ウマ娘 Big Red Story   作:堤明文

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第四話「失くした何か(前編)」

 

 

 初めは誰もが夢を抱く。

 

 黄金のように輝く夢を胸の奥に秘めて、競馬の世界に入ってくる。

 

 そして――ほんの一握りの例外を除いた全員が、現実という名の壁に跳ね返され、道半ばで挫折する。

 

 栄冠を掴めず、何者にもなれず、何処にも辿り着けないまま、競馬場を去る日が来るのだ。

 

 誰よりも強い≪ビッグレッド≫になることを夢見ていたグラスワンダーも、母国のサラブレッド育成機関に入学してまもなく、行く手を阻む大きな壁に直面した。

 

 一言で言ってしまえば、同期生達との実力差だ。

 

 当時彼女が在籍していたアメリカ合衆国ケンタッキー州のキーンランド学園は、数多くの名馬を輩出した実績を持つ名門校。全米各地から才能あるサラブレッドが集まる場所であり、生徒全体のレベルは極めて高い。

 

 十人に一人か百人に一人の才能では、凡人も同然。全く通用しない。

 

 千人に一人か万人に一人の才能を持つ逸材でなければ、生き残ることさえ出来ない場所なのだ。

 

 そんな中にあってグラスワンダーは、「落ちこぼれ」の烙印を押される存在だった。

 

 華奢な外見に似合わず筋力があり、悪路や急坂を駆け抜けるのは得意だが、長所と言えるのはそれ一つだけ。

 

 他の能力は軒並み平均以下。レースセンスに長けているわけでもなく、何か際立った特技があるわけでもない。

 

 唯一の武器である並外れた剛力も、主要レースのほとんどが平坦なダートコースで行われるアメリカ競馬においては生かしどころのない能力であり、無用の長物と言うほかなかった。

 

 練習中に記録する時計は、いつも平凡。模擬レースに出走しても、優秀な同期生の後塵を拝してばかり。

 

 お世辞にも優秀とは言えない少女に周囲が向ける目は、当然の如く冷ややかだった。

 

 侮りや嘲り、あるいは憐れみを含んだ心ない言葉を、幾度も浴びせられた。諦めて別の道を探した方がいいと言われたことさえあった。

 

 しかしながら、そんな状況で一人だけ、彼女に期待を寄せる人間がいた。

 

 彼女のトレーナーだった、若い男だ。

 

「今結果が出ないからといって、焦る必要はない」

 

 グラスワンダーが悩みを打ち明けた時、男はそう言った。

 

「君には才能がある。この国の頂点を目指せるだけの非凡な素質がある。今はまだ、その能力を十分に生かす技術が身に付いていないだけだ。同期生達との現時点での差が、このまま永遠に覆らないわけじゃない」

 

 大きな手が、俯く少女の頭を撫でる。苦悩する娘を励ます父親のように、男は優しく微笑んだ。

 

「幼少時は目立たない存在だったサラブレッドが、いつしか大きく成長して、後世に語り継がれるほどの名馬になった…………そんな例は、世界にいくらでもある。君もきっとその一人さ」

 

 嘘偽りのない期待が込められた、温かな言葉。

 

 それは現実に屈しかけていた少女の心に、一筋の光を与えた。

 

「まずは基礎を固めよう。地道に基礎練習を繰り返して、正しい走り方を身に付けるんだ。理論を知り、技術を磨き、無駄のない理想的なフォームで走れるようになれば、君は間違いなく化ける。今君の前を走っている子達を追い抜く日が、必ず来る。……及ばずながら、その日まで協力させてもらうよ。君の首に薔薇のレイがかけられる瞬間を、是非この目で見たいからね」

 

 薔薇のレイ。

 

 アメリカ競馬最高峰のレース――ケンタッキーダービーの優勝馬に贈られる、美しい赤薔薇で飾られた優勝レイ。

 

 あのセクレタリアトも若き日に手にした、輝かしき栄誉。

 

 自らの教え子は将来それに手が届くと、伝説の≪ビッグレッド≫に肩を並べる日が必ず来ると、トレーナーの男は信じてくれていた。

 

 その信頼を支えにして、栗毛の少女は練習に励んだ。

 

 教えられた「正しい走り方」を身に付け、自分と恩師の夢を叶えるために、地道な努力を続けたのだ。

 

 

 

 

 

 

 雲の上に広がる紺碧の空を、一機の飛行機が横切っていた。

 

 東京の羽田空港を発ち、北海道の帯広空港に向かって飛ぶ旅客機だ。

 

 ワールドカップ日本代表の五名に監督役一名とコーチ役二名を加えた計八名は、それに搭乗していた。

 

 北の大地で、ワールドカップに向けての「強化合宿」を行うために。

 

「合宿やるのは、別に構わないけど……メンバーを集めた次の日にいきなり合宿って、いくら何でも急すぎない?」

 

「あはは……聞いた時はワタシも目が飛び出そうでした。おかげで昨日は、大慌てで準備することになっちゃいましたネ」

 

 機内中央部に並ぶ三列シート――その真ん中に座るキングヘイローの言葉に、右側に座るエルコンドルパサーが苦笑で応じた。

 

 左側に座るセイウンスカイは、いつも通りの気楽な様子で言う。

 

「ま、いいじゃん。飛行機の予約はちゃんと取ってくれてたし、先生達やトレーナーさん達とも話はつけててくれたみたいだしさ」

 

