ウマ娘 Big Red Story   作:堤明文

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第十四話「小さな世界の一歩先」

 

 

 上には上がいる。

 

 勝負の世界に生きる者なら、誰もが遅かれ早かれ思い知ることだろう。

 

 どれだけ優れた才能を持って生まれ、不断の努力でそれを磨き上げようとも、いつかは自分を遥かに上回る相手と出会う。

 

 無惨に敗れ、誇りと自信を粉微塵に砕かれる日がやって来る。

 

 例外がいるとすれば、それは最強の存在となる宿命を背負って生まれてきた、この世に二人といない真の天才だけだろう。

 

 若き日のリコは、自分がその「例外」だと信じていた。

 

 本人だけでなく周囲にいた者達も、そう信じて疑わなかった。

 

 勝利と栄光に彩られた輝かしい日々が、いつまでも続くと思っていたのだ。

 

「しっかし、この前のあいつは傑作でしたよねぇ。レース前あんだけ粋がってたくせに、リコさんにちぎられた途端泣きそうな面しやがってよ。ハハハハッ、思い出す度に笑っちまうわ」

 

「ハハハッ、まあそう言ってやんなよ。あの馬鹿もあれで、身の程ってもんがよーく分かったろ。てめえとリコさんじゃ才能の桁が違うってことにな」

 

「でもやっぱ、リコさんの強さは別次元っスよね。今じゃ年上のGⅠ馬達だってまるで相手にならねえんだもん」

 

「当たり前じゃん、リコは四冠馬なんだから。リコより強い奴なんてこの国にはいないってば。ね? リコ」

 

「この国どころか、大陸中見渡してもいないっしょ。アルゼンチンで最強ってことは、南米で最強ってことなんだからさ」

 

 その日、リコは数人の取り巻きを従えて街中を練り歩きながら、自身に向けられる讃辞をいつものように聞いていた。

 

 喩えるなら、光に群がる蛾だろうか。彼女が競走馬として栄光の階段を上る内、その威を借りようとする者やおこぼれにあずかろうとする者が、次々と寄り集まるようになっていた。

 

 そんな連中を卑しい奴らだと見下してはいたが、正直なところ悪い気はしなかった。

 

 ポージャ・デ・ポトリロス。

 

 ジョッキークラブ大賞。

 

 ナシオナル大賞。

 

 カルロスペレグリーニ大賞。

 

 アルゼンチン四冠と呼ばれるそれらを完全制覇した、史上四人目の四冠馬。

 

 そんな存在にまで上り詰めた自分に一生懸命尻尾を振るのも、自力で栄冠を掴めない連中の立場からすれば無理からぬことだろう。こちらを気分良くさせてくれるなら、それなりに可愛がってやってもいい。

 

 そう思い、ろくにトレーニングもせず仲間達と遊び歩く日々を送るようになっていた。

 

 彼女自身、知らずの内に溺れていたのだ。心地良さと引き換えに魂を腐らせる、堕落という名の毒の海に。

 

 しかし、幸か不幸か――そんな日々も、終わりを迎えた。

 

「――ねえ、待って」

 

 背後から声。

 

 立ち止まって振り返ると、そこにいたのは一人の少女だった。

 

 いや、幼女と呼ぶべきだろうか。まだ十歳にもなっていないと思しい、小さく華奢な身体の子供だ。

 

 黒い髪を腰まで届くほど伸ばしており、顔の上半分は前髪に隠れてよく見えない。

 

 服装はみすぼらしく、肌も薄汚れている。貧民街に行けば飽きるほど見かける浮浪児と大差ない外見だった。

 

 その子供は何故か、その外見にそぐわない立派なスーツケースを自身の脇に置いたまま、夜の街の路上に佇んでいた。

 

「何? このガキ」

 

「知り合いか?」

 

「いや……」

 

 リコの仲間達は顔を見合わせる。

 

 黒髪の子供は長い前髪に隠れた目をリコに向け、幼い声音で語りかけた。

 

「あなた、リコさんでしょう? 一番強い競走馬の」

 

「……だったら何だ? サインでもほしいのか?」

 

「私と、勝負して」

 

「あ?」

 

「今から私とマッチレースをしてほしいの。あなたが普段練習で使うコースで」

 

 思いがけない要求に耳を疑ったリコは、やがてつまらなそうに吐き捨てた。

 

「何を言うかと思えば……下らねえ」

 

 いくら子供とはいえ、頭が足りないにも程がある。

 

 天下の四冠馬が見ず知らずのガキの相手をするなどと、本気で思ったのだろうか。

 

「何でこのオレが、ガキの遊びに付き合ってやらなきゃいけねえんだ? アホらしすぎて笑えもしねえよ」

 

 冷たく言い放ち、仲間達に目配せする。

 

 その意を汲んだ仲間の一人が、子供を見下ろしながら近寄っていった。

 

「おいガキ、とっとと失せろ。リコさんはお前みてえなのに構ってるほど暇じゃ――」

 

 子供が突然、スーツケースを開けた。

 

 露わになったその中身を見て、リコ達は全員言葉を失う。

 

 それは、大量の札束だった。国内で流通する通貨の中で最も価値が高い紙幣の束が、大きなスーツケースの中に隙間なく詰め込まれていたのだ。

 

 浮浪児のようにみすぼらしい子供と、目が眩むような大金。

 

 そのありえない取り合わせは、場の空気を凍りつかせるのに十分だった。

 

「賭け金は、これでいい?」

 

「賭け金……だと……?」

 

「あなたが私に勝てたら、このお金をあげる」

 

 当惑するリコとは対照的に、不気味なほど平静な面持ちを保ったまま、得体の知れない子供は語る。

 

「その代わり、私が勝ったら……」

 

 夜風が吹き、長い前髪が舞い上がった。

 

 その時初めて相手の顔を直視したリコは、怖気を覚えて息を呑む。

 

 幼い造形にもかかわらず、子供のそれとは全く思えない、凍てついた鋼のように硬質な顔立ち。

 

