あれは、いつのことだっただろうか。
何年前かも思い出せないくらい昔。物心ついたばかりの幼い頃。
母と二人でどこかに出かけた際の道中――いや、帰り道だったかもしれない。
時刻も場所もろくに憶えていないあやふやな記憶だが、その時交わした言葉だけは、何故か今でもはっきりと憶えている。
「それでね、みんなでかけっこしたらわたしが一ばんだったんだよ。ゴールしたあとうしろみたら、ほかの子たちがすっごくうしろにいたの。びっくりしちゃった!」
「あら、すごいじゃない」
「うん、みんなもすごいっていってくれたよ! でねでね、それみてた大人の人もわたしにいったの。キングはすごいって。さいのうがあるから、大きくなったらおかあさまみたいになれるって」
「褒めてもらえたのね。ふふ……でも、あんまり調子に乗っちゃダメよ? ほんとのレースで一番になれるくらい強い競走馬になるには、もっともっと色んなことを頑張らなきゃいけないんだから」
「わかってるよー。わたし、いつもがんばってるもん! れんしゅうちゃんとやってるもん!」
「でも、嫌いなピーマンは残してたわよね?」
「うっ……」
「いつも言ってるでしょう? 好き嫌いせずに何でも食べなさいって。色んなもの食べて強い身体を作らないとレースで負けちゃうんだから」
「……っ……が、がんばるっ……! こんどから……」
「ふふ」
母は楽しそうに笑っていた。
手をつないで道を歩きながら交わした、他愛のない親子の会話だった。そこまでは。
「ねえ、おかあさま」
「ん?」
「大人のレースにでる人を、きょうそうばっていうんだよね?」
「ええ、そうよ」
「おかあさまも、きょうそうばだったんでしょ?」
「ええ」
「やっぱり、一ばんつよかったの?」
そう問いかけた瞬間、母は微かに息を呑んだ。
「みんないってたよ。おかあさまはすっごくつよくて、大きなレースをたくさんかったんだって。つよくてかっこよくて、みんなのあこがれだったんだって」
難しいことは何も分かっていなかったが、母が人々から敬われる存在であることだけは漠然と知っていた。
そのため子供ならではの単純さで、自分の母は世界で一番強いのだと思い込んでいた。
世界の広さを、その時はまだ知らなかったのだ。
「……何だか、痛いところ突かれちゃったわね」
ぽつりと呟き、母は自嘲気味に笑った。
「ええもちろん、一番強かったわよ……って言いたいところだけど、違うわ。私は一番じゃなかった。私よりずっと強い人がいて、その人に何度も負けちゃったの」
「そ、そうなの……?」
「ええ。苦い思い出ってやつね」
多くの人々に褒め讃えられている母より、遥かに強い誰か。
その誰かが競馬の世界で一番強い存在なのかと一瞬思ったが、そうではなかった。
「その人より、もっと強い人もいた」
「え?」
「その人よりもっと強い人も、その人よりもっと強い人も、その人よりもっと強い人も、当たり前のようにいたわ。それよりさらに強い人だって、多分……ううん、きっといたと思う」
「え……え……?」
まるで言葉遊びのような言い回しと、その言葉が持つ信じ難い意味に、幼い自分は困惑した。
そんなこちらの顔を見下ろしながら、母は寂しげに言った。
「そういうものなのよ、競馬の世界って。一生懸命頑張って強くなっても、敵わない相手は大勢いる。上を見たらきりがないの」
その表情を見て、悟った。
母が現役時代に積み重ねた努力の重さ。そして、それが実らなかった絶望の深さを。
一番強い競走馬になることを、本気で夢見た。
どんなに辛い思いをしてでも一番になりたいと、強く深く願い続けた。
