あの光景を憶えている。
三年前の冬、≪怪物≫グラスワンダーが朝日杯を制した日。
レースの熱狂が残る中で行われた、夢と希望に満ち溢れた表彰式。
表彰台に立つ栗毛の少女に、勝者の証である銀色のカップが手渡されていた。
それを見守る観衆の多くは、目を輝かせながら手を叩いていた。元々グラスワンダーを応援していた人々は勿論、レース前は他馬の勝利を願っていた人々の中にさえ、心からの拍手を送る者が数多くいた。
それほどまでに、衝撃的なレースだったのだ。
大地を蹴り砕き地響きを鳴らす走りに、多くの者が瞠目した。
地を這う雷光のような桁外れの速さに、多くの者が惹きつけられた。
他馬を置き去りにして突き抜ける鮮烈な強さに、誰もが夢を見ずにはいられなかった。
だからその後に行われた表彰式は、熱気を帯びた祝福の声に包まれていた。レースで得た感動と勝者への称賛、そして未来の展望を語る声が、場内の至る所から上がっていた。
スタンドの一角にいた自分の耳にも、多くの声が届いた。
観衆の中の誰かが言っていた。「怪物だ」と。
それは確かにそうだろう。あの少女はまさしく≪怪物≫だ。デビュー間もないこの時期にあれだけの強さなら、同世代に敵はいまい。純粋な競走能力という面でなら、上の世代を含めても日本で一番かもしれない。そう思えるだけの資質は十分にある。
別の誰かが言っていた。「マルゼンスキーの再来だ」と。
きっと褒め言葉のつもりで言ったのだろう。マルゼンスキーと同じくらい強くて、マルゼンスキーと同じように無敗のまま勝ち続けると信じて、その名を使ったに違いない。
けれど自分には、その言葉が呪いのように感じられた。
マルゼンスキーの再来――そうまさに、あの少女はこの自分の生き写しだ。存在を構成するあらゆる要素が、悲しいほど似通ってしまっている。
だからこそ、あの時確信した。
観衆の多くが幸せそうに語る眩しい夢は、残念ながら現実にならない。
あの少女は自分と同じ。ただ他人より速く走れるだけの、どうしようもない脆さを抱えた欠陥品。
強く激しく輝いた後に消え失せていく、刹那の強者に過ぎないのだから。
部室でのやりとりを終えたマルゼンスキーは、帰宅のため学園の正門に向かっていた。
しかし校舎の前を通り過ぎたところで、その歩みが止まる。
今は一番会いたくない人物――日本代表チームの監督役を務めるリコが、進路上に立っていたからだ。
「思い通りに事が運ばないなら実力行使なんて、マル子ちゃんらしくないわね」
どこか呆れたような表情で、リコは言う。
グラスワンダーとの一戦の件を承知していることは、その様子から明らかだった。
「そんなに目障りなのかしら? 今のグラスちゃんの姿が」
「私は、私のなすべきことをしているだけですよ」
最早取り繕う必要はないと判断し、マルゼンスキーは冷淡に応じる。
「それに今回の場合、いつどこで誰が相手でも十馬身差で勝ってみせると豪語したのはグラス自身。なら私が同じレースに出走を決めたからって、文句を言われる筋合いはないと思いますが?」
「そりゃそうね。誰がどのレースに出るかなんて自由。私も別に、そのことであなたを責める気はないわ」
平然と言いながら、リコは目を細める。
確かに責めてはいないが、その視線は刃先のように鋭かった。
「で……上手いことグラスちゃんを引退に追い込んだ後は、あなたが代表チームに入って代わりを務めてくれるの?」
「馬鹿言わないで」
口調を変え、マルゼンスキーはリコを睨み返した。
「そんなもの、頼まれたって願い下げよ。私だって暇じゃないの。あなた達の下らないお遊びにこれ以上付き合う気なんかない」
拒絶の意思を露わにして、再び歩き出す。
リコの脇を通りながら、冷めた声音で言葉を浴びせた。
「頭数が足りないなら、ルドルフかブライアンでも入れればいいじゃない。どうせ誰を連れて行ったって、結果は変わらないんだから」
