ウマ娘 Big Red Story   作:堤明文

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第二十二話「ガラスの脚」

 

 

 選ばれた者。選ばれなかった者。

 

 この世に生きる全ての者は、その二つのどちらかに属する。

 

 物心ついて間もない頃から、マルゼンスキーは密かにそう思っていた。

 

 生まれ持つ能力が平等ではなく、その能力差が人生の明暗を分けることを、半ば本能的に悟っていた。

 

 もっとも子供の頃と現在では、決定的に異なる点もある。

 

 有り体に言うなら、自己評価。自分がどちらの側に属するかの認識だ。

 

 幼き日の彼女は、自分が選ばれた者だと信じていた。

 

「それでねそれでね、そのトレーナーの人が言ったんだよ。君には特別な才能があるって。将来はきっとGⅠ馬になれるって」

 

 夕暮れの住宅地。当時仲が良かった同い年の少女と一緒に道を歩きながら、幼いマルゼンスキーはその日の出来事を伝えていた。

 

「でね、わたしは言ったの。わたしはただのGⅠ馬なんか目指さないって。わたしは大きくなったら外国に行って、凱旋門賞とかキングジョージとかBCとか、そういう大きなレースを全部勝って、世界で一番強い競走馬になってみせるよって!」

 

 弾んだ声で語り、無邪気に笑う。

 

 嘘でも冗談でもなく、本心から出た壮大な目標だった。

 

「そしたらそのトレーナーの人、笑いながら言ったんだよ。世界で一番になるのは簡単じゃないけど、君ならなれるかもしれないなって。今のその気持ちを忘れずに練習を続ければ、いつか世界の誰よりも強くなれるって。わたし、それ聞いてますますやる気になっちゃった! やっぱり毎日の練習が大事だよね! 練習すればするだけ強くなれるんだし!」

 

「……そうでもないけどね」

 

 親友の口から零れた、否定の呟き。

 

 それが、上機嫌に自慢話をしていたマルゼンスキーの表情を凍らせた。

 

 空気の変化に気付いた親友は「ううん、何でもない」と言って首を振り、柔らかな笑顔を作る。

 

「でも、マルちゃんはすごいね。もうプロのトレーナーに声かけられて、将来を期待されちゃうんだから」

 

「う、うん……誰にでも言うわけじゃなくって、君が特別な子だから言うんだって……そう言ってたよ。あはは……」

 

「ふふっ……ほんとにすごいなぁ、マルちゃんは……わたしなんかと全然違う」

 

 幼い顔に貼りついた表情は、子供の無邪気な笑みではなかった。

 

 それは、大人の笑みだった。

 

 現実の不平等を受け入れ、多くのことを諦め、身の丈に合った生き方を選んだ大人だけが見せる、乾いた笑みだった。

 

「――いいね。速く走れる人は、大きな夢が見れて」

 

 いつも一緒にいた親友との距離を遠く感じたのは、それが初めてだった。

 

 その後月日が経つにつれ疎遠になり、親友だった少女は親友でなくなり、いつしか会うこともなくなった。

 

 能力の差が、自分と親友の人生を分けたのだ。

 

 

 

 

 仕方がないことだと思った。

 

 世界は平等ではない。人は皆同じではない。生まれ落ちたその瞬間から、ありとあらゆる面でどうにもならない差異がある。

 

 同じ年に生まれ、同じ時期に同じ競技を始め、同じ量の練習を積んだとしても、同じ成果を得られるわけではない。

 

 優れた者と劣った者、勝つ者と敗れる者の違いは、必ず表れる。

 

 自分は競馬の神に選ばれた。親友は選ばれなかった。ただそれだけの話。

 

 気の毒ではあるし、心情も理解出来るが、いつまでも後ろめたい気持ちを抱えていたところで意味はない。仮に自分が競馬の世界で大成しなかったとしても、それで親友だった少女が救われるわけではないのだから。

 

 自分は迷わず、自分の道を行く。持って生まれた能力を弛まぬ努力で鍛え上げ、未来を目指して進み続ける。

 

 それでいいと思っていた。

 

 未来の展望を失い、自分も「選ばれなかった者」の一人だったと知るまでは。

 

 

 

 

 

 

 駆ける。

 

 向かい風を突き破り、雨粒を跳ね飛ばし、マルゼンスキーは駆ける。

 

 レースを見守る日本中の競馬ファンに、遥か後方に置き去りにした十人の対戦相手に、己の真の強さを見せつけながら。

 

