けている時の彼女は美しい。

 

 長い脚を存分に生かしたダイナミックなストライド走法と、コーナーを無駄なく回るピッチ走法を状況に応じて使い分ける、合理的なフットワーク。

 

 空気抵抗を極限まで抑えつつ、足裏から生じる力を前進する力に効率良く変換する、芸術的な疾走のフォーム。

 

 優れた体内時計に裏打ちされた、コンマ一秒の狂いもないペース配分。

 

 超一流のサラブレッドだけが可能とする、競馬の王道を行く走りだ。

 

 誰もが簡単に出来るようなものではない。

 

 類稀な才能を持って生まれたとしても、それだけではあの境地に辿り着けない。

 

 弛まぬ努力と、強靭な精神――十年以上に渡って肉体を鍛え続け、地道な基礎練習を際限なく繰り返し、過酷な実戦を経験し、己の限界を幾度も乗り越えてきた者でなければ、あれほどの走りは体得出来ない。

 

 エルコンドルパサーの走りは、彼女が歩んできた道程の険しさを物語っている。

 

 日本を飛び出して遠いフランスの地に渡り、世界の頂点を目指して戦った意思が――壮大な夢と鋼の覚悟が、その美しき疾走に表れている。

 

 正直、敵わないと思う。

 

 スタートの上手さ、コーナーワークの上手さ、ポジション取りの上手さ、ペース配分の上手さ、仕掛け所を見極める上手さ、走るフォームの美しさ――そうした部分では、自分はエルコンドルパサーの足元にも及ばない。

 

 決して基礎を疎かにしていたわけではないが、自分は彼女に比べて不器用だ。

 

 あれほど巧みなレース運びは出来ない。あれほど美しくは走れない。競走馬としての完成度で言うなら、自分と彼女の間には天地ほどの差があるだろう。

 

 だが、それでいい。

 

 敵わなくていい。及ばなくていい。天地ほどの差があっても構わない。

 

 元より、レース運びの上手さで張り合う気などさらさらない。

 

 彼女は彼女。自分は自分。

 

 彼女の実力を認め、その在り方に敬意を抱いてはいるが、真似をするつもりはない。

 

 自分には、彼女とは違う目標がある。幼かったあの日から胸に秘めている夢がある。目指し続けている境地がある。

 

 だから、自分は、自分を貫く。

 

 彼女とは違う、自分の走り――不器用で、不格好で、非合理で、稚拙だけれども、決して譲れないものを貫き通した走りで、彼女の走りを超えてみせる。

 

 日本最強の怪鳥を、凌駕してみせる。

 

 世界に挑むために。

 

 夢を叶えるために。

 

 幼き日に憧れた「あの人」の背中に追いつき、追い越すために。

 

 

 ――愚かね。

 

 

「――っ」

 

 不意に、声が聞こえた。

 

 エルコンドルパサーの声ではない。指導者の声でもない。観戦する仲間達の声でもない。

 

 自分自身の内側――記憶の中から蘇った、冷徹な声だ。

 

 レースの中盤。第二コーナーを回って長いバックストレッチに入った直後。

 

 グラスワンダーの瞳に、過去の光景が映し出された。

 

 

 

 

 

 

 三年前の冬だった。

 

 朝日杯を制し、初のGⅠタイトルを獲得した直後。

 

 故郷にいた頃、姉のように慕っていた少女――その時は既にアメリカ屈指のサラブレッドとなっていた少女が、突然日本にやってきた。

 

 そして自分の前に現れ、言い放ったのだ。

 

 全てを否定する言葉を。

 

「愚か、と言ったのよ。あなたの走り方、戦い方、鍛え方、考え方、生き方――その全てが」

 

 幼い頃の優しい面影は、微塵もなかった。

 

 少女は切れ長の両目に剣呑な光を灯し、心底から見下げ果てたと言うかのような面持ちで、こちらを冷たく見据えていた。

 

「誰も言ってくれないなら、私が言ってあげる。あなたは間違えているわ。自分が歩むべき道を、最初の一歩目から」

 

 あまりにも辛辣なその言葉に、当時の自分は反発した。

 

 どうしてそんなことを言うのですかと、かつてないほど感情を剥き出しにして叫んだ。

 

 自分は結果を出した。デビュー戦を勝利で飾り、その後も連勝を続けた。

 

 重賞も獲った。GⅠのタイトルも手にした。JRA賞のジュニアチャンピオンにも間違いなく選出される。

 

 アメリカのGⅠを制したあなたや、偉大なあの人には、まだまだ遠く及ばないけれど――それでも、これ以上ないほどの競走成績で一年目を終えたのだ。

 

 だから、褒めてもらえると思っていた。認めてもらえると思っていた。

 

 再会した時はきっと、自分がこの手で掴んだ勝利を笑顔で祝福してくれるに違いないと、信じていたのに。

 

 どうして、そんな――救いようのない愚か者を見るような目を、こちらに向けるのか。

 

「なら逆に訊くわ。その自慢の走りで、あなたは何を目指すの? いったい何になるつもりで、そんな走り方を続けているの?」

 

 射抜くように放たれた問いに、自分は胸を張って答えた。

 

 誰よりも強くなるためです、と。

 

 世界の誰よりも、強くなりたい。あなたよりも、強くなりたい。

 

 そして、いつの日か、偉大なあの人のようになりたい。

 

 世界中の人々から最強と讃えられる、唯一無二の存在になりたい。

 

 そんな想いを、言葉にして叩きつけた。幼い頃から胸に秘めていた夢を、初めて他人に打ち明けた。

 

 しかし、返ってきたのは、侮蔑を含んだ深い溜息だった。

 

「……現実と妄想の区別がついていない。こうなりたいという願いばかりで、現実の自分を直視していない。だから愚かと言ったのよ」

 

 自分が語った夢は、否定された。

 

 姉のように慕っていた相手に、真っ向から否定されたのだ。

 

「信じ続ければ夢は叶うなんていうのは、子供の戯言。どんな気持ちで何をしようと現実は変わらない。あなたにも、私にも……この世の誰にも、現実を変える力なんてない」

 

 青く澄んだ瞳――競馬の現実を飽きるほど見てきた瞳は、憐憫と諦観を宿しながら告げていた。

 

 お前が語る夢は、子供の戯言。

 