意図したわけではなかったが、それはリコがグラスワンダー達との初対面時に口にした挑発と同じだった。
妙な因果を感じて、リコは小さく溜息をつく。
そして僅かに間を置いた後、遠ざかっていくマルゼンスキーの背中に視線を戻した。
「……一つ忠告しておくけど、あまり甘く見ない方がいいわよ。今のグラスちゃんを」
本人の意思を代弁するように、決然と告げる。
「もう合宿の時の、脆くて弱々しかったあの子じゃない。自分自身と真摯に向き合い続けて、自分だけの強さを手にした」
指導者の視点からグラスワンダーの苦悩と再起の道程を見てきたリコは、その強さを深く知り、全幅の信頼を置いていた。
「今はもう、あなたより強いわよ。確実にね」
「私より?」
再び立ち止まったマルゼンスキーは、背中越しに問いを投げる。
「それは、どの私のことを言ってるのかしら?」
反吐が出るほど嫌いなことが、マルゼンスキーには一つだけある。
何も知らない他人が、自分のことを知ったような口で語ることだ。
「朝日杯を大差で勝った時の私? それとも、短距離ステークスでレコードを叩き出した時の私?」
振り返り、横顔を見せる。
静かな激情を孕んだ凶眼が、リコを踏み潰すように睥睨する。
「あなたこそ、私を甘く見ない方がいい」
現役屈指の名馬。日本競馬界の古豪。歴代三冠馬に匹敵する実力者。
そうした評価は所詮、マルゼンスキーという競走馬の表層に過ぎない。無知な大衆がレースを観ただけで知った気になり、口々に浅い見識を語っているだけだ。
真実は世に知られていない。
マルゼンスキーの本来の姿を目にした者は、あまりに少ない。
「はっきり言って私、今までに一度もないから。レースで本気を出したことなんて」
現実味を欠いたその宣言は、嘘偽りのない事実だった。
六月下旬、宝塚記念当日。
阪神競馬場のパドックに集った十一人の出走馬の姿が、テレビ画面に映し出されていた。
『最後に八枠十一番は、≪怪物≫グラスワンダー。現在単勝一番人気。馬体重はマイナス六キロです』
パドック内を周回する最後の一人にカメラが向く。
青い勝負服に身を包むグラスワンダー。その落ち着いた表情と静かな歩みに衆目が集まる。
今回の出走馬の中では実績最上位で、前年の優勝馬でもあるため、現在は彼女が一番人気に支持されていた。
『去年の有馬記念以来の出走となりますが、このあたりはどうでしょう?』
『問題ないと思いますよ。少し間隔は開きましたが、馬体はきっちり仕上げてきています』
『馬体重はマイナス六キロとなっていますが……』
『少し減ってはいますが、有馬記念の時がやや太め残りでしたからね。適正体重に戻してきたと見るべきでしょう。歩様もしっかりしていますし、状態は良いと思いますよ』
実況役と解説役がグラスワンダーの状態について語った後、画面はパドック全体を見渡す視点に移る。
厚い雲に覆われた空からは、ぽつぽつと雨が降り始めていた。
『ここまでで出走馬十一人を見てきましたが、注目馬はどういったところでしょう?』
『やはりグラスワンダーですね。去年の秋から今年の春にかけては不調が囁かれていましたが、今日の出来を見る限りでは良い時の状態に戻っているようです。連覇の可能性は高いと思いますよ』
『グラスワンダーは一昨年の有馬記念に始まり、昨年の宝塚記念、有馬記念とグランプリレースを立て続けに勝っていますからね。今日勝てばグランプリ四連覇となりますので、前人未踏の偉業達成に期待したいところです。それでは続いて――』
カメラが横へと流れ、深紅の勝負服を纏う女を捉える。
一枠一番、マルゼンスキー。
久方ぶりに大舞台に姿を現した名馬は、静謐な気配を伴いながら歩を進めていた。
『現在差のない二番人気のマルゼンスキーを、もう一度見てみましょう。落ち着いて周回しているように見えますが、どうでしょうか?』
