ウマ娘 Big Red Story   作:堤明文

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第十九話「双璧」

 

 

 高松宮記念から二日後の早朝。

 

 学園の広大な敷地の一角――校舎裏に建つ大きな黒い慰霊碑の前に、マルゼンスキーは一人佇んでいた。

 

 約一ヶ月前、東条ハナと二人きりで会い、言葉を交わした場所だ。

 

 そこで今、彼女はあの日の師に成り代わったかのように、どこか寂しげな面持ちで眼前の慰霊碑を見つめていた。

 

 仄暗い影を帯びた感情を、瞳の奥に抱えながら。

 

「こんな所にいたのか」

 

 背後から歩み寄り、そう声をかけたのはシンボリルドルフだった。

 

 人気のない場所で佇むマルゼンスキーに訝しげな目を向けつつ、言葉を続ける。

 

「もうすぐ代表チームの練習が始まるぞ。行かなくていいのか?」

 

「ええ、そうね……」

 

 マルゼンスキーは溜息をつく。

 

「ちょっと考え事をするつもりで立ち寄ったのだけれど、もうそんな時間か……ごめんなさい、すぐ行くわ」

 

 北海道での合宿から帰った後も、彼女達二人は日本代表チームのコーチ役を続けていた。

 

 現在はリコの意向により、個別の練習に励むスペシャルウィーク、セイウンスカイ、キングヘイローの三人に日替わりで付き添い、様々な形で技術指導を行っている。

 

 十一月のワールドカップが終わるまで、チームの裏方として後輩達を支え続ける――格好だった。表向きは。

 

「ねえ、ルドルフ」

 

 ぽつりと、マルゼンスキーは言った。

 

「私って、実は結構酷い奴よね?」

 

「……どういう意味だ?」

 

「言葉通りよ。性格が悪い奴ってこと」

 

 シンボリルドルフに背を向けたまま、マルゼンスキーは淡々と続けた。

 

「一緒に頑張りましょうだとか、全力でサポートするだとか……聞こえのいい言葉を並べておきながら、本当にそうする気なんて欠片もなかった。外面だけ綺麗に取り繕って、それっぽく振る舞ってただけ」

 

 合宿初日から現在に至るまでの、自身の言動。それを振り返りながら、嘘偽りのない本音を吐露する。

 

「今だってそう。特訓に協力はしてるけど、ワールドカップに興味なんてない。あの子達が世界の強豪相手に勝てるとも思ってない。……いえ、それどころか……無駄なことはやめちゃえばいいのにとさえ思ってる」

 

 シンボリルドルフにとってそれは、以前から薄々察していたことだった。

 

 穏やかで人当たりが良く、後輩達の面倒を見ることも厭わないマルゼンスキーだが、一つだけ欠けているものがある。

 

 熱意だ。後輩達と共に世界の頂点を目指すという熱い意思が、彼女の胸中には火種ほども存在していない。

 

 この先に待つ世界との戦いに、夢や希望を抱いていないのだ。

 

「そんな本音が透けて見えたから……かもしれないわね。あの子が、日本に留まる決断をしたのは」

 

「グラスか……」

 

 シンボリルドルフは呟く。

 

 グラスワンダーがシアトルスルーから帰国の誘いを受けたことと、それを拒んで日本に留まる道を選んだことは、彼女も既に聞き及んでいた。

 

「あれは彼女なりに考え抜いた末の結論だろう。君がどうこうという問題ではないと思うが?」

 

「そうかもね。でも、私の思い描いた通りに出来なかったのは事実よ」

 

 傷つかなくても歩いていける道に、後輩を導こうとした。

 

 しかし、その試みは頓挫した。他ならぬ後輩自身が、傷つきながら未来を目指す道を選んだことによって。

 

 それを自らの不徳が招いたことと、マルゼンスキーは考えている。

 

「結局私なんてそんなもの。何もかも中途半端で、後輩の心一つ思い通りに出来やしない」

 

 自虐的に呟いた後、僅かに表情を変える。

 

 細められたその目は、殺意に近い感情を孕んでいた。

 

「けど、いいわ。それならそれで」

 

 眼前にある石の塊。

 

 競馬の現実の一面を物語る慰霊碑を、目に焼きつける。

 

 そこに名を刻まれた者達の生涯に思いを馳せ、後輩が歩む道の先にあるものを考えた上で、決意を口にした。

 

「もう決めたから。これから自分がやることは」

 

 

 

 

 

 

 練習場の芝コースで、グラスワンダーは日課となった個人練習に励んでいた。

 

 現在その場にいるのは彼女一人だけだが、もし部外者がその練習の様子を見たなら、あの少女はいったい何をやっているのかと疑問を覚えたに違いない。

 

 左脚を地面から離し右脚一本で身体を支え、その姿勢のまま地面を蹴ってゆっくりと前に進んでいる。

 

 それだけでも奇妙だが、さらに奇妙なのは大きなリュックサックを通常とは逆の形で身に着けていることだった。要するに、袋の部分が胴体の前に来る形で着けているのだ。

 

 ただでさえ不安定な片脚立ちのまま、重い荷物により身体の重心が前に寄った状態で前進し続ける――傍から見れば意味不明な行為だろう。少なくとも、学園内でこのような真似をしている者は彼女以外にいない。

 

 しかしながら、奇行を続ける当人の表情は真剣そのものだった。

 

「二百九十七、二百九十八、二百九十九……三百」

 

 一歩進むごとに数えていた歩数が三百に達したところで、左脚を地面に下ろして立ち止まる。

 

 そして数十秒かけて呼吸を整えた後、今度は逆に右脚を地面から離した姿勢になり、左脚一本による前進を始めた。

 

「一、二、三、四……」

 

 一見しただけでは滑稽とも取られかねない奇行は、実のところ重大な意味を持つ必要不可欠な特訓であった。

 

 合宿を終え東京に帰った翌日から、彼女はこの特訓を毎日欠かさず行っている。

 

 この特訓をやり遂げた先に、自らが目指す未来があると信じて。

 

「へぇ……なかなか様になってきたじゃない」

 

 感心したような声とともに、リコがその場にやってきた。

 

 二週間余りで明確な進歩を見せ始めた教え子に、日本代表チームの監督役は上機嫌な顔を向ける。

 

「初日にすっ転びまくってた時はどうなることやらと思ったけど、やれば出来るようになるものね。思ったより早く進歩してくれて何よりだわ」

 

「お世辞は……言ってくれなくていいですよ……」

 

 片脚による前進を続けながら、グラスワンダーは苦笑した。

 

 既にその額には、大粒の汗が浮かんでいる。

 

「まだまだ全然駄目で、転んでばかりですし……私が不器用なのは、私が一番よく知ってますから……」

 

「お世辞じゃないってば」

 

 リコは笑い、肩を竦める。

 