「むしろよく話がついたわね…………私達が日本代表ってのも、あいつが勝手に決めただけっぽいのに……」

 

「そこはまあ、あの強引さで押し切ったんじゃない? うちのトレーナーさんなんて、テロリストに無茶な要求された偉い人みたいな顔してたし――――あ、そうそう」

 

 不意に何かを思い出した様子で、セイウンスカイは膝の上に載せていた手提げ鞄の中をまさぐる。ほどなくして取り出されたのは、一冊の競馬雑誌だった。

 

「昨日部屋で荷作りしてたら、こんなのが出てきたんだよ」

 

「おー、サラボレの二月号デスネ」

 

「二年前のやつじゃないそれ。そんなのとっといてたの……っていうか、買ってたの?」

 

「買ったのは私じゃないよ。一昨年の春までルームメイトだった子。その子が部屋を出てく時に置き忘れてったんだけど……ぶっちゃけ届けてあげるのもめんどくさいから、そこら辺に適当に突っ込んどいたらいつの間にかどっかいってた」

 

「何て言うか……あんたらしい流れね」

 

 キングヘイローは呆れ顔で納得する。セイウンスカイは雑誌を広げ、頁をパラパラとめくった。

 

「で、昨日偶然見つかったから暇潰しに読んでみたんだけどさ、面白かったよ。ほら、こことか」

 

 そうして彼女が二人に見せたのは、ゴール板の前を駆け抜ける栗毛の少女の写真が掲載された箇所。

 

 暮れに行われたGⅠレース、朝日杯の結果を伝える頁だった。

 

「怪物グラスワンダー、無敗で戴冠。海の向こうからやってきた天才少女がジュニアチャンピオンに輝く――だってさ」

 

「……そう言えば、すごく騒がれてたわね。あの時は」

 

 微妙な面持ちで、キングヘイローは写真の中のグラスワンダーに視線を落とす。

 

 エルコンドルパサーもまた、口許から笑みを消した。

 

「レースレコードで圧勝だったからねー。無傷の四連勝でGⅠ制覇だったし。私達の世代のナンバーワンはグラスちゃんで間違いないって、あの時はみんな言ってたよ」

 

「…………そうね」

 

「で、ナンバーツー扱いされてたのが三連勝中だったどっかのキング。怪物グラスワンダーに対抗出来るのはあの超良血馬だけだろうって、ほら、ここにも書いてある」

 

「う、うるさいわね! 私のことでしょ、知ってるわよ! 全然対抗出来てなくて悪かったわねっ!」

 

「ほらこの頁にも、誰かさんの自信満々のコメントが載ってるよ。私に敵などいませんわ誰が相手だろうとキングにふさわしい走りで華麗に粉砕し――」

 

「やめろ! そんな頁開くな! 音読するな!」

 

 自身の黒歴史を暴露され、顔を真っ赤にする元ナンバーツー。

 

 その慌てぶりを笑いながら、セイウンスカイはしみじみと言った。

 

「あの時はもう、完全に二強って空気だったよねー。そりゃグラスちゃんが抜けてるって声の方が圧倒的に多かったけど、キング推しの人もそこそこいたし。トレーナーの人達も、来年以降はグラスちゃんとキングの二人が競馬界を引っ張っていくだろうって――」

 

「……現実にはそうならなかったから笑えるって言いたいんでしょう? いちいち嫌味ったらしいのよ、あんたは……」

 

「笑い話にしたいわけじゃないよ」

 

 そう言った時のセイウンスカイの声音は、不思議な優しさを帯びていた。

 

 呆然とした顔で固まる親友に、彼女は澄んだ青い瞳を向ける。

 

「確かに今は、ここに書いてあるのと違った感じになっちゃってるけど……このまま終わる気はないんでしょ? キングは」

 

「――っ」

 

「今日からの合宿で力をつけて、世界の舞台で証明してやろうよ。あの時みんなが言ってたことが、間違いじゃなかったってさ」

 

 柔らかな微笑みから零れた言葉。そこに込められた意味を理解して、キングヘイローは一瞬目を瞠った。

 

 雑誌に書かれているのは、実現しなかった夢の話ではない。

 

 これから実現する話――自分達の力で現実に変えていくべき話だと、隣に座る銀髪の少女は言っているのだ。

 

「……わ、分かってるわよっ、そんなこと……」

 

 込み上げてきた気恥ずかしさを紛らわすように、そっぽを向く。

 

 彼女らしいその反応を見て、セイウンスカイはにっこりと笑った。

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 一方エルコンドルパサーは、セイウンスカイが広げた雑誌から目が離せずにいた。

 

 朝日杯の結果を伝える頁に掲載されていた、勝利の光景――栗毛の少女がゴールを駆け抜ける写真が、彼女の中から一つの記憶を呼び起こす。

 

 スタンドの最前列に立って見届けた、あの表彰式。

 

 表彰台に上った少女に、銀色の優勝カップが手渡された瞬間。

 

 栄光を掴み取り、多くの人々に祝福されたあの時、栗毛の少女は嬉しそうに笑っていた。

 

 長い苦難の道程を越え、ずっと夢見ていた場所に辿り着いたかのように、幸せな笑顔を湛えていたのだ。

 

 両手で抱えた銀色のカップを、愛おしそうに見つめながら。

 

(…………どうして……)

 

 心の中で、疑問を口にする。

 

