ウマ娘 Big Red Story   作:堤明文

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第十二話「憧れの人」

 

 

「必ず止めるわ。どんな手を使ってでも」

 

 十一日前。校舎裏に建つ慰霊碑の前で、東条ハナはそう言った。

 

 グラスワンダーの名を慰霊碑には刻ませない。かつて教え子を失った時と同じ過ちは繰り返さない。

 

 そう胸に誓いながら、冷徹に言い放ったのだ。

 

「そうですか。なら……」

 

 師と向き合っていたマルゼンスキーは、その言葉を重く受け止め、熟考の末に一つの提案をした。

 

「その役目、私に任せてもらえませんか?」

 

「……どういう意味?」

 

 ハナは眉をひそめる。マルゼンスキーは表情を和らげ、普段と何ら変わらない微笑みを浮かべた。

 

「要は、グラスに諦めさせればいいんでしょう? もう一度大舞台に立つことも、頂点を目指すことも諦めて……競走生活の終わりを素直に受け入れられるようになれば、それで文句はないんですよね?」

 

「それは……そうだけれど…………どうするつもり?」

 

「大したことはしません。ただ出来るだけグラスの傍にいて、あの子を支える役として振舞うだけです。そして、この先……壁にぶつかって思い悩む時が来たら、そっと導いてあげればいい。壁になんてぶつからなくても歩いていける道に」

 

 何の障害もなく歩める道――安易な代わりに平坦で、どこまで行っても何も得られず、何者にもなれない虚無の未来。

 

 自らの手で後輩をそこに導くと、マルゼンスキーは言った。

 

「私これでも、あの子のことは気に入ってるんです。事故死なんてさせたくないのは勿論ですけど、それと同じくらい、辛い思いもさせたくないと思っています。遠からず終わりが訪れるなら……その終わり方は、あの子自身が納得出来るものであってほしい」

 

 夢を諦めることの辛さを、彼女は知っていた。

 

 だからこそ、自分とよく似た後輩が歩む競技人生の果てには、苦痛のない結末があることを願ったのだ。

 

「私が寄り添うことで、与えてみせます。あの子の心に傷を残さない……優しい終わりを」

 

 

 

 

 

 

 競技場に戻ったマルゼンスキーは、後輩達が各々の練習に励む光景を眺めながら、密かに思い返していた。

 

 十一日前の校舎裏での会話から、今日に至るまでの日々を。

 

(あの時考えていたのとは、少し違う流れになったけれど……)

 

 大切な後輩の顔を思い浮かべ、内心で呟く。

 

(概ね予定通り……と言っていいかしらね。乱暴な手を使わずに、あの走法を捨てさせることが出来たんだもの……)

 

 シアトルスルーとの関係とアメリカへの帰国の話を聞いた時は、流石に驚いた。

 

 だが、同時に思った。好都合だ、と。

 

 元々、後輩を引退に追いやること自体が目的だったわけではない。事故死の危険が伴う走法を二度と使わないことを本人が受け入れられるようになれば、それでよかったのだ。

 

 シアトルスルーが指導者になってくれるなら、その点は心配ない。

 

 合理性を何より重んじる無敗の三冠馬は、非合理な走法などに頼らない本当の強さをグラスワンダーに与えてくれるだろう。

 

 そう思ったから、背中を押した。相談に乗り、アメリカに帰ることを勧めた。

 

 本人は大分戸惑った様子だったが、最後には神妙な面持ちで首を縦に振ってくれた。

 

 全ては上手くいった。

 

 自分は、自分のやるべきことをやり遂げたのだ。

 

「マルゼンスキー」

 

 名を呼びながら近寄ってきたのは、シンボリルドルフだった。

 

「先程グラスワンダーと話し込んでいたようだが……何かあったのか?」

 

「個人的な話よ。ちょっとした相談に乗ってただけ」

 

 まだ語るべき時ではないと考え、答えをはぐらかす。

 

 グラスワンダーの帰国が正式に決まるまでの間は、無用な騒ぎを起こしたくなかった。

 

「私の口からはこれ以上話せないわ。どうしても内容が知りたかったら、本人に訊いて」

 

