ウマ娘 Big Red Story   作:堤明文

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第十話「笑顔の裏側」

 

 

 グラスワンダーとシアトルスルーが駐車場で会う、少し前。

 

 旅館内の喫煙室で煙草を吸っていたリコに、サングラスをかけた大柄な白人が歩み寄った。

 

 アメリカ競馬界屈指の名トレーナーであり、現在はアメリカ代表チームの監督を務める男、ダグラス・ターナーだ。

 

「あんたも人が悪いな」

 

 サングラス越しに鋭い眼差しを向け、ターナーは言う。

 

「今日のリレー勝負……やる前から分かってたんだろ? 結果がああなるってよ」

 

 午前中に市内の競技場で行った、リレー形式の対抗戦。

 

 アメリカ側の完勝で終わり、日本側の面々に深い爪痕を残した出来事。

 

 それについて言及されたリコは、煙草を咥えたまま首を回し――

 

「えーっと……どちら様でしたっけ?」

 

 とぼけた顔で、髭面の中年男に問い返した。

 

 真剣な顔で真剣な話をするつもりだった当人は、果てしなく微妙な顔になる。

 

「……うん。何かそんなリアクションされるんじゃねーかなって気がしてたよ。存在感ないよね俺。こいつ誰だっけって感じだよね。あんたら的にはいてもいなくてもどっちでもいいオッサンだよね。知ってる知ってる」

 

「冗談よ、ターナー先生。さっきまで記憶の片隅にもなかったけど、そのむさい髭面見て思い出したから」

 

「それ冗談になってないよね。ガチで忘れてたってことだよね。あとむさいってわざわざ付けるあたりに悪意を感じるよね」

 

「いいじゃない、細かいことは。で……何? 今日の対抗戦のこと?」

 

 リコは煙草を口から離し、薄く笑いながら紫煙を吐く。

 

「そりゃ負けるのは織り込み済みよ。正直言って、格が違うもの。今のうちの五人と、そっちの五人とじゃ」

 

「……それが分かってるなら、何でやらせたんだ?」

 

「負ける必要があったからよ」

 

 問いに即答し、灰皿の上に灰を落とす。

 

 平坦な声音とは裏腹に、その横顔は真剣だった。

 

「うちの子達は、みんな真面目よ。生半可でない覚悟と向上心を持って、一生懸命練習に取り組んでる。世界の頂点を目指すっていう気持ちに嘘はない」

 

 自分が預かる少女達の顔を思い浮かべ、言葉を続ける。

 

「だけど、まだ足りない。世界の遠さを……頂点を獲るために越えなきゃいけない道の険しさを、はっきりとした形で実感出来ていない。だからそっちの子達と直にやりあうことで、思い知ってもらったのよ。今のままじゃ、ワールドカップに行ったって到底通用しないことをね」

 

 世界との差を正しく認識しなければ、本当の意味で実を結ぶような努力は出来ず、この先も永久に差は縮まらない。

 

 世界各国を渡り歩き、数々の名馬を間近で見てきたリコは、そう考えていた。

 

 その考えを理解しつつも、同じ指導者の立場からターナーは口を出す。

 

「現実を知ることが、良い方向に作用するとは限らんぜ。積み上げてきたもんが全部崩れ落ちて、一歩も前に進めなくなっちまうこともある」

 

「知ってるわよ、そんなの。私がその典型例だもの」

 

 自嘲気味に呟き、遠い目をするリコ。

 

 若き日の忌まわしい記憶が、一瞬だけ脳裏をよぎり――それを振り切るつもりで、彼女は頬を緩めた。

 

「でも大丈夫。うちの子達は強いから、たった一度の負けくらい平気な顔で乗り越えて、きっと大きく成長してくれるわよ。……私みたいな、しょうもない負け犬と違ってね」

 

 その微笑みには、信頼が表れていた。

 

 世界の頂点を目指す小さな島国の少女達への、揺るぎない信頼が。

 

 普段は不真面目な面ばかり見せているリコという女が、その実誰よりも「本気」であったことを、ターナーは察する。

 

「本気で、あの子らに獲らせる気なんだな……世界一の座を」

 

「当然よ。でなきゃアメリカさんと合同合宿なんて、無謀な真似しないわ」

 

 リコは笑みを深め、不敵な眼差しをターナーに向けた。

 