 顔面を斜めに走る、一筋の深い傷痕。

 

 そして、赤々と輝く両眼。

 

 地獄へと続く穴のような、底知れぬ闇を孕んだ血色の瞳が、哀れな獲物を冷酷に見据えていた。

 

「あなたの全てを、私が貰う」

 

 

 

 上には上がいる。

 

 どんな強者もいつかは、自分を遥かに上回る怪物と出会い、無惨に敗れ去る。

 

 アルゼンチン四冠馬リコも、その例外ではなかった。

 

 非情な現実を思い知る日が来るのが、他人より少しばかり遅かっただけなのだ。

 

 

 

 

 

 

 学園の敷地内に建つ、教職員用の寮の一室。

 

 日の出前に目を覚ましたリコはベッドの上で上体を起こし、小さく溜息をついた。

 

 ああ、またか――と、疲労を覚えながら内心で呟く。

 

 日本代表チームの監督に就任し、意識が現役時代に近付いたせいだろうか。近頃は見る頻度が減っていた「悪夢」を、久しぶりに見た。

 

 脳のどこかから掘り起こされる、あの日の記憶。

 

 夢という形で繰り返し襲ってくる、恐怖と絶望に塗れた過去。

 

 どうやっても、自分はそれから逃れられないらしい。死んで灰になるまでは。

 

「は……はは……あははっ……」

 

 長い年月が経った今も、過去に怯えながら生きているのだから滑稽だ。

 

 滑稽すぎて、もう笑うしかない。

 

 十年前――四冠を制して母国の頂点に立った頃は、自分が最強だと信じていた。

 

 競馬場で速さ比べをすれば、どんな相手にも必ず勝てる。広い世界を見渡しても、自分に敵う者など一人もいない。

 

 選ばれし者として生を享け、約束された勝利の道を止まることなく突き進む、唯一無二の最強馬。

 

 それが自分なのだと、思い上がった心で信じ続けていた。

 

 あの日の夜、全てを奪い取られるまでは。

 

「はは……ダッサ……」

 

 思い返す度に自分を殴り飛ばしたくなるが、そんな自傷行為をしたところでどうにもならない。

 

 過去には戻れない。行けるのは未来だけ。

 

 どんなに滑稽でも、徒労に終わる可能性が高くても、未来に向かって歩んでいくしかないのだ。

 

 あの血色の瞳と――自分の心に巣食う絶望の影と、再び向き合うために。

 

 

 

 

 

 

 北海道での合宿を終え、東京の学園に戻った翌日。

 

 セイウンスカイとキングヘイローの二人は朝の練習に向かうため、ジャージ姿で学園内の並木道を歩いていた。

 

「久しぶり、ってほどでもないけどさ。こうしてここ歩いてると、日常に戻ってきたって感じしない?」

 

「そうね……あっちで色々とハードな経験したせいか、家に帰ったみたいな安心感があるわ」

 

 言い回しは若干異なるが、二人とも気持ちはほぼ同じだった。

 

 僅か二週間とはいえ、アメリカ代表チームとの合同合宿は肉体的にも精神的にも過酷なものであり、非日常的な体験の連続だったからだ。

 

 それが終わって我が家とも言うべき学園に戻れば、気が安らぐのも無理はない。

 

「けど、安心してばかりもいられないわね。ワールドカップまでそんなに時間はないんだから、気を引き締めていかなきゃ」

 

「あれ? いつになく真面目じゃん、キング」

 

「いつになく、って失礼ね。私はいつだって真面目よ。あんたと一緒にしないで」

 

「えー? 私だって真面目だよ? 昨日の夜もちゃんと自主トレしたし」

 

「……あれ自主トレだったの? ゴムボールで遊んでたんじゃなくて?」

 

 柔らかいゴムボールを壁に向かって投げつけ、跳ね返ってきたところを掴み取るという奇行にセイウンスカイが没頭する姿を、昨夜キングヘイローは目撃していた。

 

 その時は、また妙な暇潰しをしているなとしか思わなかったが。

 

「遊びじゃないよ。反射神経を鍛えるためのトレーニング。ラウンド先輩直伝のね」

 

「ラウンドって……アメリカの……?」

 

「うん。あの剣と鎧の人」

 

 キングヘイローの脳裏に、白銀の甲冑を着込んだまま聖剣(?)を構えるラウンドテーブルの姿が浮かんだ。

 

「貴殿は正確な判断力を持っているが、判断を下すまでにやや時間がかかるのが難点だ。反射神経を鍛える訓練を通じて思考の速度を向上させ、不測の事態に素早く対処出来るようにした方がいい……とか言われてさ。じゃあどんなトレーニングしたらいいのって訊いたら、これを使えって感じでゴムボールくれた」

 

「あんた達、妙に気が合ってたみたいだけど……何であんな人のアドバイス真に受けちゃうのよ……」

 

「いやあの人、ああ見えて案外まとも……でもないけど……競馬に関しちゃわりと真面目だったりするよ? 伊達に六十六戦も走ってないっていうか、流石ベテランだなって感心する部分も――」

 

 その時だった。

 

「えーっ!? あの話ってほんとだったの!?」

 

 誰かの大声が耳に届き、セイウンスカイは言葉を止める。

 

 何だろうと思い声がした方に視線を向けると、十数メートルほど離れたところにあるベンチに三人の少女が座っていた。

 

「だからそう言ってんじゃん。最近あいつら見なかったでしょ? 詳しくは知らないけど、どっか遠く行って合宿やってたみたいよ」

 

「あー、確かに見なかったよね。……じゃあやっぱ決まりなんだ。ワールドカップに行かせるのは、あの五人ってことで」

 

 髪の短い少女、髪の長い少女、浅黒い肌の少女の三人組だ。いずれも名前は知らないが、顔に見覚えはあった。

 

 そしてその会話内容から、セイウンスカイとキングヘイローは察する。

 

 日本代表としてワールドカップに送り出される五人――つまり自分達のことが話題に上っているのだと。

 

