高松宮記念。
毎年三月末に中京競馬場で行われる、芝千二百メートルのGⅠ競走。
その前身は、昭和四十三年に創設された中京大賞典。砂二千メートルの中距離重賞だったそれが、昭和四十六年に皇族の高松宮宣仁親王より優勝杯を下賜されたのを機に、翌年から高松宮杯に改称。夏の中京開催の名物競走となり、昭和五十九年のグレード制導入時にはGⅡに格付けされた。
そして平成八年、中央競馬の競走体系の改革に伴い、大幅に距離短縮された上でGⅠに格上げとなる。その後は名称と施行時期を現在のものに改められ、春の短距離王決定戦として定着した。
中央競馬の短距離路線――特に千二百メートルを主戦場とする者達にとっては、秋のスプリンターズステークスと並ぶ最重要タイトルである。
レース発走の約三十分前。
休日を利用して中京競馬場を訪れていたエアグルーヴは、スタンドの一角で知り合いの姿を見かけ、声をかけた。
「お久しぶりです。伊藤先生」
「……おお、グルーヴ君か。しばらくぶりだね」
座席に腰を下ろしたままターフビジョンを見つめていた白髪頭の男は、隣に立ったエアグルーヴへと視線を移す。
男の名は、伊藤徳正。
定年退職を来年に控えた、エアジハードのトレーナーである。
「今日の出走馬の中に、君のチームの子はいないようだが……ジハードを見に来てくれたのかね?」
「ええ。近頃は疎遠になっていましたが、彼女は妹のようなものなので」
苦笑気味に答えるエアグルーヴ。
彼女とエアジハードは同じ家系の出身で、幼い頃は姉妹のように育った仲だった。
「そういえば君は、この間ジハードと模擬戦をしたのだったね?」
「……ええ。恥ずかしながら、完敗しました」
二週間前の敗戦を思い返し、エアグルーヴは神妙な顔になる。
「正直、彼女の成長には驚かされました。元々実力者ではありましたが、この数ヶ月の間にあそこまで伸びていたとは……」
「誰よりも練習を積んできたからね、あの子は。その努力がようやく実を結び始めたようだ」
そう言いつつ、伊藤はターフビジョンに視線を戻す。
静謐な気配を纏ってパドックに佇むエアジハードの姿が、そこに映し出されていた。
「だがそれ以上に、精神面での成長を感じるよ。心の軸が定まり、脆さや危うさが抜け落ちたことで、GⅠ馬らしい盤石の強さを見せるようになった……などと言ってしまうと、親馬鹿のように聞こえるかもしれんがね」
「いえ……私もそう思います。今のジハードは、昔とは違う」
かつてのエアジハードには、時折見せる年相応の脆さと、レースぶりを感情に左右されがちな危うさがあった。
しかし今は、それがない。
トレーナーの伊藤が盤石と形容するほどに、その精神は完成の域に近付いている。
「あの強固な精神……高い理想と目標を掲げ、そのための努力を惜しまない姿勢は……私と競い合っていた頃とは別人のようです」
「……何か、言っていたのかね? あの子は君に」
「ええ……」
頷き、エアグルーヴは思い返す。
自分を打ち負かした従妹と、テーブルを挟んで会話した時のことを。
二週間前。昼時で賑わう学園の食堂。
隅のテーブルで食事を摂っていたエアジハードの向かい側に、エアグルーヴは自分のトレーを置いた。
そのまま椅子に腰を下ろしつつ、静かに語りかける。
「昨日の今日で、もう監督と話をつけてしまうとは……近頃のお前は行動的だな」
「……聞いてたの?」
「どうやって代表の枠を獲る気なのかが気になったからな。悪いが盗み聞きさせてもらった」
「そう……」
淡々と応じつつ、エアジハードは箸を置く。
そして椀に注いでいた茶を一口啜り、冷静な目をエアグルーヴに向けた。
「……で、何か用? 何か文句をつけたそうな顔してるけど?」
「別に、文句を言いたいわけじゃないが……」
エアグルーヴは難しい顔になり、食事に手をつけないままテーブルに目を落とす。
「本当に良かったのか? あの条件で」
「私とキングヘイローが高松宮記念で勝負して、勝った方が日本代表になる……ってやつのこと?」
「ああ……」
エアグルーヴとて実力主義者だ。
日本代表となる者をレースの結果で決めるということ自体には、何の文句もない。勝負の世界である以上、結果を出した者が権利を得るのは当然だと思っている。
ただしそれは、勝負の条件が公平だった場合の話。
「最優秀短距離馬とはいっても、お前はスプリンターではなくマイラーだ。しかも中距離寄りのな。高松宮記念の千二百メートルが十全の力を発揮出来る舞台とは思えない」
競馬用語における「スプリント」とは千四百メートル以下の距離を指し、「マイル」とは千六百メートルを指す。
前者を得意とする者はスプリンター、後者を得意とする者はマイラーと呼ばれる。
日本では短距離馬という言葉で一括りにされがちだが、スプリンターとマイラーの間には適性面で大きな隔たりがあるのが実情だ。
ほんの数百メートルの距離の違いで、競馬のレースは全くの別物に変わる。
「絶対に負けられない勝負なら、もっと自分に合った条件のレースに――」
「ブリガディアジェラード」
唐突に、エアジハードは一つの名を口にした。
「ミルリーフと並ぶ英国競馬界の双璧。≪ザ・ブリガディア≫の異名で知られる稀代の名馬だ。知ってるだろ?」
「あ、ああ……」
急な話題の転換に戸惑いながらも、エアグルーヴは頷く。
近代競馬発祥の地である、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国。
