ウマ娘 Big Red Story   作:堤明文

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第二十三話「ビッグレッド」

 

 

 約三ヶ月前。北海道での合同合宿から帰った翌朝。

 

 夜が明けて間もない学園の練習場に、グラスワンダーとリコの姿があった。

 

「グラスちゃんの、この走り……」

 

 芝生の上に立っていたリコは、自身の右脚を高く振り上げる。

 

 次いでその脚をゆっくりと下ろし、地面を踏み締める。

 

 静かに行われたその動作は、グラスワンダーの「叩きつける走法」の脚運びと同じだった。

 

「はっきり言ってこれ、無理なのよ」

 

 足元に目を落としたまま、リコは言う。

 

「普通の人がこれをやろうとしたら、速いとか速くないとか、勝てるとか勝てないとか、そういう問題以前に……まず、走れない」

 

 告げられた事実に、グラスワンダーは驚きも反論もしなかった。

 

 ずっと前から知っていたのだ。

 

 自分の走り方は特殊過ぎる。普通の競走馬のそれとはかけ離れた不自然極まりない動きであり、無駄と非合理の極致。

 

 他人が無理に真似したところで、走るどころかろくに前進することさえ出来はしないと。

 

「対抗戦の時にパサーちゃんが真似してたけど、あれもセンスと器用さでそれっぽくしてただけね。外見は酷似してても、あなたが使う本物とは似て非なるものだったわ」

 

 リコは自身の足元から視線を切り、グラスワンダーの両脚を見据える。

 

「アメリカ屈指の名馬が真似しても、その程度が限界。普通の子には真似することさえ出来やしない。あなたのこの走りは、正真正銘あなたにしか出来ない、あなただけの走り」

 

 目を細め、核心に迫るように続ける。

 

「私の見立てだと、その理由は関節の可動域ね」

 

 何故誰にも真似出来ないのか。

 

 何故グラスワンダーだけが出来るのか。

 

 その理由について考え、グラスワンダーの一挙手一投足を深く観察し続けた末の結論が、それだった。

 

「身体の作りは基本的にみんな同じ。でも手足の長さや太さ、目や耳の精度が人によって違うように、身体のどの部位にも個人差ってものはある。あなたの場合は、股関節の可動域が普通の人より大分広めに出来てるみたいね。それが、脚を異様なほど高く振り上げながら走る独特の動きを可能にさせてる」

 

 誰にも真似出来ず、誰からも理解されず、非合理で不格好な走りと蔑まれ続けたのは、通常の身体構造では不可能な動きだったため。

 

 しかしながら、その不可能をごく自然な形で実現させてしまう、特異な関節を持つ競走馬がいた。

 

「それを邪道と呼ぶなら、確かにその通り。稀有な身体的特徴がなければ成立しない走り方なんて、どう考えても正道や王道なんて呼ばれる類のものじゃない。基本を重んじる人には受け入れ難いでしょうし、直さなければいけない悪癖だって言う人も多いでしょう」

 

 厳しい表情で語ってから、リコは小さく溜息をつく。

 

「でも、まあ……いいわ。そんな人達の声、全部無視してくれちゃって」

 

 投げやりなようにも聞こえる言い方だったが、声音と眼差しは真剣だった。

 

「あなたの走り方は簡単には直らないし、無理に直そうとしたらかえって駄目になるもの。絶対」

 

 グラスワンダーの走り方を矯正する気など、リコには最初からない。

 

 下手な矯正は逆効果になるだけの手合いだと見抜いており、その個性に合った方法で育成するしかないと結論付けていたからだ。

 

「競馬に限らず、球技でも格闘技でも……美術や工芸の世界なんかでもそうだけど、基本や正道って呼ばれる合理的な型が何故か身体に馴染まなくて、邪道と呼ばれる非合理な型の方が馴染むって人はいる。少数だけど確実にいるのよ、そういうタイプの人は。あなたもその一人ね」

 

 嘲りも蔑みも呆れもせず、正道と適合しない異端者と対等の目線で向き合う。

 

「私はそれでいいと思ってる。レースは品評会じゃないし、競走馬はかくあるべしみたいな理想像や後進のためのお手本になってあげる必要はない。そんなことより大事なのは結果。勝利のために最善を尽くし、レースで一着をもぎとること」