「まあ、決まっちゃったもんはしょうがないけどさ……ぶっちゃけ頭おかしいよね。あの人選」

 

「ほんと。最初聞いた時、絶対デマだと思ったもん」

 

「そりゃみんな思ってたよ。ルドルフ会長もマルゼン先輩もブライアン先輩もいないっていう、意味不明なスカスカメンバーだったからね」

 

 唇を歪め、笑い合う三人。

 

 それは明らかに、悪意を含んだ笑いだった。

 

「つってもまあ……エル、グラ、スペあたりは結構実績あるから入ってもおかしくはないし、セイウンスカイだって腐っても二冠馬だけどさ……アレだけはないよねー? どう考えたって」

 

「ああ……アレね」

 

「そう。あの強豪気取りの、勘違いお嬢様」

 

 そのやりとりを聞いた瞬間、キングヘイローは凍りついた。

 

「クラシックの頃は三強の一角とか言われてたけど、結局無冠でしょ? その後もろくに勝ってないし、GⅠじゃ良くても二着止まり。それでも未だに世代トップクラスの一人みたいに扱われてたりするんだから、笑っちゃうよね」

 

「評論家のおっさん共がやたら持ち上げるからねー。偉大な母の血がそろそろ目覚める筈だ、とか言ってさ。――ハッ! 寝言ほざいてんじゃねえよ。あいつのどこをどう見たら、そんなご大層な才能がありそうに思えるわけ?」

 

「いいよねー、良血のお嬢様は。結果出さなくたって周りが勝手に持ち上げてくれるんだから。……まあそれも、今年の春くらいまでじゃない? いい加減みんな気付く頃でしょ? 親に似てんのは見た目だけで、中身は月とスッポンだってことにさ」

 

 偉大な名馬の娘として注目を集めながら、期待されたほどの実績を残せていない少女。

 

 その不甲斐なさを嘲りながら、三人は笑う。卑しい笑い声が重なり合う。

 

「だいたいさぁ、あいつがクラシック候補って騒がれたのだって過大評価気味だったじゃん。親の七光りがなけりゃ、あんなの――」

 

「――っ!? ね、ねえ、ちょっと……!」

 

 陰口を続けようとした浅黒い肌の少女を、髪の短い少女が止めた。今更ながら、すぐ近くに話題の当人がいたことに気付いたのだ。

 

 キングヘイローと目が合った浅黒い肌の少女は、息を呑み、気まずそうに顔を歪める。

 

 だが、それも一瞬のこと。彼女はすぐに開き直ったのか、悪意に満ちた笑みを再び浮かべた。

 

「あっ、そんなとこにいたんだ? 全然気付かなかったわぁ」

 

 挑発するかのように、毒が滴る声を浴びせる。

 

「もしかして聞こえちゃってた? ごめんねー。ワールドカップの話が盛り上がって、つい悪ノリしちゃったの」

 

「ちょ、ちょっとねえ、やめなよ……!」

 

「もう行こうってばっ……!」

 

 他の二人はそこまで開き直れないらしく、喧嘩になる前にその場を離れようとする。

 

 そうして仲間達に連れて行かれながら、浅黒い肌の少女はキングヘイローに言った。

 

「ワールドカップ頑張ってねー、お嬢様。期待してるよ。偉大なお母様の血が大舞台で目覚めるのをさ」

 

 皮肉以外の何物でもない言葉を残して、その背中は遠ざかっていった。

 

 セイウンスカイはキングヘイローが激昂したに違いないと思い、宥めるための言葉をかけようとする。

 

「キング……」

 

「舐められたものね、私も……」

 

 予想に反して、その声音は落ち着いていた。

 

 溜まったものを吐き出すように大きく溜息をついてから、キングヘイローは三人が消えた方向を見やる。

 

「二勝クラスか三勝クラスの子達でしょう? あれ」

 

「う、うん……」

 

「雑魚の戯言よ。いちいち気にしちゃいられないわ、あんなの」

 

 静かに言い切り、練習場に向かって歩き出す。

 

「さっさと行きましょう。私達は世界に挑まなきゃいけないんだから、のんびりしてられないわ」

 

 目標だけを見据え、真っ直ぐに進んでいく後ろ姿。

 

 それがどこか無理をしているように、セイウンスカイには見えた。

 

 

 

 

 

 

「はーい、それじゃあ今日の特訓一発目! ストライド強化大作戦を始めるわよー!」

 

「あれ? 私達二人だけ……?」

 

 いつも以上のハイテンションで練習開始を告げるリコに、セイウンスカイとキングヘイローは困惑気味の顔を向けた。

 

 現在練習場で顔を揃えているのが、自分達二人とリコの三人だけだからだ。

 

 他のメンバーの姿がどこにも見えない。

 

「今日からしばらくの間、他の三人には学園の外で個別練習やってもらうことになったの。で、あなた達二人にはここで一緒に練習してもらおうって話」

 

「……何で他はみんな個別で、私達だけ二人一緒なのよ?」

 

「色々考えてのことよ。まあざっくり言うと、相性的な問題であなた達は一緒にしといた方がいいかなって思ったってこと。別に嫌じゃないでしょ?」

 

「まあ、文句はないけど……」

 

 今一つ腑に落ちない顔で、キングヘイローは呟く。

 

 リコは首を回し、自らの手で地面に並べたものを指し示した。

 

「てなわけで、ちゃちゃっと始めるわよー。もう見た感じで察しはついてるだろうけど、そこに並べてあるロープを跨ぎながら走るってのが今日の特訓ね」

 

 練習場の芝生の上には、二本の直線を描く形で何十本ものロープが平行に置かれていた。

 

 ロープ同士の間隔は、通常のサラブレッドの歩幅より少し長い程度だろうか。端から端までの距離は二百メートルほどもあり、高さのないハードルが延々と並んでいるようにも見えた。

 

 セイウンスカイは微妙な顔で、リコに尋ねる。

 