『逃げる逃げるマルゼンスキー! 後続を突き放して差を広げる! 誰も予想していなかった展開です! これは凄い大逃げだ!』

 

 ようやく放心から立ち直ったアナウンサーがレース模様を伝えるが、その声は震えを隠し切れていなかった。

 

 無理からぬことだろう。誰もが目を疑うほど異常極まりないレースが、春のグランプリの舞台で繰り広げられていたのだから。

 

『二番手集団との差は十八馬身ほどに広がったか!? 驚くべき大差です! これがセーフティリードとなるか!?』

 

「大逃げ? セーフティリード?」

 

 実況の声に、マルゼンスキーは冷めた声を返す。

 

 常軌を逸した大激走の最中にもかかわらず、その表情は発走前と何も変わらなかった。

 

「馬鹿馬鹿しい。こっちはただ、マイペースに走ってるだけよ」

 

 平然と告げ、さらなる加速。肉体の出力をもう一段階引き上げ、より速く力強く、濡れた地面を蹴り上げる。

 

 その直後、二番手集団との差が二十馬身を超えた。

 

『なっ――ああああああああああああ!?』

 

 実況が叫ぶ。

 

『何と加速! マルゼンスキー、向こう正面でさらなる加速! 後続との差を二十馬身以上にまで広げました! これは凄い! この走りは……我々の想像を凌駕しています!』

 

 通常のレースではありえない声量と熱弁。それが大袈裟なものでないことを、競馬場全体を包む混迷の空気が物語る。観客の一人一人が驚愕の声を上げ、強張った顔でマルゼンスキーの走りだけを凝視する。

 

 しかしながら当人は、そんな些事を気に留めてはいない。

 

 彼女の意識を占めるのは、数分前のこと。ゲート入り直前のやりとりだった。

 

(らしくない……)

 

 独走を続けながら、内心で呟く。

 

(何で、あんな……挑発するような真似したのかしらね……)

 

 このレースでグラスワンダーに引導を渡すと決めてはいたが、怒りや憎しみの念を燃やしていたわけではない。無駄口を叩かず真剣勝負に徹するつもりでいた。

 

 それが何故か、レース直前に相対すると不思議な感情が湧き上がり、気が付けば冷酷な態度で暴言を放っていた。

 

 我ながら、訳が分からない。

 

 自分はあんなにも攻撃的な性格だっただろうか。冷静さを失うほど気が立っていたのだろうか。

 

 それとも、今のグラスワンダーの様子を見ていると、思い出してしまうからだろうか。

 

 幼かった頃の――夢と希望に溢れていた自分を。

 

(下らない……随分と安っぽい感傷に囚われているわね、私も……)

 

 自虐の思考に耽りつつ、ちらりと後ろを見る。

 

 スタート直後に置き去りにしてきた後方集団。こちらに対抗する術を何一つ持たず、ただ無為に淡々と走るしかない格下の群れ。

 

 その中に埋没した少女の姿は、風前の灯火のようだった。

 

 

 

 

 

 

「逃げじゃ……ない?」

 

 戸惑いが滲む顔を、キングヘイローはセイウンスカイに向ける。

 

 セイウンスカイはテレビ画面を見つめたまま、言葉を続けた。

 

「形としては大逃げだけど、あれは逃げじゃないよ。本質的な意味ではね」

 

「どういうこと……?」

 

「逃げ馬って呼ばれる競走馬は、大きく分けると三種類ある」

 

 スタート直後から先頭を走る戦法を、競馬の世界では「逃げ」と呼び、それを得意とする者を「逃げ馬」と呼ぶ。

 

 変幻自在の逃げで実績を積み上げてきたセイウンスカイは、日本を代表する逃げ馬の一人だ。

 

「一つ目は私みたいに、逃げを一番の武器にしてるタイプ。ハイペースで飛ばす人とかスローペースに落とすのが上手い人とか、その中にも色々種類はあるけど……逃げって戦法にこだわりを持ってる点では変わらない。出るレースのほとんどで積極的に先頭を走ろうとする、典型的な逃げ馬だ」

 

 逃げ馬という言葉を聞いて誰もが思い浮かべるのは、まさにそのタイプだろう。

 

 どんなレースにも大抵一人はいる、自らが先頭に立ってレースを作る役であり、終始誰にも先頭を譲らず逃げ切る戦法を一番の得手とする競走馬。

 

