ウマ娘 Big Red Story   作:堤明文

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第十一話「踏み出す一歩」

 

 

 バックパサーが、妙なことをしている。

 

 八百メートルの走破タイムを計測した後の休憩時間。その奇行を目撃したシアトルスルーは、タオルで汗を拭いながら首を傾げた。

 

 トラック内の芝生に立つ、テンガロンハットの女――バックパサーが、何故か右脚だけを大きく上下に動かしているのだ。

 

 ゆっくりと右脚を振り上げ、ゆっくりと振り下ろし、芝生を静かに踏み締める。

 

 何度も何度も、それを繰り返す。

 

 一週間前の対抗戦で披露した「真似事」を、スローモーションで再現するかのように、同じ動作を延々と続けていた。

 

 いつになく真剣な眼差しを、自身の脚に注ぎながら。

 

「……何をしているの? パサー」

 

 問いかけても、返答はない。

 

 声も届かないほど集中しているのか。天馬の双眸は真っ直ぐに、上下動を繰り返す右脚だけを見つめ続けていた。

 

「膝関節…………いや、股関節の問題か……」

 

 零れ落ちる独り言。

 

 それまでより一段と高く脚を振り上げ、僅かに顔をしかめながら振り下ろし――それを最後に、バックパサーは奇行を止めた。

 

 目を瞑り、何かを悟った様子で溜息をつく。

 

「…………同じにならねえわけだ」

 

 その声音に若干の悔しさが滲んでいるように感じられたのは、果たして気のせいだっただろうか。

 

 怪訝な顔をするシアトルスルーに、バックパサーはようやく振り向く。

 

 その表情は、普段の彼女が浮かべるものに戻っていた。

 

「んなアホ見るような目で見んなよ。ちっとばかし気になることがあったから、考え込んでただけさ」

 

「……そう」

 

 バックパサーの考えていることが気にならないわけではなかったが、詮索はやめておいた。

 

 代わりに、別のことを問う。

 

「さっき外に走りにいったエルコンドルパサーが、妙な物を装着していたけれど……あれはあなたの仕業?」

 

「その通りだが、よく分かったな」

 

「彼女にあんな真似をさせるのは、あなたくらいだと思ったから」

 

「はははっ、違えねえ」

 

 愉快げに笑った後、バックパサーは悪戯を明かすように言う。

 

「罰ゲームだよ、罰ゲーム。この前のリレー勝負で、勝った側は負けた側に好きに命令していいって決まりがあったろ? ふとそれを思い出してよ。あの勘違い馬鹿にちょっとした罰をくれてやったのさ」

 

「あれはその日の間だけという話だったから、とっくに時効だと思うけど?」

 

「かたいこと言うなよ。別にいいだろ? あの馬鹿だって文句言わなかったしよ」

 

「……まあ、いいけれど…………何であんな重りを付けさせたの?」

 

 つい先程、個人練習のため競技場から出ていったエルコンドルパサー。

 

 その両足首に巻かれていたのは、一目見ただけで正規品ではないと分かる、異様なほど分厚いアンクルウェイトだった。

 

 おそらく、二つ合わせて二十キログラム以上の重量がある代物だろう。

 

 ランニングの際に身に着ける重りとしては、些か度が過ぎている。

 

「下手糞だからな、あいつは」

 

 辛辣な評価が、バックパサーの口から出た。

 

「この国の中じゃ、何でも出来る万能の天才って風に持て囃されてるらしいが……アホ臭え。あたしに言わせりゃまだまだ粗だらけだ。特に、勝負所に来るまでの脚の使い方がなってねえ。無駄な動きで無駄に体力磨り減らしてやがる」

 

 あらゆる面で高水準なエルコンドルパサーの走りを「粗だらけ」と評する者は、世界を見渡しても彼女くらいだろう。

 

 それは本人も承知の上だが、間違ったことを言ったつもりは微塵もない。

 

 常人の視点で見れば非の打ちどころがないほどの完成度であっても、超一流の視点で見れば話にならないほど未熟であることは、嘘偽りのない事実なのだ。

 

「だから重りをくれてやったのさ。クソ重いもん付けて走り辛くなりゃ、身体が少しでも楽をしたがるようになる。楽をするってのは無駄を省くってことだ。そんな状態でしばらくそこら辺を走ってれば、あいつのゴミみてえな走りもちっとは見れるようになる……か、少なくともそのきっかけ程度にはなる。理屈としてはそんなとこだ」