「これって、もしかして……障害の練習?」

 

「そうよ。そのまんまってわけでもないけど、応用形みたいなものね。障害競走の真似事であなた達の足腰を鍛えようって話」

 

「何で今更障害なのよ? 私達は平地の競走馬だし、ワールドカップでやるのも平地のレースでしょう?」

 

 キングヘイローは怪訝な顔で問う。

 

 障害競走とは、競馬の形態の一つ。コース上に設置された障害物を飛越しながらゴールを目指す競技で、細部は異なるものの世界各地で行われている。

 

 日本では平地競走に比べ障害競走の地位は低く、平地で実績を持つ者が障害に転向することはまずない。

 

 キングヘイローも、自分が障害の練習をする日が来るとは思ってもみなかった。

 

「あら、知らない? 障害のトレーニングって結構足腰の強化に繋がるって言われてるのよ」

 

 そう言って、リコはロープの列に歩み寄った。

 

 一本、また一本と、ゆっくりとした足取りでロープを跨ぎ、直線を進んでいく。

 

「コース上に設置された障害物を越えるには、当然だけどジャンプしないといけない。一定以上の速度を維持したまま地面を強く蹴って高く跳び続ける脚力が必要になるの。そしてその脚力は、平地競走で自分の身体を前に進める力にも転用出来る。身体の使い方が上手くなればね」

 

 十数メートルほど進んだところで立ち止まり、二人に向き直る。

 

「要はストライドの強化よ。脚力を鍛えて一歩ごとに進める距離を伸ばせば、無理に脚の回転数を上げなくても速く走れるってこと。その能力を培うための第一歩が、この障害ごっこってわけね」

 

「……そういえば、パーマーなんかも障害練習のおかげで強くなれたって言われてるよね」

 

 障害への転向を試みた者が平地に戻って活躍したという例も、僅かだが存在する。

 

 その代表格が、メジロパーマー。現役屈指の逃げ馬であり、宝塚記念と有馬記念の両グランプリを制した名馬だ。

 

 一時期平地で伸び悩んだ彼女は活路を求めて障害転向を試みたものの、飛越の才能には恵まれておらず転向を断念。しかしそのために積んだ練習は無駄ではなく、平地に戻った後生まれ変わったように活躍する一因となった――と、一部では囁かれている。

 

「ま……適性ってのもあるから、誰でも障害練習すれば強くなれるってわけでもないでしょうけどね。あなた達にはこれが向いてると思ったのよ。ぶっちゃけ二人とも、脚力って面ではイマイチだし」

 

「……そうね」

 

 キングヘイローは納得し、目を伏せて頷く。

 

 確かに自分達二人は、グラスワンダーやエルコンドルパサーに比べ脚力で劣る。最後の直線だけで十数人をまとめて抜き去るような剛脚は持っていない。

 

 それでは到底、ワールドカップの舞台では通用しないだろう。

 

 二人揃ってチームの足手まといになりたくなければ、これからの練習で足腰を徹底的に鍛え上げるしかないのだ。

 

「理屈は分かったわ。とりあえず、あのロープを踏まないように走ればいいのね?」

 

「最初はゆっくりでいいわよ。転んで怪我しちゃまずいから、まずは身体を慣らすことから始めて」

 

 そんなやりとりを経て、キングヘイローとセイウンスカイの「障害練習」は始まった。

 

 

 

 

 

 

「だからゆっくりでいいって言ったじゃない、ヘイローちゃん! 速く走ることよりしっかり跳ぶことを意識しなさいってば!」

 

 朝焼けの空の下、リコの叱声が響き渡る。

 

 練習を開始してまもなく、キングヘイローはその難しさを痛感することになっていた。

 

 地面に等間隔で並ぶロープを避けきれない。約二百メートルの直線を走りきるまでに、どうしても何箇所かで踏んでしまう。

 

 ロープを跨ぐという単純な動作の繰り返しでも、走りながらそれを行うとなれば決して容易ではなかった。

 

「ほら、また踏んじゃってるわよ! それがロープじゃなくて本物の障害だったら大怪我することになるんだから、全部完璧に越えられるようになりなさい! スピードを追及するのはそれからよ!」

 

「くっ……!」

 

 キングヘイローとて理解している。

 

 今求められているのは、速さではなく正確性。これはまだ練習の第一段階で、完璧にこなせるようにならなければ次の段階に移れないのだから、速度を落として慎重に進んだ方が賢明だと。

 

 そうしたことは言われるまでもなく分かっているのだが、どうしても焦りが出る。無理に速く走ろうとした結果、足元への注意が疎かになり、失敗を重ねてしまう。

 

 その原因は、すぐ隣にあった。

 

(何で……)

 

 走りながら、斜め前方に目を向ける。

 

 軽快な動きでロープの列を越えていく少女の背中を、様々な感情が絡み合った目で見据える。

 

(何でこいつは……こんなに上手いのよ……!?)

 

 同じ日に同じ練習を始めたというのに、セイウンスカイとの間には既に明確な差が生じていた。

 

 同時に走り出しても、直線の端に到達する早さが違う。

 

 ロープを跨ぐ動きの滑らかさが違う。ロープを踏む頻度が違う。

 

 その事実がキングヘイローを打ちのめし、彼女の心に焦りと悔しさをもたらしていた。

 

(違うっていうの……? 身体の使い方が……根本的なセンスが……)

 

 筋力や瞬発力にそこまでの差はない筈だ。というよりその点に関してなら、自分の方が僅かに上回っている気さえする。

 

 今のこの差は、おそらくはセンスの差。物事の要点を感覚的に捉え、実践する能力の差だ。

 

 思えば、合宿の時もそうだった。

 

 重種馬の体当たりをまともに受け、無様に宙を舞っていた自分とは対照的に、彼女は絶妙な身のこなしで受け流すという離れ業を披露していた。

 

 身体能力はほぼ同等でも、それを活かす頭脳と技術に雲泥の差がある。

 

