ウマ娘 Big Red Story   作:堤明文

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第十八話「未来に続く道」

 

 

 どうせ無理だろうと思っていた。

 

 多少見せ場を作れたとしても、結局はいつもと同じ。前にいる何人かを差し切れずに四着か五着あたりでレースを終えるのだろうと思っていた。

 

 何度も何度も、本当に飽きるくらい何度も、そんな光景を見てきたからだ。

 

 だから、直線を迎えてキングヘイローが先頭に躍り出た時――スマートフォンの画面越しに観戦していた浅黒い肌の少女は、驚愕に目を見開いた。

 

 直後にエアジハードが迫ってきた時は、まるで自分が追い詰められたかのように心臓が跳ね上がり、呼吸が止まった。

 

 最後のハロン棒を通過してからキングヘイローが二の脚を繰り出した時は、その激走から目が離せなくなっていた。

 

 そして、最後の最後。態勢を立て直したエアジハードに突き放され、やはり駄目かと思いかけた時。

 

 消えかけた火が再び激しく燃え上がるように、死力を振り絞りながらもう一度伸びる姿を目にして、理屈を超えた感情が湧き上がった。

 

 スマートフォンを持つ手に、力を込める。

 

 奥歯を噛み、画面に映るキングヘイローの走りを凝視して、唇を動かす。

 

「い……け……」

 

 掠れた声の、微かな呟き。

 

 誰の耳にも届かない、独り言も同然の言葉。

 

 けれどそれは、確かに彼女の――競馬の世界に夢を抱かなくなっていた少女の口から零れ落ちたものだった。

 

「いけ……いけよ…………勝てよ……!」

 

 キングヘイローとエアジハードの二人がゴール板の前を同時に駆け抜けたのは、その直後のことだった。

 

 

 

 

 

 

 たったの千二百メートル。

 

 しかしながら、心臓が止まりかねないほどの苦しみに耐え、五体を極限まで酷使し続けなければ踏破出来ない、この世で最も過酷な千二百メートル。

 

 そんな激戦に身を投じていた競走馬達が、次々とゴール板の前を通過する中――最初にレースを終えた二人はすぐさま脚を止め、地面に膝をついていた。

 

 何もかもを出し尽くした後だったため、それ以上一歩も動けなかったのだ。

 

「ぜぇっ……はぁっ……はぁっ……」

 

 項垂れた姿勢で肩を上下させるエアジハード。

 

 十数秒かけてどうにか呼吸を整えた彼女は、ターフビジョンの隣にある着順掲示板に目を向ける。

 

 一着と二着の馬番号はまだ表示されておらず、通常なら着差が表示される部分には「写真」の二文字。

 

 同時入線のため決着が写真判定に委ねられたことを、それは物語っていた。

 

「……」

 

 不思議だった。

 

 勝利を掴む寸前で差を詰められた悔恨。写真判定の結果を待つ間の焦燥。

 

 そうした類の感情――このような状況に置かれた者なら誰もが抱くであろう思いが、何故か胸の内に生じなかった。

 

 その不思議さに戸惑う気持ちさえ、どういうわけか希薄だった。

 

 代わりに胸を満たす、澄み切った空のように静穏な感情が何と呼ぶべきものなのかは、本人にも分からない。

 

 分からないまま首を回し、今度はすぐ傍にいる少女を見た。

 

 案の定、と言うべきか。限界を超えた激走の反動に苦しんでいるキングヘイローの姿が、そこにあった。

 

(こいつは……)

 

 四つん這いになったまま動けず、汗塗れの身体を痙攣させ続ける対戦相手。

 

 その壮絶な姿を見つめ、心から思う。

 

(本当に……全てを出し尽くしたんだな……)

 

 全力でぶつかり合ったからこそ分かる。

 

 勝利を目指す意思という一点において、この相手は自分の上をいっていたのだと。

 

 比喩や誇張ではなく、本当に文字通りの意味で、己の全てを捧げた走り。

 

 一歩間違えれば二度と走れない身体になってもおかしくない、破滅と隣り合わせの無謀な奮闘。

 

 それを愚かと嘲笑う者はいるだろう。自殺行為と非難する者もいるだろう。

 

 けれど――命懸けでゴールへと向かうその真っ直ぐな意思が、最後の最後でもう一伸びする力を生み、敗北必至の状況を覆した。

 

 それだけは、この世の誰にも否定出来ない事実なのだ。

 

「……大丈夫か?」

 

「え……?」

 

 小声の問いかけに、キングヘイローは反応した。

 

 疲労を色濃く滲ませた顔が、エアジハードを見上げる。

 

「何か言った……? 今……」

 

「その……大丈夫か? 脚……」

 

 言葉の意味がすぐには伝わらなかったのか。

 

 それとも、ほんの数十秒前まで戦っていた相手に気遣われたのが、よほど意外だったのか。

 

 キングヘイローはしばしの間呆然とした後、微かに苦笑した。

 

「……は……はは……正直、ちょっときついわね……力、入らなくて……立てるかどうかも、分かんないくらい……」

 

 自らの脚に手を伸ばし、そっと触れる。

 

 かけがえのない戦友を労るように。

 

「でも……折れたりはしてない……と思う……私、脚だけは頑丈だから……」

 

 穏やかな声音でそう言ってから、やや不安げな顔になる。

 

「それより、どうなったの……? レース……」

 

「私達が同時に入線して、写真判定になった。まだ結果は出ていない」

 

「そう……」

 

 二人以上の競走馬が同時に入線した場合、その瞬間に撮影される写真を用いた決勝審判委員による判定が行われる。

 

