ケンタッキーダービーを制し、薔薇のレイを手に入れる。
その目標を胸にひたむきな努力を続けたグラスワンダーだったが、それでも彼女は伸び悩んでいた。
トレーナーから教えられた「正しい走り方」が、彼女にはどうしても身に付かなかったのだ。
理論を知っても、上手く実践出来ない。
最も効率的で合理的とされる動作が、何故か身体に馴染まない。
様々な練習法を試したものの目に見える進歩が表れることはなく、月日だけが無為に過ぎていった。
「はぁっ……はぁっ……駄目……全然……」
その日もまた、彼女は練習場の隅で息を切らしながら、落胆の声を零していた。
休日返上で自主トレーニングに励んだのだが、やはり成果は無し。
自身の全力疾走を撮影した携帯端末に映るのは、酷くぎこちないフォームで走る劣等生の姿だけ。教本に載っていた理想的なフォームとは、まるで違う。
こんな無様な走りでは、トレーナーはきっと納得してくれないだろう。
「もう一度……やらないと……もう一度……」
疲弊した身体を押して、トラックコースのスタート地点へと向かう。
諦めるわけにはいかない。出来るようになるまでやらなければいけない。辛くても、苦しくても、ここでやめるわけにはいかないのだ。
自分には、夢がある。
強くなって恩師との約束を果たし、最高の栄誉を勝ち取る夢がある。
さらに、その先――
幼い頃から抱き続けてきた、≪ビッグレッド≫になるという夢も――
「……」
立ち止まり、足元に目を落とす。
僅かな逡巡の後、右脚を高く振り上げる。そしてそのまま、地面に向かって振り下ろした。
地面を踏むというよりも、地面に脚を叩きつけるように。
渾身の力を込めて。強く。深く。
そうすると、懐かしい感覚が込み上げてきた。
身体の奥深くでダイナマイトが爆ぜたかのような、熱く激しい感覚。
心を震わせる、灼熱の衝動。
それを糧にすれば、どんな時でも前に進める。
疲労を忘れ、脚の痛みを気力で捻じ伏せ、地面を蹴り砕きながら、どこまでも前へと。
昔は――学園に入る前は、そんな風に走っていた。
かつてベルモントパーク競馬場で観た≪ビッグレッド≫の走りを、真似していたのだ。
理論も何も知らない子供の、幼稚な真似事だ。本当の≪ビッグレッド≫の走りとは、少しも似ていなかっただろう。
けれど、それが自分の走りだった。
幼心に焼きついた最強馬の疾走を自分なりに再現しようとした結果、自然と出来上がったのがその形だったのだ。
一緒に駆けっこをしていた友達からは、汚い走り方だと馬鹿にされた。
両親からは、怪我をするから止めろと叱られた。
そして学園に入ってからは、真っ先に矯正させられた。
スポーツ科学を修めた指導者達にとって、脚を地面に叩きつけるなどという非合理な走り方は、容認し難い「悪癖」でしかなかったのだ。
誰も認めてはくれなかった。
この走り方を「悪癖」ではなく一つの「型」として認めてくれる者は、一人もいなかった。
皆に嘲笑され、罵倒され、否定され続けてきた。
それでも、時折思う。伸び悩む自分自身を見つめる度、心のどこかで思わずにいられない。
やはり自分には、これが一番合っているのではないかと――
「駄目だぞ、それは」
背後から、よく知る男の声。
振り返ると、厳しい面持ちで立つトレーナーの姿がそこにあった。
「トレーナーさん……」
「気になって見に来てみれば、これだ…………また悪い癖が出かかっていたぞ。脚を地面に叩きつけるような真似はよせと、もう何度も言ってきただろう?」
心底から呆れたと言いたげに、若いトレーナーは教え子の行いを注意する。
指導を始めた頃は決して向けなかった類の眼差しを、その顔に向けて。