「確かにグラスちゃんはもう清々しいくらいの脳筋で、ゲームで例えるならパワーだけSSSランクで他は全部DとかEって感じの能力値で、有り余るパワー以外は何一つ褒めるところがないクソゴミと言っても過言じゃないくらいの筋肉達磨だけど……」

 

「……」

 

 あまりにもあけすけな物言いをされ、果てしなく微妙な顔になるグラスワンダー。

 

 その反応を楽しみながら、リコは続けた。

 

「でもまあ、これに関しちゃ割と呑み込みがいい方だと思うわよ。多分だけどね」

 

 ふざけた言動をとることはあっても、無意味な世辞や心にもない嘘は決して口にしない。

 

 教え子を褒めるのは、褒めるに値すると本心から思った時だけ。

 

 それがリコの方針であり、彼女なりの誠意の表し方だった。

 

「てなわけで、そろそろ次の段階にいっちゃおうかしらね」

 

「次の段階……?」

 

「どうにかこうにか片脚だけで進めるようにはなったから、次はその状態で人と競走してみようってこと。もちろん相手の方は、両脚を使える状態でね」

 

「え……さ、流石にそれは……」

 

 グラスワンダーは当惑し、口ごもる。

 

 特訓に慣れて進歩してきたとはいえ、それはまだかろうじて前に進み続けられるといった程度の話だ。

 

 両脚を使って走る相手と競走するなど、無理に決まっている。

 

「別に全力疾走する相手に勝てなんて無茶言ってるわけじゃないわよ。軽いジョギング程度の速さで走る相手に置いてかれないようついてってみなさいってだけ」

 

「まあ、それなら……」

 

 かなり難しいが、頑張れば出来なくもないかもしれない。

 

 いや、頑張っても無理な気はするが――やれと言われた以上はやってみるしかない。

 

 自らをそう納得させ、グラスワンダーは渋々頷く。

 

「でも、相手っていうのは……」

 

「私だよ」

 

 横合いから声が聞こえ、反射的にそちらを向く。

 

 そして大きく目を見開き、驚きの声を洩らした。

 

「ジハードさん……」

 

 エアジハード。

 

 先日高松宮記念のタイトルと日本代表の座をかけてキングヘイローと争っていた、前年の最優秀短距離馬。

 

 それが今、視線を向けた先に立っていた。

 

「彼女の方から申し出てくれたのよ。自分で良ければ、あなた達代表チームの練習に力を貸すって」

 

 リコがそう言うと、エアジハードは澄ました顔で説明を引き継ぐ。

 

「レースの直後だからトレーニングは控えるようにって言われたけど、何もしないでいるのもあれだからね。ジョギング程度でいいなら付き合うよ」

 

 素っ気ない物言いだったが、不思議と冷たい印象はなかった。

 

 むしろ、どこか無理をして素っ気ない態度を装っているように感じられたのは、果たして気のせいなのだろうか。

 

「私が練習相手じゃ、何か不満?」

 

 問われたグラスワンダーは、呆然とした顔で一瞬固まる。

 

 しかしすぐに状況を呑み込み、柔らかな笑みをその口許に湛えた。

 

「いえ……ありがとうございます。ジハードさん」

 

「別に、礼を言われるようなことじゃない」

 

 そんなやりとりを経て、奇妙な取り合わせによる奇妙な併走は始まった。

 

 

 

 

 

 

 東京都府中市内の道を、一台の車が進んでいた。

 

 長い車体を艶やかな漆黒に塗装された、外国製の高級車だ。

 

 その内部――前後の座席が向かい合う形で配置されたリビングルームのような空間に、二人の女がいた。

 

 ミルリーフとブリガディアジェラード。

 

 とある事情により日本を訪れていた、英国競馬界の双璧である。

 

「ほんの三日足らずの間だったけれど、楽しかったわねー。日本全国ぶらり旅」

 

 本革の座席に身を沈めながら、ミルリーフは満面の笑みで言った。

 

 いつも上機嫌な様子で微笑んでいる彼女だが、これ以上ないほど濃密な日本観光を満喫した後とあって、この日は特に機嫌が良かった。

 

「特に京都が印象深かったわ。清水寺に三十三間堂に鹿苑寺金閣。千年以上前から栄えてる街の名所だけあって、どこも素敵だったわねー。私ってほら、旅先で異国情緒みたいなのに触れるのが好きだから、趣ある建物を眺めてるとそれだけで優雅な気分に浸れちゃうのよ」

 

 そんな調子で自分語りをしつつ、京都の土産屋で買った扇子を開き、ぱたぱたと顔を扇ぐ。

 

「それにほら、この扇子っていうのもなかなかエキゾチックで素敵じゃない? こういう小物の一つ一つにもその国の文化や気候風土なんかが表れるからいいのよねー。こうやって昔の日本人の真似をしてみると、ちょっとだけ心が豊かになった気がするわ」

 

 英国競馬界が誇る中長距離の王者、ミルリーフ。

 

 ダービーステークスを始めとした数々の栄冠を保持する彼女は、誰もが認める世界屈指の競走馬だが、競馬だけが生き甲斐で競馬にしか関心がないというような気質の持ち主ではない。

 

 テニスやクリケットなどのスポーツに興じることもあれば、流行りの映画を観に行ったりクラシック音楽を聴きに行ったりすることもある。今回のように、用事のついでに観光旅行を楽しむこともある。

 

 多趣味かつ自由奔放な性分であり、人生を楽しむ主義なのだ。生家が大富豪でその気になれば大抵のことは思い通りに出来るため、遊ぶと決めた時は徹底的に遊ぶ。

 

 それ故に、現在斜向かいに座っている同乗者とは、出会った頃から一度たりとも意見が一致しない。

 

「っていう具合に、私としては今回のバカンスを十二分に満喫したところなのだけれど……そんな気分をちっとも共有してくれないへそ曲がりさんが約一名、と」

 

 投げかける言葉に少しばかりの棘を含め、同乗者に目を向ける。

 

 英国競馬界が誇る短距離路線の王者、ブリガディアジェラード。

 

 あらゆる意味でミルリーフとは真逆の気質を持つ軍服姿の麗人は、頬杖をついた姿勢で車窓の外に目を向けたまま、いつも通り冷淡に応じた。

 

「物見遊山なら一人で楽しめ。私を強制的に同行させるな」

 

「強制的なんて、人聞きが悪いわねぇ。ちょっと人を使って寝ていたあなたをうちの飛行機に運び入れただけじゃない」

 

「世間ではそれを拉致と言う。万国共通で犯罪とされる事案だ。理解出来たなら今すぐ私を帰国させろ。理解出来る知能がないなら己の愚劣さを悔いながら死ね」

 

「あらあら……ただで楽しい観光旅行を堪能させてあげたつもりだったのに、随分嫌われちゃったわねぇ」

 

