ウマ娘 Big Red Story   作:堤明文

2 / 21
第二話「選ばれし五人」

 

 

 一夜明け、日本サラブレッドトレーニングセンター学園の正門前。

 

 東京ドーム十七個分もの敷地面積を誇る広大な学園の出入口に、制服姿のシンボリルドルフが一人佇んでいた。

 

 いや――その表現は正しくない。

 

 少し前までその場にいたのは彼女一人だけだったのだが、現在はもう一人いた。

 

 新興チーム「スピカ」に所属する小柄な少女、トウカイテイオーだ。

 

 シンボリルドルフの姿を見つけて歩み寄ってきた彼女は、そのまま無遠慮に声をかける。

 

「かいちょー、何やってんの? そんなとこで」

 

「人を待っている」

 

 簡潔な答えに、トウカイテイオーは小首を傾げた。

 

「人? 誰かお客さんでも来るの?」

 

「……いいからお前は教室に行け。朝のホームルームに遅れるぞ」

 

「まだ遅れるような時間じゃないよ。ていうか、かいちょーだって学生じゃん」

 

「私は仕事でここにいるんだ。先生方の許可も貰っている」

 

「ふーん……生徒会長としての仕事なんだ?」

 

 重要な情報を聞き出したとばかりに、トウカイテイオーはにやにやと笑う。

 

 自分の失言に気付いて少し苦い顔をしたシンボリルドルフは、やがて仕方なさそうに溜息をついた。

 

「……もうじき、この学園と深い関わりのある方が来られる予定だ。私はその方と顔見知りで、色々と手伝いをしなければいけない立場でもあるから、出迎えるためにここに立っている。これでいいか?」

 

「学園と深い関わりのある人って、誰? ヤクザの親分とか?」

 

「学園も私個人も、そんな輩との関わりは一切無い。いいから早く教室に行け」

 

「教えてくれたっていいじゃん、ケチ」

 

「お前のために言っているんだ」

 

「……? どゆこと?」

 

 トウカイテイオーが頭の上に疑問符を浮かべると、シンボリルドルフは再び深い溜息をついた。

 

 それは彼女が滅多に見せない、愚痴を零すような表情だった。

 

「これからここに来る人は、子供のまま大人になってしまったような人だ。いや……あれと一緒にされては子供が可哀想だな。……とにかく、色々な意味で常識が通じない人だ。控え目に言って頭がおかしい。下手に目を付けられると碌なことにならないから、さっさとここから失せ――」

 

「誰の頭がおかしいのかしら?」

 

 背後からの声と同時に、伸ばされた両腕がシンボリルドルフの胸に触れた。

 

 その手はそのまま、制服越しに胸の膨らみを揉み始める。

 

 押し寄せる不快感に鉄の自制心で耐えながら、シンボリルドルフは言った。

 

「……いらしてたのですか、先生」

 

「ええ、いらしてたわよ。ルナちゃんをびっくりさせようと思って、ちょっと早めに来ちゃった」

 

 突然背後から抱きついてシンボリルドルフの胸を揉み始めたのは、黒いスーツを着た金髪の女だった。

 

 年齢は、二十代後半ほどだろうか。比較的長身のシンボリルドルフより十センチほど背が高く、すらりとした長い脚をしている。

 

 ウェーブがかった金髪の隙間から突き出る長い耳と、スカートに空いた穴から伸びる長い尾を見て、トウカイテイオーはその女が自分達の同族であることを理解した。

 

「かいちょー……誰? そのセクハラおばさん」

 

「私の…………恩師だ」

 

 言いたくなさそうな顔で、シンボリルドルフは言う。

 

 金髪の女は胸を揉みながら、意地悪く笑った。

 

「あーら、随分と長い間があるわねぇ。なんか内なる葛藤的なものを感じる言い方なんだけど? 恩師って言いたくない感がひしひしと伝わってきちゃったんだけど? 先生の気のせいかしらね? ルナちゃん?」

 

「気のせいでしょう。今も昔も、私は先生のことを尊敬していますよ。人格と素行以外の面では」

 

「ふふっ……あらあら、ちょっと身体と胸が大きくなったからって調子こきまくってるみたいねぇ。久々に膝蹴りぶちこみたくなっちゃったわ。顔面に」

 

「今だと犯罪になりますよ、それは。……昔でも十分犯罪でしたが」

 

 シンボリルドルフが冷静に返すと、金髪の女は楽しげな顔のまま胸から手を離し、くるりと身を翻した。

 

「それもそうね。就任早々パワハラで解任ってんじゃ流石に寒すぎるし、解任されちゃったらつまんないしね。じゃ……クソ生意気な誰かさんへの制裁はまた今度ってことで、さくっとお仕事しましょっか」

 

 そう言って、校舎の建つ方向に歩き出す。シンボリルドルフは溜息をつきつつ、その後を追った。

 

「……先日の模擬レースも含め、最近の主要レースの映像はこちらでまとめてあります。ご覧になりますか?」

 

「いいわよ、そんなの」

 

 金髪の女は振り返り、不敵な笑みを見せた。

 

「もう決めたから。ドバイに連れて行く子達は」

 

 

 

 

 

 

 アメリカで生まれ育ったエルコンドルパサーが日本サラブレッドトレーニングセンター学園に転入したのは、三年前の秋だった。

 

 そして美浦寮に住むことになり、ルームメイトとして出会った相手が、同じアメリカ出身のグラスワンダーだった。

 

 初めてグラスワンダーのレースを間近で観戦したのは、その年の冬。

 

 その年デビューした若きサラブレッド達の頂点を決めるGⅠレース、朝日杯だ。

 

 その時覚えた衝撃は、今でも忘れられない。どれだけ時が経とうと色褪せない記憶として、胸の奥に刻まれている。

 

