「二週間、か……なかなか有意義な日々だったが、あっという間だったね」
帯広空港のターミナルビル。
大きなスーツケースを片手で引きながら、ドクターフェイガーはそう言った。
「出来ればもう一週間ほどいたかったなぁ。試してみたい新薬がまだまだたくさんあったのに帰らなきゃいけないなんて、残念でならないよ」
「……今更だけど、そういう薬は自分の身体で試しなよドクター。そのままぽっくり逝ってくれてもいいからさ」
隣を歩くシガーが呆れ顔で言うと、白衣の犯罪者は肩を竦める。
「冗談じゃない。私にはアメリカの競馬界と医学界の発展に寄与するという重大な使命があるんだ。命を粗末にはしてられないよ」
「競馬界はともかく、医学界の方はドクターを求めてないと思うよ。ていうか医師免許持ってないでしょ、あんた」
「医師たる者に不可欠なのは免許や資格などではないよ、シガー。飽くなき探究心と清廉な志。苦しむ人々を救うためならどのような労苦も厭わない精神の在り方こそが、何より大事なんだ」
「かっこよさげに言っても駄目だよね。ヤブの犯罪者だって事実は一ミリも動かないよね。あとドクターから清廉な志とか一ミクロンも感じられないからね。苦しむ人を増やすことしかしてないからねどう見ても」
三月十三日。
北海道帯広市で行われた二週間の合同合宿は、この日をもって終了した。
海を渡って母国に帰らねばならないアメリカ代表チームは、日本代表チームより一足先に宿を発ち、現在は搭乗手続きを済ませるため空港のターミナル内を進んでいる。
日本で過ごした日々の感想は各々で違ったが、良くも悪くも個人主義な彼女達はそれで揉めることもなく、今日もそれなりに和やかだった。
「医学の発展に犠牲はつきものなのだよ。……とまあ、それはそれとして……」
ドクターフェイガーの視線は、シガーの隣を歩く三つ編みの女に移る。
「昨日の昼頃、むこうの芦毛の子と何やら話し込んでいたようだが……あれは何だったんだい? 先輩」
「別に大したことではない」
投げかけられた問いに、ラウンドテーブルは答えた。
「日本を去る前に教授してほしいことがあると言われたので、それに応えていただけの話だ」
「へぇ……ラウンド先輩に教えを乞うとは、なかなか奇特な子だ。知り合いの精神科医を紹介してあげたいね」
「同感。控えめに言って正気じゃないよね」
「貴殿らは私を何だと思っているのだ?」
何だと思っていると訊かれれば、阿呆だと思っているとしか答えようがないが――それは口に出さず、ドクターフェイガーは質問を続けた。
「で、具体的には何を教えてあげたんだい? 剣に闘気を纏わせて斬りかかる技かな?」
「それも教授しようとしたが、残念ながら断られてしまった。彼女に教えた……というより助言を与えたのは、もっと基礎的なことだ」
ラウンドテーブルは歴戦の古豪。
競馬に関する知識と経験において、彼女の右に出る者はいない。
「一言で表すなら……無駄なく負ける方法、だな」
「……?」
いつにも増して意味不明な発言に、ドクターフェイガーとシガーは揃って首を傾げた。
アメリカ代表チームを結成する前から師弟関係にあった二人――ターナーとシアトルスルーは、ドクターフェイガー達の数メートル後ろを並んで歩いていた。
「一応聞くが……どうだったよ? 今回の合宿は」
「悪くはなかったと思います。他では味わえない貴重な体験の連続でしたね。……重種馬の突進を真正面から受けろと言われた時は、流石に少々戸惑いましたが」
「……うん。あれはねえわと俺も思ったね。特にお前はああいうの向きじゃねえからマジで心配しちまったね。練習にかこつけてお前らを潰す作戦じゃねえかと疑ったりもしたからね正直」
「怪我をしないよう適度に力を抜いていましたから、ご心配には及びません。それに……」
真剣な眼差しを僅かに覗かせ、シアトルスルーは続けた。
「決して無益ではありませんでした。二週間の合同練習を通じて、日本代表の人達の能力と特徴は概ね把握出来ましたから」