「は、はい……すみません……つい……」
「分かればいいが……君ももうすぐ公式戦に出る齢なんだ。そろそろ自覚を持ってほしいな。悪癖を直して正しい走り方を身に付けるという意思を強く持ってくれなければ、直るものも直らないよ」
「はい……」
グラスワンダーは俯く。
敬愛する恩師に「叩きつける走法」を否定されるのは、他のどんなことよりも辛かった。
「……練習メニューを見直す必要がありそうだな」
トレーナーは溜息をつき、踵を返して歩き出す。
「今日はもう上がりなさい。それ以上やっても成果は出ないだろうし……君のその悪癖は、僕が思っていたより重症のようだからね」
深い失望を含んだ言葉が、胸に突き刺さる。
遠ざかっていく男の背中を直視出来ず、栗毛の少女は俯いたまま唇を噛んだ。
君の首に薔薇のレイがかけられる瞬間を見たい――そう言われた日が、もう遠い昔の出来事のようだ。
近頃のトレーナーは、その夢を口にしなくなっていた。
笑顔を見せてくれる機会も減り、優しい言葉をかけてもくれなくなった。
不出来な教え子を立派に育て上げようという熱意さえ、徐々に薄れている様子だった。
自分はもう、愛想を尽かされかけている――その事実を、グラスワンダーは深く痛感していた。
当然と言えば当然だろう。
トレーナーは父親ではない。大成する見込みのない者にいつまでも甘い顔はしてくれない。
結果を出せなければ見限られる。勝負の世界では当然のこと。
そう自分に言い聞かせてみても、胸に残る痛みは消えなかった。
――勝ちたい。
無人の練習場に佇みながら、心の中で呟いた。
誰にも負けない強さが欲しい。今の自分が置かれた状況を打破する、輝かしい勝利が欲しい。
レースで勝利を手にすれば、全てが変わる。
同期生達に蔑みの目で見られることもなくなる。
レベルの高い名門校に入学することに難色を示していた両親も、自分を認めてくれる。
トレーナーもきっと、自分を見直してくれる。
いつかのように夢を語り――また一緒に薔薇のレイを目指そうと、優しい笑顔で言ってくれる。
その時は、そう信じていた。
帯広市内に建つ古びた旅館が、日本代表チームの宿泊場所だった。
合宿初日の午後九時。
食事と入浴を終えた代表選手五人は、自分達に割り当てられた八畳の和室で布団の上に腰を下ろしていた。
「あー……疲れたぁ……」
脚を投げ出した姿勢のキングヘイローが、天井を仰ぎながら盛大に溜息をつく。
お嬢様らしからぬ振る舞いだが、今は疲労が溜まりすぎていて、体裁を気にする余裕もないらしい。
「何よあれ……何なのよ……何で私達がばんえい競馬なんかさせられなきゃいけないわけ? 一回やっただけで、もう体中にガタがきてるんだけど……」
「みんなはまだいいよ。私なんか二回だもん…………お尻バットで叩かれたし」
眉を八の字にして、スペシャルウィークがぼやく。
不運にも昼間の競走で最下位になってしまった彼女は、ケツバットの刑に処せられた挙句、「もう一度最初からやり直し」という悪夢の罰ゲームを課せられたのだ。
そして二回目の途中で、体力が尽きて失神した。
人一倍練習熱心な彼女でさえ、二度とやりたくないと思ってしまうほどの苦行であった。
「橇も殺人的に重いけど、乗っかってる人達が重すぎるよね、あれ…………実戦じゃないんだから、わざわざ橇に乗らなくたっていいのに……」
「三十秒に一回くらいの頻度で物理攻撃してきますしネー……ワタシなんか頭叩かれすぎて、ガチで脳味噌が零れ出るかと思いましたヨ……」
セイウンスカイとエルコンドルパサーも、うんざりした様子で愚痴を並べる。