「……そうか」

 

 シンボルドルフは腑に落ちない様子だったが、それ以上の詮索はしなかった。

 

 代わりに、全く別のことを口にする。

 

「話は変わるが、バックパサーを見なかったか?」

 

「……? 見てないけど、どうかしたの?」

 

「少し前から姿が見えないらしい。……彼女はそういうことも時々あるから気にしなくていいと、向こうの監督は言っていたが」

 

 勝手に練習を抜け出したということだろうか。

 

 奔放な人物だとは聞いていたが、そこまで非常識な振る舞いをするとは――と驚く一方で、マルゼンスキーは妙な胸騒ぎを覚えた。

 

 何か、自分にとって好ましくないことが起きるかもしれない。

 

 根拠はないが、そんな気がしてならなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 息を切らしながら客室の戸を開け、中に踏み入ったエルコンドルパサーは、直後に愕然となった。

 

 グラスワンダーの姿が、室内にない。

 

 イレネー達と別れた後、代表チームの仲間達がいる競技場に一旦戻り、グラスワンダーが一人で宿に戻ったと聞いて急いで後を追ったのだが――どういうわけか、寝泊りしている部屋の中まで来ても彼女と会うことは出来なかった。

 

(ここにはいない…………なら、どこに……?)

 

 民宿と大差ない小さな旅館だ。この部屋以外にグラスワンダーがいそうな場所は、建物内にない。

 

 気付かない内に彼女を追い越し、先に着いてしまったのだろうか。

 

 いや、その可能性は低い。競技場を出た時間を考えれば、彼女の方が先に着いていて当然の筈だ。

 

 どこかで寄り道でもしているのか、それとも――

 

「あいつなら、ついさっき出てったぜ」

 

 背後から声。驚いて振り返ると、部屋の入口にバックパサーが立っていた。

 

 何故ここにいるのかと疑問に思うエルコンドルパサーだったが、続けて放たれた言葉がその疑問を吹き飛ばす。

 

「最近調子が出ねえのを気にしてたのか、シアの奴に何か言われたのか……知らねえが、相当まいってたらしいな。死ぬほど冴えねえ面したまま宿の外に出てったぜ。ちっこい銀色のカップ持ってな」

 

 銀色のカップ。

 

 この状況でグラスワンダーが手にしていたとなれば、心当たりは一つしかない。

 

 親友の内面にあった苦悩と、それに衝き動かされた末に取る行動が容易に想像出来てしまい、胸がざわついた。

 

「まあ多分、何かつまんねえことする気なんだろうよ。あの手のクソ真面目な奴は下手に思い詰めると――」

 

「うるさいっ!」

 

 冷やかすような口振りに憤り、エルコンドルパサーは声を荒らげた。

 

 敵意を露わにした眼差しで、バックパサーを睨む。

 

「何も知らないあんたが……グラスのことを、好き勝手に言うな!」

 

 交わる視線。

 

 向けられた敵意を静かに受け止め、バックパサーは呟く。

 

「……んな場合じゃねえだろうが、今は」

 

「え……?」

 

「ついさっき、って言ったろ? あいつが出てってからまだそんなに経っちゃいねえよ。のっそり歩いてやがったしな。急いで捜せば、多分まだ間に合う」

 

 鋭く細められた両眼が、エルコンドルパサーを睨み返す。

 

「こんなとこであたしに噛みついてねえで、さっさと行けよ」

 

 その表情は、真剣だった。

 

 軽薄な嘲りなど一片も含まれていない。余分なものを全て削ぎ落とし、揺るぎない意思だけを残した鋼の表情が、奔放に生きる女の顔に刻まれていた。

 

 硬く澄んだ声音で、彼女は繰り返す。

 

「行け」

 

「――っ」

 

 エルコンドルパサーは動いた。

 

 バックパサーの脇を通り、短い廊下を瞬時に駆け抜け、階段を駆け下り玄関へと向かう。

 

 悔しいが、バックパサーの言う通りだった。

 

 今は口論している場合ではない。一秒でも早く、どこかに行ってしまったグラスワンダーを見つけなければいけないのだ。

 

