ウマ娘 Big Red Story   作:堤明文

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第二十話「新たなる力」

 

 

 グレートブリテン及び北アイルランド連合王国。

 

 グレートブリテン島をはじめとした多くの島々から成り、日本においては「イギリス」や「英国」と呼称される、立憲君主制国家。

 

 言わずと知れた、競馬の母国である。

 

 馬を使った競走は紀元前から世界各地で行われていたと考えられるが、常設の競技用施設を舞台に明確なルールに則って行う競走競技――所謂「近代競馬」は、十六世紀にこの国で誕生した。

 

 当初は貴族社会の遊戯であったものが王室の保護奨励の下で発展を続け、やがて産業の性格を帯びて国外にまで伝播。英国競馬を模倣した競技が各国で施行されるようになり、今日の競馬に繋がる道筋が作られていった。

 

 故に英国競馬とは近代競馬の源流に他ならず、二十一世紀の現在でも競馬界の盟主的地位を保持しており、競馬に関わる者達にとっては憧憬の対象であり続けている。

 

 ミルリーフとブリガディアジェラードは、そんな英国競馬が擁する二大巨頭。

 

 数十年に一人と目されるほどの逸材が同年に二人生まれ、共に傑出した実績を残して国家の威信を背負うにふさわしい名馬となったのは、長い英国競馬の歴史においても前例のないことだった。

 

 

 

 

 

 

「へぇ……こういう設備もあるのね」

 

 急勾配の長い坂道を見上げ、ミルリーフは呟く。

 

 彼女がグラスワンダーに案内されたのは、練習場の一角にある坂路コース。

 

 普段は多くの競走馬が利用するそこは、約一ヶ月前キングヘイローがリコに挑んだ場所でもあった。

 

「この地点からスタートして、先に坂の頂上まで駆け上がった方の勝ち……という条件でお願いしたいのですが、よろしいでしょうか?」

 

「ええ、それは構わないわ。けど……」

 

 提案を了承しつつ、隣に立つグラスワンダーの顔を見る。

 

「本当にいいのかしら? 私との勝負の舞台が、このコースで」

 

「ええ、坂路は得意ですから」

 

 グラスワンダーが冷静に応じると、ミルリーフは吹き出した。

 

 無知な小娘が犯した過ちを、憐れみながら嘲笑うように。

 

「そう……自分が一番得意なコースを選んだってわけね。ふふっ……」

 

 余人が聞けば呆れ返るほどの愚行だろうが、そうした愚かさがミルリーフは嫌いではなかった。

 

 人生を楽しむのが彼女の基本方針であり、一口に「楽しむ」と言っても方法は色々とある。

 

 強敵との白熱した戦いは勿論好きだが、それと同じくらい、勘違いした愚か者を蹂躙するのも好きなのだ。

 

 自信に満ちていた顔が絶望に染まる様を見ると、最高に笑えるから。

 

「そちらこそ、いいんですか?」

 

「ん?」

 

「その格好のままで」

 

 覗き込むような視線を白いドレスに注ぎ、グラスワンダーは問う。

 

 ミルリーフの湛える笑みが、僅かに変質した。

 

「別に問題ないわ。ちょっと坂を上るくらいなら、大して汗もかかないでしょうしね」

 

 問いの真意を悟りながらも、あえてとぼけた答えを返す。

 

 次いで一度周囲を見回し、自分達二人の勝負を見届けようとする者が幾人も現れ始めたのを確認してから、楽しげに続けた。

 

「さて……ギャラリーも集まってきたことだし、そろそろ始めましょうか」

 

「ええ」

 

≪怪物≫グラスワンダーと英国最強馬ミルリーフのマッチレースは、こうして始まった。

 

 

 

 

 

 

 坂路コースに併設されたスタンド。

 

 エアジハードはそこで、壁際に備え付けられたモニターの一つを見ていた。

 

「よりにもよって、坂路でミルリーフに挑むとは……」

 

 画面に映る栗毛の少女に視線を注ぎ、苦い顔で呟く。

 

「正気か……? グラス……」

 

 坂路をマッチレースの舞台にするというグラスワンダーの選択が、正気の沙汰とは思えなかった。

 

 芝やダートのコースで戦うなら分かる。相手の格を考えれば分の悪い勝負だが、それでもいくらかは勝ち目があるかもしれない。

 

 だが、坂路だけは駄目だ。あのコースで戦えば、万に一つも勝機はない。

 

 何故なら、ミルリーフは――

 

「うおっ、マジでやんのかよ」

 

「そのようだな。あそこにいるのがミルリーフか」

 

 背後から聞こえた声が、思考を断ち切る。

 

 振り返った先にいたのは、チーム・リギル所属のヒシアマゾンとナリタブライアン。その後ろからも続々と見知った顔の生徒達が現れ、モニターに映る二人の姿を見て驚きの声を上げていた。

 

 どうやら、グラスワンダーがミルリーフと対決するという話を聞きつけ、観戦に来たらしい。

 

 さほど広くないスタンド内は、あっという間に野次馬で一杯になった。

 

「あの縦ロールがイギリスから来たってやつ? よく知らねーけど、スゲーやつなのか?」

 

「知らないのはお前くらいだ。競馬の世界にいる者なら誰もが知っている。そういうレベルの名馬だ」

 

 ヒシアマゾンの暢気な問いに、ナリタブライアンが真剣な顔で答える。

 

「ダービーステークス、キングジョージ、凱旋門賞。いくらお前でも、それらの名前くらいは知っているだろう? 欧州競馬の最高峰に位置し、どれか一つでも勝てれば歴史に名を残せるような三つの大レースを……史上初めて三つとも制覇した競走馬が、あのミルリーフだ」

 

「あー……何かそれ知ってる。確かアレだろ? 欧州三冠ってやつ」

 

「それは日本人が勝手にそう呼んでいるだけのものだ。向こうの競馬にそういう概念はない。だが――」

 

 知識の誤りを指摘しつつ、ナリタブライアンはモニターの向こうにいる英国最強馬に畏敬の眼差しを送る。

 

「下手な三冠馬などより遥かに格上の存在だ。……酷な言い方になるが、グラスワンダーが敵うような相手じゃない」

 

 非情な断言だったが、それは誰にも否定しようがない事実であった。

 

 二人の会話を聞いていたエアジハードも、心の中で思わずにはいられなかった。

 

 この絶望的な勝負を、グラスワンダーはどう乗り切るつもりなのか――と。

 

 

 

 

 

 

 近くにいた見物人の一人を呼び、開始の合図を任せた。

 

 発声による合図とともに二人が走り出し、全長約千メートルの坂路を舞台にしたマッチレースが開始される。

 

 序盤は互いに様子見。無理せず行き脚を抑えた二人は、横並びのまま坂を駆け上がる形になる――と見物人の多くが予想していたが、実際は違った。

 

 横並びだったのはスタート直後の一瞬だけ。すぐに片方が前に出て、二人は縦に並ぶ形になる。

 

 先行したのはグラスワンダー。

 

 絶好のスタートを決めた流れに乗って持ち前の脚力を発揮し、急勾配の走路をものともせず驀進。ミルリーフとの差を瞬く間に広げていく。

 

 後方に控える「差し」の競馬を基本戦術とする彼女にしては珍しい、積極果敢な先行策だった。

 

「グラスが行った!?」

 