『ええ、流石はベテランといった感じですね。いつも通り落ち着いています。……ですがちょっと、これまでとは違った印象を受けますね』
『と言いますと?』
『うーん……』
少し間を置いてから、解説役は慎重に言葉を選んで続けた。
『確かに落ち着いているのですが、何かこう……静かな気迫めいたものが全身から滲み出ているように感じられます。普段はどちらかと言うとおっとりしたタイプですから、パドックでこういう雰囲気を見せるのは珍しいなと』
『久々の大舞台というのが影響しているのでしょうか? マルゼンスキーのGⅠ出走は朝日杯以来となりますが……』
『んー……そういう気負いとはちょっと違う気がしますね。ともあれ、こちらも状態は良さそうです。久々のレースですが、実力通りの走りを期待していいと思います』
『なるほど。ではこの二人以外に注目馬を挙げるとすればどの馬でしょうか?』
『個人的には三番のステイゴールドが――』
その後ほどなくしてパドックでの注目馬解説は終わり、画面はスタジオでの勝ち馬予想に移っていった。
学園の食堂には備え付けのテレビがあるため、昼時ではないにもかかわらず多くの生徒達が集まっていた。
「うわやばっ、井坂さんの本命グラスちゃんだよ……また変なデータ持ち出してごちゃごちゃ言ってる……」
「逆神だからね、あの人も……ていうかブシテレビの中継ってあれよね。どうでもいいおじさん芸人達のあてにならない勝ち馬予想ばっかり。そんなのいいから出走馬の姿を映してよっていつも思うわ」
「あはは……でも、そういうのが好きって人もいるし……」
テーブルを囲んで座り、テレビ画面に映る芸能人達の勝ち馬予想を見ながら、セイウンスカイ、キングヘイロー、スペシャルウィークの三人がそれぞれの感想を述べる。
一見穏やかな光景ではあるが、当人達の心中はそこまで穏やかだったわけではない。
「けどまさか……グラスちゃんとマルゼンさんが同じレースを走ることになるなんて……」
スペシャルウィークが不安そうに呟くと、キングヘイローとセイウンスカイも真剣な顔になる。
「……あの人なりに考えがあってのことでしょう? 同じレースに出ちゃいけないって決まりがあったわけでもないし、今更どうこう言ったって仕方ないわ」
「そうだね。こうなったらもうマルゼンさんと戦うしかないよ。私達はグラスちゃんが勝つのを信じて、ここで見守るしかない」
グラスワンダーとマルゼンスキーの対決。その戦いの意味を重く受け止めている点では、三人とも同じだった。
そんな三人から少し離れたところに、エルコンドルパサーは立っていた。
無言のままテレビ画面を注視していたその背中に、一人の少女が歩み寄る。
「よかったの? 現地に応援に行かなくて」
エアジハードだった。
問いかけられたエルコンドルパサーは首を回し、小さく笑う。
「グラスが自分で言ったんデスよ。私の応援なんかに来なくていいですから、みんなは自分の特訓に集中してて下さい……って」
「必ず勝ってみせるから、心配しなくていい……ってことかな?」
「そんな感じデスね。グラスの中じゃもう、今日のレースで圧勝するのは決定事項になってるっぽいデース」
おどけた様子でエルコンドルパサーが言うと、エアジハードは少しだけ真剣な顔になった。
「ただ勝つだけなら、今のグラスなら十分可能だろうけど……」
テレビ画面の向こうでは、既に本馬場入場が始まっていた。
先頭で姿を現し、軽やかに返し馬に移ったのは、二番人気を背負うマルゼンスキー。
その美しくも雄々しい姿に、スタンドから熱い歓声が上がる。
「問題は例の条件だ。このメンバーを……というよりあのマルゼンスキーを相手に、十馬身差で勝つなんて芸当が果たして可能なのか……」
今日の宝塚記念は、ただ勝てばいいというものではない。
三ヶ月前に東条ハナと交わした約束――「十馬身以上の差で勝利しなければならない」という条件がある。