「敵を知るいい機会だった、ってことか。……お前を脅かすほどの奴はいなかったと思うが、知る必要あったかね?」
「何が起こるか分からないのが競馬ですから。対戦相手の情報は可能な限り頭に入れておくべきです」
「本当、隙がねえな。お前は」
そこが一番良いとこだけどよ――と、ターナーは内心で付け加える。
競馬大国アメリカの頂点に立つ王者でありながら、シアトルスルーの言動には驕りや緩みが一切ない。
格下と侮った相手に足をすくわれるような愚を、彼女は決して犯さないのだ。
だからこそ、誰よりも強い。
いかなる相手にも付け入る隙を見せない三冠馬は、これから先も輝かしい勝利を積み重ね、世界最強の座へと上り詰めるだろう。
ターナーは、そう信じている。
「しかしまあ、何つうか……残念だったな。幼馴染のことは」
話題を変えると、平静を保っていたシアトルスルーの表情が、僅かな強張りを帯びた。
「あの嬢ちゃん、傍から見ても迷ってる感じだったからよ。俺はてっきり――」
「終わったことです」
未練を断つように、シアトルスルーは言い切った。
「あの子は私と真剣に向き合い、自らの考えを告げました。それは私が望んでいたものとは違いましたが……是非はどうあれ、本気で悩み抜いた末の結論なら文句を言う気にはなれません。本人の意思を尊重するしかないと思っています」
「……お前がそう言うなら、いいんだけどよ」
その呟きを最後に、ターナーは口を閉ざす。
シアトルスルーは前を向いたまま、昨夜の幼馴染とのやりとりを思い返した。
「断る……?」
「はい。アメリカへの帰国の件、お断りさせていただきます」
昨夜十時。旅館の裏手で二度目の話し合いをした際、グラスワンダーはそう言った。
シアトルスルーにとってそれは、意外な返答だった。
「……理由を、聞かせてもらえる?」
彼女が置かれた状況。引退までに残された年月。ワールドカップにおける日本代表チームの勝算の低さ。
それらの事情を踏まえれば、母国アメリカに帰る道を選ぶ見込みは高かった。
実際、ここ数日の陰鬱な様子を見れば、彼女の心がそちらに傾いていることは明白だった。
故に理解し難く、問わずにはいられなかった。
自分の誘いを蹴り小さな島国に残る道を選んだ、その理由を。
「思い出した……いえ、思い出させてもらったからです。自分自身の原点を」
「原点?」
「ビッグレッド」
澄んだ声が、一つの名を紡いだ。
「誰よりも強いビッグレッドになりたい。それが子供の頃、この胸に抱いた最初の夢です」
その夢をシアトルスルーが聞くのは、これで二度目。
けれど一度目の時とは、言葉に込められた重みが違っていた。
「それを叶えるためなら、私は命を懸けられる。逆に言えば、そのためにしか命を懸けられない。全てを振り絞った走りが出来ない」
青い瞳が、シアトルスルーを見据える。
同じ場所から走り出し、異なる道を進んでいった幼馴染に、鋼の決意で別れを告げる。
「だから……どんなに優れた手腕があっても、私の夢を否定するあなたとは一緒にやっていけない。それが理由です」
それから続いた沈黙は、数十秒に及んだ。
静かに視線を交えたまま、交わることのない意思を瞳に宿す二人。
やがて、諦めの滲む面持ちで溜息をつき、シアトルスルーは呟いた。
「……あくまで、自分の走りにこだわるのね」
花火のように儚い強さしか持てない、愚かな走り。
かつて彼女は、グラスワンダーの走法を冷静に分析した上で、そう断じた。
二年以上の時を経た今も、その見解は変わらない。
「あなたは、セクレタリアトじゃない」
現実を教えるため、感情を排した声で告げる。
「あの人とは体格も才能の質も違う。憧れを募らせて形だけ真似たところで、あの人のようにはなれないわ。絶対に」
最強馬セクレタリアトに憧れ、その走りを真似ようとした者など、世界を見渡せば数えきれないほどいるだろう。
にもかかわらず、セクレタリアトの後を継ぐ第三の≪ビッグレッド≫は現れていない。