「安心しろ。貴様のことは最初から見下げ果てている。これより下はないというほどにな」

 

「はいはい、素直じゃないんだから」

 

 悪態を涼しげに受け流し、開いていた扇子を閉じてから、ミルリーフは眼差しを少しだけ鋭くする。

 

「でもジェラード、あなたがツンツンしてるのはいつものことだけれど……何だか今日のあなた、いつもより機嫌が悪そうに見えるわよ?」

 

 ミルリーフとブリガディアジェラードの付き合いは長い。

 

 思想信条の類から些細な癖に至るまで、互いのことは家族以上に知り抜いている。

 

「子供の頃からそうよね? 本当に気に食わないことがある時、誰とも目を合わさずに窓の外を見てるのは」

 

「……」

 

 図星だったのか、無表情だった顔に僅かな苦々しさが滲む。

 

 ミルリーフはくすりと笑った。

 

「清水の舞台からあなたを突き落とそうとしたのを、まだ根に持ってるのかしら?」

 

「違う」

 

「イナゴとか納豆みたいな上級者向けの日本食ばかり食べさせたのを、まだ根に持ってるのかしら?」

 

「違う」

 

「あなたに可愛らしいメイド服を着せた時の写真をSNSに上げたのを、まだ根に持ってるのかしら?」

 

「それはそれで貴様を始末する理由の一つだが、今考えていることは違う」

 

 表面上は常に不機嫌そうにしているブリガディアジェラードだが、それが自然体なだけであって常に機嫌が悪いわけではない。

 

 彼女の実態は不機嫌というより無関心に近く、事物のほとんどを冷めた目で見ているため、特段の怒りや敵意を覚えることは基本的にないのだ。

 

 そう、基本的には。

 

 稀にだが、自身の価値観や美意識にそぐわない事物を見た時は、本当に不機嫌になることもある。

 

「ただ度し難かっただけだ。先日見た、この国の競馬の様相がな」

 

 彼女は競馬の求道者。

 

 競馬に関しては他の誰よりも厳格であり、独自の信念と哲学を持っている。

 

「そう? あれはあれで良いと思ったけれどね。設備も制度も整ってるようだし、コースは走りやすそうだし、それに……ふふっ……お客さん達もすごく活気があって、何だかアイドルに声援送ってるみたいだったし」

 

「それだ」

 

 ミルリーフと視線を合わせ、ブリガディアジェラードは言った。

 

「貴様が今挙げた事柄……それら全てが、この国の競走馬を駄目にしている」

 

 日本競馬が競走馬達に提供する、あらゆる面で恵まれた環境。

 

 それこそが日本競馬の弱さの根源なのだと、大英帝国の軍神は断じた。

 

「貴様も知っているだろう? 百年以上前……我が国が世界の盟主だった時代の競馬は、今より遥かに厳しいものだった」

 

 冷厳な意思を声音に滲ませ、自らの体験談の如く語る。

 

「監獄に等しい劣悪な生活環境、故障の危険を顧みない過酷な鍛錬、時として数日にも及ぶ汽車での長距離輸送、一日の間も置かずに行われる文字通りの連闘……現代では非常識かつ非人道的とされるそれらが、当然のものとして罷り通っていた。馬場についても同じだ。当時の馬場は整地がほとんどされていないため走り辛く、地面の窪みに脚をとられての転倒など珍しくもなかった。今のこの国の馬場とは真逆と言えるな」

 

「私達競走馬には人権さえなかった時代の話よ。あまり美化して語るのもどうかと思うけれど?」

 

「確かに美化すべきものではない。何もかもが未熟で粗雑だった時代の話だ。……だが、それ故に育まれていた強さもある」

 

 逆境に身を置いた者だけが得られる強さを、苛烈な人生を歩んできたブリガディアジェラードは知っている。

 

「弱さを許さず甘えを許さず怠惰を許さず、死ねばそれまでと断じて無慈悲に走らせ続ける環境だったからこそ、弱者は淘汰され真の強者だけが残った。その最たる例が三冠馬グラディアトゥールや不敗の女帝キンチェム。長き時を経た今も我々競走馬の間で伝説として語り継がれる名馬達だ」

 

「厳しさを失った現代競馬では、かつてのような傑物が現れることはないと……そう言いたいのかしら?」

 

「少なくともこの国ではな。こんな生温い環境では、たとえ才ある者がいても惰弱に堕ちる」

 

 ブリガディアジェラードは弱さを嫌い、弱者を蔑視する。

 

 競走馬として生きる能力や覚悟の足りない者達と、そうした者達を育む土壌を、彼女の価値観は決して許容しない。

 

「高額な賞金と手厚い保護で弱者も走り続けられるようにし、故障を怖れた軽い練習と過剰なほど走りやすい馬場で勝負の世界に生きる者の心身を腐らせる。腐っているという点では客共も同じだ。先ほど貴様はアイドルと例えたが、まさにその通りだよ。レースの価値も意義も一切理解せず、ただ好みの雌を愛でることしか頭にない豚ばかりが目につく。そんな連中に取り囲まれているから、自らの力で這い上がろうとする気概も得られない。全てが軽薄で、醜悪だ」

 

 鉄の価値観を持つ強者は、日本競馬を根底から否定し、拒絶する。

 

「弱者を切り捨てない先進的な社会……などと言えば聞こえはいいのだろうが、私に言わせればここは惰弱の温床だ。吐き気を催すほどのな」

 

「あなたは弱い子が嫌いみたいだけど、弱い子を保護してあげることだって必要なのよ。競馬というシステムを維持するためにはね」

 

「そんな理屈は知っている。知った上で言っているのだ。ゴミを甘やかすここの空気は性に合わんとな」

 

「ふふ……」

 

 ミルリーフは笑う。

 

 幼少の頃から変わらない好敵手の在り方に、奇妙な可笑しさを覚えて。

 

「実にあなたらしい意見ね。まあ私としても、一部共感出来るところはある……と言っておくわ」

 

 ブリガディアジェラードの意見を全肯定はしないが、全否定もしない。

 

 それが、良くも悪くも柔軟な考えを持つ彼女の答えだった。

 

「でもいいじゃない。あなた好みの古風な強さは、一握りの優れた者だけが持つべきもの。そこらの誰も彼もが持っていたら価値がなくなるわ」

 

 言いながら、外の景色に目を向ける。

 

 車の進行方向に、目的地である学園の正門が見え始めていた。

 

「それに、たまの息抜きだと思えば案外楽しいものよ。こういう所で、それなりに頑張ってる子達と適度に遊んであげるのも……ね」

 

「下らん」

 

 いつも通り、ブリガディアジェラードは無関心な顔で呟いた。

 

 

 

 

 

 

 グラスワンダーとエアジハードの二人は、併走の形で練習場の芝コースを周回していた。

 

