ウマ娘 Big Red Story   作:堤明文

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第三話「黄金獣」

 

 

 校舎の裏手――植え込みに囲まれた狭い場所に、大きな黒い石碑が建っている。

 

 普段は誰も寄りつかない場所だが、今は一人の女の姿がそこにあった。

 

 東条ハナ。

 

 学園最強チーム「リギル」の指導者である彼女は、黒い石碑の前に無言で佇んでいた。

 

 凪いだ水面のような瞳の奥に、深い悲哀と葛藤を宿しながら。

 

「良い事でも、悪い事でも……何か特別な事があった後は、必ずその石碑の前に来る…………いつも通りですね」

 

 背後から声をかけられ、ハナは驚いて振り返る。

 

 そこにいたのは、制服姿のマルゼンスキー。

 

 リギル創設時からのメンバーである鹿毛のサラブレッドは、普段通りの穏やかな空気を纏いながら、校舎を背にして立っていた。

 

「お邪魔しちゃ悪いかと思いましたけど、ちょっと二人きりで話がしたかったので」

 

 ハナは僅かに顔をしかめる。

 

 時折この場を訪れる習慣は、誰にも知られていないつもりだったが――長い付き合いの教え子だけは例外だったらしい。

 

 隠し事は出来ないものだと痛感して、小さく溜息をついた。

 

「……話って、何?」

 

「昨日の、模擬レースの後のことです」

 

 淡い笑みを湛えたまま、師と真っ直ぐに目を合わせ、リギルの最古参は言った。

 

「グラスを連れて行って、何か話をされたようですけど……具体的には、どういう話をされたんですか?」

 

 交錯する視線。

 

 互いの心を探り合うように、二人は相手の目をじっと見つめる。

 

「……それを聞いて、どうするの?」

 

「どうするかは、聞いてから考えます。まずは聞かせて下さい。昨日のレースの後、何があったのかを」

 

 その問答の後、二人の間で沈黙が続いた。

 

 世界の全てが凍りつき、時の流れさえ止まったかのような、長い静寂の間だった。

 

 やがて、教え子の真摯な眼差しから目を逸らし、リギルの指導者は事実を口にする。

 

「引退しろと命じたわ」

 

 その声音からは、一切の感情が排されていた。

 

「競走馬を辞めて学園を退学して、競馬の世界から縁を切るように強要した。当然本人はそれに反発したから、激しい言い争いになった。私はあの子の頬を思いきり叩いて、口汚く罵って、あの子が今までやってきたことの全てを否定した。そうして立ち直れなくなる寸前まで追いつめた後、こちらが提示した条件を呑むなら現役続行を許すというのを落としどころにして、話をつけた。……簡単にまとめるなら、そんな流れよ」

 

「……提示した条件というのは?」

 

「三ヶ月間練習に参加してはならない。一年間レースに出走してはならない。あの叩きつける走法を、二度とやってはならない」

 

「…………もう走るな、と言ったも同然ですね」

 

「ええ、そうね。もう二度と全力で走らせないつもりで、その条件を受け入れさせたわ」

 

 他人事のように淡々と語った後、ハナは自虐的に付け加える。

 

「軽蔑してくれていいわよ。外部に知れたら問題になるくらい、乱暴なやり方をしたから」

 

 決して明るみに出来ない話を聞いても、マルゼンスキーは特段驚かなかった。

 

 予想の範囲内だったからだ。

 

 あの状況でグラスワンダーを連れて行ったからには、そうした顛末になっていたに違いないと思っていた。

 

 故に平静を保ったまま、静かに問いかける。

 

「……そこまでした理由を聞いても?」

 

「辞めさせなければいけないと思った。それだけよ」

 

 ハナは即答し、目を細める。

 

「前から思っていたけれど、昨日のレースを見て確信した。グラスの走り方……あの脚を地面に強く叩きつける走法は、無理がありすぎる。このままあれをやらせていたら、遅かれ早かれまた故障する。前は軽度の骨折で済んだけれど、次はどうなるか分からない。だから、そうなる前に競馬を辞めさせるのが最善と判断したまでよ」

 

「……その慰霊碑に、名前を刻ませないために?」

 

 師の背後にある石碑に目を向けて、マルゼンスキーは言う。

 

 ハナは微かな苦渋の色をその顔に浮かべ、やや逡巡してから頷いた。

 

「……ええ」

 

 人気のない校舎裏に建つ、黒い慰霊碑。

 

 その表面には、競馬場で生涯を終えた者達の名が、無数に刻まれていた。

 

 

 

 

 

 

 坂路コース。

 

 広大な練習場の一角に設けられた、長い上り坂のコースである。

 

 くの字に折れ曲がった形をしており、全長は約千メートル。幅員は七メートル。高低差は三十二メートル。敷材にはクッション性の高いウッドチップが使用されている。

 

 リコが「勝負」の舞台として選んだ場所は、そこだった。

 

「じゃ、ここでいいわね? やだって言っても聞かないけど」

 

 黒いスーツから自前の青いトレーニングウェアに着替えたリコは、楽しげな笑顔のまま言う。

 

 キングヘイローは問いを投げた。

 

「ここを先に上りきった方が勝ちってこと?」

 

「そうよー。シンプルでいいでしょ? 坂路追いなら普段の練習でもやってるでしょうし、下は脚に優しいウッドチップだしね」

 

「別に芝コースでも構わないけど……」

 

「あなたがよくても、私が嫌なの。もう年だからねー。周回コースで二千かそこらなんて、とてもじゃないけど走ってらんないし」

 

 そう言いつつ、股関節のストレッチを始めるリコ。

 

 ゆったりと脚を前後に振るその様子は、ラジオ体操に励む老人のようだった。

 