「今日はボロ負けしたけど、次はこうはいかない。死ぬほど鍛えて見違えるくらい強くなったあの子達が、ワールドカップの舞台でおたくのチームを倒すわ。必ずね」

 

 

 

 

 

 

 午後十時半。

 

 スペシャルウィーク、セイウンスカイ、キングヘイローの三人は、電灯の消えた部屋の中にいた。

 

 もう寝なければいけない時間だったが、布団の中に入っている者はいない。

 

 皆、エルコンドルパサーとグラスワンダーがどこかに行っていることには気付いていたが、それを口に出さない。

 

 しばらく前から彼女達の間に会話はなく、それぞれが思い思いの場所に座ったまま、暗い顔で俯いていた。

 

 アメリカ代表チームとの対抗戦で味わった、無惨な敗北。

 

 忘れようとしても忘れられないその記憶は、悪夢となって彼女達を苛み続けていた。

 

「……完敗、でしたね……今日は……」

 

 壁際に座るスペシャルウィークが、数時間ぶりに口を開く。

 

 細く弱々しい声の、独白じみた呟きだった。

 

「甘く見てたわけじゃ、ないです……世界には強い人がたくさんいて、簡単にはいかないってことも……アメリカの人達が私達より格上だってことも、知ってたつもりでした……けど……」

 

 レースを振り返り、敗北の痛みを噛み締める。

 

「やっぱり、甘く見てたんですね……あんなに差があるなんて、思いませんでした……」

 

 瞼の裏に焼きついた、ドクターフェイガーの剛脚。

 

 全てを薙ぎ倒す暴風域のような、凄絶極まりない疾走の姿。スタート直後から誰も追いつけない速度に達し、そこから天井知らずに加速を続けていく、異次元の競走能力。

 

 あれほどの強さがこの世に存在するとは、思いもしなかった。

 

「……あれでまだ、全力じゃなかったよ。どの人も」

 

 俯きながら、セイウンスカイが呟く。

 

「本調子じゃなかったとか、練習試合であまり無理をしたくなかったとか……理由は色々あるんだろうけど……結局、舐められてたんだよ。私達なんか、全力を出すまでもない相手だって思われてた。……そして実際、そうだった」

 

 スペシャルウィークに記録的な大差をつけたドクターフェイガー。

 

 コーナーワークの歴然たる差を自分に見せつけたラウンドテーブル。

 

 至芸の如き疾走でキングヘイローを放心させたシアトルスルー。

 

 グラスワンダーの「叩きつける走法」を模倣し、エルコンドルパサーを完膚なきまでに叩きのめしたバックパサー。

 

 圧倒的な能力を示す走りをしながら、アメリカの名馬達はほとんど息も乱さず、涼しい顔をしていた。

 

 その事実が、我慢ならない。

 

「ムカつくよね…………あの人達にじゃなくて、自分自身にさ……」

 

 自分の弱さに腹が立つ。相手の全力を引き出すことさえ出来ず、取るに足らない雑魚と見なされたまま終わった無様さが、許し難い。

 

 時間が経つにつれて膨れ上がる感情に、セイウンスカイは顔を歪めていた。

 

「……で、どうするの? そう簡単に縮まる差じゃないわよ、あれは」

 

 キングヘイローが言った。他の二人と同様、彼女の表情にも暗い翳が落ちている。

 

 いや、絶望の深さでは彼女の方が上かもしれない。

 

 アメリカ競馬界の頂点――無敗の三冠馬シアトルスルーの実力を、誰よりも近くで目にしたのだから。

 

「確かに……ちょっと頑張っただけじゃどうにもならないですよね、あの差は……」

 

 スペシャルウィークは同意する。

 

 自分達とアメリカの名馬達の間にある実力差が、少し練習量を増やした程度で埋まるようなものだとは、到底思えない。

 

 それどころか、たとえ今までの十倍の努力をしても無意味とさえ思えてしまう。

 

 世界の壁は、厚く高い。

 

 頂点へと続く道は、果てしなく険しい。

 

 そんな現実を直視し、忘れてはならない教訓として胸に刻みつけ、彼女は顔を上げた。

 

「――だから、頑張りましょう」

 

「「――は?」」

 

 セイウンスカイとキングヘイローが、同時に呆けた顔をする。

 

 明らかに矛盾したスペシャルウィークの発言に、二人の理解は追いつかない。

 

「今……頑張ってもどうにもならないって言ったじゃない」

 