日本では「イギリス」や「英国」などと呼ばれているその大国の頂点に立つ競走馬が、ブリガディアジェラード。
マイルから二千メートルまでの距離で無類の強さを誇り、十八戦十七勝という圧倒的実績を積み上げた歴史的名馬だ。
その名は海を越え、世界中に轟いている。
「彼女は十七のレースで勝利を収めてるけど……その中のベストレースって言えるのって、どれだと思う?」
「……ミルリーフを破った二千ギニーか……あるいは、十馬身差で勝ったグッドウッドマイルか……」
「私は、キングジョージだと思ってる」
キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスステークス。
毎年七月にアスコット競馬場で行われる、英国競馬界の中長距離王者決定戦。
芝の十二ハロン――約二千四百メートルを舞台にしたそのレースは、ブリガディアジェラードが走ったレースの中で最も距離が長い。
「マイルから十ハロンを得意とするジェラードにとって、十二ハロンのキングジョージは明らかに距離が長いレースだった。レース前からそれを不安視する声はあったし、実際その不安は的中した。慣れない長距離戦に彼女は苦しみ、かつてないほど追いつめられていた」
異国の名馬のレースを我がことのように思い返し、エアジハードは語る。
「けれど、彼女は勝った。最後の直線で二度もよろめき、肉体も精神も限界を迎えながら……それでも勝利をもぎ取った。私はあのレースにこそ、≪ザ・ブリガディア≫の強さの本質が表れていたと思う」
己の限界を踏み越えて走り抜き、勝利を掴む強さ。
それこそが並の一流馬と歴史に残る名馬を隔てる、決定的な差に他ならない。
「距離が向いてないだとか、コースの形や状態がどうだとか、そんなつまらないことを言い訳にはしない。真の強者は走るべきレースから逃げず、戦うべき相手に背を向けない。いつどこで誰が相手だろうと、勝つべき時は必ず勝つ」
誇り高き走りをもって、最強馬たる者のあるべき姿を体現したブリガディアジェラード。
その生き様に敬意を抱きながら、迷いなく断言する。
「私もそうなる。――なってみせる」
凛とした声音から滲むのは、遥かな高みを目指す覚悟だった。
レースの距離など関係ない。千メートルでも三千メートルでもいい。どこの競馬場が舞台で誰が相手だろうと構わない。
多少の不利など実力で跳ね除け、世界に挑む資格を必ずや掴み取る。
そんな意思を感じ取ったエアグルーヴは、気圧されたように固まったまま、掠れた声で問いかけた。
「あの軍神に……ブリガディアジェラードになりたいのか? お前は……」
「なりたいんじゃない。勝ちたいんだよ」
訂正を求めるように言い、エアジハードは僅かに眼差しを鋭くする。
「日本代表になってワールドカップに行けば、ジェラードともきっと戦える。私の全てをあの人にぶつけて、真っ向から打ち破ることが出来る」
自身が英国最強馬に挑み、勝利する瞬間。
彼女はそれを、いずれ実現する未来像として見据えていた。
「それが私の最終目標……命を懸けて走り抜くレースのゴールだ」
「ブリガディアジェラードのような競走馬になると……ワールドカップの舞台でブリガディアジェラードに勝つのが目標だと……そう言っていました」
「大英帝国の軍神≪ザ・ブリガディア≫を目標に定める、か……ふふ……実にあの子らしい」
伊藤は肩を震わせ、可笑しそうに笑った。
「途方もない目標だがね。無理だとは言わんよ。飽くなき向上心で自らを磨き続け、誰もが驚くような成長を遂げてきたのが彼女だ。流石に現時点では敵わんだろうが、このまま秋まで順調に成長し続ければ……そう思わせてくれるだけのものは、確かにある」
笑いながらも、その目は真剣だった。
老齢のトレーナーが愛弟子に寄せる期待と信頼を推し量り、エアグルーヴは穏やかに微笑む。
「先生のご指導の賜物ですよ」
どれほどの才能の持ち主も、一人では強くなれない。
名馬の華々しい活躍の裏には常に、それを支える人間達の苦労がある。
「あのジハードがここまでになるとは、正直私も想像していませんでした。我の強い彼女と先生が辛抱強く付き合い、様々な形で支えて下さったからこそ――」
「何もしとらんよ。私は」
表情と声音を冷静なものに変え、伊藤は言う。
それを謙遜と受け取りかけたエアグルーヴだったが、続く言葉には耳を疑った。
「練習場所も練習内容も出走するレースも、全てジハードの意思に任せている。私はただそれを黙認しているだけだ。……もう二年も前からね」
「え……?」
「私の言うことなど聞いてはくれんのだよ。あの子は」
ターフビジョンを見つめる老人の横顔は、一抹の寂しさを帯びていた。
「誰にも頼らず、自分の力だけで強くなる。……それがあの子の決意であり、ここまでの強さを得た理由なのだからな」
競馬場のスタンドには一般客用の席とは別に、関係者以外立入禁止の区画に設けられた関係者専用の席がある。
関係者ではないのにその場に不法侵入した少女――サングラスやらマスクやらニット帽やらで顔を隠した不審者は、敵の本拠地に忍び込んだ工作員のような足取りで歩を進め、目当ての人物が座る席の後ろで立ち止まった。
マスクの下でにやりと笑い、懐から黒光りする拳銃を取り出す。そしてその銃口を相手の後頭部に押し当て、引き金に指をかけた。
「動くな」
自身の絶対的優位を確信しながら、どすの利いた声を放つ。
