学園の中庭に置かれたベンチに、浅黒い肌の少女は腰を下ろしていた。
手に持つスマートフォンの画面には、ファンファーレが鳴り響く中京競馬場の光景が映し出されており、彼女はそれをつまらなそうに見つめていた。
そこに、髪の長い少女がやってくる。
「あれ? 高松宮記念観てんの?」
浅黒い肌の少女は友人を一瞥した後、画面に視線を戻して答える。
「今日は練習なくて暇だからね。どっか出かける気分でもないから、これでも観てよっかって思っただけ」
「ふーん……」
画面を覗き込みつつ、髪の長い少女は微かな疑問を覚えた。
浅黒い肌の少女とはそれなりに長い付き合いだが、競馬中継を視聴している姿を見たのはこれが初めてだった。
元々、競馬に夢や熱意を抱いているタイプではないのだ。
競走は仕事と割り切っていて、GⅠだろうが何だろうが、自分と関わりのないレースにはほとんど興味を示さない。そんな性格の持ち主だ。
それに――
「このレースって、あいつも出てるんじゃなかったっけ?」
「あいつ?」
「キングヘイロー」
その名を告げられると、浅黒い肌の少女は一瞬固まった。
二週間前、彼女はキングヘイローと揉め事を起こしかけたばかりだ。
「ああ……出てるよ。それが?」
「あんた嫌いじゃん。あいつのこと」
「……別に、あれのために観てるわけじゃねーし」
吐き捨てるように呟き、眉間に皺を寄せる。
「てかさ、あんな鈍足が勝負に絡んでくるわけないじゃん。どうせまたレースが終わる頃に後ろからちょっとだけ伸びてきて、掲示板に入るのがやっとって感じでしょ? で……予想屋のおっさん達にいい走りだったとか褒められて終わり、と……アホらし」
画面の向こうでは、既に各馬のゲート入りが始まっていた。
静かな足取りで四番の枠に収まるキングヘイローに、浅黒い肌の少女は冷めた眼差しを向ける。
「勝てなきゃ意味ねーんだよ。親がすごかったってだけで、いつまであんなのを甘やかすんだっての。まったく」
「……」
キングヘイローを露骨に嫌悪する友人を、髪の長い少女はどこか物言いたげな顔で見つめた。
高松宮記念のスタート地点。
奇数番の八人の後に偶数番の九人、そして最後に大外十八番のエアジハードという順でゲート入りは進み、十八人全員がそれぞれの枠の中に収まった。
『高松宮記念、GⅠ。芝の千二百メートル。今年は十八人で争われます。マイネルマックスが収まって、最後にエアジハードです。十八人のゲートイン完了です』
係員がゲートから離れると同時に、発走台の上のスターターがスイッチを入れる。
ゲートの前扉が一斉に開き、十八人が放たれた矢のように飛び出した。
『スタートしました!』
芝を蹴り上げ、バックストレッチを駆け抜ける十八人。
勢いに任せて前に出る者と抑えて後ろにつける者に分かれ、瞬く間に隊列が出来上がる。
『十八人、綺麗なスタートを切りました! まず先行争いに入ります! アグネスワールド! しかしこれを制してシンボリスウォード! あるいはメジロダーリング! ダイタクヤマト四番手につけました! その後ろ、ブラックホークは五番手がっちりとキープ!』
アナウンサーが各馬の位置取りを正確に伝えていく。
目立って出遅れた者はおらず、大逃げのような奇策に出た者もいない。
全員が無難にスタートを決め、出足の速い順に並ぶ形になった、波乱のない幕開けだった。
『あとは六番手集団に内からタイキダイヤ! あるいはマイネルラヴ! その内からディヴァインライト! あるいはトロットスターです! あとはトキオパーフェクト! その後方にキングヘイロー! 後ろから六人目くらい!』
キングヘイローがいるのは、中団を形成するグループのすぐ後ろ。
中団と後方の境目辺りの位置だった。
『ブロードアピールが後ろから五人目! そのあとマイネルマックスとスピードスター、タイガーチャンプ、ストーミーサンデーの順です!』
一拍置き、アナウンサーは声に力を込める。
『そして最後方! ここにいました! 一番人気エアジハード!』
大外枠からスタートしたエアジハードの位置は、隊列の最後方。
前を行く十七人を射程圏に収めつつ、静かに脚を溜める戦法をとっていた。
(想定よりやや縦長気味……だが、慌てるほどの誤差でもない)
先頭までの距離を目測し、エアジハードは内心で呟く。
僅かな誤差はあるものの、レースは彼女が思い描いていた通りの展開になっていた。
自身の位置取りも問題ない。今日は他の十七人を後ろから見る形でレースを進めると、もう随分前から決めていた。
従って、後は直線を迎えるまで脚を溜めるだけ。
この程度の差なら、先頭集団が多少粘ったところで容易く差し切れる。
そう思い、自身の勝利を揺るぎないものと信じながらも、彼女は言葉にし難い違和感を覚え始めていた。
(……何だ? この感覚は……)
何の問題もなく、想定通りに進んでいるレース。
目を引く奇策に出た者など一人もいない、平凡な展開。
けれど、何かがおかしい。どこかで何かが、通常のレースのそれとは微妙に違っている気がする。
そしてその違和感は、少し前を走るキングヘイローを原因としたものに思えてならない。
(気のせいか……いや……)
緑の勝負服を身に纏い、中団と後方の境目ほどの位置を淡々と走る対戦相手の背中に、視線を注ぐ。
確信に近い疑念を、その眼差しに込めて。
(奴が、何かをしている……?)