五人中四人が激戦地から帰った兵士のような有様になっているせいで、室内の空気は重く淀んだものと化していた。
元気なのは、約一名だけだ。
「あ、あはは……今日は大変でしたよね…………で、でも大丈夫ですよ。初日だからちょっと疲れましたけど、人間慣れればどうにかなるものですし……」
「……」
「……」
「……」
「……」
グラスワンダーが苦笑しながら言うと、四人の冷たい眼差しが彼女に注がれた。
「え……? な、何ですか? その目は……」
「うん……嫌味じゃないのは知ってるけどさ……筋肉たっぷりのグラスちゃんが言うと、何かすごく嫌味っぽく聞こえるよね……」
「どう見たって慣れとかの産物じゃないでしょ、あなたのその有り余る筋肉は」
「いいなその筋肉……ちょっと分けてほしいよ」
「脳筋が羨ましいデース」
「な……!? み、みんなでそんな筋肉筋肉言わないでくださいっ!」
顔を赤くするグラスワンダー。
天性のものである並外れた筋力は、彼女の大きな武器なのだが――「筋肉たっぷり」だの「有り余る筋肉」だのと筋肉の塊みたいに言われるのは、正直言って嬉しくない。
この連中は、自分を何だと思っているのだろうか。
「……まあでも、明日は今日と同じことはやらないみたいだよ」
「あら、そうなの?」
「うん。さっきリコさんが言ってた。あの橇曳くのを連日やらせると流石に壊れるから、明日は違う特訓するんだって」
「私は、明日イレネーさんと競走するように言われましたが……」
「グラスちゃんはチームの脳筋枠だから、多少無茶させてもいいんだってさ」
「……」
あまり光栄とは思えない扱いに、グラスワンダーは微妙な顔になる。
エルコンドルパサーが肩をすくめた。
「でもあの人のことだから、まともなトレーニングは期待しない方がいいデスネー。世界の強豪と渡り合うにはこれが必要なんだーとか言って、きっとまたハチャメチャなことをワタシ達に要求して――」
「あ、そういえば……」
「ん? どうしましたスぺちゃん?」
何かに気付いた様子のスペシャルウィークに、エルコンドルパサーは怪訝な顔を向ける。
スペシャルウィークは顎に人差し指を当てながら、思ったことを口にした。
「今ふと思ったんだけど…………他の国の代表の人達って、もう決まったのかな?」
その疑問を聞き、皆が「あっ」と小さく声を上げた。
九ヶ月後にドバイの地で開かれるワールドカップ――その舞台で対戦することになる他国の代表選手。
世界各国が威信をかけて送り出す、五人の精鋭。
それがどのような顔ぶれになるのかを、彼女達はまだ知らない。
「流石にまだじゃない? ……って言いたいけど、うちみたいな例もあるから何とも言えないわね…………まあでも、イギリス、フランス、アメリカあたりなら選ばれる面子は大体想像がつくわよ」
「世界的に有名デスからネ。そのあたりの国の名馬は」
キングヘイローの発言に、エルコンドルパサーが同意する。
近代競馬発祥の地イギリス。
数々の歴史的名馬を輩出してきた強国フランス。
競馬の規模と質においても世界随一を誇る超大国アメリカ。
その三国の最高峰に君臨する英傑達の名は、世界に広く知れ渡っている。
「まずイギリスだけど、ミルリーフとブリガディアジェラードの二人は確実に出てくるでしょうね。実績、実力共に抜きん出てる二大巨頭だもの。あとは歴戦の古豪ハイペリオンに、欧州最強の追い込み馬と言われるダンシングブレーヴ……全盛期は十五連勝を記録したプリティポリーなんかも候補に挙がってるかもしれないわね」
「イギリスならあれもいたじゃん。セントなんとかっていう、ちょっとやばい人」
「……セントサイモンは去年逮捕されたわ。今は実刑判決が下って服役中よ。これで二度目だから、もう当分は出てこれないでしょうね」