「そのまま両手を上げて、ゆっくりとこちらを向け。従わなければ撃――ぶへっ!?」
言うのを楽しみにしていた台詞を言い終える前に、相手の繰り出した裏拳が炸裂。
殺人的な威力の一撃を顔面に受けた不審者は、鼻血を盛大に噴き出しながら仰向けに倒れた。
力が抜けたその手から、モデルガンが零れ落ちる。
「そ、そんな……ちょっとしたドッキリのつもりだったのに、そんなガチめの一撃をお見舞いしてくるなんて……ごふっ……」
「ああ何だ、あんただったの? 何か変なのが寄ってきたのを感じたから、考えるより先に手が出てたわ」
席に座ったまま振り返り、リコは冷めた声で言う。
拳を叩き込んだ相手が知り合いだと判明しても、別にどうとも思っていない様子だった。
「……しれっと言ってますけど、これ……下手したら死んでる威力な気が……」
「死んでないんだからいいじゃない。ていうか、人に後ろから銃口向けてくるような奴は死なせちゃっても別にいいかなって思ったりするし」
「モデルガンですってばー……リコさんがビビッておしっこ漏らすとこが見たかっただけなんですよー……」
「はいはい、そりゃ悪かったわね。今ので昇天してくれなかったのが残念だわ」
戯言を適当にあしらい、溜息交じりに尋ねる。
「――で、何であんたがここにいるのよ? フォルリ」
名を呼ばれると全身黒ずくめの不審者は起き上がり、サングラスの上にある眉を八の字にした。
「あの、リコさん……今更ですけど、ちょっと反応薄くありません……? フォ、フォルリ!? な、何故貴様がここに!? ……って感じの衝撃的な再会シーンを期待してたんですけど……」
「普通は驚くとこかもしれないけどね。何かあんたの場合、いつどこで見かけてもしょうもないもの見たような脱力感しか覚えないのよ。そろそろどっかから湧いて出てくる頃じゃないかと思ってたし」
「ひ、ひどい……人をそんなゴキブリみたいに……」
「ていうか何よその格好。競走馬辞めて銀行強盗に転職したの?」
「あっ、これですか? これはもちろん、変装です!」
意味もなく親指をビシっと立て、少女――フォルリは力強く宣言する。
リコは死ぬほど面白くない漫才を見せられた直後のような顔で、割とどうでもよさそうに問いを重ねた。
「それが変装として成立してるかってのは、まあ置いとくとして……何であんたが変装する必要があんのよ?」
「えー? 分かりません? 有名税ってやつを回避するための策ですよー」
何故そんなことも分からないのか、この馬鹿は――とでも言いたげな様子で、フォルリは大仰に肩を竦める。
「自分で言うのも何ですけどぉ、私って競馬界のアイドルっていうか、結構なビッグネームじゃないですかぁ。そんな私が素のままでそこら辺歩いてたら一般人のモブ共がワーワーキャーキャー騒ぎながら寄ってきて、色々とクソめんどくさいことになりますからぁ、出来るだけ目立たない格好で行動することにしたんですよー。任務遂行のためなら可憐な美少女フェイスを隠すことさえ厭わない私。まさにプロフェッショナルの鑑と言え――」
「誰も知らないわよ。あんたのこと」
「――え?」
「ここはアルゼンチンじゃなくて日本だから、誰もあんたのことなんて知りゃしないわ。顔隠す必要ゼロよ」
冷静に告げられると、フォルリは受け入れ難い真実に直面したかのように狼狽した。
「い、いや、そんな……じょ、冗談ですよね……?」
「そう思うなら、そこら辺の観客つかまえて私はアルゼンチンのフォルリですって名乗ってみれば? 何言ってんのこいつって顔されるから。絶対」
「い、いやでも……うちの国って一応、国際パートⅠ……」
「パートⅠって言ってもピンキリだからね。割とキリの方って思われがちなのよ、うちは。こっちにはろくに情報入ってきてないから」
残念ながら事実である。アルゼンチンの競馬は、日本の競馬ファンにとって馴染みが薄い。
アルゼンチンに競馬があること自体を知らない者も多い。
「そういうわけであんたの知名度なんてゼロだから、その強盗コスプレやめてくれない? 見てるこっちが恥ずかしくなってくるんだけど?」
「そ、そんな……アルゼンチンの至宝たるこの私の名が轟いてないなんて……何ていう悲劇的惨状……」
がっくりと肩を落としてから数秒後、フォルリは乱暴な手つきでサングラスとマスクを外し、ニット帽を脱ぎ捨てた。
金糸のように艶やかな栗毛がはらりと落ち、実年齢より大分幼く見える童顔が露わになる。
「やっぱジャップってクソですよね! 救い難い無知蒙昧なイエローモンキー共です! アメ公の舎弟みたいなポジションから永遠に抜け出せない劣等民族です! そんなんだからキモオタとニートとロリコンとペドばかり量産するんです! ゴミにも程があります!」
何故か日本人に対する憎悪を燃やし、人目もはばからず差別発言を連発する後輩の姿を見て、リコは思った。
いいから鼻血拭けよ、と。
大観衆が詰めかけた、スタンド前の立ち見エリア。
その最前列――ゴール板を正面に臨む位置に、セイウンスカイ、グラスワンダー、スペシャルウィークの三人は立っていた。
高松宮記念の発走時刻が近付き、周囲の熱気が徐々に高まっていく中、セイウンスカイがおもむろに口を開く。
「ねえ、グラスちゃんにスペちゃん……今日は私達、キングの応援に来たんだよね?」
「ええ……」
「うん……」
「エルちゃんは練習の都合で来れないみたいだから、私達三人でここに集まって応援しようって……そういう話だったよね?」
「はい……」