 時として奇跡的な番狂わせを起こす反面、思い通りのレースが作れなければ惨敗する脆さも併せ持つ。

 

「二つ目はエルちゃんみたいな万能型。基本的には先行馬だけど、メンバーや展開次第では逃げを打つこともあるってタイプ。状況に応じて戦法を変えられる器用さが売りの人達だ」

 

 決して多くはないが、エルコンドルパサーのように様々な戦法を自在に使い分けられる者もいる。

 

 そうした者は逃げ馬が不在の時、または逃げが最善の策と思われる時は、即座に逃げ馬と化して先頭に躍り出る。

 

 典型的な逃げ馬とは違い、逃げの形に囚われず柔軟なレース運びが出来る点が強みだ。

 

「そして、三つ目は……」

 

 前代未聞の大逃走劇を演じるマルゼンスキーに、セイウンスカイは畏怖の目を向ける。

 

 最後の一つは、異端中の異端。

 

 ごく稀にしか現れない、無敵の肉体を持った歴史的名馬。

 

「逃げだとか先行だとか、そんなことは一切意識せず……ただ普通に走るだけで後続との差を広げていくタイプ。私達とは何もかもが違う、本物の化物だ」

 

 

 

 

 

 

 あれは、「逃げ」ではない。

 

 そう悟ったのは、セイウンスカイだけではなかった。

 

 マルゼンスキーの遥か後方を走る者達も同様であり、それ故に混乱が生じていた。

 

「おい……おいおいおいおい!? いいのかよ!?」

 

 五、六番手ほどの位置にいた一人が叫ぶ。

 

 その表情は、死刑執行を目前にした囚人のようだった。

 

「このままほっといたらゴールまで行かれちまうぞ! 誰か捕まえに行けよ!」

 

「行けたらとっくに行ってるっての! あんなスピードでぶっとばしてる奴にどうやって追いつけってのよ!?」

 

「仮に追いつけたとしても……それだけでこっちはガス欠だ! 自滅以外の何にもなりゃしないよ!」

 

「……っ……だからって、このままでいいわけねえだろ! 誰でもいいから誰か行けよ!」

 

「うるせえ! だったらてめえが行け!」

 

 馬群の中で怒号が飛び交う。

 

 彼女達は皆、春のグランプリである宝塚記念に出走を許された一流馬だ。実績、実力の両面で一定以上のものを持っており、場数も踏んでいる。無能な者や競馬に対して無知な未熟者は一人もいない。

 

 そんな彼女達だからこそ、気付いてしまった。遥か先を行く深紅の競走馬が示している、悪夢の如き能力に。

 

 信じ難いことだが、マルゼンスキーはただ単純に「走っている」だけなのだ。後続との差が広がったのは結果に過ぎず、大逃げを意図していたわけではない。

 

 要は、まだ全力ではないということだ。

 

 このまま最後の直線を迎えても脚色が衰えないどころか、逆に溜めていた力を解き放って更に伸びる。どれだけ懸命に追い駆けても差は一向に縮まらず、記録的な大差をつけられてこのレースは終わる。

 

 無理に捕まえに行けば自滅必至。放置したままでは敗北確実。これでは本当に、どうしようもない。

 

 絶望的な状況に陥った競走馬達は、恐慌に近い状態で罵り合うことしか出来なかった。

 

「まったく……やってられないね」

 

 馬群の最後方付近。比較的冷静さを保っていた黒鹿毛の少女が、うんざりした様子で言う。

 

「景気良くぶっちぎってくれてるけど、別に無理してとばしてるわけじゃないんでしょう? 直線に入ってこっちが必死に追い駆けても、向こうはさらに伸びると……いったいどうしろってのよ、あんなの」

 

 その心境は、冷静というより諦めに近いものだったかもしれない。

 

 現役馬の中では年嵩で、これまで数々の名馬の走りを間近で見てきた彼女は、既に結論付けていた。

 

 もう打つ手はない。今回は相手が悪すぎる。

 

 あんな規格外の化物には、何をどうやったところで絶対に勝てない――と。

 

「強いのは知ってたけどさ……あそこまで化物じみてたなんてね。……ったく……あんな脚があるなら、さっさと海外行って凱旋門かBCにでも出てりゃいいのに……」

 

 ひとしきり愚痴を連ねた後、黒鹿毛の少女は首を回し、自身のすぐ後ろを走る栗毛の少女に視線を向けた。

 