「いきなり!? 何で……!?」

 

「凄い脚だが……あのまま逃げ切る気か……!?」

 

 予想外の展開を目にした見物人達が、口々に声を上げる。

 

 スタンド内のナリタブライアンとヒシアマゾンも少なからず驚いていたが、その意見は比較的冷静だった。

 

「普段とは違う戦法に出たか……さて、吉と出るか凶と出るか」

 

「いいんじゃね? 距離短えし急なコーナーもねえんだしさ。それに、坂路はあいつの庭みたいなもんだろ?」

 

「確かに、な……」

 

 同じ走るという行為でも、平坦な直線を駆け抜けるのと急坂を駆け上がるのとでは、求められる能力が大きく違う。

 

 急坂を踏破する上で最重要な能力は、軽快なスピードではなく重厚なパワー。地球の重力に抗いながら進み続ける足腰の力だ。

 

 その点のみに限った話なら、グラスワンダーの右に出る者は日本国内にいない。

 

 並外れた剛力こそ競走馬グラスワンダーが持つ最大の長所であり、≪怪物≫たる所以そのもの。力の優劣が勝敗に直結する坂路において、彼女は紛れもなく最強の競走馬だった。

 

 そう――

 

 日本馬同士の戦いであったならば。

 

「ふっ……くくっ……ふふふふふ……」

 

 ミルリーフは笑う。

 

 開始早々相手に先を行かれ、今も急速に差を広げられている状況にありながら、可笑しそうに嗤笑する。

 

 水を得た魚のように走る対戦相手を、酷く滑稽な道化と見なして。

 

「流石に、坂路が得意って言うだけはあるわね……ええ本当に、力強くていい走りよ」

 

 揶揄や皮肉ではない。

 

 彼女はこの時、グラスワンダーが見せた剛脚に感心し、その実力を認めていた。

 

「努力も相当積んだのでしょうけれど……ここでそれだけ走れるのは才能ね。≪怪物≫の異名は伊達じゃない。日本に居させておくのが勿体ないくらいだわ」

 

 確かに認めていた。

 

 嘘偽りなく本心から褒めており、評価していた。

 

 虫ケラにしては上等な部類だと。

 

「でも残念。私も大得意なのよ、坂を駆け上がるのは」

 

 残酷に告げた直後、その疾走は急激な変貌を遂げた。

 

 天賦の才を長年の鍛錬で研ぎ上げ、一種の兵器と化した肉体――そこに宿る力の一部が解き放たれ、四肢の回転数がそれまでとは別次元の域へと跳ね上がる。

 

 グラスワンダーの脚とは比較にならない、真正の剛脚が生む爆発的加速。

 

 大地を蹂躙しながら驀進する、絶大なる暴威の顕現。

 

 筆舌に尽くし難い理外の伸び脚は、先行していた対戦相手を刹那の内に捉え、いとも容易く抜き去った。のみならずさらなる加速を続け、格の違いを見せつけるかのように彼我の距離を広げていく。

 

 僅か数秒で、両者の位置は完全に入れ替わる形となった。

 

「選択を間違えたわね。平坦なコースでの競走なら、もう少し競った勝負になったかもしれないのに」

 

 後ろを振り向きながら、ミルリーフはそう言い放った。

 

 

 

 

 

 

「う……嘘だろ……何だよあれ……!?」

 

 悪夢の如き強さを目にして、ヒシアマゾンは驚愕の声を上げた。

 

「加速してやがるぞ! 上り坂で……!」

 

 急坂を駆け上がりながら、平地を駆け抜ける時と同等以上の速度を出す――そのようなことは物理的に不可能だ。

 

 どれだけ脚力に優れた競走馬でも、急坂では平地より速度を落とすのが必定。坂の巧者とは減速の幅が通常より小さい者を指す言葉に過ぎず、坂で加速が出来る者という意味ではない。

 

 しかし今、彼女達が視線を集めるモニターの向こうでは、その常識が覆されていた。

 

 後ろを振り向く余裕さえ見せ、嬉々として加速し続けるミルリーフ。

 

 急坂が生む負荷を歯牙にもかけないその姿は、実際とは逆に、重力を味方につけて坂を駆け下っているかのようだ。

 

「……当たり前だ」

 

 奥歯を噛み締め、エアジハードは言う。

 

 世界屈指の名馬への畏怖を、硬い声音に滲ませながら。

 

「平地競走では世界一過酷なコースと言われる、イギリスのエプソムダウンズ競馬場……そこで行われたダービーの覇者だぞ、あのミルリーフは」

 

 日本の競馬場の人工的なコースと違い、イギリスの競馬場の多くは自然の地形を利用したコースを持っている。

 

 そのためコース内の起伏が激しいという特徴があり、生半可な体力では無事に完走することさえままならない。

 

 首都ロンドンの南方に位置し、同国のダービーの舞台となるエプソムダウンズ競馬場は、その最たる例だろう。

 

 日本で最も高低差のある中山競馬場の芝コースが、高低差約五メートル。

 

 対してエプソムダウンズ競馬場のコースは、高低差約四十二メートル。

 

 これはオフィスビルの十数階分に相当する差であり、競馬場のコースとしては世界最大の数値。

 

 時計で比較した場合、距離が同じにもかかわらず日英のダービーでは平均走破時計が約十秒違う点からも、いかに過酷な舞台であるかが窺い知れる。

 

 そこで無類の強さを誇った絶対王者が、今グラスワンダーと対戦している巻き毛の女だ。

 

「私達とは鍛え方が根本的に違う。坂に強いイギリス馬の中でも、奴は別格中の別格なんだ」

 

 幼少時から英才教育を受け、世界一過酷な競馬場に適応した身体を作り上げてきたのだろう。

 

 筋肉の質も身体の使い方も、日本の競走馬のそれとは全くの別物だ。

 

 グラスワンダーも並外れた剛力の持ち主だが、ミルリーフはその遥か上をいく。

 

 言うなれば、完全なる上位互換。

 

 同種の競走馬であるが故に、共に走れば誤魔化しようがないほど優劣が浮き彫りになる。筋力が物を言う勝負でグラスワンダーがミルリーフに勝てる道理はない。

 

(君だって、そんなことは分かっていただろう……? なのに何故、こんな無茶な勝負を挑んだ……?)