 あんなにも嬉しそうに受け取って、あんなにも大切にしていた優勝カップが――どうして昨日、寮の部屋から忽然と消えていたのだろう。

 

 どうして本人は、そのことについて何も言わないのだろう。

 

 そんな物は最初から存在しなかったかのように振る舞い続けるのは、どうしてなのだろう。

 

 疑問の答えを探し求めるように、エルコンドルパサーは雑誌から視線を切り、通路を挟んだ先にある窓際の座席に目を向ける。

 

 一昨日指導者から引退を勧告されたばかりのサラブレッドが、そこに座っていた。

 

 世界と戦う力を得るため北海道に旅立つ、ワールドカップ日本代表の一人として。

 

 

 

 

 

 

 飛行機に乗ると思い出す。

 

 故郷を離れ、単身日本に渡った時のことを。

 

 夢を叶えるまで――異国の地で頂点を掴み取るまで、二度と故郷の土は踏まないと誓った、あの時の気持ちを。

 

 薔薇のレイを諦め、誰にも望まれない道を歩み始めた日の、苦い記憶を。

 

「気になることでもあるの?」

 

「え……」

 

 問いかけられ、はっとする。

 

 隣の席に座る年上の女性――マルゼンスキーが、覗き込むようにこちらを見ていた。

 

「何だか少し、難しい顔してるから」

 

「あ……いえ……ちょっと、昔のことを思い出してて……」

 

 そう言って、グラスワンダーは苦笑した。

 

「飛行機に乗ったせいでしょうか……前の学園にいた時のこととか、日本に来た時のこととかが、急に浮かんできちゃったんです」

 

「ふぅん……」

 

 物思いに耽っていた理由を聞き、マルゼンスキーは少し興味を持った顔になる。

 

「そういえば、あまり聞いたことなかったわね。グラスがアメリカの学園にいた頃の話は」

 

「……そうですね。こっちに来てからは、あまり話さないようにしてました」

 

 振り返りたい過去でも、人に話したい過去でもない。

 

 グラスワンダーにとって、アメリカのキーンランド学園に在籍していた数年間は、出来ることなら消し去りたい過去だった。

 

「正直……前の学園には、あまりいい思い出がないんです。下から数えて何番目かって成績の、劣等生でしたから」

 

「グラスが? ……意外ね」

 

「今もそうですけど……不器用でしたから、私。身体の正しい使い方が、なかなか覚えられなくて……」

 

「苦労したのね…………でも、子供の頃の話でしょう? その時はまだ才能が開花してなかっただけよ」

 

 そう言われると、グラスワンダーはやや寂しげな面持ちになった。

 

 言葉にし難い感情が、青い瞳に滲み出る。

 

「…………開花したと、言えるんでしょうか?」

 

 答えを探し求めるように、零れ出た言葉。

 

 それに答える術を、マルゼンスキーは持たなかった。

 

 ややあって、我に返ったグラスワンダーは、取り繕うように笑顔を作る。

 

「あっ……そ、それにしても、意外でした!」

 

「ん?」

 

「その……今回の合宿に、マルゼンスキーさんが同行してくれるなんて思いませんでしたから……」

 

「ああ、そのこと……」

 

 マルゼンスキーは座席の背凭れに寄りかかり、ぼやくように言う。

 

「私もびっくりしたわよ。昨日あのリコって人が突然訪ねてきて、北海道で合宿やるからルドルフと一緒にコーチ役を務めてほしいとか言い出すんだもの。いきなり何言ってるのこの人、って思ったわ」

 

 今朝方グラスワンダー達が集合場所に着いた時、そこには二人の上級生――シンボリルドルフとマルゼンスキーの姿があった。

 

 監督役のリコが、日本代表の五人を指導するコーチ役として、彼女達を抜擢したらしい。

 

 その決定に文句をつける者はいなかったが、正直なところ皆が意外に思っていただろう。

 

 日本サラブレッドトレーニングセンター学園には、専門的な知識と豊富な経験を持つトレーナーが多数いる。そうした者らを差し置いて現役の競走馬を指導者に据えるなど、常識では考えられない。

 

「まあ別に嫌じゃなかったし……こっちとしても都合が良かったから、引き受けちゃったけどね」

 

 含みのある物言いにグラスワンダーが首を傾げると、マルゼンスキーは続きを述べた。

 

「ハナさんに頼まれたのよ。あの監督役があなた達に無茶させすぎないように、なるべく近くで見張っててほしいって」

 

 それを聞いた瞬間、グラスワンダーの顔に緊張が走る。

 

 マルゼンスキーは首を回し、斜め後方の席に座るリコをちらりと見た。

 

「あの人……現役時代は誰もが認める超一流だったけど、指導者としてはどうかって言われてるみたいでね……色んな意味で行き過ぎた指導で問題になったり、教え子だった子に訴えられたりしてるらしいわ。要するに、まともじゃないってことよ」

 

 お世辞にも評判が良いとは言えない監督役に対する不信を、小声で語る。

 

 しかしながらグラスワンダーの胸中を占めたのは、それとは別のことだった。

 

「世界と戦うための特訓だから、ある程度キツいのは仕方ないけれど、怪我させられて引退なんてなったら洒落にならないでしょう? だからその辺を私が――」

 

「先生は……」

 

 目を伏せ、青褪めた顔で呟く。

 

「何か……言ってましたか……? 私が、合宿に参加することに……」

 

 マルゼンスキーの顔から、表情が消えた。

 