「あんたもそう思わない? グラスワンダー」

 

 驚異の加速力で独走を続けるマルゼンスキーとは対照的に、最後方付近に位置取り淡々とした追走を続けるグラスワンダー。

 

 その面持ちは、黒鹿毛の少女以上に冷静だった。

 

「……あの人の強さについては、同意します」

 

 遥か先のマルゼンスキーを注視したまま、返答の言葉を紡ぐ。

 

「私の想定より何倍も強い。……正直、こういう展開になるとは思っていませんでした。このレースに懸けるあの人の覚悟を、私は見誤っていたのかもしれません」

 

「……その割には、あんまり焦ってるように見えないね。あんた」

 

「変わりませんから」

 

「は?」

 

「相手がどれだけ強くても……相手のいる場所が一馬身先でも百馬身先でも、私のやることは変わりません。私は私のレースをするだけです」

 

 虚勢を張る様子はなかった。

 

 マルゼンスキーの強さを理解し、絶望的な状況を直視した上でなお、グラスワンダーは落ち着き払っていた。

 

 黒鹿毛の少女は複雑な顔になる。

 

「あんな走りを見せつけられて、まだ……あいつに勝つ気なの?」

 

「ええ、勝ちます」

 

「どうやって?」

 

「全力で追い駆けて、追い抜く。それだけです」

 

 簡潔な返答は、不思議な力強さを帯びていた。

 

 戦法を自在に変える器用さなど持たず、器用な立ち回りをしたいとも思わず、あらゆる困難を不器用な力技で突破する。そんなグラスワンダーらしい決意表明。

 

 呆れるほど愚直だが――競走馬としては正しい姿なのかもしれないと、黒鹿毛の少女は密かに思った。

 

 あれこれと悩んだところで自分達に出来ることは、結局一つしかない。

 

 勝利を諦めず、ゴールまで走り抜く。ただそれだけだ。

 

「……強いね、あんたは」

 

「強くなんか、ないですよ」

 

 冷静な面持ちに、微かな苦みが混じる。

 

 ここに至るまでの長い道程を思い返し、グラスワンダーは続けた。

 

「強くないから、色んなものから逃げてきました。怯えて、迷って、間違えて……何もかもが嫌になって、全部捨てようとした時だってあります」

 

 立ちはだかる敵の強さに怯えた。無惨な敗北を怖れた。

 

 自分を認めてくれない世界を呪った。他人が称賛を浴びる光景が妬ましかった。いつも胸には屈折した思いがあった。

 

 自分の可能性を信じられない時期もあった。これまでやってきたことは全て間違いだったのではないかと疑った。

 

 思い通りにいかない現実に屈服し、作り笑顔で絶望を覆い隠していた。

 

「でも、そんな私でも……」

 

 偽りを剥ぎ取った素顔で、遥か先を行く敵と、未来を見据える。

 

 あらゆる困難に立ち向かう原動力を、胸の奥で静かに燃やす。

 

「誰よりも強くなって、一番になりたい――そんな気持ちだけは、今も捨てずに持っています」

 

 

 

 

 

 

「――強い」

 

 そう呟いたのは、スタンドの指定席に座るブリガディアジェラードだった。

 

 先程からその視線は、先頭を走る深紅の競走馬だけを捉えている。

 

「これほどの実力者がこの国にいたとは……分からんものだな。世に知れ渡っていることが全てではないといったところか」

 

 競馬に関しては誰よりも厳格な基準を持ち、滅多なことでは他人を褒めないブリガディアジェラードでさえも、マルゼンスキーの走りは称賛に値するものと認めた。

 

 隣に座るミルリーフを一瞥し、冷徹に告げる。

 

「残念だったな。このレース、貴様が望んでいたような結末にはならん」

 

「まだ分からないでしょう? 確かに思っていた以上の相手だけれど、グラスワンダーには私を破った時の走法がある。あれを使えば――」

 

「無駄だ」

 

 淡い希望を断つ言葉には、揺るぎない確信があった。

 

「確かにグラスワンダーは速い脚を持っている。一瞬の速さだけならあのマルゼンスキーより上だろう。だが……後方からどれだけ脚を伸ばそうとも、先にゴールに到達出来なければ意味がない」

 

「――っ」

 

 ミルリーフは苦虫を噛み潰したような顔になる。ブリガディアジェラードが言っていることは、彼女にも十分すぎるほど理解出来た。

 