「ちょっと頑張っただけじゃどうにもならないですよねって言ったんです。いくら頑張っても無駄ですよねって言ったわけじゃありません」

 

 スペシャルウィークはきっぱりと返す。

 

 先程までの苦悩や弱気はその表情に残っておらず、代わりに真っ直ぐな強い意思が、瞳の奥で輝いていた。

 

「ちょっとだけじゃなくて、すごく頑張りましょう。今までよりもっと……何十倍も、何百倍も、気力と体力の限界まで……いいえ、限界を超えるまで頑張り抜きましょう。ワールドカップ本番で、あの人達に勝つために」

 

 左手を胸の高さまで上げ、拳を握る。

 

 頬を緩ませ、絶望の淵から這い上がったような笑みを、仲間達に見せる。

 

「この悔しさを力に変えて……次は勝って、みんなで思いっきり笑えるように」

 

 暗い部屋の中に響いた、決意を伝える言葉。

 

 それを聞いた二人は、しばし目を丸くして固まり――やがて言葉の意味を汲み取ったセイウンスカイは、呆れた様子で苦笑した。

 

「……スペちゃんらしいね」

 

 気合いと根性だけで物事を解決しようとするところも、どんなに打ちのめされてもすぐに立ち直ってしまうところも、実にスペシャルウィークらしい。

 

 具体性の欠片もない精神論を大真面目に言うのだから、本当に呆れてしまう。

 

 けれど――

 

「確かにそうだ。……頑張らないといけないよね。勝って、笑うためにはさ」

 

 自分達は競走馬だ。

 

 出来ることは、競馬場で走ることだけ。

 

 夢も、未来も、栄光も、全てはゴール板の先にしかない。

 

 走っても、走っても、苦しみに耐えて懸命に走り続けても、待つのは敗北と挫折だけかもしれない。

 

 何者にもなれず、何処にも辿り着けないまま、競馬場を去る日が来るのかもしれない。

 

 それでも、諦めてはならない。

 

 苦難の先にある頂点の景色を夢見て、誰よりも強くなってみせると自分自身に誓い、競馬の世界に踏み入ったのだから。

 

 輝く未来に辿り着けるのは、夢を捨てずにレースを走り抜いた者だけなのだから。

 

「じゃ……あれこれ考えるのはやめにして、もう寝よっかな。明日からまたビシバシしごくって言ってたから、疲れを取っとかないとね」

 

「ですね! きっちり休んで、明日から猛特訓始めましょう!」

 

 笑顔で言葉を交わし、布団の中にもぐりこんでいく二人。

 

 その一方、部屋の隅で片膝を抱えるキングヘイローは、口を閉ざしたまま自分自身と向き合っていた。

 

 闇を払う篝火のような情念を、瞳の奥に灯しながら。

 

 

 

 

 

 

 翌日以降も、過酷な練習は続いた。

 

 下半身を鍛えることを目的とした、急勾配の山道でのランニング。

 

 身体の使い方を磨くことを目的とした、反発力を得辛い砂浜でのランニング。

 

 重種馬達の協力を得て行った、全身の筋肉を酷使する綱引き。

 

 実戦を想定しながら繰り返し行った、スタートとポジション取りの練習。

 

 日ごとに場所を変えながら様々な試みがされていき、それぞれの能力に合わせた個別の練習メニューも課されていった。

 

 それに伴い、シンボリルドルフとマルゼンスキーの二人が後輩達に助言を与える場面も増えていった。

 

「キングヘイロー。積極性は認めるが、君のポジションの取り方はやや強引だ。斜行や接触事故に繋がらないように気を付けろ」

 

「スペちゃんはやっぱり、パワーが不足気味ね。特に腹筋の弱さが目立つわ。しばらくはそこを重点的に鍛えていきましょうか」

 

 練習の度にアメリカ側との能力差を痛感させられ、疲労も蓄積していったが、弱音を吐く者はいなかった。

 

 世界に挑む決意を固めた日本代表チームの面々は、以前とは別人のような気迫を見せ、懸命な努力を重ねた。そして徐々にだが確実に、成長の兆しを見せ始めた。

 

 ただ一人――グラスワンダーを除いて。

 

「うーん…………酷いってほど、酷いタイムじゃないけど……良くもないわね」

 

「……すみません」

 