 さらに言ってしまえば、競走馬としての格が――持って生まれた才能が、根本的に違うのだ。

 

(……そういえば、そうだったわね…………ずっと前から……)

 

 自分は、セイウンスカイとは違う。

 

 グラスワンダーとも違う。エルコンドルパサーとも違う。スペシャルウィークとも違う。

 

 華やかなキャリアを持つ彼女達とは比べるのもおこがましい、無冠の二流馬。

 

 周囲の期待を裏切り続け、ついには誰からも見向きもされなくなった凡才。

 

 それが何故か、ワールドカップの日本代表に選ばれ、世界の頂点を獲るという目標を与えられたから――他の四人と肩を並べたような気分になっていただけだった。

 

 そんなものは、錯覚でしかなかったのに。

 

 

 

 

 

 

「はーい、それじゃ一旦休憩にしなさい。水分補給が終わったら今度はロープの間隔を――」

 

 言葉の途中で、リコは固まった。

 

 休憩と聞いてセイウンスカイが動きを止めたのに対し、キングヘイローは止まらずに走り続けていたからだ。

 

「ちょっとヘイローちゃん! 休憩って言ってるでしょう!」

 

 声を張り上げても、キングヘイローは止まらない。

 

 直線の端に辿り着くと素早く反転し、再びロープの列に挑んでいく。

 

 とうに体力を使い果たし、脚に痛みも出始めているというのに、彼女は休むことを拒んで走り続けた。

 

 休んでいる場合ではない。そんな暇があるなら少しでも練習しろと、自分を叱咤し続けて。

 

「はぁっ……はぁっ……ぐぅっ……はぁっ……!」

 

 才能に差があるなら、その差を埋めなければならない。

 

 セイウンスカイが休んでいる間も走り続け、何倍も何十倍も練習を積んで、後れをとらないだけの実力をつけねばならない。

 

 そのくらいのことが出来なければ、世界の頂点は到底目指せない。

 

 キングヘイローを衝き動かすのは、そんな切迫した思いだった。

 

「うぅ……ぐぅっ……!」

 

 一番になれると思っていた。

 

 子供の頃は、いつか一番強い競走馬になれると思っていた。

 

 母グッバイヘイローはアメリカ合衆国の競走馬で、生涯成績は二十四戦十一勝。GⅠレースを七つも制した名馬だった。

 

 その娘として生まれた自分は、子供の頃から世間の注目を集めていた。

 

 母と重ねられることも多く、非凡な才能を受け継いでいるなどと言われたことも一度や二度ではなかった。

 

 実際、同年代の子供達と脚の速さを競えば、いつも勝つのは自分だった。

 

 努力は必要なかった。敗北の悔しさを味わうこともなかった。母から貰った身体は他の子供のそれより遥かに優れていて、ゴールの先には勝利の喜びだけが待っていた。

 

 だから、何の疑いもなく信じていた。

 

 この先もずっと、当たり前のように勝ち続けられると。子供同士の駆けっことは違う、皆が誇りと人生を懸けて戦う本物のレースでも、自分は一番になれると。

 

 けれど、現実は甘くなかった。

 

 華々しくデビューして順調に勝ち続けられたのは、最初の内だけ。すぐに壁にぶつかった。

 

 無双の剛力を誇り、爆発的な末脚で全てを置き去りにする怪物、グラスワンダー。

 

 距離も馬場も問わず、あらゆる条件に適応する万能の天才、エルコンドルパサー。

 

 瞬発力と持久力を併せ持ち、中長距離で無類の強さを見せる王者、スペシャルウィーク。

 

 レースセンスに優れ、変幻自在の走りで他馬を翻弄する逃亡者、セイウンスカイ。

 

 同じ年に生まれた競走馬の中には自分より優れた者が何人もいて、自分が掴み取りたかった栄冠は全て、その連中に奪い取られていった。

 

 何度挑んでも勝てない。

 

 苦しみを堪えて必死に追い駆けても、決して追いつけない。

 

 同じレースを走る度に格の違いを見せつけてくるライバル達は、自分にとっては分厚く高い壁も同然だった。

 

 そして敗北を重ねる内に、自分に期待を寄せる者は数を減らし、失望の声が耳に届くようになった。

 

 悔しいが、それが現実というものなのだろう。

 

 数人のライバルしかいない小さな世界の中では一番でも、そこから一歩踏み出して広い世界の中に混ざれば、何の取り柄もない凡人に成り下がる。

 

 競馬に限らず、どこの世界にも掃いて捨てるほど転がっている話。自分もその中の一部だったというだけのことだ。

 

 自分は、一番になれる器ではなかった。

 

 この身に宿っていた才能は、小さな世界の外では通用しないちっぽけなものだった。

 

 否定したくても出来ないのだから、もう認めるしかない。

 

 それでも――

 

 それでもまだ、自分は――

 

「――っ!」

 

 雑念に囚われたせいだろう。

 

 ロープに爪先をぶつけたキングヘイローは姿勢のバランスを崩し、そのまま転倒した。

 

「ヘイローちゃん!」

 

「キング!」

 

 リコとセイウンスカイが駆け寄る。

 

 キングヘイローは苦痛に顔を歪めながら、呻きを噛み殺して上体を起こした。

 

「ちょっと転んだだけよ……このくらい……」

 

「いいから、脚見せてみなさい!」

 

 険しい顔で怒鳴られ、渋々脚を伸ばす。

 

 それに触れて一通り調べた後、リコは安堵の息をついた。

 

「……骨折や捻挫はしてないみたいね。倒れ方が良かったのか、打撲もないみたい」

 

「だから言ったじゃ……」

 

「だから言ったじゃない――じゃないわよ! 怪我したらどうするつもりだったの!?」

 

 キングヘイローは言葉に詰まり、リコから目を逸らす。

 

 後先考えず無理をしすぎたという自覚はあったが、それを素直に認めるには抵抗があった。

 

 認めてしまえば、自分がより一層無様に思えてしまうからだ。

 