 その後に続いたのは、重い空気が漂う数秒の沈黙。

 

 やがて意を決したように、彼女は抑揚のない声音で問いに応じた。

 

「……あなたがハナさんから突き付けられた条件は、私も聞いてる」

 

 細めた目に、隠しきれない葛藤が滲む。

 

「本人もそれを曲げる気はなかったみたいだけど、今回ばかりは仕方がないって言ってたわ。経緯はどうあれ国の代表に選ばれたなら、自分に口出しする権限はない。練習も監督の指示の範囲内でなら行って構わないって。ただ……」

 

 青褪めた顔の少女と目を合わせ、告げる。

 

「三つ目の条件だけは、何があっても守るようにって」

 

 現役続行の許可と引き換えに課せられた条件の三つ目。

 

 切り札たる「叩きつける走法」の使用禁止。

 

 グラスワンダーにとっては、三つの中で最も受け入れ難かった条件。

 

「もしあなたがそれを破るようなら、強引にでも連れて帰れって言われたわ」

 

「…………そう……ですか……」

 

 三つ目の条件を破れば、その時点で合宿は終了。ワールドカップ日本代表の資格を剥奪され、今度こそ強制的に引退させられる。

 

 最早変えようがない自らの苦境を再認識して、グラスワンダーは震えた。

 

 やはり、国の代表に選ばれただけで自由の身になれるほど、現実は甘くなかった。

 

 どんな状況に置かれようとも――たとえ世界の頂点を争う大舞台に立とうとも、あの走法を使うことは、決して許されないのだ。

 

 あの走法は、非合理だから。

 

 競馬の正道から外れた、邪道の走りだから。

 

「……大丈夫よ。そんな深刻にならなくても」

 

 マルゼンスキーは、硬い表情を解いた。

 

「グラスは強いんだから、普通に走っても十分通用するわ。これからの特訓で今まで以上に基礎を固めれば、世界の強豪にだって勝てるようになるわよ」

 

 励ますように言い、悩み苦しむ少女に笑いかける。

 

 その眼差しは、どこまでも優しかった。

 

「だから、ね。一緒に頑張りましょう。グラス達がワールドカップで活躍出来るように、私も出来る限りサポートするから」

 

「……はい。ありがとうございます、先輩」

 

 温かな気遣いに感謝して、グラスワンダーは淡く微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 帯広市。

 

 北海道東部の十勝地方に所在する、同地方の中心都市。

 

 東京二十三区とほぼ同じ面積を持ち、人口は約十七万人。広大な十勝平野を生かした農業が主要産業となっており、畑作や酪農が盛んなことで知られている。

 

 だが、それ以上に――ある特殊な競技の開催地として、全国的に有名な都市であった。

 

「はい到着ー、っと。ここがこれから二週間、みんなに特訓に励んでもらう場所よ」

 

 運転してきた車を駐車場に停めたリコは、地面に降り立ちながら言う。

 

 帯広空港を出てレンタカーのミニバンに乗り込み、移動すること約四十分。一行は帯広市内にある「特訓の場」に到着した。

 

 皆が続々と車を降りる中、スペシャルウィークは微妙にひきつった笑顔をリコに向ける。

 

「あ、あのー……リコさん……ここって……」

 

「帯広競馬場。大分ローカル臭漂ってるけど、これでも歴とした競馬場よ」

 

「いや、競馬場なのは知ってますけど……」

 

 ここが帯広競馬場なのは、見れば分かる。駐車場の入口にそう書いてあったし、小規模ながらスタンドとコースも設置されている。どこからどう見ても、帯広競馬場以外の何物でもない場所だ。

 

 それを理解しているからこそ、リコ以外の全員は表情をひきつらせているのだった。

 

「普段開催日以外は閉まってるんだけど、特別に使わせてもらう許可は取ってあるから安心して。……じゃ、とりあえず、これからお世話になる人達に挨拶しに行きましょっか」

 

「……ちょっとよろしいでしょうか? 監督」

 

 挙手しながらそう言ったのは、マルゼンスキーだった。

 

 頭痛をこらえるような表情をしているコーチ役に、リコはからかうような笑みを向ける。

 

「あら、何かしら? 年齢詐称感たっぷりのマル子ちゃんコーチ」

 

「詐称していませんし、その呼称にも不満はありますが……今はとりあえず質問させて下さい。ここがどういった場所か、監督はご存じですか?」

 

「そりゃもちろん知ってるわよ。私達みたいなウマが一生懸命駆けっこする場所でしょ?」

 

 微妙に悪意が滲むその返答を聞いて、マルゼンスキーの表情はますます険しくなった。

 

「……すごく嫌な予感しかしないので、重ねて質問します。監督が今仰った、これからお世話になる人達というのは――」

 

「おや、ようやく来たみたいねぇ」

 

 問いを掻き消すように、女の声。

 

 それが飛んできた方向に八人は視線を向け――リコとシンボリルドルフを除く全員が、驚愕に目を見開いた。

 

 桁違いの肉体を持つ恐るべき集団が、自分達に近付いてきていたからだ。

 

「その子達が日本代表? ふふ……なぁんだ、思ったより可愛らしいじゃない」

 

「本当ねぇ。細いし小さいし、ちょっと抱き締めただけで折れちゃいそう」

 

「可哀想にねぇ。こんな所に連れてこられちゃって。こんなか弱い子達をいたぶらなきゃいけないなんて、心が痛むわぁ」

 