「うわ……だるっ……思ったより鈍ってるわね、こりゃ……色んなとこが固くなっちゃってるし…………ほんともう、若い子が羨ましいわー……」

 

 年寄りじみたことを言いながら身体をほぐす自称監督役に、キングヘイローは難しい顔を向けた。

 

「……一つ聞くけど、あなた何歳よ?」

 

「ヒ・ミ・ツ」

 

「…………じゃあ、引退して何年になるのよ?」

 

「今年でちょうど十年目よ。あっ……これ言っちゃったら年バレるか」

 

 いけないとばかりに口を手で覆うリコに、キングヘイローは物言いたげな眼差しを送った。

 

 つい頭に血が上ってこんな勝負を受けてしまったが、よくよく考えてみれば、これから自分達の監督役になる人物と戦うなどおかしな話だ。

 

 しかも相手は、現役を退いて十年にもなるらしい。

 

 運動競技全般に言えることだが、現役の選手と引退した選手の間には大きな壁がある。たとえ往年の名選手でも、実戦を離れて練習を積まなくなれば瞬く間に劣化する。生物の身体とはそういうものだ。

 

 本人の自信満々な態度からして、現役時代は相当強かったのかもしれないが――所詮は昔の話。十年経った今もその頃と同じ走りが出来るわけがない。

 

 つまり、この勝負の結果は見えている。

 

 自分とて、一時はクラシック候補と呼ばれた身なのだ。とうの昔に実戦を離れた年増女に後れを取るほど弱くはない。

 

 とはいえ、変に遺恨が生じるような結果になっては後々面倒だ。ワールドカップには行きたいし、怪我をさせたりしてしまったら、流石に寝覚めが悪い。

 

 などと考えていると――

 

「なーんかごちゃごちゃ考えてる顔ねぇ」

 

 ストレッチをしていたリコが、舐めるような視線を向けてきた。

 

「こんなオバサンに負けるわけないけど、もし怪我させちゃったりしたら可哀想だなーとか思ってたりする? ひょっとして」

 

「……だったら、どうなのよ?」

 

 キングヘイローが返すと、リコは大きく吹き出し、肩を震わせながら腰を曲げた。

 

 さもおかしそうに、腹を抱えて笑ったのだ。

 

「何がおかしいのよ!?」

 

「だってー……その思考が既に負けフラグ全開なんだもの。いっそ清々しいくらいよねー。ここまで大物感皆無というか、ザコ臭丸出しなのも」

 

 小馬鹿にしたその言い様に、キングヘイローは奥歯を噛む。

 

 そんな様子を楽しげに眺めながら、リコは挑発を続けた。

 

「心配しなくても、坂路もまともに上れないほど老いぼれちゃいないわよ。そりゃ現役時代に比べたら大分衰えちゃってるけどねー……まあでも、十分なんじゃない? お遊びの勝負でド素人を軽く捻るくらいなら」

 

「……っ! 馬鹿にしてくれるじゃない……さっきから……」

 

「そりゃ馬鹿にするわよ。ヘイローちゃんの今までの成績見てもレース映像見ても、すごいと思えるところが一つもないもの」

 

 その発言で、キングヘイローの怒りは沸点を超えた。

 

 煮え滾る眼差しを相手に向け、怒声を正面から叩きつける。

 

「言ったわね! このババア! もう手加減してあげないわよ! 私が勝ったらそこに土下座させて、地面にめり込むまで頭踏みつけてやるんだからっ!」

 

 火を吐くようなその激昂を受け、リコは表情を変質させた。

 

 薄い唇を三日月の形に曲げ、瞳の奥に鋭い光を灯し――牙を剥くように、笑ったのだった。

 

 

 

 

 

 

「何かヘイローさん、また怒鳴ってるみたいですけど……」

 

 坂路のスタート地点を映すモニターを見ながら、スペシャルウィークが言った。

 

 シンボリルドルフがそれに応じる。

 

「あの年増……先生が煽っているんだろう。人の神経を逆撫でするのが半ば趣味になっているような人だからな」

 

 二人の勝負の見届け役となったシンボリルドルフとワールドカップ日本代表の面々は、坂路コースに併設されたスタンドに移動していた。

 

 普段の練習時なら、各チームのトレーナーやスポーツ新聞の記者達が陣取る場所だ。

 

 ガラス張りの大きな窓から坂路コースを見下ろせる構造になっており、壁際に備え付けられた複数のモニターにはコースの各所が映し出されている。

 

 部屋の隅に立つエルコンドルパサーは、無言でモニターを見つめながら、密かに思案していた。

 

 あの金髪の女――リコという名のサラブレッドについて。

 

「……」

 

 キングヘイローは、リコなどという名は聞いたことがないと言っていた。

 

 あの時は自分も同感だったが――落ち着いて考えてみると、何かひっかかる。

 

 以前どこかで、その名を耳にしたような気がする。いや、雑誌か何かで目にしたのだろうか。

 

 詳しいことは全く思い出せないが、その名が記憶の隅にこびりついている気がするのだ。

 

(この国の生まれじゃないって言ってたけど…………じゃあ、どこの……?)