 合宿十日目。一週間前対抗戦の舞台となった競技場で、全員の八百メートルの走破タイムが計られたが、最後に走ったグラスワンダーのタイムは芳しくなかった。

 

 リコはストップウォッチから目を離し、俯く少女の顔を見る。

 

「タイム自体もイマイチだけど、それ以上に……何て言うか、走りに気迫が感じられないわ。イレネーさんと勝負した時は、もっと気迫を前面に出してた筈よ」

 

「……」

 

「もしかして体調悪い? どこか痛むところでもあるの?」

 

「いえ……」

 

 小さく頭を振るグラスワンダーの表情は、薄曇りの空のように冴えなかった。

 

「体調に問題はありません……ただ……」

 

「ただ?」

 

「……いえ…………何でもありません……」

 

 口にしかけた言葉を引っ込めたその様子を見て、リコはしばし思案する。

 

 実のところ、グラスワンダーの不調の原因については大分前から察していたが――指摘してどうにかなる問題とは思えなかった。

 

「……分かったわ。今日はもう練習はいいから、休みなさい。グラスちゃん」

 

「……っ!? そ、そんな……! 私はやれます! 私はまだ――」

 

「何か色々あって心と身体が噛み合ってないみたいだから、今は何やっても無駄よ。ゆっくり休んで立て直した方がいいわ」

 

 グラスワンダーは反論出来ない。

 

 一週間前から不調に陥り、何をやっても上手くいかない日々が続いているのは、否定しようのない事実だった。

 

「誤解しないで」

 

 落ち着いた面持ちで、リコは言う。

 

「駄目だこいつって感じに見放したわけじゃないわ。辛そうだから休ませてあげようって思ったわけでもない。グラスちゃんが調子を取り戻すには休息が必要だと思ったから、そう言ったまでよ」

 

 それから彼女は笑みを零し、声音を明るいものに変えた。

 

「ていうかグラスちゃん、私に対してちょっと余所余所しいわよねー? 何? 前にひっぱたかれたのまだ根に持ってたりする?」

 

「い、いえ……そんなことは……」

 

「あー、その顔は図星でしょー? 実は相当根に持ってるでしょー? 脳内妄想で私をタコ殴りにしながら、調子こいてんじゃねえぞクソババアとか怒鳴りまくったりなんかして」

 

「し、してません! そんなことしてませんから!」

 

「あのくらいでへそ曲げるなんて、メンタル豆腐な現代っ子なんだからもー。そんなんだからゆとり教育の結晶とかゆとり世代の代表とか将来絶対デブるタイプとか言われちゃうのよー」

 

「言われてません! というか、最後の関係ないじゃないですか!」

 

 あまりのしつこさに辟易し、少しむきになるグラスワンダー。

 

 そんな様子を可笑しそうに笑ってから、リコは穏やかな目で告げた。

 

「……とまあ冗談はこのくらいにして、見放してないってのは本当よ。グラスちゃん。調子が今一つだからってあなたを代表メンバーから外す気はないわ」

 

 強い信頼を込めて放たれた言葉。

 

 思い悩む少女にとってそれは、複雑な思いを抱かせるものだった。

 

「今日はしっかり休んで、また明日から頑張りなさい。ワールドカップで私達のチームが勝ち抜くためには、グラスちゃんの力が欠かせないからね」

 

「……はい」

 

 そうして、半日の休養が与えられた。

 

 

 

 

 

 

 ――昔に戻ったみたいだ。

 

 競技場の端に立ち、仲間達が練習に励む光景を眺めながら、グラスワンダーはそう思った。

 

 何をしても上手くいかず、走る度に心が軋む日々。抱いた夢に一歩も近付けないまま月日が過ぎていくだけだった、迷走の時期。

 

 日本に渡って実績を積み、そんな過去とは決別したつもりだった。

 

 しかし自分の現状を見つめると、元いた場所に戻ってきてしまったような気がしてくる。

 

 いや、もしかしたら、最初から何処にも辿り着いていなかったのかもしれない。

 

 故郷から遠く離れた国に逃避し、何かを得たような気分に浸っていただけで、本当は――

 

「練習でのタイムなんて、気にすることないわよ。グラス」

 

 歩み寄りながらそう告げたのは、マルゼンスキーだった。

 

 寂しげに佇む後輩に柔らかな微笑みを向け、彼女は励ましの言葉を続ける。

 