 そして到達順位が確定した後、それが掲示板に表示される仕組みだ。

 

「とっくに……あなたの勝ちで決まったのかと思ったわ……最後、よく憶えてないから……」

 

 負けを覚悟した様子で、キングヘイローは力なく笑う。

 

 その横顔を見つめたまま、エアジハードは気になっていたことを口にした。

 

「あの作戦は、君が考えたの?」

 

「え……? あ、ああ……はは……まさか……どうやったらあなたに勝てるのか分からないから……セイウンスカイに相談して、知恵を借りただけよ……私は、あいつに言われた通りにやっただけ……」

 

「……だろうね。君、ああいう作戦が思いつきそうなタイプに見えないし」

 

「何よ、酷い言い種ね…………まあ、否定出来ないんだけど……」

 

 道中のペースを操作されたと気付いた時から、キングヘイローらしからぬ戦い方だとは思っていた。

 

 作戦自体が借り物だったと聞いても、別段驚きはしない。

 

「でも……ゴールまで走り抜いたのは、君の脚だ」

 

 立ち上がり、呟く。

 

 仮に今日の相手が、キングヘイローではなくセイウンスカイだったとしても――

 

 いや、他の誰であったとしても、自分は勝っていた。それだけの走りをしてみせたという自負はある。

 

 にもかかわらずこのような結果になったのは、相手がキングヘイローだったからと認めるしかない。

 

 最後の最後で、この少女は他の誰にも真似出来ない走りをした。

 

 不覚にも、自分はそれに目を奪われてしまったのだ。

 

 忘れかけていたものを思い出させるような、眩しい光を放つ疾走だったから。

 

 そのことを胸に刻み、一度目を瞑って深呼吸した後、地面に膝をついたままの少女に右手を差し出した。

 

「え……?」

 

 エアジハードの白い手を見つめ、キングヘイローは目を丸くする。

 

「ほら、立って」

 

「あ……ありがと……」

 

 戸惑いつつも差し出された手を取り、どうにか立ち上がる。

 

 目の高さが同じになったところで、エアジハードは言った。

 

「偉そうなことを言える立場じゃないけど……一応言っておく。世界を甘く見ない方がいい」

 

 真剣な眼差しは、対等と認めた相手に向けるそれだった。

 

「アメリカのドクターフェイガー、イギリスのブリガディアジェラード、香港のサイレントウィットネス……短距離戦に出てきそうな面子だけでも、今日の私より格上の名馬はごろごろいる。普通に競走したら何をどうやっても絶対に勝てないような化物ばかりだ。正直な話、この狭い日本で一番を争ってる私達とはレベルそのものが違う」

 

 世界との絶望的な差は、キングヘイローも合宿の時に痛感したことだった。

 

 壁を一つ越えた先には、さらなる壁が待っている。上を目指せば目指すほど、立ちはだかる壁は厚く高くなる。

 

 かつて母が言ったように、世界で一番頑張れるほどの覚悟を持った者でなければ辿り着けない場所なのだろう。

 

 広大な世界の頂にある、最強の座は。

 

「けど、何でかな…………そんな連中が相手でも、君ならどうにかしてしまいそうな気がするよ。少しだけね」

 

 小声で言い添えると、エアジハードは内埒の向こうにある掲示板を再び見上げる。

 

 つられて同じ方を向いたキングヘイローは、大きく目を見開いた。

 

「まあ、とりあえず……」

 

 割れんばかりの大歓声が、スタンドから湧き上がる。

 

「ウイニングランは勝者の義務だ。ゆっくりでもいいから、やっておきなよ」

 

「あ……」

 

 写真判定が終わり、着順掲示板には一着から五着までの馬番号が縦一列に表示されていた。

 

 一着の場所に灯る数字は、十三。

 

 他の誰でもない、キングヘイローの馬番号だった。

 

 

 

 

 

 

 悲喜こもごもの叫びが湧くスタンド。

 

 その一角で、伊藤は席に座ったまま沈黙していた。

 

 着順掲示板に一着と表示された「十三」の数字を、静かに見つめ続けていた。

 

 その横顔を盗み見るエアグルーヴが、どう声をかけたものかと迷っていると――老齢のトレーナーは何かを受け入れた様子で、おもむろに口を開く。

 

「一生懸命頑張れば、いつか必ず報われる。死ぬ気で走れば、必ず勝てる」

 

 そう呟いた後、寂しげに目を細める。

 

「世界がそんな風に優しく出来ているなら……きっと、誰もが頑張れるのだろうね」

 

 長い人生の中で経験してきた、幾多の出来事。

 

 老人の横顔には、その爪痕が深く刻みつけられているようだった。

 

「始めは誰もが夢を見るものさ。ダービーを獲りたいだとか、日本一になりたいだとか……そんな大きな夢を胸に抱きながら、この世界に入ってくる」

 

 教え子達の顔を思い浮かべるような口振りで、言葉を続ける。

 

「そしてほとんどの子が、すぐにそれを口にしなくなる。非情な現実に打ちのめされ、自身の限界を悟って……ね。悲しいことではあるが、致し方ないことだ。レースで勝者になれるのは一人だけ。他は全員敗者となり、無名のまま競走生活を終える。努力に見合うだけの成果を誰もが得ることは出来ない。競馬とは、そういうものなのだから」

 

「先生……」

 

 寂しげに語るその姿を、エアグルーヴは複雑な面持ちで見つめる。

 

 伊藤の視線は掲示板を離れ、ターフの上に佇む少女へと移った。

 

「だからこそ、尊いのかもしれんね」

 

「え?」

 

「現実の厳しさを知っても、どれだけ苦しくても立ち止まらず……懸命に走り続ける子達の強さは」

 