 

 モニターに映るグラスワンダーの姿を見つめ、内心で問う。

 

 既に五馬身以上の差をつけられていながら、その走りはどこか惰性的だった。

 

 ミルリーフへの対抗心を燃やしている気配が感じられず、これ以上差を広げられまいと足掻いているようにも見えない。

 

 それなりの速度を維持してはいるものの、ただそれだけの気迫に欠けた走りだった。

 

 想像以上の実力差を思い知らされ、戦意を失ってしまったのか。

 

 それとも――

 

 

 

 

 

 

「もうすぐ頂上に着いちゃうけど、いいのかしら?」

 

 残り三百メートルほどの地点で、ミルリーフはそう言った。

 

 彼女の圧倒的優位は変わっておらず、既に対戦相手との差は七馬身ほどにまで広がっていた。

 

「聞いてるわよ。日本の≪怪物≫グラスワンダーは、他に類を見ない特別な走りをする競走馬だって」

 

 遥か後方を淡々と追走するグラスワンダー。

 

 未だ通常の走りを続けているその両脚に、英国最強馬は粘り着くような視線を投げかける。

 

「使ってみなさいよ、それを」

 

 放たれる、挑発の言葉。

 

 未知の走法への興味を抱きながらも、己の勝利は微塵も疑わず、切り札の使用を相手に促す。

 

 相手の全力を真っ向から叩き潰し、完全なる勝利を収めるために。

 

「もうそれしか手はないでしょう? このまま千切られて負けるのをよしとするタマなんかじゃないでしょう? さっさと切り札を使って、この私に肉薄してみせなさいよ! さあ!」

 

 熱く昂った声が、遥か前方から浴びせられる。ゴール地点である坂の頂上が、一秒ごとに近付いてくる。

 

 そんな状況にあっても、グラスワンダーは冷静だった。

 

 彼女の内面に焦りや動揺はなく、このままでは敗北必至だという危機感さえもなかった。

 

 相手の声を雑音として聞き流し、残りの距離と自身の体力を冷静に測りながら、ラストスパートをかけるべき瞬間を待ち続けていた。

 

 この時彼女の青い瞳に映っていたのは、先を行くミルリーフの背中ではない。

 

 さらに先を行く者。

 

 彼女にだけ見える、赤い幻影。

 

 いつの日か追い抜かねばならない、無二の親友の背中だった。

 

 

 

 

 

 

 十九日前。

 

 新たな一歩を踏み出すきっかけとなった、あの雨の日。

 

 互いに本音をぶつけ合った後、グラスワンダーとエルコンドルパサーの二人は橋の下で雨宿りをしていた。

 

「一つ、気になることがあるのですが」

 

「あう?」

 

「何で私さっき、あんな豪快な背負い投げをきめられたんでしょう?」

 

「……」

 

「思い返しても意味が分からないというか、投げる必要がどこにあったのかと疑問なのですが」

 

「…………まあ、ノリで……」

 

「正直かなり効いてるんですけど? まだ背中痛いんですけど?」

 

「いやー……ハハ……ついカッとなってぶん投げちゃったというか、あそこで一発ぶちかませと競馬の神様がワタシに囁きかけてる気がして……」

 

「随分と無駄に武闘派なんですね、エルの脳内の神様は。……おかげで、色々と吹っ切れられましたけど」

 

 呆れと妙な納得が入り交じった溜息をつき、グラスワンダーはエルコンドルパサーの右手に視線を落とす。

 

 小さな銀色のカップが、その手に握られていた。

 

「じゃあ、エル……それを……」

 

 親友が守り抜いてくれた大切な物を受け取るため、やや遠慮がちに手を伸ばした。

 

 しかし――

 

「……え?」

 

 くるり、と身を翻され、伸ばした手は何も掴めずに終わる。

 

 快くカップを手渡してもらえるとばかり思っていたグラスワンダーは、謎の回避行動に面食らった。

 

「あの……カップを……」

 

 立ち位置を変えてもう一度手を伸ばすが、またもや背中を向けられてしまう。

 

 そればかりか、赤ん坊を抱くように両手でがっちりとカップを抑えられ、絶対に渡さないという意思表示をされる有様だった。

 

 意味が分からなかった。

 

 この期に及んで何をトチ狂っているのか、この赤マスクは。

 

「ちょっと、エル……」

 

「駄目デス」

 

「は?」

 

「今のグラスにこれを受け取る資格はないデース。だから返してあげません」

 

「資格って……」

 

 困惑を深めるグラスワンダーに、エルコンドルパサーは棘のある視線を向けた。

 

「だってグラスったら、ついさっきまでこんなのいらないんだ壊すんだーって喚き散らしてたんデスよ? そんなヘタレ全開のバカチンにこれを受け取る資格、あると思います?」

 

「うっ……」

 

 痛いところを突かれた。

 

 大切な物だったカップをつい先程叩き壊そうとしたのは、紛れもない事実だったからだ。

 

「このカップちゃんだって、グラスみたいな愛情ゼロのクソ駄馬より心優しい天使なワタシに持っててもらいたいって言ってますよー。ネー?」

 

「た、確かにそうかもしれませんけど……じゃあ、私はどうすれば……」

 

「えー? そんなの決まってるじゃないデスかぁ」

 

 エルコンドルパサーの表情が、とっておきの悪戯を披露する時のそれに変わる。

 

「返してもらえないなら、力ずくでぶんどっちゃえばいいんデスよ」

 

「え?」

 

「だーかーらーっ、ワタシと勝負して勝てたら返してあげるって言ってるんデスよ。鈍いデスネー、グラスは」

 

 一瞬目を丸くしたグラスワンダーは、相手の真意を悟って息を呑んだ。

 

 競走馬が「勝負」と口にすれば、意味するところは一つしかない。

 

「エル……」

 

「これから最強の≪ビッグレッド≫を目指してくってのに、ワタシを華麗にスルーなんてのは無しデスよ? ていうかラスボス的ポジションに居座るつもりなんで、きっちり相手してくれなきゃ困ります」

 

 楽しそうに言ってから、エルコンドルパサーは穏やかに笑う。

 

 そして少しだけ真剣な眼差しを覗かせ、大切な物を預かったまま続けた。

 

「だから、約束して。いつかあの日のレースの続きをしてくれるって」

 

 二月の末、学園の練習場で行った模擬レース。

 

 ゴール寸前での競走中止により、明確な決着がつかずに終わった勝負。

 

 そのやり直しを、エルコンドルパサーは求めていた。

 

≪怪物≫グラスワンダーの強さを誰よりも知っているから、あの勝負を曖昧な形で終わらせたくないと願ったのだ。

 

「……ええ、そうですね。続きをやりましょう。いつか、また」

 

 かけがえのない好敵手の想いを汲み取り、グラスワンダーは笑顔で頷く。

 

 降りしきる雨の中、小さな銀色のカップは淡く輝いて見えた。

 

「必ず取り返してみせますから、その日まで預かっていて下さい。私の大切な……勝利の証を」

 

 

 

 

 

 

 刹那の追憶を終え、意識を現実に戻す。

 

 夢想の中にある赤い幻影から、ミルリーフの背中へと視線を移す。

 

「私には、大切な物があります」

 

 銀色のカップの輝きと重みを思い浮かべ、口を開く。

 

「あなたが手にしてきた栄冠に比べれば、取るに足らないくらいちっぽけな物……けれど私にとっては、他の何よりも大切な物なんです」

 

 生まれて初めて、自分自身の力で掴み取った栄冠。

 

 薔薇のレイにも負けない光を宿すと信じる、小さな銀色の優勝カップ。

 

 自分自身に誇れる勝利の証だったそれが、今は手元にない。

 

「それを私から取り上げた人は、本当に意地が悪くて、返してほしかったら自分に勝ってみせろなんて言うんですよ……負ける気なんか欠片もない顔で、楽しそうに笑いながら」

 

 頬を緩め、束の間だけ穏やかな目になる。

 

 親友の子供じみたやり方に苦笑し、それが物語る無垢な想いに感謝して。

 

「私はその人に勝たないといけない。いつの日か全てをぶつけて打ち破り、約束を果たさないといけないんです」

 

 遠くない未来、もう一度戦う。

 

 己の全てを懸けて挑み、必ず勝つ。

 