「本番前の追い切りで抜群のタイムを出した子が、本番では全然駄目だった……なんてよくある話だし、その逆もある。まして今は本番まで九ヶ月近くもあるんだから、悲観する必要なんてないわ」

 

「今日だけの不調なら、そう思えましたけど……」

 

 単走で好時計が出せないだけではなく、近頃のグラスワンダーは他のどの練習でも精彩を欠いていた。

 

 山道を登ればすぐに息が上がり、砂浜を走れば途中で転倒し、得意分野の力比べでもラウンドテーブルやバックパサーに後れを取る。

 

 本調子からはかけ離れた状態であり、こんな状態が続けば代表メンバーから外されてもおかしくないと思えてしまうほどだった。

 

 どうにかして復調しようと足掻いてはいるが、どうにもならない。

 

 本当に、どうにもならないのだ。

 

「大丈夫よ」

 

 マルゼンスキーは、笑顔のまま言い切った。

 

「一昨年の有馬の前も、そうだったでしょう? 長期休養が響いて調子がなかなか戻らなくて、周囲からは勝てないだろうって言われてた。……それでもレースでは信じられないような走りを見せて、みんなをあっと驚かせた」

 

 優しい色を湛えた瞳が、栗毛の少女の顔を見つめる。

 

「どんな逆境も必ず乗り越えて、大舞台では無類の強さを発揮する。それが、≪怪物≫グラスワンダーでしょう?」

 

 後輩の走りを傍で見続け、苦難と栄光の繰り返しを知っている彼女だからこそ、口に出来る言葉だった。

 

 その意味を噛み締めながら、グラスワンダーは思う。

 

 自分を一番理解してくれているのは、やはりこの人なのだ。この胸の奥に溜まった悩みを打ち明けられる相手は、この人しかいない――と。

 

「……マルゼンスキーさん」

 

 上目遣いにマルゼンスキーの顔を見つめ、おずおずと言う。

 

「その……相談したいことがあるんですけれど……構いませんか?」

 

 それを聞いたマルゼンスキーは、一瞬虚をつかれたような表情を見せたが、すぐに元の笑顔に戻って応じた。

 

「もちろんよ。遠慮せずに何でも言って」

 

 

 

 

 

 

 一週間前の夜。

 

 シアトルスルーから用件を告げられた際、グラスワンダーは酷く動揺した。

 

「アメリカに、戻れって……本気で言ってるんですか……?」

 

「ええ、本気よ。冗談でこんなこと言ったりしないわ」

 

 迷いなく言い切られ、動揺はさらに深まる。

 

 三年前の冬に会った時も、アメリカに戻るように言われたが――その時に自分が示した拒絶により、その話は終わったものとばかり思っていた。

 

 もう一度同じことを言われる日が来るとは、思っていなかったのだ。

 

「私は……もう三年も日本にいるんですよ? 今更戻るなんて、そんなこと……」

 

「出来るわ。前例はなくても、制度上は不可能じゃない」

 

「……確かに……移籍は禁止されていませんけれど……」

 

 日本のGⅠ馬が、アメリカ合衆国に移籍する――前代未聞の話ではあるが、それは決して不可能なことではない。

 

 世界的に見れば、競走馬の移籍というのは珍しくもないのだ。

 

 欧州で一流になれなかった者が、活路を求めてオーストラリアや香港へ。

 

 南米諸国の活躍馬が、さらなる栄誉と金銭を求めて北米へ。

 

 実力や目的に応じて戦う場所を変えることが、当然のこととして頻繁に行われている。

 

「でも、仮に戻ったとしても……私を受け入れてくれるところは……」

 

「私のところに来ればいい」

 

「私のって……その……ターナー先生のところに……?」

 

「ええ」

 

 問いに頷きを返し、シアトルスルーは淡々と続けた。

 

「既に先生の了承は得ている。あなたにその気さえあれば、いつでも教え子として受け入れてくれるそうよ。そして……先生の元に来るなら、私も助手としてあなたに関われる」

 

 彼女は、ただ無責任にアメリカに戻れと言ったわけではない。

 

 幼馴染を再生させる方法を真剣に考え、自分が全責任を負う覚悟で、輝く未来に至る道を示したのだ。

 

「前に話したわよね? 私は引退後、トレーナーに転身するつもりだって」

 

 黒い瞳が、戸惑う少女を見据える。

 