 

 そこまで言って、また笑う。

 

「ま……それでも進歩しねえならしねえで、別に構わねえけどよ」

 

 彼女らしい物言いだったが、シアトルスルーはそこに、単なる侮蔑や見下しとは異質な意思を感じずにいられなかった。

 

 バックパサーは、世間で思われているほど攻撃的な性格ではない。

 

 取るに足らない相手には必要以上に関わろうとせず、話題にさえしないのが彼女だ。誰彼構わず喧嘩を売るほど野蛮ではなく、弱者をいたぶることに快楽を見出すような嗜好も持っていない。

 

 にもかかわらずエルコンドルパサーに対しては、一貫して辛辣な態度を取り続けている。

 

 深く観察して欠点を見抜き、それを克服するための道具を与えるという、らしくない真似までしている。

 

 何の理由もない気まぐれとは、到底思えない。

 

「……気に入ってるのね。あの子のこと」

 

 静かに放たれた言葉に、バックパサーは答えなかった。

 

 

 

 

 

 

 川沿いの細い道を、赤いマスクの少女が走る。

 

 息を切らし、黒鹿毛の髪を振り乱しながら、長距離走のペースで冬枯れの景色の中を進んでいく。

 

 持ち味のスタミナをさらに強化するため、帯広市内を毎日長時間ランニングする――それが、リコがエルコンドルパサーに課した個人練習だった。

 

 ただでさえ肉体を酷使するそれに、今日はバックパサーから与えられた拷問器具のような代物の重さが加わっている。

 

 中に大量の鉄玉が詰まった、特注品のアンクルウェイト。重量は一つ十二キログラム。二つ合わせて二十四キログラム。半端な者が装着すればまともに走れないどころか、身体を壊しかねない代物だ。

 

 頑強な肉体を持つエルコンドルパサーでも、そんな物を装着して走るのは楽ではない。

 

 一歩踏み出すごとに地面に吸い寄せられるような感覚を覚え、普段のランニングとは比べ物にならない速さで体力を消耗していた。

 

 しかしながら、それは肉体面の話。

 

 アンクルウェイトの重さも、瞬く間に蓄積していく疲労も、今の彼女はさほど気にしていなかった。

 

 重大な問題が頭の中を占めていたせいで、他の全てが些事としか思えなかったのだ。

 

(……あと、三日)

 

 繰り返し脳裏に浮かぶのは、一週間前の出来事。

 

 偶然立ち聞きしてしまった、グラスワンダーとシアトルスルーの会話。

 

(あと三日で……あの話の、返答の日……)

 

 三日後の夜、グラスワンダーはシアトルスルーに告げねばならない。

 

 アメリカに帰る道と日本に残る道の、どちらを選ぶのかを。

 

 アメリカに帰れば、ワールドカップには出られない。今の仲間達と同じレースを走ることも、おそらくは二度とない。

 

 その代わり、申し分のない環境に身を置ける。無敗の三冠馬シアトルスルーから指導を受け、自分の走りを一から作り直せる。シアトルスルーの手腕とグラスワンダーの才能が上手く噛み合えば、きっと明るい未来が拓けるだろう。

 

 日本に残れば、ワールドカップには出られる。今の仲間達とも別れずに済む。

 

 だが間違いなく、ワールドカップは参加するだけで終わる。「叩きつける走法」を使えない今の彼女が世界の舞台で通用するとは、残念ながら全く思えない。

 

 いや、多分このままでは、日本のレースでも良い結果は出せないだろう。敗北を重ねて落ちぶれていく姿が目に見える。

 

 だから、どちらが正解かと問われれば、間違いなく前者なのだ。

 

 シアトルスルーに従った方が今後の競技人生で成功を得られる可能性が高いのは、どう考えても疑いようがない。

 

 けれど――そんなのは、嫌だ。

 

 アメリカに帰ってほしくない。日本に残ってほしい。一緒にワールドカップに行って、世界の頂点を目指したい。

 

 それが、自分の正直な気持ちだ。

 

 どれほど理屈を並べられても変えられない、心の奥底からの想いなのだ。

 

 引き止められるなら引き止めたいが――果たして、それが許されるだろうか。

 

 グラスワンダーの人生は、グラスワンダーのもの。

 

 もし本人が再起を目指してアメリカに帰る道を選ぶなら、ただの友人に過ぎない自分に口出しする資格はない。

 

 感情だけで下手に引き止めた結果、親友の未来を奪うことになってしまったら、責任の取りようがない。

 