 

 アメリカ、イギリス、フランス、アイルランドといった競馬先進国のサラブレッドなら、有名どころは全て自分の頭に入っている筈だ。ドイツ、イタリア、カナダ、オーストラリアあたりのサラブレッドも、大体は記憶している。

 

 あまり知らないのは、競馬の世界では比較的マイナーな地域――北欧とアフリカと、中南米のサラブレッドだ。

 

 そのあたりの国々にも名馬は勿論いるが、日本にはほとんど情報が入ってこないため、普通に生活していると知る機会が皆無に近い。

 

(名前の感じからすると、南米っぽいけど……ブラジル? ペルー? それとも……)

 

 モニターを見つめながら、そんな考察を続けていると――

 

「ねえ、エルちゃん」

 

 隣にいたセイウンスカイが、不意に話しかけてきた。

 

「どう思う? あのリコって人のこと」

 

 自分と同じようなことを考えていたのだろう。そう思ったエルコンドルパサーは、少し冗談を交えながら答えた。

 

「あー……何て言うか、色々はっちゃけてる人デスネ。ヘイローさんは大分怒ってましたケド、ワタシはああいう人もそんなに嫌じゃ……」

 

「そういうことじゃないよ」

 

 平坦な声で、セイウンスカイは言う。

 

 エルコンドルパサーが横を向くと、真剣な顔がそこにあった。

 

「上手く言えないけど……あの人、何か変だ。歩き方とか、立ち姿とかが、普通じゃない」

 

 いつも暢気で、弛んだ表情ばかりしているセイウンスカイが――この時は珍しく、硬く鋭い眼差しをモニターの画面に注いでいた。

 

「強いよ――きっと」

 

 

 

 

 

 

 突然、リコが奇妙な行動に出た。

 

 ストレッチを終えた途端、くるりと身を翻し、来た道を戻り始めたのだ。

 

「ちょっと……! どこ行くのよ……!?」

 

 訳が分からず、キングヘイローは問いを投げつける。

 

 リコはそれから十数歩進み、キングヘイローとの距離が二十メートルほど開いたところで立ち止まった。

 

 振り返り、楽しげな笑みを見せる。

 

「ここでいいわ」

 

「は?」

 

「私のスタート地点はここ。あなたはそこ。そういう条件で競走しましょうってこと」

 

 信じ難い宣言に、キングヘイローは瞠目する。

 

 次いで、怒りが――先程嘲弄された時以上に激しい怒りが、腹の底から込み上げてきた。

 

「……ふざけてるの?」

 

「ふざけてなんかいないわ。ハンデよ、ハンデ」

 

 対戦相手よりゴールから遠い位置に立ったまま、リコはさらりと言う。

 

「私とヘイローちゃんじゃ力の差がありすぎるからねー。丁度いいハンデつけてあげたのよ。少しは勝負らしくなるように」

 

「それがふざけてるってのよ! そんなハンデ……実戦だったら大出遅れと同じじゃない! それで勝てるとでも思ってんの!?」

 

 競馬のレースとは、コンマ一秒の差が明暗を分ける勝負。ほんの僅かな出遅れや仕掛けの遅れが、時として命取りになる。

 

 リコが「ハンデ」と称して設定した約二十メートルの差は、実戦ならば取り返しのつかない大出遅れ――勝つことが事実上不可能になるほど絶望的な差だ。ふざけているとしか言いようがない。

 

 にもかかわらず本人は、余裕の笑みを保っていた。

 

「勝てると思ってるから言ってんのよ。それとも何? 負けた時に恥ずかしくなるからハンデなしにしてほしい?」

 

「……っ! いいわよもう! 勝手にしなさい! 後で恥ずかしい思いするのはあなただからね!」

 

 投げやりに言い捨てたキングヘイローは、リコから視線を切る。

 

 そんなに自滅したいなら勝手にすればいいと断じて、坂の上――ゴール地点のある方向に身体を向けた。

 

 脚を前後に広げて腰を落とし、スタートの体勢を取る。

 

 勝負の舞台は、走り慣れた練習場の坂路コース。相手は、引退して十年にもなる年増女。しかもありえないほどのハンデ付き。

 

 負ける要素は何一つない。

 

「いつでもいいから、さっさとスタートの合図しなさいよ!」

 

「はいはい、分かってるわよ。……と、その前に、一つだけアドバイスしてあげる」

 

 同じくスタートの体勢を取りつつ、リコは言う。

 

「私を負かしたいなら、最初から死ぬ気で走った方がいいわよ。こっちはラスト二百メートルくらいしか本気出さないつもりだから」

 

「言ってなさいよババア!」

 

 挑発じみたアドバイスに、キングヘイローは強く反発する。

 

 リコは目を瞑り、それまでとは少しだけ意味合いの違う笑みを浮かべた。

 

「せっかく言ってあげたのに、仕方のない子ね。……ま、いいわ」

 

 目を開き、長い上り坂を見上げる。

 

 口許から笑みを消し、身体を深く沈め、勝負の開始を告げる。

 

「じゃ、始めるわよ。よーい――――スタート!」

 

 その声が響き渡ると同時に、キングヘイローは疾走を始めた。

 

 敷き詰められた木片を蹴散らし、急勾配の坂を一直線に駆け上がっていく。

 

 坂路とは心肺機能を鍛えるためのコースであり、最も体力の消耗が激しいコースだ。慣れているからといって易々と駆け上がれるものではなく、すぐさま重い疲労感がキングヘイローの肉体を襲う。

 

 だが、それは対戦相手とて同じこと。既に現役ではない身に、この坂路は相当辛い筈。

 

 そう思い、息を切らしながら後ろを振り返った。

 

 当然ながらリコも走り出していたが、彼我の距離はスタート時より広がっていた。

 

 宣言通り前半は抑えて走る気なのか、それとも単に加速がつかないだけか、その走りは大した速さではない。

 

 率直に言ってしまえば、遅い。

 

 下級条件で燻るサラブレッド同然の、平凡な走りだ。

 

 何を考えているのか知らないし、本当に強いかどうかも定かでない相手だが――最早どうでもいい。

 

 気の抜けた走りをするなら遠慮なく差を広げてやろうと心に決め、キングヘイローは肉体の出力を上げた。

 

 目に映る景色が高速で流れる。顔面を打つ風が激しさを増す。足腰にかかる負荷の増大と引き換えに、その身は急激に加速。しなやかな筋肉を躍動させ、一陣の風となって突き進む。

 

 キングヘイローは、決して弱いサラブレッドではない。

 

 通算成績二十戦五勝。GⅠ勝ちこそないものの重賞三勝の実績があり、獲得賞金においては同期の中でも上位に入る。

 

 一般的な基準で言うなら十分に一流。世間に広く名の知れた実績馬だ。

 

 そんな彼女が全力を絞り出せば、GⅠ級のサラブレッドでも容易には追いつけない速度に達する。

 

 さらに今は、激しく燃え盛る怒りと対抗心が、その走りに一層の力強さを加えていた。

 

(あんな奴には負けない……! 絶対、勝つ……!)