「はぁっ……はぁっ……くぅっ……はぁっ……!」

 

「どうしたグラス、ペースが落ちてるぞ」

 

「だ、大丈夫です……まだまだ……」

 

 エアジハードの叱声に応じ、グラスワンダーは懸命に速度を上げようとする。しかし気力はあっても身体がついてこず、ふらつくばかりで速度は一向に上がらない。

 

 リコの指示通りエアジハードとの併走トレーニングを始めたグラスワンダーだったが、やはりと言うべきか、ついていくだけで精一杯な状態となっていた。

 

 軽いジョギング程度の速度に抑えているとはいえ、両脚を使って進む相手に片脚だけでついていくのは容易なことではない。体力の消耗も激しく、たった数百メートル進んだだけでその何十倍もの距離を走り続けたかのように疲弊していた。

 

 一人で黙々と練習していた時とは、あらゆる意味で大違いだった。

 

「くっ……!」

 

 上体が前方に傾き、バランスを崩して倒れそうになる。

 

 それに気付いたエアジハードは立ち止まり、グラスワンダーの肩を掴んで支えた。

 

「大丈夫か?」

 

「ええ……すみません」

 

「……これ以上やったら怪我をしかねないな。少し休もう」

 

「……そう……ですね……そうします」

 

 エアジハードの提案に従い、グラスワンダーは疲弊した身体を支えられながら芝コースの外埒近くまで移動する。

 

 そして地面に腰を下ろし、深く息をついた。

 

「ほら、水分補給もしておきなよ」

 

「あ……ありがとうございます」

 

 エアジハードが持ってきてくれた水筒を受け取り、中の飲料で喉を潤す。

 

 それから思い出したように重りにしていたリュックサックを下ろし、自身の脇に置いた。

 

 どすんという重い音が、地面に響く。

 

「さっきから気になってたんだけど、何が入ってるの? それ」

 

「私もリコさんから渡されただけなので、中は見てませんが……砂みたいなものだと思います」

 

「……何キロくらいあるの?」

 

「大した重さじゃないですよ。ええと、確か……六十キロって言ってました」

 

「ろ――六十!?」

 

 信じ難い発言を聞き、エアジハードは頓狂な声を上げる。

 

 六十キログラムといえば、成人男性の平均体重に近い重さだ。

 

 それが本当なら目の前の少女は、大人一人を抱えたまま片脚で自分と競走していたことになる。

 

「この前の合宿の時なんて、一トンの橇を曳かされましたから。それに比べれば大分楽です」

 

「そ、橇って……何それ……?」

 

「そういう特訓をしたんです。元ばんえい馬の人とばんえいの形式で戦うっていう……あれは本当に、重すぎて身体が千切れるかと思いました」

 

「……」

 

 エアジハードは異星人と会話しているような気分になった。

 

 グラスワンダーの話はあらゆる意味で想像の斜め上をいきすぎていて、何にどう反応したらいいのか分からない。

 

「前から思ってたけど……いったいどういう身体の作りしてるのさ? 君は」

 

「どうって……普通だと思いますけど……?」

 

「いや、どこからどう見ても普通じゃないからね。絶対」

 

 呆れた顔で溜息をつきつつ、気を取り直して話を続ける。

 

「……まあそれは置いとくとして、今やってるこれはどこをどう鍛えるためのトレーニングなの? まだ聞いてなかったんだけど」

 

 強さを求めて様々な練習法を試してきたエアジハードも、このような真似はしたことがない。

 

 六十キログラムもの重りを付けながら片脚で進み続ける姿が、彼女の目には酷く奇異に映っていた。

 

「筋力トレーニングも兼ねてるそうですけど、一番の目的はバランス感覚を磨くことですね」

 

「バランス……?」

 

「それが一番重要なんです。私が、今よりもっと強くなるためには」

 

 静かにそう呟き、グラスワンダーは水筒を地面に置く。

 

 その横顔は、少しだけ真剣なものとなっていた。

 

「私なりに色々考えて、決めたんです。一つに絞るって」

 

「……? どういう意味?」

 

「完璧なスタートダッシュや巧みなコーナーワークを身に付けたりだとか、レースセンスを磨いたりだとか……そんなに色々と覚えられるほど私は器用じゃありませんし、正直なところ私自身、そういう風な強さは求めていませんから……欲張らずにやることを絞って、たった一つの武器だけを徹底的に磨き上げたいと思ったんです」

 

 先を見据えた目で語り、声音に力を込める。

 

「徹底的に時間をかけて、気力と体力の全てを注ぎ込んで……誰にも負けない武器に仕上がったと、私自身が納得出来るまで」

 

「それって……まさか……」

 

「ええ……叩きつける走法と呼ばれている、私独自の走りです」

 

 頷きを返し、異端の競走馬は自らの願いを口にした。

 

「私は私の走りを、世界に通用する武器にしたい。自分自身の意思で選び取った走りで世界に挑み、勝ちたい」

 

 それが、苦悩の果てに得た答え。

 

 夢の成就のために選んだ道筋であり、どんな障害が立ちはだかろうとも貫き通すと誓った信念だった。

 

「合宿の後リコさんにそう打ち明けたら、この特訓を勧められました。私の叩きつける走法を強化するために必要不可欠なのは、バランス感覚の向上だって言われて」

 

「しかし……」

 

 エアジハードは複雑な面持ちになり、やや言い辛そうに言う。

 

「噂で聞いたんだが、君のあの走りは……」

 

「ええ、禁止されています」

 

 相手の言わんとしていることを読み取り、グラスワンダーは機先を制するように答えた。

 

「元々私の走りは先生に良く思われていませんでしたけれど……エルとの模擬戦で転倒しかけたのをきっかけに、二度とするなと厳命されました。それに違反すれば、先生は強引にでも私を引退させる気のようです」

 

「だったら……」

 

「大丈夫です。手は打ちましたから」

 

「手……?」

 

 怪訝な顔をするエアジハードに、グラスワンダーは落ち着いた声音で告げた。

 

「この間直談判しに行って、どうにか取り付けました。次のレースの結果次第で私にかけた制約を解除する約束を」

 

 

 

 

 

 

 合宿から帰った翌日。

 

 自身の未来をかけた「交渉」のため、グラスワンダーは東条ハナの元を訪れた。

 

「何かしら? 話って」

 

 椅子に座って事務仕事をしていたハナは、ノートパソコンのキーを打ちながら問う。

 

 その横顔に真っ直ぐな視線を向け、グラスワンダーは言った。

 

「もうお察しかと思いますが、先生が先日私に課した制約のことです」

 

 エルコンドルパサーとの模擬戦で競走中止になった後、ハナはグラスワンダーに三つの制約を課した。

 

 その内の二つはグラスワンダーが日本代表に選ばれたことで事実上解消されたが、最後の一つだけは未だ残っている。

 