先頭でゴール出来てもそれを達成出来なければ、グラスワンダーにとっては負けと同じだ。
「無理デスね。普通に考えたら」
さらりと、エルコンドルパサーは言った。
「マルゼンさんはそんなに甘い相手じゃないデスし、他の人達だって今まで一線級でやってきたベテランばっかりデス。GⅠの舞台でそんなメンバーを相手に十馬身差で勝つなんて、夢物語もいいとこデース」
宝塚記念のような古馬王道路線のGⅠは、数あるGⅠの中でも出走馬の平均レベルが高い。
今年は例年に比べやや小粒な顔ぶれと言われるが、それでもグラスワンダー以外の十名の内九名が重賞勝ち以上の実績を持つ一流馬だ。決して甘いメンバーではない。
そして最大の敵であるマルゼンスキーは、紛れもない超一流。
デビューから現在まで無敗の連勝を続けており、その実力は≪皇帝≫シンボリルドルフに比肩するとも言われる、日本競馬界屈指の名馬。
ただでさえ勝つのが難しい相手に十馬身以上の大差をつけて勝つなど、正気の沙汰とは思えない夢物語だろう。
「でも、グラスは普通じゃないデスから」
エルコンドルパサーの顔に、信頼に満ちた笑みが浮かぶ。
「気分が乗ってない時は超低品質なアメリカ産馬肉デスけど、今回はかつてないくらい乗ってますからネー。きっと二十馬身くらいの超大差で爆勝してくれますよ。有り余る馬力と筋肉とパワーとマッスルを全開にして」
最後のは全部同じような意味だろうと内心で呟き、エアジハードは頬を緩めた。
画面の向こうで返し馬に入った栗毛の少女を、穏やかな目で見つめる。
「ああ見えて気分屋だからね、彼女……けど確かに、乗ってる時は信じられないくらい強い」
三ヶ月前、坂路でミルリーフを破った末脚。
エアジハードの瞼には、それが今も鮮明に焼きついていた。
「見せてもらうとしようか。あの新走法が、どこまで完成に近付いたのかを」
阪神競馬場で行われる対決に注目していたのは、日本の競走馬だけではなかった。
アメリカ合衆国、ニューヨーク市クイーンズ区。
同地の競馬場の近くに建つ宿舎の一階。コの字型にソファが並ぶ共用スペース。
黒縁眼鏡をかけた白衣の女がソファに腰かけ、手に持つスマートフォンの画面に目を落としていた。
アメリカ代表チームの一人、ドクターフェイガーだ。
「少し雨が降っているが……さて、天候を味方につけるのはどっちかな……」
配信される映像を視聴しながら呟いていると、その背後からラフな格好をした長身の女が歩み寄ってきた。
バックパサーだ。
「ようドクター、何観てんだ?」
「宝塚記念っていう日本のレースだよ。知ってるかい?」
「知ってるよ。向こうの春のグランプリだろ? ……で、合宿の時にいた奴が二人出るんだったか?」
「何だ、全部知ってるんじゃないか」
ドクターフェイガーは薄く笑い、自身のスマートフォンをバックパサーが見やすい位置まで持ち上げた。
「それじゃあせっかくだし、一緒に観戦しようか。向こうじゃ世紀の一戦なんて銘打たれてるレースだから、観て損はないだろうしね」
「新旧≪怪物≫対決、か……死ぬほどクソだせえキャッチコピーだが、暇潰しの娯楽には丁度いいわな」
バックパサーはソファの背凭れに両肘を載せ、画面を覗き込む。
既に本馬場入場は終わり、出走馬全員がスターティングゲートの後ろに集まっていた。
あと五分ほどで、日本の春競馬を締め括るレースは始まる。
「一応訊くが、どう思うよドクター? お前さんの予想としては」
「難しい質問だね」
黒縁眼鏡のつるを指先で上げ、ドクターフェイガーは言う。
「予想屋の真似事は好きでも得意でもないけれど……あえて言うならグラスワンダーが有利、かな? 前年の覇者でコース適性の高さは証明済み。合宿の時は不調だったようだが、最近は調子を戻してきていると聞く。大外枠だが十一人立てなら気にするほどじゃないだろうし、特にイレ込んでいる様子もない。レース中に大きな不利でも受けない限り連覇は濃厚……と見るのが妥当と思える」