 

 蓄積していく疲労に耐えながら、心の中で叫ぶ。

 

 この勝負は負けられない。絶対に勝たねばならない。何としてでも勝利を掴んで、認めさせねばならないのだ。

 

 あの腹立たしい女に。そして、スタンドで観戦している同期の四人に。

 

 自分の力を。

 

 自分の存在を。

 

 このキングヘイローが、単なる重賞馬で終わる器ではないことを。

 

 

 ――何故、この五人なのですか?

 

 

 理事長室でグラスワンダーが口にした言葉が、脳裏をよぎる。

 

 肌に刺さった棘のように、微かな痛みを生じさせる。

 

 本人がどういうつもりで言ったかは知らない。妙に張り詰めた顔をしていたから、何か思うところがあったのかもしれない。

 

 けれど、あの時、感じてしまった。

 

 本人にそのつもりがなかったにせよ、こう言っているように聞こえてしまったのだ。

 

 

 何故、キングヘイローがここにいるのですか――と。

 

 

「……っ」

 

 デビューから二年以上経って、未だGⅠ勝ちはなし。

 

 勝率も、重賞勝利数も、獲得賞金も、あの場に集められた五人の中で一番下。直接対決でもあの面々に勝てたことはほとんどない。

 

 だから格下と見られても仕方がない。一緒にワールドカップに行く資格がないと思われても仕方がない。

 

 それは分かっている。言われなくても分かっている。

 

 だが、それでもやはり――悔しさが込み上げてきて、拳を握り締めたくなる。

 

(勝つわ……勝ってやるわよ…………勝てばいいんでしょう……!)

 

 勝利を誓い、悔しさを力に変えて走る。

 

 これは、遊びの勝負などではない。自分にとっての始まりだ。

 

 これまでの自分と決別し、新たな一歩を踏み出すための、重要な一戦だ。

 

 この勝負に勝って、自分を散々馬鹿にした女に一泡吹かせる。同期の仲間達にも、自分の力を認めさせる。

 

 自分は格下ではないと――彼女らと肩を並べるに足る存在であると、何としてでも認めさせてみせる。

 

 そう心に決め、キングヘイローは坂を駆け上がり続けた。

 

 

 

 

 

 

「まだ、仕掛ける気配がないね……リコさん」

 

 スペシャルウィークが困惑気味に呟く。

 

 残り約四百メートルの地点を映すモニターには、坂を軽快に駆け上がるキングヘイローと、その遥か後方で追走するリコの姿が映っていた。

 

 両者の距離の隔たりは、既に十馬身以上。勝敗は決したと断じていいほどの大差だ。

 

「最後までこのままということは、流石にないでしょうけれど……いくら何でも、これは……」

 

 画面内のリコを注視しながら、グラスワンダーが言う。

 

 規格外の末脚を武器に数多くのレースを勝ってきた彼女にも、この状況から逆転劇が起こるとは思えなかった。

 

 いくら何でも、差が開きすぎている。ゴールまでの距離はもう僅かしかなく、キングヘイローがスタミナ切れで失速する様子もない。ここからスパートをかけて遥か前方を行く対戦相手を差し切るのは、シンボリルドルフやマルゼンスキー級の能力があったとしても難しい。

 

 いや、不可能ではないか。この絶望的状況をひっくり返せるような末脚の持ち主など、果たしてこの世に存在するのか。

 

 そんな疑問が、彼女の頭の中を埋め尽くしていた。

 

「追いつくようには思えない……けど……」

 

 同意するように言いつつも、セイウンスカイは難しい顔をしていた。

 

 確かに、普通ならこれは、キングヘイローの圧勝だ。ここまで差が開いた状況から逆転を許すなどということは、常識的にはまず考えられない。

 

 だが、何故だろうか。

 

 キングヘイローの遥か後方を走るリコの姿から、不気味な気配を感じてしまうのは。

 

 この大差を、まるで意に介していないように見えてしまうのは。

 

 ――ありえない。

 

 半端ではない実力の持ち主だとは思うが、流石にそれはありえない。仮に差し切れたとしても、かなり際どい勝負になる筈だ。涼しい顔をしたままキングヘイローを追い抜き、何馬身も差をつけて勝つなど、出来るわけが――

 

 そう思っていると、見つめる画面の中で異変が生じた。

 

「なっ……」

 

 大きく見開いた目が、そのまま凍りついたように固まる。

 

 信じ難い光景を目の当たりにして、セイウンスカイは愕然となった。

 

 

 

 

 

 

 ゴール地点まで、残り約三百メートル。

 

 息を乱して走りながら、キングヘイローは勝利を確信していた。

 

「何よ……楽勝じゃない」

 

 後方にいる対戦相手は、口先だけの女だったようだ。未だ仕掛ける気配を見せず、十馬身以上後ろをのろのろと走っている。

 

 仮にここから凄まじい末脚を繰り出したとしても、もう遅い。差は十分過ぎるほど開いているし、ゴールは目前だ。余裕で逃げ切れる。

 

 あまりの歯ごたえのなさに、やや拍子抜けしたが――些末なことだ。勝ち方などどうでもいい。

 