「そっかぁ、残念だなー…………あの人すごく強かったのに」
「いくら強くたってレースに出しちゃ駄目でしょう、あんな異常者。ていうかシャバにいちゃいけない奴よ、あれは」
残念がるセイウンスカイに、キングヘイローは吐き捨てるように言う。
グラスワンダーとエルコンドルパサーは何と言っていいか分からずに微妙な顔を並べ、海外競馬に疎いスペシャルウィークだけが首を傾げた。
「話を戻すけど、フランスはシーバードを送り出してくるでしょうね、間違いなく。あの伝説の凱旋門賞の優勝馬で、レーティング歴代一位の超名馬……フランス競馬の栄光の象徴。ワールドカップで優勝を狙うなら絶対に欠かせない存在よ」
「よく知らないけど、そんなに強いの? シーバードって」
「……強いなんてもんじゃないわ。史上最強馬論争なんかになれば、必ず名前が挙がるレベルの化物よ」
「へー……」
「あとはシーバードに次ぐ実力者のリライアンスに、フランスダービーやパリ大賞典を制してるパントレセレブル、GⅠ八勝のアレフランス…………残る一枠はダラカニか、ミエスクか、ザルカヴァか……分からないけど、そのあたりがフランスの代表メンバーになるでしょうね」
「あれ? モンジューさんは?」
昨年のジャパンカップで対戦した相手の名前がないことに、スペシャルウィークは疑問を抱く。
キングヘイローは難しい顔になった。
「微妙なとこね……候補に挙がらないことはないと思うけど、多分出てこないと思うわ」
「え!? そ、そんな……どうして……?」
「どうしても何も……フランスって競馬大国だから、層が厚いのよ。あのモンジューですら代表に選ばれないかもしれないくらいに」
「――っ」
絶句するスペシャルウィーク。
告げられた事実は、彼女に少なからぬ衝撃を与えたようだった。
「アメリカについては……エルとグラスの方が詳しいわよね?」
アメリカ出身の二人に、キングヘイローは目を向ける。
母国の話とあって興が乗ったのか、エルコンドルパサーが普段の調子を取り戻してそれに応じた。
「ハイハーイ、それじゃワタシが説明しますネー。アメリカは世界で一番サラブレッドの数が多い国デース。その分競争が激しいので、トップクラスにいる人達はとんでもなく強いデース。今夜はそんな超絶スーパーホース達の中から、ワタシが独断でピックアップした五人を紹介していきましょう!」
「何で急にバラエティ調になるのよ」
「まあエルちゃんだし……」
「その芸風とったら何も残らないもんね、エルちゃん」
「うっ……何かさりげなくグサッとくること言われた気がしますケド、気にせず始めましょう! まずはアメリカ史上最速のサラブレッド、≪暴嵐≫ドクターフェイガー! ダート一マイルの世界レコード保持者デース! 中距離でも十分すぎるほど強いデスが、真価を発揮するのはやはり短距離! 七ハロン以下のレースでは未だ負けたことがないという、ダート短距離界の絶対王者デース!」
「あー、フェイガーね……」
「聞いたことある……この先絶対に更新されないレコードを叩き出した人だって」
「ワールドカップに短距離戦があるなら……出てくるわよね、絶対」
「お次は芝路線の帝王、≪聖騎士≫ラウンドテーブル! ボールドルーラー、ギャラントマンと並び称された黄金世代最後の生き残りで、六十六戦四十三勝の大ベテランデース! トップホースの中では最年長の部類デスが、その強さは未だ健在! 芝のレースでは滅法強く、十七戦十五勝と圧倒的な勝率を誇りマース!」
「芝のスペシャリストか……ダートが主流のアメリカじゃ珍しいタイプよね」
「六十六戦四十三勝……すごい……」