 鈍色の空の下、年の瀬の雰囲気に包まれた中山競馬場。

 

 大歓声が湧き上がる中、短い直線走路を疾走する、青い勝負服を纏った栗毛の少女。

 

 高く振り上げた脚を地面に叩きつける独特の走法。天まで響き渡る轟音。荒々しく舞い上がる土煙。雷と化したかのような神速の末脚。観客席まで伝わってきて、身体の芯を痺れさせる、灼熱の闘志。

 

 グラスワンダーの走りは、何もかもが異次元だった。

 

 今まで見てきたどんなサラブレッドとも違う、世界に一つしかないような特別な輝きが、大地を蹴り砕くその走りにはあった。

 

 だから、その輝きに心を奪われて、栗毛の少女が同世代の強豪達を寄せ付けずにゴールを駆け抜ける瞬間を、目に焼き付けた。

 

 そして、表彰台に上った少女に銀色の優勝カップが手渡される光景を、神聖な儀式を見届けるような心地で見つめた。

 

 近くにいた観客の誰かが、ぼそりと言った。怪物だ――と。

 

 確かにそうだと、心の中で同意した。陳腐な表現だが、あの少女の強さを表す言葉には、それが一番ふさわしいように思えた。

 

 別の誰かが言った。マルゼンスキーの再来だ――と。

 

 チーム・リギルの最古参にして、日本屈指の実力者。かつて同じように圧倒的な強さを見せて朝日杯を制した、日本競馬の生ける伝説。

 

 そんな偉大なサラブレッドに比肩しうるほどの逸材。

 

 いや、もしかしたら、マルゼンスキーの伝説を塗り替える存在になるかもしれない。それほどの可能性を秘めた大器。

 

 口にした誰かは、そう思っていたのだろう。エルコンドルパサーもそれに異論はなかった。

 

 掴み取った勝利を多くのファンに祝福される少女を見つめながら、心のどこかで願った。

 

 いつまでもここにいたい。

 

 この輝かしい時間に、いつまでも浸っていたいと。

 

 それは他の観客達も同じだったらしく、未だレースの最中であるかのような熱気と高揚が、競馬場全体を包んでいた。

 

 きっと、あの時――表彰式を見届けていた誰もが、夢を見ていたのだ。

 

 炎のように熱く、黄金のように眩しい夢を。

 

 あの栗毛の少女は近い将来、途轍もないサラブレッドになる。

 

 過去のどんな名馬をも超える、偉大な存在になる。

 

 数多のビッグタイトルを獲得し、全ての記録を更新し、日本競馬の頂点に君臨する、史上最強の王者になる。

 

 そして、いつか――

 

 きっと、いつか――

 

 海の向こうに旅立って、世界の頂点を獲ってくれる。

 

 先人達が跳ね返されてきた世界の壁を、あの少女は打ち破ってくれる。

 

 あの少女が歩む道の先には、光輝く未来が待っている。

 

 誰もが、そう思っていた。

 

 胸に抱いた夢が、いつの日か現実に変わる――そんなありえないことを、あの時は誰もが信じていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 暖かな朝日が差し込む早朝。

 

 自室のベッドの上で、エルコンドルパサーは目を覚ました。

 

「ん……うっ……」

 

 身をよじりつつ、ゆっくりと瞼を上げる。見慣れた部屋の天井が、眩しい日差しに照らされながら目に映った。

 

 夢を見ていたのか――と、未だぼんやりした頭で思う。

 

 三年前の冬、はじめてグラスワンダーの走りを目にした時の記憶。

 

 大地を揺るがす激走と、祝福に包まれた表彰式の記憶。

 

 それを、眠りの中で見つめ直していたらしい。

 

 過去の出来事がそのまま夢となって現れるなど、はじめての経験だ。昨日の模擬レースの後、帰り道であんなことがあったせいだろうか。

 

 そこまで考えて、はっとした。

 

 そうだ。昨日はあんなことがあった。親友の身に大変なことが起きていたのだ。

 

 暢気に寝ている場合ではない。

 

「グラ――」

 

 跳ねるように上体を起こし、親友の姿を探した。

 

 すると――

 

「あっ……おはようございます。エル」

 

 意外なほど近くに、その姿はあった。

 

 自分の机の前に立って身支度を整えていたらしいグラスワンダーは、エルコンドルパサーが起き上がったことに気付くと、振り返って柔らかな微笑みを見せた。

 

 それは、いつもと何ら変わらない、彼女の自然な表情だった。

 

 昨夜とは一変したその様子を見て、エルコンドルパサーは戸惑う。

 

「グラス……」

 

 反応に困っていると、グラスワンダーはエルコンドルパサーに身体の正面を向け、深々と頭を下げた。

 

「昨日はごめんなさい……みっともないところを見せてしまって」

 

 謝罪の言葉を口にしてから、顔を上げる。

 

 朝日に照らされるその顔は、晴れやかな笑みを湛えていた。

 

「でも、もう大丈夫です。エルが励ましてくれたおかげで、気持ちの整理がつきました」

 

 無二の親友と目を合わせ、全ての悩みを捨て去った表情で、栗毛の少女は告げる。

 

「しばらく練習には出られませんけど、これからもよろしくお願いしますね、エル。いつか必ず復帰して、昨日のリベンジをしてみせますから」

 

 前向きな気持ちから放たれた、再戦と勝利を望む言葉。

 

 一点の曇りもない、澄んだ眼差し。

 

 ベッドの上で呆けていたエルコンドルパサーは、それに心を打たれ――

 

「……ぷっ……ぷふふ……」

 

 こらえきれずに、笑った。

 

「ぷふっ……ぷふふふ……ぷははははははは」

 