「そのための勉強は練習の合間に続けてきたから、もういつでも資格を取れる段階に来ている。傲慢な言い方に聞こえるかもしれないけれど……それなりに上手くやれる自信はあるわ。少なくとも、以前あなたを指導していた人よりは」

 

 苦い記憶に触れられ、グラスワンダーの表情が僅かに強張る。

 

 故郷を離れるきっかけとなったトレーナーとの軋轢は、今も彼女の胸に傷を残していた。

 

「つまり……シアトル姉さんが、私のトレーナーになるってことですか……?」

 

「ええ、実質的には……ね」

 

 形式的にはダグラス・ターナーの教え子になる格好だが、実質的にトレーナーの役を担うのはシアトルスルー。

 

 言われるがままアメリカに帰れば、そうした状況になるらしい。

 

 無敗の三冠馬シアトルスルーに直接指導してもらえるなど、他人に言わせれば夢のような話だろう。

 

 しかしグラスワンダーは、それを素直に喜ぶことが出来なかった。

 

「それじゃあ……ワールドカップは、どうすればいいんですか……?」

 

「当然、代表を辞退してもらうわ」

 

「……っ!」

 

「出来ることなら今すぐアメリカに連れて帰りたいくらいよ。流石にそれは無理にしても、十一月のワールドカップが終わるまで待ってはいられない。競走馬として見れば、あなたも決して若くはない齢だもの」

 

 競走馬が最高の力を発揮出来るのは、身体が成熟する前後の数年間だけ。それを過ぎてしまえば、どれほどの名馬も衰えを隠せなくなる。

 

 人間社会の基準では未成年のグラスワンダーも、競馬の世界では既に年長の部類であり、さほど若くはない。

 

 残された時間は、決して長いとは言えないのだ。

 

「だから合宿が終わって東京に戻り次第、移籍の手続きを進めてもらうことになるわ。私のところで再出発する道を、あなたが選ぶのなら」

 

「……随分、唐突で……乱暴な話ですね」

 

「そうね」

 

 皮肉めいた呟きに、シアトルスルーは肯定を示す。

 

「合同合宿に招かれた身でありながら、相手方の代表選手を引き抜こうとする……我ながら、不義理もいいところね。誰に何を言われたって文句は言えないわ」

 

 自分がどれだけ非常識な真似をしているかを、彼女は自覚している。

 

 グラスワンダーが代表の座を辞退すれば、自分が非難の的になることも承知している。

 

 その上で、一片の迷いもなく告げているのだ。

 

 日本を去り、自分の元に来い――と。

 

「けれど、構わない。あなたを連れ戻せるなら、どんな非難も甘んじて受けるつもりよ。頭なんかいくらでも下げるし、私自身が代表から外されることになっても構わない」

 

 幼馴染を見据える瞳に覚悟を込め、無敗の三冠馬となった少女は、揺るがぬ意思を再び口にした。

 

「もう一度言うわ。アメリカに帰ってきなさい、グラス。私の手で、あなたを頂点まで導いてみせるから」

 

 

 

 

 

 

「……シアトルスルーが、そう言ったのね?」

 

「……はい」

 

 グラスワンダーとマルゼンスキーは競技場を出て、公園内の遊歩道にあるベンチに腰を下ろしていた。

 

 周囲に誰もいない中、二人だけの会話は続く。

 

「それで、グラスは何て答えたの?」

 

「すぐには結論を出せないので、少し考えさせて下さいと言いました。そうしたらあの人は、十日だけ待つ……と」

 

 それは、合宿最終日の前日――シアトルスルー達アメリカ代表チームが日本を去る一日前まで、猶予を与えるという意味だった。

 

「十日後の夜にまた同じ場所で会って、その時に返答を伝える……そう約束を交わして、その日は別れました」

 

「……それで、ずっと悩んでたのね」

 

 一週間前の夜の顛末を知り、マルゼンスキーは後輩の胸中を察する。

 

 グラスワンダーは下を向いたまま、嘆くように言った。

 

「こんなの、人に相談することじゃない……自分で考えて、自分で決めなきゃいけないことだって分かってるんです……でも……」

 

 震える声に、不安と迷いが滲み出る。

 

「分からないんです。いくら考えても…………これからどうすればいいのか……どちらを選べばいいのかが……」

 

 アメリカに帰るか、日本に残るか。

 

 決断の時が間近に迫ったそれは、今後の競走生活ばかりか引退後の人生までも左右する、重大な二択だ。

 