 そんな理性の訴えが足枷となり、エルコンドルパサーは何も出来ずにいた。

 

 過酷な鍛錬を一人黙々と続けているのも、ある種の現実逃避なのかもしれない。

 

(何で……こんなことになったんだろう……)

 

 息を切らして走りながら、現状を恨めしく思う。

 

 少し前までは、こんなことで思い悩む必要はなかった。

 

 苦しいことは山程あったが、それでも毎日が楽しかった。余計なことに気を取られず、目標を真っ直ぐに見据えたまま走っていられた。

 

 自分とグラスワンダーは、単なるチームメイトではない。

 

 同じような夢を追う似た者同士で、同じような想いを抱えて競い合うライバルだった。

 

 物静かな見た目に反して我が強く、実は誰よりも頑固で、何があろうと自分の競馬を決して曲げない、小さな栗毛の少女。

 

 誰にも真似出来ない走りで頂点を目指す、常識破りの競走馬。

 

 そんな眩しい存在に、自分は――

 

 

 

 

 

 

 四ヶ月ほど前。

 

 レースも練習もない、久々に訪れた休日でのことだった。

 

 息抜きを兼ねて街に日用品を買いに出かけたエルコンドルパサーだったが、途中で財布を所持していないことに気付き、やむなく寮の部屋に引き返した。

 

 予定外の往復をする羽目になったため、テンションは底の方まで下がっていた。

 

「はーい、お財布忘れたマヌケが颯爽と戻ってきましたヨー。時間を無駄にした感が半端ないデース。ていうかグラスも、やっぱり一緒に行きませ……」

 

 投げやりに言いつつ部屋のドアを開けたエルコンドルパサーは、直後に硬直した。

 

 部屋の真ん中に、グラスワンダーが立っている。

 

 それはいい。グラスワンダーとの相部屋なのだから、いて当然だ。

 

 ただ、格好がおかしい。普段着でも学園の制服でもトレーニングウェアでもなく、レース用の服――勝負服と呼ばれる煌びやかな衣装を、何故か着用している。

 

 その上、見慣れない物まであった。スタンドタイプの大きな姿見鏡だ。

 

 いつの間にどこから調達してきたのか不明なそれが、床の上に堂々と佇立しており、青い勝負服を着た少女の姿を映しているのだった。

 

 当人が何をしているのかは、深く観察するまでもなく明らかだった。

 

 鏡の前で、ポーズをとっているのだ。

 

 身体の向きを変え、姿勢を変え、表情を変え、とにかく色々な部分を細々と変えながら、鏡に映る自分の姿を堪能している。

 

 その手で大事そうに抱えているのは、いつも机の上の棚に置かれている銀色のカップ。

 

 どうやら当人の脳内では、表彰式で優勝カップを受け取り万雷の拍手を浴びる自分の姿――という風な光景が広がっているらしい。

 

 恐ろしいほどの痛さだった。

 

 見なかったことにしてやろうかとも一瞬思ったが、放っておくといつまでもやっていそうなので声をかけた。

 

「あのー……何をされてるんデスか? グラスワンダーさん……」

 

「ファッ!?」

 

 間抜けな声を上げ、びくっとする約一名。

 

 秘密の行為を見られてしまった残念な少女は、顔面を真っ青にして振り返った。

 

「エ、エル……買い物に行ったんじゃ……」

 

「財布忘れて戻ってきましたー」

 

「いつから……そこに……」

 

「フッ……とか言って優雅に髪をかき上げながら、過去最高のドヤ顔をキメてるあたりから」

 

「――っ」

 

 その後のグラスワンダーの行動は、驚くほど迅速だった。

 

 銀色のカップを床に置き、部屋の窓を開け、窓際の箪笥に足をかけて身を乗り出す。そして大空に向かって飛び立とうとしたところで、意図を察したエルコンドルパサーが後ろから組みついた。

 

「わ、わーっ!? ちょ、ちょっとグラス、早まらないで!」

 

「は、離して! もう死にます! 死なせて下さい!」

 

「死ぬには微妙な高さだからここ! 多分中途半端に怪我するだけだから! 今よりもっと残念なことになるから!」

 

 そんな具合の揉み合いがしばらく続いた後、自殺紛いの愚行をどうにか思い留まらせたエルコンドルパサーは、大汗をかきながら床にへたり込んだ。

 

 深い溜息をつき、胸を撫で下ろす。

 