「ただ強いだけじゃなくて、相当なタフさがないと叩き出せないよね。そのレベルの成績は」
「続いてはアメリカ競馬史上屈指の下克上! 底辺から頂点まで駆け上がったシンデレラホース、≪魔王≫シガー! 当初は連敗街道まっしぐらの凡馬でしたが、デビュー十四戦目に出走した一般競争で突如覚醒! 別馬と化したかのような走りで圧勝を重ね、数々の強敵を打ち破り怒涛の十六連勝を達成! 瞬く間に大レースを総ナメにした大確変野郎デース!」
「な、何か……すごい人ばっかりだね、アメリカって……」
「そりゃそうよ。世界一の超大国だもの」
「色んな意味でスケールが違うよね。うちの国とは」
すっかり調子に乗り、無駄に気合の入った解説を披露するエルコンドルパサー。それに耳を傾けながら、あれこれと意見を述べ合う三人。
そんな光景を、どこか遠くを見るような目でグラスワンダーは見つめていた。
会話に加わらず、一人静かに思う。
――自分達は競走馬だ。
競馬場で走ることを仕事にして生きている。
その生き方を選んだ理由は、多分各々で違うのだろう。
競馬に懸ける想いの形も、きっと違う。
それでも、競馬の話になれば皆が一つにまとまり、時にふざけて笑い合い、時に真剣な顔で議論する。
生まれた場所も考え方も違う自分達を、競馬という競技だけが繋いでいる。
結局のところ、皆好きなのだ。
競馬場で走ることが。強い相手と競い合うことが。
芝生の上を全力で駆け抜け、先頭でゴールに辿り着くことが。
だから日々の辛い練習に耐え、幾多の困難を乗り越えながら走り続けている。
今もそうだ。
突如発表されたワールドカップ開催に驚き、国の代表に選ばれたことに戸惑い、滅茶苦茶な特訓や理不尽な仕打ちに不平不満を述べたりはしているが――皆の根底にある意思は変わらない。
世界最高峰の舞台に立つ日を夢見て、強敵との対決に胸を躍らせている。
世界を制するという途方もない目標を、皆が本気で目指しているのだ。
それなのに、自分は――
「さあそして、四番目に登場するのは現役最強の呼び声高いあの人! デビューから無敗のままアメリカ三冠を完全制覇するという前人未踏の大偉業を成し遂げた、第十代三冠馬!」
「何か格闘漫画の選手入場みたいになってきたね……」
「脳内麻薬か何かが過剰分泌されてきたんでしょ、きっと」
セイウンスカイとキングヘイローが呆れ顔で言う一方、グラスワンダーは密かに息を呑む。
第十代三冠馬。
耳に入ったその言葉が忌まわしい記憶を掘り起こし、彼女の表情を一変させた。
「その疾走は湖面を泳ぐ水鳥の如く優美! 沈着冷静なレース運びは機械の如く正確無比! 競走馬の理想形とも讃えられる完全無欠のレーシングマシン! その名は――」
「ほーら、いつまで騒いでるの!」
最高潮に達しかけた熱い語りを、叱声が遮った。
部屋の戸を開け放ち、怒り顔のマルゼンスキーが現れたのだ。
「駄目でしょう夜更かししてちゃ。明日も特訓なんだから、みんなもう寝なさい」
「あ……スミマセン……」
エルコンドルパサーが素に戻り、申し訳なさそうに縮こまる。
その様子を見てマルゼンスキーは立ち去ろうとしたが、部屋の中に一人だけ顔色が悪い者がいることに気付き、首を傾げた。
「ん? どうかしたの? グラス」
「いえ……」
青褪めた顔で俯いていたグラスワンダーは、小さく頭を振る。
「何でも……ないです……」
そうして、夜の競馬談議は幕を閉じた。
午後十時過ぎ。
消灯からしばらく経ち、皆の寝息が聞こえるようになった頃――エルコンドルパサーは、隣の布団で横になっているグラスワンダーに囁きかけた。
「グラス……起きてますか?」