 伝説の最強馬――≪ビッグレッド≫の名を継ぐに足る強さを示し、何より大切な物をこの手に取り戻す。

 

 それが、競走馬グラスワンダーが走り続ける最大の理由。

 

「だから……」

 

 笑みを消す。

 

 噴火寸前の火口の如き闘志を、双眸に灯す。

 

 前方にいる世界屈指の名馬を鋭く見据え、慢心を咎めるつもりで言い放つ。

 

「負けてられないんですよ。こんなところで、あなた程度の相手に」

 

 ゴールまで、残り約二百メートル。勝負の最終盤にさしかかったその場所で、異端の競走馬は自らの力を解き放った。

 

 脚を、高く振り上げる。

 

 競馬の常識を逸脱するほど、異様に高く。

 

 空の頂を蹴り上げるかのように、限界まで高く。

 

 そして、意地と誇りと誓いと信念と、夢見た未来に向かう意思を込め、その脚を大地に振り下ろした瞬間。

 

 雷鳴に等しい轟音が、学園中に響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 時刻は、数分前に遡る。

 

 グラスワンダー達の勝負が開始されるより少し前、練習場の芝コースではもう一つの勝負が行われていた。

 

 エルコンドルパサーとブリガディアジェラード。

 

 日本の怪鳥と大英帝国の軍神――日英両国が誇る最強馬同士のマッチレースである。

 

 勝負の舞台は、左回りの芝千六百メートル。好きなコースと距離を選べと言われた後、エルコンドルパサーが迷うことなく選んだのがそれだった。

 

 既にスタートは切られ、二人は横並びの形で長いバックストレッチを進んでいる。

 

 序盤から剛脚の比べ合いが披露されたもう一つの勝負とは対照的に、二人とも平均ペースを維持したまま牽制し合うように淡々と併走する、静かな立ち上がりの勝負だった。

 

 その時点では。

 

「何ていうか……すごくつまんなそうな顔して走ってますネー、ジェラードさん」

 

 自身の外側を走る対戦相手の横顔に、エルコンドルパサーは目を向ける。

 

 現れた時から硬質な無表情を続けているブリガディアジェラードだが、エルコンドルパサーにはそれが、真剣さではなく不機嫌さの表れに思えてならなかった。

 

「ひょっとして、芝がお気に召さない感じデスか? 芝っていってもイギリスのとじゃ全然違いますからネー……アハハハハハ……」

 

 気まずい空気を少しでも紛らわそうと、ぎこちなく笑う。

 

 当然のように反応はなく、より一層気まずさは増すばかり。

 

 何だか知らないが不興を買っているようだと思いつつも、半ばやけくそ気味に喋り続けた。

 

「あー、でも……でもデスよ、ワールドカップの予行練習としては丁度いいと思いません? 確かドバイの芝って日本とヨーロッパの中間みたいな感じなんデスよね? だったら今の内に軽い芝に慣れておくのも――」

 

「下らん」

 

 ブリガディアジェラードは口を開いた。

 

 淡々とした走りを続けたまま、拒絶と侮蔑を露わにする。

 

「まるで遊びに興じているような軽薄さだな。意地も気迫も感じられん。貴様のような間抜け面が代表を任されている時点で、この国の程度が知れる」

 

 彼女は大英帝国の軍神。

 

 近代競馬の母国の威信を背負う、誇り高き競走馬。

 

 極めて厳格な価値観の持ち主であり、強さを求め強者を敬う一方、芯のない軟弱者をゴミと呼び蔑視する。

 

 勝負の最中に相手の顔色を窺うような真似は、彼女が最も嫌うことだった。

 

「多少は骨のある相手なら、まともに勝負してやってもよかったが……貴様は論外だ。ゴミの戯れに付き合うほど私は暇ではない」

 

 バックストレッチの終わり付近で、横並びの形が崩れる。

 

 清流のように穏やかだったレースは、そこから激流へと転じた。

 

「先に行くぞ。ゴミはゴミらしく無様にもがいていろ。間抜け」

 

 宣告と共に、急加速。様子見の走りをやめたブリガディアジェラードは、低空を裂く一発の徹甲弾となり、エルコンドルパサーを置き去りにした。

 

 その勢いのままコーナーに突入。速度を緩めず差を広げながら、巧みなコーナーワークで内埒沿いを突き進んでいく。

 

 走るペースを上げた、という程度の話ではない。

 

 それは、紛れもないスパートだった。

 

 バックストレッチの終わり間際で仕掛けた、あまりにも早すぎる全力の行使。通常なら自殺行為にしかならない悪手であり、軍神の名にそぐわない雑な競馬だ。

 

 されどその暴挙こそが、彼女の意思表示だった。

 

 早仕掛けで結構。ゴミを相手に駆け引きをする必要はなく、真剣に戦ってやる価値もない。隣にいられるだけで不快なので、さっさと突き放して身の程を思い知らせる。二度と視界に入れる気はない。

 

 烈風を纏って駆ける後ろ姿は、そんな意思を冷酷に物語っていた。

 

「間抜けって……ハハ……言い方キツいデスネー、ジェラードさん……」

 

 俯き加減になりながら、エルコンドルパサーは苦笑する。

 

 笑うしかない気分だった。

 

「何でかそれ言われちゃうんですよネー、ワタシって……いつも超真面目に頑張ってるのに、間抜け間抜けって……」

 

 一人の女の顔を思い出す。

 

 人々から理想の競走馬と讃えられながら、その名誉を捨て去る道を選んだ女。

 

 競馬の世界に踏み入る前は、遥か先に立つ目標だった存在。

 

 あの女にも、同じ言葉で何度も罵られた。

 

「最近みんな当たりがキツめっていうか、ワタシの対戦相手ってちょっと態度がアレな人ばっかじゃありません? わりとガチめのイジメっぽくて泣いちゃいそうになりますよネー……ハハハハハ……」

 

 苦笑が途切れる。

 

 俯き加減だった顔を上げ、前を見る。

 

 孤高の在り方を貫くかのように独走する英国最強馬の背中を、視線で射抜く。

 

 静かな怒りと、燃え立つ闘志を込めて。

 

「――舐めるな」

 

 瞬時に戦闘態勢へと移り、反撃を開始。

 

 熾烈な特訓を経て進化した肉体を駆動させ、力強く地を蹴り猛追。

 

 弾雨の激しさと狙撃の正確さを併せ持つ、極限の域まで磨き抜いたピッチ走法でコーナーを回り、急激に差を詰める。

 

 ブリガディアジェラードがそれに気付き、反射的に振り向いた時、既にエルコンドルパサーは手を伸ばせば触れられるほどの距離にまで迫っていた。

 

 そして、二人が再び並んだ瞬間――

 

「邪魔」

 

「――っ」

 

 肩と肩がぶつかった。

 

 不意の衝撃に体勢を崩され、ブリガディアジェラードは進路を外埒側に逸らす。

 

 その間にもエルコンドルパサーは驚異的な加速を続け、今度は逆にブリガディアジェラードを置き去りにした。

 

 差が四馬身ほどに広がったところで後方を確認し、皮肉な笑みを浮かべる。

 

「あれー? ちょっと接触しただけでそんなによろめいちゃうなんて、思ったよりヤワなんデスネー。≪ザ・ブリガディア≫さん」

 

 全く笑っていない二つの目が、凍えた光を放つ。

 