 本当に、危ないところだった。自分の反応があと一瞬でも遅ければ、色々な意味で大惨事になっていたに違いない。

 

 何故か勝負服を着た少女が白昼堂々自室の窓から飛び降りる――などという怪事件を生み出さなくてよかったと、心底から思う。

 

「ほ、ほらグラス……落ち着きましょうよ、ね? その……さっき見たことは、誰にも言わないようにしますから……」

 

「……本当に、言わないでいてくれますか?」

 

「え、ええ……」

 

「……絶対、言わないって約束ですよ?」

 

「は、はい……」

 

「誰かに言うようだったら……もう、消すしか……」

 

「わー……不穏なワードがこっそり飛び出してマース……」

 

 すぐ隣で体育座りをしながら睨みつけてくるグラスワンダーを、苦笑しながら宥めるしかないエルコンドルパサーだった。

 

 いつの間にやら自分が悪いかのような雰囲気にされているのは少々納得がいかないが、それを口にすると余計にこじれそうなのでやめておく。

 

 どうにかしてこの気まずさを解消しようと思い、床に置かれたままの銀色のカップに目を向けた。

 

「朝日杯の時の優勝カップ……デスよね? それ……」

 

「……そうですけど、それが何か? 邪魔臭いからどっかにしまっとけよって言いたいんですか?」

 

「もー、機嫌直して下さいってばー。何かキャラ変わってきてますヨー」

 

 あまりの面倒臭さにうんざりしつつ、前々から気になっていたことを口にする。

 

「いやほら……他のレースの優勝カップもあるのに、それだけやたら大事にしてるなー、とか思ったりして……」

 

 グラスワンダーは朝日杯の他に、春秋のグランプリも制している。レースの格で言うならそちらの方が高い。

 

 だが彼女自身は朝日杯の優勝カップに強い思い入れがあるらしく、いつも机の上の棚に飾り、埃が積もらないようこまめに磨いていた。先程鏡の前で抱えていたのも、グランプリではなく朝日杯のカップだった。

 

 疑問に思わずにいられない。

 

 最高の栄誉とは程遠いレースの優勝カップを、どうしてそこまで大事にしているのかと。

 

「特別、ですから……これは」

 

 グラスワンダーは呟き、僅かに表情を変える。

 

「昔……まだアメリカにいた頃に……薔薇のレイを一緒に掴み取ろうって、トレーナーだった人に言われたことがあります」

 

「薔薇のレイって……ケンタッキーダービー……?」

 

「ええ……」

 

 頷くその横顔は、遠く過ぎ去った日々を懐かしんでいるようでありながら、胸を刺す痛みをこらえているようでもあった。

 

「色々あって、私はその人と仲違いして……薔薇のレイを掴み取ることは出来ませんでした。でも……」

 

 銀色のカップを持ち上げる。

 

 日の光を浴びて輝く勝利の証に、深く澄んだ眼差しを注ぐ。

 

「この国に来て……これを手に入れた」

 

 過去を振り切るために故郷を離れ、遠い異国の地で一人戦い続けた少女は、万感の思いを込めてそう言った。

 

「到底釣り合うものじゃないって、人は言うんでしょうけれど……私にとっては、薔薇のレイに負けないくらい価値あるものなんです。日本に来て、一生懸命走って……初めて自分の力で手に入れた、自分自身に誇れる勝利の証ですから」

 

 エルコンドルパサーは悟った。

 

 朝日杯の優勝カップという存在がグラスワンダーの中で持つ、価値と重みを。

 

 レースの格など関係ない。他人の尺度で測れるような話ではない。理屈を抜きにしてその存在は、彼女にとって「勝利」の象徴なのだろう。

 

 誰が何と言おうとも、彼女は信じている。

 

 世界中の人間に否定されようとも、きっと信じ抜く。

 

 幾多の困難を乗り越え、自分の走りを貫き通した末に得た栄冠には、薔薇のレイにも劣らない輝きがあるのだと。

 

 だからこそ、≪怪物≫グラスワンダーは強い。

 

 自分の力を信じ、折れない意思を胸に抱き、分厚い壁を蹴り砕くような脚で未来に向かって駆けていくから――その疾走は、眩しく見える。

 

 誰もが憧れる伝説の名馬にさえ、決して負けないくらいに。

 

「……何ですか、その目は? また気色悪い自分語りしてるなーこのナルシスト、とか言いたげですね」

 

「わー……せっかくいい感じのこと考えてたのに台無しデース……」

 

 

 

 

 

 

 あの時の横顔は、今も鮮明に思い出せる。

 

 胸の内にある想いを語りながら、グラスワンダーは笑っていた。

 

 異国の地で掴み取った小さなカップに、優しい目を向けて。

 

(あのカップは……どこに……?)