 勝ちさえすれば、それが新たな一歩となる。

 

 これまでの自分と決別し、再び頂点を目指して歩んでいける。自分の本当の競技人生は、今ここから始まる。

 

 そう思い、僅かに気を緩めた矢先――

 

「キング! 後ろ!」

 

 スタンドの方から、セイウンスカイの声が飛んできた。

 

 警告めいたその声の意味が分からず、眉をひそめた直後。自身の背後に現れた何者かの気配を、キングヘイローは察知した。

 

「――っ」

 

 ぞくりと、肌が粟立つ。

 

 反射的に振り返ると、そこに金髪のサラブレッドがいた。

 

 いつの間に、どうやって差を詰めたのか。遥か後方を走っていた筈の対戦相手が、一馬身半ほどの至近距離まで迫っていた。

 

 その顔は、もう笑ってはいない。

 

 刃のように細められた両目が冷たい眼光を放ち、軽蔑の意を露わにしていた。

 

「駄目ね。全然駄目」

 

 息を乱さず、汗もほとんど流さず――たった今走り始めたかのように平然とした姿で、リコは言った。

 

「あれだけヒントあげたのに、何一つ生かせてないなんて……はっきり言って論外。能力がどうこう以前の問題よ。基礎中の基礎からして、全然なってないみたいね」

 

 それは挑発ではなく、彼女の本音。

 

 キングヘイローというサラブレッドに対する、率直な評価。

 

 敵と呼ぶにも値しない弱者に向けて放つ、憐れみを含んだ罵倒だった。

 

「滑稽を通り越して、不憫にさえ思うわ。……何年経っても、GⅠの一つも獲れないわけね」

 

 容赦のない言葉が、心を抉る。

 

 キングヘイローを支えていたもの――辛酸を嘗める度に奮い立つ気力を与えていたものが、軋みを上げながら罅割れていく。

 

 それでも彼女は、動揺をどうにか押し殺し、精一杯の虚勢を張った。

 

「……う、うるさいっ!」

 

 眉を吊り上げ、相手の顔を睨む。

 

「レース中にごちゃごちゃ喋ってんじゃないわよ! 勝負はまだ――」

 

「黙れガキ」

 

 静かに響く、冷徹な声。

 

 声音と口調、そして表情までもが、一瞬にしてがらりと変わった。

 

 不意を打つようなその豹変に、キングヘイローは絶句する。

 

「相手の力量を見抜く目もない。相手を圧倒する脚もない。せっかくくれてやったハンデを生かす頭もない。そんなザマで――」

 

 残り約二百メートル。

 

 開始前に宣言した地点を通過した瞬間、金髪のサラブレッドは上体を屈めた。

 

 低空を飛行する戦闘機のような、極端なまでの前傾姿勢。

 

 構造上の限界まで歩幅を広げて突き進む、ストライド走法の究極形。

 

 それが、幾多の強敵を打ち破り、母国の競馬史に名を刻んだ天馬――アルゼンチンの黄金獣リコが誇る、異端の走法。

 

「オレの前をチンタラ走ってんじゃねえよ。クソザコが」

 

 一閃。

 

 冷徹な罵声の直後、一条の光がキングヘイローの視界を奔り抜けた。

 

 否、光ではない。刹那の内にキングヘイローを抜き去り、桁外れの速さで坂を駆け上がっていくリコの姿だ。

 

 驚愕する間さえない。あまりに非現実的な事象に、理解が全く及ばない。

 

 目に映る対戦相手の姿は、既に遥か前方。五馬身、六馬身、七馬身――と、彼我の距離は急激に開いていく。

 

 常識を粉砕する爆発的瞬発力。光と化したかのような圧倒的最高速。

 

 大地を裂き、風を貫き、サラブレッドの限界を超えた領域へと踏み入る、閃光の疾走。

 

 隔絶した能力差を抜き去られた者の目に焼き付け、黄金の天馬はゴール地点を通過していった。

 

 

 

 

 

 

 その疾走を目の当たりにしたグラスワンダー達は、揃って凍りついていた。

 

 目を見開いたまま、瞬きさえ出来ない。

 

 呼吸を忘れ、驚愕の声さえ発せられない。

 

 何も考えられず、指一本動かせない。

 

 リコが見せた超越的な強さ――閃光の如き末脚は、彼女らの競馬観を根底から覆し、自失状態に陥らせていた。

 

「アルゼンチン四冠というものを、知っているか?」

 

 一人だけ平静を保っていたシンボリルドルフが、四人に問いかけた。

 

 それを受け、自失状態から脱したエルコンドルパサーが、素の口調で答える。

 

「……聞いたこと、あります。確か……クラシック三冠に、古馬混合戦のグランプリレースを加えた体系だって……」

 

 以前どこかで耳にしただけの、うろ覚えと言っていい知識だったが、それは消えることなく頭の隅に残っていた。

 

 シンボリルドルフは頷く。

 

「そう……ポージャ・デ・ポトリロス、ジョッキークラブ大賞、ナシオナル大賞の三冠と、南米の凱旋門賞と呼ばれるカルロスペレグリーニ大賞から成るのが、アルゼンチン四冠。サラブレッドの質・量ともに南米大陸随一を誇る競馬大国、アルゼンチンの競走体系だ」

 

 その説明を聞き、エルコンドルパサーは雷に打たれたような顔になった。

 

 思い出したのだ。

 

 リコという名を、どこで耳にしたのかを。あの金髪のサラブレッドが、何者なのかを。

 

「四つのレースを同一年度の内に完全制覇した者は四冠馬と呼ばれ、歴史的名馬として語り継がれることになる…………が……あまりにも難度が高すぎるため、二百年近い同国の競馬史の中でも、達成出来たサラブレッドは僅か九名しかいない」

 