「え……?」

 

「ぷふふ……や、やばい……ツ、ツボに……ツボにはまった……死ぬ……」

 

「ちょ、ちょっと……! な、何でそこで笑うんですか……!」

 

「ふふっ……だってー……昨日あれだけヘタレまくってたのに、急にそんな晴れやかな感じでドヤ顔キメられても……ぷふふ……こんなのもう、ギャグの域としか……」

 

 グラスワンダーの顔が、一瞬で真っ赤になる。

 

「な……あ、あれは……あれは仕方ないじゃないですか……! き、昨日はその、色々あって……せ、精神が不安定になってたんですからっ」

 

「あーハイハイ、せいしんがふあんてーになってたなら仕方ないデスネー。ガチ泣きしながらワタシの胸に飛び込んできて、そのまま頭ナデナデしてもらっちゃっても」

 

「わ、わわ忘れてください! そのことは!」

 

「えー? そんな簡単に忘れられないデスヨ? 泣きじゃくるグラスを優しく慰めてあげて、添い寝までしてあげたあの夜のことは」

 

「忘れてくださいってばっ! もうっ!」

 

 赤面しながらそっぽを向くグラスワンダー。

 

 その可愛らしい様子を見て、エルコンドルパサーは意地悪な笑みを安堵の笑みに変えた。

 

 一時はどうなることかと思ったが、心配は無用だったようだ。

 

 本人が言うように、一夜明けて気持ちの整理がついたのだろう。柔らかな笑顔も、からかわれて赤くなる様子も、何もかも普段通りだ。

 

 昨夜は本当に大変だったし、今も問題が全て解決したわけではないけれど――それでも、立ち直ったグラスワンダーなら、きっと乗り越えられる。

 

 挫けずに前を向き、輝く未来を信じて歩んでいける。

 

 そして、いつかまた、自分と一緒に走る日が来る。昨日のような模擬レースではない、本当の大舞台で――

 

 そう思った矢先、エルコンドルパサーは気付いた。

 

 見慣れた部屋の景色から、見慣れた物が消えていることに。

 

「え……?」

 

 部屋の隅。グラスワンダーの机の上に備え付けられた棚。

 

 そこに飾られていた、真鍮製のカップ。

 

 三年前の冬、朝日杯を制した時に授与された、銀色の優勝カップ。

 

 グラスワンダーが他の何よりも大切にしていたそれが、棚の上から忽然と消えていた。

 

 そんな物など、最初から存在しなかったかのように。

 

「グラス……」

 

 エルコンドルパサーは、親友に再び目を向ける。

 

 栗毛の少女はこちらに背を向けていて、表情は覗えない。

 

 一見したところでは、からかわれたせいで拗ねているように見える後ろ姿。

 

 しかし、その向こう側には、本当に拗ねた顔があるのだろうか。

 

 小さな身体が微かに震えているように見えるのは、果たして気のせいなのだろうか。

 

 その答えが、エルコンドルパサーには分からなかった。

 

 

 

 

 

 

 身支度を整えた二人は、寮を出て校舎へと向かった。

 

 この日の登校風景は、いつもとは少しだけ様子が違っていた。

 

 浮ついた空気――とでも言うべきだろうか。学園祭を間近に控えた時期のような高揚感が、他の生徒達の表情や話し声から伝わってきたのだ。

 

 エルコンドルパサーがそのことに言及すると、隣を歩くグラスワンダーは苦笑を浮かべ、事情を説明した。

 

 その内容に、エルコンドルパサーは驚愕した。

 

「ワ、ワールドカップ……!?」

 

「ええ、昨日の夜報道されたみたいです。九ヶ月後にドバイで競馬のワールドカップが開催されるって」

 

 ドバイは中東の小国だが、競馬の世界では有名だ。

 

 毎年三月末にドバイミーティングと呼ばれる国際招待競走が開催されており、栄誉と高額な賞金を目当てに世界各国から強豪が集う。

 

 その国の首長が「ワールドカップ」の開催を宣言したならば、この学園で話題にならないわけがない。

 

「それも個人で出る普通のレースじゃなくて、団体戦みたいですよ。各国から送り出された五人の代表選手が一つのチームになって、チーム対抗で優勝を争うんだとか……今までにない新しい試みですね」

 

「わー……何だかすごいことになってきましたネ…………って、あっ! もしかして、昨日の模擬レースって……」

 

「多分、それに出るメンバーを選抜するためだったんでしょうね。報道されるより大分前から、学園の方には話が来てたんだと思います。他のチームにも強い人はいますから、昨日のレースで勝った人の全員が選ばれるわけじゃないかもしれませんが……」

 

 そう言ってからグラスワンダーは、親友に笑顔を向けた。

 

「でも、エルならきっと選ばれますよ。去年フランスで大活躍した日本のエースですから」

 

「あ、あはは……そう、かな……」

 

 エルコンドルパサーは苦笑する。

 

 グラスワンダーの笑顔には、どこか普段と違うものが含まれている気がして――褒め言葉を素直に受け取ることが出来なかった。

 

 と、そこで、自分の失言に気付いた。

 

 昨日の模擬レースが日本代表を選抜するために行われたものなら、勝利を掴めなかったグラスワンダーは――

 

 いや、それを抜きにしても、彼女は――

 

「……私も、頑張りますから」

 

 エルコンドルパサーの思考を断ち切るように、栗毛の少女は言った。

 

「今回は……とても出られませんけれど…………それでも、いつか大きな舞台に立てるように頑張りますから……先に行って待っていて下さい。エル」

 

 その顔に微笑みを戻し、前を向く。

 

「エルがワールドカップで大活躍して、世界一のサラブレッドと呼ばれるようになってくれたら……ふふっ、話が早くて助かります。世界一になったエルを倒してみせれば、私が世界一ですから」