「でも仕方ないわよねぇ。殺す気でやっていいって言われちゃったんだから。手を抜いちゃったら逆に失礼ってものよねぇ?」

 

「うふふふふ……久々に血が騒ぐわぁ」

 

 にやにやと不吉な笑みを浮かべながらやってきたのは、五人の女だった。

 

 年齢は、全員三十代から四十代。日本代表の五人からすれば、親子ほども年の離れた大人達だ。

 

 長い耳と尾を持つことから、同族であることが見て取れる。

 

 しかし、問題はそんなことではない。

 

 代表の面々が一様に青褪め、絶句し、恐れ慄いている理由は、ただ一つ。

 

 突如として現れた五人の中年女が皆、二メートルをゆうに超す身長の大女だったからだ。

 

「ほらほらみんな、ビビってないで挨拶しなきゃ駄目よー。今日からこの人達にみっちり指導してもらうんだからねー。礼儀正しくしましょうねー」

 

 リコは当然のように言うが、その発言内容は日本代表の五人にとって悪夢に等しいものだった。

 

 油の切れかけたゼンマイ人形のように首を回して、セイウンスカイが問う。

 

「え、えっと……リコさん……? ばんえい馬だよね……? この人達……」

 

「そうよー。大分前に引退した元ばんえい馬の皆さん。日本代表のみんなを強くするための特訓に協力してほしいってお願いしたら、快く引き受けてくれたの。いい人達よねー」

 

「ば――馬鹿じゃないのあんた!?」

 

 キングヘイローが叫ぶ。

 

 彼女でなくとも、声を荒らげて猛抗議したくなるような状況であった。

 

 何しろここに来るまで、一言も聞いていなかったのだ。合宿の地に巨人の軍団が待ち構えているなどという話は。

 

「ワールドカップで勝つための合宿じゃなかったのこれ!? 何でここでばんえい馬なんかが出てくるのよ!?」

 

 馬という生き物には多くの種があり、様々な分類法があるが――体格で分類する場合は、軽種、中間種、重種、在来種、ポニー種の五つに分けられる。

 

 サラブレッドが属するのは軽種。比較的小柄で体重が軽い種だ。身軽なため運動能力が高く、競走や馬術競技を主な活躍の場とすることで知られている。

 

 その対極に位置するかのような存在が、重種。最も身体が大きく、最も屈強な種だ。鈍重なため速さ比べには全く向かないが、筋力と耐久力の面では軽種馬を遥かに凌駕する。

 

 一行の前に現れた五人の大女は、疑いようもなく重種馬だった。

 

 北海道帯広市は、重種馬を用いた特殊な競技――「ばんえい競馬」を主催する、世界で唯一の自治体なのだ。

 

「なんか、とはご挨拶ねえ。お嬢ちゃん。これでもあたしら、ばんえいの中じゃ結構名の知れた方なのよ?」

 

「――っ」

 

 五人の内の一人が、キングヘイローの頭に掌をぽんと置く。

 

 それだけでキングヘイローは硬直し、今にも失禁しそうなほど青褪めた。

 

 自分より一メートル近く巨大な女が相手では、萎縮するなという方が無理な話である。

 

「よしなさいってイレネー。あんまり怖がらせたらオシッコちびっちゃうわよ、その子」

 

「いきなりあたしらを見たからびっくりしてるのよ。ちょっとのことは大目に見てあげなさいな」

 

「そうそう、最初は優しくしてあげてって言われたでしょ。最初はね……うふふ」

 

 仲間をやんわりと窘める大女達。一見優しげなその表情からは、どことなく不気味な陰が滲み出ていた。

 

 日本代表の面々は、借りてきた猫の状態。

 

 目の前に立ち並ぶ大女達の岩山のような巨躯に圧倒され、言葉を発することさえままならなくなっていた。

 

 絶対にありえない仮定だが――もしこの場で五対五の殴り合いなどになれば、万に一つも勝ち目はない。

 

 一方的に蹂躙されて無惨に全滅するまで、おそらく十秒とかからないだろう。

 

 それほどの絶望的戦力差が、軽種馬と重種馬の間にはあるのだ。

 

「……皆、既に察していると思うが…………今回の合宿で行うのは、普通のトレーニングではない」

 

 それまで黙っていたシンボリルドルフが、やや気まずそうな顔で言う。

 

「まずは、力の要る馬場を苦にしない強靭な足腰を培うため、我々より体格面で遥かに優れた重種馬の方々を手本とし――」

 

「はいはい、そんな無理して遠回しに言わなくていいのよー。要はごついおばさん達にばんえい競馬を教えてもらうってだけの話だからねー。ほらみんな、ちゃちゃっと準備しちゃって」

 

 迂遠な説明を封殺し、リコは日本代表の五人に「練習」の準備を促す。

 

 固い決意を胸に北海道の土を踏んだ少女達は、早くも東京に帰りたくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 日本中央競馬会が主催する「中央競馬」と北海道帯広市が主催する「ばんえい競馬」は、全くの別物だ。

 

 単に運営母体が違うだけではない。レースに出走する馬の品種が違う。レース体系も違う。コース形態も違う。開催日も違う。さらに、レースのルールそのものが根本的に違う。

 

 簡単に言ってしまえば、ばんえい競馬とは、重種馬が鉄の橇を曳いて走る競技なのだ。

 