「何よ……怪我しそうなこといつも平気でさせてるのは、あなたじゃない……」

 

「……確かに私も、あなた達に結構な無茶させてるけど……それでも限度ってものは弁えてるつもりよ。怪我する前に止めるのも私の仕事」

 

 一度激発した感情を鎮めながら、リコは諭すように続けた。

 

「だから、私が休憩って言ったら大人しく休みなさい。それに従えないようなら代表チームから外すわよ。いいわね?」

 

「……分かったわよ」

 

 消え入りそうな声で返答するキングヘイロー。

 

 地面に置かれたその手がきつく拳を握り締めるのを、傍らに立つセイウンスカイは見逃さなかった。

 

「キング……」

 

 その心情を慮り、何か言葉をかけようとした時。

 

 突然、誰かが地面を蹴った。

 

「――っ」

 

 風を裂く音が耳朶を打つ。力強い足音が練習場に響く。

 

 振り返った先にあったのは、先程まで自分達が走っていた直線を走り抜ける少女の姿。

 

 それが誰かを確認するより先に、セイウンスカイはその走りの見事さに目を奪われ、驚愕の表情を浮かべた。

 

(速い……! いや、それより……)

 

 自分やキングヘイローのそれとは比較にならない、隼の飛翔を思わせるほどに凄まじい速さ。

 

 だが、真に驚くべき点はそこではない。

 

(ロープを……一本も、踏んでいない……!?)

 

 直線上に並ぶ何十本ものロープを、少女の脚は一本たりとも踏んでいなかった。

 

 尋常ではない速度を維持したまま機械のように正確なストライドで進み、これ以上ないほど完璧な形でロープの列を越えていったのだ。

 

 圧倒的な脚力と、磨き抜かれた身体操作能力。その二つを併せ持っていなければ不可能な離れ業だった。

 

「世界一を目指す人達の特訓にしては、手緩いね」

 

 直線の端で立ち止まった少女――明るい栗毛のサラブレッドは、セイウンスカイ達に冷淡な目を向ける。

 

「せめてこのくらいの速さで走り抜けられるようじゃなきゃ、話にならないと思うけど?」

 

 彼女の名は、エアジハード。

 

 最強世代の一翼を担う、遅れてきた大器だった。

 

 

 

 

 

 

「ジハード……」

 

「どうして……あなたが、ここに……?」

 

 セイウンスカイとキングヘイローが、戸惑いながら口を開く。

 

 そんな二人の声を無視し、エアジハードは静かな足取りで「交渉」の相手に歩み寄った。

 

「なかなか良い走りだったけど、今のはどういうつもりかしら?」

 

「不快に思われたなら申し訳ありませんが、私の実力の一端を披露させていただきました。先にそうした方が、話に聞く耳を持っていただけると思ったので」

 

 リコの正面に立ち、問いに淡々と答える。

 

 桁外れの速さで直線を走り抜けた後だというのに、その呼吸はほとんど乱れていない。

 

「……何か、言いたいことがあるみたいね」

 

「ええ。前置きは抜きにして、率直に言います」

 

 毅然とした面持ちを保ったまま、エアジハードは告げた。

 

「あなたが指揮するワールドカップ日本代表チームに、私を入れて下さい。現メンバーの誰かの代わりに」

 

 臆面もなく放たれた要求に、現代表メンバーの二人は絶句する。

 

 一方、リコはさして驚きもせず、目の前に立つ少女の顔を冷静に見据えた。

 

「私の自己紹介は必要でしょうか?」

 

「必要ないわ。あなたのことは私も知ってる」

 

 日本代表チームのメンバーを選定する過程で、リコは日本国内の強豪の情報を全て頭に入れていた。

 

 当然その中には、エアジハードの情報も含まれている。

 

「去年のJRA賞最優秀短距離馬、エアジハード。通算戦績十二戦七勝。主な勝鞍は安田記念、マイルチャンピオンシップ、富士ステークス。一昨年の秋頃から徐々に頭角を現し、去年の安田記念でうちのグラスちゃんを破ってマイル王の座についた、最強世代最後の大物……でいいわよね?」

 

「ええ」

 

「年末に予定してた香港遠征を脚部不安で取りやめたって聞いたけど、そっちはもう大丈夫なの?」

 

「幸い軽度でしたので、すぐに完治しました。今は何の問題もなく走れます」

 

 エアジハードが生真面目な返答を続けると、リコは表情を和らげた。

 

「なるほど……それで代表の座が欲しくなって、私に直談判しに来たってわけだ。やっぱり、自分が選ばれなかったのは納得いかなかった?」

 

「いいえ」

 

「……?」

 

「去年までの私は心身ともに未熟でした。勝負の最中に脆さや詰めの甘さを露呈することが度々あり、そのせいで勝てるレースをいくつも取りこぼしていた。代表に選んでいただけなかったのも当然かと納得はしています」

 

 そう語った後、エアジハードの声音が変質した。

 

「ですが……私はもう、甘さを捨てた」

 

 鋼が音と化したかのような、重く硬質な声。

 

 積み重ねてきた鍛錬の凄絶さを物語る声が、覇気に満ちた言葉を紡ぐ。

 

「世界一の競走馬になるため、自分の限界を踏み越えた。肉体も精神も技術も戦術も、全て一から鍛え直した上でここに来た」

 

 鋭い双眸の奥に宿るのは、己の力量への絶対的自信。

 

「今の私なら、シンボリルドルフにだって勝てる」

 

 それは明らかに、本気の発言だった。

 

 彼女は日本最強の≪皇帝≫と実際に戦うことを想定した上で、一片の迷いもなく言い切ったのだ。

 

 勝てる――と。

 

「ですからお願いします。私を日本代表チームに入れて下さい。国の威信を背負って戦うことを許していただけるなら、必ずや私の力でチームを優勝に導いてみせます」

 

「……優勝に導いてみせます、か…………大きく出たわね」

 

 相手の言葉を吟味するように、リコは呟く。

 