 競馬とは一瞬の速さを競う競技ではなく、ゴールに到達するまでの速さを競う競技。先頭でゴール板の前を通過しなければ勝者にはなれない。

 

 グラスワンダーとマルゼンスキーの二人を比較した場合、速度の最高値ではグラスワンダーに分があるかもしれないが、平均値ではマルゼンスキーが圧倒的に勝っている。競馬という競技の性質に照らせばどちらが優れているかは、あまりにも明白だ。

 

 現在のレース模様がそれを裏付けている。このまま何事もなくレースの終盤を迎えれば、グラスワンダーが驚異的な追い上げを見せたとしても到底間に合わない。マルゼンスキーは中盤までに作ったリードを生かし、楽々と逃げ切るだろう。

 

 単純明快な理屈であるが故に、反論の余地が一切ない。

 

「一瞬のキレはあっても追走力に欠ける手合いなのだろうな。マルゼンスキーに単騎逃げを許した時点で詰みだ。あのレベルの相手にあそこまで差を広げられては、もうどうやっても追いつけん」

 

 最後方近くに位置取ったまま、これといった動きを見せないグラスワンダー。

 

 その姿を静かに見下ろし、ブリガディアジェラードは言い添えた。

 

「世界最強の競走馬でもなければ……な」

 

 理屈の上では納得するしかない話だったが、ミルリーフには容易に受け入れられることではなかった。

 

 自身に土をつけた相手の走りを目に焼きつけ、ワールドカップの舞台で借りを返すため、彼女は今日この場に足を運んだのだから。

 

「……どうにかしなさいよ、グラスワンダー」

 

 奥歯を噛み、毒吐くように呟く。

 

「こんなところで負けてたら、承知しないから」

 

 

 

 

 

 

「ギリシャ神話に、アキレウスという名の男が登場する。かの有名なトロイア戦争で活躍したとされる、無双の力と不死の身体を持った英雄だ」

 

 スマートフォンの画面に目を落としたまま、ドクターフェイガーは語った。

 

「アキレウスは幼い頃、息子が不死を得ることを望んだ母によりその身を冥府の川に浸される。それによって身体の大部分が不死と化したが、母の手が踵を掴んでいたためそこだけは不死になり損ねた。以来踵は神に等しい強さを誇るアキレウスの唯一無二の弱点となり、最終的にはそこを敵に狙われ命を落とす結末に繋がった……という物語が、人体の急所として知られるアキレス腱の語源さ」

 

 あくまで神話。歴史的事実ではない、人の幻想が生んだ物語。

 

 しかしながら、神話の中の英雄に酷似した深紅の競走馬が今、画面の向こうで絶対的な強さを見せている。

 

「脚の骨かな? 彼女の急所は」

 

「多分な。重度の外向だろ」

 

 ソファにもたれかかっていたバックパサーは、淡々と応じる。

 

「日本最強になれるだけの力は元からあった……が、その力に耐えられる脚がなかった。だから今まで大舞台を避け、全力を出さなくても勝てる雑魚とばかり走ってきた。そんなところだろうよ、きっと」

 

 日本での合同合宿の時、彼女は既に見抜いていた。

 

 マルゼンスキーという競走馬が抱える致命的欠陥と、それ故に選んだ生き方を。

 

「それが今回、事情は不明だが本気で走る気になり、大観衆の前で真の強さを見せつけている……か。華々しい姿だが、最後の輝きになってしまいそうだね」

 

 眩しくも儚いマルゼンスキーの強さを、ドクターフェイガーは惜しんだ。

 

 日本最強の力を持ちながら隠していたのは、それが大きな代償を伴うものだからだ。

 

 このレースでどれだけ華々しく勝利しても、その先はない。

 

 マルゼンスキーが歴史的名馬と認められ、世界中の人々から讃えられる日は訪れない。永遠に。

 

「興味本位で訊くけれど、君ならこれに勝てるかい? パサー」

 

「さあな」

 

 そっけなく答えつつ、バックパサーは画面の中のマルゼンスキーを注視する。

 

 その眼差しは、いつになく鋭かった。

 

「勝てるかどうかは実際にやってみなきゃ分からん。そういうレベルの化物だぜ、こいつは」

 

 

 

 

 

 

 サラブレッドの脚は、「ガラスの脚」と呼ばれる。

 