 自らの教え子を打ち破った相手。

 

 不屈の闘志でゴールまで走り抜き、栄冠を掴んだ競走馬。

 

 その強さに敬意を表すため、伊藤は両の掌を打ち合わせた。

 

「強い相手だったよ。想像以上に」

 

 喧噪の中、静かな拍手を勝者に贈る。

 

「悔しい気持ちはあるが……今はただ、彼女の勝利を讃えよう」

 

 その言葉を聞き、しわだらけの手が繰り返す拍手に目を向けながら、エアグルーヴは密かに考えた。

 

 たった今語られたことの意味――伊藤という老人が胸の内に秘めていた、教え子達への想いを。

 

「……」

 

 かつての伊藤徳正は、競馬界で最も厳しいトレーナーとして知られていた。

 

 教え子達に情け容赦のないハードトレーニングを課し、生活面でも自由を認めず徹底的な管理下に置こうとする、昔気質の男だった。

 

 その指導によって才能を開花させる者もいたが、そうなれずに挫折していった者はその何倍もおり、批判も数多く集まった。

 

 ――あまりにも厳しすぎる。あれでは教え子達を潰すだけだ。

 

 ――多くの才能の芽を伊藤は摘み取った。伊藤の下でなければ一流になれた者はきっと大勢いる筈だ。

 

 そんな声が年々増えていき、伊藤の指導を受けようとする者は減少の一途を辿り、やがて伊藤は方針を大きく転換した。

 

 ハードトレーニングを課すことを止め、練習以外で干渉することもなくなり、半ば放任に近い形で教え子達を育成するようになった。

 

 それにより厳しすぎるという批判は収まったが、代わりに別の批判が生じた。

 

 ――伊藤は枯れた。もうあの男は、教え子をまともに育てる気がない。

 

 いつしかそう囁かれるようになり、トレーナーとしての伊藤の名声は地に落ちた。

 

 どうするべきだったのか。

 

 何が正しく、何が間違っていたのか。

 

 何を目指してどのように接すれば、教え子達を光輝く未来に導けたのか。

 

 それは誰にも分からない。伊藤自身にもきっと分からない。

 

 永遠に答えが出ない問いなのかもしれない。

 

「さて……こうしてはいられんな。もう行かねば」

 

 伊藤は拍手を止め、席から立ち上がる。

 

 その面持ちが何故か、娘に会いに行く父親のそれのように、エアグルーヴには見えた。

 

「まだ、やるべきことが残っている。トレーナーとしての、最後の仕事がね」

 

 

 

 

 

 

 フォルリは人差し指を顎に当て、難しい顔をしていた。

 

「最後……ほんの僅かにですが、栗毛の子の脚が鈍りましたね」

 

 ゴールの寸前――エアジハードとキングヘイローの馬体が並んだ瞬間を思い返しながら、不可解に映った事象を考察する。

 

「体力が尽きたか、相手の決死の抵抗に怯んだか……それとも……」

 

 答えを探すように呟いた後、ふっと笑う。

 

「ま、考えても仕方のないことですね。どんな形であれ負けは負け。勝ちは勝ちです。今日のところはあの緑の子の奮闘を讃えておきましょうか」

 

 そんなことを白々しく言いながら、隣にいるリコに皮肉な笑みを向けた。

 

「教え子さんのGⅠ初制覇、おめでとうございます。感動的なレースでしたよ。涙が出ちゃいました」

 

「はいはい、見事に予想が外れちゃったもんで嫌味を言わなきゃ気が済まないのね。まったくメンタル小物なんだから」

 

「むっ……! ち、違いますー! 普通におめでとうございますって言ってるだけですー! ていうか予想してませんから! あの栗毛の子の方が強そうに見えるって言っただけで、別に絶対勝つなんて断言してませんから! ノーカンです!」

 

「何今さら予防線張ってたみたいなこと主張してんのよ。めっちゃドヤ顔でジハードちゃん推してたじゃない。私には勝者を見抜く目があるんですよって言いたげなアホ面晒してたじゃない」

 

「ア、アホ面って何ですか! アホ面って! ……だ、だって仕方ないじゃないですか! レースには色々と不確定要素というか、勝負のあやみたいなのだってありますから、一番強いのが必ず勝つってもんじゃないですし!」

 

「じゃあ偉そうに能書き垂れるのやめたら? あんたの的外れな解説を聞きたいなんて思ってる奴地球上にいないし」

 

「うぐっ……」

 

 辛辣に返され、口ごもるフォルリ。

 

 彼女は物凄く不服そうな顔をしばらく続けた後、拗ねたように唇を尖らせた。

 

「はいはい分かりましたよー。私の目が節穴でしたよー。ちっとも予想が当たらないのに何故かテレビに出続けてるおじさん達と同レベルの無能ぶりでしたよー。それに比べてリコさんはすごいですねー。最初から全てお見通しだみたいな面したままそこでふんぞり返ってて。いかにも出来る人っぽいオーラ漂わせながら強キャラ感満載で」

 

 皮肉交じりというより皮肉でしかない言い種だったが、それから彼女が見せた表情は少しばかり真剣だった。

 

「で……正味な話、リコさんにとって予想通りなんですか? この結果は」

 

「五分五分ってとこね。こうなるかもしれないとは思ったし、こうならないかもしれないとも思った。レースは所詮水ものだしね。どうなるかなんて、終わってみるまで分かりゃしないわ」

 

「ふぅん……五分五分、ねぇ……」

 

 未だ勝利の実感が湧かない様子で立ち尽くしているキングヘイローを、興味深げに見下ろす。

 