 

 一人の勝負師としての視点で物を言い、冷徹な素顔を覗かせる。

 

「誰にも真似出来ない特別な走り方が、あなたにとっての最善なら……その道を突き詰めていくしかないわね。死ぬ覚悟で」

 

「……はい」

 

 グラスワンダーは頷く。

 

 たった今言われたことは、彼女が自分自身に繰り返し言い聞かせ、胸に刻んでいたことと同じだった。

 

 リコは表情を緩め、普段通りの顔に戻る。

 

「ま、あれよ。前置きが無駄にクソ長くなっちゃったけど……要するに、私はあなたの走り方が嫌いじゃないって言いたかっただけ。何だかんだでめちゃくちゃ速いし、必殺技みたいでかっこいいしね」

 

 冗談を好むリコだが、基本的に嘘はつかない。

 

 この時口にした言葉も、偽りのない本心からのものだった。

 

「だから教えてあげる。そのすごい必殺技をさらに超すごい必殺技に変える、とっておきの方法をね」

 

 矯正ではなく進化。「叩きつける走法」を基本としつつも細部に手を加え、より実戦的な走法に磨き上げる試み。

 

 それがリコの示す道であり、グラスワンダー自身が選んだ道。

 

「もちろん簡単じゃないし、下手したらマジで死ぬかもしれないけど、ものに出来たらきっとなれるわよ」

 

 喧嘩好きの悪童のような笑みを見せ、リコは楽しげに言い切った。

 

「世界のみんなの記憶に焼き付く、最強の競走馬に」

 

 

 

 

 

 

 佳境を迎えた宝塚記念。

 

 阪神競馬場内回りコースの第三コーナー付近。

 

 常識破りの超ロングスパートを敢行したグラスワンダーは、可能な限り全身を前傾させ、地を這うような姿勢に変化。それにより振り上げた脚の角度も変わり、膝を大きく前方に突き出す形となる。

 

 頭の中で思い描く。聳え立つ垂直の崖を蹴り、天高く飛び上がる自身の姿を。

 

 その想像をなぞる形で、脚を振り下ろす。楔を斜めに打ち込むように大地を踏み、絶大な衝撃を生む。

 

 衝撃は極大の推進力となり、≪怪物≫の疾走を極限の域まで加速させる。

 

「嘘だろ……何だよあれ……!?」

 

「は、速い! もうあんなところに……!?」

 

 置き去りにされた後方集団の面々が、驚きと困惑の声を上げる。

 

 先程グラスワンダーと言葉を交わした黒鹿毛の少女も、呆気に取られた顔で呟く。

 

「すごい……」

 

 グラスワンダーの「叩きつける走法」の凄まじさは、その場の誰もが知っていた。

 

 されど今眼前で披露されている末脚は、従来の「叩きつける走法」とは明らかに違う。

 

 その異様な走り方と想像を絶する加速力は、後方集団の全員を驚愕させ、競馬場全体を震撼させた。

 

『グラスワンダー凄まじい脚! 一瞬で二番手に躍り出た! これはすごい! とてつもない末脚だ! し、しかし……』

 

 桁外れの競走能力を讃えながらも、実況は懸念を口にする。

 

『まだ第三コーナーで、この仕掛けは早い……! あまりにも早すぎるラストスパート! これでいいのか!? 果たして最後までもつのか!?』

 

 同様のことを言う者は、スタンドの観衆の中にも数多くいた。

 

 急展開に対する興奮と混乱、歓声と悲鳴が交錯する中、≪怪物≫は周囲の雑音など意に介さずに走り続ける。

 

 その双眸は真っ直ぐに、ただ前だけを見据えていた。

 

 

 

 

 

 

 テレビ画面越しにその瞬間を目撃したキングヘイローは、半ば放心状態になっていた。

 

 常識破りの早仕掛けには驚いた。他馬が止まって見えるほどの加速力にも驚いた。

 

 だが本当の意味で彼女を驚かせたのは、仕掛けのタイミングでも末脚の鋭さでもなく、その走りの姿勢と足運びだった。

 

「あれは……」

 

 画面を凝視しながら、震える声で呟く。

 