しかし彼女の洞察力をもってしても、違和感の正体をすぐに見破ることは出来なかった。
「ヘイローさん、いつもよりちょっと後ろかな……」
キングヘイローの位置取りを見て、スペシャルウィークが不安げに呟く。
グラスワンダーもそれに同調した。
「出遅れたわけではなさそうですが……ポジション争いでやや後手を踏んだのかもしれません。スプリント戦は開始数秒で勝負が決まると言われるくらい、スタート直後の争いが熾烈ですから」
ほんの僅かな位置取りの違いが、競馬のレースでは勝敗を分かつ要因となる。
自分にとっての理想の位置を他人に奪われてしまえば、その分を挽回するのは難しい。
決着までの時間が短いスプリント戦ではなおさらだ。
「問題ないよ。作戦通りだ」
薄い笑みを浮かべ、セイウンスカイが言う。
グラスワンダーとスペシャルウィークは首を傾げた。
「作戦?」
「今日はあれくらいの位置で勝負するって決めてたんだよ。いつもより後ろに寄ったあの位置取りには、ちゃんと意味がある」
彼女は全てを知っていた――というより、キングヘイローに今日の「作戦」を授けたのは、他ならぬ彼女だった。
「あれは――」
「ペースの操作」
説明を先取りするように呟いたのは、グラスワンダーでもスペシャルウィークでもない。
茫洋とした雰囲気を纏う、ロックシンガーのような出で立ちの少女だった。
「あの緑の子……周りの子達の意識を自分に向けさせながら、少しずつペースを落としてる」
僅かに細められたその両眼が、キングヘイローの走りを注視する。
「自分以外の十七人の内、十六人をあえて無視して、一番後ろにいるあの黄色い服の子に勝つためのレースをしてる。……そうでしょ?」
「う……うん……」
若干戸惑いながら、セイウンスカイは頷く。
何もかも今言われた通りだが――まさかレースが始まって三十秒も経たない内に、作戦の意図まで見抜く者がいるとは思っていなかった。
何故か自分達と一緒にいる、名も知らない少女。
一切の感情を見せないその横顔に、未知の生き物を見るような目を向けた。
(この人……)
前を走っていた一人が、ちらりと後方を確認する。
その挙動に合わせて、キングヘイローは少し――本当にほんの少しだけ、走る速度を落とした。
それに引き摺られるように、後方を確認した一人が自身の速度を落とすと、すぐに連鎖反応めいたことが起こった。
その周囲にいた数人も速度を落とし、さらにそれを見た数人も同様に速度を落としたことで、レース全体のペースが遅くなったのだ。
だがその事実に気付いた者は、この時点では一人もいなかった。
不自然なスローペースを意図して作り出した、キングヘイロー自身を除いて。
(ここまでは、作戦通り)
内心でそう呟き、キングヘイローは微かに笑う。
事前に想定していた通りに事は運んでいた。我ながら上出来だと感心しつつ、妙な感慨に一瞬だけ浸る。
(まったく、おかしなものね……)
緩急を巧みに使い分け、他人の目を欺き、レース全体を支配する狡猾な戦術。
自分が今披露しているこれは、自分本来の走りではない。
(さんざんあいつに騙されて、苦い思いをさせられてきた私が……今はあいつの真似をしてるんだから……)
変幻自在の脚を武器とする逃亡者、セイウンスカイ。
何度もレースで対戦してきたライバルであり、長い時間を共に過ごしてきた腐れ縁の相手。
その走りをこうして真似する日が来るとは、少し前までは思ってもみなかった。
「頼みがあるの」
三日前の日没間際。練習を終えて寮へと帰る途中、キングヘイローはセイウンスカイと向き合い、そう言った。
その真剣な眼差しを見て、セイウンスカイは怪訝な顔をする。
「どしたのキング? そんな改まって」
「……高松宮記念まで、あと三日。短い間だったけど、私なりにやれることはやってきたつもりよ」
自身の現状認識を、キングヘイローは静かに語る。
「身体が壊れる一歩手前まで自分を追い込んだし、一分一秒も無駄にせず練習に打ち込んできたと思ってる。以前より力をつけたって実感もある。でも……」
苦い感情が、声音に滲む。
「まだ、足りない。あいつ……エアジハードに勝つには、これで足りてるとは思えない」
障害練習の初日に目撃した、エアジハードの疾走。
その時受けた衝撃は、拭えない恐怖となって記憶に刻まれていた。
純粋な速さ比べで今の自分に勝ち目があるとは、残念ながら思えない。
「だから、こんなこと言いたくはないんだけど……あんたの力を……いえ、知恵を借りたいの」
苦い顔で溜息をつき、キングヘイローは目を瞑る。
本当に、こんなことは言いたくなかった。
借りを作るようで癪だったし、情けないと呆れられるかもしれなかったから。
「はっきり言ってあんたは色々と雑だし、私生活ではもう最低なくらいズボラだし、いい加減で不真面目で、たまに本気で蹴り入れたくなるくらいテキトーな奴だけど……」
「……」
「でも、正直……敵わないって思ってる」
「……」
「相手の実力を見抜く目とか、レースの展開を読む力とか、周囲の目を欺く奇策とか……そういった面で私はあんたに到底敵わないし、他の誰も敵わないんじゃないかとも思う」
目の前に立つ、腐れ縁の相手。
知略に長けた芦毛の二冠馬を見据え、確信を込めて告げる。
「私の知る限り、一番レースが上手い競走馬はあなたよ。セイウンスカイ」
つまらない意地を捨て、勝利を掴むために懇願する。
「だからお願い。教えて。もしあなたが今、私と同じ立場で、能力も適性も何もかも私と同じだったなら……あのエアジハードを相手に、どう戦うのかを」
セイウンスカイは目を瞑り、しばしの間沈思した。