「……はい」
やや間を置いてから、小声の返答。
暗い部屋の中、エルコンドルパサーは布団に寝転んだまま苦笑する。
「さっきはスミマセン。喋ってるうちについ楽しくなって、悪ノリしすぎちゃいました。はは……」
「いえ、私も楽しかったですよ。……たまにはいいですよね、こういうのも。何だか修学旅行の夜みたいで」
「あはは……そういえば、このメンバーで一緒に泊まるのって初めてでしたネ」
「普段は別々のチームですからね。レースでは敵同士でしたし」
「……そう考えると不思議デース。ついこの間までライバルだったワタシ達が一つのチームになって、一緒に世界の舞台を目指してるなんて……」
「……」
「どうしました? グラス」
「いえ……何でも……」
グラスワンダーは言葉を濁す。
どこか思い詰めた様子の親友に、エルコンドルパサーはやや逡巡してから問いかけた。
「……さっき、マルゼンスキーさんが来た時…………グラス、顔色悪そうにしてましたよね?」
「……っ」
「もしかして、ワタシ……調子に乗って、何かまずいこと言っちゃってました……?」
「いえ……」
否定してから、どう言うべきか迷う。
エルコンドルパサーが悪いわけではない。これは自分の問題。
三年前のあの日から、癒えずに残り続けている――自分自身の心の傷痕。
「そういうわけじゃ、ないんです…………ただ……」
目を細める。
苦い記憶を噛み締めながら、ぽつりと零す。
「知り合い……なんです……」
「え……」
「さっきエルが、アメリカ代表の四番目に挙げてた人……私の知り合いです」
「えっ…………えええええええっ!?」
「……っ! こ、声が大きいですエル……」
「す、すみません…………で、でも……それ、ほんとに……?」
「ええ……家が近所で、小さい頃はよく一緒に遊んでました」
無邪気だった子供の頃――姉のように慕っていた少女の顔を思い浮かべ、訥々と語る。
「私も彼女も走るのが好きで……二人で競走する度に、勝った負けたで喧嘩になって……大きくなったら同じレースに出て決着をつけようって…………そんな約束をしたこともあります」
口許を綻ばせ、寂しげに笑う。
微かな自嘲と諦めを、細めた目の奥に宿して。
「今じゃ、もう…………天と地ほど差がついちゃいましたけど……」
零れ落ちたその言葉に、エルコンドルパサーはどう応じたらいいか分からなかった。
アメリカ競馬界の頂点に君臨するあの名馬が、本当にグラスワンダーの幼馴染なら――残念ながら、格が違うと言わざるをえない。
いや、比較対象にすることさえ許されないだろう。
何せあれは、アメリカの名馬の中でも別格の実力者。
今や伝説的存在となった二人の≪ビッグレッド≫にも匹敵するほどの傑物なのだ。
「三年前の冬……その人が日本に来て、私の前で言ったんです。お前の走り方は愚かだ、って」
「愚か……?」
「非合理で、無駄ばかりで、脚に余計な負担をかけるだけの愚かな走り……徹底した合理主義者のあの人の目には、私の走り方がそう映ったみたいです」
否定しようがない事実を辛辣に突きつけてきたのは、数年ぶりに再会した親友だった。
あの時の胸が締めつけられる思いは、今でも忘れられない。
「その愚かな走りで得られる強さは、花火のようなものだって……そんな風にも言われました」
記憶に刻まれた呪いのような宣告を、栗毛の少女は自らの口で紡ぎ出す。
「ほんの一瞬だけ激しく輝いて、すぐに虚しく消え失せる。後には何も残らない。……そういう類の強さだって……」
「――っ」
エルコンドルパサーの脳裏に、一つの光景が蘇る。
一昨日の模擬レース。
互いに死力を尽くした一対一の勝負が、思わぬ形で終わった瞬間。