 速さを求めて進化を続け、競馬場という人工の環境に適応しすぎた結果、その脚は生物としては致命的なまでの脆さを抱えるに至った。

 

 無事に現役生活を送れる者は少数派。大半の者は日々の鍛錬と実戦の負荷に耐えられず、遅かれ早かれ脚を壊す。

 

 そして中には、身体的特徴から通常より故障の危険性が高い個体も存在する。

 

 マルゼンスキーもその一人。並外れた脚力を持つ彼女の両脚には、生まれつき構造上の問題があった。

 

 それが、外向肢勢。脚の骨格が通常より外向きに曲がった状態を指す言葉であり、先天的な疾患の一種だ。

 

 さほど珍しい疾患ではないが、比較的軽度のものから重度のものまで症状の幅は広く、競走馬になることを断念せざるをえない場合もある。外向肢勢の脚は走行時の衝撃に弱く、過酷なレースの中ではいつ耐久力の限界を迎えてもおかしくないからだ。

 

 マルゼンスキーがその問題を自覚したのは、競走馬としてデビューする前。学園に入って間もない頃だった。

 

 練習中に脚を痛めて転倒した彼女は、そのまま病院へと送られ、そこで非情な現実に直面する。

 

 医師曰く、マルゼンスキーの外向肢勢は重度のものであり、本来なら競走馬になってはいけない水準のもの。幸い今回は軽度の骨折で済んだが、その曲がった脚をレースで酷使し続ければ、競走能力を喪失するほどの重傷を負いかねない。最悪の場合、命を失う事態にもなりえる。

 

 そんな宣告を受けたマルゼンスキーは、病室で独り悩み抜いた末、自分なりの答えに行き着いた。

 

 現実と向き合い、選んだのだ。

 

 子供の頃からの夢を捨て、日陰の中で生きる道を。

 

「下らないわね……何もかも、全部」

 

 レースの中盤。残り約千二百メートル地点。驚異の走りで後続を離し続けながら、マルゼンスキーは呟く。

 

 自身を含めた全てに対する呆れを、その声に滲ませて。

 

「選ばれた者なんて、ほんの一握り。私はそうじゃなかった。ただそれだけの話よ」

 

 競馬の神は、誰よりも速く走る才能を彼女に与えた。

 

 しかしながら、その才能に耐えられる脚を与えなかった。

 

 つまりは欠陥品。本気を出せばどんな相手にも勝てるが、一度の勝利と引き換えに全てを失う。

 

 大衆が望む常勝不敗の王者には、どう足掻いてもなれはしない。

 

 それに気付けず、無邪気に誇大な夢を見ていた頃の自分を、愚かな子供だったとマルゼンスキーは自嘲する。

 

 そして、そんな夢が破れただけで落ち込んでいた自分を、度し難いほどの贅沢者だったと蔑視する。

 

 冷静に考えてみれば、別に不幸なことでもない。

 

 望んだ通りの人生を送れる者など、世界を見渡してもほんの一握り。それ以外の者は皆、理想と現実の間に折り合いをつけ、多くのことを諦めながら生きている。

 

 レースで栄冠を得られず、競馬界の底辺で燻る者達のように。

 

 怪我や病で走れなくなり、寂しく競馬場を去っていった者達のように。

 

 才能の差を受け入れ、独り儚く微笑んでいた、かつての親友のように。

 

 自分は違うと思っていたが、そうではなかった。自分もまた、彼女達と同じ敗者の側の一人だった。

 

 自分を特別な何かだと勘違いしていた幼稚な子供が、現実を知り大人になった。

 

 これはそんな、よくある話に過ぎないのだ。

 

「そして……」

 

 前を向いたまま、遥か後方にいる後輩の顔を思い浮かべる。

 

「あなたも、選ばれた者なんかじゃない。……そうでしょう? グラス」

 

 最強の競走馬になりたいなどという、分不相応な夢を持つ少女。

 

 他の競走馬と同じように走ることが出来ず、力の限り脚を地面に叩きつけることしか知らない、不器用で不格好な競走馬。

 

 自分と同じ――いや、それ以上の欠陥品。

 

 半端に強い力を持ってしまったため夢を諦められずにいるようだが、ここで引導を渡してやらねばならない。

 

 あの愚かな走りで脚を壊し、破滅的な結末を迎える前に。

 

 それが自分の責務。

 

 先達の競走馬としてなすべき、最後の仕事。

 

「――づぅっ!」

 

 不意に、右脚の脛に痛みが生じる。

 