 大切な何かを、失くしたままで終わらせないために。

 

 

 

 

 

 

 セクレタリアト。

 

 アメリカ競馬史上九人目の三冠馬。

 

 偉大なるマンノウォーから最強の称号を受け継いだ、第二の≪ビッグレッド≫。

 

 競馬の常識を根底から覆すようなその強さは、海を越えて世界中に知れ渡り、生きながらにして伝説となった。

 

 多くの人々の記憶に刻まれた名馬であり、誰もが認める最強馬。その背中を追いかけて競馬の世界に踏み入った者は数知れず、誰もその背中に追いつけないが故に、不滅の伝説として輝き続ける。

 

 そんな存在に、憧れた。

 

 燃え立つ炎のような髪色の少女が後続を引き離し、栄光のゴールを駆け抜ける瞬間を目にした時から――あの姿が、自分の中の理想像となった。

 

 いつか彼女のようになりたいと思い、寝る間も惜しんで身体を鍛えた。

 

 彼女のように速く走りたいと願い、記憶を頼りにその走りを真似した。

 

 憧れの≪ビッグレッド≫の背中に追いつく未来の自分を夢見て、希望に胸を膨らませた。

 

 けれど、本当は気付いていた。

 

 壮大な夢を描く一方で、心のどこかに潜む冷静な自分は、現実を知っていた。

 

 ――なれるわけがない。

 

 人々から≪ビッグレッド≫と呼ばれる存在になれたのは、歴史上二人だけ。優れた資質を持つ天才は他にも大勢いたが、その誰もが最強馬の域には届かなかった。

 

 数千人や数万人に一人、などという次元の話ではない。

 

 世界規模で見ても数十年に一人しか現れないような、奇跡に等しい才能を持って生まれた者だけが、≪ビッグレッド≫の名を継ぐ資格を得られるのだ。

 

 自分がそれである可能性は、限りなくゼロに近い。いや、ゼロと断定しても何ら問題ない。

 

 いくら幼い子供でも、そんな簡単な理屈さえ分からないほど無知ではなかった。

 

 だから――最初から、口先だけの絵空事だったのかもしれない。

 

 誰よりも強い≪ビッグレッド≫になりたいという、愚かな夢は。

 

 

 

 

 

 

 雨が降ってきた。

 

 鈍色の空の下。徐々に濡れていく街の中を、グラスワンダーは静かな足取りで進む。

 

 その手に銀色のカップを携えたまま、「事」をなすのにふさわしい場所を求めて。

 

「戻らないと……早く……」

 

 自分自身に向け、細い声で呟く。

 

「早く……終わらせて……戻らないと……」

 

 今はまだ小雨だが、これから雨脚が強まりそうだ。早く宿に戻らないと風邪をひきかねないし、自分が宿にいないことが皆に知れたら心配をかけてしまう。

 

 だからさっさと目的を遂げるため、歩みを速めなければいけないと思うのだが――自分のものではないかのように重い脚は、なかなか前に進んでくれなかった。

 

 自分自身の愚かさに、つくづく呆れ返る。

 

 過去の栄光を捨てる決意を固めたつもりだったのに、この有様だ。本心では捨てたくなくてたまらないのだろう。

 

 海を渡った先で勝ち取った、小さな栄光。

 

 自分にとってそれは、誇らしい勝利の証であり、薔薇のレイにも等しいものだったから。

 

「こんな…………こんな物……」

 

 手に持つカップに目を落とし、奥歯を噛む。

 

 こんな物を合宿に持ち込んでしまった理由は、自分でもよく分からない。

 

 衝動的、と言うべきだろうか。何故だかそうしなければいけないような気がして、衣類などと一緒に荷物の中に詰め込んでしまったのだ。

 

 もう二度と、このカップを手に取らない――そう決めたばかりだったのに。

 

「……」

 

 あの模擬レースの後、このカップを見るのが嫌になり、棚の上に飾るのをやめて見えないところに隠した。

 

 いつか寮を出ていく日まで、そのままにしておくつもりだった。

 