「はぁっ……はぁっ……くぅっ……はぁっ……! や……やっぱり……頭おかしいんじゃないの……!? あいつ……」

 

 砂が敷き詰められた、僅か二百メートルの長さしかない直線コースの半ば付近。

 

 滝のような汗を流しながら、キングヘイローは愚痴を零した。

 

「こんなの、私達がやることじゃないし……私達に出来るわけないし、出来たって仕方ないし…………何をトチ狂ってこんな馬鹿なことさせてんのよ、あのクソ監督は……!」

 

「……まあ、筋力はつくかもしれないけど……いくら何でもキツすぎるよね、これは……」

 

 隣にいるセイウンスカイが、弱々しい声で言った。

 

「激しく同意デース……フランスにもこんな特訓ありませんでしたヨ……」

 

「うぅ……頭がクラクラしてきた……」

 

 エルコンドルパサーとスペシャルウィークも弱音を吐く。吐かずにはいられない。

 

 何故なら現在、彼女らの胴体には特殊な馬具が取り付けられ、巨大な鉄製の橇と繋がった状態にあるからだ。

 

 橇の重さは、約五百キログラム。しかも、プロレスラーより体格の良い大女達――かつてばんえい競馬で名を馳せた重種馬達が、一人ずつその上に乗っている。

 

 そんな軽自動車並の重荷を引き摺って帯広競馬場の直線コース二百メートルを踏破せよというのが、彼女らに与えられた課題だった。

 

 言うまでもなく、狂気の沙汰である。

 

「オラァ! ちんたら歩いてんじゃねえぞクソガキ共! くっちゃべってる暇あったら脚動かせってんだよマヌケ!」

 

「ぶへっ!?」

 

 橇に乗る大女が、手に持つ竹刀でエルコンドルパサーの脳天を殴打。哀れな被害者は女子にあるまじき顔になり、頭を抱えて悶絶した。

 

 次いで、他の大女達の怒鳴り声が響く。

 

「細っこいてめえらのために一番軽い橇使ってやってんだぞボケが! このくれえでへばってちゃ話にならねえんだよクソボケ!」

 

「それとも何だぁ!? こんな軽い橇じゃちょろすぎてやる気になりませんってかぁ!? あんま舐め腐ってんと一トンの橇曳かせんぞゴルァ!」

 

「それが嫌なら死ぬ気で走れやゴミ共! 言っとくがケツでゴールしやがったクソゴミはもっかい最初からやり直させっからな! 覚悟しとけよオラァ!」

 

 日本代表五人が準備を済ませスタート地点に立つまで、表面上は優しげだった重種馬五人は――特訓が始まった途端、お約束のように豹変した。

 

 少しでも気を抜けば情け容赦ない罵声を飛ばすだけでなく、各々が手に持つ竹刀や角材で痛烈な打撃を叩き込んでくるのだ。

 

 そのあまりにも前時代的な厳しさに、エルコンドルパサー達は早くも辟易していた。

 

 ばんえい競馬用の橇を曳くなどという無茶をさせられている上にこれでは、身体がどうにかなってしまいそうだ。

 

「だ、大丈夫……? 今すごい音したけど……」

 

「……大丈夫じゃないデース。魂が飛んでいきかけてマース」

 

 声を潜めて問いかけるスペシャルウィークに、エルコンドルパサーはぐったりしながら返答する。

 

 キングヘイローとセイウンスカイは、同時に溜息をついた。

 

「何でこのおばさん達、こんな昭和のノリなのよ…………世間に知れたら大問題になるんじゃないの? これ」

 

「バレなきゃいいって思ってるんだよ、きっと。バレてもそのまま続行しそうだけど」

 

「……私達がワイドショーのネタになる日も、遠くなさそうね。この分だと」

 

「そういう方向で有名になりたくないなぁ……」

 

 時代錯誤な暴力的指導の被害に遭った、五人の哀れな少女――という風な形で報道される自分達の姿を想像して、二人は微妙な顔になる。

 

 そこで、スタンドからリコの声が飛んできた。

 

「ほらほら、そこのヘタレ四人組ー、くたびれたオッサンみたいにとぼとぼ歩いてる場合じゃないわよー。元ばんえい馬の人達に指導してもらえる機会なんてそうそうないんだからねー。もっと死ぬ気で頑張らなきゃ駄目よー」

 

 元ばんえい馬にばんえい競馬のやり方を教えてほしいなどと頼んだ覚えはない、と全員が思った。

 

「特にエルちゃん、何よそのヘタレっぷりはー? もう一度世界に行くためなら何だってします(キリッ)とか言っちゃってた昨日のカッコいいエルちゃんはどこ行っちゃったのー? エルちゃんは口だけの残念な子だったのー?」

 

「え、えーと……もちろん頑張るつもりなんですケド……ばんえい競馬は、ちょっと予想外だったというか……」

 

「えー、何? こんなとこで重い橇曳くなんて予想外だったから出来ませんってギブアップするのー? 情けない子ねー。そんなんだからいつも汗臭いマスク着けてるって言われちゃうのよー」

 

「言われてません! っていうか汗臭くないデス! ちゃんと毎日洗ってマース!」

 

 悪質な風評被害に憤慨するエルコンドルパサーだったが、既に疲れ果てている他の面々にとってはどうでもいいことだった。

 

「……まあ、エルちゃんのマスクが汗臭いのは置いとくとして」

 

「汗臭くないデス!」

 