「そうだね……」
現状を確認するような問いかけに、グラスワンダーとスペシャルウィークは微妙な顔で応じる。
彼女達三人がそんなやりとりをしているのには、相応の理由があった。
高松宮記念に出走するキングヘイローを応援するためやってきたこの場所で、想定外の事態に直面していたのだ。
「じゃあさ……」
セイウンスカイは、首を横に向ける。
「さっきから私達と一緒にいる、その見慣れない人は……誰?」
そこにいたのは、非常に目立つ風貌の少女だった。
ロックシンガーが着るステージ衣装のような――とでも言うべきだろうか。肌の露出度が高い黒ずくめの服を着ており、乱雑に伸びた髪は不気味な紫色に染められている。
その少女が何者かという問いに対して、グラスワンダーとスペシャルウィークは答える術を持たなかった。
細長い耳と尾を見る限り、どうやら自分達の同族のようだが――知り合いでは全くない。
本当に、どこの誰だか分からないのだ。
中京競馬場の敷地内に踏み入ったあたりから既に、無言のまま背後霊のようについてきていた。
最初はたまたま同じ方向に進んでいるだけかと思ったが、いつまで経っても離れていかず、ついには今日の観戦位置と定めた場所までついてこられてしまった。今も当然のように、自分達のすぐ隣に立っている。
はっきり言ってしまえば、薄気味悪かった。
キングヘイローの応援に意識を傾けたいのに、その存在が気になって今一つ集中出来ない。
そういうわけで三人が微妙な顔を並べていると、少女の方もそれに気付いたらしく、小首を傾げながら口を開いた。
「何の話してるの?」
「いや、あなたの話だけど……」
「……? わたしの何が、そんなに気になるの?」
「いや、何がっていうか……存在自体が……」
割と直球な疑問を、セイウンスカイは口にする。
少女はようやく合点がいったのか、「何だそんなことか……」とでも言いたげな顔で疑問に答えた。
「わたしは、ただの迷子」
「ま、迷子……?」
「うん。フォルリとはぐれた」
「フォルリ……?」
「一緒に来た子。ちっちゃいけどわたしより年上。明るいふりして実は陰険。時々ゴミを見る目でわたしを見てる」
「……」
「でもフォルリがいないと国に帰れないから、今すごく困ってる」
「……」
「だから、あなた達と一緒にいることにした」
「いやいやいや……あの、全然意味分からないんだけど? 論理が飛躍しすぎっていうか、迷子なことと私達と一緒にいることが一ミリも繋がってないよね……?」
訳が分からない女だと思っていたが、事情を聞いても全く訳が分からなかった。
フォルリという名の知り合いとはぐれたことだけは理解出来たが、その後の結論が意味不明だ。話の前後に繋がりがなさすぎる。
「すごく丁寧に説明したのに……分かってもらえなくて悲しい」
「説明になってないくらい雑だった気がするんだけど……」
「あなた達と一緒にいれば神様か何かがわたしとフォルリを引き合わせてくれるって、わたしの第六感的な何かが言ってる。要約するとそういう話」
「…………うん、分かった。色々分からないんだけど、もう分かったことにしとくよ。頑張ってね」
意思疎通が困難な相手であることを悟ったセイウンスカイは、面倒臭くなって会話を打ち切った。
一方グラスワンダーは、ふと疑問を抱く。
(あれ……? この人……)
派手な外見とは裏腹に、どこか茫洋とした雰囲気を纏った少女。
その姿が、記憶にある何かと重なり合う気がした。
(前に、どこかで見たような……)
しかし、詳細を思い出すことは出来ず――そのまま高松宮記念の発走時刻が近付いていった。
「で……結局あんたは何しに来たのよ?」
リコが投げかけたその問いに、フォルリはハンカチで鼻血を拭きながら答えた。
「そんなの決まってるじゃないですかぁ。栄えあるアルゼンチン代表偵察部隊の隊長に就任したんで、記念すべき初任務として偵察に来たんですよー。副隊長のキャンディさんと一緒に」
「……キャンディって、あの馬鹿のことよね?」
「ええ。あのクソ馬鹿のことです」
当然のように肯定されると、リコは何とも言い難い微妙な表情になった。
「偵察部隊だか何だか知らないけど、何であんなのを連れに選んじゃうのよ?」
「他に適任者がいなかったっていう、至ってシンプルな理由です」
「まあ……そうね。あんた陽キャのふりしたぼっちだし。割とガチでみんなから嫌われてるし」
「ひどっ!? 私ぼっちなんかじゃないですよー! 友達たくさんいますよー! 人望ありまくりですよー! 今回はたまたま、日本に偵察に行くって言ったらついてきてくれる人がキャンディさんしかいなかっただけですー!」
「はいはい。で、その唯一のお友達は今どこにいんのよ?」
「分かりません」
「は?」
「ちょっと目を離した隙にどっか行っちゃいました。今どこで何してやがんのか一切不明です」
元々戯言に付き合う気分ではなかったリコだが、その返答で完全にやる気を失った。
小さく溜息をついてから、パドックを映したターフビジョンに視線を戻す。
「……何でもいいけど…………もうすぐレース始まるから、ちょっと静かにしててくれる?」
レース発走の約二十分前。
十八名の出走馬がパドックに佇む時間も終わりを迎え、番号順に地下馬道へと姿を消し始めていた。
大一番に臨む自らの教え子――緑の勝負服に身を包んだキングヘイローの様子を、リコは静かに見守る。
勝敗への関心とは別種の感情を、その眼差しに込めて。