「それとも今やってるこれを、遊びか何かだと勘違いしてました?」

 

 先の侮辱に対する、痛烈な意趣返し。

 

 遥か格上の相手を堂々と挑発してのけたエルコンドルパサーは、視線を前方に戻して告げた。

 

「だとしたら、そんな覚悟の足りない人に用はないんで……先に行かせてもらいますよ!」

 

 猛々しく気炎を吐き、コーナーを抜けてホームストレッチに突入。

 

 走法をピッチからストライドに変換し、長い直線を切り裂くように駆けていく。

 

 逆転を許した格好のブリガディアジェラードは、崩れていた体勢を立て直しつつ、エルコンドルパサーの後ろ姿を見据える。

 

 その表情は、奇妙なほど落ち着いていた。

 

 妨害じみた真似をされたことに対する怒りはなく、むしろどこか納得した様子で、自身に喧嘩を売った相手に興味深げな視線を注いでいた。

 

 既に理解していたのだ。

 

 今しがたの蛮行の意味と、それが物語る相手の精神性を。

 

「なるほど、な……」

 

 追い抜きざまに肩をぶつけてきたのは、意図的なものと見て間違いない。

 

 こちらの走行妨害を目的とした、反則紛いのラフプレイ――だが、明確な反則とは一線を画している。

 

 競馬のレースにおいて身体の接触は少なからず生じることであり、よほど悪質でなければ不問とされる場合も多い。

 

 客観的な視点では先の行為が故意か否かは判別困難なため、おそらく審議にはなっても降着処分にまでは至らないだろう。

 

 そうした一線を見極めた上で、エルコンドルパサーは仕掛けたのだ。

 

 遊びではないのだから、お行儀の良い駆けっこをするつもりなど毛頭ない。

 

 正攻法から危険を承知の蛮行まで、あらゆる手を使って勝ちを獲りにいく。

 

 元より真剣勝負とはそういうもの。脚の速さを比べ合うことだけが競馬ではない。

 

 単純な走力だけではなく、身に付けた技術、戦術、知性、経験を総動員して勝利を目指すのが競馬であり、綺麗事をかなぐり捨てて死力を尽くすのがレースだ。卑劣な小細工などという寝惚けた非難は言わせない。

 

 ゴールに向かって真っ直ぐに駆ける姿は、そんな競走馬としての信念を示していた。

 

 ブリガディアジェラードの両眼が鋭く尖り、殺気を帯びる。

 

 今戦っている相手が取るに足らないゴミではなく、全力をもって叩き潰さねばならない難敵だと認識して。

 

「――面白い」

 

 

 

 

 

 

 坂路コースでの勝負は、多くの者の予想を裏切る形で終わっていた。

 

「な……」

 

 モニター越しに見える決着の光景が信じられず、エアジハードは呟く。

 

 その声は、微かに震えていた。

 

「現実……か……? これは……」

 

 細かな違いはあれど、スタンド内にいた誰もが似たようなことを口にし、動揺を露わにしていた。

 

 無理もないだろう。

 

 先にゴールに到達したのは、≪怪物≫グラスワンダー。

 

 日本競馬界の異端者が英国最強の王者ミルリーフを破るという番狂わせが、坂路の頂上地点で演じられたばかりだったのだ。

 

 当事者であるミルリーフ自身も、その結果をまだ受け入れられずにいた。

 

 彼女はゴールと定めていた場所の数十メートル手前で立ち尽くし、呆然とした顔を晒していた。

 

 勝負の最中に故障したわけでも、体力が尽きて進めなくなったわけでもない。

 

 ゴールまで走り切ることさえ忘れてしまうほど、ゴール寸前でグラスワンダーに差し返された事実が衝撃的だったからだ。

 

 誇張ではなく本当に、彼女はこの時、何も考えられない状態に陥っていた。

 

 一言も喋らず微動だにせず、大きく見開いた目で坂の頂上に立つ勝者の背中を凝視するばかりだった。

 

 そんな凍りついた時間を解いたのは、激しい地響き。

 

 栗毛の少女が突如として行った、誰にも理解出来ない蛮行だった。

 

「――っ」

 

 ミルリーフは顔を強張らせ、息を呑む。

 

 僅かにだが思考を再開した頭で彼女は現状を認識して、敗北を喫した時とは別種の混乱を覚えた。

 

 グラスワンダーの右脚の下にある地面が、数秒前とは形を変えている。

 

 クレーターのように陥没し、土砂を派手に四散させている。

 

 あの右脚が、地面を踏んだせいだ。

 

 いや、踏んだというより、靴裏を叩きつけたというべきか。

 

 レース中と同様、異様に高く振り上げた脚を地面に向かって振り下ろし、全身全霊の力を地面に炸裂させたのだ。

 

 それだけでも不可解だったが、さらに不可解だったのは声だ。

 

 耳に届く、グラスワンダーの声。

 

 荒い息遣いを伴う、言葉の体をなさない呻き声。

 

 背を向けていたため表情は見て取れなかったが、殺伐とした感情が滲むその声は、レースの勝者が零すものとは思えなかった。

 

 激怒している。明らかに。

 

 何かがどうしようもないほど気に食わず、湧き上がる怒りを野蛮な方法で発散している。

 

 誰もが瞠目するほどの脚を繰り出し、勝負に完勝しておきながら、いったい何が気に食わないというのか。

 

「グラスちゃん」

 

 リコがその場に現れる。

 

 彼女はグラスワンダーに歩み寄りつつ、真剣な顔で注意した。

 

「納得いかない気持ちは分かるけど、そういうのはやめなさい。脚を痛めるわよ」

 

「……すみません」

 

 小声で応じたグラスワンダーは、一度深呼吸してからリコの方を向く。

 

「少し……感情を抑えられませんでした……あまりにも、酷い走りをしてしまったもので……」

 

「そんなに酷くはなかったわよ。そりゃまだまだ修正は必要だけどね。初めてにしては及第点の出来だったから、自信持ちなさいってば」

 

「……はい」

 

 二人のやりとりを聞き、ミルリーフはようやく気付く。

 

 今しがたの蛮行の意味と、激怒の理由を。

 

 要は、満足出来なかったということなのだろう。

 

 確かに勝負には勝ったが、それは彼女が目指していた勝ち方ではなかった。もっと強烈な脚を繰り出し、もっと差をつけて勝つつもりだったから、勝っても満足出来なかった。

 

 それどころか自分の未熟さに憤り、勝負に惨敗した後のように反省している始末。

 

 今まで様々な相手と対戦してきたが、こんな相手は初めて見た。

 

「……ああ、そう……もしかして……坂路が得意って、そういうこと……?」

 

 勝負を始める前のやりとりを思い出す。

 

 あの時、グラスワンダーは坂路コースを舞台に選んだ理由を、「坂路は得意ですから」と言っていた。

 

 自身の得意条件だから選んだという意味だと解釈していたが――違う。

 

 あの少女は、こちらが坂路を何よりも得意としていることを知っていたから、あえて坂路での勝負を求めたのだ。

 

 相手の土俵で完勝し、自身の力を見せつけるために。

 

「最初から……勝つ気でいたのね。この私に」

 

 英国最強馬の胸を借りるなどという謙虚な気持ちは微塵もなく、最初から本気で打ち倒すつもりでいた。

 

 自身が高みに登るための踏み台にするつもりでいたのだ。

 