当然だ。≪ビッグレッド≫は最強の中の最強。奇跡のような才能を持って生まれ、人智を超えた強さを見せ続けた者だけがそう呼ばれるのであり、なりたいという想いだけでなれるようなものではない。
その現実を受け入れられなかった者は、時間と才能を空費するだけで競走生活を終える。
シアトルスルーがグラスワンダーの生き方を否定し、正しい道に立ち返らせようとしたのは、そうした末路から救い出すために他ならない。
「三冠馬になれる。競馬界の頂点に立てる」
独り言のように呟いた後、グラスワンダーは問いかける。
「競走馬になる前の……まだ何者でもなかった頃のあなたに、そう言ってくれた人が一人でもいましたか?」
それに対する返答は、シアトルスルーの口から出てこなかった。
一瞬の硬直を見せたその顔を、鋭い眼差しが射抜く。
「周囲の冷たい声に屈さず、夢を諦めず、自分の可能性を信じて走り続けたからこそ今がある。……違いますか? シアトル姉さん」
無敗の三冠馬。競馬界に君臨する絶対王者。
シアトルスルーとて、最初からそのような栄光を背負っていたわけではない。
命を懸けて戦い、勝ち取ってきたのだ。幼き日に抱いた夢を支えにして、過酷な現実に立ち向かい、誰もが無理だと言ったことを成し遂げてきた。
他の名馬達も同じだろう。競馬の歴史に名を刻んだ者は、一人の例外もなく茨の道を越えてきた筈だ。
だからこそ、多くの者が憧れる。
遥か遠くにある名馬の背中を目指し、その隣に並ぶ日を夢見て走り出す。
「私も同じです。自分の可能性に蓋をしたままで終わる道なんて選ばない。あの日のベルモントパークで抱いた最初の夢は、死んでも捨てない」
幼馴染としてではなく、最強の座を争う相手として無敗の三冠馬と向き合い、真正面から言い放つ。
「私の夢が空虚な絵空事でないことを、これから先の私の走りで、必ず証明してみせる」
その瞳に映るのは、シアトルスルーの姿だけではなかった。
世界各国の名だたる強豪。世界の頂への険しい道程。自身に課せられた制約。行き詰まった現状。
有形無形を問わず、立ちはだかる数多の障害を一つ残らず視界に収め、その全てに臆さず挑む闘志を燃やしていた。
「アメリカの頂点に立つあなたに、世界の強大な名馬達に、自分自身の運命に――この二本の脚で、全てに勝ってみせる」
いったい何があったというのか。
あの時のグラスワンダーは、それ以前とは明らかに違っていた。
ばらばらに散らばっていた破片が寄り集まり、元の形より強固になって蘇ったような――そんなありえない現象を見たような気分にさせられたのだ。
そのことについて考えを巡らせたシアトルスルーは、ふとあることを思い出し、意識を過去から現在へと戻した。
数メートル先を歩く仲間達。その内の一人に、目の焦点を合わせる。
「そういやパサー、聞いた? 誘拐事件の後行方不明になってたシャーガーが最近見つかったって話」
「聞いてねえけど、何度目だよそのガセネタ。もう飽きたっての、その手のやつは」
「いやでも、今回はマジっぽいよ。ほらこの記事に写真載ってるし、夏のキングジョージでの復帰を目指してリハビリ中って書いてある」
「あー……確かに本人に似ちゃいるが……また他人の空似ってオチじゃねえの? つーか本人だったとしても、現役復帰は無理だろ流石に。何年競馬から離れてたんだよって話だ」
「分かんないよ? 常識じゃ測れないとこかるからね、あの人。案外あっさり復帰して、ワールドカップにも出てくるかも」
「何? お前シャーガーとやりてえの?」
「全盛期に近い状態で出てきてくれるなら、ね。蹴散らし甲斐がある相手だと思うよ。パサーはどうなの?」
「あんまやり合いたかねえな。ああいうやたらぶっちぎるタイプはちと苦手だ。勝てねえとは言わねえけどよ」
シガーと親しげに雑談するバックパサー。その後ろ姿を見据えたまま、真剣な面持ちで呼びかける。
「パサー」
赤黒のテンガロンハットを被った頭が回り、背後を向く。