 叩きつける走法の使用禁止。

 

 何より重い枷となっているそれを外さない限り、本当の意味で自由の身にはなれない。

 

「……つまり、あれを全てなかったことにしろってこと?」

 

「はい」

 

「はっきり言うのね……あなた今、自分がどれだけ厚かましいことを言ってるか分かってる?」

 

 ハナはノートパソコンから目を離し、凍てついた視線を教え子に向ける。

 

「私はこれでも結構な譲歩をしてきたのよ。あなたの現役続行を許し、ワールドカップに出場することもそのための練習に参加することも認めた。もう十分すぎるくらいあなたの好きにさせてきたつもりよ」

 

 その視線が突きつける意思は、グラスワンダーがこれまで相対してきた誰のものより非情だった。

 

「だから、これ以上の譲歩はない。あの危険な走法の使用まで許す気はないわ。あなたが何を言おうともね」

 

 普通なら、話はそこで終わっていただろう。

 

 ハナの意思は極めて固く、交渉に応じる気はおろか、教え子の言い分を聞く気さえ最初から一片もなかったのだから。

 

 しかし、グラスワンダーは引かなかった。

 

 どれだけ突き放されても引いてはならない時がある。今がその時だと肚を括り、閉じた扉を蹴り破るつもりで言葉を紡ぐ。

 

「世界を獲れるとしても、ですか?」

 

 鉄面のようだったハナの表情が、微細に動く。

 

 その反応を見て取りながら、グラスワンダーは問いを繰り返した。

 

「私があの走法を使って走れば、日本を世界の頂点に導ける。そう言ったとしても、認めるわけにはいきませんか?」

 

 決然とした物言いから、普段とは違う何かを感じ取ったのか。ハナは眉間に皺を寄せ、探るような目でグラスワンダーと視線を合わせた。

 

 だが、それも僅かな時間だけ。

 

 すぐに元の冷めた表情に戻り、ノートパソコンの画面に視線を戻す。

 

「……無理よ」

 

 冷徹な思考が導く、非情な断定。

 

「もう知ってるでしょう? 十一月のワールドカップには、世界各国の超一流馬達が続々と出場を表明している。それぞれの国の三冠馬や二冠馬に、凱旋門やキングジョージといった大レースの覇者……無敗の戦績の持ち主だって何人もいるし、両手で数えきれないくらいGⅠを勝ってる化物だっている。どこに目を向けてもあなたより格上の猛者ばかりよ」

 

 事実を羅列し、結論を述べる。

 

「そんな連中を相手にあなたが勝てる可能性なんて、万に一つもないわ」

 

「だから?」

 

 険しい声による、挑発的な返し。

 

 それが教え子の口から放たれたものだと気付くのに、ハナは数秒を要した。

 

「戦う気概を捨てろと言うんですか? 相手が強ければ挑戦もせずに諦めて、何も得られない道を選ぶんですか? 先生は」

 

 静かな激情を溜めた瞳が、師に真っ向から挑みかかる。

 

「失礼を承知で、はっきり言います。そんな弱腰だからいつまで経っても欧米に舐められ続けてるんですよ。日本の競馬は」

 

「――っ」

 

 あまりに礼を欠いた暴言はハナの逆鱗に触れたが、彼女の口から叱声が飛ぶことはなかった。

 

 再びグラスワンダーと目を合わせた瞬間、気付いてしまったからだ。

 

 単なる反抗ではない。目の前の少女はたとえ殴り飛ばされても引かない覚悟を胸に抱いて、こちらに戦いを挑んでいるのだと。

 

「私は、勝てないなんて思わない」

 

 誰に否定されても曲げない意思が、言葉となって放たれる。

 

「相手が三冠馬でも凱旋門賞馬でも無敗の王者でも、私なら勝てる。自分の走りを死ぬ気で貫き通せれば、どんな相手にだって必ず勝てる。そう信じています」

 

 ハナは何も言い返せなかった。

 

 聞く価値のない戯言として聞き流すことが出来ず、愚かな妄想と蔑んで笑い飛ばすことも出来なかった。

 

 グラスワンダーが叩きつけてくる言葉には、理屈を超えた何かがあったから。

 

「私の言葉が信用出来ないなら、証明する機会を下さい」

 

「機会……?」

 

「レースです。時期も条件もグレードも、何だって構いませんから、私をレースに出走させて下さい」

 

 戦いの場を求め、事実を告げるように宣言する。

 

「そこで証明してみせます。私のこの脚が、世界の頂点に届くものだってことを」

 

 競走馬とは、競馬場で走る者。

 

 競走馬にとっての戦いとはレースであり、力を証明する術はレースで勝つ以外にない。

 

 そうした観点で言うなら、グラスワンダーの主張には理がないわけではない。非常に強引なやり方ではあるが、最低限の筋は通していると言えるだろう。

 

 しかしながらそれは、ハナにとっては受け入れ難い要求だった。

 

「今さら……」

 

 苦々しく歪んだ顔から、掠れた声が洩れる。

 

「今さら日本のレースを勝ったところで、何の証明になるっていうの? そんな程度じゃ世界には――」

 

「十馬身」

 

 反論を予想していたグラスワンダーは、遠慮なく言葉を被せた。

 

「十馬身差という条件を付け加えるなら、どうですか?」

 

「は……?」

 

「ただ勝つのではなく、二着に十馬身以上の差をつけて圧勝してみせます。それが出来たら、私の要求を呑んで下さい」

 

 言われたことをすぐには理解出来ず、ハナは呆けた顔を晒す。

 

 その顔を鋭く見据えたまま、続く言葉は放たれた。

 

「それが出来なければ、私は二度とレースに出ません。競馬を辞めます」

 

 それは、賭け金のようなものだった。

 

 賭け事の道理に従い、当然の義務として背負うと誓った重いリスク。

 

 勝負を成立させるためテーブルに載せた、自らの進退。

 

 その決断を勇敢と取るか無謀と取るかは受け手次第かもしれないが――長年競馬に関わってきたハナにしてみれば、自殺に等しい愚行だった。

 

「……本気で言ってるの? それ」

 

「ええ」

 

「たとえ一着になれても……十馬身以上の差をつけられなければ、競馬を辞めると?」

 

「はい。十馬身差以上で勝てなければ、私の負けです」

 

「……馬鹿げてる」

 

 呆れと苛立ちを声に滲ませ、吐き捨てる。

 

「地方競馬や未勝利戦じゃあるまいし……分かってるの? 現代の競馬でGⅠ級の強豪を相手に十馬身以上の差で勝つことが、どれだけ難しいかを」

 

 着順掲示板に数字で表示される着差は九馬身まで。着差が十馬身以上開いた場合は「大差」と表示される。

 