そこで一旦言葉を切り、画面に映る深紅の競走馬を注視する。
「ただ……対抗馬と目されている、このマルゼンスキー……彼女は正直、未知数な存在だ。どう評価したらいいものか分からない」
もう一人の≪怪物≫、マルゼンスキー。
アメリカ競馬史上最速の脚を持つ名馬に「未知数」と言わせるほど、その存在は競馬界において異彩を放っていた。
「軽く経歴を調べてみたが、なかなか興味深い存在だね。彼女」
眼鏡の奥の瞳が、僅かに真剣な色を帯びる。
「デビューから連勝街道を歩み続け、未だ無敗。安定感もさることながら勝ち方も尋常ではなく、後続を七馬身以上千切ったことが六度もある。その驚異的な強さから≪怪物≫と呼ばれており、日本最強馬に推す声も少なくない。が……」
自身が目にした雑多な情報を、ドクターフェイガーは思い返す。
日本最強馬にマルゼンスキーを推す声が多い一方、その強さに懐疑的な声も決して少なくはなかった。
「GⅠ勝ちは朝日杯のみ。出走回数が少ないため勝利数や獲得賞金も少なく、最強クラスの一角と呼べるほどの実績は持っていない。いつでも日本の頂点に立てると言われ続けながら、実際にそうなったことは一度もない。不思議な競走馬だ」
競走馬の評価は実績で決まる。GⅠや重賞の勝利数、獲得賞金、JRA賞の受賞歴といったものがそれだ。
無敗であろうが勝ち方が鮮烈であろうが、大レースを制した実績が乏しい者を大衆は最強馬と認めない。高い能力を持つだけでは一介の「強者」でしかなく、皆が理想像として求める「王者」たりえない。
マルゼンスキーが日の当たる王道路線を走り続け、栄冠を掴み続けることで実力を証明していれば、評価は今と違っていただろう。
しかし現実は、そうはならなかった。
「不思議、ね……あんたも人が悪いな、ドクター」
バックパサーは僅かに眉根を寄せた。
「んなことの理由なんて、とっくに想像がついてんだろ?」
「まあね」
ドクターフェイガーは即答する。
「頂点に立てるのに立たない。光輝く王者を目指さず、日陰の実力者に甘んじる。そういう子は稀にいるよ。そしてその理由は、大抵一つに絞られる」
遥か遠い異国にいる、王者になれなかった不遇の強者。
その身体の一点に目を向け、呟く。
「アキレウスの踵……といったところかな? 喩えるなら」
「どっかのセンパイみたいな物言いだな」
詩的な表現に呆れつつも、この上なく適切な喩えだと思うバックパサーだった。
小雨が降る曇天の下、返し馬を終えスタート地点に集った十一人の競走馬は、大観衆の注目を浴びながらゲート入りの時を待っていた。
GⅠ特有の重々しい空気が漂う中、マルゼンスキーは因縁を清算すべき相手に目を向ける。
「グラス」
名を呼ばれ、振り返るグラスワンダー。
視線が重なり合って数秒後、マルゼンスキーは言葉を続けた。
「……多分あなたの目には、今の私が裏切り者みたいに映ってるんでしょうね。あなたを支える立場を捨てて敵に回ったんだから、その自覚はあるわ」
口調も声音も落ち着いていたが、その眼差しは冷酷な威圧を帯びていた。
「でも、謝罪はしない。躊躇いも後悔もしない。こうして戦う以上は持てる力の全てを注いで、あなたの勝利を阻む」
この戦いに敗れれば、グラスワンダーは未来を失う。
何も得られず、何処にも辿り着けないまま、失意の内に競馬場を去ることになる。
それを知りながらも、マルゼンスキーの心に迷いはなかった。
「終わらせるわ。あなたの競馬を、今日ここで」
非情な宣告を、グラスワンダーは冷静な面持ちのまま受け止める。
迷いを捨てたマルゼンスキーと同様、彼女も既に覚悟を決めていた。
「……予感はありました」
紡がれる、負の感情を排した声。