 小さく呻いて顔をしかめた後、「終わり」が近いことを自覚した。

 

 だが構わなかった。

 

 最後のレースと決めて勝負に臨んだ。覚悟はとうに出来ている。

 

 たとえ両脚が砕け散ろうとも、このレースのゴールまで走り切れるならそれでいい。

 

 強固な決意で痛みを払い除け、深紅の≪怪物≫は独走劇を演じ続けた。

 

 

 

 

 

 

 阪神競馬場の敷地内。東門近くの噴水広場。

 

 そこに置かれたベンチの一つに、傘を差したまま座る女の姿があった。

 

「ふむ……ちょい失敗かな? 構図がイマイチ」

 

 女は右手に鉛筆を持ち、その先端を小刻みに動かし続けている。

 

 雨の中にもかかわらず、持参したスケッチブックに素描をしているのだ。

 

 メインレースが行われている最中に競馬場内でそんな真似に没頭する者は、当然ながら彼女一人しかいない。

 

 そして、そんな変人の元に小走りで駆けつけ、声をかける者が一人。

 

「どこ行っちゃったのかと思ったら……こんな所で何してるんですか?」

 

 まだ声変わりもしていない、小柄な人間の少年だ。

 

 年齢は十二、三歳ほど。明らかに日本人ではない容姿で、肌は白く瞳は青い。その幼い顔には、酷く不満そうな表情が浮かんでいた。

 

 女はスケッチブックに目を落としたまま、少年の問いに答える。

 

「何って、デッサンだよ。いつもやってることだろう?」

 

「ええ、そうですね。いつもやってることですね。……で、そのいつも飽きもせずやりまくってることを、何で今ここで平然とやってるんですか?」

 

「画家の私が絵を描いているのが、そんなに不思議かい?」

 

「今日はレースを観に来たんでしょうが!」

 

 とぼけた返答を繰り返す女に痺れを切らし、少年は若干声を荒らげた。

 

 宝塚記念を観戦するという名目で自分を連れ出した相手がこの有様なのだから、怒るのも無理はない。

 

「いいんですか!? もうレース始まっちゃってますよ! 宝塚記念を観に行くんだって急に言うから仕方なくついてきたってのに……どういう了見なんですかこれ? 僕はひょっとしておちょくられてる感じですか? 新手の嫌がらせですかこれ?」

 

「あはははは」

 

 連れの猛抗議を受け、女は吹き出した。

 

 心底から楽しそうな、屈託のない笑いだった。

 

「ごめんごめんマリオ。そんなつもりじゃなかったんだ。これはほら、あれだよ。私なりの観戦の仕方ってやつさ」

 

「は?」

 

「だってほら、私人混み嫌いだし」

 

「……」

 

「ここでこうしてたって、レースは観れる。伝わってくるんだよ。戦場の苛烈な空気と、そこから溢れる熱がね」

 

「また電波なことを……」

 

 付き合いきれないとばかりに、マリオと呼ばれた少年は呆れ顔を見せる。

 

 そんな反応に構わず、女は続けた。

 

「今は、大きな嵐が来ているね」

 

「嵐……? ああ……何だか知りませんけど、誰かがすごい大逃げしてるみたいですね」

 

「強く、激しく、身を裂くように鋭い嵐だ。生半可な力じゃまず対抗出来ない。近寄る者全てを吹き飛ばし、戦場を蹂躙し尽くす、圧倒的な暴威の具現だね」

 

 女の言葉は嘘ではない。直接目で見ずとも、彼女には戦場の様相が見えていた。

 

 数十秒後に訪れる、確定的な未来も含めて。

 

「でもすぐに、もっとすごいのが来る」

 

「え?」

 

「嵐を突き破る、雷の渦――青い光の奔流が、ここの空気を塗り替えるよ。もうすぐね」

 

 スケッチブックの白い用紙に描かれていたのは、広場の風景ではなかった。

 

 芝コースの長い直線。

 

 風雨を跳ね返し、大地を蹴り砕いて猛々しく疾走する、雷光の化身の如き競走馬。

 

 画家を自称する異国の名馬は、その手で未来の事象を描き続けていた。

 

 

 

 

 

 

 バックストレッチの後半部分。残り約千百メートル地点。

 

 依然として馬群の最後方付近を走りながら、グラスワンダーは遥か先にあるマルゼンスキーの背中を見据えていた。

 