 お前が目指す理想の姿は、空虚な妄想に過ぎないと。

 

「それに気付けなければ、あなたは遠からず圧し潰されるわ。あなたが拒んだ現実に」

 

 

 

 

 

 

 過去を振り切り、グラスワンダーは意識を現在に戻す。

 

 いったい何をやっているのかと、自分自身を強く叱咤した。

 

 今はレースの真っ最中だ。余計なことを考えている場合ではない。あんな下らないことを思い出している場合ではないのだ。

 

 今はただ、走ることだけを考えろ。勝つことだけに集中しろ。そうしなければ、待つのは敗北だけだ。

 

 そう自分に言い聞かせ、気持ちを切り替えた直後――

 

 前を走っていた筈のエルコンドルパサーが、視界から消えた。

 

「――っ!」

 

 いや、違う。消えたのではない。一瞬消えたと錯覚してしまうほど急激に、彼我の距離が開いたのだ。

 

 三馬身ほどだった差が、既に八馬身――さらに九馬身、十馬身、十一馬身と、瞬く間に差が広がっていく。

 

 それは意表を突く急加速であり、先程までの王道の走りから一転した奇策。

 

 常識破りのロングスパートだった。

 

 

 

 

 

 

「エルコンドルパサーが仕掛けた!?」

 

 レースを観戦していたテイエムオペラオーが叫ぶ。

 

 エルコンドルパサーが披露した「奇策」は、リギルの面々にも衝撃を与えていた。

 

「馬鹿な! 早すぎる……! まだ残り八百メートルはあるぞ!?」

 

 フジキセキが驚愕の表情で言った。

 

 エアグルーヴも、ヒシアマゾンも、タイキシャトルも、ナリタブライアンさえもが、完全に意表を突かれた顔で硬直する。

 

 競馬というものを熟知している彼女らにとって、エルコンドルパサーの行動は、正気を疑うほどの暴挙だった。

 

 そんな中にあって平静を保ち続けているのは、二人。

 

 リギルの最古参マルゼンスキーと、リギルの筆頭シンボリルドルフだけだった。

 

「確かにあれは、普通なら悪手中の悪手。自滅必至の早仕掛け。勝ちを焦ってスタミナを浪費し、ゴール前で力尽きるだけの愚策でしかないわ。けれど――」

 

 全てを理解した顔でマルゼンスキーが言い、シンボリルドルフがその続きを引き継ぐ。

 

「あれで正解だ。エルコンドルパサーは、グラスワンダーに勝つための最善手を選択している」

 

 チームの中でも抜きん出た力を持つ彼女達二人は、エルコンドルパサーの意図を瞬時に察していた。

 

「末脚の爆発力だけならグラスワンダーはリギルの中でも一、二を争う。直線に入ってからの速さ比べでは、流石にエルコンドルパサーでも分が悪い。ならばどうするか……答えは一つだ。直線に入る前にスパートして、大差をつけてしまえばいい」

 

≪皇帝≫の名を持つサラブレッドの目は、一陣の風となって駆ける≪怪鳥≫を見据える。

 

「どれほど強烈な末脚でも、直線だけで詰められる差には限度がある。意表を突く急加速で大きく引き離したまま直線に入ることが出来れば、最後に多少脚が鈍ったとしても逃げ切れるだろう。彼女の立場なら、私もそうする」

 

「並外れた心肺機能が生む息の長い末脚と、最高速を維持したまま内ラチ沿いの最短距離を回れるコーナーワークの技術があって、はじめて成立する奇策…………まさに、あなたやエルみたいな天才にだけ可能な必勝戦法ね」

 

 

 

 

 

 

 一瞬にして数倍に開いた、エルコンドルパサーとの距離。

 

 その事実に驚き、戦慄を覚えながらも、グラスワンダーは笑った。

 

 面白い。やはりレースとは、こうでなくてはいけない。

 

 まさか、残り八百メートルの地点からスパートするとは思わなかったが――なるほど確かに、エルコンドルパサーほど高い能力の持ち主なら、ありえない選択ではない。

 

 彼女は去年、凱旋門賞に挑戦するためフランスに長期滞在し、質の高い訓練を受けながら現地の強豪達と鎬を削った。

 

 その経験によって最も向上した能力――それはスタミナだろう。

 

 競馬というのは、国や地域によってコースの材質や形態が大きく違う。

 

 欧州の競馬場の芝は日本の競馬場のそれとは別種の、深く柔らかい洋芝だ。一歩踏み出すごとに消耗する体力が、日本とはまるで違う。

 

 コース上の高低差も日本より大きく、坂の上り下りで体力を消耗するため、心肺機能に秀でた者でなければ勝てないように出来ている。

 

 そんな環境で鍛錬を重ね、現地の強豪達と互角以上に渡り合ったエルコンドルパサーならば、可能かもしれない。

 

 残り八百メートルからの超ロングスパートを完遂し、最後まで失速せずに走り切ることが、出来たとしても不思議ではない。

 

 しかし、だからといって、慌ててこちらもスパートするのは得策ではない。

 

 加速すれば相手との距離は縮まるが、その分だけスタミナを消耗してしまう。そうなれば当然、最後の直線での末脚は鈍り、結局エルコンドルパサーを捕まえられない。

 

「……やってくれますね、エル」

 

 微笑んだまま呟き、グラスワンダーは少しだけペースを上げた。

 

 あくまで、少しだけだ。エルコンドルパサーとの距離を縮めるのではなく、距離が広がる速度を多少抑える程度に加速しただけ。超ロングスパートに付き合ってはいない。

 

 持久力の限界に挑むような消耗戦では、正直分が悪い。

 

 それに、そんなものは自分の戦い方ではない。

 

 自分が目指す境地ではない。

 

 誰が相手だろうと、何を仕掛けてこようと関係なく、自分の走りを頑なに貫く――それが自分だ。

 

 愚かだとよく言われる。不器用だとも言われる。非合理だとも言われる。

 

 否定はしない。だが、改める気はない。誰に何と言われようが、これだけは決して変えない。曲げない。譲らない。

 

 これを変えてしまったら、自分はもう自分ではない。自分の競技人生には何の意味もない。

 

 だから、貫く。非難と罵倒と嘲笑に晒されようと、貫き通してみせる。

 

 自分は、自分だけの走りで、頂点まで駆け上がってみせる。

 