それは十数秒程度のことだったが、返答を待つキングヘイローには、その何十倍も長い時間に感じられた。
やがて考えがまとまったのか、閉じていた瞼がゆっくりと開く。
「後ろから行く」
その一言から、説明は始まった。
「まずはっきり言っておくと、キングの脚は逃げには向いてない。テンからすごいスピードでとばせるってタイプじゃないし、スタミナにも難がある。私と同じようなレースをしようとしたら、直線半ばくらいで馬群に沈むことになるよ。ダービーの時と同じようにね」
惨敗したレースの記憶を掘り起こされ、キングヘイローは奥歯を噛む。
だが、文句や反論は口にしなかった。
セイウンスカイが真剣であることは、その表情を見れば分かる。
こちらの求めに真剣に応じようとしているからこそ、彼女はあえて辛辣な言葉を使っているのだ。
「だから道中は後ろから。それもいつもより少し後ろの、中団と後方の境目あたりが理想かな。ペースが遅かったら前目につけようなんて考えは最初から捨てて、後ろで出来るだけ脚を溜めてからの直線勝負って決めた方がいい。きっとキングは、そういう風に割り切った方が力を出せるタイプだから」
キングヘイローの性格も考慮した上で後方待機策を勧め、セイウンスカイは言葉を続ける。
「で……その後ろの位置で、ちょっとだけ細工をする」
「細工?」
「無難にスタートして普通に走って、自分を含めた全員の位置取りが大体決まったあたりで、少しずつ走るペースを落とすんだよ。みんなにバレないようにさりげなく、本当に少しずつね」
「それって……まさか……」
「そう。レース全体のペースを落とすための作戦だよ」
芦毛の二冠馬の眼差しは、冷徹な策士のそれと化していた。
「極端なハイペースや極端なスローペースは、走り慣れた人なら体感で分かるものだけど……もうちょっと微妙なレベルになると案外分からないものなんだよね。少なくとも、コンマ一秒や二秒の違いまで正確に把握出来てる人はまずいない。GⅠをいくつも獲るような強豪であってもね」
レースを走る者の多くが抱える、不正確な体内時計という欠陥。
レースを支配する術に長けた二冠馬は、それを誰よりも熟知していた。
「だからどんな人も、レース中は他人を気にしてる。周りと比べて自分のペースはどうか……後続を離しすぎていないか、先頭に離されすぎていないか……そんなことを考えながら走ってるってのが実情だよ。その習性みたいなのを利用して、意図的にスローペースを作り出そうってこと」
「言いたいことは、大体分かってきたけど……二つ疑問があるわ」
「何?」
「その作戦だと、私自身も後方に位置取ることになるのよね? それなのにわざわざレースをスローにする意味は……?」
コース形態や馬場状態にもよるが――基本的に、ハイペースのレースでは後ろにいる者が有利になり、スローペースのレースでは前にいる者が有利になる。
ハイペースでは前にいる者の消耗が激しいのに対し、スローペースでは消耗が少ないまま最後の直線を迎えられるからだ。
セイウンスカイの目論見通りスローペースを作れたとしても、自身が後方にいたのではその利を得られない。
「簡単だよ。一番厄介な相手のエアジハードは、キングよりもっと後ろにいるから」
「……どうして、そう言い切れるの?」
「強いから」
全てを見通した様子で、セイウンスカイは言った。
「今のジハードは去年より数段強くなってる。高松宮記念に出てくるGⅠ馬達と比べても格上だろうし、きっと本人もそれは自覚してる。そういう人がレース中に一番恐れるものって、何だと思う?」
「…………アクシデント、とか?」
「そう。勝負所で身体をぶつけられたり進路を塞がれたりして、実力を発揮しきれないまま終わること。それが一番怖い。だからそれを回避するために、多分ジハードは最後方あたりでレースを進める。道中は一番後ろを走って、コーナーでは誰もいない大外を回って、直線を迎えたら自慢の末脚で全員をごぼう抜きにする……抜けた実力がないと出来ない大味な競馬だけど、それがあるならリスクを最小に抑えられる安全策だ。今のジハードの実力や立場からして、その戦法を選ぶんじゃないかと私は見てる」
「だからペースを落とせってことね……スローになれば後ろにいる私は不利になるけど、私より後ろいるあいつはそれ以上の不利を受けるから……」
キングヘイローが納得して言うと、セイウンスカイは小さく頷く。
「全体で見れば不利を受ける側でも、ジハードとの比較で見ればほんの僅かにだけど有利になる。これはそういう話だよ。僅かな差だからって無意味だと思っちゃいけない。ほんの僅かなペースや位置取りの違いがゴール前でのハナやアタマの差になって、勝者と敗者を分ける。それが競馬だ」
どこか台本を読むように説いた後、ふっと笑う。
「――なんて、師匠の受け売りだけどね」
「師匠?」
「何でもないよ。それより、もう一つの疑問は?」
「…………すごく、根本的な疑問なんだけど……その……あなたの言う通りに動いたとしても……そんな都合よくスローペースになるとは思えないのよね。私は、そこまで注目される存在じゃないから……」
誰か一人が速度を落としたことで、他の何人かもそれにつられて速度を落とし、レース全体がスローペースになる――そういうことは、確かにあるのだろう。
しかしそれは、その「誰か」が周囲から注目される存在だった場合の話。
GⅠ実績のない自分がその条件に当て嵌まるとは、キングヘイローには思えなかった。
「そうだね。確かにそれはその通り。この手の作戦を成功させるには、自分が周りに注目されるような存在でなきゃいけない。まあキングの動向を気にしてる人も二、三人はいるかもしれないけど、それだけじゃちょっと弱いね」