 今目の前にいる、あらゆる意味で常識外れの≪怪物≫は。

 

「ええ、分かるわ……負けるつもりで勝負する奴なんていないものね。やる以上勝つ気でいるのは当然。別に非難するようなことじゃないし、傲慢とも言えない。それは分かるわ……ええ、すごくよく分かる」

 

 長い独り言を呟いてから、顔を上げる。

 

 数十メートル先に立つ栗毛の少女を、鋭い眼差しで睨む。

 

「でも、正直――ムカつくわね」

 

 手のひらで踊らされていたことは受け入れ難く、こちらを勝って当然の相手と見下していたことは許し難い。

 

 勝った後はこちらを見ようともせず、勝ち方に納得がいかないなどという戯けた理由で苛立っていることは、どうあっても看過出来ない。

 

 それが、肚の底から湧き上がる正直な気持ちだった。

 

 故に彼女は前へと踏み出し、グラスワンダーとの距離を詰める。

 

「おめでとう。あなたの勝ちよ、グラスワンダー」

 

 その顔に最早、普段の柔和な微笑みはない。

 

 確固たる矜持を胸に抱く、勝負の世界に生きる者としての素顔が表れていた。

 

「つまらない言い訳はしないわ。今の勝負はあなたの勝ちで、私の負け。そこはちゃんと認めてあげる。だから……」

 

 右手を持ち上げ、自身の襟元に指をかける。

 

 そしてその剛力をもって、着ていたドレスを一瞬で引き裂いた。

 

「その代わり、もう一度よ」

 

 ドレスがするりと滑り落ち、隠されていた物が露わとなる。

 

 日射しを浴びて銀灰色に輝くそれは、胴体と四肢を鎧のように覆う金属群だった。

 

 黒いベルトで身体の各所に固定されており、四肢の関節部には太い発条が複数取り付けられている。

 

 装着者の身を守るためではなく、行動を制限するために設計されたと思しき、重厚な板金の集合体。

 

 あまりに異様なその装着物は、成り行きを見守っていた者達の多くに衝撃を与えた。

 

「おい……何の冗談だよ……あれは……」

 

 スタンドにいたヒシアマゾンが、声音に当惑を滲ませる。

 

 隣に立つナリタブライアンは、険しい顔で呟いた。

 

「拘束具……」

 

 ベルトと板金と発条で形作られた特注品。高比重金属の重量と発条の弾性で自由を奪う、拷問器具に近い拘束具。

 

 清楚なドレスの下に潜んでいた物の正体が、それだった。

 

「人生を楽しむのが私の主義だから、休みたい時は休むし遊びたい時は遊ぶ。でもだからといって、鍛錬を疎かにする気は微塵もないわ」

 

 語りつつ、ミルリーフの手は拘束具のベルトを外していく。

 

「これはそのための物。いつどこで何をやっていてもこの身体を鍛え続けられるように作らせた、私専用の拘束具」

 

 次々と落下する銀灰色の板金が、重い音を響かせて地面にめり込む。

 

 その事象が示す通り、通常のトレーニング用品とは重量の桁が違う。

 

 彼女以外の競走馬が装着すれば身動き一つとれなくなり、確実に身体を破壊される、危険極まりない代物だった。

 

「これの重さと締め付けに慣れて、大抵のことは付けたままでもこなせるようになったのがいけなかったのね。つい外さずにレースをするなんて、舐めたことまでしちゃったわ。反省しないとね」

 

 全ての拘束具が外され、不自由を強いられていた身体が自由を取り戻す。

 

「でもこれで、私を縛る物は何もない。正真正銘の全力が出せる」

 

 慢心しながら嬉々として走っていた時とは、既に何もかもが別物だった。

 

 破り捨てたドレスの代わりに英国競馬界の王者にふさわしい威風を纏い、ミルリーフは今一度要求を口にする。

 

「今ここで、もう一度私と勝負しなさい。世界最強の脚がどんなものかを、あなたに教えてあげるから」

 

 二人の視線が重なる。ミルリーフの圧し潰すような闘志を、グラスワンダーは覚悟を決めた面持ちで受け止める。

 

 要求を拒んだところで非難される謂れはなかったが、その選択は彼女の誇りが許さなかった。

 

「望むとこ――」

 

「よせ」

 

 横合いから飛んできた声が、返答を遮る。

 

 声の主は、ブリガディアジェラード。

 

 ミルリーフと共に来日し、模擬戦の相手役を務めるため学園を訪れていた、もう一人の英国最強馬だった。

 

「一度だけの勝負と事前に決めていただろう? 結果に納得がいかないからといって相手に再戦を要求するな。見苦しい」

 

 靴音を鳴らして歩み寄りつつ、厳しい口調で制止の言葉を投げかける。

 

 ミルリーフは眉根を寄せ、苛立ちを露わにした顔を軍服姿の同期に向けた。

 

「何よジェラード、横から口を挟まないでくれな――」

 

 そこで、はっとした。

 

 遥か格下と侮っていたグラスワンダーに、自分は不覚をとった。

 

 ならばもしや、別の場所でエルコンドルパサーと対戦していた彼女も――

 

「ちょっと待って。まさか、あなたも負けたとかいうんじゃ……」

 

「勝った」

 

 素っ気なく、ブリガディアジェラードは即答した。

 

「どこぞの愚か者と一緒にするな。力を出し惜しんだ挙句に足をすくわれるような醜態は晒していない」

 

「……」

 

 辛辣な物言いを苦い顔で聞いたミルリーフだが、すぐに気付いた。

 

 ブリガディアジェラードの呼吸が僅かに乱れており、表情からも疲労の色が見て取れることに。

 

「ジェラード、あなた……」

 

 苛立ちを忘れ、目を疑う。

 

 ブリガディアジェラードとて生身の競走馬だ。レースをすれば少なからず消耗する。

 

 しかしながら鉄の克己心を持つ彼女は、滅多なことではそれを表に出さない。

 

 その冷徹な顔に疲れが滲むのは、強敵との激戦を終えた時だけだ。

 

「本気でやったの……? あのエルコンドルパサーって子と……」

 

 ブリガディアジェラードは即答せず、一瞬だけ沈黙した。

 

 目を瞑り、数分前に芝コースで繰り広げた戦いを思い返しながら、ゆっくりと答えを口にする。

 

「貴様と一緒にされては困るが……」

 

 続く言葉はミルリーフを絶句させるほど、普段の彼女からはかけ離れたものだった。

 

「認識に誤りがあったことは認めよう。ゴミと侮ったまま容易に降せる相手ではなかった」

 

 

 

 

 

 

 壁は厚かった。

 

 一歩も動けないほど消耗したエルコンドルパサーは、芝コースの直線上で仰向けに倒れたまま、そう痛感した。

 

 会心のレースをしたつもりだった。事実、接戦には持ち込めていた。

 

 直線半ばで相手に差し返されたものの、そこから差を広げられることはなく、半馬身から一馬身ほどの差を行き来しながらゴール前まで競り合いを演じた。英国最強馬の本気の走りに食らいつくことは出来ていたのだ。

 

 しかしながら、最後の一押しが足りなかった。僅かな差を詰められないでいる内にゴールがやってきてしまい、自分の負けでレースは終わった。

 

 もっと早い段階でロングスパートを仕掛け、差を広げておくべきだったか。

 