 追い求める理想の姿に、いつの日か届くために。

 

 

 

 

 

 

「多少ペースを上げたようだが、本気で捕まえに行ってはいない……あくまで自分のレースに徹するつもりか」

 

 グラスワンダーの追走を観察しながら、シンボリルドルフが言った。

 

 マルゼンスキーは苦笑する。

 

「頑固だもの、あの子は。相手の早仕掛けに無理して付き合うレースなんて、死んでもやりたくないんでしょうね」

 

 グラスワンダーと併走トレーニングをすることが多かった彼女は、グラスワンダーの性格を熟知している。

 

「相手が誰だろうと関係ない。距離も展開も馬場状態も気にしない。競馬の基本や常識を全部無視して、いつでもどこでも自分の走りを頑なに貫き通す……そういう子よ、グラスは」

 

 コース上を淡々と走り続ける後輩の姿に、どこか遠くを見るような目を向けながら、マルゼンスキーは語る。

 

 その横顔をちらりと盗み見た後、シンボリルドルフは呟いた。

 

「似ているな」

 

「……? 何が?」

 

「似ていると言ったんだ。昔の君に」

 

 マルゼンスキーの表情に、微細な変化が生じた。

 

 常に穏やかな色を湛えていた瞳に、仄暗い翳が差す。

 

 それは、何かを諦め、何かを失った者だけが見せる、一欠片の哀切を含んだ笑みだった。

 

「……そうね」

 

 

 

 

 

 

 残り六百メートルを示す標識を過ぎても、グラスワンダーは仕掛けなかった。

 

 先を行くエルコンドルパサーとの差は、既に十五馬身以上。

 

 最早絶望的とも言える大差だったが、グラスワンダーに焦りはなかった。

 

 エルコンドルパサーを侮っていたからではない。自分の力を――自らの両脚に宿る無双の剛力を、強く信じていたからだ。

 

 普通なら絶望的な大差でも、自分にとっては違う。

 

 この程度の差なら、まだ届く。最後の長い直線で全力を振り絞れば、必ず届く。自分には、それだけの脚がある。

 

 そう信じて、末脚を溜めることに徹した。

 

 エルコンドルパサーが最終コーナーを回り始めても、まだ仕掛けなかった。

 

 まだだ。まだ早い。堪えろと、自分自身に言い聞かせた。

 

 エルコンドルパサーがコーナーを回り終えて直線走路に突入しても、まだ仕掛けなかった。

 

 まただ。自分はまだコーナーの途中にいる。ここで加速しても外に膨れて距離を損するだけだと考え、逸る心を制した。

 

 そして、その数秒後――自身がコーナーを回り終え、直線走路に突入した瞬間。

 

 遥か前方を行く対戦相手の背中を真っ直ぐに見据えた、その瞬間。

 

≪怪物≫は、溜め続けていた力を解き放った。

 

 脚を、高く振り上げる。

 

 青空に蹴りを叩き込むかのように、異常なほど高く振り上げ、そこから真下に振り下ろす。

 

 全体重と全筋力を込めた脚を、芝が生い茂る走路に叩きつける。

 

 意地を、誇りを、誓いを、信念を、夢を――魂の全てを注ぎ込んだ激烈な蹴撃が、緑の大地に炸裂する。

 

 瞬間、大地が激震し、大気が爆ぜた。

 

 天まで轟く爆音と共に、吹き飛ばされた土と芝が宙を舞う。

 

 サラブレッドの平均値を大きく超えた剛力が生む、絶大なる衝撃。

 

 それを爆発的な推進力へと転化し――栗毛の≪怪物≫は、地を這う雷光となって突き進んだ。

 

 

 

 

 

 

 天まで轟く爆音を聞いた瞬間、ゴールに向かって走り続けていたエルコンドルパサーは表情を強張らせた。

 

 ――来た。

 

 ――グラスが、来た。

 

 心の中でそう呟き、気を引き締める。ここから先が本当の勝負だと、自分自身に言い聞かせて。

 

 何が起きたかは、振り向かずとも分かる。

 

 連続する地響きと、ダイナマイトが爆ぜるような轟音と、背後から伝わってくる灼熱の気配が、全てを物語っている。

 

 グラスワンダーが――遥か後方に置き去りにしてきた対戦相手が、ようやくラストスパートをかけたのだ。

 

 大地を揺るがす桁外れの剛脚で、自分を猛追し始めたのだ。

 

 そしてその気配は、異常すぎる速度で接近している。直線に入った時は十五馬身以上あった筈の大差が、急激に縮められているのが分かる。普通なら脚を緩める余裕さえあるセーフティリードが、既にセーフティリードではなくなっている。

 

 その事実に戦慄を覚えると同時に、何故だか笑いが込み上げてきた。

 

 やはり、グラスワンダーは普通のサラブレッドではない。

 

 あの走りは――グラスワンダーの末脚は、「特別」だ。

 

 高く振り上げた脚を全力で地面に叩きつけ、土煙を巻き上げながら驀進する独特の走法。

 

 極限まで溜め込んだ力を一気に爆発させるかのような、どこまでも力任せの走り。

 

 競馬の基本から逸脱した、異常な型の走り。

 

 シンボリルドルフの基本に忠実な走りとは違う。マルゼンスキーの優雅で軽やかな走りとも違う。欧州型の走法を取り入れた自分の走りとも違う。他の誰の走りとも明確に違う。

 

 誰にも真似出来ない、異端の走り。この世でただ一人、グラスワンダーだけが可能とする、唯一無二の走りだ。

 

 その走りを見た者は皆、超常現象を目撃したように驚き、困惑し、そして必ずこう言った。

 

 その走り方はやめろ、と。

 

 その走り方は理に適っていない、と。

 

 そう――そうなのだ。あの独特の走法は、まさに非合理の極致。全ての競走馬が目指す理想のフォームとは対極にある代物だ。

 

 豪快と言えば聞こえはいいが、その実態は強引なばかりで無駄が多く、脚に強い負担がかかる愚かな走り。

 

 速く走りたいなら、もっと良い方法がある。

 

 脚に余計な負担をかけない、合理的かつ効率的な走り方がある。

 

 多くの者が彼女をそう諭し、その非合理な走りを矯正しようとした。

 