 従って競馬における「大差勝ち」とは、十馬身以上の差をつけての勝利を意味する言葉だ。

 

 条件戦などの低レベルなレースに能力の高い者が出走した場合なら、時として大差勝ちが生じることもあるが、出走馬の能力が拮抗する重賞以上のレースでは極めて稀だ。まずありえないと言っても差し支えない。

 

 グラスワンダーが自ら設定した勝利条件は、実現不可能に近いほど困難なものだった。

 

「分かってますよ。自分がどれだけ無茶なことを言っているかは」

 

 平然とした面持ちを崩さず、即座に言い返す。

 

「でも、それくらいしないと認めてくれないでしょう?」

 

 ハナは奥歯を噛む。

 

 腹立たしいが、グラスワンダーの言う通りだった。

 

 これ以上の譲歩は絶対にしないと決めていた彼女が、その意思を僅かでも曲げるなら、それはこの条件以外にない。

 

 大舞台で強敵を相手に大差勝ちするほどの力量を示せなければ、世界に挑む資格があるとは認められない。

 

「そちらとしても悪い話ではないはずです。こんな無茶な条件なら私の敗北は必至。先生にとって目障りな存在でしかない私は、ほぼ間違いなく次のレースを最後に競馬場から去ることになる」

 

 相手の立場になったかのように語り、栗毛の少女は決断を迫る。

 

「だらだらと惨めに現役を続けさせるよりは、さっさと引導を渡してしまった方がいい……そう思いませんか?」

 

 深く重い沈黙が、部屋全体を包んだ。

 

 ハナは目を瞑り、自身の内に埋没しながら思考を整理する。

 

 教え子が仕掛けてきた「勝負」と、そこに込められた覚悟。賭け金として差し出された未来。

 

 日本競馬の海外挑戦の歴史と、叶わなかった数多の夢。心が枯れるほど痛感してきた壁の厚さ。

 

 昔日の記憶と、目に焼きついた死の光景。二度と犯してはならない過ち。

 

 それら全てを受け止め、自問自答を繰り返し――やがて彼女は、意を決した。

 

「もう一度だけ、訊く」

 

 瞑目したまま、厳粛に問う。

 

「本当にいいのね? その条件で」

 

「はい。どんな結果になっても、後悔はしません」

 

 最終確認を済ませると、ハナは瞼を上げ、グラスワンダーの顔を見据えた。

 

「分かったわ。あなたを出走させるレースは、決まり次第伝える」

 

 競走馬は競馬場で走る者。トレーナーはその戦いを支える者。

 

 両者の間の問題を解決する手段は、最初からレース以外になかったのかもしれない。

 

「レースが終わるまでは好きにしなさい。あなたがどこでどんな走りをしていようが、私は一切関知しないから」

 

 寛大な処置は、ハナが教え子に与えた最後の慈悲だった。

 

 

 

 

 

 

「十馬身って……」

 

 事の次第を聞いたエアジハードは、呆気に取られた顔で言った。

 

「馬鹿げてる……そんなことが出来るわけがない」

 

 奇しくもそれは、ハナと同じ感想だった。

 

 つまりは、誰もが抱く当然の感想なのだ。中央競馬のレースでGⅠ級の強豪を相手に十馬身差をつけて勝つなど、常識に照らし合わせれば夢物語と言うしかない。

 

「しかも、出るレースまで向こうに決めさせるなら……少なくとも君に有利な条件にはならないぞ……それでいいのか?」

 

「ええ、構いません。どんな条件のレースでも受けて立つって、決めましたから」

 

「……何か、勝算でもあるのか?」

 

「全く何もないわけじゃありませんけど……」

 

 やや曖昧な返答をした後、グラスワンダーは危機感の滲む声音で続ける。

 

「正直、厳しい戦いになると思ってます。簡単に成し遂げられることだとは私自身も思っていません」

 

 自身の力を出し切れば圧勝は間違いないと信じきれるほど、グラスワンダーは傲慢でも無知でもない。

 

 競馬の厳しさ、勝負の難しさ、譲れないものをかけて競い合う相手の手強さは、これまでの競走生活で十分に思い知っている。

 

「でも、いいんです。それで」

 

 不安を蹴り飛ばすように言い、立ち上がる。

 

「簡単に出来ることじゃ意味がない。胸を張って世界に挑むために……私は、力と覚悟を示さないといけませんから」

 

 静かな足取りで数歩進み、吹き抜ける風を全身で受け止めてから、ゆっくりと振り向く。

 

 その顔には、少しだけ悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。

 

「それに……このくらいの無茶が出来るようでないと、世界の頂点は獲れない。そう思いませんか?」

 

 問いかけられたエアジハードは、しばしの間グラスワンダーと視線を合わせた後、瞑想に耽るように瞼を下ろす。

 

 そして小さく溜息をつき、感じたことをそのまま口にした。

 

「何ていうか……思ってたよりずっと大胆なんだね、君は」

 

 もう少し大人しい性格だと思っていたし、トレーナー相手に喧嘩を売るようなタイプではないと思っていた。

 

 けれど、実際の姿はまるで違っていたようだ。

 

 驚くほど向こう見ずで非常識。全てを失いかねない大博打にも平然と踏み切り、自らが信じた道を迷うことなく突き進む競走馬。

 

 それが≪怪物≫グラスワンダーなのだと、今さらながら認識を改める。

 

「けど嫌いじゃないよ、そういうのは。私が君の立場でも同じようなことをしてたかもしれない」

 

 僅かに頬を緩める。

 

 その淡い笑みには、それまでにない親しみが滲んでいた。

 

「流石に十馬身ってのは、見得の切りすぎだと思うけどね」

 

「きりのいい数字の方が、インパクトがあっていいでしょう?」

 

「ふっ……確かに」

 

 冗談めかした返しに、エアジハードは笑う。グラスワンダーも笑う。

 

 二人の忍び笑いがその場を包み、空気を穏やかなものに変えた。

 

 そうやって笑い合った後、グラスワンダーはどこか気恥ずかしそうな面持ちになり、ぽつりと呟く。

 

「……一人だったら、出来なかったかもしれません」

 

 それは嘘偽りのない、彼女の本音だった。

 

「自分にそんなことが出来るのかとか、出来なかったらどうしようとか……そんな後ろ向きな気持ちに囚われて、行動に移れなかったんじゃないかと思います」

 

 不安や恐怖は、誰の心の中にもある。グラスワンダーの中にも当然ある。

 

 どれだけの強さを得ても、どれだけの決意を固めても、そうした気持ちを完全に取り除くことは出来ない。

 

 競馬を続ける限り、心にのしかかる重荷からは逃れられない。

 

「でも、一人じゃありませんから」

 

 淡く微笑み、静かに述懐する。

 

「私の走りが好きだって、いつまでも傍で見ていたいって……そう言ってくれた人がいるんです」

 