セイウンスカイは唇を曲げ、少し意地悪な笑みを浮かべた。
「だから、目立って」
「は?」
「頭を丸坊主にしてくるとかダサい金ピカの勝負服着てくるとかレース前に大声で勝利宣言するとか、とにかく何でもいいから目立つように振舞って。馬鹿っぽくなってもいいから周りに注目されるようにして」
「……」
「言っとくけど真面目な話だよ。今日のこいつはいつもと違うぞ、何か仕掛けてくるだろうからよく見てなきゃいけないぞ……って思わせるのがこの作戦の肝だからね。恥ずかしがってちゃいけない。手段を選ばず、出来ることは何でもやらないと」
「真面目な話の割に、ちょっと楽しそうな顔に見えるけど……気のせい?」
「気のせい気のせい」
「まあ、いいけど…………善処するわ。今さら体面なんて気にしてられないしね」
渋々了承したキングヘイローは、セイウンスカイの顔をもう一度見た。
「それにしても……」
「ん?」
「いえ、何でもないわ。……あなたを信じて言われた通りにやってみるから、ちゃんと観ててよね。レース」
バックストレッチを通過した十八人は、先頭から順にコーナーを回っていった。
『各馬三コーナーに入って六百を切りました! メジロダーリングとアグネスワールド、二番手から前に並んでいった! そのあとはシンボリスウォード三番手! そしてブラックホーク! ブラックホークは五番手の外を回っています! タイキダイヤがその内!』
勝負所を迎え、各馬の位置取りがめまぐるしく入れ替わる。
その流れに合わせ、キングヘイローも馬群の外を回りながら進出していった。
セイウンスカイの教えに従い、ペースを操作するのはここまで。
ここから先は、純粋な力勝負。過酷な日々を乗り越えてきた自らの脚を信じ、ゴールまで駆け抜けるだけだ。
『第四コーナーから直線! キングヘイローが中団グループ! 今度はアグネスワールド先頭か!? アグネスワールドが先頭だ! アグネスワールド先頭!』
最終コーナーを過ぎてホームストレッチに入ったところで、それまで好位につけていた三番人気のアグネスワールドが先頭に躍り出た。
しかし簡単には行かせないと、後続馬も懸命に脚を伸ばす。
『あと二番手、内からディヴァインライト突っ込んできた! ディヴァインライト突っ込んでくる! そしてダイタクヤマト! 外からはブラックホーク! ブラックホーク!』
馬場の内側を通って追い上げるディヴァインライト。
しぶとく食い下がるダイタクヤマト。
外から徐々に差を詰めるブラックホーク。
余力を残していた者とそうでない者の違いが明確になり、優勝争いに絡む者が数名に絞られたかに見えた、その瞬間。
キングヘイローは、溜めていた力を解き放った。
上体を沈め、地面を強く踏み締めて、芝を蹴散らしながら疾走する。
『キングヘイローも追い込んできた! キングヘイロー追い込んでくる!』
外目を通るブラックホークのさらに外から、猛然と突き進むキングヘイロー。
その勢いは凄まじく、前方で先頭争いを繰り広げていたブラックホーク、アグネスワールド、ディヴァインライトらを一瞬にして抜き去った。
『外からキングヘイロー! キングヘイロー! キングヘイロー先頭だ!』
五番人気のGⅠ未勝利馬が名だたるGⅠ馬達を凌ぐ剛脚を見せたことに、スタンドは騒然となる。
だがその事実に誰よりも驚いたのは、当の本人だった。
必勝の気構えで勝負に臨んではいたものの、こうもあっさりと先頭を奪えるとは思っていなかったからだ。
軽い混乱と奇妙な感慨が、刹那の間脳内を駆け巡る。
(強くなってたの……? 私は……自分で思ってた以上に……)
日本代表に選ばれてからの一ヶ月は、本当に地獄だった。
ばんえい競馬だの障害競走だのと、常識では考えられないことを色々とやらされたし、身体が壊れる寸前まで何度も追い込まれた。
何でこんな馬鹿馬鹿しいことを――と不満を抱いたことも、一度や二度ではない。
しかしながらそれらの経験は、着実に自分の血肉と化し、知らずの内に競走能力を一段階上まで引き上げてくれていたらしい。
今なら信じられる。
この一ヶ月間の努力で培った、自分自身の強さを。
(少しは感謝しないといけないのかもね……あのクソ監督に……)
そう思うと何故かおかしくなり、少しだけ顔が綻んだ。
「やった! ヘイローさんが先頭だ!」
スペシャルウィークが歓喜の表情で叫ぶ。
隣に立つグラスワンダーの声も、僅かに高揚を帯びた。
「他の人達とは明らかに脚色が違います。これなら……!」
脚色とは競馬用語で、走りの勢いや様子を表す言葉だ。
競馬を見慣れた者なら、直線に向いた時の各馬の脚色を見れば、そのレースの勝者が誰になるかは大方予想がつく。
キングヘイローが今見せているそれは、明らかに勝者となる者のそれだった。
このまま何事もなく進めば、彼女の勝利は揺るがないだろう。
と、誰もが思いそうなところだったが――
「――喜ぶのは、まだ早い」
冷静に呟いたのは、ロックシンガーのような出で立ちの少女だった。
先程までの茫洋とした雰囲気は既になく、鋭く研ぎ澄まされた硬質な眼差しが、キングヘイローの勝利を脅かす存在を見据えていた。
「まだ一人、敵が残ってる」
「――っ」
言われて、グラスワンダーは思い出す。
そして同時に、目撃する。
馬場の真ん中付近を走るキングヘイローの、さらに外――外埒に近い大外から脚を伸ばす、カナリア色の名馬の疾走を。
「あれを倒さないと、このレースの勝者にはなれない」
動かし難い事実を告げるように、少女はそう断言した。
ぞくり、と――キングヘイローの肌が粟立つ。
それは、覚えのある感覚。