 

 十一日前の朝、棚の上から消えているのを確認して以来、あのカップを一度も見ていない。

 

 そしてグラスワンダーは、あのカップの行方について一言も口にしていない。

 

 むしろ、意図的に言及を避けているような――存在自体を忘れ去ろうとしているような節さえあった。

 

 その理由は、何となく分かる。

 

 分かってしまうから、訊きたくても訊けなかった。

 

 あんなに大切にしていた朝日杯のカップを、何処に隠したのかと。

 

(机の中……には入りそうもないし……他に隠す場所なんて……)

 

 今更在処が判明したところで、どうにもならない。現実は何も変わらない。

 

 そう頭で分かっていても、考えずにはいられなかった。

 

 あの小さなカップが持つ意味と、そこに込められた想いの深さを、知っているから。

 

 ――いや、それだけではない。

 

 あれは、自分にとっても大切な物なのだ。

 

 何処かに隠したままにはしてほしくないし、初めからこの世に存在しなかったようにされるのは嫌だ。

 

 三年前の冬。栗色の髪の≪怪物≫が、世代の頂点を決めるレースを制した日。

 

 歓喜の渦に包まれた表彰式の中で、自分は――

 

「おら情けねえぞ! ちったぁ根性見せろやボケがぁ!」

 

 耳朶を打つ、激しい怒鳴り声。

 

 驚いて立ち止まったエルコンドルパサーは、直後に気付く。

 

 自分が走っていた道路のすぐ隣――土手の下に広がる河川敷に、五人の女の姿があることに。

 

 顔を確認せずとも、一目で分かった。五人全員が並外れた巨躯の持ち主なので、見間違えようがない。

 

 河川敷に集っているのは、自分達の特訓に協力してくれていた重種馬の面々だ。

 

「てめえ何だその体たらくは! そんなんだからアメリカのチビなんかに負けんだよマヌケッ!」

 

「うっせえな! あたしゃお前より四つ上だぞ! 齢考えろよ齢! つーかあのチビ、マジで強かったんだよ!」

 

「ヨウさん! あんたもへばってる場合じゃねえぞ! 昔はその倍くらい平気でこなしてただろうが!」

 

「誰もへばっちゃいねえよ! お前みてえなだらしねえ中年太りと一緒にすんな! 今でもこのくらい……どうってこたぁねえ!」

 

 彼女達が何をしているのかは、誤解の余地がないほど明らかだった。

 

 身体を鍛えているのだ。

 

 腕立て伏せをする者、スクワットをする者、特大のタイヤを曳いて走り回る者――やっていることは各々で違うが、己の肉体に負荷をかけているという点では同じだった。

 

 その光景に、エルコンドルパサーは立ち止まったまま呆然と見入る。

 

 五人の重種馬がこんな場所で特訓をしているなど全く聞いていなかったし、想像もしていなかった。

 

「おーし! 五分だけ休憩にすんぞ! それが終わったら――」

 

 声を張り上げたリーダー格のイレネーが、はっとした顔で言葉を切る。

 

 そのまま土手の上を見上げ、そこにいたエルコンドルパサーと目が合うと、彼女は気恥ずかしそうに苦笑した。

 

「……見られちまったか」

 

 

 

 

 

 

 何やら見てはいけないものを見てしまったようだが、向こうに気付かれた以上は黙って立ち去るわけにもいかない。

 

 そう思ったエルコンドルパサーは、土手を下って休憩中の五人に歩み寄った。

 

「ランニングの最中かい? 邪魔しちまったね」

 

 水分補給をしながら、イレネーが言う。

 

 長時間に渡って激しい運動をしていたことが、その身を伝う汗の量から覗えた。

 

「小っ恥ずかしいから見られたくなかったんだけどさ……まさかあんたが、こんなとこ通りかかるとは思わなかったよ」

 

「いつもやってるんですか……? こういうこと……」

 

「あんたらの合宿が始まるちょっと前からだよ。今度のワールドカップに出る子達を連れてくるから特訓に協力してほしいって、リコの奴に頼まれてから……年甲斐もなくやる気に火がついちまってね。あたしら自身も鍛え直すかってことで、暇がある時に集まってアホみてえな特訓するようになったのさ」