「薄々ですけれど……あの合宿の時から、いずれこうなるような気はしていました。だから今日ここでマルゼンスキーさんと戦うことに対して、不満や文句は一切ありません。いつも通り、私は私のレースをするだけです」
「私ごときは眼中にないって言いたいの?」
「軽く見るつもりはありません。ただ……」
胸に抱く清冽な闘志を、視線に込めて相手にぶつける。
「雑念に囚われず自分の競馬に徹すれば、おのずと結果はついてくる。今はそう信じています」
「大した自信ね」
皮肉るように返したマルゼンスキーは、思考を読む口振りで呟く。
「これから世界の頂点を目指すんだから、ここで躓くわけにはいかない。こんな程度の相手には涼しい顔で勝って、自分の強さを証明しなきゃいけない……そんなところなんでしょうね、きっと」
グラスワンダーは肯定も否定もしない。ただ静かに、退かない覚悟を示すように相手の顔を見返すのみだった。
その緊迫した空気を察知し、他の出走馬達も対峙する二人に視線を集めていく。
「世界の頂点、世界一、世界最強、無敵の王者、至高の競走馬……」
マルゼンスキーの口が、同じ意味の言葉を羅列する。
「煌びやかで良い言葉ね。ええ、本当に……そんな称号を自分だけのものにしたいから、あなたも他の子達も必死に走り続けてるんでしょうね」
呆れを滲ませて語った後、その表情が険しさを増す。
次いで放たれる、鋭い声。
「でも、それが何なの?」
ある意味でそれは、競馬の本質を突く問いだった。
「誰よりも速く走れるから、何? 他の子達よりコンマ一秒か二秒先にゴールしたから、いったい何だっていうの? 下らない駆けっこに勝ったくらいで、何か特別な存在にでもなったような気分に浸れるの?」
眼前に立つ後輩。同じレースを走る競走馬達。スタンドで熱狂する観客達。様々な形で競馬に関わる人々。
その全てに冷めた目を向け、マルゼンスキーは今まで隠していた本音を零した。
侮蔑と、嫌悪を込めて。
「馬鹿馬鹿しい。競馬なんかに夢中になる奴らは、子供じみた馬鹿ばっかり」
成り行きを見守っていた何人かが、一様に息を呑んだ。
競馬を否定し、競馬に情熱を持つ全ての者を蔑む暴言――それがマルゼンスキーの口から放たれたことが、信じられなかったのだ。
そんな周囲の反応を毛ほども気にせず、マルゼンスキーはグラスワンダーただ一人だけに視線を注ぎ、冷酷に問う。
「私はそう思うのだけれど、あなたはどう? こんな駆けっこに命を懸けるなんて馬鹿らしいって、一度でも思ったことはない? グラスワンダー」
雨が降るターフの上。日本中の競馬ファンが注目するグランプリの発走直前。
二人の競走馬は真正面から向かい合い、相反する意志をぶつけ合う。
決して譲れないものを、自らの支えにして。
「……無意味です。今ここで、何を言っても」
ぽつりと、グラスワンダーは言った。
「どんなに綺麗でもっともらしいことを言ったって、あなたの心には……いえ、ここにいる誰の心にも、本当の意味では響きません」
前へと踏み出す。
濡れた芝を静かに踏み締め、スターティングゲートに向かう。
「だから、走りで示します」
マルゼンスキーの脇を通り、告げる。
「あなたの問いに対する答えは、言葉ではなく私自身の走りで示します。自分が選んだ生き方を貫いて、先へ進むために」
宣誓じみたその言葉を、マルゼンスキーは戦場で敵と剣を交えるような面持ちで聞いた。
振り返り、遠ざかっていく後輩の背中に眼光を飛ばす。
その瞳の奥に棲むのは、氷点下の殺意。
「……なら、こっちも教えてあげる」
己の生き様を走りで示すというなら、応じる方法はただ一つ。
覆せない力の差を見せつけ、愚かな夢と希望を断つだけだ。
「あなたの選んだ生き方が、どれだけ空虚で無意味なものか……競馬の現実が、どれだけ非情なものかをね」
阪神競馬場スタンド内の指定席。