シアトルスルーとバックパサーの視線が、静かに交わった。
帯広競馬場の駐車場。
二週間前重種馬の五人組に迎えられたその場所で、日本代表チームの面々は別れの挨拶を済ませていた。
「二週間もこの子達の練習に付き合ってくれてありがとね、皆さん。おかげでいい経験が積めたわ」
リコがそう言うと、立ち並ぶ重種馬達は笑顔で応じた。
「礼を言うのはこっちだよ。短い間だったけど、楽しくてたまらなかったからさ」
「もうちっと若けりゃいくらだって付き合えるんだけどね。……ま、しゃあないわな。ワールドカップ楽しみにしてるよ」
「応援してっからさ、アメリカなんかに負けんじゃないよ。絶対優勝しな」
仲間達が別れの言葉を口にする中、イレネーはグラスワンダーに目を向ける。
彼女は気付いていた。栗毛の少女が纏う気配から、陰鬱な翳りが消えていることに。
柄にもないお節介まで焼いてしまったが、もう心配はなさそうだ――と、内心で胸を撫で下ろす。
あの後、赤いマスクの少女との間で何があったかは知らない。
けれど様子を見る限り、何か一つ大きな壁を越えたのは確かだろう。世界の頂点を目指す仲間達の中に違和感なく溶け込み、自信と覇気に溢れた表情を見せている。
あの子が立ち直ってくれたなら、もう思い残すことはない。安心してこの合宿の日々を終えられる。
寂しさを覚えないと言えば嘘になってしまうが、致し方ないことだ。
元々、束の間の夢みたいなもの。とうの昔に競馬場から去っていた自分達が、親子ほども年の離れた少女達の練習相手として呼び集められていただけ。役目を終えたなら元の日常に帰るだけだ。
ここはいい大人として、湿っぽい空気は作らず綺麗に別れるとしよう。
そう思い、何か気の利いた台詞を口にしようとした矢先。
視線の先にいた少女が、すっと前に進み出てきた。
「最後に、一つ……イレネーさんにお願いがあります」
イレネーの顔を見上げ、どこか楽しげな笑みを浮かべながら、グラスワンダーは言った。
その場の全員を呆然とさせる、あまりにも突飛な願いを。
「私と勝負して下さい。今、ここで」
「え……?」
頭の中が真っ白になり、かつてないほどの間抜け面を晒すイレネー。同様に、言葉を失って固まる他の面々。
そんな周囲の反応に構わず、グラスワンダーは一方的に話を続けた。
「この合宿の間、イレネーさんには本当にお世話になりました。でも私は、まだそのご恩に報いていません。イレネーさんの気持ちに応えられていません」
イレネーの黒い瞳を、闘志を秘めた青い瞳が覗き込む。
「あの対抗戦の時、言ってましたよね? 中央のGⅠ馬と本気の勝負をするのが夢だった、って」
「――っ」
「叶えさせて下さい。イレネーさんの夢を。――今度こそ、完全な形で」
イレネーの夢。
アメリカ代表チームとの対抗戦の日、競技場の観覧席で打ち明けた想い。
テレビ画面越しに観るだけの存在だった中央競馬の強豪と、互いに死力を尽くした勝負がしてみたいという、決して叶わない望み。
それを今から叶えると、栗毛の少女は言った。
世話になった恩返しとして、もう一度だけ相手をさせてほしいと、自らの意思を表明したのだ。
「――っていうのは、実は建前です」
「は?」
意表を突く発言に、イレネーは再度呆然となる。
グラスワンダーは肩を竦め、普段あまり見せないおどけた表情を見せた。
「ちょっと気取ってそれっぽい理屈を並べましたけど、要はただリベンジがしたいだけです。負けっぱなしのまま東京に帰るのは、正直気分が悪いですから」
そんなことを言いながらも、瞳の奥にある輝きは変わらなかった。
強く、激しく、狂おしいほど熱く、再戦を望む意思を滾らせ続けていた。
あるいはそれが、イレネーが初めて直視した、≪怪物≫グラスワンダーの本当の眼差しだったのかもしれない。
「誰にも負けたくないんです。世界の頂点を、本気で目指してますから」
臆面もなく放たれたその言葉は、どんな綺麗事より何万倍も強く、イレネーの胸を打った。