 グラスワンダーが繰り出す新走法に対して、最初に覚えたのは既視感だった。

 

 かつて間近で見たのだ。よく似た走りを。

 

「あの時、坂路で見た……」

 

 約四ヶ月前、リコと初めて会った日の模擬戦。

 

 長い上り坂を貫き、刹那の内に自分を置き去りにした、一条の閃光。

 

 記憶に刻まれた、絶対的強者の姿。

 

「光の……脚……」

 

 目に映る現実と記憶の中の閃光が、彼女の中で重なり合った。

 

 

 

 

 

 

「前傾姿勢だ」

 

 食堂の片隅。エルコンドルパサーとシンボリルドルフの間に立つエアジハードが、静かに言う。

 

「グラスワンダーのあの新走法の肝は、従来よりも身体を僅かに前傾させることにある」

 

 一時期特訓に協力していた彼女は、グラスワンダーが体得した新走法の原理と、そこから生み出される異常な加速力を知っていた。

 

「以前の叩きつける走法は爆発的な力を生み出してはいたが、その力を完全には活かせていなかった。脚を振り下ろす際の姿勢の関係で、力が前ではなく上に逃げていたからだ。それを解決したのがあの姿勢。身体全体を前方に傾け、脚と地面が接触する角度を変えること」

 

 力が上方向に逃げてしまうなら、そうならない姿勢に変えればいい。

 

 実に単純かつ、危険極まりない解決策。

 

「あの姿勢で走れば力のロスは減り、より多くの力を推進力に変えて加速出来る……が、相応のリスクもある。姿勢が不安定な分バランスをとるのが極めて難しく、常に転倒の危険がつきまとうことだ」

 

 重りをつけたまま一本足で進むという奇行を続けた理由がそれだ。

 

 身体の前に重心が置かれた状態に慣れ、それを維持しながら全身を制御する技術を培うことが、あの特訓の目的だった。

 

「特訓によってバランス感覚は鍛えられたが……それでも、あの走法を長時間維持することが出来るのか……いや、それ以前に……」

 

 テレビ画面の中で激走するグラスワンダーを見つめ、不安げに呟く。

 

「あの位置から仕掛けるのが、果たして正解だったのか……」

 

 グラスワンダーがラストスパートを敢行した第三コーナー手前は、ゴールからはあまりにも遠すぎる場所だった。

 

 

 

 

 

 

「よりにもよって、三コーナーの手前で仕掛けたか……狂気の沙汰だな」

 

 呆れたように言いながらも、ブリガディアジェラードの表情は険しかった。

 

 最早勝ち目はないと断じていた時とは違う。認識を改めるに足る事象を目にした時だけ見せる、深い関心と警戒心が同居した顔だった。

 

「だが……想像以上に速く、力強い。あれほど激烈な末脚の持ち主は、私が知る中でも五人といない」

 

 ロケットエンジンが点火したかのような急加速を遂げ、刹那の内に馬群を抜けて単独の二番手まで進出したグラスワンダー。

 

 他馬を圧倒するその豪脚は、大英帝国の軍神の目から見ても常軌を逸したものだった。

 

「確かに、凄い脚だけど……」

 

 顔を強張らせ、ミルリーフは叫ぶ。

 

「いったい、どうやって……どうやってコーナー曲がる気よ!? あれ!」

 

「……どうもこうもない。速度が出過ぎだ。どれほどの技術や身体能力を持っていたとしても、あれでは曲がれん」

 

 名馬と呼ばれる優れた競走馬の中には、持ち前の技術や身体能力で驚異的なコーナーワークを可能とする者もいるが、それとて限度というものがある。

 

 グラスワンダーが第三コーナーを通過中に到達した速度は、その限度を遥かに超えていた。

 

 誰の目にも明らかなことなのだ。サラブレッドの限界値に近い速度を維持したまま他馬と同様にコーナーを曲がるなどという芸当が、どんな名馬にも実現不可能なことは。

 

「いや……」

 

 ブリガディアジェラードはグラスワンダーの意図を悟り、呟いた。

 

「曲がる気など、最初から無いな。あれは」

 

 

 

 

 

 

 グラスワンダーはコーナーを曲がれなかった。「普通に」という意味では。

 