 それから彼女はパンと両手を打ち鳴らし、その顔に満面の笑みを浮かべた。

 

「うん、合格! いいわねあなた! すっごくいいわ!」

 

 何故か気を良くした様子で、弾んだ声を出す。

 

 何を言われようと自分の要求を押し通すつもりでいたエアジハードも、その急変ぶりには若干戸惑った。

 

「その自信とクソ度胸、物事を力技で解決しようとする強引さ、無駄にキリッとした生意気そうな面構え! どれを取っても私好みね! 惚れ惚れしちゃうわ!」

 

「……」

 

「実を言うとねー、あなたみたいな子はいずれ出てくると思ってたし、むしろ出てきてほしいなーって思ってたりしたのよ。自分が入れる枠がないなら力ずくで手に入れるんだって感じの脳筋キャラ、私大好きだし。ぶっちゃけ私自身もそれ系だしね」

 

「では……」

 

「まあちょっと待って。まだ話は途中だから、最後まで聞いて」

 

 手をひらひらと振って制し、楽しげに続ける。

 

「あなたの熱意はよく分かったし、私個人としてもあなたを代表チームに入れてあげたいって気持ちは結構ある。でもそれだけで今いる子の誰かを御役御免にするってのは、ちょっとアレでしょう? だから……」

 

 笑顔のまま、眼差しだけを鋭くする。

 

「勝負で決めましょう。後腐れなく、一遍だけの真剣勝負で」

 

 セイウンスカイが目を見開く。キングヘイローが呆然となる。

 

 エアジハードは平静な面持ちに戻り、言質を取ろうとするように問いかけた。

 

「私と現代表メンバーの誰かがレースをして、私が勝てたら代表に迎え入れる……ということでしょうか?」

 

「そうよ。分かりやすくていいでしょう?」

 

「異論はありません。というより正直、こちらからそれを申し出るつもりでいました」

 

「だと思ったわ。それじゃあ……」

 

 リコは首を回し、地面に座り込んだままでいた少女に目を向ける。

 

「ヘイローちゃん、悪いけどこの子と勝負してあげて」

 

 突然の指名に、キングヘイローの心臓が跳ね上がった。

 

 その驚愕を代弁するように、セイウンスカイが問いかける。

 

「何でキングを……?」

 

「被っちゃってるからよ。この子達の適性が」

 

 答えつつ、リコはエアジハードに向き直る。

 

「ワールドカップの予選と本戦の仕組みは、もう聞いてるわよね?」

 

「参加国を四つのグループに分け、各グループ内で条件の異なる五つのレースを行い、着順に応じたポイントを与えることで予選通過チームを決める。本戦も同様の方式で行い、獲得ポイントの合計で優勝チームを決める……と聞きました」

 

「そう。そしてその五つのレースの中には、当然短距離戦も含まれてる。私はヘイローちゃんをそれに出すつもりで代表チームに入れた。けれど去年最優秀短距離馬に輝いたあなたがチームに入ってくるなら、話は変わってくる」

 

 その眼差しは、どこまでも真剣だった。

 

「中距離や長距離、ダートのレースでも上の着順がとれなきゃ優勝は狙えないから、短距離向きの子が二人はいらない。ワールドカップの舞台に連れて行ってあげられるのは、どちらか一人だけ。それを公平に直接対決で決めようってこと」

 

「それで構いませんが、私と彼女が行うレースの条件は?」

 

「高松宮記念」

 

 唐突に出たレース名に、全員が一瞬放心する。

 

 その反応を楽しむように、日本代表チームの監督役は話を続けた。

 

「毎年三月末に中京競馬場で行われる、春のスプリント王決定戦。知ってるでしょう?」

 

 それは、日本の競馬関係者なら誰もが知るレース。

 

 中央競馬のスプリント路線の頂点とも言うべき、GⅠの格付けがされた大レースだ。

 

 現役競走馬のエアジハードが知らないわけがない。

 

「……高松宮記念を、私達の対決の舞台にしろと?」

 

「ええ、そうよ。実を言うとね、私は元々ヘイローちゃんをそのレースに出すつもりでいたの。特訓の成果を試す場として丁度いいと思ってね。そこにあなたも出てきてくれるなら、話が早くて助かるんだけど?」

 

「……分かりました。高松宮記念でキングヘイローを倒せば、私の代表入りを認めていただけるのですね?」

 

「そりゃもちろん。……あーでも、ヘイローちゃんには勝てたけど一着にはなれませんでした、なんてのはやめてね。そんなしょっぱいオチ見せられたら二人とも代表の資格なしってことにして、他の子を入れるから」

 

「ご心配なく。私が必ず、先頭でゴールしますから」

 

 平然と断言して、エアジハードは身を翻す。

 

「では失礼します。お忙しい中話を聞いていただき、ありがとうございました」

 

 戦う相手のキングヘイローには一瞥も与えることなく、彼女は静かな足取りで練習場から去っていった。

 

 その背中が見えなくなったところで、ようやくキングヘイローは立ち上がる。

 

「……随分と、勝手に話を進めてくれたわね。こっちはほとんど何も言ってないのに……」

 

「あら、勝つ自信ないの?」

 

「去年三回同じレースを走って、三回とも先着された相手よ。エアジハードは。……あの子の強さは、嫌になるくらい知ってるわ」

 

 安田記念。秋の天皇賞。マイルチャンピオンシップ。

 

 キングヘイローは過去三度に渡ってエアジハードと対戦し、その全てでエアジハードの後塵を拝してきた。

 

 キングヘイローにとってエアジハードは、セイウンスカイ達と同じ存在。

 

 何度挑んでも跳ね返される、分厚く高い壁だった。

 

「そうね。それは私も知ってる。しかもあの子、その時よりさらに強くなってるわよ」

 

 顔から笑みを消し、リコは冷静に言った。

 

「何があったか知らないけど……本気で世界一を目指す気になって、死ぬほど自分を鍛え抜いたんでしょうね。言うだけのことはあるわ」

 