 あの雨の日、橋の下で交わした言葉。

 

 その記憶を辿りながら、深い感謝を込めて言う。

 

「だから私は、勇気を出せる。自分を信じて前に進み続けられるんです」

 

 一度は捨てかけた夢を、親友が繋ぎ止めてくれた。

 

 自分を信じる気持ちを思い出させ、未来へと踏み出す勇気を与えてくれた。

 

 今ここで練習に打ち込んでいられるのは、自分が孤独でないことを教えてくれた存在がいたからに他ならない。

 

「それに、約束しましたから」

 

「約束?」

 

「ええ……大事な物を、取り返さないといけなくなったんです」

 

 意味が分からず、エアジハードは首を傾げる。

 

 グラスワンダーは苦笑気味に続けた。

 

「人に言わせればどうでもいいことかもしれませんけど、私にとっては大事なことなんです。だから……」

 

 そこではっと息を呑み、グラスワンダーは顔を上げた。

 

 何事かと思いその視線を追ったエアジハードは、次の瞬間に絶句する。

 

 コースの外埒の向こう側――芝が生い茂る斜面の上に、この場にいる筈のない人物の姿があった。

 

「ここで練習してるって聞いたのだけれど、休憩中だったかしら? 丁度良かったわね」

 

 長い褐色の髪を螺旋状に巻き、白いロングドレスを身に纏う、貴婦人めいた外見の女。

 

 それが誰なのかを、二人は瞬時に悟った。

 

 初めて対面する相手だったが、その顔と名はずっと前から知っていた。

 

 競馬の世界に身を置いていれば知らずにはいられない、史上屈指の名馬だからだ。

 

「はじめまして、日本の≪怪物≫さん。私が今日の対戦相手よ」

 

 英国競馬界の帝王ミルリーフは、優雅な微笑みを湛えながらそう告げた。

 

 

 

 

 

 

 同時刻。

 

 学園内の別の場所に、一人の少女が姿を現した。

 

「フッフッフッ……お待たせしましたネ、皆さん」

 

 エルコンドルパサーである。

 

 約二週間ぶりに練習場の土を踏んだ彼女は、いつもよりテンションが高めだった。

 

「エルコンドルパサー、二週間ちょいの秘密特訓からただ今戻りました! 昭和のノリ全開の猛特訓を気合いと根性で乗り越え、全競馬ファンが度肝を抜く超絶パワーアップを遂げてカムバックデース!」

 

 合宿を終えて東京に帰った翌日から、彼女はリコに指示された個別練習のため再び学園を離れていた。

 

 それが一段落したので、一皮剥けたような気分になって戻ってきたのだ。

 

「いやもう、この二週間はマジモンの地獄でしたネ。何度も魂が昇天しかけたっていうか、具体的に言うと三十六回くらい、あれ? これマジで死ぬんじゃないワタシ? って思っちゃいましたネ。今ここで息をしてるのが軽く奇跡な気がしてマース。――しかし! そんな人権無視の前時代的猛特訓の甲斐もあり、ワタシエルコンドルパサーは全ステータスを爆上げすることに成功しました! 最新のメカとかを使って今のワタシの競走能力を測ろうとしたら計測不能で派手にぶっ壊れるんじゃないかってくらいの――」

 

 景気良く垂れ流されていた妄言が、そこで止まった。ある重大な事実に気付いてしまったからだ。

 

 断っておくと、彼女は人気のない場所で空気に向かって話しかけていたわけではない。

 

 彼女の現在位置はダートコースの内埒付近であり、ほんの数メートル先にはリコとキングヘイローとセイウンスカイの三人がいる。

 

 しかし――

 

「GⅠ勝った嬉しさで馬鹿っぽく大はしゃぎしてるかと思ったら、案外冷静なのね。ヘイローちゃん」

 

「あなた、私を何だと思ってるのよ? そりゃちょっとは浮かれたけど、いつまでも気を抜いてられないわ。目標はまだ先だしね」

 

「とか言ってるけど、ちょっとどころじゃなく浮かれまくってたよキングは。昨日なんて一日中にやにやしながらエゴサーチしてて――」

 

「そこ、うるさい! 余計なことは言わなくていいのよ! ……で、今日は何をやればいいの? また障害練習の続き?」

 

「いえ、レースの後だし下半身を酷使するようなのはやめときましょう。とりあえず今日は上半身を重点に――」

 

 そんな会話が三人の間で繰り広げられていた。

 

 誰もこちらの話など聞いていないばかりか、存在を認識すらしていない様子だった。

 

 先程の長台詞が空気に話しかけているのと何ら変わらない愚行だったことを悟り、エルコンドルパサーは虚無の表情になった。

 

「あ、エルちゃんだ。久々に見た」

 

「あら……何かウザそうなのが騒いでるなと思ったら、そんなとこにいたのね」

 

「そういや最近見てなかったわね。ところで今日の練習って――」

 

 ようやく存在を認識されたようだが、さほど関心は向けられなかった。三人揃ってどうでもよさそうな反応を見せただけだった。

 

 あまりの世知辛さに、エルコンドルパサーは泣いた。

 

「あ、何か知らないけどエルちゃんが拗ねてる」

 

「何だか知らないけど、ほっとけば? どうせ三分くらいで立ち直るでしょ」

 

 背中を向けて体育座りをしてみせても、反応はひたすら冷たかった。アホに構っている暇はないとでも言いたげな様子だった。

 

 とはいえコース内で座り込まれるのは嫌だったのか、リコが面倒臭そうな顔をしながら歩み寄る。

 

「はいはいエルちゃん、クソウザい感じにいじけるならコースの外に行きましょうね。ぶっちゃけそこにいられると邪魔臭いから」

 

「ううっ……いいんデス、いいんデス……どうせワタシなんて根っからのウザキャラなんデス……みんな友達面しながら本当はワタシのことウザがってるんデス……あいつのマスク汗臭いよねーとか、そんな感じに陰で悪口言いまくってて……」

 

「確かにその通りだけど、別にエルちゃんの存在を忘れてたわけじゃないわよ。あなた用の練習相手だってちゃんと用意してるから」

 

「…………今、その通りって……」

 

「いいのよ細かいことは。んなことより、ほら、あっち見て」

 

 リコが指差した方向に、エルコンドルパサーは涙の溜まった目を向ける。

 

 そして大きく目を見開き、絶句した。

 

「茶番は終わったか?」

 

 心臓を突く刃のような、鋭く冷たい声。砂を踏み締める軍靴の音。

 

 離れたところから悠然とした足取りで近寄ってくる、英国陸軍の制服に身を包んだ長身の女。

 

 その姿を目にして衝撃を受けたのは、セイウンスカイとキングヘイローも同じだった。

 

 本来ならこんな場所にいる筈がない、世界屈指の名馬がいたのだ。

 