「グッバイヘイローの娘さんらしいですね。あの緑の子」
外したサングラスの代わりに大きな丸眼鏡をかけながら、フォルリは言う。
その声音は、先程までとは明らかに違っていた。
「リコさんが自ら選んだ代表メンバーの一人が、あの子って聞きましたけど?」
「……そうよ。あの子が、うちのチームの短距離担当」
リコが前を向いたまま答えると、フォルリは笑った。
「いいんですか? あんなので」
彼女が浮かべたその表情は、嘲りと蔑みを色濃く含む、冷ややかな笑みだった。
「これまでの競走成績見てもパッとしませんし……さっきパドックでじっくり観察してみましたけど、正直イマイチでしたね」
キングヘイローの全てを見抜いたような口振りで、大国アルゼンチンの名馬は語る。
「身体の作りも身体の使い方も積み重ねた鍛錬の程度も、全て平凡。私の敏感な強者センサーにビビッとくるものが一つもありませんでした。期待外れです」
辛辣な評価を、リコは真剣な面持ちで聞いた。
競走馬の能力や性質について語る時、フォルリの言葉には嘘がない。
このふざけた少女が深い知識と確かな眼力の持ち主であることを、リコは知っている。
「どうせ短距離担当にするなら、あの十八番の子の方がよかったんじゃありません?」
「エアジハードね。あんたの目からは、あっちの方が良く見える?」
「ええ。比べようもないくらいに」
一番人気を背負う、八枠十八番。
カナリア色の勝負服に身を包んだエアジハードは、静かな気迫を滲ませながら歩を進めていた。
「しなやかで無駄のない歩様……正中線が空の頂まで真っ直ぐに伸びるような、美しい立ち姿……このレースの出走馬の中では、明らかに頭一つ抜けています」
「どう思う? グラスちゃん」
隣に立つセイウンスカイにそう尋ねられ、グラスワンダーは首を傾げた。
「どうって……?」
「このレースのこと。……正直な話さ、キングはジハードに勝てると思う?」
グラスワンダーはキングヘイローと三度、エアジハードと二度、レースで対戦した経験を持つ。
それに基づく意見を求められたことには、すぐに理解が及んだ。
正直に答えるのは、心情的に難しかったが。
「……スプリント戦への適性という面では、ヘイローさんに分があります」
ターフビジョンに映るキングヘイローの姿を注視しながら、慎重に言葉を選んで語る。
「あくまで私の中での印象ですが……ジハードさんは中距離寄りのマイラーで、ハイペースの消耗戦よりミドルペースの決め手勝負で強みを発揮するタイプです。距離が短い分ハイペースになりがちなスプリント戦が向いているとは思えません」
距離や馬場を問わないオールラウンダーというのは、そうそういるものではない。
多くの競走馬には得手不得手があり、不得手な条件のレースでは格下相手に遅れをとることも珍しくはないのだ。
そうした観点から言えば、今回のエアジハードは大きな不安要素を抱えている。
「対するヘイローさんは去年のスプリンターズステークスで三着に入った実績があり、この距離では一線級と互角にやれることを証明済みです。ヘイローさんの勝ち気な性格と合っているのでしょうか……もしかしたらマイルや中距離よりこちらの方が向いているのではとさえ、個人的には思えました」
中京競馬場の千二百メートルを舞台に戦うなら、状況を味方につけるのは高いスプリント適性を持つキングヘイローの方だろう。
それは気休めなどではなく、両者の性質を知るグラスワンダーの正直な見解だった。
「ですが……」
僅かに表情を曇らせ、目を逸らせない事実を告げる。
「慣れや適性といった要素を除いた、純粋な競走能力……スピードやスタミナの絶対値では、ジハードさんの方が数段上です」
結局のところ、最後にものを言うのは実力。
適性面の有利を生かしてキングヘイローが勝利する光景が、グラスワンダーにはどうしても想像出来なかった。
多少上手に立ち回った程度では覆せないだけの差が、両者の間にはあるのだ。
「ま……そうだよね」
淡々とした様子で、セイウンスカイはグラスワンダーの意見を肯定した。
「確かに地力じゃジハードのが上だよ。現状だとキングは、色々な面でジハードに比べて劣ってる」
GⅠ未勝利のキングヘイローに対し、エアジハードはGⅠ二勝。
ここまでの対戦成績は、エアジハードの三戦全勝。
実績からも直接対決の結果からも、エアジハードがキングヘイローより格上であることは明らかだ。誰に意見を求めたところで、きっとグラスワンダーと同じようなことを言うだけだろう。
それを理解し、否定しようがない事実として受け入れた上で、セイウンスカイは言葉を続けた。
「でも……全てで劣るわけじゃない。キングがジハードに優ってる部分だってある」
ある意味では本人以上に、彼女はキングヘイローという競走馬を理解していた。
そして、信じていた。
キングヘイローが今日まで努力を重ね、血反吐を吐くような思いで作り上げた「強さ」は、エアジハードのそれにも決して負けはしないと。
「だから、心配いらない」
隣に並ぶ仲間達に顔を向け、淡く微笑む。
「キングはこのレースを勝って、表彰台に上がるよ。必ずね」
パドックを出て、本馬場へと続く地下馬道を一列に進む、高松宮記念の出走馬十八名。
その列の後ろから六番目に位置するキングヘイローは、静かな足取りで靴音を響かせながら、自分自身の中にある不安や緊張と向き合っていた。
今日のレース、当然ながら敵はエアジハードだけではない。