 シンボリルドルフは、リコの姿を見つめる。

 

 幾多の感情が複雑に入り混じった眼差しを、偉大な師に向ける。

 

「その内の一人が、あの人――――第四代アルゼンチン四冠馬、リコだ」

 

 キングヘイローを一瞬で抜き去り、桁外れの剛脚を披露したリコは、そのままゴール地点を駆け抜けていた。

 

 キングヘイローとの着差は、十馬身以上。圧倒的な大差勝ち。

 

 天と地ほども隔絶した実力差を見せつけた、文句のつけようのない勝利の形が、そこにあった。

 

「私達とは、強さの桁が違う」

 

 日本最強の≪皇帝≫が口にした言葉は、四人に深い衝撃を与えた。

 

 中でも一際動揺していたのは、グラスワンダーだった。

 

 彼女の脳裏に、幼き日に見た光景――セクレタリアトがベルモントステークスを制した瞬間が蘇る。

 

 アメリカ最強のサラブレッドが大観衆の前で披露した、極限の疾走。

 

 サラブレッドという種の最高到達点とさえ思えた、唯一無二の強さ。

 

 それが、たった今目にしたリコの疾走と、想像の中で重なり合う。

 

 アルゼンチン四冠馬リコが、伝説の≪ビッグレッド≫に比肩しうるほどの怪物であることを思い知り、栗毛の少女は震える声で呟いた。

 

「……強すぎる」

 

 

 

 

 

 

 ゴール地点に辿り着いた後、キングヘイローは地面に両膝をつき、四つん這いの姿勢になっていた。

 

 凍りついたその顔は、死人のように蒼白。

 

 心臓が早鐘を打ち、呼吸の乱れが治まらず、手足の震えも止まらない。

 

 かつて味わったことがないほどの敗北感と恐怖が、彼女の精神を崩壊寸前まで打ちのめしていた。

 

「嘘でしょ……何よあれ……」

 

 二十メートルのハンデをもらっていたのに、一時は十馬身以上引き離していたのに、事もなげに追いつかれた。

 

 そんな異常な脚でさえ、まだ本気ではなかった。

 

 最後の二百メートルで目にした、あの末脚――極端なまでの前傾姿勢から繰り出された規格外の剛脚は、超常現象としか思えなかった。

 

 悪夢に等しいあの強さが、信じられない。

 

 あんな怪物がこの世に存在することを、脳が許容出来ない。

 

「あんなの…………勝てるわけ……」

 

 弱音と共に、涙の雫が零れ落ちる。

 

 頭上から声が降ってきたのは、その直後だった。

 

「大体二十人、ってとこかしらね。もっと多いかもしれないけど」

 

 今しがた自分を破った女の、穏やかな声。

 

 驚いて顔を上げると、いつの間にかすぐ傍に立っていたリコと目が合った。

 

「今の私と同レベルの子の人数よ。世界を見渡せば、今くらいの走りが出来るサラブレッドは二十人かそこらはいるってこと。少なくともね」

 

「――っ」

 

「それだけじゃないわ。今みたいなすっとろい走りじゃ絶対に勝てない化物も、十人はいるわよ。確実にね」

 

 比喩ではなく本当に、キングヘイローは眩暈を覚えた。

 

 今のリコと同格の実力者が、少なくとも二十人。

 

 さらに格上の化物が、確実に十人。

 

 それが誇張ではない事実なら、馬鹿げている。そんな埒外の連中を相手取って、勝算など立つわけがない。

 

「世界ってのはそういうもの。常識外れの化物なんて、どこの国にも一人はいる。アメリカやイギリスみたいな競馬大国なら、当たり前のように何人もいる。今年ドバイで開かれるワールドカップには、そいつらがこぞって集まるのよ」

 

 勝負の前とは別人のように真剣な顔で、キングヘイローを見下ろすリコ。

 

 世界を知る四冠馬の鉄塊じみた瞳は、その奥深くに確かな熱を孕んでいた。

 

「さっきはああ言ったけどね……実は結構マジよ、私。思い出作りに行く気なんてさらさらない。目指すのは優勝だけ。代表に選んだみんなを殺す気で鍛えて、世界の化物を真っ向から打ち倒せるようにしたいんだけど…………あなたに、その覚悟はある?」

 

 涙に濡れた少女の顔を射抜くように直視し、覚悟の程を問う。

 

「私のしごきに耐える覚悟はある? 私より強い奴と命懸けでやりあって、勝利をもぎ取る覚悟はある? キングヘイロー」

 

 その問いかけに、キングヘイローは即答出来なかった。

 

 短期間で飛躍的に力をつけ、世界の舞台でリコ以上の強者に挑み、勝利しなければならないという、不可能に等しい試練の道程。

 

 その苦しさと険しさを思えば、軽々しく首を縦に振れるわけがなかった。

 

「ないなら他の子に替えるわ。半端な気持ちのまま頑張らせたって、結果は知れてるから」

 

 重い沈黙が降りた。

 

 日本代表の一人としてドバイの地に行くか、辞退して代表の席を他の誰かに譲るか――その選択を、リコはキングヘイロー自身に委ねたのだ。

 

 キングヘイローの胸の内で、様々な思いが絡み合う。

 

 新たな一歩を踏み出そうとして、逆に成す術もなく敗れた失意。世界にはさらに上がいるという絶望。想像を超えた怪物が集う場所に踏み入らねばならないことへの恐怖。今更ながら理解した、国を背負って世界と戦うということの意味。

 

 一つとして軽くないそれらが、積み重なって重みを増し、罅割れた心を圧迫する。

 

 総身が震え、溢れる涙で視界が歪む。

 

 心身を容赦なく苛む負の感情の塊に、彼女は潰されそうになり――――抗うために、奥歯を噛んだ。

 