 しかしグラスワンダーは、それを頑として聞き入れなかった。

 

 トレーナーに叱責されようと、チームの仲間に何を言われようと、決して耳を貸さず、自分の走りを貫き通してきた。

 

 そしてその上で、勝ち続けてきた。

 

 デビューから怒涛の四連勝でジュニアチャンピオンに輝いた。翌年には骨折という苦難を乗り越えて暮れの有馬記念を制した。さらに翌年には春秋のグランプリレースで同期のスペシャルウィークと激闘を繰り広げ、勝利を飾った。

 

 非合理な走りだという周囲の評価を、勝利を積み上げることで跳ね除けてきたのだ。

 

 そんな彼女が今、自分に勝負を挑んでいる。

 

 無双の剛力で大地を蹴り砕き、土煙を巻き上げ、轟音を響かせ、地を這う雷光と化して急接近し、自分の勝利を脅かしている。

 

 その事実が、妙に可笑しい。

 

 真剣勝負の最中だというのに、自然と笑みが零れてしまう。

 

 ――相変わらずだね、グラスは。

 

 息を切らして走りながら、心の中で呟く。

 

 グラスワンダーは、いつもそうだ。

 

 普段は大人しくて、温厚で、素直で、絵に描いたような優等生なのに、勝負の場に来るとまるで別人。

 

 他人の忠告なんて聞かないし、何があろうと自分のやり方を決して曲げない。

 

 どんなレースでも、誰が相手でも、どこまでも自分の走りを貫いて勝とうとする。

 

 本当は誰よりも頑固で、誰よりも自分勝手で、誰よりも傲慢。

 

 誰にも負けないと固く誓い、最強の座を本気で目指している。立ちはだかる敵を全て蹴散らし、頂点まで駆け上がるつもりでいる。

 

 自分の走りが、世界の頂点に届くと――強く、強く、誰よりも強く、信じているのだ。

 

 そんな彼女が、愛おしくてたまらない。

 

 様々な感情が綯い交ぜになった不思議な想いが湧き上がってきて、胸を焦がす。

 

 彼女と本気の勝負がしたいと、心底から思う。互いの全力を振り絞った勝負をして、勝利を掴みたいと、切に願う。

 

 だから、遠慮なく振り絞ろう。今この時まで積み上げてきた全てを、この直線で出し尽くそう。

 

 ゴール板まで、残り約四百メートル。

 

 その四百メートルを、先頭のまま駆け抜けてみせる。

 

 

 

 

 

 

「出た……! グラスの叩きつける走法!」

 

「速ぇっ!? 相変わらずイカレた脚してんな、あいつ……!」

 

「だが、ゴールも近いぞ! 届くのか……!?」

 

「差は急速に縮まっているが、エルコンドルパサーのスピードも落ちていない……ギリギリ粘り切るか……? いや、微妙だ……」

 

 コースの外で観戦するリギルの面々が、口々に叫ぶ。

 

 彼女達の視線の先では、レースが佳境を迎えていた。

 

 超ロングスパートで作ったリードを生かして逃げ切りを図るエルコンドルパサー。

 

 溜めに溜めた末脚をついに爆発させ、大地を粉砕しながら猛追するグラスワンダー。

 

 このままエルコンドルパサーがゴールまで粘り切るか。それともグラスワンダーがゴール手前で追い抜くか。

 

 レースを観戦する者達にも、全く予想がつかない状況だった。

 

 それほどの激闘であり、勝利の天秤がどちらに傾くか分からない接戦なのだ。

 

 コース上で死力を振り絞る当人達も、勝利の確信など抱いてはいないだろう。

 

 二人の頭にあるのは、「勝てる」という慢心ではなく、「勝ちたい」という真摯な願い。ゴール板を通過する瞬間までに己の全てを燃やし尽くすという灼熱の意思だけだ。

 

 最早、駆け引きや小細工が介在する余地はない。スピードやスタミナの問題でもない。

 

 ここまで来れば、後は気持ちの勝負。

 

 勝利を渇望する意思を、より激しく燃やした方が――この勝負に懸ける気持ちで上回った方が、勝利を掴む。

 

 レースは既に、そんな局面に突入していた。

 

「……」

 

 そんな中、後輩の走りを見守るマルゼンスキーは、妙な胸騒ぎを覚えていた。

 

 つい先程まで、温かな気持ちで栗毛の少女を応援していたのに。

 

 彼女が全力で走る姿を、彼女がライバルに勝つ瞬間を、この目で見たいと思っていたのに。

 

 今は何故か、そんな気分ちが何処かに吹き飛び――言い知れぬ不安が、彼女の心を覆っていた。

 

 

 

 

 

 

 残り約百メートル。

 

 エルコンドルパサーを猛追し続け、その影を踏むところまで迫ったグラスワンダーは、そこから先の道程の険しさを感じていた。

 

 直線入口では十五馬身以上あった差が、もう僅か。

 

 エルコンドルパサーの背中は、手を伸ばせば触れられそうなほど近くにある。

 

 だが――その僅かな距離が、遠い。差を縮めれば縮めるほど、逆に差が広がっているように錯覚してしまう。

 

 エルコンドルパサーが見せる、驚異的な粘りのせいだ。

 

 いくらスタミナが豊富とはいえ、残り八百メートルの地点からスパートをかけたのだ。余裕を保っていられるわけがない。

 

 心身共にもう限界の筈。心拍数は限界に達し、気を失いそうなほどの苦しみを味わっているに違いない。

 

 されど彼女は、それを全く表に出さない。

 

 大量に発汗しながらも美しいフォームを崩さず、スパートをかけた直後とほとんど変わらない速度を維持したまま、自分の前を走り続けている。肉体が上げる悲鳴を意思の力で捻じ伏せ、ゴールに向かって雄々しく突き進んでいる。

 

 言葉はなくとも、その背中が語っている。

 

 先頭は譲らない、と。

 

 このままゴールまで走り抜く、と。

 

 肺が潰れようと心臓が爆裂しようと走り抜いてみせる、と。

 

 だから――手を伸ばせば届くほどの距離が、地平線のように遠い。彼女の背中に近付くほど、彼女の「強さ」を肌で感じてしまうのだ。

 

 本当に、凄い相手だ。心底からそう思う。

 

 普段はふざけてばかりいて、真面目な顔なんて少しも見せないのに、レースになれば誰よりも真剣。

 