去年のスプリンターズステークスの覇者、八枠十六番ブラックホーク。
フランスでGⅠアベイ・ド・ロンシャン賞を制した実績を持つ、三枠五番アグネスワールド。
前哨戦のシルクロードステークスを快勝して勢いに乗る、二枠三番ブロードアピール。
いずれも、日本競馬の短距離路線では屈指の強豪だ。他の面々も実績馬ばかりで、簡単に勝てるような相手は一人もいない。
そんな連中と戦うことに不安を全く覚えないと言えば、酷く滑稽な虚勢になってしまうだろう。
レースが始まるのが怖い。ゲートのある場所に行きたくない。
出来ることなら、今すぐこの場から逃げ出してしまいたい。
そうした弱音を吐き続ける自分が心のどこかにいるというのが、正直なところだ。
我ながら情けないと思い、溜息が出る。しかし一方で、そんなものかもしれないと納得してしまう自分もいた。
勝負から逃げたいと思う気持ちや、負けるのが怖いと思う気持ちは、きっと誰の心の中にもあるものだ。どれだけの強さを持ったとしても、弱い心を完全に消し去ることは出来ない。
大切なのは弱さを捨てることではなく、抱えること。
自分自身の本音と向き合い、競馬場に背を向けたい衝動に駆られながら、歯を食いしばって前に進む強さを持つこと。
それが出来る者だけが、名馬と呼ばれる存在になれるのだろう。
「十一度目……か……」
誰にともなく呟く。
GⅠレースに挑むのは、これで十一度目。同期のライバル達が順調にタイトルを重ねていく中で、十度も敗戦を重ねてきたのだ。
華々しいなどとは、お世辞にも言えない戦績だろう。
格下の連中に陰口を叩かれ、物笑いの種にされてしまうのも無理はない。
観客席にいる人々も、テレビやスマートフォンの画面越しに競馬を観ている人々も、もう自分のような凡才には何も期待していないのかもしれない。
けれど――
「関係ないわね。そんなこと」
決然と言い放ち、顔を上げた。
何度目の挑戦だろうがこれまでの戦績がどうだろうが、そんなことは関係ない。周囲の目や世間の評価なども、気にする必要は一切ない。
今の自分がやるべきことは、たった一つだけ。
「今日、ここで勝てばいい。――ただそれだけなんだから」
千二百メートルを全力で走り、ゴール板の前を先頭で通過する。
それだけでいい。
ただそれだけで、道は拓ける。
今度こそ本当の意味で、世界の頂点を目指すチームの一員になれる。
胸に抱えた弱さに克ち、気力を漲らせた瞬間。キングヘイローの脚は長い地下馬道を抜け、大観衆の視線が集まる本馬場に踏み入った。
『GⅠの称号よ今度こそ! 七枠十三番はキングヘイロー!』
入場アナウンスが響き渡り、歓声が湧く。
駆け足に移って正面スタンド前を横切りながら、彼女は束の間だけ思い返した。
今日のレースを勝つために乗り越えてきた、短くも過酷な日々を。
キングヘイローとセイウンスカイに課された「障害練習」は、第二段階に入ってから別物のように難度が上がった。
地面に並べられていたロープは陸上競技用のハードルに変わり、より正確な飛越が必要になった。走る回数は日を追うごとに増やされていき、慣れないハードル走の繰り返しは二人の身体に重い疲労を蓄積させていった。
それをやり遂げた後に移行された第三段階は、最早障害レースそのものだった。練習場の一角にある障害馬専用のコースを借り、短い距離ではあるが本物の障害物を用いた模擬戦が行われたのだ。
そして、練習開始から七日目の夕刻。
「はいお疲れ様。今日はここまででいいわよ」
リコがそう言った時、キングヘイローとセイウンスカイの二人は既に体力を使い果たし、地面に座り込んだまま立ち上がれない状態になっていた。
「なかなか飛越が様になってきたじゃない、ヘイローちゃん。タイムも縮まってきたし、この調子なら本番でも良い結果が出せそうね」
優しい声音で、着実な進歩を見せ始めた教え子を褒めるリコ。
しかしその言葉には、続きがあった。
「――って、言ってあげたいとこなんだけどね。ほんとは」
キングヘイローを見下ろす目から、一切の感情が排される。
「ただGⅠを獲るってだけならまだしも、あのジハードちゃんに真っ向勝負で勝つ気なら……これでもまだ足りないってのが、正直なところよ」
それを聞いて青褪めたのは、キングヘイローではなくセイウンスカイの方だった。
リコが言わんとしていることの危険性を悟った彼女は、半ば反射的に口を開く。
「リコさん、これ以上は……」
「分かってる。……私だって元競走馬よ。今のあなた達がどれだけきつい状態かは、十分理解してるつもり」
肉体を強化するための練習も、度を越せば肉体を痛めつけるだけの行為に変わる。
今の二人が――特にキングヘイローがその一歩か二歩手前の状態にあることは、リコも承知の上だった。
これ以上無理をさせれば、無事でいられる保証はない。
「だから強制はしない。これから私がする問いへの答えは、あなたの意思で決めていいわよ。ヘイローちゃん」
下を向きながら荒い呼吸を繰り返し、体中の水分が出尽くしそうなほどの汗を垂らすキングヘイロー。
その姿を見つめ、静かに問う。
「まだ、やれる?」
それは、背中を鞭打つに等しい言葉だった。
既に限界近くまで追い込まれているキングヘイローに、立ち上がって再び走ることを求めているのだ。
身体のどこかを壊し、二度と走れなくなる危険を知りながら。
「無理と判断したなら、そう言ってくれていいわ。別に責めたりしないから」