夢を叶えるために努力して、普通の人達の何倍も何十倍も努力して、自分みたいな子供には想像もつかないくらい努力して、辛くても苦しくても一生懸命走り続けて――
それでも、一番にはなれなかった。
勝てなかった相手がいた。越えられなかった壁があった。辿り着けなかった場所があった。
そんな挫折の末に、この人は競馬場を去ったのだと。
「だからね……正直ちょっと、疲れちゃったわ」
母の口から弱音のような言葉が出たのは、後にも先にもこの時だけだった。
そのせいで、長い年月が過ぎた今でも記憶に残り続けているのかもしれない。
中京競馬場のスタンド内にある、関係者用の席。
アルゼンチンから来た丸眼鏡の少女――フォルリは、そこで高松宮記念を観戦していた。
「本当に良い競走馬ですね。あの栗毛の子は」
直線半ばで先頭に立ち、そのまま独走態勢に入ったエアジハードの姿を見据えながら、自身の見解を述べる。
「本質的には末脚の持続力で勝負するタイプなのでしょうが、瞬発力の方も十分に一級品。おそらくは、大腿部の速筋を鍛えるトレーニングを重点的に行ってきたのでしょうね。鋭さと力強さを併せ持ったあの末脚からは、並大抵ではない努力が覗えます」
レースが始まる前から、彼女はエアジハードを高く評価していた。
GⅠ二勝の実績だけでなく、体つきから覗える身体能力も佇まいから漂う威風も、他の十七人とは明らかに別格。
世界の大舞台でも通用するレベルの競走馬は、このレースの出走馬の中ではエアジハード一人だけ。
その評価は、レースが大詰めを迎えた今も何ら変わらない。
「ですが……」
丸眼鏡の奥に潜む両眼が、鋭さを増す。
エアジハードの後方を走る者に視線を移し、冷めた声音で呟く。
「罠に嵌りましたね。非力な鼠が、この一戦を勝つためだけに練り上げてきた……狡猾な罠に」
レースを見守る数多の観客の中で、彼女だけは気付いていた。
力なき者が、万に一つの勝機を掴むために仕掛けた奇策――心理の隙を突く罠の正体に。
競馬場のコースの脇には、ゴールまでの残りの距離を示すハロン棒という標識が、二百メートル間隔で設置されている。
最後のハロン棒の前を通過した瞬間、エアジハードの耳は二つの音を拾った。
自分ではない誰かの脚が、地面を力強く蹴る音。
後方から急速に迫ってくる、誰かの荒い息遣い。
何かを考える間もなく、反射的に後方を確認し――視界に飛び込んできた相手の姿に、彼女は目を疑った。
「なっ――」
キングヘイロー。
ほんの数秒前に追い抜き、置き去りにした相手。
取るに足らない実力しか持たず、こちらの末脚に成す術なく屈したはずの格下が、息を吹き返したように差を詰めてきていた。
充血した双眸に、紅蓮の闘志を漲らせて。
「何驚いてるのよ……言ったでしょう?」
振り返ったエアジハードに視線をぶつけ、キングヘイローは言い放つ。
「この勝負は譲らない…………キングにふさわしい走りを見せるってね!」
そして、さらに伸びる。
迸る気迫を走力に変え、機銃掃射のように激烈な足音をターフに響かせ、前を行くエアジハードを猛追する。
一時は二馬身余りあった二人の差が、瞬く間に詰まっていく。
『キングヘイローだ! 何とここでキングヘイロー! キングヘイローが再び伸びてきた!』
実況の声が上擦る。
スタンドは騒然となり、観客の多くが驚愕の声を上げる。
予期せぬ事態に動揺を隠せなかったのは、当事者たるエアジハードも同じだった。
(こいつ……)
不意を突くように強襲してきたキングヘイロー。
その弾けるような脚と覚悟を抱いた眼差しを見て、怖気と共に確信する。
(最初から……これを狙って……!)