 先程エアジハードが披露した疾走は、リコの目から見ても相当なレベルのものだった。

 

 本人が言うように、その強さは既に≪皇帝≫シンボリルドルフさえも上回っているかもしれない。

 

 少なくとも、日本代表を務めるに足る実力者であることは確かだろう。

 

「みたいね…………でも、関係ない」

 

 キングヘイローは言った。

 

 自分の中にある弱気や劣等感を消し飛ばし、魂の奥底から力を絞り出すように。

 

「ワールドカップに出てくる人達の中には、あいつより強いのだっているんでしょう? なら同じよ。ここであいつに勝てないようなら、世界に挑んだって勝てやしない」

 

 顔を上げ、前を向く。

 

 自分はもう、小さな世界の中で自惚れていた子供ではない。厳しい勝負の世界の中で生きる、一人の競走馬だ。

 

 レースに勝つことが、簡単ではないと知っている。

 

 自分より遥かに優れた者が、数えきれないほどいると知っている。

 

 それでも、勝負からは逃げない。逃げたくない。

 

 夢を抱いて、決意を固めて、辛さと悔しさを噛み締めて――分厚い壁が連なる広大な世界に、自分の意思で踏み出したのだから。

 

「あいつに勝つことでしか、道が拓けないなら――勝つわ。私の全てを振り絞って」

 

「……」

 

 決然と告げるキングヘイローの横顔を、リコは無言で盗み見る。

 

 その眼差しは、普段の彼女のそれとは何かが微妙に違っており、どこか遠くにある手の届かないものを見つめているようでもあった。

 

「……リコさん、どうかした?」

 

「別に。ヘイローちゃんはいつだってヘイローちゃんなんだなー……って思っただけよ」

 

「……?」

 

 よく分からない返答をされ、首を傾げるセイウンスカイ。

 

 リコは楽しげな笑顔に戻り、キングヘイローに向けて言った。

 

「それじゃあちょっと予定を早めて、特訓を第二段階に移すわよ」

 

 地面に並ぶロープを越えていくなどというのは、初歩中の初歩。怪我をさせないための足慣らし。

 

 特訓の本番は、次の段階からだ。

 

「生半可なことやってたらあのジハードちゃんには敵わないでしょうから、相応の地獄を味わってもらうことになるけど……覚悟はいいわね? ヘイローちゃん」

 

「当たり前よ!」

 

 覚悟を問う言葉に、キングヘイローは力強く応じた。

 

 

 

 

 

 

 それから約二週間後。三月第四週の日曜日。

 

 高松宮記念の舞台となる、愛知県豊明市の中京競馬場。

 

 その一角――多くの人々で賑わうパドック付近に、スマートフォンを耳に当てて通話している少女の姿があった。

 

「はいもしもしー……え? 今? 今はもう現地に着いちゃってますよー……はい、中京競馬場ってとこのパドック近くです。もうすぐメインレースの出走馬が出てくるとこですねー。観客の人多すぎてびっくりです」

 

 競馬場におけるパドックとは、レースが始まる前に出走馬の様子を見るための下見所だ。

 

 GⅠレースの直前ともなれば周囲を埋め尽くすほどの観客が詰めかけ、満員電車のような状態となる。

 

 通話中の少女もその中にいたが、風景に溶け込めているとは言い難かった。

 

 耳を出すための穴が空いた黒いニット帽で頭髪を隠し、黒いサングラスで目を隠し、黒いマスクで口を隠し、黒い革手袋で両手を隠し――とにかく色々な物で全身を覆い隠した、怪しさ満載の姿だったからだ。

 

 強盗団の一員と言われても何ら違和感のない格好だろう。

 

 事実彼女は、周囲にいる人々からかなり不審な目で見られていた。本人は全く気にしていなかったが。

 

「これから始まる高松宮記念ってレースは、日本に二つあるスプリントGⅠの一つで……え? キャンディさん? あー……キャンディさんならどっか行っちゃいました。そこで待ってて下さいねって言ったのに、お手洗いから戻ったら忽然と消えてやがりましたね、はい。まったく、困ったアホです」

 

 やれやれといった具合に肩を竦め、少女は溜息をつく。

 

 通話の相手に連れが行方不明になった件について追及されると、マスクの下で唇を尖らせた。

 

「えー、だってしょうがないじゃないですかぁ……あの人スマホ持ってないですし、ここだだっ広い上に人多すぎで捜すのめんどいですしー……あーはいはい、ほっぽっといちゃ駄目なんですね。分かりましたよもー。どうにかしてあのアホとっ捕まえて帰りますからー……はい、じゃあもうすぐ始まるんで切りますねー。失礼しまーす」

 

 適当に通話を切り上げ、スマートフォンを上着のポケットにしまう。

 

 そして再び、やれやれといった具合に肩を竦めた。

 

「はぁ……まったく……言うこと聞かないアホとクソうざい姑みたいなのに振り回されながら、今日も一生懸命偵察に励んでる私……めっちゃ健気じゃないですか? 何かもう、人気投票とかやったらガチで一位狙えそうなくらいの健気さですよね? きっと世界には私のファンが百億人はいます」

 

 そんな戯言を誰にともなく言いつつ、肩にかけていたバッグから双眼鏡を取り出し、サングラスを外す。

 

「ま、それはそれとして……このレースはちゃんと観とかなきゃいけませんねー」

 

 定刻を迎え、続々とパドック内に姿を現す高松宮記念の出走馬。

 

 少女が双眼鏡のレンズ越しに注視したのは、その内の一人。五番人気に支持されている七枠十三番。

 

 緑の勝負服に身を包んだキングヘイローだった。

 

「あのリコ先輩の教え子が、どんな風に仕上がってるのか……」

 

 偉大な先達であり、かつては師と仰いだ四冠馬――その顔を思い浮かべながら、南米の大国から来た少女は声を弾ませた。

 

「お手並み拝見ってことで、偵察開始です」

 

 

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