 それがどういうわけか、ワールドカップの日本代表に選ばれて北海道へ合宿に行くことになり、戸惑いながら荷物を用意している内に、このカップを手に取ってしまったのだ。

 

 傍から見れば、訳が分からない行動だろう。自分でも訳が分からないし、論理的な説明など全く出来ない。

 

 それでもあえて、自分なりの理屈を探すならば――

 

(お守り……だったのかな……)

 

 このカップには、不思議な何かが宿っている。それが挫折しかけた自分を立ち上がらせ、再び前に進む力を与え、明るい未来へと導いてくれる。

 

 そんな信仰心めいた考えが、頭の片隅にあったのかもしれない。

 

 だとすれば、本当に愚かしい。恥ずかしくなるほど夢想的で、自嘲する気力さえ湧いてこない。

 

 これは、ただの物体だ。杯の形をした金属の塊でしかなく、不思議な何かなど宿っていない。持ち主の運命を変える力などありはしない。

 

 その証拠に、自分は一歩も前に進めなかった。

 

 懸命に努力しても、血反吐を吐くような思いで走り続けても、ただ時間が無為に流れ去っていくばかりで、砂粒ほどの成果も得られなかった。

 

 こんな物があろうがなかろうが、何も変わりはしないのだ。

 

(……終わらせないと、いけない)

 

 降り注ぐ雨粒に打たれながら、カップを握る手に力を込める。

 

 自分は薔薇のレイを得られなかった。その挫折から目を逸らすため、異国の地で得た小さなカップを代替品にして、自分を慰めていた。

 

 結局のところ、それだけの話なのだろう。

 

 甘い妄想の中に逃避する日々は、もう終わらせなければならない。これからは現実と向き合い、地に足をつけて生きていかなければならないのだ。

 

 幼い頃に見た「憧れの人」の背中は、自分の手が届くような場所にはないのだから。

 

(私は…………≪ビッグレッド≫じゃない……)

 

 鏡を見れば分かることだ。

 

 自分はグラスワンダー。世界的には無名に近い、小さな島国の競走馬。

 

 顔立ちや体格はおろか、身に纏う気配さえも、アメリカ競馬史に燦然と輝く最強馬とは少しも似ていない。

 

 それを認めたくなくて、いつか必ず≪ビッグレッド≫のようになるのだと一人で意地を張り続けてきたが――正直に言って、もう疲れた。

 

 終わらせてしまおう。今、ここで。

 

 最早変えられない結論を頭の中で復唱し、グラスワンダーは立ち止まった。

 

 当て所なく歩き続けた末に行き着いた場所は、川に架かった橋の下。川岸から突き出た太い橋脚の手前だった。

 

 総身に緊張が走り、鼓動が早まる。

 

 目の前に立つコンクリートの柱に自分の腕力で思いきりカップを叩きつければ、どうなるかは明白だ。きっと無惨に潰れ、醜く無価値なガラクタに成り果てるだろう。

 

 それが、新たな道へと踏み出すために必要な行為。

 

 長い苦悩の果てに導き出した、愚かな夢の終わらせ方だった。

 

「……っ……くっ……」

 

 呻きつつ、右腕を振り上げる。小さなカップが異様に重く感じられ、頭上に持っていくまでに何秒もかかった。

 

 記憶が蘇る。

 

 初めてこのカップを手にした時は、嬉しかった。

 

 子供の頃から目の前に立ち塞がっていた分厚い壁を打ち破り、その先に広がる世界に踏み入ったような気がして、目の端に涙が浮かんだ。

 

 あの時の気持ちは、何年経っても忘れられない。

 

 忘れられるわけがない。

 

「……っ」

 

 考えるなと、自らに命じる。

 

 思い出に浸ってはいけない。このカップは、今ここで叩き潰さなければならない。

 

 下らないこだわりを捨て、故郷に戻って一からやり直すために、過去の自分を葬らなくてはならないのだ。

 

 だから、余計なことは考えるな。

 

 心を殺し、未練を断ち切り、この腕を振り下ろせ。

 

「――――あああああっ!」

 

 吼えるように叫び、右腕を振り下ろそうとした瞬間。

 

 後ろから伸びた誰かの手に、手首を掴まれた。

 