「終わったなら立て。二十分やる。その間に準備を済ませ、好きなコースを選び、開始位置につけ」

 

「ブリガディア……ジェラード……」

 

 愕然としながら呟くエルコンドルパサー。

 

 その様子を見て悪戯心が満たされたのか、リコは楽しげに笑った。

 

「そうよー。そこのジェラードちゃんが、あなたの今日の練習相手。ちょっと強めの相手だけど、秘密特訓の成果を見せるには丁度いいでしょう?」

 

 台詞の後半は、無論のこと冗談である。

 

 練習相手にしては強め、などという生温い話ではない。

 

 近代競馬の母国が誇る双璧の片割れ。無謬の頭脳と極限の肉体で常勝伝説を築き上げた、誉れ高き≪ザ・ブリガディア≫。

 

 競馬の世界の頂点に位置する、最上級の名馬の一人だ。

 

「聞こえなかったか? さっさと勝負の準備を済ませろと言ったんだ。グズグズするな、間抜け」

 

 僅か数秒の動揺さえ許さず、ブリガディアジェラードは高圧的に告げる。

 

 エルコンドルパサーは唇の端を曲げ、冷や汗をかきながら苦笑した。

 

「ワーオ……帰ってきて早々、どぎついのが現れやがったデース……」

 

 

 

 

 

 

 ミルリーフが目の前にいる。

 

 英国競馬界が誇る双璧の片割れが、瀟洒な日傘を差しながら斜面の上に佇み、柔らかな微笑みをこちらに向けている。

 

 その事実が信じられず、エアジハードは言葉を失っていた。

 

 普段は冷静な彼女が動揺を隠しきれないほど、それはありえないことだったのだ。

 

「あら? よく見たら、一昨日のレースで見た子もいるのね」

 

 ミルリーフの視線が、グラスワンダーからエアジハードへと移る。

 

「ええと、何だっけ……ああそうそう、エアジハードさんよね? もしよかったら、あなたも一緒にどう?」

 

「え……?」

 

「私これから、そっちの子の練習相手を務めることになってるの。あなたもなかなか強いから、その気があるなら一緒に相手してあげてもいいわよ」

 

「なっ――」

 

 耳を疑うような発言を聞き、エアジハードの混乱はさらに深まる。

 

 一方グラスワンダーは既に落ち着きを取り戻した様子で、真剣な眼差しを来訪者に向けた。

 

「……強い人を外国から呼ぶと聞いていましたけど、あなたのことだったんですね」

 

 元々、リコの伝手で練習相手を用意してもらう予定ではあった。

 

 それが英国最強馬ミルリーフになるとは、流石に夢にも思わなかったが。

 

「お会い出来て光栄です。私は――」

 

「グラスワンダーさんでしょう? 大体のことはリコさんから聞いてるわ。腕試しの相手を探してるんですってね」

 

 自己紹介は無用とばかりにそう言い、ミルリーフはグラスワンダーに視線を戻す。

 

「私でよければいくらでも相手してあげる……ってわけには流石にいかないんだけれど、まあとりあえず……」

 

 白い手袋に包まれた右手を上げ、人差し指をぴんと立てる。

 

「一回だけ、あなたが望む条件で勝負してあげるわ」

 

 英国最強馬への挑戦権。

 

 計り知れない価値があるその権利を一回限りで与えると、他ならぬ本人が口にした。

 

 それがどれだけ常軌を逸したことかは、最早語るまでもない。

 

「今ここで、私とマッチレースをしてくれる……と受け取っていいんですね?」

 

「ええそうよ。条件は何でもいいわ。ターフでもダートでもポリトラックでも、千メートルでも三千メートルでも。私こう見えて器用だから、どんな条件でも不足のない相手になってみせるわよ。……ああでも、パン食い競走で勝負とかはやめてね? 私そういう美しくないことはしない主義だから」

 

 冗談交じりの返しで茶目っ気を見せるミルリーフに、エアジハードは苦い顔で複雑な感情が乗った視線を向ける。

 

 戸惑いつつも状況を呑み込み始めた彼女の中に、この時一つの理解が生じた。

 

 ほんの数メートル先に佇む、世界有数の実力者――その親しげな態度の裏側にあるものへの理解が。

 

(見下している……完全に……)

 

 柔らかな笑みや気前のいい発言は、余裕の表れ。自分達を対等の相手と見ていない証。

 

 例えるなら、大人が子供の遊びに付き合うようなもの。意地と誇りをかけて真剣に競い合う気などなく、優しく手加減しながら戯れようとしているに過ぎない。

 

 だが、それを傲慢と断じられるだろうか。侮られていることに憤る資格が、自分達二人にあるだろうか。

 

 世界の誰もが言うに違いない。下に見られて当然だと。

 

 近代競馬の母国イギリスに君臨する王者と日本のGⅠ馬に過ぎないお前達とでは、競走馬としての格が違い過ぎるのだと。

 

 悔しいが、その事実を否定することは出来ない。

 

「ああそうだ! 今思いついたのだけど、こういうのはどうかしら? あなたとそっちのエアジハードさんが組んで、二対一で私と競走するの。片方が半分の距離を走り終えたらもう片方に交代するって感じで。それなら結構競った勝負に――」

 

「いいえ」

 

 ミルリーフの提案を、グラスワンダーは拒んだ。

 

「申し訳ありませんが、ここは私一人でいかせてもらいます。ハンデも手加減もなしの一対一で、私と勝負して下さい」

 

 譲れないものをかける強い意思が、その横顔には表れていた。

 

 エアジハードは声を抑え、確認するように問う。

 

「グラス……分かっているのか? 奴は――」

 

「ミルリーフ」

 

 百も承知とばかりに、グラスワンダーは相手の名を口にする。

 

「軍神ブリガディアジェラードと並ぶ英国競馬界の双璧。通算戦績十四戦十二勝。主な勝鞍はダービーステークス、キングジョージ、凱旋門賞。比類なき剛力と無尽蔵のスタミナを併せ持つ、王道路線の絶対王者。……控えめに言っても、私なんかとは競走馬としての格が五つは違う相手ですね」

 

 国は違えど、実績の面ではあのシアトルスルーとほぼ同等。

 

 全世界にその名を轟かせる歴史的名馬であり、世界最強の座を狙うに足る格の持ち主。

 

 グラスワンダーの現在の立ち位置からすれば、遥か雲の上の存在と言っても過言ではない。

 

「でも……格や実績なんて、今は関係ありません」

 

 萎縮する必要などないと言外に告げ、鋭利な光を双眸に灯す。

 

 子供同然の格下と戯れる気でいる相手を真っ直ぐに見返し、続く言葉を毅然と言い放った。

 

 鋼の決意と、確信に等しい自信を込めて。

 

「勝ちますから」

 

 

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