追い詰められた鼠が、最後の足掻きで力を振り絞ったのではない。
レースが始まる前から、この局面で勝負をかけるつもりだったのだ。
直線半ばでこちらに先頭を譲ったのも、ここまで独走を許していたのも、全て予定通り。
最後の最後――ゴール寸前での逆転劇を演じるための布石。
計算し尽くされた緻密な戦略に、自分は見事に絡めとられていた。
「くっ……!」
焦りに顔を歪めたエアジハードは再び差を広げようとするが、キングヘイローの猛追がそれを許さない。
キングヘイローにとって今この瞬間は、二度とない好機。
持てる力の全てを注ぎ込むと誓って臨んだ、人生最大の正念場だった。
「さっき話した作戦だけど……あれ全部、実はただの前フリ」
セイウンスカイがそう言った時、キングヘイローはぽかんと口を開けて固まった。
今更何を言うのか。自分の指示通りにすれば全て上手くいくといった風に作戦を説明したのは、他ならぬこいつではないか――と。
「ちょっと不利を受けさせた程度で負かせるほど、今のジハードは甘くない。作戦が最高に上手くいったとしても、きっと最後は地力の違いで捻じ伏せられるよ。一度先頭に立たれるのはどうやっても避けられないね」
「……だったらどうして、わざとスローペースを作れなんて言ったのよ?」
「理由は二つ。一つは、ジハードを油断させること」
「油断……?」
「ジハードだって馬鹿じゃないから、レースの後半になれば流石に気付く。ああスローペースを作って自分を嵌める気だったのか、大した作戦じゃなかったな……ってさ。そこで多分、思考が止まる。正攻法じゃ勝てないから小細工に頼ったんだなってキングを見下して、それ以上の何かがあるとは考えなくなる。それは致命的なくらい大きな、心の隙だ」
競走馬の心理を読む力に長けた二冠馬は、自らの策が持つ効果を淡々と語る。
「もう一つの理由は、道中の体力の消耗を抑えること。本当の勝負所は最後の最後に来るから、その時まで脚を残しとかなきゃいけない」
「まさか……あなたが考えてることって……」
キングヘイローは寒気を覚えた。
セイウンスカイの表情が、獲物を狙う捕食者の様相を帯びる。
「直線で一度ジハードを先頭に立たせて、ゴール寸前で二の脚を使って差し返す。……それが、本当の狙いだよ」
二の脚。
最後の直線で末脚を使い果たしたと思われた競走馬が、土壇場でさらなる加速を見せる事象を指す言葉。
競馬史において数々の逆転劇を生み出してきた、最後の最後まで勝負を諦めない者だけが持つ底力だ。
「無茶な話に聞こえるかもしれないけど……私が思いつく限り、キングがジハードに勝てる方法はこれしかない。私を信じてくれるなら、この作戦に賭けてほしい」
真摯に訴えられ、キングヘイローは一瞬言葉に詰まる。
彼女は想像を巡らせ、たった今告げられた策が実行可能か否かを考察してから、探るように問いかけた。
「七分か八分くらいの力を使った末脚で先頭に立った私を、ジハードが追い抜く。そして独走態勢に入って気が緩んだところを、残りの力を振り絞った二の脚で差し返す……そういう流れを想定しているわけね?」
「そう。特訓で力をつけた今のキングなら、それが出来ると思う」
「……ジハードが油断したからって、終いの脚が甘くなるとは限らないんじゃない? 最後まで緩めずに着差を広げようとしてくるかも……」
「それはない」
断言した後、セイウンスカイは理解を促すように続けた。
「思い出して。去年ジハードが、香港のレースに出られなかった理由を」
「……っ! そうか……脚の怪我……!」
キングヘイローは思い出す。
去年の十二月、エアジハードは香港のシャティン競馬場で行われるGⅠ競走、香港カップに招待されていた。
しかし現地入りして数日後に脚部不安を発症し、帰国を余儀なくされていたのだ。
「かなり軽度だったみたいだし、もう走りに影響はないんだろうけど……それでもその手の怪我には、常に再発の危険がつきまとう。だからそうならないために、今は出来るだけ脚に負担をかけずに勝ちたいってのが本音なはず」