「リコさんが選んだ代表メンバー……あの緑の子以外の子達も、世間じゃ結構言われてるみたいですね。ワールドカップに送り出す五人がこれでいいのか、って」

 

「……」

 

「それでもあえてそのメンバーで行くことにしたのは、何か光るものを感じたとか潜在能力を見抜いたとか、そういう理由ですか?」

 

「まさか」

 

 フォルリの問いかけに、リコは否定を返す。

 

「悪いけど、私の目だって実は結構な節穴よ。目の前にいる子達がすごい潜在能力を秘めてるかどうかなんて、そんなもんいくら見たって分かりゃしないわ。漫画に出てくる名監督みたいにピキーンってなったりしないから。全然」

 

 視線をキングヘイローに向けたまま、静かに続ける。

 

「それに……ちょっとばかりすごい才能なんて、あったところで大して意味はない」

 

 確信を込めて口にした言葉には、彼女自身の挫折の経験と、そこから学び得たものが表れていた。

 

「パワーやスタミナに優れていてもレースセンスが並外れていても、広い世界を見渡せば必ず上はいる。自分より遥かに強い相手と出会って打ちのめされる日は、いつか必ずやってくる」

 

 上には上がいる。どれほどの才能を持って生まれても、どれほどの努力を積んできても、越えられない壁にぶつかる時は必ず訪れる。

 

 問題は、その時にどちらの道を選ぶか。

 

「そこで立ち止まって走れなくなる子か、立ち止まることを拒んで走り続けられる子か……その違いくらいなら、私の目だって見分けられるわ」

 

 自らの目で選び抜き、世界と戦う資格を与えた五人。

 

 その一人一人が胸に宿す強さを、リコは信じていた。

 

「別に無敗でも最強でもない。敗戦なんて何度も経験してきたし、世界の壁の厚さも思い知った。……それでもあの子達は、諦めずに走り続けてる。ほとんどの子達が途中で放り捨てていく夢や目標を、どんなに傷ついても捨てずに抱え続けてる。そういう子達だから代表に選んだ。理由を言葉にすればそれだけよ」

 

 世界との絶望的な差を覆す術があるとすれば、それは半端な才能や小細工によるものではない。

 

 どれほど強大な敵にも立ち向かう意思――絶望に抗い前へと踏み出す強さこそが、勝利を手繰り寄せる力となる。

 

 そう信じるが故の人選だった。

 

 万人に理解されるものではないだろうし、批判も山ほどあることは承知している。それでもリコは、その信条を曲げる気はなかった。

 

 自身の全てを捧げ、小さな島国の少女達を世界の頂点に導くと誓い、監督の任に就いたのだから。

 

「力しか信じないあんたには、納得いかない話でしょうけどね。フォルリ」

 

 隣に目を向ける。

 

 南米の大国から来た、小柄な栗毛の少女。

 

 柔和で可憐なその童顔の裏側に、腐汁のようにおぞましい本性が潜んでいることを、リコは知っている。

 

「……やだなぁリコさん。人をそんな、バトル漫画に出てくるダメな悪役みたいに言わないで下さいよぉ」

 

 フォルリは笑う。

 

 薄い唇を三日月の形に歪め、妖しく微笑む。

 

「教え子さん達の育ち具合を観察しに来たってのは、別に嘘じゃないんですよ? それにこう見えて、今は結構満足してるんです。リコさんの人選の正しさをあの緑の子が証明してくれてよかったなぁって」

 

 そう言って身を翻し、リコの傍を離れる。

 

 もうこの場に用はないとばかりに歩を進め、フロアの出口へと向かっていく。

 

「でも……」

 

 鈴の音のような声が、僅かに変質する。

 

「夢だとか目標だとか、諦めずに走り続ける意思だとか……」

 

 出口の近くで立ち止まり、振り返る。

 

 そこで彼女が見せたのは、虚飾を剥ぎ取った素顔だった。

 

「そんなチンケなもので打ち倒せるほど、生温い相手じゃありませんよ。――私達、アルゼンチン代表は」

 

 口角を吊り上げ、歯を剥き出しにした醜悪な凶相。

 

 凄絶なまでの獣性を孕み、毒針のような殺気を撒き散らす双眸。

 

 道化を装いながら己以外の全てを嘲笑い、情も敬意もなく気の赴くまま蹂躙し続ける、傲岸不遜な悪鬼の貌。

 

「殺す気で鍛え上げてきて下さいね。この島国のゴミ虫ちゃん達を。あんまり簡単に捻り潰せるようだと、面白くありませんから」

 

 冷酷に告げ、少女の姿をした悪鬼は去っていった。

 

 

 

 

 

 

 ウイニングラン。

 

 レースの勝者となった者がスタンドの前を駆け抜け、自身の勝利と応援してくれた観客達への感謝を示す行為。

 

 激戦の後の放心状態から抜けたキングヘイローが行うそれを、立ち見エリアの最前列で見届けていたセイウンスカイは、すぐ隣からパチパチという拍手の音を聞いた。

 

 拍手の主は、名も知らない奇人。

 

 ここに来た時から何故か自分達と一緒にいた、ロックシンガーのような出で立ちの少女だった。

 

「すごい逆転。びっくりした」

 

 先程までと変わらない無表情のまま、少女は言う。

 

「絶対勝てないと思って見てたけど、こういうことってあるんだね。奇跡っていうの? 何かそんなの見た気分」

 

 疲れ果てた身体をどうにか動かし、大歓声を浴びながらターフを駆ける勝者の姿を、その目はじっと見つめていた。

 

「ううん……奇跡じゃない、か……」

 

 前言を撤回し、拍手を止める。

 