 

 冗談めかした明るい言葉。

 

 柔らかな笑顔から零れた、前向きな言葉。

 

 けれど、エルコンドルパサーにはそれが、本心から出た言葉には思えなかった。

 

 親友の顔に浮かぶ笑みが、どこか歪な、出来の悪い仮面のように見えた。

 

 その口から出た言葉が、台本に書かれた台詞を読み上げているように聞こえた。

 

 昨日の模擬レースで競り合った時とは違う。言葉を交わさずとも伝わってきた、あの熱い想いとは違う。

 

 歪な笑顔から放たれた、真実味のない空虚な言葉。

 

 それをそのまま受け止めるのが辛くて、どう応じるべきか迷った矢先――背後から、聞き慣れた声が飛んできた。

 

「あっ、エルちゃんにグラスちゃん」

 

 そう呼びかけながら駆け寄ってきたのは、白い前髪が特徴的なボブカットの少女だった。

 

 同級生のスペシャルウィークだ。

 

 チーム・スピカに所属する黒鹿毛のダービー馬は、無邪気な笑顔で二人の横に並ぶ。

 

「珍しいね、こんな時間に登校するのって。今日は朝練なかったの?」

 

「昨日模擬レースをやりましたから。数日は身体を休めるように言われてるんです」

 

 グラスワンダーが答えると、スペシャルウィークは少し驚いた顔になった。

 

「あっ、そっか。言ってたもんね、チーム内で模擬レースやるって…………えっと……結果はどうだったの?」

 

「エルに負けちゃいました。一昨年の毎日王冠と合わせると二連敗ですね。悔しいです」

 

 苦笑するグラスワンダーに、スペシャルウィークはやや気まずそうな苦笑を返す。

 

「あはは……でもグラスちゃんだって強いから、そのうちリベンジ出来るよ。私なんて、未だにグラスちゃんに勝ったことないし」

 

「ふふっ、そうでしたね……でも有馬記念の時は危なかったですよ? ゴールした瞬間は負けたと思いましたし」

 

「うぅ……それ言わないで……嫌な記憶が蘇るから……」

 

「今でも鮮明に憶えていますよ。大観衆の前で颯爽とウイニングランをするスペちゃんの勇姿は」

 

「やめて! それ言わないで! 今でも恥ずかしくてたまらないんだからっ!」

 

 黒歴史を掘り起こされて絶叫するスペシャルウィーク。その慌てぶりを見てくすくすと笑うグラスワンダー。

 

 傍から見れば、穏やかな日常の一幕。

 

 しかしエルコンドルパサーの目には、グラスワンダーの笑顔が、やはりどこか空々しい――無理に取り繕ったものに見えてならなかった。

 

 そのせいで、二人の会話に入っていけなかった。

 

「むぅ……いいもん。今度一緒のレースになった時は必ず勝って、ちゃんとしたウイニングランしてやるんだから」

 

 何気なく放たれた、スペシャルウィークの言葉。

 

 それを聞いた瞬間、グラスワンダーの表情が固まった。

 

 時が止まったように、凍りついたのだ。

 

「んー……でもグラスちゃんとエルちゃんは規定で天皇賞には出れないから、一緒になるのはまた宝塚記念とかかなぁ……でもトレーナーさんは、今年の宝塚にはゴールドシップさんを出す予定だって言ってるし、私外されちゃうかも……あっ、そうだ! 安田記念なら一緒に走れるね! 私マイルのGⅠって走ったことないんだけど、今から頑張って特訓すれば――」

 

 言葉の途中で、スペシャルウィークは気付いた。

 

 隣を歩く少女の顔から笑みが消え、酷く青褪めていることに。

 

「グラスちゃん……どうしたの?」

 

「……何でも、ないです……何でも……」

 

 口許を手で押さえ、かたかたと小刻みに震えていたグラスワンダーは、ゆっくりと頭を振る。

 

 そして口許から手を離し、一度大きく息を吸い込んで、再び笑顔を作った。

 

 それは、今にも崩れ落ちてしまいそうな――誰の目にも痛々しく映る笑顔だった。

 

「また一緒に走りましょうね、スペちゃん…………また、いつか……」

 

「う、うん……」

 

 戸惑いながら、スペシャルウィークは頷く。

 

 そんな二人のやりとりを見て、エルコンドルパサーは悟った。

 

 やはり、危惧した通りだ。

 

 グラスワンダーの中で、昨日の出来事はまだ終わっていない。彼女の心には、深い傷が刻まれたままなのだ――と。

 

「……」

 

 昨日の模擬レースでグラスワンダーが競走中止に至った理由を、エルコンドルパサーは知らない。本人に訊いても、それだけは答えてくれなかった。

 

 知ることが出来たのは、二時間近くに及んだ「話し合い」の内容だけだ。

 

 レースの後、東条ハナに連れて行かれた先で――グラスワンダーは、引退を勧告されたらしい。

 

 競馬の世界から身を引き、学園を去ることを求められたのだ。

 

 当然、本人はそれを拒んだ。

 

 模擬レースでは最後に躓きかけただけ。怪我はしていない。自分はまだ走れる。次こそは必ず勝ってみせる。

 

 必死にそう主張して、現役を続けさせてもらえるように懇願した。

 

 そんな彼女に、東条ハナは三つの条件を提示した。

 

 一つ目は、向こう三ヶ月間はチームの練習に参加しないこと。

 

 二つ目は、向こう一年間はレースに出走しないこと。

 

 三つ目は、あの「叩きつける走法」を二度と行わないこと。

 

 引退を拒むなら、その三つを遵守しろと告げられた。グラスワンダーが現役を続けるためには、それを受け容れるしかなかったのだ。

 