 驚いて振り返り、息を呑む。

 

 いつの間にか背後に立ち、こちらの手首を掴んで止めていたのは、赤いマスクの少女。

 

 長い月日を共に過ごしてきた、無二の親友だった。

 

「……間に合った」

 

 雨に濡れた姿で肩を上下させながら、エルコンドルパサーはそう言った。

 

 

 

 

 

 

「エル……」

 

 グラスワンダーは、親友の名を呼ぶ。

 

 突然のことで頭の中が真っ白になり、続く言葉が上手く出てこなかった。

 

「捜しましたよ…………結構、本気で……あちこち走り回って……」

 

 エルコンドルパサーの疲弊した顔が、微かに綻ぶ。

 

「でも……よかった…………間に合って……」

 

 取り返しのつかない行為を寸前で阻止出来たという安堵の思いが、その顔に表れていた。

 

 グラスワンダーには分からない。

 

 何故エルコンドルパサーが今ここにいるのかも。何故自分の邪魔をするのかも。

 

 何もかもが分からず、夢でも見ているのかと疑うほど困惑した。

 

「どうして……エルが、ここに……?」

 

「……聞いたんです。あの夜の……シアトルスルーとの会話を……」

 

 声を震わせながらの問いに、エルコンドルパサーは真剣な顔に戻って答える。

 

「盗み聞きするつもりは、なかったんですけど……ごめんなさい。あの時、たまたま私もあの近くにいて……話、聞いちゃいました……」

 

 告げられた事実に衝撃を受け、グラスワンダーの心臓が跳ね上がる。

 

 あの夜のやりとりを誰かに聞かれていたとは、今まで思ってもみなかった。

 

「…………それで……何しに来たんですか……?」

 

 両眼を鋭く尖らせ、親友を睨む。

 

「何のつもりで……今、私の手を……」

 

「……壊すつもりなんでしょう? それ」

 

 言葉を被せてから、エルコンドルパサーは強い眼差しをグラスワンダーに向け、自身の全てをぶつけるように言い放った。

 

「やめて」

 

 雨の中、決意を込めた声が響く。

 

「考え直して、グラス。このカップを……グラスの誇りだったものを、壊したりしないで」

 

 グラスワンダーは驚き、瞠目する。

 

 考え直せと言われたこと自体にではなく、その発言から感じ取れた意思の強さに。

 

 エルコンドルパサーとは長い間同じ部屋で暮らし、多くの言葉を交わしてきたが――これほどまでに決然と物を言われたのは、初めてのことだった。

 

 どうしたらいいか分からず、目を逸らす。

 

 そして十秒以上押し黙った後、苦い顔で呟いた。

 

「……関係ないでしょう」

 

 絞り出した声に、苛立ちと反発が滲む。

 

「これは……私の物です。どう扱ったって、私の勝手でしょう? エルには、何も関係ない」

 

「関係なくない」

 

 手首を掴んだまま、エルコンドルパサーは即答する。

 

「グラスの走りを、ずっとこの目で見てきた。グラスがこれをどれだけ大切にしてきたか……私は知ってる。薔薇のレイにも負けない価値があるって言った時のことを憶えてる」

 

 共に過ごした日々を振り返りながら、いつしか胸の内に生じていた譲れない想いを、言葉にして伝える。

 

「私にとっても、これは大切な物。壊させなんかしない。絶対に」

 

「……っ」

 

 その時グラスワンダーが覚えた感情は、何と呼ぶべきものだったのか。

 

 答えは本人にも分からない。

 

 ただ一つ言えるのは、それが受け入れ難いものだったことだ。

 

 受け入れてしまえば、決心が揺らぐ。悩み抜いた末に選んだ筈の道を、胸を張って歩めなくなってしまう。

 

 それだけは、嫌だ。

 

 ここまで来て今更、そんな馬鹿なことがあっていいわけがない。

 

「……手を、離して」

 

「離さない」

 

「いいから――離してよっ!」

 

 強引に振りほどこうとして、気付いた。

 

 こちらの手首を掴む腕に込められた力が、思っていたより何十倍も強かったことに。

 