 指先で地面を掻き、拳を握る。

 

「…………馬鹿に、しないでよ……」

 

 強い眼差しでリコを睨み、気力を振り絞って言い放つ。

 

「この世界に入った時から……お母様みたいな、強い競走馬になるって決めた時から…………半端な気持ちで走ったことなんて、一度だってないわよ!」

 

 挫折しかけたのは、これが初めてではない。

 

 今までの競走生活でも、幾度となく壁にぶつかり、敗北と屈辱を味わってきた。思うように結果が出ない日々に悩み苦しんできた。

 

 それでも、諦めずに走り続けてきたのは、夢があったからだ。

 

 幼い頃に抱いた夢が――現実の厳しさを知っても捨てられない願いが、胸の奥底に残っていたからだ。

 

「あなたこそ、やるからには半端な真似しないでよね! 死ぬような特訓だって何だってやってやるから、私を…………この私を、世界のどんな奴にだって勝てるようにしてみせなさいよ! クソ監督!」

 

「――うん。いい返事」

 

 決意のこもった啖呵を聞いて、リコは表情を綻ばせた。

 

 自分を見上げる少女の頭に掌を載せ、優しい手つきで髪を撫でる。

 

「よく言ったわヘイローちゃん。流石私が見込んだ子ね」

 

 日溜まりのような笑顔で褒められ、半ば喧嘩を売るつもりで啖呵を切っていたキングヘイローは面食らう。

 

 数秒前までの真剣な雰囲気をどこかに吹き飛ばした監督役は、髪を撫でながらもう片方の手を自身の口許に当て、小さく吹き出した。

 

 意地悪な少女が、年下の友達をからかうように。

 

「負けて泣きべそかき始めちゃった時は、ぶっちゃけダメだこりゃって思ったけどー…………ぷふっ……いい感じに持ち直したみたいだから、見なかったことにしてあげるわ」

 

 と、見なかったことにする気が全くない様子で言う。

 

 キングヘイローの顔が一気に赤くなった。

 

「なっ……う、うるさいわね! 別に泣いてなんかないわよっ!」

 

「えー? 泣いてたじゃない。ていうか、レース中にちょっと凄まれただけでもう泣きそうだったしー…………うふふっ、あの時のヘイローちゃんのビビり顔ったら、割と傑作だったんだけど?」

 

「あ……あれはっ……あれはあんたが、急にチンピラ口調になりやがるから……!」

 

「はいはい、怖かったのよねー。優しいお姉さんが怖いお姉さんになっちゃったから。でももう大丈夫よー。怖がらなくていいのよー。私って優しいお姉さんキャラがデフォだから。たまーにちょっと体育会系のノリになるだけだから」

 

「う、うるさいわね! 怖がってなんかないわよ! ていうかあなた、絶対あっちの方が素でしょ!? 思いっきり本性現してたでしょ!?」

 

「えー? そんなことないわよー。ヘイローちゃんに試練を与えようと思って心を鬼にしてただけよー」

 

「白々しいのよこの年増っ! ていうかいつまで人の頭に手のっけてんのよ!」

 

 赤面したままリコの手を振り払うキングヘイロー。

 

 リコは可笑しそうにくすくすと笑ってから、首だけを後ろに回した。

 

「……とまあ、そんな具合に私とヘイローちゃんの話はついたんだけど、みんなも同じようなノリでドバイに行くってことでいいかしら?」

 

 少し離れた場所で成り行きを見守っていたのは、既にスタンドから出てきていたグラスワンダー達だった。

 

 表情は様々だが、気の抜けた顔をした者は一人もいない。

 

 世界の壁の厚さを、世界と戦うことの意味を――今の観戦を通じて、彼女達も重く受け止めていたのだった。

 

「いいですよ。世界中の強い人と競走したいって気持ちは、私達も同じだし」

 

「わ――私も、みんなと一緒にワールドカップに行きたいです!」

 

 セイウンスカイが微笑みながら言い、緊張した顔のスペシャルウィークがそれに続いた。

 

 エルコンドルパサーも口を開く。

 

「私も……去年の雪辱を果たしたいです」

 

 かつて果敢に挑み、あと一歩及ばなかった世界の頂を、その目は真っ直ぐに見据えているようだった。

 

「もう一度世界に挑めるなら、何だってします」

 

 次々と、自分の気持ちを言葉にする三人。

 

 その一方で、沈黙を保つ者が一人。小柄な栗毛の少女だけは口を閉ざしたまま俯き、酷く思い詰めた表情を浮かべていた。

 

 それに気付きながらも、リコは満面の笑顔でパンと両手を打ち合わせる。

 

「はい。みんなの適度にクサい決意表明が聞けたから、これで決まりね。それじゃあワールドカップに向けての猛特訓開始ってことで、地獄の合宿やるわよー。明日っから」

 

「「「「「――――は?」」」」」

 

 五人の目が点になる。

 

 聞き間違いかと誰もが思ったが、残念ながら聞き間違いでも言い間違いでもなかった。

 

 ワールドカップ日本代表の監督役は今、決定事項を告げるつもりではっきりと、「明日から」と言ったのだ。

 

「場所は北海道の帯広。絶対クソ寒いから防寒着の用意は忘れずにねー。集合時間に遅れたりしたアホの子には問答無用で膝蹴りぶち込む予定だから、そのつもりでいてねー」

 

 あまりにも急すぎるその話には、誰の理解も追いつかなかった。

 

 

 

 

 

 

「昨日……ゴール手前で、グラスは競走を中止したわね」

 

 校舎裏に建つ慰霊碑の前。

 

 遠い目をしながら、ハナは静かに語った。

 

「あれとよく似た状態に陥った子が、一人だけいたわ。十年近く前にね」

 

 それは、リギルが創設されるより前。

 