いや、火をつけたと言うべきだろうか。
「は……ははは……あははははっ……」
笑う。間抜けに開いていた口から、妙な笑いが溢れ出てくる。
「……ったく……帰り際になって、急に言うんじゃねえよ。……これが最後だと思って、いい大人の顔して見送ろうとしてたってのにさ……」
本当にまいった。
一仕事終えたような清々しい気分に浸ったまま、帯広を去る少女達を穏やかに見送るつもりだったのに――これではとても、そんなお行儀の良い真似は出来そうにない。
血が滾る。体中を流れる競走馬の血が、戦いを求めて熱く滾る。
もう抑えられない。
自分の中の最強馬だった≪怪物≫から、こんなにも真っ直ぐな挑戦をされて、胸の高鳴りを抑えられるわけがない。
「――いいよ。やろう」
挑戦を受け入れ、不敵に笑う。
意地の張り合いが何より好きだった若い頃に戻り、猛々しく言い放つ。
「言っとくが、この前の勝負だけであたしの力を知った気になってんじゃねえぞ! ばんえい競馬の本当の恐ろしさを思い知らせてやっから、覚悟しな!」
「望むところです」
そうして、二度目の対決が幕を開けた。
「あの対抗戦の時……どうして、グラスの真似をしたの?」
振り返ったバックパサーに、シアトルスルーはそう問いかけた。
「あんなことをしなくても、あなたならエルコンドルパサーを降すくらい簡単に出来た筈よ」
十一日前の対抗戦の際、バックパサーはグラスワンダーの「叩きつける走法」を模倣した走りでエルコンドルパサーに完勝した。
それを見た時から、シアトルスルーは密かに疑問を抱いていた。
地力だけで圧倒出来る相手との勝負で、あんな真似事をする必要があったのかと。
「ああ、あれか……」
バックパサーは笑う。
「ノリだよノリ。単に面白えかと思ってやっただけさ。あたしのやることにいちいち深い意味があるかよ」
彼女の普段の言動を踏まえれば、不自然ではないように聞こえる返答。
しかしシアトルスルーは、それで納得しなかった。
「意味があると思うから、訊いているのよ」
思い返せば、あの対抗戦が始まる前からバックパサーの様子はおかしかった。
エルコンドルパサーへの度重なる挑発も、リレーの最終走者を買って出たことも、長い付き合いの身からすれば違和感を覚える振る舞いだった。
まるで、全てがあの真似事を披露するための布石だったような――そんな風にさえ思えてしまうのだ。
「何か、伝えたかったことでもあるの? あの子達に」
核心を突くように問うと、バックパサーの顔から笑みが消えた。
「別に」
首を回し、再び前を向く。
「前も言ったろ? ごちゃごちゃ考えながら走るのはもうやめたんだよ。かったりいから」
確かにそれは、以前から何度も口にしてきたことだった。
人々の理想像であった自分を、バックパサーは捨て去った。周囲の目を気にするのをやめ、自分の生き方を貫くと決めたのだ。
誰かと同じように。
「まあ……それでもあえて、理由みてえなのを取って付けるなら……」
背を向けたまま、抑揚のない声で言う。
「ワールドカップであいつらと勝負したら面白そうだ、って思ったくらいだ。他は何もねえよ」
「……だから挑発して、その気にさせたと?」
その問いには答えず、もう語ることはないとばかりにバックパサーは歩を進めていく。
シアトルスルーは溜息をついた。
今ので本心が聞けたとは思わない――が、これでも一応、それなりに長い付き合いだ。
あの時何を考えていたかは、大体察しがついた。
「そうね…………ええ、そういう人だったわね。あなたは」
バックパサーを代表チームに入れたのは、もしかしたら失敗だったのかもしれない。
良くも悪くも奔放な彼女をグラスワンダー達と引き合わせたらどうなるかを、全く想定していなかった。
そう悔やみ、己の不明を恥じた後、シアトルスルーは立ち止まった。
胸元のペンダントに右手を伸ばし、吊り下げられた金貨を掌に載せ、視線を落とす。
光を浴びて煌めく金貨は、どこか太陽に似ていた。
≪怪物≫グラスワンダー。