 少し前までの自分なら、迷うことなく後者を選んだ。このまま日本に残って走り続け、自分だけの力で頂点を目指すと言い切れた。

 

 けれど今は、それが出来ない。

 

「叩きつける走法」を禁じられ、普通に走っても一線級には通用せず、時間がただ無為に過ぎていくだけの現状を思えば――

 

「いい話だと思うわよ」

 

「え?」

 

「アメリカに帰ってシアトルスルーの指導を受けるっていうのは、あなたにとっていい話だと思ったのよ。私は」

 

 瞠目するグラスワンダーに、マルゼンスキーは微笑みを向けた。

 

「だってそうでしょう? 彼女は無敗で三冠を制した歴史的名馬で、アメリカ競馬界きっての理論派としても知られている。きっとトレーナーになっても大成するだけの能力を持ってるわ。そんな人に指導してもらえれば、あなたは今より数段強くなれるわよ」

 

「で、でも……! それだと、ワールドカップは……」

 

「諦めるしかないわね。残念だけれど」

 

 さほど残念がる様子もなく、さらりと返す。

 

 そして続く言葉は、グラスワンダーをより一層当惑させた。

 

「でもいいじゃない。ワールドカップだけが全てじゃないわ。ブリーダーズカップ、ジョッキークラブゴールドカップ、ウッドワードステークス、アーリントンミリオン……アメリカには、伝統と価値のあるレースがいくつもある。いずれそういうレースを制して、向こうのトップホースになればいいのよ」

 

 事態を前向きに捉えているとも取れる口振りだったが、その端々からグラスワンダーは感じ取った。

 

 自分の一番の理解者だと信じていた女の、無機質な本心を。

 

「あれこれと文句を言う人はいるかもしれないけれど、そんなの気にすることないわ。グラスの人生はグラスのものなんだから、周囲の雑音なんかに惑わされないで、自分にとって一番良いと思える道を選ぶべきよ」

 

 彼女には、想いがなかった。

 

 後輩達の晴れ舞台を見たいという気持ち、コーチ役として自国のチームを支えたいという情熱、世界との戦いに懸ける夢――当事者の一人なら持っていて然るべきそれらの想いが、彼女の発言には全く表れていなかった。

 

 実際、そんなものは微塵もないのだろう。

 

 表面上はどうあれ、心の奥底では冷めているから、躊躇いなく勧められるのだ。

 

 身の丈に合わない夢を諦め、日本を去る道を。

 

「…………もう、出来ないかも……」

 

「うん?」

 

「あの人は、私の走り方を嫌ってましたから……だからアメリカに戻って、あの人の指導を受ける立場になったら……もう二度と、前のような走りは……」

 

「それは、日本にいても同じでしょう?」

 

 あっさりと、マルゼンスキーは言った。

 

「ハナさんの意思は固い。もうこの先何をしても、あなたにあの走法を使わせないって決定を覆させることは出来ないわ」

 

 現実を突きつけるように告げ、それからまた、作り物めいた笑顔を見せる。

 

「だからほら、前にも言ったじゃない。これからは地道に基礎を固めて、あの走法の代わりになる強さを身に付ければいいのよ。大変かもしれないけれど、グラスならきっとそれが出来るわ」

 

「……」

 

 確かに以前にも、似たようなことを言っていた。

 

 この合宿の初日。帯広空港へと向かう飛行機の中だ。

 

 

 ――グラスは強いんだから、普通に走っても十分通用するわ。これからの特訓で今まで以上に基礎を固めれば、世界の強豪にだって勝てるようになるわよ。

 

 

(ああ、そうか……)

 

 今になって、その真意を悟った。

 

 彼女はいつも優しくて、こちらを傷つけるようなことは何も言わないから、今の今まで気付けなかった。

 

(この人も、同じなんだ……)

 

 要は、捨てろと言っていた。

 

 つまらない意地やこだわりは捨てて、普通に走れるようになれと言っていただけだった。

 

 非合理な走りを断固として認めなかった、昔のトレーナーと同様に。

 

 引退させられたくなければ二度と使うなと脅してきた、今のトレーナーと同様に。

 

 破滅の未来を予見した、無敗の三冠馬と同様に。

 

 あの走法を無価値で不要な「悪癖」と見なし、自分の中から取り除こうとする側の一人だったのだ。

 

 

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