エアジハードの抱えた事情から、セイウンスカイは既にその本心を見抜いていた。
「それに今のジハードは、キングから代表の座を奪って十一月のワールドカップに出ることを目標にしてる。万が一にもこんなところで怪我なんかしていられない。直線半ばで先頭に立って後続との差がある程度ついたら、リスクを抑えるために脚を緩めるよ。ほぼ間違いなくね」
目を細め、冷徹に告げる。
「その瞬間を狙い撃って、仕留める」
無防備な標的を一撃で屠る、暗殺のような奇襲戦法。
セイウンスカイがキングヘイローに求めるのは、そうしたレース運びだった。
「キングが仕掛ければ当然ジハードも反応するだろうけど、勝利を確信して一度脚を緩めた状態から再加速するのは、そう簡単じゃない。どうしたって時間がかかる。慌てて立て直そうとするジハードと、その一瞬に全力を注いだキングの勝負なら……勝ち目はあるよ。十分に」
想定通りに事が運べばキングヘイローに勝利をもたらせると、セイウンスカイは自らの策に自信を持っていた。
しかし――
「仕掛け所を間違えなければ……の話だけどね」
「え?」
「この作戦で一番重要なのはタイミングだよ、キング。仕掛けるのが遅すぎちゃ間に合わないけど、早すぎてもいけない」
自らの策を成功させることの難しさも、彼女は十分承知していた。
「ジハードが減速する前に仕掛けても意味ないし、減速した後でも立て直す時間が十分あったら結局また逆転される。早すぎず遅すぎずの適切なタイミングを見極めた上で仕掛けないと、今言った作戦は成功しない」
「確かに、そうね…………それで、その適切なタイミングっていうのの目安はどんな感じなの?」
「目安?」
「いやほら……あるでしょ? 残り何百メートルくらいとか、ジハードとの差が何馬身くらいとか、そういうの……」
タイミングが重要と力説するからには、きっと何がしかの目安――好機を見極めるための判断基準のようなものがあるのだろう。
そう思って尋ねたのだが、返答は意外なものだった。
「ごめん。そこは自分で考えて」
「は?」
「私とキングじゃ感覚が微妙に違うし、その時の状況にもよるから……ここで下手に残りの距離がどうこうって言うと、それに囚われすぎて失敗しそうな気がする。変な先入観を持たずにキングが自分で判断した方が上手くいくと思うんだ」
「それは……そうかもしれないけど……」
キングヘイローは不安げな顔になる。
負けられない大一番の緊迫した局面で、寸分の狂いも許されないタイミングを自分が正確に見極められるとは、とても思えなかった。
「大丈夫だよ。キングには経験がある」
セイウンスカイは微笑む。
「デビューしてからずっと、大きな怪我もなく走り続けてきた。クラシックに出てグランプリを走って、マイルにもスプリントにもダートにも挑戦して、色んな舞台で色んな強豪と競い合ってきた。その豊富な経験が、キングの頭の中には蓄積されてる。キングは私達の世代の誰よりも、競馬を深く知っている」
キングヘイローが歩んできた、長い挑戦の道程。
敗戦を重ね、幾度も挫折しかけながら、それでも確かに培ってきたもの。
その価値を認め、勝利を手繰り寄せる切り札になると信じた上で、セイウンスカイは言い切った。
「だから心配いらない。迷わずに自分を信じれば、きっと間違えないよ。キングの頭と身体に刻みつけられた経験は、正しい仕掛け所を必ず教えてくれるから」
(言われた通りに出来た…………かどうかは知らないけど……これでもう、後戻りは出来ない)
内心でそう呟き、キングヘイローはエアジハードの背中を見据える。
慎重にタイミングを見計らって仕掛けたつもりだが、これが最適なタイミングだったかどうかは分からない。
筆記試験の答案などと違って、正解はどこにも書かれていないからだ。
早すぎたかもしれないし、遅すぎたかもしれない。もしかしたら、気付かない内にどこかで致命的な過ちを犯していたのかもしれない。
だが――
(後はただ、信じるだけ……自分の判断とこの二本の脚を信じて、ゴールまで全力で走り抜くだけ……!)