「ぐっ……!」

 

 信じられない。

 

 筋力なら自分の方が数段上の筈だ。エルコンドルパサーがどれだけ力を込めようとも、その気になれば苦もなく振りほどける筈だ。

 

 だというのに、振りほどけない。鉄の拘束具によって固定されたかのように、カップを握る右腕が全く動かせない。

 

 それが、どうしてなのか――理解出来ない。

 

「いらないなら…………壊すくらいなら、私が貰う」

 

 肉体と精神に宿る力の全てを腕一本に注ぎ込み、グラスワンダーの剛力に抗いながら、エルコンドルパサーは言う。

 

「私が持って帰って、大切に保管する。絶対に……誰にも、このカップを傷つけさせない」

 

 誓いを立てるように、心の奥底から出た言葉をぶつける。

 

「グラス自身がこれの価値を否定しても、私は否定しない。これが特別な物だってことを……グラスが自分自身に誇れた勝利の証だってことを、死んでも忘れない」

 

 過去を捨て去ろうとする者と、それを阻止しようとする者。

 

 相反する二つの意思が衝突し、鬩ぎ合う。

 

 そしてその衝突は、既に傷だらけだったグラスワンダーの内面を瓦解させ、最も深いところに溜まっていたものを溢れ出させた。

 

 溶岩のように煮え滾る、黒い感情を。

 

「お前らが……」

 

 俯いていた顔を上げ、血走った目を親友に向ける。

 

「お前らが、間違いだって言うから……私がやってきたことは、最初から何もかも間違いだから……素直にそれを認めて、つまらない意地は捨てろって言うから……みんなで口を揃えて、馬鹿な夢は諦めろって言うから……! だから諦めることにしたんだ! お前らの言う通りにしてやったんだ! 悪いかッ!?」

 

 誰も認めてはくれなかった。

 

≪ビッグレッド≫への憧れが生んだ自分の走りは、周囲にいた者の全てから「悪癖」と見なされ、否定され続けてきた。

 

 嘲笑や罵倒が耳に入る度、心が軋んだ。

 

 走り続ける限りついて回る、辛辣な声の一つ一つに、自分を支えていたものを削り取られてきた。

 

 結果を出せばそれが変わると信じた時期もあったが、無駄だった。

 

 何も変わらなかった。

 

 あの模擬レースで一着になった後も、異国の地でGⅠのタイトルを手にした後も、自分の運命は何一つ変わらなかったのだ。

 

「今まで通りに続けるのも駄目! 何もかも捨てて一からやり直すのも駄目! ――じゃあどうすればいい!? どうしたら納得してくれるの!? 私が何をどうしたら、好き勝手にごちゃごちゃ言うのをやめてくれるの!? ねえ!?」

 

 空いていた左手でエルコンドルパサーの胸倉を掴み、自分の前に引き寄せながら怒声を浴びせる。

 

「答えてよッ! 答えろよッ! エル――」

 

「――うるさいッ!」

 

 エルコンドルパサーは叫んだ。

 

 激昂するグラスワンダーに怯むことなく、真正面から全力で睨み返す。

 

「諦めろだの捨てろだの、間違いだの……そんな下らないこと言ってた人達と、私を……この私を…………一緒にするなぁッ!」

 

 その声が響き渡った瞬間、グラスワンダーの視界が反転した。

 

 内臓が地面に向かって引っ張られるような感覚に襲われ、次いで強い衝撃が背中を打つ。

 

 突然組みついてきたエルコンドルパサーに、背中から投げ落とされた――と理解するより先に、大きく開いた口から苦鳴が洩れた。

 

「かはっ――」

 

「……」

 

 地面に仰向けになったグラスワンダーを、エルコンドルパサーは複雑な面持ちで見下ろす。

 

 それから彼女は、グラスワンダーの手から零れ落ちた銀色のカップを拾い上げ、その表面についた泥を指先で拭った。

 

「私は、言ってない」

 

 昂った気持ちを落ち着かせ、静かに告げる。

 

「今までの走りを変えろだなんて、一言も言ってない。……言うもんか。絶対に」

 

 誰が何と言おうとも、グラスワンダーの走りを否定しない。

 