二人掛けの座席が等間隔に並ぶその場所に、ミルリーフとブリガディアジェラードの姿があった。
競馬界では知らぬ者のいない二人に周囲の観客達は驚愕と困惑の視線を集めていたが、当人達はそんな些事を気に留めてはいない。
当然のように並んで座り、宝塚記念の発走時刻を待っていた。
「レースを観戦するのはいいとして、わざわざ現地まで来る必要はあったのか?」
「間近で見届けたくなったのよ。あの子のレースぶりを」
ブリガディアジェラードが投げかけた問いに、ミルリーフは憮然とした顔で答える。
席に腰を下ろした時からその視線は、グラスワンダーただ一人だけに注がれていた。
「見届けてどうする? 終わった後に世間話でもしに行くのか?」
「別にどうもしないわ。ただ、この目で見たものを頭に入れておくだけよ。ワールドカップでやりあう時のためにね」
「あの模擬戦で後れを取ったのがよほど気に食わんらしいな。面倒な奴だ」
「面倒で結構。これが私よ。借りがある相手を放置していられるほど人間が出来ちゃいないの」
人が変わったというわけでもないが、三月の一件以来、ミルリーフの言動には若干の変化が生じた。
自分を破った相手――グラスワンダーのことになると、不機嫌さと真剣さが入り交じった硬い表情を見せ、棘のある物言いをするようになったのだ。
その変化の良し悪しについては、長い付き合いのブリガディアジェラードにも判断がつかなかったが。
「……まあいい。このレースの行方には、私も少しばかり興味がある」
あの模擬戦を境に認識を改めたという点では、彼女も同じだった。
曲がりなりにもミルリーフを破ったグラスワンダーの力を侮ってはいない。自分達の障害になりかねない強敵と認め、その動向を注視している。
そして、気になる者がもう一人。
「あの赤い勝負服の女……マルゼンスキーだったか? 奴はワールドカップの日本代表に入っていないらしいが、それは何故だ?」
「さあ? 実績が足りないからじゃない? 無敗でパフォーマンスもすごいらしいけど、大したレース勝ってないもの」
さほど興味がなさそうに、ミルリーフは言う。
彼女の中で宝塚記念は既に、グラスワンダーの勝ち方を見るだけのレースとなっていた。
「どこの国にもいるわよ、そういうの。格の低いレースで圧勝を続けて、無敵だの最強だのと持て囃されるけど、上のレースに出たら全然通用しないっていう子。あれもその部類だと思われてるんじゃないかしら?」
「相手に恵まれたおかげで過大評価されただけ……と陰口を叩かれる手合いか」
呟きつつ、ブリガディアジェラードは直線の端のスタート地点を見下ろす。
最内の一番枠に収まっていくマルゼンスキーの姿からは、どこか不気味な気配を感じずにいられなかった。
「そうは見えんがな」
スターティングゲートの中。
収まった一番枠でスタートの時を待ちながら、マルゼンスキーは神経を研ぎ澄ませる。
『最後に十一番のグラスワンダーが収まりまして、全十一人のゲートイン完了です』
実況の声など、今の彼女には聞こえない。スタンドから溢れる歓声も耳に届かない。
この時彼女の意識を占めたのは、目の前にあるゲートの扉と、遠い過去の記憶。
全てを諦めるきっかけとなった、幼き日の事故。
親友の前で語った夢。何も考えず無邪気に駆けていた子供時代。骨が折れる音。ターフに倒れる自分。駆け寄る人々。運び込まれた病院。医師から告げられた言葉。病室を訪れた母の顔。
一連の記憶が走馬灯のように蘇り、幾多の思いが去来する。
『今年もあなたの夢、私の夢が走ります。春競馬の総決算、グランプリ宝塚記念――』
自身の欠陥を知り、運命を受け入れた時から、マルゼンスキーは枷を嵌めていた。
ミルリーフの拘束具のような、目に見える枷ではない。本人の意識の中だけにある、けれど確かな拘束力を持った重い枷。
それが今日まで自由を奪い、実力を半減させていた。重い枷を嵌めた不自由な身で競馬を続けていたのだ。