雑念を振り払い、キングヘイローは駆けた。
この期に及んで些末なことを気にしてはいられない。不安や迷いを抱いたままで勝てるような相手ではない。
どの道、すぐに結果は出る。自分の判断の正否は、ほんの数秒後に分かる。
今の自分に出来るのは、その数秒後を目指して――この身が栄光のゴールに辿り着くことを信じて、残りの距離を全力で走り抜くことだけだ。
自らをそう激励し、今まで温存していた力を解き放った。
抜かれることを承知で仕掛けた最初の末脚とは違う、本当の意味での全力疾走。
気力と体力を一滴も残さず注ぎ込み、体中の筋肉を千切れ飛ぶ寸前まで駆動させた、渾身の二の脚。
それは心身共に隙が生じていたエアジハードとの距離を瞬く間に詰め、その隣に並びかけるまで肉薄していく。
追い詰められたエアジハードの形相に、色濃い戦慄が浮かぶ。
ゴールまで、残り約百メートル。
レースは最早、どちらが勝者となるか分からない大接戦と化していた。
「まずい……!」
観覧席にいたエアグルーヴが叫ぶ。
キングヘイローが二の脚を繰り出す様を見て、彼女は自らの従妹の危機を悟った。
「完全に意表を突かれた……! これでは……」
差し返される――と言いかけた時。
「苦しい状況だね」
隣に座っていた伊藤が口を開く。
教え子が格下に足をすくわれかけている状況下でも、その面持ちは冷静だった。
「今のジハードは敵の術中に嵌った形だ。勝利を目前にした心の隙を突かれ、不利な形勢に追い込まれてしまった。いかに実力があろうと、ああなってしまえば立て直すのは難しい」
語りつつ、二人の少女がゴール前で競り合う光景を注視する。
「だが、それが競馬だ。あの子が勝利を求めて走るように……相手もまた、強い決意と勝利への執念を胸に、己の全てを懸けて挑んでくる。そう簡単に勝たせてはくれんよ」
不退転の覚悟を持つ相手の恐ろしさ。レースを制することの難しさ。
長く競馬の世界で生きてきた老人は、そうしたことを誰よりも深く知っていた。
「だからこそ、勝利には価値がある」
眉間に皺を寄せ、厳格な信念と煮え滾る熱意が同居した眼差しを、ターフ上で苦戦を強いられている教え子に向ける。
「打ち砕け。ジハード」
鉄槌のように重い声が、その口から放たれた。
「相手の力を、意志を、全て受け止めた上で凌駕しろ。鍛え抜いたその脚で苦境を乗り越え、自らが最強であることをこの場で示せ」
彼は信じていた。
自らに反発した教え子が、この二年間に培ってきた強さを。
エアジハードという名の競走馬が、世界に羽ばたくべき器であることを。
「君なら必ず、それが出来る」
エアジハードは激怒した。
自分を追い詰めた相手にではなく、自分自身の未熟さに対して。
何故この展開を事前に想定しなかったのか。一瞬とはいえ、何故これしきのことで動揺してしまったのか。
相手が思っていたより手強かった。
先頭に立って脚を緩めた直後を狙われ、急激に差を詰められた。
ただそれだけのことだ。
緩んでいたなら引き締めればいい。崩れていたなら立て直せばいい。相手が全身全霊を賭した走りで迫ってきたなら、それを凌駕する力で粉砕してやればいい。
歴史に名を残した者達は皆、そうやって勝ち続けてきた筈だ。
ならば、自分も同じ道を往く。偉大な先人達と同じように、今日まで鍛え抜いてきた脚でこの窮地を乗り越える。
そして、辿り着くのだ。
夢見た場所に――あの≪ザ・ブリガディア≫と戦える、最高峰の舞台に。
「ハ――アアアアアアアアアアアアッ!」
形振り構わず、強引に再加速。
燃え上がった闘志を血流の如く全身に巡らせ、大地を蹴り、風を突き破る。
彼女が土壇場で見せたそれは、直線半ばで先頭に立った時以上の剛脚。