一ヶ月前、坂路でリコと対戦した際にも味わった怖気。
遥か格上の強者の接近に対して、自らの本能が打ち鳴らす警鐘だった。
「キングにふさわしい走りを見せる、か……」
背後から投げかけられる、冷静な声。
顔面を蒼白にして振り返ると、二馬身ほど後ろにエアジハードの姿があった。
「何を見せる気なのかと警戒してみれば……下らない。この期に及んでセイウンスカイの真似事とは、呆れ果てたよ。キングヘイロー」
その表情には、微塵の焦りも浮かんではいない。
敵の術中に嵌ったことによる動揺も、大外を回って追い上げてきたことによる疲労も見えない。
平時と変わらない無表情を保ったまま、小細工を弄した格下に軽蔑の眼差しを向けていた。
「他人の猿真似で私に勝てると? その程度の脚で世界の頂点が狙えると?」
静かに問いながらも、その脚は加速する。
吐息がかかるほどの至近距離まで、一瞬にして差を詰める。
「本当にそう思っていたなら、君に世界は遠すぎる。今すぐそこをどけ」
真横に並び、決然と言い放つ。
「頂点を争う場所には、私が行く」
その身に宿る力を完全解放し、さらなる急加速。
戦慄に凍りつくキングヘイローを抜き去り、単独の先頭に躍り出る。
隼が翼を広げて降下する姿に酷似したそれは、レースを観ていた誰もが瞠目するような、美しくも苛烈な激走だった。
鋭く踏み込み、力強く蹴り上げ、芝の上を駆け抜ける。
抜きん出た実力を大観衆の目に焼き付けながら、瞬く間に後続との差を広げていく。
『さらに外からエアジハード! エアジハードだエアジハードだ! エアジハードがここで先頭!』
大本命が先頭に躍り出たことで、アナウンサーは興奮気味にその名を連呼する。
スタンドでは、エアジハード絡みの馬券を握り締めていた者達が歓喜の声を上げる。
既に勝者が確定したかのような、その状況の中――沸き立つ場内とは対照的に、エアジハード自身は冷静だった。
勝利を目前にした高揚など、彼女の内面には微塵もない。負けられないレースを取りこぼさずに済んだという安堵もない。
全ては当然のこと。
いつも通りの走りをした後に、当然の結果がついてくるだけの話。
自分は、後ろにいる連中とは違う。小さな島国の中でドングリの背比べを繰り返すだけの競走馬で終わるつもりはない。
外の広い世界に踏み出し、そこで頂点を獲ることを夢見てきた。
誰よりも強くなるために、誰よりも厳しい練習を積んできた。
自分の夢が、自分一人だけの夢だと知った時から、誰にも頼らずに走り続けてきたのだ。
『目指せ! 日本一!』
そう書かれた貼り紙が、彼女のチームの部室にはあった。
誰が貼ったものかは知らない。彼女がチームに入った時にはもう壁に貼られていて、チームの先輩達は誰もそのことについて言及しなかったからだ。
おそらく今いる先輩の誰か――あるいは既に引退した先輩の誰かが、夢と決意を込めて貼り付けたものだろう。
そう信じ、当時のエアジハードは胸を熱くしていた。
彼女が所属したチームは、言ってしまえば弱小だった。
GⅠ馬や重賞馬はおろか、オープン馬さえ一人もいない。古馬になっても条件戦で燻り続けるような者だけが集まった、冴えない無名馬の集団だったのだ。
そんな中にあっても、希望を捨てずに頑張り続ける者はいる。
才能の壁を努力で乗り越え、大きな夢を掴もうとしている立派な先輩がいる。
貼り紙の文言から伝わってくるその事実は、彼女に勇気と希望を与え、やがてある行動に踏み切らせた。
二年以上が経った今も、その日のことは鮮明に憶えている。
「あの、先輩……実は私、考えてきたんです」
ある日の夕刻。練習が終わり、皆が部室で帰り支度をしている中、エアジハードは年上の少女に向かってそう切り出した。
着替えの最中だったその少女は、怪訝そうに眉をひそめる。
「考えてきたって……何をよ?」
「みんなで強くなる方法、です」
やや照れながらもはっきりと答え、自分の鞄から取り出した分厚い紙の束を、部屋の中心に置かれた机の上に載せる。
会話の相手だった少女だけでなく、その場にいた全員がそれに注目した。
「聞いて下さい、皆さん。これは私が考えた、今後一年間の特別練習メニューです!」
突然のことに皆が呆気に取られ、言葉を失う。
決意を実行に移したエアジハードは、熱い高揚感を胸に言葉を続けた。
「失礼を承知で言わせてもらいますが……私達のチームの現状は、決して良いものではありません。私自身を含めた全員が伸び悩んでいるというのが、否定しようのない事実だと思います。だからここは、みんなで協力して成績を上げる方法を模索するべきだと思うんです」
反発を招きかねない発言だという自覚はあったが、それでも言わねばならなかった。
みんなで強くなるための道程は、自分達の弱さを直視することから始まるからだ。
「その第一歩として、私はこれを作りました。ここには皆さん一人一人の特徴と、これから重点的に鍛えるべき部位、克服すべき課題……そしてそのために必要な練習の内容と量について記してあります。私なりに皆さんをよく観察して、色々と勉強した上で作成しましたから、そんなに非科学的なことは書いてないはずです」
「……ずいぶん分厚いね、それ」
「はい、A4用紙で二百枚あります」
「……で、そこに書いてある通りに自主トレしろって話?」
「ここに書いてある通りじゃなくてもいいんです。これはあくまで私が勝手に考えたもので、原案の一つに過ぎませんから。これからみんなで話し合って詳細を煮詰めていく作業は必要だと思ってます」
チームの一人一人を深く観察し、スポーツ科学や人体生理学の本を読み漁り、膨大な時間をかけて作成した力作だった。