 馬群を抜け出した勢いのまま、自らの激走が生み出す遠心力に呑まれ、ただ一人だけ外埒へと向かっていく。

 

 逸走と呼ばれる現象だ。通常なら競走中止とほぼ同義であり、勝利は絶望的となる。

 

『グラスワンダーがここで逸走! 馬群を離れ外埒へ向かっていく! これはどうだ!? 大丈夫なのか!?』

 

 実況が困惑した様子で叫ぶ。スタンドからは数多の悲鳴が上がる。

 

 レースを観ていた者のほとんどが平静を失い、逸走による自滅という最悪の結末を思い描く中、グラスワンダー当人は平然としていた。

 

 平然と、外埒ぎりぎりの大外を曲がり切ったのだ。

 

「うわああああああああああああああああッ!」

 

 重なり合う絶叫は、その瞬間を目撃した観衆全員の口から迸ったものだった。

 

 水飛沫が上がる。芝と泥が跳ね飛ぶ。脚を地面に叩きつける度に生じる風圧が、埒の外側に立ち並ぶ観衆の顔面を打つ。

 

 遠心力に逆らおうとせず、むしろそれに身を任せるようにして外埒まで突き進んだグラスワンダーは、埒に身体を擦りつけながら競走を続行する。

 

 この日競馬場に詰めかけた人々の記憶に、その暴威を深く刻みつけて。

 

『な、何という……何という走りだ! ≪怪物≫グラスワンダー! まさかの逸走から外埒沿いを爆走! 水飛沫を上げて直線に突入! そのままゴールへと突き進む!』

 

 競馬を少しでも知る者なら分かる。自分達が今、どれだけ異常な光景に直面しているかは。

 

 直線に入る前に仕掛けるロングスパートという戦法はある。あえてコーナーで馬群の外側を通る戦法もある。

 

 だが、ここまで極端なものは流石にない。

 

 第四コーナーではなく第三コーナーの手前で仕掛け、馬群の外側どころか外埒沿いの超大外を通るという、暴挙中の暴挙。競馬の常識を逸脱しているどころか冒涜しているとさえ表現出来る、狂気の戦法だった。

 

 そんな戦法を迷いなく実行したグラスワンダーは、外埒との摩擦で衣服と皮膚を裂かれながらも、怯まずに突き進む。

 

 脳髄を刺す痛みを、灼熱の闘志で焦がし尽くして。

 

 超ロングスパートによる疲労を、鋼色の決意で捻じ伏せて。

 

 進化を遂げた走法でターフを蹂躙しながら、前代未聞の暴走劇を演じ続けた。

 

 

 

 

 

 

「噂には聞いていたが……噂以上に無茶苦茶だね、彼女」

 

 ドクターフェイガーの眼は、画面に映る狂気の激走を注視していた。

 

「綺麗にロスなくコーナーを曲がろうなんて、最初から微塵も考えていない。逸走上等。距離損など百も承知。どんなに強引でも不格好でも、レースを続けられるならそれでいい。外埒沿いを通ることになっても一向に構わない……そういう走りだ。あれは」

 

 肯定も否定もせず、ただその心情を読み取るような口振りで、冷静に語る。

 

「速度を抑えて中途半端に外を回るより、全速力で大外を回った方がゴールに到達する時間は短くなる……と判断したのかな?」

 

「あえて理屈っぽく言うなら、そんなところだろうが……そういう計算じゃねえんだろうな、あれは」

 

 合宿の時の記憶を振り返り、バックパサーは呟いた。

 

「あいつはただ、やりたいことをやってるだけ。走りたいように走ってるだけ」

 

 決意と覚悟を胸に抱き、自らの走りを貫き通すグラスワンダー。

 

 その姿を見据える眼差しには、羨望にも似た感情が含まれていた。

 

「そうしたいから、そうした――多分本人に訊いても、返ってくるのはそんな答えだろうよ」

 

 短い間だったが、彼女は合宿でグラスワンダーの苦悩と成長を見た。

 

 その精神の奥深くにあるものを垣間見た。

 

 だからこそ理解出来た。この熾烈なレースの中で、グラスワンダーが示そうとしている愚直な生き様を。

 

「無謀で非合理。リスクが高すぎるし身体への負担もでかい。ろくに後先考えてねえ、アホの極致みてえな走りだ」

 