遥かな高みを目指し、弛まぬ努力を積んできた者だけがその身に宿す、理屈を超えた底力だった。
『しかしエアジハードだ! エアジハードが粘る! キングヘイローに先頭を譲らない!』
「ぐっ……!」
熱戦の模様が実況され、キングヘイローの表情が苦々しく歪む。
半馬身から一馬身。一馬身から一馬身半。
横並びになる一歩手前まで詰まっていた差が再び開き、全てを賭した奇策が水泡に帰そうとしていた。
「危ういところでしたが、どうにか立て直しましたね」
フォルリは微笑む。
めまぐるしく形勢が変わる勝負も、彼女にとっては予想の範疇だった。
「鍛えた肉体は裏切らない。勝負が大詰めの時ほど、積み重ねてきた鍛錬の成果が如実に表れるものです」
一度は追い詰められながらも心身を立て直し、再びキングヘイローを突き放したエアジハードの走りを、強者のあるべき姿として讃える。
次いでその視線は、彼女の基準では強者と呼べない者へと移る。
「策、戦略、詐術……そうしたものを否定する気はありませんけれど、それだけで勝てるほど競馬は甘いものじゃありませんよ。鼠は所詮鼠。力のない者がいくら策を弄したところで、見苦しい悪足掻きに過ぎません」
フォルリは力の信奉者だ。
有象無象の弱者が淘汰され、一握りの強者だけが生き残る――そうした生存競争こそが競馬の本質だと捉えており、競馬とはそうでなければならないとさえ思っている。
そんな彼女にとって、キングヘイローのような存在は見る価値もない「鼠」でしかなかった。
「一生懸命勝つための方法を考えてきたみたいですけど、残念でしたね。敗因は単純。実力不足です。そもそも、力で勝てないから小細工に縋るっていう性根自体が――」
「黙ってろ」
嘲弄の言葉を遮る、鋭い声。
それは、フォルリの隣に座るリコの口から放たれたものだった。
「何もかもお前の言う通りだが、まだレースは終わってねえよ。黙って観てろ」
その視線は、ただ一点にだけ注がれていた。
ターフの上で戦い続ける自らの教え子を、一瞬たりとも目を逸らさずに見守り続けていた。
「あれが鼠かどうか……答えはすぐに出る」
「ぐっ……うぅっ……!」
懸命に追いすがりながら、キングヘイローは苦悶の声を洩らす。
あと一歩というところまで相手を追い詰めてからの形勢逆転。それは彼女の精神に重い負荷をかけ、闘志を大きく削ぎ落とした。
強い――と、今さらながらに思う。
おそらくだが、自分が仕掛け所を間違えたわけではないだろう。エアジハードに並びかけた瞬間は、会心の一撃を見舞ったような手応えが確かにあった。
にもかかわらず逆転を許してしまったのは、相手の底力が尋常ではなかったからだ。
修正力、とでも表現すべきだろうか。不意を突かれて敗北必至の形勢に陥りながら、精神と肉体を即座に万全の状態に戻し、形勢を覆すほどの走りを見せる勝負強さ。それこそが、エアジハードという競走馬の最も恐るべき点だった。
以前、どこかで聞いたことがある。
どんな分野においても、真に優れた者とは過ちを犯さない者ではなく、過ちを引き摺らない者を指すのだと。
その言葉の意味が今、骨身に沁みて理解出来た。
(感心してる場合じゃない……けど……もう……)
ゴールはほんの数十メートル先。万策尽き、気力も体力も枯渇寸前。
この絶望的な状況をどうにか出来るようなものが、この身には何一つとて残されていない。
――勝てない。
そんな思いが、脳裏をよぎった。
弱い自分。どれだけ闘志を燃やしても消し去れない自らの本心が、疲れ果てた声で弱音を繰り返す。
自分は頑張った。十分すぎるくらい頑張り抜いてきた。
これ以上は無理だ。これ以上の力を捻り出そうとしたら、本当に身体が壊れてしまう。