問いに対する答えを、キングヘイローはすぐには返さなかった。
彼女自身、答えを見つけられないでいたのか。無言で俯いたまま苦痛と苦悩に苛まれた姿を晒し続けた。
その口がようやく開いたのは、何十秒も経った後だ。
「前に……」
掠れた声で、囁くように言う。
「前にあなたと勝負して、負けた時……私に言ったわよね? 今の自分じゃどうやっても勝てない化物が、十人はいるって……」
「……ええ、言ったわ」
「合宿に来た、あのシアトルスルーも……その中の一人……?」
「そうよ」
「あんなのが……他にまだ、九人もいるのね……?」
「ええ」
「じゃあ……」
地面を見つめる瞳に、絶望の影が差す。
「その十人より……あのシアトルスルーより強い人もいるの? 世界には……」
「……いるわ」
やや躊躇う様子を見せてから、リコは答えた。
短いがはっきりとした返答を聞き、キングヘイローは世界の広さを再認識する。
「そう……」
馬鹿げた話だと、つくづく思う。
全盛期より衰えた現在のリコでさえ、自分にしてみれば別次元の存在だ。どんな条件で何百回戦っても勝てる気がしない。
そんなリコがどうやっても敵わない者が十人もいて、その十人より格上の者までいるらしい。
信じ難いことだが、きっと事実なのだろう。
世界は広く、上には上がいる。分厚い壁の向こう側には、さらに分厚い壁が当然のように立ちはだかっている。
その全てを乗り越えなければ、一番にはなれない。
世界の頂点という場所は、まるで宇宙の果てのように遠い。
何をどう考えても、無理だ。自分のような凡才の――小さな島国の中でも一番になれない程度の脚で辿り着ける場所ではない。
「だったら……」
膝に力を込め、苦痛を堪えて立ち上がる。
「…………もっと、頑張らなきゃね」
地面を踏み締め、障害コースのスタート地点に向かって歩き出す。
もう一度走るために。
練習を続け、少しでも強くなるために。
「キング……」
セイウンスカイは呆然とした面持ちで、遠ざかっていく背中を見つめる。
静かに歩を進めながら、キングヘイローは呟いた。
「いくら頑張ったって、無駄かもしれない」
常に胸中にあった、不安と迷い。
それを口に出したのは、初めてのことだった。
「正直、そう思う時はあるわ。もう何十回も、何百回も……数えきれないくらい、そんな風に思ってる。何年経ってもGⅠの一つも獲れない私が、世界一を決めるような舞台で通用するわけないってね」
挑まなければならない敵は、あまりにも強い。
世界の頂点へと続く道は、悪夢のように険しい。
その事実に圧し潰されそうになり、何もかも放り出して楽になりたいと願う自分がいる。
いくら強がってみせても、本当の自分はいつだって弱音を吐いている。
「私はあなた達みたいな天才じゃないし……切れる脚はないし、スタミナもパワーもないし、頭も足りない。それは自分でも分かってる。けど……」
レースに出る度、自分の非才を痛感してきた。
敗北の悔しさを何度も味わい、子供の頃に抱いた夢が愚かな妄想でしかなかったことを思い知らされた。
一番強い競走馬――自分がそんなものになれる器でないことは、もうどうやっても否定出来ない。
「それでも……」
痛む脚を、前に進める。
心の奥底の弱音に抗い、歩き続ける。
現実を知り、自信と意地を砕かれた後も残った一欠片の何かを、短い言葉に変える。
「私は、まだ……諦めてないから」
彼女が走り続ける理由は、突き詰めればそれだけだった。
信念などという大仰なものではなく、責務や使命感の類でもなく、もっと純粋で真っ直ぐな気持ち。
レースに勝つことを――子供の頃に抱いた夢を諦めたくないという、どんな弱音も打ち砕く不屈の意思だ。
諦めないから、勝負から逃げない。
諦めないから、何度挫けても立ち上がる。
自分より遥かに強い相手にも、歯を食いしばって挑み続ける。
ただそれだけの話であり、彼女にとっては当然のこと。今までやってきたことをこれからも続けると表明しただけ。
しかしそれが、リコの胸を深く衝いた。
「――昔々のお話です」
奇妙な言葉が耳に届き、キングヘイローの歩みが止まる。
何かと思い振り返った先にあったのは、どこか寂しげに笑うリコの姿だった。
「地球の裏側のとある国に、調子こいた馬鹿がいました。他人より脚が速いことだけが自慢だったそいつは、金と名声が欲しくて競馬の世界に入り、順調に勝ち続けていました。相手が弱かっただけなのかもしれませんし、運が良かっただけなのかもしれませんが……そいつはアホなので自分が超すごい大天才だからだと都合良く解釈しました。そうしている内に同じくらいアホな取り巻き共に囲まれて無敵だ最強だと持て囃されちゃったもんで、そいつの勘違いはもう止まりません。自分こそが世界史上最強の競走馬だとかマジで思っちゃってる始末でした」
自らの教え子と目を合わせ、アルゼンチンの四冠馬は語る。
ふざけたような語り口にもかかわらず、その眼差しは真剣だった。
「でも……その勘違いも永遠には続きませんでした。他の多くの奴らと同じように、現実を知る時ってのがそいつにも訪れたのです」
自嘲の笑みを深め、絶望の記憶を明かす。
「ある日のことです。トレーニングをサボって街中を遊び歩いてたそいつは、見ず知らずのガキんちょに突然勝負を挑まれました。最初は相手にしないつもりでいましたが……まあ色々あって勝負を受けることにしたそいつは、ダメな悪役のテンプレをなぞるかのような恥ずかしい負けっぷりを披露してしまいました。自分より十歳以上も年下のガキんちょに何十馬身差かも分からないほどぶっちぎられて、頭の中が真っ白になるくらいの惨敗を喫してしまったのです。敗北を受け入れられなくて勝負の後にそのガキんちょをボコろうとした結果、逆にボコり返されるというダメすぎるオチまでつきました」