 決して軽い条件ではない。

 

 特に三つ目は、グラスワンダーにとっては致命的だ。

 

 あの走法は、彼女の戦術の根幹と言うべきもの。使用を禁じられてしまえば、全てが破綻する。

 

 そうなればもう、たとえレースに復帰したとしても、以前のような活躍は望めない。

 

 そのことは、本人が一番よく分かっていたのだろう。三つ目の条件を自らの口で語った時の彼女は、心が壊れる寸前まで追い込まれていた。

 

 一夜明けた今も、傷口はまだ塞がっていない。

 

 むしろ、悪化しているような印象さえ受ける。

 

 無理に取り繕った笑顔の裏で、支えを失った心が罅割れ、取り返しのつかないことになり始めているような――

 

「やっと来たか」

 

 思考を断ち切るように、前方から声。

 

 目を向けると、鼻に白い絆創膏を貼った少女が校舎の入口に立っていた。

 

 リギル所属の生徒会役員、ナリタブライアンだ。

 

「スペシャルウィーク、エルコンドルパサー、それにグラスワンダー。お前ら三人とも、今すぐ三階の理事長室に行け」

 

「え……?」

 

 三人が、揃って当惑の声を零す。

 

 ナリタブライアンは、妙に気怠そうな面持ちで言った。

 

「訳の分からん人がお前達を呼んでいる。大事な話があるんだとさ」

 

 

 

 

 

 

 学園内の練習場。ウッドチップコース。

 

 脚への負担を減らすための木片が敷き詰められた練習用トラックを、学園指定のトレーニングウェアを着た二人のサラブレッドが併走していた。

 

 一人は、銀色の髪を短く切り揃えた少女、セイウンスカイ。

 

 もう一人は、両耳に青い覆いを付けた少女、キングヘイロー。

 

 異なるチームに所属しながらも、時折自主トレーニングを共にする仲の彼女ら二人は、この日も早朝からウッドチップコースで汗を流していた。

 

「そういやキング、聞いた?」

 

「聞いたって、何をよ?」

 

 突然言葉足らずな問いを投げてくるセイウンスカイに、キングヘイローは煩わしそうな顔で問い返す。

 

 セイウンスカイは走りながら上を向き、顎に人差し指を当てた。

 

「んー……何だっけ? ほら、アレだよアレ。えーっと、あの……」

 

「あんたねぇ……」

 

「あっそうだ、ドバンだドバン。今度ほら、中東のドバンって国ですごい大会やるって話」

 

「ドバイでしょ、馬鹿。……それなら聞いてるわよ。向こうの王様みたいなのが主催する競馬のワールドカップを、今年の十一月にやるんですってね」

 

 練習仲間のいい加減な記憶力に呆れつつ、キングヘイローは応じる。

 

 約九ヶ月後に中東のドバイ首長国で開催されることになった、競馬のワールドカップ。

 

 その情報は、既に彼女達の耳にも入っていた。

 

「楽しみだよねー。世界のいろんな国からすごい人達が集まって、一緒に走るんでしょ? 考えるだけでワクワクするよ」

 

「まあ……観客の立場でなら、面白いんでしょうけど……」

 

 キングヘイローは下を向き、複雑な面持ちで呟く。

 

 ワールドカップに興味がないと言えば嘘になる。世界各国の強豪が集うレースが行われるなら、是非ともこの目で見てみたい。

 

 けれど――

 

「……私達には、縁のない話ね」

 

「ん? ワールドカップ出たいの? キング」

 

 独り言のつもりだったのだが、聞こえてしまったらしい。隣を走るセイウンスカイが不思議そうな顔を向けてくる。

 

 キングヘイローは気恥ずかしさと面倒臭さが入り混じったような顔になり、視線を逸らしながら答えた。

 

「出たくても出れないでしょ、私達の実績じゃ」

 

 報道された通りなら、国の代表としてワールドカップに行けるのは、僅か五人。

 

 その五人の中に自分達二人が入れる可能性は、はっきり言って皆無に近い。

 

 理由は単純。実績が足りないからだ。

 

 日本代表に選出されて国の威信と国民の期待を背負わせてもらえるだけの実績を、自分達二人は持っていない。

 

「私達って括り方するのは、ちょっと違う気がするなぁ……私ほら、キングよりは実績あるし」

 

「う、うるさいわね! 知ってるわよっ! ああもう……じゃあ訂正してあげる! GⅠ未勝利の私じゃワールドカップなんて出られないからどうでもいいわ! ほら、これでいい!?」

 

 キングヘイローがむきになって叫ぶと、セイウンスカイはくすりと笑った。

 

「冗談だよ、冗談。選考する立場の人から見れば、私もキングもそんなに違わないよ。去年大きいレースで勝てなかったのは私も一緒だしね」

 

 その横顔にどこか寂しげな陰があるのを見て取って、キングヘイローは怒りを引っ込める。

 

 仕方なく、目を合わさずにぽつりと言った。

 

「……あんたは一応、二冠獲ってるじゃない」

 

「昔の話だよ。そんなのいつまでも通用しない。それに上の世代には、私より実績ある人なんてごろごろいるしね」

 

 競馬とは、厳しい勝負の世界だ。

 

 現役を続ける以上は、結果を出すことが義務となる。

 

 GⅠのタイトルを獲得すれば周囲から称賛されるが、それも一時の話。

 

 すぐに、次も勝てと命じられる。さらにタイトルを積み上げろと要求される。それに応えることが出来なければ、評価は瞬く間に下落していく。

 

 レースで勝てなくなった者に、世間は冷たい。

 

 過去の栄光に縋りついたままでいることを、勝負の世界は許さない。

 