だが無論のこと、これで完璧だなどと思い上がってはいない。
所詮は素人が作ったものだ。粗など探せばいくらでもあるだろうし、修正すべき箇所も一つや二つでは済まないだろう。一人一人の意見を聞いて細部を改めていく作業は、どうしても必要になる。
けれど、方向性としては間違っていない筈だ。
未熟で粗だらけな計画でも、全員で知恵を出し合えばきっと形になる。力を合わせて前に進んでいくための、大事な最初の一歩になる。
そして、みんなで一緒に強くなり、あの貼り紙に書かれていたことを現実にすればいいのだ。
「例えばクイン先輩は渋った馬場が苦手ですから、雨が降っても滑りにくいピッチ走法を身につけるべきだと思うんです。走り方と練習の仕方はこの十七頁に図入りで説明してあります。ルーラー先輩はダートの短距離が主戦場ですから、中山みたいな小回りコースへの対策としてコーナーワークを重点的に磨くべきだと思いました。それについてはこの六十四頁に各競馬場の特徴も含めて記載しています。ロー先輩は障害に転向したばかりですから……」
「あんたさ」
机の向こう側にいた一人が、探るような眼差しで尋ねた。
「引退までに重賞の一つくらい獲りたいとか……そういうこと考えてたりするの?」
その佇まいにどこか不穏なものを感じつつも、エアジハードは正直に答える。
「重賞、っていうより……目標はGⅠです。GⅠレースをいくつも勝って、一番強い競走馬になるのが私の夢です」
子供の頃から抱き続ける夢だった。
成長するにつれその難しさを理解していったが、それでも諦めることは出来なかった。
果てしなく遠い夢でも、諦めずに走り続ければきっと叶う。
そう自らに言い聞かせ、人一倍練習に励んできた。
「だからそのために、先輩達と切磋琢磨して――」
「ぷっ……くくっ……」
失笑。
嘲りを含んだそれは、最初に話しかけた少女の口から零れたものだった。
「何あんた、うちじゃ珍しいくらいの真面目ちゃんだなって思ってたら……そういうキャラだったの? ウケるわ」
「え……?」
「やる気満々なのは結構だけどさ、そういうノリに付き合ってくれる奴はここにいないよ。つーか、あたしら見てて分からない?」
皮肉げに唇を歪め、年上の少女は言う。
「見ての通り底辺だよ。さっきあんたが言ったように、みんな揃って伸び悩んでる万年条件馬の集まり。今さら真面目に頑張って強くなろうとか、そんな根性ある奴がいるわけないじゃん」
「――っ」
放たれたその言葉は、エアジハードの胸に突き刺さった。
見れば他の面々も同様に、呆れと嘲りが入り混じった陰湿な笑みを浮かべていた。
エアジハードの提案を受け入れるような空気は、そこになかった。
「……うちの練習ってさ、ぶっちゃけテキトーでしょ?」
机の向こう側にいた一人――先程エアジハードに志を問うた少女が、再び口を開く。
その少女だけは笑っていなかったが、視線は誰よりも冷たかった。
「時間短いし、やってること温いし、伊藤の爺さんだってそんなにうるさいこと言わないしさ」
「……」
「それって、何でだと思う?」
「…………そ、それは……」
エアジハードは口ごもる。
問いかけに対する答えを、彼女は知っていた。しかしそれを口に出すことは憚られた。
口に出せば、自分の中で何かが罅割れてしまいそうだったから。
「期待されてないから。いくら頑張らせたってオープンにも上がれやしない駄馬の集まりだって思われてるからよ。あの爺さんにさ」
冷めた目をした少女は、はっきりと言った。
そして溜まっていたものを吐き出すように、小さく溜息をつく。
「ま、否定はしないけどね。あたしらだって、今さら重賞だのGⅠだのなんて夢見る気ないし」
「で……でも、先輩……!」
僅かに語気を強め、エアジハードは反論を試みる。
「GⅠや重賞は、確かに厳しいかもしれませんけど……効率を考えて、今までと違う練習をすれば……一つか二つは勝ち鞍を増やせて、上のクラスに行けるんじゃ……」
「やだよ。上なんか行きたくない」
「え……?」
「上のクラス行ったら、当然相手も強くなるでしょ? そしたら掲示板に入るのも難しくなっちゃうじゃん。あたしらは下でのんびりしながら稼ぎたいの。無理して上に行ってただ働きみたいなレースさせられるなんて、アホみたいなことしたくないわ」
競馬のレースにおいて本賞と呼ばれる高額な賞金を得られるのは、電光掲示板に表示される五着以内に入った者だけ。
六着以下にも支払われる出走手当や出走奨励金といったものはあるが、それらは本賞に比べ少額であり、競走馬を続ける労力に見合ったものではない。
故に下級条件では、あえて他人に勝ちを譲る行為が後を絶たない。
上のクラスで通用する能力がないため、収入減に繋がる昇級を避け、自分のレベルに合ったクラスにいつまでも留まり続けるのだ。
冷めた目の少女が語ったのは、そんな現実の一端だった。
誰もが栄光の階段を駆け上がれるわけではなく、誰もが頂点を目指しているわけでもない。
自分の可能性を信じられず、今いる場所から一歩も先に進もうとしない者の方が、現実には多い。
「そういうわけだから、あんたの特別メニューってやつ、あたしらはパス。……ま、あんた一人で勝手にやる分には文句言わないよ。頑張ってね」
会話はそれで終わった。
冷めた目の少女が部屋を出ていくと、他の面々もその後に続く。
一人また一人とドアの向こうに消えていき、部屋にはエアジハードだけが残される。
机の上の紙束――大きな夢を掴むために書き綴った練習計画を手に取ってくれた者は、結局一人もいなかった。
それから、どれだけの時間が経っただろうか。