海の彼方からやってきた、規格外の競走馬。
大地を蹴り砕き土煙を巻き上げるその走りは、日本の競馬界に衝撃を与え、多くの者を魅了した。
イレネーもその一人だ。
三年前の冬、中山競馬場の坂を駆け上がる姿を目にした時から、彼女の中でグラスワンダーは忘れられない存在となった。
あの栗毛の怪物を、間近で見たい。
自分が見てきた中で一番強く惹きつけられた競走馬と、互いの全力を絞り尽くした勝負がしたい。
決して叶わないと知りながら、そんな願いを胸に抱いた。最強と信じる相手に自分の全てをぶつける瞬間を、密かに夢見ながら生きてきた。
そしてこの日、その夢は叶えられた。
彼女の心に一片の悔いも残さないほど、完全な形で。
「はぁっ、はぁっ……ぐぅっ……はぁっ……」
帯広競馬場の直線コースの端。
レースを終えたイレネーは、橇と繋がったまま砂地の上に座り込み、荒い呼吸を繰り返していた。
「何だよ……ちくしょう……ふざけやがって……」
悪態をつきながら、顔を上げる。
その視線の先には、自分より先にゴール板の前を通過した少女の姿があった。
「この前と、全然違うじゃねえかよ…………バケモンが……!」
今しがた決着した勝負――グラスワンダーとの一対一の模擬レースに、イレネーは持てる力の全てを注いだ。
筋力や持久力だけでなく、知識や経験、精神力に至るまで、現役時代に培ったものを一滴残らず絞り尽くし、勝利だけを求めて二百メートルの直線を駆け抜けた。その一戦で彼女が見せた実力は、全盛期のそれをも超えていたかもしれない。
にもかかわらず、彼女は勝利を得られなかった。
自身とは比較にならないほど小さな身体の、重種馬でさえない栗毛の少女に、スタートからゴールまで圧倒され続けたのだ。
スタンドで観戦していた者達にとっても、それは信じ難い光景だったのだろう。
イレネーの仲間達も、日本代表チームの面々も、シンボリルドルフもマルゼンスキーもリコも、皆一様に言葉を失い、グラスワンダーの異常な強さに見入っていた。
例外は、ただ一人。
エルコンドルパサーだけは口許に淡い笑みを浮かべ、再戦に勝利した親友の姿を穏やかに見つめていた。
驚くべきことなど何もない、当然の結果を目にしたように。
「ばんえい競馬の模擬戦は、これで二度目……前回のレースで橇の重さには慣れましたし、途中で息を入れることの重要さも学びました」
座り込んでいるイレネーに顔を向け、グラスワンダーは言う。
疲弊した様子ではあるものの、その表情は晴れ晴れとしていた。
「そして何より、失くしていたものを取り戻せましたから……あの時とは違います」
不調に陥り、無気力な走りを続けていた頃の面影は、最早そこにない。
東の空から射す朝日に照らされ、栗色の髪をほのかに煌めかせるその姿は、名画の中に描かれた人物のように美しかった。
不思議な感慨を覚えると同時に、イレネーは悟る。
そうだ。これだ。
自分は、このグラスワンダーに――記憶の中で黄金色に輝き続けていた最強のサラブレッドに、ずっと逢いたかったのだ。
「それだけで、こんなに変わっちまうかよ…………本当、馬鹿げてるよ……あんたは」
相手の顔を見上げたまま、頬を緩める。
全身全霊を賭けた戦いに敗れたばかりだというのに、何故か悔しさはなく、青空のように澄み切った気持ちが胸の内を満たしていた。
こんなにも心地良い敗北は、生まれて初めてかもしれない。
「行くんだろ? ワールドカップ」
「はい。みんなと一緒に、世界に挑みます」
「あのペンダントの奴ともやりあって……勝つ気かい?」
「ええ、もちろん」
世界各国の名馬が集い、最強の座を巡って争う舞台。
目の前の少女がそれに挑むことを、イレネーは無謀と思わない。競馬の常識を覆す≪怪物≫の底知れない強さは、今しがた身をもって味わったばかりだ。
砂粒ほどの疑いも抱かず、心の底から信じられる。
自分の全てを打ち破ったあの両脚には、夢を現実に変える力が宿っているのだと。