 そんな現実を理解しながらも、一瞬だけ浮かんだ憂いをどこかに吹き飛ばし、セイウンスカイは言った。

 

 晴れ渡った青空のような、どこまでも前向きな笑顔で。

 

「でもさ、可能性はゼロじゃないと思うんだ。もしかしたら選考委員の人がとんでもない物好きかすっごいバカのどっちかで、私とキングを代表に選んじゃうなんてこともあるんじゃないかなぁって」

 

「あるわけないでしょ、そんなこと」

 

 あまりにも楽観的すぎる意見を、キングヘイローは否定する。

 

 いったいどんな脳味噌してるのよこの馬鹿は――と、内心で悪態を吐いた。

 

 選考に関することはまだ何も発表されていないが、ワールドカップ日本代表に選ばれる面子は大体予想がつく。

 

 歴代最多のGⅠ七勝を誇る≪皇帝≫シンボリルドルフ。

 

 デビュー以来公式戦無敗の≪スーパーカー≫マルゼンスキー。

 

 まず鉄板なのはその二人だろう。GⅠ五勝の三冠馬ナリタブライアンや昨秋骨折から復活したサイレンススズカも候補に挙がっているに違いない。ワールドカップに短距離戦が用意されているなら短距離王タイキシャトルは外せないし、長距離戦ならチーム・スピカのメジロマックイーンも捨て難い。

 

 そこに割って入る可能性があるとすれば、昨年国内外で大活躍した同期の三強――スペシャルウィーク、エルコンドルパサー、グラスワンダーくらいだろう。

 

 完全に定員オーバーな状況だ。自分達二人が入る枠など残されていない。

 

 昨年GⅠの舞台では負け続きだったセイウンスカイと、そもそもGⅠを勝ったことがないキングヘイローを選ぶ理由など、何処を探しても存在しない。

 

 もし、シンボリルドルフやマルゼンスキーを差し置いて自分達二人を選ぶ人物がいたとしたら――それは余程どころではない、史上稀に見るレベルの大馬鹿だろう。

 

「くっだらないこと言ってないで、いい加減真面目に走りなさいよ! あんまりチンタラ走ってると置いていくわ――」

 

「そこの二人、止まれ!」

 

 横合いから飛んできた声が、キングヘイローの言葉を遮った。

 

 二人が立ち止まって声の方向に視線を向けると、そこにいたのは一人の上級生。

 

 リギル所属の生徒会副会長、エアグルーヴだった。

 

「エアグルーヴ先輩……」

 

 いったい何だろうかと疑問を抱く二人に、エアグルーヴは歩み寄る。

 

 そして、真剣な顔――を作ることに若干抵抗があるような顔で、用件を告げた。

 

「理事長室……にいるよく分からない人が、お前達二人を呼んでいる。悪いがすぐに向かってくれ」

 

 

 

 

 

 

 セイウンスカイとキングヘイローが制服に着替えて理事長室の前まで来ると、廊下の反対側から歩いてきた三人と鉢合わせになった。

 

「あっ、スペちゃん達だ」

 

「ウンスちゃんに、ヘイローさん……」

 

 セイウンスカイとスペシャルウィークの声が重なる。

 

 どういうわけか、理事長室の分厚い扉の前に、同じクラスの面々――スペシャルウィーク、エルコンドルパサー、グラスワンダー、セイウンスカイ、キングヘイローの五人が集う形になった。

 

「私達、理事長室に呼ばれて……」

 

「あら? それなら私達もよ」

 

 グラスワンダーの言葉に、キングヘイローが応じた。

 

 これはいったいどういうことかと、五人の少女は顔を見合わせる。

 

「……私達、何か悪いことした?」

 

「心当たりがないデース」

 

「というか、こんな所に呼び出されるなんて初めてよ」

 

「理事長にも直接お会いしたことはありませんし……」

 

「ブライアンさんも何も聞いてないみたいだったし、何なんだろ……?」

 

 言葉を交わしても、答えは出ない。

 

 こんな時間にこんな場所に呼び出されるなど、誰にとっても初めての経験だった。

 

「ま、いいや。入ってみれば分かるよ」

 

 そう言って前に進み出たセイウンスカイが、扉を軽くノックすると――

 

「はいはーい! 生徒会の二人が呼んできてくれた子達?」

 

 扉の向こう側から、女の声が飛んできた。

 

 理事長にしては、声が若い。

 

 セイウンスカイが「はい、そうです」と答えると、扉の向こう側にいる女は少し慌てた様子で言った。

 

「ちょっと待って! 今スタンバってる途中だから、まだ入んないで! あと一分……いや三十秒! 三十秒だけそこで待ってて! いいわね?」

 

「あ……は、はい……」

 

 意味不明な指示に、五人は若干引く。

 

 その直後、室内からバタバタと慌ただしい物音が聞こえてきた。大急ぎで何かの準備をしているらしい。

 

 そして、約三十秒後。

 

「はい、いいわよー! 入って入って! あっ、ドアはゆっくり開けないでね。力いっぱい蹴破る感じでもいいから、バーンっと開けちゃって。バーンっと」

 

 理解不能な注文付きで、入室を命じられた。

 

 扉の前に立っていたセイウンスカイは、「いいのかな……?」と言いたげな顔で後ろを振り返る。

 

「まあ……向こうがああ言っていますし……」

 

 苦笑いを浮かべながらグラスワンダーが言い、他の三人も同様の表情で頷く。

 

 それを受けて、セイウンスカイは意を決した。

 

 ドアノブを捻ると同時に腕に力を込め、注文通り勢いよく扉を開き――

 

 直後に、舞い落ちる紙吹雪を目にした。

 

「は……?」

 

 全員の目が点になる。

 

 セイウンスカイが扉を開けた瞬間、くす玉が割れたのだ。

 