 彼女がまだ、未熟な新人トレーナーだった頃の話。

 

「私がここのトレーナーになったばかりの頃、指導にあたった生徒の一人よ。……才能は人並みだったけれど、人一倍努力する子だったわ。いつも遅くまで残って練習して、レースでは自分の限界まで…………いえ……限界以上に力を振り絞って、懸命に走る子だった」

 

 懐かしむような口調とは裏腹に、声音は淡々としていた。

 

 気を弛めば溢れ出してしまう何かを、必死に抑え込もうとするように――彼女の声音は、不自然なほど抑揚を欠いていた。

 

「それがある時から、全力で走れなくなった。限界以上の力を出そうとすると急にブレーキがかかったみたいに失速して、まともに走れない状態に陥るようになった。医者に訊いても原因は分からない。骨折でも炎症でも病気でもなかった。なのに何故か、その子の身体は限界以上の力を引き出すことを拒むようになった」

 

 ハナは思い出す。

 

 凡才ながらも努力を重ね、何度敗れても諦めずに走り続けていた少女が、最後に直面した大きな壁を。

 

 その時の悔しさを。共に味わった苦悩を。

 

「それからしばらく経って、本人は言ったわ……多分、これは警鐘なんだろうって」

 

「警鐘?」

 

 怪訝な顔をするマルゼンスキーと目を合わせず、ハナは続きを語る。

 

「能力の上限は人によって決まっている。上限を超えた力を求めれば、耐えきれないほどの負荷が肉体を襲う。その先に待っているのは肉体の崩壊…………腱の断裂や、粉砕骨折。自分がその一歩手前まで来ていることに気付いてしまった生き物としての本能が、警鐘を鳴らしているんだって……自分は無意識の内にそれに従って、ブレーキをかけているんだろうって……あの子は、そう言っていた」

 

 医学的根拠など何もない、一人の少女が立てた仮説。

 

 しかしながら、それが勘違いや妄想の類ではなかったことを、ハナは知っている。

 

「その時は、正直半信半疑だったけれど…………後になって振り返ったら、全部あの子の言った通りだったんだって……心底から思ったわ」

 

 後悔の滲む言葉を聞き、マルゼンスキーは話の結末を察した。

 

 それでもあえて、彼女は問うた。

 

 大切な後輩の今後を左右する問題に、自分なりの答えを得るために。

 

「……どうなったんですか? その子は」

 

「死んだわ」

 

 感情を排した面持ちで、ハナは即答した。

 

「身体が思うように動かなくなってからも、無理をしてレースに出続けて……レース中に骨折。転倒した後、運悪く避けきれなかった後続に踏みつけられて……助からなかった」

 

 競馬の世界では、稀にある事故だ。

 

 サラブレッドの走る速度は、時速約六〇キロメートル。最後の直線の競り合いになれば、それ以上の速度に達する。

 

 当然、脚にかかる負荷は甚大なものであり、レース中に骨折することも珍しくはない。それが転倒に繋がり、他馬との衝突も重なれば、時に命を落とすほどの重傷を負う。実際、世界規模で見れば毎年何件も、そうした死亡事故が起きている。

 

 だからこそ、競馬に関わる者は、肝に銘じておかなければならない。

 

 競馬とは、死と隣り合わせの競技であることを。

 

「あの子の身体が壊れる寸前だと知りながら、レースに出ることを止められなかった……私の過ち」

 

 教え子の死を、自らが背負うべき罪と断じて、ハナは黙祷を捧げるように目を瞑る。

 

 そして再び目を開いた時、黒い瞳の奥には決然とした意思が宿っていた。

 

「……同じ過ちを繰り返してはいけない。絶対に」

 

 もう二度と、教え子を死なせはしない。壊れる寸前の少女を勝負の場に送り出すような愚行は、決して犯さない。

 

 そう胸に誓い、彼女は今もトレーナーを続けている。

 

「……だから、グラスに言ったんですね。あの走法をやめろって」

 

「ええ」

 

 ハナは頷く。グラスワンダーの特異な走法が諸刃の剣だということは、彼女も以前から気付いていた。

 

 本人の強固な意思により、今まで止められずにいたが――昨日の一件で、決心がついた。

 

「現役を続けることは許したけれど、正直もうグラスワンダーをGⅠに出す気はないわ。これから先は、無理をせずに戦えるレース……出走馬のレベルが低いローカル重賞やオープン特別だけを選んで走らせる。それが私の決定よ」

 

 それは、事実上の降格。

 

 競馬の花形である中長距離のGⅠ路線から弾き出され、日の目を見ない裏街道を走らされるということだ。

 

 勝ったところで大した名誉は得られず、賞金も安い。そして、そんなレースにばかり出続けるグラスワンダーを、世間は間違いなく白眼視する。

 

 落ちぶれたグランプリホース、裏街道に逃げた落伍者――と。

 

 本人は、それに耐えられるだろうか。周囲に冷ややかな目で見られながらも、走り続けることが出来るだろうか。

 

 競馬の世界の厳しさを知るマルゼンスキーは、そう思わずにいられなかった。

 

「……ハナさんの考えは、よく分かりました。間違っているとは思いません。けれど……」

 

 グラスワンダーの性格を、マルゼンスキーはよく知っている。

 

 彼女がレースに懸ける想いを、抱いた夢の大きさを、自分のことのように知っている。

 

 彼女の懸命な走りを、間近で見てきたのだから。

 

「もし……それでもまだ、グラスが全力で走りたいと……大舞台で戦いたいと言ったら……?」

 

「許さない」

 

 ハナは即答した。

 

 その瞳の奥には、暗く冷たい――揺るぎない氷の決意が宿っていた。

 

「必ず止めるわ。どんな手を使ってでも」

 

 


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