仕方がない。これだけやって駄目だったなら、もう観念するしかない。
そもそも、別に勝たなくてもいいではないか。
これは、ただのレースだ。生死をかけた殺し合いではない。勝利を逃しても少し悔しい思いをするだけで、何も失わない。
敗北など、飽きるほど経験してきた。ここでまた、その経験が一つ増えるだけ。大したことではない。
だから、もういいだろう。
ここまで頑張り抜いてきた自分を許して、この苦しいレースを終えてもいいだろう。
一番になる夢を諦めて、敗北を受け入れる。ただそれだけで、楽になれるのだから。
(なんて……)
ふと自分を客観視して、呆れ返る。
表情を変える余裕はなかったが、内心で苦笑した。
(そんな風に、本気で思えたら……楽なのにね)
後ろ向きな気持ちはあった。
この相手には勝てないという弱音も、こんな苦しい思いをしてまで走りたくないという弱音も、偽らざる本心として確かにあった。
けれど、最も深いところ――心の核と呼ぶべき部分に響いた「声」は、そうした弱音ではなかった。
小さな子供の声。
幼く無邪気で、真っ直ぐな声。
何故だか力強く聞こえるそれが、遠い記憶の彼方から届き続けていた。
母から競馬の世界の果てしなさを教えられた、あの日。
子供だった自分は、母に問いかけた。
「おかあさまは……一ばんになりたかったの?」
「ええ」
「一ばんになれなくて、いやだったの?」
「ええ……そうね、少しだけ……」
どこか寂しさが滲む声で、母は答えた。穏やかに微笑むその顔が、消えない痛みに苛まれ続けているように思えてならなかった。
だからなのだろう。
その辛そうな顔を見上げたまま、あの日の自分は言ったのだ。
「じゃあ…………わたしが、一ばんになる」
「え……?」
「いっぱいれんしゅうして、おかあさまよりつよい人たちよりつよくなって……おかあさまがなりたかった一ばんつよい人に、わたしがなる」
呆気に取られた様子の母に、無邪気な笑顔を向けた。
「それならもう、いやじゃないでしょ?」
「え……ええ、そうね…………でも……すごく大変よ? それ」
母は苦笑しながら身を屈め、こちらと目の高さを合わせた。
「世界で一番強くなるためには、世界で一番頑張らなきゃいけないの。いろんなトレーニングをしなきゃいけないし、辛くても苦しくても走り続けなきゃいけない。普通の人なら途中で諦めちゃうくらい大変なことだけど……出来る?」
「へいきだよ。わたし、はしるの大すきだもん」
「大好きでも、大変なのよ? 走るのが嫌いになっちゃうくらい」
「ならないよ。きらいになんて」
きっぱりと答えてから、母の顔をじっと見た。
そして自分の中にあった素直な気持ちを、そのまま言葉にして伝えた。
「だってわたし、おかあさまのこと大すきだもの」
「え?」
「おかあさまよりつよい人がたくさんいても、わたしの一ばんはおかあさまだから。おかあさまみたいにつよくなって、みんなのまえでかっこよくはしりたいから……だから、あきらめないよ。一ばんになるまで、がんばる」
母は目を丸くして、しばしの間固まった。
遠い昔に失くした大切なものを、思いがけない場所で見つけたような――そんな驚きを映した顔だった。
やがて、その心の中で何かが片付いたのか。母は元の穏やかな笑顔に戻り、澄んだ声音で問いかけた。
「そう……だったら、約束してくれる? 今のその気持ちを、大きくなっても忘れないでいてくれるって」
「うん!」
迷いはなかった。
自分の言葉を嘘にはしないと幼いなりに強く思って、大きく頷いた。
そんな娘の頭を、母の手はそっと撫でた。
「楽しみにしてるわ。……私が見た夢の続きを、あなたが見せてくれる日を」