 大きな金色のくす玉が、何故か理事長室の天井からぶら下がっていて、扉が開くと同時にそれが二つに割れていた。

 

 そして中に詰まっていた紙吹雪が盛大に舞い落ち、一枚の長い紙が垂れ下がる。

 

 紙には毛筆で「合格!」と書かれていた。

 

「パンパカパーン! おっめでとーっ!」

 

 くす玉の真下――部屋の奥に置かれた執務机の前に、不審者が一人。

 

 理事長とは明らかに違う、黒いスーツを着た金髪のサラブレッドが、満面の笑みを浮かべながら両手を広げていた。

 

 驚く五人を置き去りにして、謎の女は絶叫する。

 

「合格! 合格! 超合格よあなた達! もうめっちゃ合格! これ以上ないくらい合格! 実は色々失格だけど細かいことには目を瞑って合格よ! とにかく合格しまくったのよあなた達は! おめでとーっ!」

 

 この時、五人の心の声は見事に一致した。

 

 ――何? ……っていうか、誰?

 

 急な呼び出しを訝みつつも理事長室に来てみれば、見知らぬ女が一人で勝手に大騒ぎしている。全く意味が分からない。

 

 どう対処したらいいかも分からないので呆けた顔を並べていると、金髪の女は急にぴたりと動きを止め、不満そうに眉根を寄せた。

 

「……何よもー。ぶっちゃけちょっと恥ずかしいのを我慢して盛大に祝ってあげてるのに、その反応の薄さは? ノリを合わせてくれないと私がただの痛いオバサンみたいじゃない」

 

「みたいではなく、それが事実ではないかと」

 

 そう言ったのは、部屋の隅に佇んでいたシンボリルドルフだった。

 

 どういった事情でこの場にいるのか不明だが――本人の心情としてはこの場にいたくないらしく、重い疲労感が滲み出た表情を金髪の女に向けている。

 

 スペシャルウィークが苦笑しながら問いかけた。

 

「あ、あのー……ちょっと、よく分からないんですけど……合格って……?」

 

「合格は合格よ。日本代表を決める選考に合格したってこと」

 

「え?」

 

「ドバイでワールドカップやるのは聞いてるでしょ? そこに代表として送り出すのがあなた達に決定したって話」

 

 五人が、揃って息を呑んだ。

 

 誰もが自分の耳を疑い、次いで目の前にいる女の正気を疑う。

 

 金髪の女の口からさらりと出たのは、それほどまでに信じ難い発言だった。

 

「色んな手続きとかお偉いさんの説得とか、クソめんどくさいことがこれから山ほどあるんだけど……ま、選手のみんなにはどうでもいい話ね。まだ正式じゃないけどとりあえず代表に内定ってことで、思う存分喜んでていいわよ。お嬢ちゃん達」

 

「正式ではないどころか、先生が勝手に決められただけですが……まあ、どうにかしてしまうのでしょうね。先生は」

 

 呆れと諦めが入り混じった声で、シンボリルドルフが言う。

 

 金髪の女に選ばれた五人がワールドカップ日本代表になってしまうことを、止むを得ないこととして受け入れている様子だった。

 

 エルコンドルパサーが遠慮がちに尋ねる。

 

「あのー、会長……そちらの方は……?」

 

「すまん、紹介が遅れたな。この人は私の恩師で、ワールドカップ日本代表の――」

 

「日本代表の監督役に抜擢されたリコよ。見ての通り、あなた達と同じサラブレッド。よろしくね」

 

 教え子の紹介を堂々と遮り、金髪の女は名乗った。

 

「この国の生まれじゃないんだけど、そっちのルナちゃんが小さい頃に指導してあげたりした縁で、この学園とは繋がりが出来ちゃってねー。今回日本代表になる五人もビシバシしごいてくれって、理事長のクリフジ婆さんに頼まれちゃったの。ついでに言うなら、代表の人選も一任されてるわ。で……全校生徒の中から、私の独断と偏見とノリと勢いであなた達五人を選んだってわけよ」

 

「先生の意見を参考にすると理事長は仰いましたが、人選を任せるとまでは…………いえ、いいです。今更何を言っても無駄でしょうから」

 

 シンボリルドルフは溜息をつく。

 

 一方、部屋の入口に立つ五人の顔には、未だ戸惑いが残っていた。

 

 突然日本代表に選ばれたなどと言われても、状況に理解が追いつかない。妙な夢を見ているような気分が、どうしても抜けなかった。

 

 中でも一番戸惑いを――いや、動揺を見せていたのは、グラスワンダーだった。

 

 微かに震える声で、彼女は言う。

 

「……質問……しても……よろしいでしょうか……?」

 

「いいわよ。何でも訊いて」

 

 金髪の女――リコが笑顔で応じると、グラスワンダーはやや躊躇ってから問いを投げた。

 

「……何故、この五人なのですか?」

 

 他の四人の表情が変わる。

 

 グラスワンダーが口にしたそれは、誰もが密かに抱いていた疑問だった。

 

「ルドルフ会長でも、マルゼンスキーさんやブライアンさんでもなく…………どうして、私が……私達五人が、代表に選ばれたのでしょうか……?」

 

「あら? 選んでもらえたのに、嬉しくないの?」

 

「そういうわけじゃ、ありません…………ただ……どうしてなのか、分からなくて……」

 

 グラスワンダーの顔は、死刑を宣告された罪人のように青褪めていた。

 

 それに気付いたエルコンドルパサーは、親友の心情を察して、不安と心配を宿した視線を送る。

 

 つい先程まで、グラスワンダーは諦めていた。

 

 日本代表として世界に行くことも、再び大舞台に立つことも諦めて、自身の中で渦巻く未練や絶望と折り合いをつけようとしていた。

 