 どんなレースでも、誰が相手でも、決して手は抜かない。いつだって自分の限界に挑戦し、限界を超えた走りで勝利する。

 

 そんな彼女が、眩しくてたまらない。

 

 尊敬のような、感動のような、羨望のような――そのどれでもあるようでいて、その実どれでもないような、言葉にし難い不思議な想いが湧き上がってきて、胸を焦がす。

 

 この少女に勝ちたいと、狂おしいほど激しく想う。

 

 この闘いに勝ちたいと、かつてないほど強く願う。

 

 だから、自分も限界を超えよう。限界を踏破した走りで粘り続ける彼女を、限界を超越した走りで抜き去ろう。

 

 絶望的な大差を力技で縮めた自分の脚も、限界が近い。心臓も、肺も、筋肉も、骨格も、同様に悲鳴に上げている。

 

 もう限界だと、これ以上の力を使うなと、脳髄に訴えてきている。

 

 だが、知らない。そんな悲鳴には耳を貸さない。苦しいから勝つのを諦めるなどという弱い気持ちに、自分を売り渡したりはしない。

 

 限界を超えると決めた。限界を超えた力で勝つと誓った。

 

 ならば、超える。何が何でも超えてみせる。

 

 肉体の限界も、精神の限界も、何もかも全て、この脚で打ち砕いてみせる――ッ!

 

「ハアアアアアアアアアアアアアアアア――――ッ!」

 

 鬼神の如き形相で咆哮を上げ、グラスワンダーは脚を振り上げた。

 

 高く、高く、今までよりも、さらに高く。

 

 限界を打ち砕く力を求めて。

 

 エルコンドルパサーを凌駕する力を求めて。

 

 世界の頂点へと駆け上がる力を求めて。

 

 遠い理想に追いつく力を求めて。

 

 天高く振り上げた脚に全てを込めて振り下ろし、緑の大地に叩きつけた。

 

 ――それが、夢を終わらせる一歩と知らずに。

 

「――――っ!」

 

 ぞくりと、背筋に悪寒が走る。

 

 喉元に刃を突き付けられたような、こめかみに銃口を押し当てられたような――逃れようのない死を目前にしたかのような圧倒的恐怖が、心を埋め尽くす。

 

 それと同時に、視界が傾く。全力疾走していた身体がバランスを崩し、右方向によれていく。

 

 慌てて体勢を立て直そうとしても、上手く立て直せない。何故か真っ直ぐ走れない。脚が前に向かっていかない。

 

 そしてそのまま、エルコンドルパサーとの距離が開いていく。

 

 渾身の走りで縮めた差が、再び開いていく。

 

 手を伸ばせば届きそうだった背中が、瞬く間に遠ざかっていく。

 

 そんな、どうしようもない絶望の中――グラスワンダーは、声を聞いた。

 

 自分の全てを否定した少女の、酷く冷たい声を聞いた。

 

 

 

 

 

 

「誰よりも強くなりたい?」

 

 三年前の冬。

 

 自分が語った夢を否定した後、あの少女は言っていた。

 

「ええ――そうね。あなたなら、なれるでしょうね。一瞬だけは」

 

 今にして思えば、あの時既に彼女は見抜いていたのだろう。

 

 物理に逆らう非合理な走法の限界を。致命的な欠陥を。

 

「一瞬……そう、一瞬よ。その走りで、あなたが手にする強さは。夜空で弾ける花火のようなもの。ほんの一瞬だけ激しく輝いて、すぐに虚しく消え失せる。後には何も残らない」

 

 勝利を積み上げ、アメリカ競馬界の頂点に立った少女――常勝不敗の王者は、凍てついた目をこちらに向けた。

 

 強さのために命を削る自分の生き方を、根底から否定した。

 

「ブリガディアジェラードを破ったロベルトが、マンノウォーに土をつけたアップセットが、何故最強のサラブレッドと呼ばれないのか…………その理由が、分からないわけではないでしょう?」

 

 勿論、分かっていた。嫌というほど知っていた。

 

 歴史に名を残した王者と残せなかった強者の違いは、理解していた。

 

 自分が後者と同じ道を辿っていることにも、本当は気付いていた。

 

 気付いていながら、気付かないふりを続けていた。

 

 目を背けていたのだ。都合の悪い現実から。

 

「その愚かな走りを変えない限り、あなたはどこまで行ってもただの強者。ほんの一時強かったというだけの存在。王者に土をつけることは出来ても、王者に成り代わることは出来ない。それでは誰も、あなたを最強とは認めない」

 

 王者とは、勝ち続ける者。常に頂点に君臨し、栄冠を掴み続ける者。

 

 たとえ、どれだけの強さを見せても――

 

 絶対的な王者を打ち破ってみせたとしても――

 

 頂点に居続けられない者を、人は王者とは呼ばない。

 

 花火のように儚い強さしか持てない者は、最強の名を背負うに値しない。

 

「一時の強さと引き換えに全てを失い、王座を得られないまま朽ち果てていく刹那の強者。何も残せずにターフを去り、やがて人々から忘れ去られていく、惨めな敗北者…………それがあなたの行き着く果てよ。グラスワンダー」

 

 常勝の王者である彼女は、刹那の強者でしかない自分を侮蔑し、凍てついた眼差しで、呪詛のような予言を告げた。

 

「どんなに強く望んでも、あなたは、あなたが目指したものになれはしない――永遠に」

 

 

 

 

 

 

 ゴールに飛び込む直前、エルコンドルパサーは違和感を覚えた。

 

 すぐ後ろまで迫り、今まさに自分を呑み込もうとしていた火砕流が、突然影も形もなく消え失せたかのような――そんな違和感だった。

 

「え――?」

 

 思わず、当惑の声が洩れる。

 

 背後から猛追してきた対戦相手の気配が、何故か感じられない。

 

 大地を揺るがす剛脚の音が聞こえない。背中を打ち据える風圧が感じられない。灼熱の闘志が伝わってこない。

 

 まるで、急に一人になったような感覚だった。

 

 最大のライバルと見定めた相手と、全力をぶつけ合う死闘を繰り広げていた筈なのに、今は一人。

 

 誰もいない道の上を一人で走っているような孤独感が、エルコンドルパサーを襲った。

 