「実際問題、これでまともに走るなんて無理だよね? そりゃ、重種馬の人達は出来るんだろうけど……私達と重種馬じゃ、身体の作りが違いすぎるよ」

 

 約一名の抗議を無視して、セイウンスカイは冷静に意見を述べる。

 

 キングヘイローもそれに同意した。

 

「……そうね。さっきも言ったけど、この競技ってそもそも私達がやれるように出来てるものじゃないし……それを練習も無しにいきなりやってみろなんて、無茶が過ぎるわよ。まったく」

 

 ばんえい競馬は、重種馬のための競技。レース中に使用される鉄製の橇は、筋骨たくましい重種馬が曳くことを前提に作られている。重種馬と比べて筋力面で劣る軽種馬が易々と曳ける代物ではない。

 

 要するに、出来なくて当たり前なのだ。サラブレッドの身で歴戦の重種馬と同等の筋力を持つ者など、この世に存在しないのだから。

 

 ――ただ一人の、異常すぎる例外を除いて。

 

「こんな馬鹿げたこと、平気でこなせるのは――――あの子くらいね」

 

 言いながら、キングヘイローは前を向く。

 

 その視線の先に、戦車のような力強さでコース上を突き進む少女の姿があった。

 

 日本競馬の異端者、≪怪物≫グラスワンダーだ。

 

 同じ重さの橇に繋げられた状態のまま、全員横並びでスタートしたというのに、彼女一人だけが遥か先を行っていた。

 

 橇を曳く速さが、他の四人とは違い過ぎたのだ。

 

 大地を粉砕し、競馬場に轟音を響かせ、数々の強敵を真正面から打ち破ってきた≪怪物≫の剛力は、ばんえい競馬の舞台でもいかんなく発揮されていた。

 

「やっぱり……こういうのが一番得意なのは、グラスちゃんだよね……」

 

「……得意とかいうレベルじゃないでしょ、あれ…………いったいどんな身体してるのよ……」

 

≪怪物≫グラスワンダーの最たる武器は、小さな身体にそぐわぬ圧倒的筋力。

 

 純粋な力比べで彼女に敵う者は、日本競馬界に一人もいない。

 

 その揺るぎない事実を再認識し、セイウンスカイとキングヘイローは呆れと感嘆が入り混じった思いを口にした。

 

「……」

 

 違和感を覚えたのは、エルコンドルパサーだけだった。

 

 自分達を置き去りにして前へ前へと進んでいく、小柄な栗毛の少女。

 

 その走りは確かに力強く、呆気に取られるほど凄まじい。

 

 けれど、何か物足りない。

 

 自分がよく知る≪怪物≫の本来の姿とは、どこかが微妙に違っているような――

 

「だからチンタラ歩いてんじゃねえってんだよボケがぁ!」

 

「ぼへっ!?」

 

 殺人的な痛打が、再び脳天に炸裂した。

 

 

 

 

 

 

 グラスワンダーは四人に大差をつけたまま、ゴール板の前を先頭で通過した。

 

 走破時計は、二分二十一秒二。

 

 ばんえい競馬の下級条件戦と遜色ない時計である。

 

「お疲れ。大変だったわね」

 

 立ち止まって息を整えているグラスワンダーに、マルゼンスキーが歩み寄りながら労いの言葉をかける。

 

 その表情は、娘の身を案じる母親に近かった。

 

「……大丈夫? どこか痛まない?」

 

「大丈夫です。……少し疲れましたけど、何ともありません」

 

「ならいいけど……いきなり五百キロの橇曳かせるなんて、思ったより無茶苦茶ね。この合宿」

 

 彼女にしては珍しい愚痴に、グラスワンダーはどう答えたらいいものか迷い、曖昧な苦笑を返す。

 

 そうしていると――

 

「……大したもんだよ。本当に」

 

 指導役として橇に乗っていた大女が、口を開いた。

 

「ケツぶっ叩いてでも走らせろって言われてたけど、そんな必要なかったね。まさかあたしらと大差ない時計で走り切るとは思わなかったよ」

 

 イレネーという名らしい、青毛の重種馬だ。

 

 彼女は落ち着いた表情のまま、深く静かな眼差しをグラスワンダーに向けていた。

 

「流石は――」

 

「上出来よーグラスちゃん! ベリーグッド!」

 

 言葉を遮る大声と共に、上機嫌な様子のリコがやってくる。

 

「この無理ゲーをあっさりクリアするなんて、流石は日本一の筋肉達磨ね! メスゴリラ感満載のパワフルな走りには惚れ惚れしちゃったわー。その有り余る筋肉をあっちのヘタレ共にもちょっと分けてあげてほしいくらいよ」

 

「は、はぁ……」

 

 あまり嬉しくない褒め方をされ、微妙な顔になるグラスワンダー。

 

 リコは笑顔で続けた。

 

「よく頑張ったから、罰ゲームのケツバットは免除してあげる。今日はもう上がっていいわよ。明日に備えてゆっくり休んじゃって」

 

 グラスワンダーは言い知れぬ不安を覚えた。

 

 目の前にある優しげな笑顔が何故か、酷く不気味で禍々しいものに見えてならなかったのだ。

 

 そして残念ながら、その直感は的中した。

 

「イレネーさん」

 

 リコの目は、青毛の重種馬に向けられる。

 

「明日はこの子だけ別メニューでいくから、ちょっと付き合ってあげて」

 