 貶すようにそう言ってから、笑って付け加える。

 

「あたしは嫌いじゃねえけどな」

 

 その一言を聞き、ドクターフェイガーも笑った。

 

 眼鏡の奥の瞳を子供のように輝かせ、楽しげに応じる。

 

「同感だね。魂が震えるよ、こういう走りは」

 

 

 

 

 

 

 後方を振り返ったマルゼンスキーは、その異常すぎる走りを見て戦慄した。

 

 ただでさえ危険だった「叩きつける走法」をさらに危険な形に作り変え、第三コーナー手前から自殺行為に等しい超ロングスパートを敢行し、通常なら誰も通らない外埒沿いを通って自分を猛追する栗毛の少女。

 

 その存在に、心底からの恐怖を覚えた。

 

 何もかもが、狂気の沙汰としか思えなかったからだ。あらゆる意味で。

 

(イカレてる……!)

 

 普通ではないと思ってはいた。大人しい外見に反して大胆な性格も、合理性からかけ離れたレースぶりも、重々承知しているつもりだった。

 

 しかしまさか、ここまでとは思わなかった。

 

 自分が引導を渡そうとしていた相手は人の形をした狂獣だったことを、今更ながらに思い知る。

 

 同時に、思い出す。出会った頃からあの少女はそうだった。

 

 常識などに囚われない。人の忠告など聞きはしない。いつでも自分の走りにこだわり、どこまでも自分の道を進むだけ。

 

 走りたいように走る――それが、競走馬グラスワンダーの唯一にして絶対の信条だったのだ。

 

 負ければ全てを失う大一番でも、その信条は微塵も変わらなかった。

 

「ふざけ……ないで……!」

 

 奥歯を噛み、掠れた声を零す。

 

「そんな、出鱈目……そんなふざけた走りで、勝てると思ってるの……!? この私に!」

 

 大外から襲来する狂獣を睨み、激情を露わにする。

 

「通じると思ってるの……!? 世界に!」

 

 問いに、答えは返ってこない。

 

 グラスワンダーは無言に徹したまま、前だけを見据えて外埒沿いを走り続ける。愚問に答える必要はないと告げるかのように。

 

 その冷徹さが、マルゼンスキーをさらに苛立たせた。

 

「そんな、無茶な走りで……泥だらけになって……傷だらけになって……」

 

 自分には到底出来ない――他の誰にもきっと出来ない、刹那の時間に命を燃やし尽くす走りへの怖れを込め、鋭く叫ぶ。

 

「いったい……何の意味があるっていうのよ……!?」

 

「――意味なんか、いらない」

 

 答えはあった。

 

 雨と風を跳ね返し、ゴールを真っ直ぐに目指しながら、グラスワンダーは返答を口にした。

 

「栄光も、称賛もいらない……人に何て思われたって、どんなに馬鹿馬鹿しくたっていい……私は、私のレースをするだけ……」

 

 決して大きな声ではなかった。

 

 極限の戦いの最中、荒い呼吸を繰り返す口から紡がれた、微かな声。

 

 それは何故か、スタンドの大歓声にも実況の声にもかき消されることなく、マルゼンスキーの耳に届いた。

 

「一番になるって……この世界の誰よりも強くなるって、私が決めた。自分に誓った。だから……」

 

 泥塗れの脚を、大地に叩きつける。

 

 限界を迎えつつあった身体から限界を超えた力を絞り出し、決死の加速。

 

 世界を貫く一条の光となり、前へと進む。

 

「ゴールを目指して、走り続ける。それだけだ」

 

 直線半ば。ゴールまで残り約二百メートル地点。

 

 向こう正面では二十馬身以上あった両者の差が、既に三馬身ほどにまで縮まっていた。

 

 

 

 

 

 

 エルコンドルパサーは、その光景を見ていた。

 

 誰もが目を剥く戦法で極限の激走を続け、ついにマルゼンスキーに並びかけたグラスワンダーの姿を、テレビ画面越しに見つめていた。

 

 食堂全体が驚愕と興奮の渦に呑まれ、エアジハードやシンボリルドルフでさえ張り詰めた面持ちを並べる中、彼女だけは落ち着いていた。

 