栄光の日々を終わらせた、一人の幼子。
上には上がいるという現実を突きつけてきた、血色の瞳の怪物。
「そう……調子こいてた馬鹿を完膚なきまでに叩き潰したそのガキんちょこそが、真の怪物だったのです。自分を世界最強だと思っちゃってた恥ずかしいアホは、本当の最強の前では話にならないクソザコでした。そのことを思い知らされた時、そいつのレースは終わったのです」
己の弱さへの呆れと、もう戻れない過去への悔恨が、その声音には滲んでいた。
「元々そいつには、夢とか信念なんてものはこれっぽっちもありませんでした。あったのは、アホどもに持ち上げられてる内に出来上がってたつまんないプライドだけ。それが砕かれた後はもう何も残ってなくて、一歩も前に進めなくなりました。自分を倒したガキんちょに再戦を申し込む勇気も持てず、競走馬を続ける気力も湧かず、何もかも放り出して一人寂しく競馬場を去っていきましたとさ。おしまいおしまい……っと」
話を締め括り、肩を竦める。
「まあそんなのが、今あなたの前にいるおばさんの昔話。アホらしすぎて声も出ないでしょ?」
明かされた過去に、キングヘイローはどう反応したらいいのか分からない。
リコは目を瞑った。
「自分より遥かに強い奴がいるっていう現実が受け入れられなくて、その現実に抗うことも出来なかった。胸の内に何もないまま、どこも目指さずに走り出してたから、どこにも辿り着けずに終わった。これはそんなしょうもない奴の、しょうもない話」
目を開け、前を見る。
諦めずに走り続ける少女を――かつての自分になかったものを持っている競走馬を、真っ直ぐに見据える。
「あなたは違うわ」
澄んだ声音で紡がれた言葉が、キングヘイローの胸に響いた。
「私に負けてもシアトルスルーの強さを目の当たりにしても、走り続けることをやめなかった。今だってそう。苦しさや悔しさに耐え抜いて、弱音を吐きそうになる自分に打ち克って、懸命に前に進もうとしてる。だから……」
寂しげだった自嘲の笑みが、優しい微笑みに変わる。
「あなたのレースは続いてる。まだゴールじゃない」
敗北と挫折を経験した女は、誰よりも強く信じていた。
自身の弱さを乗り越え、何度でも立ち上がれる者だけが、輝く未来に辿り着けることを。
「先頭を走ってた奴が失速して馬群に沈むこともある。一番後ろを走ってた奴が他の全員を抜き去ることだってある。……終わってみるまで分からないものよ? レースって」
レース発走の約五分前。
返し馬と呼ばれるウォーミングアップを終えた出走馬達が、バックストレッチに置かれたスターティングゲート前に集い、ゲート入りを待つ時間。
キングヘイローは、自身の最大の敵に歩み寄った。
「ジハード」
名を呼ばれたエアジハードは、首から上だけを僅かに動かす。
格上の相手の冷徹な眼差しを静かに受け止め、キングヘイローは言った。
「今日ここで私を倒して、日本代表になるつもりなのよね? あなた」
「……そう言った筈だよ。二週間前にね」
感情を見せず、平坦な声音で応じるエアジハード。
その内面に踏み込むように、鋭く問う。
「なりたいの? 世界一に」
「……」
「世界中の名馬が集まるレースで、勝利を手にして……世界で一番強い競走馬になるつもりなの?」
「当然だろ」
目を細めてから放たれた返答には、強い情念が滲んでいた。
「元々私は、そのつもりで今日までやってきた。それはこれからも変わらない。君には悪いけど、日本代表の座は私が貰う。日本最強の短距離馬としてドバイに行き、世界各国の名馬を倒す」
キングヘイローから視線を切り、背を向けて歩き出す。
「誰よりも強くなって、競馬の世界の頂点に立ってみせるよ。必ずね」
遠ざかっていく後ろ姿を見据えながら、キングヘイローは思った。
本気で言っている――と。
エアジハードの言葉には一片の偽りもない。彼女が世界一になるための努力を重ねてきたのは事実であり、だからこそ今の強さがある。
高い志と強固な精神を原動力とするその走りに、自分は三度に渡って敗れてきた。能力だけではなく内に秘めたものでも、自分と彼女の間には大きな差があったのだ。
けれど、今日は違う。
「私もよ」
そう言った瞬間、エアジハードが立ち止まった。
これから戦う相手――同じ夢を追う少女の背中に、本心からの言葉をぶつける。
「この世界に入る前から、私も目指し続けてる。世界の誰よりも強い競走馬を」
鼻で笑われるかもしれない。呆れられるかもしれない。
未だGⅠ馬にもなれていない凡才が「世界一」を口にしているのだから、身の程知らずの戯言にしか聞こえないだろう。
だが、それで構わない。
相手にどう思われようが、今この時だけは、胸を張って言うべきだと思った。
諦めるのが大嫌いな自分自身を、どこまでも貫くために。
「だからこのレース……あなたには譲らない。私が勝って、世界に挑む資格を掴む」
唇の端を吊り上げ、笑う。
積み重ねてきた過去を胸に抱き、譲れないものを背負った現在を踏み締め、目指すべき未来を真っ直ぐに見据えて。
誇りと自信を胸に、不敵な笑みで宣言した。
「キングにふさわしい走りを、見せてあげるわ」