 そして呆けた顔を晒したまま、彼女の脚は最後の一歩を踏み締め――ゴール板の前を、一着で通過した。

 

 終始先頭を譲らず、死力を尽くして辿り着いたゴール。

 

 約二分半の激闘が幕を下ろした瞬間であり、彼女がレースの勝者となった瞬間。

 

 ついに手にした、明確な勝利。

 

 しかしながらエルコンドルパサーの心に、勝利の喜びは砂粒ほども生じなかった。

 

 これは、違う。何かが違う。極限の苦しみの中で渇望した勝利とは、何かが決定的に違う。

 

 あんなにも熱く激しい勝負をしていたのに――この違和感は、いったい何なのか。

 

 疑問の答えを知ろうとして、彼女は立ち止まり、振り向いた。

 

 そして、見た。

 

 芝生の上で立ち尽くす、対戦相手の姿を。

 

「グラス……」

 

 栗毛の少女は、ゴールに辿り着いていなかった。

 

 ゴール板まで、あと数メートル――ほんの少し前進するだけで辿り着くというのに、何故か走るのを止めている。

 

 これ以上先へは進めないと言うかのように。

 

 どうやっても先へ進めない、深い断崖の前に立ったかのように。

 

≪怪物≫グラスワンダーは、ゴール手前で競走を中止していた。

 

「……グラ……ス……」

 

 呆気に取られた顔のまま呼びかけたエルコンドルパサーは、続く言葉を発することが出来なかった。

 

 ゴール手前で立ち尽くす親友に、何と声をかければいいのか分からない。

 

 彼女の身に何があったのかも分からない。

 

 ただ、荒い息をつきながら俯くその顔は、あまりにも辛そうで――何らかの重大な異変が生じたということだけは、直観的に理解出来た。

 

 予想外な形の幕切れに、リギルのメンバーも騒然となる。

 

 驚きの声、当惑の声、グラスワンダーの身を案じる声が、コースの外から次々に飛んでくる。

 

 そんな混乱の中、指導者である東条ハナは静かな足取りでグラスワンダーに歩み寄り、問いかけた。

 

「歩けるか? グラスワンダー」

 

「……はい」

 

 栗毛の少女は俯いたまま、細い声で答える。

 

 ハナは一瞬痛ましげに目を伏せた後、硬い声で告げた。

 

「なら、来い――話がある」

 

 その宣告が持つ意味を、グラスワンダーは知っていた。

 

 

 

 

 

 

 グラスワンダーと東条ハナの「話し合い」は、二時間近くに及んだ。

 

 寮に帰って体を休めるように言われたため、チームのメンバーは練習場から去っていったが――エルコンドルパサーだけはその場に留まり、グラスワンダーの帰りを待ち続けた。

 

 そして、日が沈み、空が藍色に染まった頃。

 

 勝負服から学園の制服に着替えたエルコンドルパサーとグラスワンダーの二人は、寮への帰り道を並んで歩いていた。

 

「いやー……一時はどうなることかと思いましたケド、大したことなくてよかったデスね。グラス」

 

 隣を歩く栗毛の少女に、エルコンドルパサーは陽気に笑いかける。

 

 彼女の表情と口調は、すっかり日常のそれに戻っていた。

 

 勝負は勝負。日常は日常。レース中は敵同士でも、それ以外の時は親友だ。

 

 辛い練習が終わった後は、肩を並べて雑談を交わしながら帰路につく――それが彼女らの日常だった。

 

 この日は、少しだけ雰囲気が違っていたが。

 

「あっ、でも転びそうになったからノーカンとかはなしデスよ? 今日のレースは問答無用でワタシの勝ちデース。異論は認めませーん」

 

「……ええ」

 

 俯いたまま、グラスワンダーは答える。

 

 蚊の鳴くような声からは、覇気が微塵も感じられなかった。

 

 負けず嫌いな親友が噛みつくように反論してくれることを期待していたエルコンドルパサーは、その返答を聞いて言葉に詰まる。

 

 どうしようかと少し考えた後、今度は苦笑しながらフォローを試みた。

 

「……あ、あー…………で、でも! 最後にバランス崩さなかったら違う結果だったかも、デスね! グラスの末脚、すごかったし……ぶっちゃけ抜かれそうだなーって、最後はちょっと思ってたり……」

 

「そんなこと、ないですよ」

 

 静かに、グラスワンダーは呟いた。

 

「私はエルに負けました……それが全てです」

 

 トレーナーとの長い話し合いを終えてから、彼女はずっとこの調子だった。

 

 普段は物静かながらも社交的で、冗談にも応じてくれるのだが――今は心に余裕がないらしく、何を言われても陰鬱な答えしか返さない。

 

 だから、エルコンドルパサーは察していた。

 

 普段通りの陽気な笑顔で接しながらも、本当は気付いていた。

 

 あの模擬レースの最終盤――ゴールに辿り着く寸前で、親友の身に異変が生じていたのだということを。

 

「あ、あははっ……確かに今日は、ワタシが勝ちましたケド…………あれって、ただの模擬レースデスよ? 本番ではどうなるか――」

 

「……」

 

 励ますように言っても、栗毛の少女は反応を示さない。暗い顔で俯いたまま、淡々と歩を進めるだけ。

 

 無理に作った笑顔の裏で、エルコンドルパサーは事の深刻さを実感した。

 

 グラスワンダーはゴール直前で躓きかけただけで、怪我はしていない――トレーナーはそう言っていたが、それが本当だとはどうしても思えない。

 

 自然の草原ならともかく、整備されたコース上でサラブレッドが躓くなど普通はありえないし、本当に躓きかけて負けただけなら、親友はここまで落ち込みはしない。

 

 今回は負けてしまったけれど、次はこうはいかない。

 

 次こそは最高の走りをして、必ず勝ってみせる。

 

 静かな闘志を滾らせた目をこちらに向けて、そんな風なことを言う筈なのだ。

 

 考えたくはないが――やはり、どこかを痛めたのだろう。

 

 もしかしたら、春のシーズンは全休ということになるのかもしれない。

 

 今年を飛躍の年にすると誓い、尋常ではない熱意で鍛錬に明け暮れていた彼女にとっては、受け入れ難い現実の筈だ。

 

 今下手にレースのことを口にすれば、かえって傷つけることになるかもしれない。

 