「世界の奴らに見せつけてやりな。あんたの走りを」
朝日の眩しさに目を細めながら、娘の旅立ちを見送る母親のような心境で告げる。
「あんたなら、きっとなれるよ。……みんなの記憶に残る、一番強い競走馬に」
グラスワンダーは微笑み、頷く。
曇りが晴れた空色の瞳に、太陽の輝きを灯して。
「――はい」
細い鎖が通された、一枚の金貨。
シアトルスルーがいついかなる時も首にかけているそれは、実のところ借り物だ。
競走馬になる前――まだ何者でもなく、何も持たなかった頃。一度だけ会った相手から渡された、大切な品。
それが彼女の道標となり、運命を変えた。
「選ばなかった未来は、いつだって輝いて見える」
掌に載せた金貨を見つめながら、詩を詠むように呟く。
「その輝きに負けたくないから、私は走る。自分の意思で選んだ未来の価値を、何があっても信じ抜けるように」
記憶を辿り、束の間だけ過去に戻る。
自分にとっての出発点であり、終着点。生涯をかけて追い駆け続ける存在。
あの時目の前に立っていた最強の競走馬は、暗闇を消し去る太陽のように眩しく見えた。
「……あなたの言葉でしたね。ビッグレッド」
目を瞑り、記憶の中にいる相手との対話を終えた後、無敗の三冠馬は再び歩き出した。
幼馴染が選んだ道とは違う、自分の道を進むために。
「何でばんえい馬相手にばんえい競馬で勝てるのよ……マジ引くわー……」
「最初にやれって言ったのはリコさんじゃないですか……」
「やれって言っただけで、勝てとまでは言ってないわよ。ていうか勝てると思ってやらせてたわけじゃないし」
東京の羽田空港に向かう飛行機の中。
グラスワンダーとリコの二人は窓際の座席に並んで座りながら、そんな会話をしていた。
「まあ、勝てるならそれに越したことないけどさ……あんな超絶パワーを隠し持ってるなら最初から出しなさいよね、もう……」
「すみません……ちょっと不調が続いてて……」
「色々あって気分が乗らなかったから力が出なかったってんでしょ? 真面目なふりして相当な気分屋よね、グラスちゃんは」
「うっ……」
「今回は海のように広い心で許容してあげてたけど、次にクソうざいヘタレ方したら鉄製の棘の上に指一本で逆立ちする練習とかさせるからね。ガチで」
「その練習はあの……全力で拒否したいので……そうならないよう頑張ります……」
どこかの残念な女と同じ奇行を強要されてはたまらない。
不調に陥るのはこれで最後にしようと、内心で固く誓うグラスワンダーだった。
合宿が終わった今、ワールドカップ本番まで残された時間は八ヶ月弱。もう一日たりとも無駄には出来ない。
「それにしても……」
グラスワンダーの横顔を、リコはじっと見つめる。
「単に調子が戻ったってだけじゃなくて……何かこう、雰囲気みたいなのが変わった気がするわね。……何かあったの?」
興味深げに問われ、グラスワンダーは四日前の出来事を思い返す。
どう答えるべきかをしばし考えた後、彼女が口にしたのは――
「秘密です」
そんな、冗談めかした返答だった。
「あの日私達の間にあったことは、この胸の中だけにしまっておきたいので」
「何そのエロい言い回し」
「……どこをどう聞いたらそういう解釈になるんですか?」
呆れながら半開きの目を向けると、リコはおかしそうに笑った。
「黙秘しておきたいならそこは別にいいけどね……分かってるでしょうけど、本当に大変なのはこれからよ。グラスちゃん」
声音の中に、真剣な響きが混じる。
「まだあなたの目の前には、大きな問題が立ち塞がってる。それをどうにかしない限り、とても世界と戦うどころじゃないわね」
その言葉の意味を、グラスワンダーは即座に理解した。
自らの両脚に嵌められた、制約という名の重い枷。それを外して自由の身にならなければ、世界の頂点は到底目指せない。
「……ええ、分かっています。でも、心配しないで下さい」
立ち塞がる壁を蹴り砕くつもりで、決意を明かす。
「解決策はもう考えてあります。後はそれを実行に移すだけ……」