「偶然とか幸運とかじゃなくて……あの緑の子が最後まで諦めないで頑張ったから、勝てないレースが勝てるレースに変わった。そんな感じだと思う」

 

 首を回し、セイウンスカイに目を向ける。

 

 その真っ直ぐな視線に、セイウンスカイは若干戸惑った。

 

「な、何……?」

 

「あなたの言う通りだったね」

 

「え……?」

 

「言ってたでしょ? まだ終わりじゃない、まだゴールじゃないって」

 

「あ……」

 

 言われて思い出す。

 

 この少女がキングヘイローの敗北を断言した時、確かにそう言い返していた。

 

「あの言葉の意味が分かった。……強かったね。あなたの友達」

 

 感情の読めない平坦な声だったが、それは紛れもない讃辞だった。

 

 キングヘイローが苦闘の末に掴み取った勝利と、セイウンスカイが最後まで貫き通した信頼を讃えるため、彼女は言葉を紡いだのだ。

 

 セイウンスカイは驚いた顔になり、相手の澄ました顔を見つめ返す。

 

 その直後だった。

 

「あっ、いたいた! キャンディさーん!」

 

 場の空気を打ち破るような、大声の呼びかけ。

 

 見ると、人混みを掻き分けながら近寄ってくる小柄な少女がいた。

 

「あ、フォルリだ」

 

「あ、フォルリだ――じゃないですよもー! 勝手にどっか行きやがったと思ったら何そんなとこで油売ってやがるんですかぁー!」

 

「……? 油は売ってないよ? ていうか持ってない」

 

「はいはい、いつも通り話が通じないキャンディさんですねー! もうどうでもいいですから、とっとと帰りますよー! 今度消えやがったらマジで置いてきますからねー!」

 

「うん。今行く」

 

 どうやら、はぐれていた知り合いに発見してもらえたらしい。

 

 怒った様子で来た道を戻っていく小柄な少女に、ロックシンガーのような少女はのんびりとした足取りでついていこうとする。

 

 その背中に、セイウンスカイは声をかけた。

 

「あ……待って」

 

 少女が歩みを止め、振り返る。

 

 呼び止めたことに明確な理由はなかったが――何かに衝き動かされるように、自然と口から問いが出た。

 

「えっと……その……君、名前は……?」

 

「キャンディライド」

 

 少女はさらりと答える。

 

 そして再び歩き出しながら、最後に言った。

 

「多分だけど、近いうちにまた会うと思う」

 

「え……?」

 

 人混みの奥にその姿が埋まり、視界から消える。

 

 残されたセイウンスカイは白昼夢でも見たような気分で、キャンディライドという名の奇人が去っていった方を呆然と見つめていた。

 

 いったい何者だったのか、あの少女は。

 

 そんな疑問が頭の中で渦巻いていると――

 

「ちょっと!」

 

 背後から声。

 

 振り返ると、ウイニングランをしていた筈のキングヘイローが埒の向こうで立ち止まり、こちらを睨みつけていた。

 

「何明後日の方向見てぼーっとしてんのよ! 人がせっかく勝ってウイニングランしてるってのに!」

 

 どうやら、自分の晴れ姿をきちんと見ていなかったことが不満らしい。

 

 精魂尽き果てているだろうに口だけは元気だなと呆れつつ、セイウンスカイは表情を緩める。

 

 そして気持ちを切り替え、少し悪戯っぽく言った。

 

「えー……いいじゃん別に。そんなの見てなくたって」

 

「はぁ!?」

 

「だってほら、これが最後のウイニングランってわけでもないんだしさ」

 

「――っ」

 

 不意を突かれたように、キングヘイローは息を呑む。

 

 それから彼女は視線を逸らし、ほんの少しだけ頬を赤らめながら呟いた。

 

「ま、まあ…………分かってるなら、いいんだけどね……」

 

「ふふ」

 

 分かりやすい反応を見て、セイウンスカイは笑った。

 

 

 

 

 

 

 ウイニングランが終わってからも、浅黒い肌の少女はスマートフォンの画面に目を落としていた。

 

 中庭のベンチに座ったまま、何も言わず、身動き一つせず。

 

 ただ静かに、画面の向こうで人々に祝福されるキングヘイローを見つめ続けていた。

 

「……勝っちゃったね。あいつ」

 

 隣に立つ髪の長い少女は、ぽつりと言う。

 

 細められたその目には、昔を懐かしむ思いが滲んでいた。

 

「もう二年も前だっけ……あたしらの世代のクラシックが始まる頃、あんた言ってたよね。今年のダービーはキングヘイローが勝つって。上手く言えないけど器の大きさみたいなのを感じるから、そう遠くない内に一番強くなるんじゃないかって」

 

 日々の出来事の中に埋もれていた、些末な記憶。

 

 髪の長い少女自身、今の今まで忘れていたこと。

 

 苦闘の末に栄冠を掴んだキングヘイローの姿を見て、ふとそれが蘇った。

 

「あんた、本当は……」

 

「馬鹿馬鹿しい」

 

 吐き捨てるように呟き、浅黒い肌の少女は立ち上がる。

 

「ああ言ってたかもね、そんなアホなことも。……どっちにしろ忘れたよ、昔のことなんて」

 

 スマートフォンをスカートのポケットにしまい、静かな足取りで歩いていく。

 

 その背中に、髪の長い少女は問いかけた。

 

「どこ行くの?」

 

「練習」

 

 返ってきた短い答えに、目を丸くする。

 

 浅黒い肌の少女は背を向けたまま、感情を押し殺したような声で言った。

 

「だらだらしてんのも飽きたから、ちょっと自主トレでもしようかって気分になっただけ。悪い?」

 