「別にいいけど、何しろってんだい?」

 

「簡単よ。この子と競走してほしいの。ばんえい競馬のルールでね」

 

 グラスワンダーとマルゼンスキーが、同時に目を瞠った。

 

 イレネーは目を細め、真剣な顔になる。

 

「……いいのかい? あたしで」

 

「ええもちろん。どうせなら一番強い人と競走させてあげた方が、いい勉強になるし」

 

「…………練習とはいえ、走るってんなら加減は出来ないよ。あたしは」

 

「そうでなきゃ困るわ。地獄の合宿だもの、これ」

 

 リコが笑顔のまま言うと、イレネーは仕方がなさそうに溜息をつく。

 

 気乗りはしないが了承した、といった様子だった。

 

 そうして話がまとまりかけたところに、マルゼンスキーが割って入る。

 

「ちょっと待って下さい、監督」

 

 彼女は不機嫌を露わにし、鋭い目でリコを睨んだ。

 

「どこからツッコんだらいいのか、正直困ってるんですけど……とりあえず順番に言わせてもらいます。グラスはたった今、実戦同様の模擬レースをさせられたばかりですよ? それなのに明日またやれとか……しかも、元ばんえい馬のイレネーさんと競走しろって…………あなたは正気ですか?」

 

「もちろん正気よ。何もトチ狂っちゃいないわ。パワーで全てを解決する脳筋丸出しのグラスちゃんを、さらに超絶パワーのスーパー脳筋に進化させるために試練を与えてるの。何か問題ある?」

 

 およそ真剣とは思えないふざけた口調で、リコは問い返す。

 

 マルゼンスキーの苛立ちは、さらに高まった。

 

「いくら力があるからって……グラスはサラブレッドですよ? 本職の人とばんえいルールで勝負して勝てるわけないでしょう?」

 

 他の四人に大差をつけてゴールしたグラスワンダーだが、それはあくまで、サラブレッドの中では抜きん出た剛力を持つという話。

 

 根本的に身体の作りが違う重種馬相手に、力の勝負で敵うわけがない。

 

 それを知っているからこそ、相手に指名されたイレネーも渋い顔をしているのだ。

 

「そりゃ勝てないでしょうね。でも、勝ち負けは問題じゃないわ。要は負荷の問題よ」

 

 そう言って、リコは顔を横に向ける。

 

 エルコンドルパサー達四人は未だゴールに辿り着けず、コース上で悪戦苦闘を続けていた。

 

「見ての通り、他の子達とじゃ勝負にならないみたいだし……単走じゃどうしたって負荷が足りなくなっちゃうからね。遥か格上を必死に追い駆けるくらいで丁度よくなるのよ。こういう、ひたすら筋肉を鍛えるトレーニングは」

 

「……言いたいことが上手く伝わっていないようなので、はっきり言います。そんな無茶させてたら強くなる前に身体が壊れるって言ってるんですよ、私は」

 

「その時はその時よ」

 

 マルゼンスキーが呈した苦言に、リコはきっぱりと即答した。

 

 その目には、一片の迷いもない。

 

「もちろん監督として、選手が身体を壊さないように細心の注意は払うけど……壊れるのを怖れて訓練を生温くするなんてのは、本末転倒もいいところ。ワールドカップまで大して時間はないし、世界との差は簡単には埋まらない。壊れることも覚悟の上で鍛えまくらなきゃ届かないわよ、世界の頂には」

 

 無責任とも取れる発言に、マルゼンスキーは反論しようとし――すんでのところで、それを呑み込んだ。

 

 彼女とて分かっている。

 

 この合宿が、世界と戦う力を培うためのものであることを。

 

 世界との間にある絶望的な差は、並大抵の努力では決して埋められないことを。

 

 しかし、それでも、身体を壊しかねないほど過酷な訓練が後輩の身に課せられることは、彼女には受け入れ難かった。

 

「グラスちゃんも、ワールドカップで勝ちたいわよね?」

 

 本人の意思を確かめるように、リコは問いを投げかける。

 

「なりたいんでしょ? 世界最強に」

 

「…………はい」

 

 やや逡巡してから、栗毛の少女は返答した。

 

 リコはふっと笑う。

 

「ならここで頑張らなきゃね。ま……流石に今回は相手が悪すぎるから、勝てとまでは言わないわ。胸を借りるつもりで一生懸命走ってくれればそれでいいわよ」

 

 グラスワンダーはこくりと頷く。

 

 どこか無理をしている様子の少女に、マルゼンスキーは心配そうな目を向けた。

 

「グラス……」

 

「大丈夫。やれます」

 

 額に大粒の汗を浮かべながら、自分自身に言い聞かせるように答える。

 

 苦もなく橇を曳いていたように見える彼女だが、やはり慣れないことをした後だ。見た目ほど余裕があるわけではない。

 

 それでも疲労を押し殺し、決然とした顔で言った。

 

「練習が厳しいのは、覚悟の上です…………私も、世界の頂点を目指してますから」

 

 橇の上に立つ青毛の重種馬を見上げ、怯まずに目を合わせてから、深く頭を下げる。

 

「明日は全力でいきますので、ご指導お願いします。イレネーさん」

 

 その言葉を受け、イレネーは――ばんえい競馬の生ける伝説は、厳めしい面持ちのまま静かに応じた。

 

「ああ――こっちも手は抜かないから、死ぬ気でついてきな」

 

 

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