枷を外すにはどうすればいいか。
自分が何を示し、何を成し遂げれば、二度と「叩きつける走法」を使わせないという師の決定を覆せるか。
あの雨の日から今日まで、そのことだけを懸命に考え続け、ついに答えを見出した。
もう迷わない。
どんな困難にも真正面から立ち向かい、自分自身の走りを取り戻してみせる。
「必ずやり遂げて、胸を張って世界に挑めるようにしますから……傍で見ていて下さい。監督」
強い自負と覚悟が紡ぐ、誓いの言葉。
それを聞いたリコは、安心した様子で頬を緩め――
「てな具合に、何やかんや色々あった後に一皮剥けた気分で調子こきまくってるグラスちゃんなのでした……と」
遠慮なく小馬鹿にした。
グラスワンダーはむっとして言い返す。
「茶化さないでほしいんですけど?」
「茶化してないわよー。見たままを言ってるだけ」
「……前言を撤回してもいいですか? 傍で見ていてくれなくて結構ですので、ご自分の国に帰って下さい」
そんな彼女達を乗せたまま、飛行機は大空を横切っていった。
同時刻。
東京都府中市、全日本サラブレッドトレーニングセンター学園。
練習場の芝コースで行われた「勝負」を見届けたチーム・リギルの面々は、酷く青褪めた顔を並べていた。
「マジかよ……」
「芝二千メートルのマッチレースで……エアグルーヴが負けた……」
「それも……五馬身差とは……」
彼女らの視線の先には、勝負が決着した後の光景があった。
疲弊しきった様子で芝生の上に膝をつき、項垂れる敗者。
息を乱しながらも落ち着き払った様子で佇み、晴れ渡った空を見上げる勝者。
そんな対照的な二人の姿が、周回コースのゴール地点にあったのだ。
「悔しいが……完敗だ」
敗北を喫したエアグルーヴは、地面を見つめて呟く。
「最後まで、お前の影さえ踏めなかった……まさかお前が、ここまで強くなっていたとは……」
長らく疎遠になっていた知り合いから、今朝になり突然勝負を申し込まれた。
戸惑いを覚えつつもその挑戦を受け入れ、練習場の芝コースで二千メートルのマッチレースを行い――終始圧倒されたまま敗れた。
信じ難いことだった。
相手の少女は名の知れた実力者だが、ここまで桁外れの強さではなかった筈だ。ほんの少し前までは。
「故障明けとはとても思えない。いったいどんなトレーニングを……」
「話にならないよ。こんな走りじゃ」
敗者の言葉を遮り、勝者は言った。
「スタート直後の出脚が遅い。道中のペース管理が甘い。スパートしてから最高速に達するまでが長い。……まだまだ課題だらけだ。うんざりするくらいにね」
学園屈指の強豪に完勝しておきながら、驕りも喜びも一切見せず、自身の走りを冷淡に酷評する。
その厳しさは、ある種の異常性をエアグルーヴに感じさせた。
「もう一段階…………いや……全ての能力をもう二段階は上げておかないと、とても通用しないよ。世界のトップクラスには」
「……海外にでも行くのか?」
「行くよ。今年の十一月」
空を見上げたまま、少女は答える。
薄い唇が紡ぐ澄んだ声音に、鉄塊のような決意を乗せて。
「ドバイで開催されるワールドカップに出て、世界の頂点を獲る」
エアグルーヴは耳を疑った。
いや、相手の正気を疑ったと言うべきだろうか。
何かの冗談かと一瞬思ったが、目の前に立つ少女にふざけた様子は微塵もなく――発言の意図が読み取れずに困惑した。
「い、いや……しかし、あれは……」
「もうメンバーは決まってる、って言いたいんだろ? 知ってるよ」
少女は平然と返し、振り返る。
明るい栗毛が風に舞い、苛烈な光を溜めた双眸が露わとなる。
「今度のワールドカップに送り出す代表メンバー五人は、内々で既に決まっている。私が入れる枠なんて用意されていない。だから……」
後に伝説となる最強世代、最後の一人。
前年の最優秀短距離馬エアジハードは、静かに決意を口にした。
行く手を阻む分厚い壁を、自らの脚で蹴り砕くかのように。
「奪い取るんだよ。実力でね」