 その時、彼女がどんな顔をしていたかは分からない。

 

 けれどその言葉に込められた思いが、髪の長い少女には少しだけ分かる気がした。

 

 妙な安堵とおかしさを覚えつつ、淡く微笑む。

 

「そっか……じゃあ、あたしも付き合わせてもらおっかな」

 

「……勝手にすれば」

 

 素っ気なく応じる声は、隠しきれない気恥ずかしさを帯びていた。

 

 

 

 

 

 

 レース後の検量を終え、控室へと続く通路を俯きながら進んでいたエアジハードは、ふと顔を上げて立ち止まった。

 

 老いた男が一人、道を塞ぐように立っていたからだ。

 

 伊藤徳正。二年前に関係が決裂して以来、彼女にとっては名ばかりのトレーナーと化していた男だった。

 

「先生……」

 

 呟きが洩れたが、さほど驚きはなかった。

 

 何となく、そろそろ自分の前に現れるのではないかという予感はあったのだ。

 

 とはいえ、やはり気まずい。レースに敗れて帰ってきた今、胸を張って会えるような相手ではない。

 

 正直なところ、どんな顔をして何を言えばいいのかも分からないが――かといって、逃げるわけにはいかないだろう。

 

 覚悟を決めて、しっかりと向き合わねばならない。前に進むために。

 

「私は……」

 

「これから……」

 

 言葉が重なる。

 

 エアジハードが機先を制されたように固まると、伊藤は静かに言い直した。

 

「これから私が語ることは、独り言のようなものだ。自分の理想ばかりを教え子達に押し付け、多くの才能の芽を摘み取ってきた男の戯言だ。聞く価値がないと判断したなら聞き流してくれて構わない」

 

 自虐の滲む前置きをしてから、エアジハードの顔を見据える。

 

 そして一呼吸置き、厳かに告げた。

 

「自信……それは強さの源となる大事なものだが、時として大きな陥穽にもなる」

 

 事の本質に切り込むようなその声は、人気のない通路に響き渡った。

 

「贔屓目ではなく客観的な事実として、今日のレースに出走した十八人の中で最も優れた競走馬は君だった。実績でも実力でも、今日まで積み重ねてきた鍛錬の密度という面でも、君が一番であったことは疑いようのない事実だろう。にもかかわらず後れをとる結果となってしまったのは、君の中にある自信が僅かな隙を生んでいたからだ」

 

 エアジハードの表情が、僅かに苦渋の色を帯びる。

 

 今回のレースの主たる敗因がどこにあるのかは、指摘されるまでもなく自覚していた。

 

「過信というほどではない。強き者が自らの勝利を信じるのは当然のことだ。しかしながら過酷な鍛錬を経て培った強さと、それによってもたらされた栄光は、いつしか君の中で勝利の重みを薄れさせていた。勝利とは苦難の末に掴み取るものではなく、必ず手に入ると約束されたものとなっていた。……それが今回、勝負の明暗を分けた」

 

 何度力の差を見せつけられても諦めず、果敢に戦いを挑んできたキングヘイロー。

 

 最後の刹那に目を奪われたあの走りが、脳裏に蘇る。

 

「勝利の重みを知り、競馬の厳しさを噛み締めながら、それでもゴールを目指して走り抜く意思……今回勝者となった子は、その一点においてのみ君を上回っていた。下らない精神論に聞こえるかもしれないが、私にはそう思えたよ」

 

 その見解を否定する術をエアジハードは持たず、否定する気にもなれなかった。

 

 勝者となるにふさわしい者に勝利の女神は微笑んだ。

 

 言ってしまえばそれだけのこと。何も不思議なことはなく、見方によっては順当な結果とさえ言える。

 

 悔恨の念は胸の内に重く堆積しているが、それを忘れずに教訓とすることがレースに敗れた者の務めだろう。敗北から学ばない者に勝利は訪れない。

 

 自らをそう律し、気持ちに区切りをつけようとした時だった。

 

「だが……同時に、君の走りにも胸を打たれた」

 

 意外な言葉が耳に届く。

 

 伊藤がこちらに向ける眼差しは、穏やかなものに変わっていた。

 

「もし君の強さが、上っ面だけの浅薄なものだったなら……私の元を離れ、独りで走り続けたこの二年間が、無価値な迷走の日々だったなら……最初にキングヘイローに詰め寄られた時点で勝負は決まっていただろう。あそこで崩れたまま終わらず、気力を燃やしてもう一度伸びた姿に、私は君の本当の強さを見た」

 

 そう語った後、伊藤は視線を横に移す。

 

 彼の目が見据えたのは、エアジハードの背後に立つ者達。

 

「そして……そう思ったのは、私だけではないようだ」

 

 言葉の意味に気付いたエアジハードは、後ろを振り返り、目を瞠った。

 

 いつの間にかそこにいたのは、四人の少女。

 

 二年前のあの日、自分が語った夢を嘲笑いながら去っていき――それ以来ろくに顔を合わせてもいなかったチームメイト達だった。

 

「先……輩……」

 

 目に映る光景が信じられず、呆然と立ち尽くす。

 

 四人の少女は皆一様に気まずそうな表情を浮かべ、どこか遠慮がちな視線をエアジハードに投げかけていた。

 

 ややあって、一人が口を開く。

 

「……観てたよ。レース」

 

 あの日の問答で、エアジハードに目標を問うた少女だった。

 

 かつてその瞳は、荒涼とした諦めの色に染まっていたが、今は違った。

 

「強かったね、あんた…………あたしらと一緒にやってた頃とは別人みたいだ」

 