世界で一番強くなる。
あの日、母とそう約束した。
何も知らない子供だった頃の、愚かな約束。
深く考えもせず幼稚な目標を口にして、母に苦笑されただけの、些末な記憶。
けれど、それが自分の始まりだった。
自分が歩む長い道程は、自分より遥かに強い相手に挑み続ける過酷なレースは、確かにあの日、あの瞬間から始まったのだ。
だから――
「づぅっ……ああああああああああッ!」
絶望を拒み、前に進む。
胸の奥から絞り出した力で身体を動かし、走り続ける。
身体の節々が上げる悲鳴に耐え、今にも破裂しそうな心肺にさらなる負荷をかけ、前を行く相手に再び挑みかかる。
「はぁっ……はぁっ……ぜぇっ……はぁっ……!」
勝たなくてもいい理由など、探せばいくらだってある。
これはただのレースで、競馬という興業の一部だ。負けたら命を奪われるような戦いではなく、命を懸けるようなことでもない。どんな形で終わろうが、今日も明日も明後日も当然のように生きていられる。
だから無理をしなくていい。勝者になれなくてもいい。
死ぬほど辛い思いをしてまで走る必要はない。どれだけ頑張っても勝てないなら、諦めて楽になってしまえばいい。
いつもそう思う。
毎晩眠る前に思う。毎朝目覚めた後に思う。
練習に向かう度に思う。身体が痛む度に思う。疲労で動けなくなる度に思う。
このターフを走る度に思う。一歩前に踏み出す度に思う。
けれど、その度に――記憶の奥底にいる始まりの自分が、幼い声を振り絞り訴えかけてくる。
前を向け、と。
走れ、と。
諦めずにもう一度立ち向かえ、と。
その声は、どうしたって無視出来ない。聞こえなかったふりをして立ち止まるなんて出来はしない。
他の誰でもない、自分自身の声なのだから。
あの日抱いた無垢な夢を、自分は今でも、忘れたくないと願っているから。
『内から再びキングヘイロー! キングヘイローがもう一度伸びる! エアジハードと馬体が並ぶ!』
「何……だと……!?」
実況が何かを叫び、隣を走る相手も何かを言った。
既に意識は半ば朦朧としており、誰の発言も聞き取れないばかりか、今どこで誰と競り合っているのかさえ分からなくなっていた。
それでも、胸の奥の何かが反応したのか。
荒い呼吸を繰り返す口から、自然と言葉が溢れ出した。
「何度でも……何度だって、言ってやるわ……」
今にも暗転しそうな視界の中、前を見据える。
ゴールの先にある未来を目指し、始まりの瞬間から積み上げてきた全てを燃やし尽くす。
「この勝負は譲らない……私が勝って、世界に行く……!」
「――っ」
その時エアジハードが覚えた感情は、何と呼ぶべきものだったのか。
ゴール寸前で再び追い込まれたことによる焦りではなかった。
理解を超えた底力に対する恐怖でもなかった。
自身の勝利を阻もうとする相手への苛立ちでもなかった。
焦りでも恐怖でも苛立ちでもなく、エアジハード自身にも正体の掴めない不思議な感情が、何故かその身を縛った。
相手から視線を切り、前だけを見据えて真っ直ぐ走らねばならないと分かっているのに、何故かそれが出来なかったのだ。
隣を走る少女。
気力も体力も限界を迎えながら、それを踏み越えて走り続ける競走馬。
何度突き放しても、どれだけ力の差を見せつけても、諦めずに戦いを挑んでくる難敵。
同じ場所を目指し、全てを懸けて競い合う相手。
どうしてだろうか。
もう長い間、そんな存在を心の何処かで探し求めていたように思えてしまった。
そして、短くも濃密な時間が過ぎ去り――
『キングヘイローか!? エアジハードか!? ――今、二人並んでゴール! これは分からない!』
死闘を繰り広げた二人は、横並びのままゴール板の前を通過した。