 もしくはスタート直後からハイペースで進み、相手に脚を使わせておくべきだったか。

 

 いやそれとも、ぎりぎりまで脚を溜めてゴール寸前で抜き去る戦法の方が――

 

「やあ、惜しかったね」

 

 頭の中で反省会をしていると、不意に声が聞こえた。

 

 いつの間にかすぐ傍に立っていた女に顔を向け、エルコンドルパサーは苦笑する。

 

「何だ……見てたんですか……」

 

「そりゃ見てたさ。この二週間で君がどれだけ伸びたのか、気になるとこだったからね」

 

 芝の上で大の字になったままの「教え子」に、女は優しげな微笑みを向ける。

 

 その小脇には、大きなスケッチブックが抱えられていた。

 

「まあ、悪くない走りだったと思うよ。少なくとも特訓で学んだことは活かせていたし、相手を苦しめることも出来ていた。もう少し下のランクの相手ならあれで十分だったんだろうけど……まあそこは、流石は英国最強の≪ザ・ブリガディア≫と言うべきかな。表面上は驕っているようでも芯のところは冷静で、隙がない。そう簡単に番狂わせが起こせるような相手じゃなかったね」

 

 女はスケッチブックを開き、その中の一ページに目を落とす。

 

 今しがた描かれたばかりのラフスケッチ――直線で激しく競り合う二人の名馬の姿が、そこにあった。

 

「でも、掴んだだろ? 次やればいけるっていう、確かな手応えを」

 

「……ええ」

 

 荒い呼吸を繰り返しながら、エルコンドルパサーは頷いた。

 

「今日は完敗でしたけど……ワールドカップまで、あと七ヶ月とちょっと……それだけあれば、私はもっと強くなれる……」

 

 苦笑を不敵な笑みに変え、自分を見下ろす女と視線を交える。

 

「必ず、超えてみせますよ。ブリガディアジェラードも、バックパサーも……あなたも」

 

 迷いなく口にした宣言。

 

 先を行く者達を無限の成長力で追い抜き、世界で一番強い競走馬になるという意思表示。

 

 それを受け、スケッチブックを持つ女は笑みを深めた。

 

 二週間だけ稽古をつけた少女が自分の前に立ちはだかる時を、遠足の日を待つ子供のような気分で思い描いて。

 

「楽しみだ」

 

 

 

 

 

 

「どの道、今日のこれは奴らの練習に付き合っただけの話だ。勝ったところで大した意味はない」

 

 そう結論付け、ブリガディアジェラードはミルリーフに告げた。

 

「つまらん模擬戦の勝ち負けにこだわるなど愚の骨頂だ。帰るぞ」

 

 模擬戦はあくまで模擬戦。栄誉や賞金をかけて争う実戦とは違う。

 

 無益な戦いの結果に囚われる必要はなく、当初の予定を変えてまで勝敗を覆す行為に意味はない。

 

 それがブリガディアジェラードの考えだったが、ミルリーフは違った。

 

「……関係ないわ。意味だの意義だの、そんなかったるいこと考えながら私は競走馬やってるわけじゃないし」

 

 忠告を拒み、再びグラスワンダーと視線を交える。

 

「このままだと気分が悪いから、白黒きっちりつけて気分良く帰る。それだけよ」

 

 彼女にとって何より大事なのは、実利の類ではなく自らの誇り。それが傷ついたままでは収まりがつかない。

 

 故に今度こそ本気で走り、自分に勝った気でいる相手に格の違いを思い知らせる。

 

 彼女が再戦に臨む理由は、それで十分だった。

 

 だが――

 

「ミル」

 

 ブリガディアジェラードが、名を呼ぶ。

 

 普段の声とは、少しだけ違う響きの声だった。

 

「あまり無理をするなと、医者に言われているだろう?」

 

 ミルリーフの表情が強張る。大きく見開いた目の奥に、心臓を鷲掴みにされたかのような動揺が走る。

 

 今しがた外した拘束具は、鍛錬のためだけに作られた物ではない。

 

 もう一つの、より切実な理由――不自由を甘受せねばならなくなった事情が、彼女の過去には存在する。

 

「……そう……だったわね……」

 

 どこか寂しげに呟き、小さく溜息をつく。

 

「私としたことが、つい熱くなっちゃってたわ。……駄目ね。せっかく苦労して身体を戻したってのに」

 

 自らの浅慮を反省し、ミルリーフは昂っていた気持ちを鎮めた。

 

 それから何とも言い難い微妙な面持ちになり、やや不満げな視線をブリガディアジェラードに向ける。

 

「けどジェラード、どうせ止めるならもっと早くしてよね。もうドレス破いちゃったじゃない」

 

「知るか、貴様が勝手に破いたんだろう。というより何故破く必要がある? 普通に脱げばいいだけの話だろうが」

 

「そ……そこはほら、見栄えの問題よ! ここでのそのそ服脱いでたらちょっと間抜けっぽいっていうか、格好がつかないじゃない!」

 

「安心しろ。貴様の格好など最初からついていない」

 

 顔を赤くして語気を強めるミルリーフと、面倒臭そうにあしらうブリガディアジェラード。

 

 子供じみた言い合いを繰り広げる二人の姿は、英国競馬界を背負って立つ双璧にはとても見えない有様だった。

 

 そんな状況がしばし続き、妙にだらけた空気がその場を包み始めた頃。

 

 ひとしきり言いたいことを言ったミルリーフは、気分を切り替えてグラスワンダーと向き合った。

 

「グラスワンダー」

 

 名を呼び、真剣に問う。

 

「あなた、距離は十二ハロンもいけるのよね?」

 

「ええ、それより長い距離の勝鞍もありますから」

 

「なら丁度いいわ。今日の続きは、ワールドカップでやりましょう」

 

 そう告げた時の彼女の顔は、対等の相手と認めた者にだけ見せる顔だった。

 

「ワールドカップで行われるレースの条件はまだ発表されていないけれど……きっと予選でも本戦でも、芝の十二ハロン戦はあるでしょうね。多くの国で主要レースの施行条件になっているんだから、ないわけがないわ」

 

 一ハロンは二百メートル。十二ハロンは二千四百メートル。

 

 十二ハロンはダービーや凱旋門賞をはじめとした数々の大レースの施行距離であり、クラシックディスタンスとも呼ばれる競馬の花形だ。

 

 近年では古い価値観となりつつあるものの、芝の十二ハロンで勝ち続けられる者を王道路線の王者と見る向きは未だ根強い。

 

「うちのチームの十二ハロン担当は、この私。予選でも本戦でも、芝の十二ハロン戦なら必ず私が出て、一着をとる」

 

 強い自負を込めて宣言し、栗毛の少女を睨む。

 

「だからあなたもそれに出なさい。今度は本気で、叩き潰してあげるから」

 

 尊大な物言いであり、敵意を剥き出しにした一方的な要求だったが、グラスワンダーにとってそれは不快なものではなかった。

 

 優しげな笑顔の裏で軽く扱われていた時より、ずっと好ましく感じられた。

 

 相手が向けてくる敵意や執着は、自分の走りが確かな爪痕を残した証だったから。

 

「ええ、承知しました。続きはワールドカップでやりましょう」

 

 淡く微笑み、再戦を約束する。

 