「あ……」

 

 苦笑交じりに紡がれた言葉が、意識の隅まで沁み透る。

 

 長い間抱え続けてきたものが溶け消え、空白となった場所を別のものが埋めていくように感じた。

 

 硬直したまま動かない背中に、伊藤は言う。

 

「私が連れてきたのではない。皆、自分の意思でこの場に足を運んだんだよ」

 

 教え子達一人一人の顔を順に見て、その思いを代弁する。

 

「夢を笑われても、誰も傍に寄り添ってくれなくても……自分を信じて走り続け、見違えるほど強くなった君の姿を見るためにね」

 

 エアジハードの孤独な戦い。強い決意と大きな夢を抱き、何があろうと挫けずに乗り越えてきた長い道程。

 

 その果てに得たものが、この光景だった。

 

 無名の存在から世代を代表する名馬にまで成長を遂げ、努力が実を結ぶことを証明してきたからこそ、かつては出来なかったことを実現させた。

 

 競馬の世界に夢を見なくなっていた少女達の心を動かし、競馬場に集めた。

 

 そして今、二年の時を経てエアジハードと向き合った少女は、ぽつりと問う。

 

「……まだ、あるの? あれ」

 

「え……」

 

「ほら……あの日、見せてくれたやつ」

 

「あ……」

 

 二年前のあの日、机の上に置いた紙の束。

 

 みんなで一緒に強くなりたい――そんな願いを込めて書き綴った、大きな夢への第一歩となる練習計画。

 

「今更遅いんだろうし、こんなこと言ったら怒られるかもしれないけどさ……」

 

 それから続いた言葉は、彼女なりの勇気を振り絞ったものだったのかもしれない。

 

「あたしも……強くなれる?」

 

「先輩……」

 

「あんたみたいに頑張れば、あたしでも……あたし達なんかでも……今より少しくらいは、強くなれるかな?」

 

 胸を衝く何かが、その問いの内にはあった。

 

 エアジハードの目尻に小さな雫が浮かび、頬を伝って床へと落ちる。

 

 探し求めていたものを見つけたように顔を綻ばせ、孤独な戦いを終えた少女は、微かに震える声で返答した。

 

「遅くなんか……ないです。絶対に」

 

 道は続いている。

 

 何度躓こうと立ち止まろうと、前に進む意思がある限り、自分達のレースは終わらない。

 

「私だって、強くなれた……そしてこれから、今よりもっと……強くなっていくんですから」

 

 

 

 

 

 

 アルゼンチンから来た二人の少女――フォルリとキャンディライドは、中京競馬場の構内を並んで歩いていた。

 

「で……どうでしたキャンディさん? 日本のレースを観た感想は」

 

「みんな速かった。すごく頑張ってた。観てて楽しかった」

 

「はい、小学生の作文レベルの感想ありがとうございまーす。キャンディさんに訊いた私がお馬鹿さんでしたねー」

 

「真面目に言ってるのに……」

 

 素直な感想に皮肉を返され、キャンディライドは不服そうな声を洩らす。

 

 それから彼女は大事なことを思い出したような顔になり、隣を歩くフォルリの顔を見た。

 

「そう言えば……私がレース観てる間、フォルリはどこ行ってたの?」

 

「わー……まるで私が勝手にどっか行ってたアホの子みたいな言い種ですねー……キャンディさんじゃなかったら顔面に膝蹴りぶち込んでるとこですよぉー」

 

 勝手に雲隠れしていやがったクソ馬鹿はお前だろう――という内心を朗らかな笑顔に反映させつつ、フォルリは問いに答えた。

 

「ま、ざっくり言うと顔見せてきたんですよ。何をトチ狂ったんだか今は日本代表の監督なんかやっちゃってるおばさんに」

 

「それって、リコさん?」

 

「他に誰がいます?」

 

 皮肉げに返してから、大仰に肩を竦める。

 

「どうせ監督やるんだったらアルゼンチンでやればいいのに。こんなクソザコしかいない弱小国でお山の大将みたいなポジションに収まるなんて。あの年増にはつくづくがっかりさせられます」

 

「……昔は、リコさんが最強って言ってたのに」

 

「ええ、言ってましたよー。純真無垢なロリっ娘時代はマジでそう思っちゃってました」

 

 酷薄に笑い、どこか楽しげに続ける。

 

「でもアレですよ。もっと強い人を見つけちゃったんで、あんな負け犬はポイってことで。目標でも何でもなくなりました。私って自分に正直ですから、乗り換えるのに抵抗とかないんですよねー」

 

「あの傷の人、ね……」

 

 キャンディライドの表情が、僅かに曇る。

 

 フォルリが言及した、全盛期のリコを凌駕する競走馬――それが誰なのかを、彼女は知っていた。

 

「私、あの人嫌い…………ううん……嫌いじゃないけど、ちょっと怖い。あの人が近くにいると、息を吸うのが苦しくなる」

 

「えー、そうですかぁ? あの人とってもいい人ですよー。あんな聖人他にいないってくらい」

 

「いい人なのは知ってる。でも、怖い」

 

「ふふ」

 

 キャンディライドが抱く苦手意識を微笑ましく思いながら、フォルリは瞳の奥に鋭利な光を灯す。

 

「そう思う気持ちも、まあ分からなくはないですけど……我慢して下さいね。十一月のワールドカップが終わるまでは」

 

 彼女達はアルゼンチン代表。

 

 南米大陸随一の競馬大国が擁する精鋭であり、夢想の類ではなく現実的な目標として、世界の頂点を狙っている。

 

「私達のチームが頂点を獲るためには、絶対に必要ですから。あの人の、全てを呑み込むような脚が」

 