 幾度も傷つき、悩み苦しみ、痛みに耐えながら懸命に歩んできたその道程を、無価値だなどとは思わない。

 

 自分自身と真剣に向き合った末に、そう誓った。

 

 だから――今、ここにいる。

 

「……アメリカに帰った方が、成功する見込みは高いのかもしれない。今までの走りを捨てて、シアトルスルーの言う通りにしていれば……アメリカの歴史に残る名馬にだってなれるのかもしれない」

 

 ありえるかもしれない未来を語り、栄光の階段を駆け上がる親友の姿を想像し――しかし揺るぎない決意で、それを拒む。

 

「でも、嫌だ」

 

 手にしたカップを、固く握り締める。

 

「大きなレースをいくつも勝って、大勢の人に讃えられても……たとえ世界一の名馬になっても…………そんなグラスは、嫌だ。グラスが自分の走りを捨てた姿なんて、私は見たくない」

 

 理屈でも何でもない、子供じみた我儘。

 

 けれど、それ故に純粋な、どこまでも貫くと決めた強い想い。

 

 エルコンドルパサーが言葉にして伝えたのは、そんな想いだった。

 

 仰向けに倒れたままのグラスワンダーは、震える指先で地面を掻き、拳を握る。

 

 その目の端に、涙が滲んだ。

 

「……私の…………私の、走りなんて……」

 

 古傷が疼くように、苦い記憶の数々が蘇る。

 

「みんなに嘲笑われて、何の意味もない悪癖だって言われるような……醜い走りで……」

 

 七日前の対抗戦。

 

 決着間際にバックパサーが見せた走りが、悪夢となって脳を蝕む。

 

「才能のある……本当にすごい人には、簡単に真似されるような……」

 

「――違う!」

 

 否定の言葉を、エルコンドルパサーは力強く放った。

 

「あの時あいつがやったのは、違う! 見た目は似てても、グラスの走りと同じなんかじゃない! 本物のあれは……グラスの本当の走りは、あんなものじゃない!」

 

 あの走法は唯一無二。

 

 世界でただ一人、グラスワンダーという競走馬だけが持つ、特別な力。

 

 たとえ動作を完璧に模倣しても、本質までは模倣出来ない。同じものには決してならない。

 

 己の全てを懸けて貫き通してきた走りが、薄っぺらな才能などに負けるわけがない。

 

「私は知ってる。大地を蹴り砕く脚を……想像を超える勢いで迫ってくる、あの火砕流みたいな脚を……! 三年前のあの日から、ずっとこの目で見てきた!」

 

 暗い水底の色に染まった少女の瞳を、炎のような信頼を宿した瞳が覗き込む。

 

「だから分かる。誰が何て言ったって、信じられるよ。……私が知ってる本物は、あんな偽物とは違うんだって」

 

 グラスワンダーは呆然とした顔になり、自身の真上にある親友の顔を見つめた。

 

 初めてだった。

 

 非合理な悪癖と蔑まれてきた走りを、自分以外の誰かに肯定されたのも。

 

 どんな天才にも真似出来ない唯一無二のものだと、嘘偽りのない信頼を込めて言い切られたのも。

 

 競馬の世界で孤独な戦いを続けてきた中で、初めての経験だった。

 

 エルコンドルパサーは身を屈め、地面に片膝をつく。そして吐息がかかるほど顔を近付け、記憶を辿りながら言葉を紡いだ。

 

「あの模擬レースの日……私に訊いたよね? 憧れの人はいますか、って」

 

 十二日前の夜。寮への帰り道で投げかけられた、一つの問い。

 

 あの時は戸惑いもあり、真剣に答えられなかった。

 

 シーバードやリボーなど、誰もが知っている名馬を挙げて、大勢いるから一人に絞れないなどと言ってしまった。

 

 今にして思えば、それが最初の過ちだったのかもしれない。

 

 自分の本当の気持ちと向き合えなかったことが、今日まで続いたすれ違いの一因になったのだとしたら――その過ちは、正さなければならない。

 

「今、言うよ。……あの時言えなかった、本当の答えを」

 