 だとすれば、自分はどうするべきだろうか。

 

 ここは気の利いたジョークで無理にでも笑わせてやるべきだろうか。しかし今は残念ながらネタがない。模擬レースで勝つことに専心していたので、余計なことは頭から追い出したままだった。

 

 けれど――まあ別に、大して面白くなくてもいいだろう。いつも通りに接して、いつも通りに言葉を交わして、いつも通りに笑い合う。今は多分、それが一番大事なのだ。

 

 ここは深く考えず、スペシャルウィークが食べ過ぎでまた太ったことでも話題にして――

 

「エルは……」

 

 ぽつりと、エルコンドルパサーの思考を断ち切るように、グラスワンダーは言った。

 

「エルは…………憧れの人って、いますか?」

 

 目を合わせず、下を向いたまま放たれた問い。

 

 エルコンドルパサーはそれに戸惑い、一瞬呆けた顔を見せた後、確認するように問い返した。

 

「……えっと…………サラブレッドの中で……ってこと、デスよね……?」

 

「はい」

 

 グラスワンダーは頷く。

 

 何故そんなことを問うのかと思いつつも、エルコンドルパサーは答えた。

 

「んー……憧れっていうのとは、少し違うかもしれませんケド…………すごいなって思う人は、けっこういますヨ。アメリカのマンノウォーとか、フランスのシーバードとか、イタリアのリボーとか……古いのだとイギリスのエクリプスとか、ハンガリーのキンチェムとか……あっ、オーストラリアのファーラップも忘れちゃいけませんネ。んんー……考えてみるといっぱいいすぎて、どれか一つに絞るのは難しいデス……」

 

 競馬の世界は広く、競馬の歴史は長い。偉大な記録を打ち立てて歴史に名を刻んだ絶対的王者は、世界のどの国にもいる。

 

≪ビッグレッド≫の異名で知られたアメリカの浮沈艦、マンノウォー。

 

 史上最高のメンバーが集った第四十四回凱旋門賞を制したフランスの英雄、シーバード。

 

 圧勝に次ぐ圧勝で生涯不敗を誇ったイタリアの大帝、リボー。

 

 神に等しき存在として語り継がれるイギリスの伝説、エクリプス。

 

 前人未踏の五十四連勝を成し遂げたハンガリーの奇跡、キンチェム。

 

 強大無比な肉体と不撓不屈の精神で一時代を築いたオーストラリアの巨神、ファーラップ。

 

 エルコンドルパサーが名前を挙げた六人は皆、正真正銘の怪物。競馬の世界に身を置く者なら誰もが知っている、名馬の中の名馬だ。

 

 リギルのメンバーでさえ、きっと足元にも及ばない――比較対象にすることさえ許されないほどの、遥かな高みにいる超越者。

 

 その強さに憧れ、多くの者が競馬の世界に足を踏み入れる。

 

 その偉大な背中を追うために、多くの者が過酷な鍛錬を積み重ねる。

 

 そしてほとんどの者が、道半ばで挫折する。どんなに努力しても伝説の名馬に一歩も近付けない現実に打ちのめされ、競馬の世界から去っていく。

 

 競馬の歴史とは、ほんの一握りの勝者と、星の数ほどの敗者から成っているのだ。

 

「……グラスは?」

 

 栗毛の少女に目を向けて、エルコンドルパサーは尋ねた。

 

 こんな話を振ったからには当然、彼女には「憧れの人」がいるのだろうと思って。

 

「グラスの憧れの人は、誰なんデスか?」

 

「…………ビッグレッド」

 

 やや躊躇ってから、グラスワンダーは答えた。

 

「アメリカの……三冠を制した…………二代目の、ビッグレッド」

 

 その言葉を聞いて数秒後、エルコンドルパサーは理解した。

 

 親友の口から出た≪ビッグレッド≫が、誰を指しているのかを。

 

「あー…………セクレタリアト……ネ」

 

 アメリカ競馬史において、≪ビッグレッド≫の異名で呼ばれたサラブレッドは二人いる。

 

 一人目は、先程エルコンドルパサーが名前を挙げたマンノウォー。

 

 二十世紀前半に活躍した名馬で、生涯成績は二十一戦二十勝。圧倒的な強さを見せつけ当時のビッグタイトルを総なめにした、アメリカ競馬史に燦然と輝く金字塔。

 

 規格外の巨体の持ち主で、赤みがかった栗色の髪をしていたことから≪ビッグレッド≫と呼ばれて恐れられた。

 

 そして二人目が、セクレタリアト。

 

 アメリカの三冠競走を完全制覇した史上九番目の三冠馬であり、史上最強の三冠馬として知られる存在だ。

 

 三冠競走の全てでレコードタイムを記録して圧勝。中でも最終戦のベルモントステークスで見せた走りはあまりにも凄まじく、後続に三十一馬身もの大差をつけて勝利した。

 

 マンノウォーをも凌ぐ強さを見せつけ、燃え立つような栗色の髪を風になびかせて疾走する彼女を、人々はいつしか敬意を込めて≪ビッグレッド≫と呼んだ。

 

 最強の称号と化した≪ビッグレッド≫は、世代を超え、マンノウォーからセクレタリアトへと受け継がれたのだ。

 

「確かに凄すぎますよネ、あの人は。なんかもう色々ぶっ飛びすぎデース。初めてベルモントステークスの映像見た時なんか、なんじゃこりゃーって素で叫んじゃいまし……」

 

 エルコンドルパサーの冗談めかした言葉が、途切れた。

 

 隣を歩いていた筈の親友がいなくなっていることに、気付いたからだ。

 

「グラス……?」

 

 立ち止まって振り返ると、そこに栗毛の少女がいた。

 

 何故か急に歩くことをやめ、タイルが張られた道の上に立ち尽くしている。

 

 ゴール寸前で競走を中止した時と、同じように――――先に進む術のない行き止まりに直面したかのように、その場から動けずにいる。

 

 闇色に染まりゆく冬空の下。

 

 栗毛の少女は俯いたまま、秘めていた想いを吐露した。

 

「ビッグレッド…………誰よりも強いビッグレッドに、なりたかったんです」

 

「――っ」

 

 エルコンドルパサーは息を呑み、愕然となった。

 

 言葉の意味を、悟ってしまったからだ。

 