自失に近い状態で立ち尽くしていたエアジハードは、ふと顔を上げ、部屋の隅に目を向けた。
彼女の行動の発端となった貼り紙は、変わらずそこにあった。
『目指せ! 日本一!』
かつてそれを書き、壁に貼り付けたのは、果たして誰だったのか。
とうの昔に学園を去った、顔も名前も知らない誰かだろうか。それとも、今のチームにいる誰かなのだろうか。
分からない。
答えを知る機会はないだろうし、もう知りたいとも思えない。
チームメイト達の素顔を見たこの時、彼女がそれまで抱いていた幻想は跡形もなく崩れ落ちた。
その数日後、エアジハードはトレーナーの伊藤に直談判した。
「先生……私を、皐月賞に出走させて下さい」
突然の申し出に、伊藤は眉をひそめる。
そして教え子の顔を見やりながら、やや言いにくそうに言った。
「そう言われてもな……賞金が足らんだろう?」
皐月賞は、中央競馬クラシック三冠の一冠目。
伝統と格式ある大レースであり、競走馬にとっては一生に一度の晴れ舞台だ。
それだけに十八ある出走枠を出走申し込みの数が下回ることはほとんどなく、一定以上の賞金を稼ぐか、三つのトライアルレースのいずれかで上位入線して優先出走権を得なければ、出走はまず叶わない。
この時のエアジハードは、どちらの条件も満たしていなかった。
「皐月賞まではまだ間があります。オープンを勝つか重賞で二着以内に入れば、まだ出走の目は……」
「この前スプリングステークスを走ったばかりじゃないか。いくら何でも無謀だ。それで仮に勝てたとしても、疲れが残って本番ではまともに走れんだろう?」
「どうにかします! 疲れなんて気力で捻じ伏せてみせます! 私は……」
脳裏を掠める、年上の少女達の顔。
それを振り払うように、エアジハードは声を張り上げる。
「私は、先輩達とは……あんな人達とは違います! どんなに厳しい練習でも耐えられます! 誰よりも強くなって、必ず栄冠を掴んでみせます! だから……」
「ジハード」
静かに、伊藤は教え子の名を呼んだ。
「こんなことを言いたくはないが……はっきり言おう。今の君の実力は、クラシックでは通用しない」
胸を突く言葉だった。
青褪めた顔で固まるエアジハードに、伊藤は厳しさを滲ませた声音で告げる。
「スペシャルウィーク、セイウンスカイ、キングヘイロー……今世代の三強と呼ばれている子達は、君より何歩も先を行っている。今すぐにその差を埋めることは出来ない。君がどんなに無理をしようともね」
「そんなの……やってみなければ……」
「やらなくても分かるよ。今の君では、絶対に勝てない」
絞り出した反論は、即座に切り捨てられた。
「誤解しないでもらいたいが、一生勝てないと言っているわけではない。君がその熱意を忘れずに努力し続ければ、彼女達との力関係が逆転する日も来るだろう。今がその時ではないと言っているだけだ」
地道な努力の大切さを伊藤は説いたが、それはエアジハードの心に響かなかった。
力不足を指摘された悔しさに打ち震え、拳を握る。
そして思い出す。数日前、冷めた目の少女に言われたことを。
自分達のチームに怠惰が許されている理由――沼底に溜まった泥のような集団を作り上げた、根本的な原因を。
「君はまだ若い。焦ることはないよジハード。自分を信じて一つ一つ積み重ねていけば、いつかは……」
「いつか……?」
細い声を零し、顔を上げる。
師の顔に向けたその眼差しは、仇敵を睨むように鋭かった。
「いつかって…………いつですか?」
空気が凍る。
言葉を失う伊藤に、反抗の意思を叩きつける。
「本当にそんな日が来ると……私が彼女達に勝って、栄冠を掴む日が来ると……先生は、信じてくれているんですか?」
信じているなら、何故厳しく鍛えようとしないのか。
怠惰な日々を送る教え子達と真剣に向き合わず、放置したままでいるのは何故なのか。
一生に一度の晴れ舞台に挑みたいと願う自分の気持ちを、どうして汲んでくれないのか。どうして背中を押してくれないのか。
そんな怒りと不信感が、この時溢れ出した。
「どうせ無理だから……私なんかがいくら頑張ったって、GⅠなんか勝てるわけないと思ってるから……適当に言いくるめて、諦めさせようとしてるだけじゃないんですか?」
「ジハード……私は……」
伊藤は何か言おうとしたが、エアジハードはもう聞く耳を持たなかった。
身を翻し、冷たく言い放つ。
「もう結構です。あなたと話すことはありません」
同じ場所を目指してくれないなら、従う理由はない。この枯れた老人と心中する道など選ばない。
凍てついた心でそう断じ、背を向けたまま歩き出す。
「誰も私についてきてくれないなら……誰も信じてくれないなら…………私は、誰の手も借りない。一人で強くなってみせる」
誰もいない場所――自らが考案した練習法を実践出来る場所へと向かいながら、固めた決意を言葉にした。
「私一人の力で、頂点まで駆け上がってみせる」
その日から、彼女の戦いが始まった。
誰にも頼らず一人だけで走り続ける、孤独な戦いが。
みんなで強くなろうとした。
同じ境遇の仲間達と手を取り合い、支え合い、心を一つにして高みを目指そうとした。
けれどそんなものは、自分一人だけが抱いていた幻想だった。
強くなろうとしていたのは自分だけ。栄冠を掴む日を夢見ていたのも自分だけ。
仲間だと思っていた連中は、負け犬根性が染みついた腑抜けばかりだった。
ならばいい。落胆はしたが、引き摺るつもりはない。底辺で燻り続けるような駄馬共に何かを期待した自分が愚かだった。
自分は、自分一人で前に進む。
誰もついてきてくれなくても、誰も背中を押してくれなくても、決して立ち止まらない。諦めない。