 それから僅かな間を置き、エルコンドルパサーは発声した。

 

 ほんの数十センチ先にいる、憧れの人の名を。

 

「≪怪物≫グラスワンダー」

 

 栗毛の少女が、息を呑む。

 

 長い月日を共に過ごし、頂点を目指して競い合ってきた親友の口から出た、他の誰でもない自分の名。

 

 夢も誓いも捨て去り、全てを諦めかけていた心に、それが深く沁み透る。

 

「誰にも真似出来ない走りをして、誰よりも眩しい強さを見せてくれる、私の憧れ」

 

 燃え立つ炎のような、明るい栗毛。

 

 伝説の最強馬と同じ色の髪を持って生まれた少女を、エルコンドルパサーは見つめる。

 

 三年前のあの日、表彰式に立ち会った時と同じ気持ちで。

 

「世界の誰よりも強いって信じてる、私のビッグレッド」

 

 光輝く夢を見せてくれる、憧れの人。

 

 唯一無二の力であらゆる障害を蹴り砕き、運命さえも踏み越えて突き進む絶対の強者。

 

 エルコンドルパサーの瞳に映るグラスワンダーは、そんな存在に他ならない。

 

「私は、グラスの走りが好き。グラスが競馬場で思いっきり走る姿をまた見たい。いつまでも傍で見ていたい」

 

 一滴の水が、グラスワンダーの頬を打つ。

 

 それは雨ではなく、間近にいる少女の右目から零れた滴だった。

 

「だから……諦めないで。今まで通り自分の走りを貫いて、一緒に世界に挑もうよ。グラス」

 

 言葉は、そこで終わった。

 

 伝えたいことを残さず言い切ったエルコンドルパサーは、目元を拭い、返答を待つように口を閉じる。

 

 グラスワンダーは仰向けに倒れたまま、胸に響いた親友の言葉を噛み締めた。

 

 自分の走り。

 

 誰にも真似出来ない、自分だけの強さ。

 

 薔薇のレイにも負けないと信じ続けた、小さな銀色のカップの価値。

 

 繰り返し訴えかけられたことの意味を考え、模索する。親友にこれほど強い想いを打ち明けられた自分が、これから先どうするべきかを。

 

 いや、違う。彼女はこの時、初めて自分自身の心と素直に向き合い、問いかけた。

 

 現実を受け入れるふりをしていた表面上の自分ではなく、心の奥底で捨てられないものを抱え続ける本当の自分が、どんな未来に辿り着きたいのかを。

 

 そして、長い沈黙の後――

 

「……ビッグレッド」

 

 願いを一つ、呟いた。

 

「誰よりも強いビッグレッドに、なりたいんです」

 

 細く掠れた声だったが、確かに言った。

 

「なりたかった」ではなく、「なりたい」と――遠い過去の思い出ではなく、今も歩み続けている道の先にある目標として、それを口にした。

 

 覚悟を決め、勇気を振り絞り、未来へと向かう一歩を踏み出したのだ。

 

「今度こそ、必ずなりますから……見ていてくれますか?」

 

 全身の緊張を解き、自分を信じ抜いてくれた相手に笑いかける。

 

「私の……すぐ傍で」

 

 上手く笑えたかどうかは分からない。笑顔を作り損ねて、酷く不細工な顔を見せてしまったかもしれない。

 

 それでも、想いは伝わったのだろう。

 

 エルコンドルパサーは顔を綻ばせ、安堵の息をつきながら頷いた。

 

 濡れた瞳を、雲間から射す光のように輝かせて。

 

「――うん」

 

 

 

 

 

 

 その一部始終を見ていた者が、一人。

 

 降りしきる雨の中、バックパサーは傘も差さずに佇みながら、橋の下で繰り広げられる二人のやりとりを静観していた。

 

 そして、栗毛の少女が願いを呟き、赤いマスクの少女が頷きを返した時――その唇が、淡い笑みを形作った。

 

 嘲笑でも、苦笑でもない。

 

 彼女が人知れず浮かべたそれは、何かを乗り越えて前へと踏み出した二人を祝福する、穏やかな微笑みだった。

 

 

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