その生き方を後悔したことはない。間違いだったなどとは露ほども思わない。
だが、もういい。
もう枷を嵌めておく必要はない。自分を無理に抑えなくていい。
今日のこのレースが、最後のレースで構わない。
死地に赴く心境で誓約を解き、長年に渡り嵌め続けていた枷を捨て去り――
無敵の力を持って生まれた≪怪物≫は、真実の姿を取り戻す。
『――スタートしました!』
ゲートが開き、十一人が一斉に走り出す。
そのまま先行勢による熾烈な先頭争いが繰り広げられるかと思われた矢先、それは起こった。
最内の枠から出た一人が、深紅の一閃となって内埒沿いを突き抜けたのだ。
『え……あ……なっ……!?』
実況アナウンサーが言葉にならない声を洩らす。
レース模様を伝えるという職務を忘れて硬直してしまうほど、それは衝撃的な光景だった。
スタート直後先頭に躍り出たのは、一枠一番のマルゼンスキー。
桁外れの出脚を披露した彼女は、その勢いのまま多段式ロケットのような加速を続け、後続の十人を瞬く間に引き離す。
尋常な速度ではなく、尋常なレース展開でもなかった。
七馬身八馬身九馬身と一秒ごとに差は開き、十馬身を超えてもなお止まらない。天井知らずに脚の回転数を上げ続け、完全なる独走状態に突入する。
その光景に驚愕したのは、実況アナウンサーだけではなかった。
スタンドは大事故が発生したかのようなどよめきに包まれ、テレビ中継を観ていた人々も総じて我が目を疑った。
ドクターフェイガー、バックパサー、ミルリーフ、ブリガディアジェラードといった世界屈指の名馬達でさえ、大きく目を見開いて絶句していた。
マルゼンスキーの大逃げから始まった宝塚記念は、誰も目撃したことのない異形のレースだった。
「な……あ……っ」
テレビ画面を凝視しながら、エアジハードは言葉にならない声を洩らした。
彼女だけではない。その場にいた生徒達のほぼ全員が同様に言葉を失い、青褪めた顔を並べていた。
それほどまでに信じ難いレース展開が、画面の向こうの阪神競馬場で繰り広げられていたのだ。
「な、何だ……? 何なんだ、あれは……!?」
ようやく絞り出した声は、発音が不明瞭なほど震えていた。
信じられない。理解が出来ない。
スタート直後にマルゼンスキーが繰り出した脚が、それによって広がっていく後続との差が、あまりにも常軌を逸したレース模様が、現実のものとは到底思えない。
エアジハードの目に映っているのは、競馬を深く知る者ほど容易には受け入れられない異常事態だった。
「外したんだ。枷を」
答えを告げるように声をかけてきたのは、背後から歩み寄ってきたシンボリルドルフだった。
エアジハードは振り返り、青褪めた顔のまま問う。
「枷……?」
「マルゼンスキーが常日頃から嵌めていた、心理の足枷だ」
語りつつ、シンボリルドルフはテレビ画面を静かに見据える。
「実体はなくとも拘束具の役を果たしていたそれを外し、持てる力の全てをこのレースで使い切ると決めた。自分本来の姿に立ち返ったんだ」
画面の向こうでは、さらなる独壇場が演じられていく。
既にありえないほどの大差をつけておきながら、マルゼンスキーのペースは落ちるどころか上昇の一途を辿り、他の十人を置き去りにしたまま最初のコーナーに突入する。
その逃亡劇を阻止しようとする者は、後方集団の中に一人もいない。
阻止したくても出来ないのだ。遥か先を行くマルゼンスキーのあまりに速すぎる脚によって、彼女達の競馬が根底から崩されているが故に。
「あの状態のマルゼンスキーは、紛れもなく……」
ただ一人だけ別世界を駆けるかのような≪怪物≫の姿を目に焼き付け、シンボリルドルフは言葉を続けた。
惜別に近い、胸を軋ませる感情を込めて。
「日本競馬史上最強だ」
雨の宝塚記念。
競馬の歴史を塗り替える死闘が、かつてない混迷の中で幕を開けた。