たった一人で辿り着いた、空虚なゴール。
振り返った先にあった、ゴール手前で立ち尽くす少女の姿。
深い断崖に行く手を阻まれたかのようだった、悲哀と絶望の表情。
それが、たった今聞いた話と重なって、最悪の想像を形作り――エルコンドルパサーは、否定の言葉を絞り出した。
「…………そんなこと……ない……」
拳を握る。
掌に爪が食い込むほど、固く握り締める。
「グラスの強さが、消え失せるなんて…………そんなことないから……絶対に……」
「……」
願いを込めたその言葉に、グラスワンダーは答えなかった。
二人の少女の想いを包み――合宿一日目の夜は、静かに更けていった。
合宿二日目。
冷たく乾いた冬風が吹き抜ける中、帯広競馬場の正面スタンド前では、常軌を逸した特訓が行われていた。
「ぬおああああああああ――――っ!」
「ぎゃふっ!?」
雄叫びを上げながら突進してきた大女の体当たりを受け、真後ろに弾き飛ばされるスペシャルウィーク。
数メートルに及ぶ空中移動を強いられた彼女の身体は、そのまま地面に敷かれた厚いマットの上に落下。大の字になって苦悶の表情を晒した。
「ぐっ……うぅ……」
その表情と呻き声が、受けた衝撃の凄まじさを物語る。
いや、身体が数メートルも飛んだ時点で生半可な体当たりでないことは明白だった。
自動車にはねられでもしない限り、人体はそんな風に飛ばない。
「はい次、ヘイローちゃん。怪我しないように気を付けてね」
「次――じゃないわよ! 殺す気なのあんた!?」
真顔でしれっと言うリコに、キングヘイローは全力で怒声をぶつけた。
帯広競馬場の正面スタンド前はエキサイティングゾーンと呼ばれており、現在彼女らはそこにいる。
グラスワンダーを除いた日本代表チームの選手達が、重種馬の大女達の体当たりを順番に受けるという、意味不明な荒行が行われているのだ。
どうせ今日も非常識なことをやらされるのだろうと半ば諦めていた四人も、これには流石に驚愕し、開いた口が塞がらなくなっていた。
本当に、殺す気としか思えない。
「だいたい何よこの特訓は!? 何で私達がその人達の全力ぶちかましを真正面から受けなきゃなんないの!? ねえ!」
「別に全力じゃないわよ。みんなが死んじゃわないように九十五パーセントくらいの力に抑えててくれてるってば」
「ほとんど全力じゃない! 死ぬわよ! 体重差何キロあると思ってんの!?」
「うるさい子ねぇ。地面にマット敷いてあげてんだからいいじゃない」
「マットだけ敷きゃいいってもんじゃないわよ!」
その場に集っている「体当たり役」の四人は、昨日橇に乗っていたのと同じ顔ぶれで、全員が身長二メートルを超す大女だ。
それもただの長身ではなく、鋼の筋肉を蓄えた屈強極まりない体躯の持ち主であることが、服の上からでも見て取れる。
一番小柄な者でさえ、体重は百五十キロを下らないだろう。
そんな超重量級の巨人達が、ウマ科の生物特有の爆発的脚力で助走をつけてぶつかってくるのだから、その威力は計り知れない。
怪我防止のためのマットが地面に敷かれているものの、それが気休めにしかならないことは、スペシャルウィークの惨状が証明していた。
「もー……しょうがないわねえ…………じゃあクソめんどくさいけど、この特訓の意義ってやつを説明してあげるわよ」
リコは溜息をつき、軽く頭を掻く。
そして僅かに真剣な色を湛えた目で、キングヘイロー達の顔を見据えた。
「日本の競馬って、お行儀がいいのよ。良くも悪くもね」
「……どういう意味?」
「ラフプレーが少ないってこと。今まで私が観た限りじゃ、レース中にポジション争いで身体をぶつけ合う場面はそう多くないわ。他の国と比べるとね」