 それが、唐突に――降って湧いたように日本代表に選ばれたなどと言われても、そう易々と受け入れられるものではないだろう。

 

 正直に言ってしまえば、エルコンドルパサーにも分からない。

 

 昨日のレースで競走を中止し、指導者から引退勧告までされたグラスワンダーが、何故代表に選ばれることになったのか。

 

 他の面々にしても――失礼なので口には出せないが、これが日本代表と呼ぶにふさわしいベストメンバーとはとても思えない。

 

 上の世代には、もっと優れたサラブレッドがいる。

 

 実績の面でも実力の面でも、遥かに格上と言っていい存在が何人もいる。

 

 だというのに何故、この五人なのか。今目の前にいるリコという名の女は、どういう基準で何を考えて、自分達五人を選んだのか。

 

 それが、不可解でならなかった。

 

「ああ、それね……」

 

 リコは吹き出すように笑い、質問に答えた。

 

「だって、変わらないんだもの。誰を選んでも」

 

「え……?」

 

 予想外の返答に、呆然となるグラスワンダー。

 

 優しげな笑みを悪意の滴る嘲笑に変えて、リコは続けた。

 

「この国のサラブレッドなんて、みんなドングリの背比べ。世界の舞台じゃ通用しない二流三流ばっかり。誰を連れて行ったって結果は大して変わらないでしょうから、私の趣味でテキトーに選んだだけよ」

 

 その発言を境に、場の空気が一変した。

 

 グラスワンダーが、エルコンドルパサーが、スペシャルウィークが、セイウンスカイが、キングヘイローが――日本代表として集められた五人が皆、大きく目を見開き、心臓を剣で突かれたような表情を晒す。

 

 茶番めいた和やかさは消え、酷く張り詰めた空気が室内を包んだ。

 

「思い出作りに行くにしたって、趣味に合わない子と一緒じゃ私もつまらないし? どうせ無様に散るならネタ的な意味で面白い子達を連れてってやろうかなーと思って、あなた達にしたの。それ以外に理由なんてないわ」

 

 リコは目を細め、笑顔のまま皮肉を言う。

 

「よかったわね。仲良し五人組で、ドバイまで修学旅行に行けて」

 

 それが引き金となり、張り詰めていた場の空気が、爆発した。

 

「な――何よその言い草っ!」

 

 火を吐くように怒声を放ったのは、キングヘイローだった。

 

 リコは楽しげに声を弾ませる。

 

「あはっ、怒っちゃった?」

 

「当たり前よ! そんな風に言われて黙ってられるわけないじゃない! 監督だか何だか知らないけど、舐めるのも大概にしなさいよね!」

 

「キ、キング……ちょっと抑えて……」

 

 激昂するキングヘイローをセイウンスカイが宥めようとする。

 

 そんな様子を鼻で笑いながら、リコは腰に手を当てた。

 

「大概にしなさいって言われてもね……みんなのプライドを傷つけないために白々しいリップサービスするなんて、悪いけど柄じゃないし」

 

 挑発的な眼差しを、五人の少女に向ける。

 

「ていうかあなた達、ワールドカップに行って勝てるつもりでいたの? 日本の競馬は世界でもトップレベルだから、真面目に選考やって最強メンバーを送り出せば優勝狙えるとか、まさか本気で思っちゃってたりした? あはは、ないない。優勝なんて逆立ちしても無理。ていうか予選突破も無理でしょ。こんなちっぽけな島国でお山の大将の座を争ってるようなしょぼい連中じゃ、世界の強豪には到底――」

 

「うるさいわね! さっきから何よ、偉そうに!」

 

 怒りが頂点に達したキングヘイローは、セイウンスカイの制止を振りほどき、リコの顔を指差した。

 

「そもそも、あなた何様よ! 私達のこととやかく言えるほど凄いの!? 御大層な実績でもあるわけ!? 悪いけどリコなんて名前、全然聞いたことないんだけど!」

 

 日本国籍でなくとも、現役時代にGⅠをいくつも制した超一流馬であるなら、自然とその名は耳に入ってくる。今はそういう時代だ。

 

 にもかかわらず、キングヘイローが頭に詰め込んでいる情報の中に、リコという名はない。

 

 今まで競馬の世界で生きてきて、そんな名は一度も聞いたことがない。

 

 あえて口には出さなかったが――キングヘイロー以外の四人も、それは同じだった。

 

「あらあら、威勢のいいお嬢ちゃんね」

 

 リコは笑みを深める。

 

「実績ならそれなりにあるんだけど……ま、いいわ。自分がどれだけ凄いかを口で説明するなんて、死ぬほどダサいし」

 

 そう言って首を回し、窓の外に目を向ける。

 

「ちょうど練習場も空いてるみたいだから、勝負しましょうか」

 

「え……?」

 

「だから、勝負よ。こんなところで口喧嘩してないで、勝負して白黒つけましょうって話」

 

 不敵に笑うリコは、当惑するキングヘイローと視線を合わせた。

 

「あなたが勝ったら、土下座でも何でもしてあげる。その代わり私が勝ったら、超有能な名監督の私に以後絶対服従を誓うこと。そういう条件でどうかしら? GⅠ未勝利のキングヘイローちゃん」

 

 神経を逆撫でする言葉を含んだ、露骨な挑発。

 

 それに乗せられたキングヘイローは、小さく息を呑んでから返答した。

 

「い、いいわ。望むところよ」

 

 急遽決まった、二人の勝負。

 

 その成り行きを静観していたシンボリルドルフは、疲れ果てた顔で目を瞑り、深い溜息をついた。

 

 師の思惑と、この先に待っている展開を想像して。

 

「……困った人だな。相変わらず」

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。