 信仰にも等しい思いが乗った言葉を、キャンディライドは泥沼に踏み入るような気分で聞いた。

 

「……あの人、ワールドカップに出てくれるの?」

 

「今度グリーヴさんが交渉に行く予定ですけど、断られることはまずないでしょう。だってあの人――」

 

 フォルリは言葉を切り、目を見開く。

 

 多くの人々が行き交う視界の中、自分のすぐ傍を通り過ぎていった二人組に意識を向け、振り返って後ろ姿を凝視する。

 

 それから数秒後、彼女が口許に刻んだ笑みは、それまでとは種類の違うものだった。

 

「く……ふふ……ふふふ……」

 

「どうしたの?」

 

「いえね……こんな僻地の競馬場で、面白い人達を見かけることもあるんだなぁって」

 

「……?」

 

 フォルリが何を言っているのか分からず、キャンディライドは首を傾げた。

 

 

 

 

 

 

 女が二人、肩を並べて歩いていた。

 

 その片方――長い褐色の髪を螺旋状に巻いた女が、おもむろに口を開く。

 

「いいレースだったわね。なかなか」

 

 雑踏の中に響く、透き通った美声。

 

 その口許が湛えるのは、気品漂う麗しい微笑み。

 

「実力では明らかに劣っていたにもかかわらず、練り込まれた戦略と不屈の闘志で勝利を手繰り寄せた。特に最後の、三の脚とでも呼ぶべき伸びには感嘆したわ」

 

 上機嫌に語る彼女は、一言で表すなら貴婦人だった。

 

 金糸の刺繍が施された白いロングドレスを身に纏い、造花をあしらった帽子を被り、ドレスと同じ色の瀟洒な日傘を差している。

 

 絵画の世界から抜け出てきたかのように浮世離れした姿だが、絶世の美女と評しても差し支えないその美貌故か、違和感の類は欠片もない。

 

 むしろ、貴婦人めいた装いでいることが至極当然であるかのような――そんな独特の印象さえ見る者に与える女だった。

 

「限界を迎えた身体を気力で動かして、もう一伸びする……言葉にすればそれだけのことだけれど、実際にそれが出来る者はそういない。意思の力という点だけに限って見れば、あの緑の勝負服の子は世界の一流どころに比肩すると評してもいいでしょうね」

 

 そう結論付けてから、連れに目を向ける。

 

「……というのが私の感想なのだけれど、あなたはどうかしら? ジェラード」

 

 巻き毛の女の隣を歩く、もう一人の女。

 

 その人物は前を向いたまま、冷めた表情で応じた。

 

「下らん」

 

 鋭く響く、抜き身の刀のような声。

 

「見るに堪えん児戯だった。それ以外に語ることはない」

 

 短く切り揃えた頭髪。凍えた光を放つ碧眼。整った造形ながら、見る者に魅了ではなく畏怖をもたらす硬質な顔立ち。

 

 その身に纏うのは、英国陸軍の制服。肩に付けた階級章が示す位は、佐官の最高位たる上級大佐。

 

 巻き毛の女とはあらゆる面で対照的な、張り詰めた空気を自然体のまま帯びる軍人だった。

 

「相変わらず辛辣ね。色々と足りない子が勝つために最善を尽くしたんだから、そこだけでも褒めてあげればいいのに」

 

「雑魚にしては上出来だったと褒めろと? それこそ下らん」

 

 外見に違わず、軍装の女の性分は冷厳そのもの。

 

 単に死力を尽くしたというだけで称賛を口にするほど、彼女の基準は甘くない。

 

「弱者に温情を与えて人格者を気取る趣味はない。貴様のような愚物と違い、私は見たまま感じたままを語るだけだ。故にゴミはゴミとしか言わん」

 

「面倒な性分ねぇ。もう少し柔らかくなった方が人生楽しいわよ?」

 

「生憎、人生に快楽など求めてはいない」

 

 貴婦人と軍人。存在自体が相反するかのような二人の女に、周囲を行き交う人々は驚愕の眼差しを向けていた。

 

 服装が奇抜だからではない。

 

 遠い異国――近代競馬発祥の地イギリスからやってきたこの両者が、競馬の世界では知らぬ者のいない、名馬の中の名馬だからだ。

 

「で……こんな下らん児戯を見せるために私をこんな所まで連れ出したのか? 貴様は」

 

「まさか。今日のこれは余興みたいなものよ。本命はこっち」

 

 そう言って、巻き毛の女は自身のスマートフォンを軍装の女の前にかざした。

 

 その画面に映っていたのは、小柄な栗毛の少女と赤いマスクの少女の顔写真。

 

「この子達と遊んであげてって頼まれちゃってね。私一人でもよかったのだけれど、せっかくだから引きこもり気味のあなたも一緒に連れてってあげようと思ったのよ。私って優しいでしょう?」

 

「迷惑以外の何物でもないな。どれだけ私に無駄な時間を使わせれば気が済むんだ?」

 

「そんなこと言って。本当は大好きな私と一緒にいられて嬉しいくせに」

 

「寝言は寝て言え」

 

 王冠を戴く絢爛なる華、ミルリーフ。

 

 最速を体現する無謬の軍神、ブリガディアジェラード。

 

 同年に生まれた宿敵同士であり、英国競馬界の王座を二分する二人の英傑。

 

 近代競馬の母国が世界に誇る、無敵の双璧。

 

「そんなわけで次は東京に行くわよ。のんびり観光を楽しみながら、ね」

 

「下らん」

 

 真逆の在り方をしながら同等の力を持つ両者は、次なる目的地へと向かっていった。

 

 

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