 

 その言い方がおかしかったのか、他の四人は吹き出すように笑った。

 

「アホみたいって言うなよ。これでも真面目に鍛えてんだぜ、こっちは」

 

「つーか言い出しっぺはお前じゃねえかよ。何アホらしいことに仕方なく付き合ってるみたいなツラして気取ってんだ、アホ」

 

 ほんの一分前まで罵声をぶつけ合いながら身体を苛め抜いていた彼女達だが、今その表情は晴れやかで、疲労を感じさせないほど生き生きとしていた。

 

 イレネーの説明に付け足すように、芦毛の大女が口を開く。

 

「まあ正直……引退してから全然鍛えてなかったし、もう若いなんて言えない齢だからね。ちっとはこういうことやっとかないと身体が動かないのさ」

 

 その発言は、エルコンドルパサーに気付かせた。

 

 自分達より遥かに屈強に見えた五人の重種馬が、見えないところで積み重ねていた苦労を。

 

「……つっても、あと三日で御役御免なんだけどね」

 

「馬鹿。三日しかないじゃなくって、三日もあるって考えろよ」

 

「そうそう。とっくの昔に競馬辞めてたあたしらが、これから世界を目指そうって子達と関われるんだ。一日だって十分すぎるくらいさ」

 

 時に指導者として、時に対戦相手として、合宿初日から惜しみない協力をしてくれていた五人。

 

 自分達とは親子ほども年齢が離れた、ばんえい競馬の猛者達。

 

 楽しそうに談笑するその姿を見ながら、エルコンドルパサーは思う。

 

 自分達が、強くなるために必死だったのと同様に――

 

 いや、ある意味ではそれ以上に――

 

 彼女達は、無理をしていたのだ。

 

 考えてみれば、当然だろう。いかに屈強な重種馬とはいえ、彼女達五人はもう衰えを隠せない年齢だ。

 

 若く体力に溢れた自分達の相手を務めるのは、楽ではなかったに違いない。

 

 それに、彼女達は立派な大人だ。

 

 各々に仕事があり、家庭があり、生活がある。時間をいくらでも使えるほど暇なわけがない。

 

 にもかかわらず無理に時間を作り、何日も特訓に付き合ってくれていたのだ。全盛期の強さを少しでも取り戻すために、己を鍛え直しながら。

 

 半端な気持ちでは到底出来ないことだ。

 

 彼女達の笑顔の裏側には、どれほどの苦痛と苦労が隠されているのだろうか。

 

「……どうして」

 

 胸の内で生じた疑問を、五人に投げかける。

 

「どうして……そこまでしてくれるんですか……? 私達のために……」

 

 会話がぴたりと止まった。

 

 鳩が豆鉄砲を食ったような顔を並べ、呼吸さえ止めて固まる五人。驚きと戸惑いを含んだ五つの眼差しが、赤いマスクの少女へと注がれる。

 

 それから数秒後、一人の顔が綻び――

 

「……ぷっ」

 

 おかしそうに、笑い声を上げた。

 

「くくく……くははははっ!」

 

「ぷははははははははっ!」

 

「あははははははははっ!」

 

「ひゃははははははははっ!」

 

 他の四人も、何故か連鎖的に笑い出す。

 

 思いがけないその反応に、エルコンドルパサーは面食らった。

 

「え……?」

 

 自分は何か、おかしなことを言っただろうか。

 

 彼女達が無理をしてまで特訓に付き合ってくれる理由が気になったから、それをそのまま伝えただけなのだが。

 

「いや、悪い悪い……真面目な話なのに笑って悪かった。……けど何だか、言われてみたらおかしくってさ……」

 

 栃栗毛の大女がそう言うと、他の面々は同感だと言いたげな顔になり、自身の気持ちを素直に明かした。

 

「あんたらのためっちゃ、あんたらのためだけど……何つーかな…………あたしら自身に、あんまりそういう意識はなかったんだ」

 

「リコに頼まれたから嫌々やってるわけじゃないよ。義務やら責任やらいう堅っ苦しい話でもない。あたしらが好きでやってんのさ。今のこれは」

 

「そりゃかったるくないっつったら嘘になるし、色々大変だけどね……それ以上に、楽しくてたまらないんだよ。若い頃に戻ったみたいにね」

 

 決して楽ではない役目を、誰もが前向きに捉えている様子だった。

 

 その言葉に嘘がないことは、表情を見れば分かる。

 