 獲物を見定め、飛び立つ直前の大鷲のように。

 

「マルゼンスキーさん……」

 

 小さく呟く。

 

 声が届く距離ではないと知りながら、それでも言葉を投げかける。

 

「あなたが何を経験し、何に傷つき、何に憤り、何を諦めて捨てたのか……何となくですけれど、分かる気がします」

 

 日本に来てからの三年間、マルゼンスキーという競走馬を間近で見てきた。

 

 その強さを知り、人間性を知り、多くのことを学びながら長い時間を共に過ごしてきた。

 

 だから分かる。分かってしまう。

 

 王者になれなかった不遇の強者が、心の奥底に秘めていたもの――その人生における影の部分が。

 

「あなたと同じ人生を歩んでいたら、私も同じようになっていたのかもしれない。他の誰でも同じだったのかもしれない。そう思う気持ちは、今の私の中にも確かにあります」

 

 形は違うが、自分も挫折を経験してきた。現実の厳しさに苦しみ、幾度も夢を諦めかけてきた。

 

 マルゼンスキーの在り方を否定する気はない。

 

 夢も未来も捨て去ったその姿は、ありえたかもしれない自分の姿でもあるから。

 

「でも私は、あなたに屈したくない。あなたに負けたくない。ここでこの勝負に勝って、あなたが辿り着けなかった場所を目指したい」

 

 敵の姿を見据える眼に、力を込める。

 

 一歩も退かないために。

 

 立ちはだかる強固な壁を蹴り砕き、夢見た未来に辿り着くために。

 

「私は……」

 

 自分の意思で、この世界に踏み入った。

 

 幼き日の憧れを追い駆け、全てを懸けて戦い続けてきた。

 

 それは特別なことではない。これまでに多くの者が歩んできた道であり、これからも多くの者が歩んでいく道だ。

 

 生まれも育ちも関係ない。実績も実力も関係ない。強い弱い出来る出来ないの問題でさえない。

 

 誰よりも強くなりたいと願った時から、誰もが等しく通る苦難の道。

 

 その道を歩む者の一人として、自分も今日まで生きてきた。歯を食いしばり、涙を堪え、尽きない願いを前に進む力に変えて。

 

 ただそれだけが、自分の矜持。

 

 傷だらけの身体を今日まで支え続けたものであり、胸に抱く譲れないもの。

 

「私は――競走馬だから」

 

 第三コーナーの手前。残り約千メートル地点。

 

 勝負所と呼ぶにはあまりにもゴールから遠いその場所で、≪怪物≫グラスワンダーは勝負に出た。

 

 脚を、高く振り上げる。

 

 競馬の常識を逸脱するほど、異様に高く。

 

 空の頂を蹴り上げるかのように、限界まで高く。

 

 その挙動に気付いた周囲の競走馬達は、揃って息を呑んだ。

 

 ターフビジョンを見ていたスタンドの大観衆は、一様に瞠目した。

 

 テレビ画面越しに観戦していた人々も、学園にいた仲間達も、遠い異国の強豪達も、一人の例外もなく驚愕し、画面上の一点だけを凝視した。

 

 数多の視線が集まる中、グラスワンダーは脚を振り下ろす。

 

 今この瞬間までに培ってきた力の全てを、その脚に込めて。

 

 あらゆる苦難に立ち向かう覚悟と、何度挫けても消えなかった闘志を燃やして。

 

 長く険しい道の果てにある、光輝く場所を目指して。

 

 ガラスの脚を、大地に叩きつける。

 

「ハアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――――ッ!」

 

 迸る咆哮。轟く爆音。天高く蹴り上げられ、雨に交じって降り注ぐ土と芝。

 

 落雷に等しい衝撃が競馬場全体を揺るがした直後、≪怪物≫の小さな身体は雷光と化した。

 

 刹那の内に馬群を抜け、単独の二番手に躍り出る。

 

 砲火の如く放たれた青き雷光が、遥か先にある深紅の背中を猛追する。

 

『な――ああああああああああああああ!?』

 

 実況が大口を開け、悲鳴に近い叫びを上げた。

 

『グ、グラスワンダーが……グラスワンダーが仕掛けた!? 残り約千メートルの地点から、まさかのラストスパート! 前代未聞の超ロングスパートだ!』

 

 諦めた者と、諦めなかった者。

 

 異なる道を歩んだ二人の≪怪物≫の戦いは、最終局面を迎えようとしていた。

 

 

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