 親友は今、「なりたかった」と口にした。

 

「なりたい」ではなく、「なりたかった」と――遠い過去の思い出を語るように、細い声で呟いたのだ。

 

 栗毛の少女が、顔を上げる。

 

 長い睫毛に縁取られた青い瞳には、涙が溜まっていた。

 

「――――叶わない、夢でしたね」

 

 グラスワンダーは――光輝く未来を失ったサラブレッドは、悲しげに笑った。

 

 非情な現実に屈して。

 

 夢半ばで散る運命を受け容れて。

 

 王座を得られなかった刹那の強者は、前に進むことを諦めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 アラブ首長国連邦の都市、ドバイ。

 

 アラビア半島のペルシア湾沿岸に位置する、中東屈指の大都市。

 

 その中心部に聳える、巨大な摩天楼――ブルジュ・ハリファという名の超高層ビルの一室に、世界各国のマスメディアが集っていた。

 

 世界を驚愕させる発表が、その場でなされていたのだ。

 

「ワ……ワールドカップ……?」

 

 記者の一人が、唖然とした顔で言う。

 

 その視線の先――アラブの民族衣装を身に纏った壮年の男は、微笑みながら応じた。

 

「ええ、競馬のワールドカップを開催致します。九ヶ月後、我が国のメイダン競馬場で」

 

 男は、一国の支配者だった。

 

 アラブ首長国連邦の副大統領兼首相であり、ドバイ首長国の首長。金融業と観光業で潤う都市国家ドバイの頂点に立つ、事実上の「王」だ。

 

 かねてより無類の競馬愛好家として知られ、競馬事業に巨費を投じてきたその男が今、前代未聞の壮大な計画を明らかにしたのだった。

 

「競馬のワールドカップだって……?」

 

「そんなもの、聞いたことないぞ……」

 

 会見の場に詰めかけた各国の記者達は、酷く困惑した様子で囁き合う。

 

 無理もない。唐突な発表だった上に、その内容はあまりに突飛だったのだ。

 

「ワールドカップ」という名のレースは存在するが、他の運動競技と同じような――世間一般の人間が想像するような「ワールドカップ」は、競馬の世界にはない。

 

 いや、なかったのだ。これまでは。

 

「皆さんが驚くのも無理はありません。しかしこれは、ジョークでも少し早めのエイプリルフールでもありません。私は本気です。世界中の優駿が集い、ただ一つの頂点を求めて競い合うワールドカップを、本気で開催するつもりでいます」

 

 砂漠の国の王は、濃い髭を蓄えた口元に不敵な笑みを浮かべ、記者達に言う。

 

 記者の一人から、質問が飛んだ。

 

「その、殿下……失礼ですが……何故急に、そのような……」

 

「急に、ではありません。もう何年も前から構想はありました。準備に専念するあまり、些か発表が遅れてしまいましたが」

 

 そう答えてから、男はその表情を、悪戯を思いついた子供のようなものに変える。

 

「本来なら私が質問に答える立場なのですが、一つだけ質問をさせて下さい」

 

「え……?」

 

「世界史上最強のサラブレッドは誰か――そう問われたら、皆さんは何と答えますか?」

 

 会見の場が静まり返る。

 

 時が凍りついたように、皆が一様に固まる。

 

 男が投げかけた問いに答える者は、一人もいなかった。

 

「レーティング歴代一位のシーバードでしょうか? 十六戦無敗のリボーでしょうか? 黎明の時代の神馬エクリプスでしょうか? 古の女帝キンチェムでしょうか? アメリカの浮沈艦マンノウォーでしょうか? オーストラリアの巨神ファーラップでしょうか? それともドイツのネレイデ? ベルギーのプリンスローズ? トルコのカライエル? 南アフリカのホースチェスナット? ブラジルのファーウェル? ウルグアイのインヴァソール? 永久不滅のレコードタイムを記録したセクレタリアト? ……はてさて、いったい誰なのでしょう?」

 

 名馬の名を羅列されても、誰も答えない。答えられない。

 

 答えを知っている者が、一人もいないからだ。

 

 競馬の世界は広く、競馬の歴史は長く、名馬は数えきれないほどいる。

 

 世界最強は誰か、競馬の歴史の頂点に立つ者は誰か――その答えは、未だ出ていない。

 

「……意地悪な質問になってしまいましたね…………そうです、この問いに答えはありません。私も、皆さんも、世界中の誰も、まだこの問いの答えを知らないのです」

 

 男は目を細める。記者達に向ける眼差しが、鋭い光を帯びる。

 

「だから私は、ワールドカップの開催を決めました。長年抱き続けていた疑問の、明確な答えを得るために」

 

 椅子に座ったまま右手を持ち上げ、指を開く。

 

 静かに伸びる、五本の指。

 

「五人――――ワールドカップに参戦する国は、自国の代表となるサラブレッドを五人選んでいただきたい」

 

 静まり返っていた会見の場に、再びざわめきが起こる。

 

 その混乱ぶりを楽しげに眺めながら、男は言葉を続けた。

 

「大会の仕組みは単純です。各国が選んだ五人を一つのチームとし、参加するチームをA、B、C、Dの四つのグループに分ける。各グループで条件の異なるレースを五回行い、各チームから一人ずつ出走してもらう。そしてレースごとに着順に応じたポイントを与え、全てのレースが終了した後、獲得ポイントの合計が各グループの上位二位までに入ったチームを予選突破とし、本戦出場の権利を与える。本戦では予選を勝ち抜いた八つのチームで再び五回のレースを行い、同様に獲得ポイントの合計で順位を決める。それだけです」

 

 簡単な説明を終え、不敵に笑う。

 

「少し言い方が分かり辛かったかもしれませんが、小難しい話ではありません。要は強いサラブレッドを揃え、一番多くレースに勝ったチームが優勝する。ただそれだけの話です」

 

 砂漠の国の王は椅子から立ち上がり、両手を広げる。

 

 そして自信と稚気と興奮に満ちた表情を湛え、世界に向けて語りかけた。

 

「九ヶ月後――共に目に焼き付けましょう、皆さん。各国が威信をかけて送り出した名馬達が繰り広げる、至高の戦いを。そして知りましょう。競馬の世界の頂点に立つ国が何処なのかを。史上最強のサラブレッドが、何者なのかを」

 

 


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