 その口許には、穏やかな笑み。

 

「誰にも真似出来ない走りをして、誰よりも眩しい強さを見せてくれる、私の憧れ」

 

 あの雨の日と同じ言葉を、静かに紡ぐ。

 

 いつか決着をつけると約束した宿敵の姿を、その目に焼きつけて。

 

 親愛と信頼と、無垢な憧れを、澄み切った声に込めて。

 

「世界の誰よりも強いって信じてる、私のビッグレッド」

 

 

 

 

 

 

 かつて、燃え立つように明るい栗毛の競走馬がいた。

 

 同時代を生きた他の誰よりも強く、誰よりも眩しい輝きを放っていたその名馬は、いつしかその毛色に由来する愛称で呼ばれるようになり、競馬の世界の伝説となった。

 

 それから長い時を経て、再び栗毛の最強馬が現れた。

 

 遠い昔の最強馬と酷似した容姿を持ち、世界の誰もが目を奪われるほどの強さを誇ったその名馬は、伝説の後継者にふさわしい存在と人々に讃えられ、初代と同じ名で呼ばれた。

 

 明るい毛色からくる愛称だった呼び名は、図らずも時代を超えて受け継がれ、真の最強馬を意味する称号となった。

 

 そして現在。伝説が生まれた地から遠く離れた、小さな島国の競馬場。

 

 最強馬の走りを目に焼きつけ、その絶対的な強さに憧れ、その背中を愚直に追い駆け続けてきた栗毛の競走馬が、その名を継ぐ。

 

 新たなる≪ビッグレッド≫の伝説が、ここに産声を上げる。

 

 

 

 

 

 

『グラスワンダーだ! グラスワンダーだ! 大外を通ってグラスワンダーがやってきた!』

 

 人智を超えた激走は不安や混乱を吹き飛ばし、スタンドを熱狂させた。

 

 言葉にならない数多の叫びが重なり合い、地鳴りのような大歓声となる。興奮のあまり席から立ち上がる者、柵から身を乗り出す者が続出する。

 

 人々の視線が、広大な競馬場の一点に集まる。

 

 燃え立つような栗毛の競走馬を凝視し、その神々しい走りを記憶に刻む。

 

『三馬身! 二馬身! 一馬身! マルゼンスキーとの差が詰まる! 信じ難い光景だ! マルゼンスキーの圧勝かに見えたレースを、超ロングスパートと大外回りでひっくり返した!』

 

 内で懸命に逃げ粘るマルゼンスキーと、大外から閃光の如く襲来するグラスワンダー。

 

 内外に大きく隔てられた両者の馬体が、ついに横一線に並ぶ。

 

 残り百数十メートルの地点で、二人のレースが振り出しに戻る。

 

『並んだ並んだ! ついに両者が並んだ! 脚色では完全にグラスワンダーが優勢! マルゼンスキーここまでか!?』

 

 絶対的優位を覆された、危機的状況。

 

 全てを賭した逃走劇が打ち破られ、奇跡のような大逆転劇がなされる寸前。

 

 そんな瞬間の中で、マルゼンスキーは自分自身に疑問を抱いていた。

 

 何故自分は今、敵の走りを見ているのか。

 

 前を向いて走らなければならないのに。自分の走りに集中しなければならないのに。

 

 負けられない勝負なのに。いや、たとえ負けることになったとしても、十馬身差以上つけられることだけは阻止しなければならないのに。

 

 これが最後で構わないと、自分の競走生命を犠牲にしてでも引導を渡してみせると、固く誓っていたはずなのに。

 

 どうして今、あの栗毛の少女から目が離せないでいるのか。

 

 その答えを探し求めた時、思い出した。

 

 三年前の、あの日――あの温かな表彰式の時も、同じ心境だったことを。

 

 

 

 

 

 

 自分と同じだと思った。

 

 他人より速く走れるだけの、どうしようもない脆さを抱えた欠陥品。

 

 強く眩しく輝いた後に消え失せ、人々から忘れ去られていく、刹那の強者。

 

 だから、観客の多くが幸せそうに語る夢は現実にならないと、あの日の表彰式でも冷めた心地で思っていた。

 

 それなのに――何故かあの光景から、いつまでも目が離せなかった。

 