 本当に、少女の頃に戻ったかのような――若々しい活力に満ちた表情が、とうの昔に現役を退いた重種馬達の顔に浮かんでいた。

 

「昔は……」

 

 イレネーが、微笑んだまま呟く。

 

「若い頃は、大っ嫌いだったんだ。あんたらの……中央の競馬がさ」

 

「え……」

 

「ちっこくって、細くって……ちっとばかし脚が速えだけのクソチビのくせに、世間からちやほやされて、高い金貰いやがってってね…………今思えばダセえ話だけど、妬いてたんだよ。あんた達、中央のエリートに」

 

 若き日の屈折した感情を明かしながら、ばんえい競馬の猛者は当時を振り返る。

 

「だから暇さえありゃ、みんなでぐちぐち言ってたよ。あいつらばっか優遇されてんのはおかしい、世の中間違ってる、同じような生き物なのに何であたしらはとか……そんな、くっだらねえことをね」

 

 ばんえい競馬と中央競馬の違いは、競技の内容だけではない。

 

 世間からの注目度、レースで得られる賞金の額、引退後の待遇――ありとあらゆる面で、両者の間には雲泥の差がある。

 

 今も昔も、ばんえい競馬の競走馬が置かれた状況は厳しく、イレネー達のような活躍馬でさえ実績に見合うだけのものを得られていないのが実情だ。

 

 そのことに不満を募らせていたという当時の彼女達の心情は、エルコンドルパサーにも十分に察せられた。

 

「だけど、何でかな……きっかけなんて忘れちまったけどさ、いつからかテレビで競馬中継を観るようになったんだよ。つっても最初は文句ばっかでね。何でそこで差せねえんだよクソとか、中央の奴らは根性足りねえなぁとか、馬鹿面並べて好き放題言ってたよ」

 

 自嘲しつつ、懐古の思いを声に乗せる。

 

「でも……ずっと観てる内に、それが変わった。気が付いたら文句言うのも忘れてレースに見入っちまってたよ。金賭けてるわけでもねえのに、馬鹿みてえに興奮してさ……挙句の果てには、次は誰が勝つかだのどっちの方が強えかだので揉めて、死ぬほど馬鹿馬鹿しい喧嘩までしちまった」

 

 劇的な転機があったわけではない。

 

 週末が来る度テレビの前に座り込み、年若いサラブレッド達が競馬場で走る姿を画面越しに観続けた。言ってしまえばただそれだけのこと。

 

 ただそれだけのことが、彼女達の価値観を変えた。

 

「そんなことがあって、ようやく分かったんだ。……あたしらは、こいつらの走りに夢中になっちまったんだなって」

 

 大嫌いだった筈のものに、いつしか魅せられていた。

 

 怒りも妬みも忘れ去り、代わりに熱い感情が滾ってやまないほど、ターフの上で繰り広げられる戦いを凝視していた。

 

 それを自覚した時の不思議な感慨は、数年を経た今も忘れられない。

 

「それからはひねくれた見方すんのはやめて、それぞれで気に入った子を見つけてったりしたけど……あたしが一番衝撃を受けたのは、あいつの走りを目の当たりにした時だったね」

 

「あいつ……?」

 

「≪怪物≫グラスワンダー」

 

 イレネーの口は、静かにその名を紡いだ。

 

「初めてちゃんと観たのは、朝日杯ってレースの時でさ……正直言って、それまで自分の中にあった何かがぶっ壊されたような気分だったよ。こんな走りがこの世にあるのかって思って、画面から目が離せなくなった」

 

 かつてテレビ画面越しに観た光景を思い返しながら、その瞬間に胸の内を満たしていた想いを言葉にする。

 

「無茶苦茶で、出鱈目だけど……信じられないくらい強くて……かっこよかった」

 

 エルコンドルパサーは目を瞠り、隣に立つイレネーの顔を仰ぎ見た。

 

 優しい声音で紡がれた言葉と、遥か遠くにある眩しいものを追うような眼差しから、全てを理解する。

 

 三年前の冬、海の彼方からやってきた少女が大観衆の前で見せつけた、大地を蹴り砕く灼熱の剛脚。

 

 それを忘れられないでいたのは、自分一人だけではなかった。

 

 この女もまた、あの走りに強く惹かれ、脳裏に深く刻みつけていたのだ。

 

 どれだけ時が経とうと色褪せない、黄金色の記憶として。

 

「……何かあって、思うように走れなくなってんだろ? あいつ」

 