胸に抱いた夢とこの二本の脚だけで、頂点まで辿り着いてみせる。
孤独な長い道程を、最後まで駆け抜けてみせる。
『エアジハードだエアジハードだ! これは強い! 十七人を従えてエアジハードが先頭!』
緑のターフを、一陣の風が貫く。
独自の鍛錬を積み重ね、長い雌伏の日々を経て生まれ変わった肉体が、高みを目指す意思を燃料に変えて駆動する。
地を踏むごとに差を広げる、雄大なストライド。驚異の脚力。
大外枠も適性外の距離も全く問題にせず、小賢しい策略など歯牙にもかけない、絶対的な強者の姿。
他の十七人との格の違いは、最早誰の目にも明らかだった。
「いつか、か……」
エアジハードは呟く。
スタンドにいる名ばかりの師と、同じ場所を目指す仲間にならなかった少女達の顔を、脳裏に浮かべて。
「刮目して見ろ。あなた達が信じなかった……永遠に来ないと思っていたいつかとやらが、今この時だ」
「ああ……」
言葉にならない絶望の声を、スペシャルウィークが零す。
グラスワンダーも同様に、その表情を苦いものに変えていた。
「凄まじい脚です。安田記念で私に競り勝った時より、さらに速い……」
昨年の安田記念で彼女はエアジハードと対戦し、僅差で敗れている。
その時に体験した末脚も恐るべきものだったが、たった今目の当たりにしている末脚の切れはそれ以上だった。
最優秀短距離馬の名は伊達ではないと、改めて実感する。
今の自分がこのレースに出走していたとしても、果たしてあれに勝てたかどうか――
「でも、まだ勝負は……」
「無理。もう勝てない」
先程から度々口を挟んでいた少女が、希望を否定する。
その黒瞳は僅かな感情も覗かせず、直線を必死に駆ける競走馬達を冷静に眺めていた。
「もう完全に、あの黄色い子が勝つ形になってる。ああなったら逆転は出来ない。逆転するだけの力と時間が、他の子達には残されてない」
「……っ」
グラスワンダーは反論出来ない。
悔しいが、名も知らない少女の言う通りだった。
エアジハードは後続を完全に引き離し、独走態勢に入っている。ここから誰かに抜き返される姿など想像し難い上に、ゴールはもう目前だ。
逆転に必要な距離と時間が、絶望的に足りない。仮にキングヘイローがもう一伸びしたところで、間に合うとは思えないのだ。
ここまでだろうか――と、内心で呟く。
元々このレースの出走馬の中では、エアジハードの力が抜けていた。それが順当に表面化し、彼女の圧勝でレースが終わるというだけの話。
キングヘイローも頑張ってはいたが、地力に差がありすぎたのだ。
決意や執念だけで勝てるほど、競馬は甘くない。
「あなた達が応援してる子は、よくて二着まで。ここからあの黄色い子を抜くのは――」
「違う」
熱を内に宿したような、力強い声。
それは、セイウンスカイの口から放たれたものだった。
「まだ終わりじゃない。まだ何も決まってない。……まだ、ゴールじゃない」
スペシャルウィークでもグラスワンダーでも名も知らない少女でもなく、その視線はただ真っ直ぐに、緑の勝負服だけを追い続けていた。
勝負の最中にある親友を、誰よりも信じ抜いていた。
「そうだろ? キング」
「はぁっ……はぁっ……!」
呼吸を激しく乱しながら、キングヘイローは下を向いていた。
彼女の現在位置はエアジハードに次ぐ二番手だが、前を行くエアジハードとの間には既に二馬身余りの差がある。
ゴールまでの残りの距離を考えれば、絶望的な差だ。勝負は決まったと諦めたところで無理はない。
事実、激戦の最中にもかかわらず、彼女のすぐ後ろには諦めの空気が漂いつつあった。
スプリント路線の王者だった者も、海外で揉まれてきた者も、GⅠのタイトルを欲していた者も――誰もが皆、戦う意思を失っていた。
自身の力が及ばなかったことを悟り、このレースがエアジハードの勝利で終わることを受け入れつつあったのだ。
そんな状況の中、ぽつりと呟く。
「強いわね、ジハード……本当に……」
本当に、心底からそう思う。
スローペースに落とし込まれた上、最も距離を損する大外を回りながら、全馬を一瞬にして抜き去る剛脚。隼の滑空を連想させる強襲劇。
驚異的であり、総身が震えるほど圧巻だった。
以前シンボリルドルフにも勝てると豪語したのも、この強さなら頷ける。
「あのグラスに勝っただけある……スタミナも、パワーも、瞬発力も……私なんかとは桁が違うわ……」
壊れる寸前まで身体を鍛え抜き、セイウンスカイから知恵を借り、必勝を期して臨んだ上でこの有様だ。
自分と彼女の間に大きな実力差があることは、最早否定しようがない。
「でも……」
顔を上げる。
前を行くカナリア色の背中を、炎を宿した瞳で見据える。
そして、力の限り吼える。
「想定通りよ! あなたがこれだけ強いって知ってたから……あなたが私を抜き去るって信じてたから……私は、下手な小細工までしてこの展開に持っていったのよ!」
これまでの全ては、勝利のための布石。
心理の隙を突き、絶望的な実力差を覆すために打った大博打。
それが見事に嵌まり、あらゆる全てが事前に思い描いていた通りに進み――ついに今、唯一無二の勝機が訪れた。
彼女が先頭に立ち、場内の誰もが勝負は決まったと思い込むこの瞬間を、ずっと待ち続けていたのだ。
「さあ、覚悟しなさい。エアジハード」
打ち砕くべき分厚い壁――栄光のゴールに向かって突き進む格上の強者に、照準を合わせる。
これまでも、そうしてきたように。
これからも、そうしていくように。
不屈の魂を燃え上がらせ、挑戦状を叩きつけた。
「ここからが、本当の勝負よ」
ゴールまで、残り約二百メートル。
最後の攻防が、今始まる。