「クジ運次第ですけれど、出来れば本戦の方で当たりたいですね」

 

「……そうね。楽しみにしてるわ」

 

 言葉の意味を汲み取り、ミルリーフは憮然とした顔のまま同意する。

 

 そして地面に散らばっていた拘束具を拾い集め、ブリガディアジェラードと肩を並べてその場から去っていった。

 

 二人の背中が見えなくなった後、リコはグラスワンダーに言う。

 

「グラスちゃん、分かってると思うけど……」

 

「ええ」

 

 グラスワンダーは神妙に頷く。

 

「あのまま続けていたら負けていました。今の私の走法では、本気のあの人に勝てません」

 

 ミルリーフが拘束具を付けていることは、最初から見抜いていた。

 

 だから必ず勝つと宣言し、実際に勝った。自らの肉体を抑え込んだ状態のミルリーフになら負ける気は微塵もしなかった。

 

 だが、ハンデなしの本番となれば、話は違う。

 

 先ほどの模擬戦で見せた力など、おそらく全力の半分でさえないだろう。彼女が拘束具を取り外した際に見せた威圧は、それまでとは完全に別物だった。

 

 正直な感想として、強さの底が見えない。

 

「でもそれは、あくまで現時点の話。さらに練習を積んで、動作の精度を上げて、あの人の全力を打ち破れる武器に仕上げてみせます。本番までには」

 

 課題は多い。乗り越えなくてはならない壁、解決しなくてはならない問題が、思いつく限りでも山ほどある。

 

 だが、弱音は吐いていられない。壁を一つ一つ着実に越え、全ての問題と逃げずに向き合い続けなければ、世界の頂点には辿り着けない。

 

 覚悟を決め、前に進んでいくしかないのだ。

 

 たとえそれが、どれほど過酷な道程だったとしても。

 

「うん……まあ、それはそうなんだけれどね……今言いたいのはそれじゃないっていうか……ミルちゃんと熱い約束を交わした後で申し訳ないんだけど、その場のノリと勢いだけで出るレース決めないでほしいなーとか思ったりして……」

 

「そうですね、軽率でした。すみません。十二ハロンのレースには私が出ます」

 

「……あれ? 台詞の前後が繋がってない気がするんだけど、気のせい? 何か今、決定事項を一方的に告げられた気がするんだけど……」

 

「もう約束しましたので、十二ハロンのレースには私が出ます」

 

「いや、うん……向こうもその気だったしすごく熱い約束なのは分かるんだけど……十二ハロンはエルちゃんとスペちゃんも守備範囲だから、グラスちゃんを出すかどうかはその時の状況によるっていうか……ぶっちゃけそれ決める権限は私にある気がするんだけど……」

 

「私が出ます」

 

「うん……何か最近グラスちゃん、話が通じない系の子になってきてない? この先も全部その調子で押し切られそうな気がして、おばさんすごく嫌なんだけど……」

 

 あまり楽しくない未来を想像して、果てしなく微妙な気分になるリコだった。

 

 

 

 

 

 

 スタンド内では、未だどよめきが続いていた。

 

 グラスワンダーがミルリーフを破った事実もさることながら、その決め手となった末脚が、誰の目にも衝撃的なものとして映っていたのだ。

 

「凄え脚だったけど……」

 

 皆の心情を代弁するように、ヒシアマゾンが疑問を零す。

 

「何か……違わなかったか……? いつもの、あいつの走りと……」

 

「確かに違う……が、全くの別物というわけでもなさそうだ」

 

 戦慄が滲む硬い表情で、ナリタブライアンは見解を述べた。

 

「走りの原型を残したまま、より実戦的な形に作り変えたもの……そんな印象を受けた」

 

 傍に立つエアジハードも、口には出さなかったが同意見だった。

 

 レースの最終盤にグラスワンダーが見せたのは、「叩きつける走法」だ。あの脚を異様に高く振り上げる動作は、確かに「叩きつける走法」のそれだった。

 

 だが、そこから先が違った。具体的にどう違うのかは分からなかったが、どこかで何かが決定的に違ったのだ。

 

 そして、それが結果に表れた。

 

 力を制限した状態だったとはいえ、相手は英国最強馬ミルリーフ。従来のままの「叩きつける走法」であったならば到底勝つことは出来なかっただろう。

 

『私なりに色々考えて、決めたんです。一つに絞るって』

 

 休憩中に聞いた言葉が、ふと脳裏をよぎった。

 

 そうだ。確かに言っていた。欲張らずにやることを絞り、たった一つの武器だけを徹底的に磨き上げると、他ならぬグラスワンダー自身が言っていたのだ。

 

 その成果が、あの奇跡のような末脚だというのか。

 

 世界と戦えるほど強大な武器を、彼女は手にしつつあるというのか。

 

「十馬身差で勝つ、か……」

 

 噛み締めるように呟く。

 

 無謀としか思えなかった話が、少しだけ現実味を帯びてきたように感じられた。

 

「本当に、やってのけてしまうのかもしれないな……彼女なら……」

 

 

 

 

 

 

 それから四日後。

 

 グラスワンダーは東条ハナに呼び出され、チーム・リギルの部室を訪れた。

 

「あなたを出走させるレースが決まったわ」

 

 パイプ椅子に腰かけるハナは、グラスワンダーと視線を合わせ、宣戦布告するような声音で告げた。

 

「宝塚記念……うちのチームの代表として、六月末の宝塚記念に出走してもらう。それでいいわね?」

 

 それは、グラスワンダーが昨年制したGⅠレース。

 

 阪神競馬場の芝二千二百メートルを舞台として行われる、春競馬のグランプリ。

 

 自身に不向きなレースへの出走を覚悟していたグラスワンダーにとっては、少々意外な選択だった。

 

「……いいんですか? 宝塚で? 梅雨の時期の阪神二千二百は、私が一番得意な条件ですよ」

 

「でしょうね。けど、簡単に勝てるなんて思わない方がいいわよ」

 

 冷静に応じつつ、ハナは目を細める。

 

 そしてその視線を、部屋の入口に向けた。

 

「もう一人、うちのチームから出走させるから」

 

 扉が開く音を聞き、グラスワンダーは後ろを振り向く。

 

 そこにいたのは、見知った顔の女。

 

 同じチームに所属する仲間であり、偉大な先達であり、これまで多くの言葉を交わしながら多くのことを学んできた相手。

 

 日本競馬が誇る、もう一人の≪怪物≫――マルゼンスキーだった。

 

「六月の宝塚には、私も出る」

 

 普段とは明らかに違う、仇敵を睨むような眼差しを後輩に向け、マルゼンスキーは宣言した。

 

「この意味が分かるわよね? グラス」

 

 問いに、グラスワンダーは答えない。

 

 眉一つ動かさず、全てを在るがまま受け入れたかのような無表情を保ちながら、相手の顔を見返すのみだった。

 

 そんな彼女に、ハナは言う。

 

「あなたが、あくまで世界の頂点を目指す気なら……自分の走りをどこまでも貫きたいと願うなら……宝塚記念でマルゼンスキーを相手に、十馬身差で勝ってみせなさい」

 

 夢物語に等しいほど非現実的な、最大級の無理難題。

 

 平然とそれを口にするハナの表情には、既に慈悲の欠片もなかった。

 

「それが、あなたが自由を勝ち取る条件よ」

 

 

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