 少し間を置いてから、イレネーはこの場にいない少女の事情に踏み込んだ。

 

「下手に口出しちゃいけない問題かと思ったけど……やっぱり、そうも言ってらんないね。このままだと、あの子はきっと駄目になる」

 

 未来を見通したかのように断言し、エルコンドルパサーと視線を合わせる。

 

 迷いを振り払った真摯な意思が、その瞳の奥にあった。

 

「押してやってくれないかい? あのちっこい背中を」

 

「え……」

 

「事情を知らないあたしから見ても、今のあの子には何かが欠けてるんだって分かる。それがどういうものかは、上手く言葉に出来ないけどさ……でも、胸の中にそれがないから、今は前に進めずにいるんだ」

 

≪怪物≫グラスワンダーの無二の親友を見据え、自らの願いを託すつもりで告げる。

 

「だから、あんたの手で背中を押してやってほしいんだ。あの子がもう一度前に進んで、失くしちまった何かを取り戻せるように。……多分本人も、心の底ではそれを望んでると思うからさ」

 

 今のグラスワンダーに欠けているもの。かつては持っていたのに、何処かで失くしてしまった大切な何か。

 

 その正体が、エルコンドルパサーには分かる気がした。

 

 ――そう、分かっていた。本当は、ずっと前から分かっていたのだ。

 

 今のグラスワンダーに何が必要なのかも。彼女が何を望んでいるのかも。自分が何をするべきなのかも。

 

 どうして迷っていたのだろうと心底から思い、自分自身の愚かさに呆れ返る。

 

 一歩も前に進めていなかったのは、自分も同じだ。

 

 あれこれと余計なことばかり考えて、真に重要なことから目を逸らしていた。親友の気持ちと自分の気持ちに、本気で向き合っていなかった。

 

 もう終わりにしよう。

 

 いつまでも同じ場所で足踏みしていてはいけない。覚悟を決め、勇気を振り絞り、自分達は踏み出さなければいけないのだ。

 

 過酷な道程の先にある、輝く未来に向かって。

 

「……行ってきます。グラスのところに」

 

 胸に決意を抱き、身を翻す。

 

 そして、一歩――足踏みしていた日々から脱するため、一歩前へと踏み出した。

 

「ワールドカップ、観ていて下さい。イレネーさん」

 

 進むべき道を示してくれた恩人に、背を向けたまま告げる。

 

「必ず、優勝しますから。――私達、五人の力で」

 

 多くを語らずとも、それだけで十分だった。

 

 短い宣言の中に込められた意思を汲み取り、イレネーはにやりと笑う。

 

「言われなくてもそのつもりさ。あたしが多分、世界の誰よりも観たがってんだ。あんた達が世界一になる瞬間をね」

 

 エルコンドルパサーは地面を蹴り、土手を全力で駆け上がっていった。

 

 

 

 

 

 

 晴れていた空を厚い雲が覆い始めた、午後三時。

 

 マルゼンスキーとの話し合いを終えたグラスワンダーは、一人で旅館に戻っていた。

 

 階段を上って二階の廊下を横切り、突き当たりにある客室の戸を開ける。まだ皆が練習に励んでいる時間なため、室内には誰もいなかった。

 

 半日の休養を与えられた時は正直戸惑ったが、結果的には助かったと思う。

 

 誰にも見られずに、過去との決別を済ませることが出来るのだから。

 

 奇妙な安堵を覚えたまま部屋の奥へと歩を進め、壁際に置いていた自分の荷物の前で膝を折る。

 

 そしてチャックを開け、中に手を差し込み、長方形の紙箱を取り出した。

 

「何で、持ってきたんだろ…………こんなの……」

 

 自嘲気味に呟き、力なく笑う。僅かに躊躇してから箱を開けると、小さな銀色のカップが白日の下に現れた。

 

 三年前、朝日杯を制した時に授与された優勝カップ。

 

 他の何よりも大切にしていた、かけがえのない宝物。

 

 薔薇のレイにも負けない輝きを持つと信じた、誇らしい思い出の品。

 

 それを今、両手で抱え上げ――悲しみと諦めを湛えた目で見つめる。

 

 長年連れ添った伴侶に、永遠の別れを告げるように。

 

「さようなら……今日までの、愚かな私……」

 

 グラスワンダーは、現実を受け入れた。

 

 故郷に帰ってやり直すため、これまでの自分を葬り去ることを決めたのだ。

 

 

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