 銀色の優勝カップを受け取る姿に視線を注ぎ、気が付けば、他の観客達と同様に手を叩いていた。

 

 誰かが言った。「怪物だ」と。

 

 確かに強かった。走り方も戦法も何もかも、出鱈目で粗雑で稚拙極まりないのに、そんなことはどうでもいいと思えてしまうくらい、鮮烈な輝きを放っていた。

 

 別の誰かが言った。「マルゼンスキーの再来だ」と。

 

 それは呪いだと思った。この自分の再来なら、行き着く果ても自分と同じ。王者になれない日陰者のまま現役を終え、競馬の歴史に名が残ることはない。

 

 きっとそうなると思った。そうなる未来しかないと確信していた。一抹の寂しさと憐れみを抱きながら、遠くない未来の残酷な結末を想像していた。

 

 けれど最後に、また別の誰かが言った。

 

「違う」と。

 

 誰かは知らない。どこから聞こえてきたのかも分からない。それでも不思議と記憶に残った、誰かの声。誰かの想い。

 

 誰かは言っていた。あの少女は違うと。

 

 マルゼンスキーの再来でも、同じガラスの脚の持ち主でも、行き着く果ては違う。

 

 黄金のように眩しい強さを持つ彼女は、きっと違う場所に行ける。

 

 あの脚には、奇跡の力が宿っているから。

 

 運命さえも蹴り砕いて進んでいく、強い力がきっとあるから。

 

 未来は変わる。ちっぽけな想像なんて超えていく。

 

 幾多の困難を踏み越え、世界で一番強い競走馬になって、光輝く道をどこまでも駆け抜けていく。

 

 そんな絵空事を、嬉しそうに語っていた。

 

 

 

 

 そう、あの「誰か」は――

 

 あの日、あの時、歓喜と祝福に満ちた競馬場の片隅で――

 

 幸せな、夢を見たのだ。

 

 

 

 

 

 

『グラスワンダーだあああああああああああああああああ!』

 

 猛火のような熱を込め、実況が叫ぶ。

 

 人々の大歓声は轟音の奔流となり、空の果てまで響き渡る。

 

 レースの最終盤。グラスワンダーがマルゼンスキーをかわし、先頭に立つ。

 

 奇跡的な大逆転を果たした栗毛の最強馬は、その勢いのままマルゼンスキーとの差を広げ、直線を独走する。

 

 既にレースの勝敗は決していた。誰の目にも勝者は明らかだった。

 

 そんな状況にあっても、勝利を確定させた当人の胸中に慢心はなく、極限の域をも超えた激走を当然のように続行する。

 

 この戦いで示すと決めていた。世界に挑むに足る、力と覚悟を。

 

 勝つと誓っていた。マルゼンスキーだけではなく、自分の前に立ちはだかるもの全てに。

 

 だから走る。幾度でも限界を超え、肉体と魂を燃やし尽くして。手抜きなどせず、一瞬たりとも気を緩めることを許さず、己を叱咤し続けて。

 

 無双の剛脚で大地を砕き、赤き伝説の継承者としての姿を、広大な世界に見せつける。

 

『グラスワンダーがここで先頭! 瞬く間に差を広げる! 凄まじい脚だ! これは強い!』

 

 多くの者が、その走りに見入った。その強さに敬服した。

 

 敵も味方も、人間も競走馬も、国内の者も海外の者も皆等しく、歴史の転換点に立ち会ったような心境で、死闘の決着を見届けた。

 

『グラスワンダーだグラスワンダーだ! もう間違いない! あの日我々の魂を震わせた怪物が、最強の競走馬となって帰ってきた!』

 

 いつの時代、どこの国でも、眩しい強さを持った存在に人々は惹かれる。

 

 一人一人が記憶に刻み、夢と憧れを抱いたその強さは、時が流れても色褪せることはない。

 

 世代を超えて語り継がれ、後に続く者達の道標となる。

 

 刹那の煌めきがいつまでも残り、やがて永遠に輝く伝説となる。

 

『全てを超越したグラスワンダーが今、一着でゴール!』

 

 新たな伝説の幕開けは、後続に十馬身以上の差をつけた圧勝劇だった。

 

 

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