「それは……仕方ないじゃない。あまり危ないことしたら妨害行為で降着になるんだから」
「そう。降着になる恐れがあるから反則紛いの危ないことはしない……日本ではそれが普通になってる。でも、他の国だとちょっと事情が違うわよ」
競走体系やコース形態が国によって違うのと同様に、競走馬を取り巻く環境もまた、国によって大きく違う。
現役を退いてから世界各地を渡り歩いてきた女は、それをよく知っている。
「降着や失格の基準が日本より緩い国はあるし、他の国がどこも、日本みたいに豊かなわけじゃない」
その発言を受け、キングヘイロー達は揃ってはっとした。
リコが言わんとしていることを、悟ってしまったからだ。
「レースに負けて悔しいで済むのは、豊かな先進国だけ。私の故郷もそうだったけど、あまり豊かじゃない途上国の競馬ではレースの結果が生き死にに直結してる。一つでも着順上げて賞金稼がなきゃ生きていけない……そんな環境で育ってきた奴らは、なりふり構わず何でもやってくるわよ。勝つためにね」
実感を込めて語られたのは、競馬の現実だった。
充実した設備と厳格なルールがあり、レースに勝てば高額の賞金が得られる――そんな恵まれた環境の国は、世界的に見れば少数派だ。
世界には未だ、貧しい国が多い。
レースの賞金が日本の十分の一にも満たない国もある。
そうした環境で歯を食いしばりながら生きるサラブレッド達に、綺麗事は通用しない。
勝負の場に立てば、反則紛いの危険な行為も躊躇なく仕掛けてくるだろう。
厳しい勝負の世界で、生き残るために。
「良いポジション取るために人を押しのける奴なんて腐るほどいるし、事故を装って自分以外の有力馬を潰そうとしてくる奴だって珍しくない。私も現役時代は何度かやられて、そのせいで競走中止になりかけたりもした。だから今、あなた達に言ってるのよ。そういう悪どい奴を相手にしても対処出来るだけの身体と技術を手に入れなさいって」
リコは首を回し、立ち並ぶ四人の大女に目を向ける。
「体当たりを受けるだけの単純な特訓だけど、これに慣れて踏ん張れるようになれば、どんな奴が何を仕掛けてきても耐えられるようになるわ。サラブレッドより遥かに大きい重種馬とぶつかっても倒れない身体を得たってことだからね。説明は以上だけど、何か質問ある?」
「…………ないわよ」
苦虫を噛むような顔で、キングヘイローは答える。
エルコンドルパサーとセイウンスカイも、思いは同じだった。
「ものすごく強引な理屈に聞こえたけど……これが必要な特訓だってことは分かったわ。文句言わずにやればいいんでしょう、やれば」
「そうそう。やればいいのよやれば。あっ、油断してるとマジで死ねるから気を付けてねー」
「うるさいわね! 見りゃ分かるわよそんなの!」
文句を言いつつ進み出たキングヘイローは、自身の正面に立つ芦毛の重種馬と向き合った。
表情を引き締め、軽く一礼する。
「……お願いします」
「あいよ。はじめは軽くいってやるから、そうビビりなさんな」
「別に……腰は引けてません」
「そうかい? じゃ、遠慮なくいかせてもらうよ」
強がりをからかうように笑いながら、深く身を沈める大女。その挙動を見て、キングヘイローの全身に緊張が走った。
正直、怖くないというのは嘘だ。
自分より遥かに大きい相手の突撃が怖くないわけがない。
それでも、この試練から逃げてはいけないと思い、下腹に力を入れて身構えた。
先程のリコの言葉が、自然と脳裏をよぎる。
――他の国がどこも、日本みたいに豊かなわけじゃない。
確かにその通りだ。
広い世界には、自分達よりずっと恵まれない環境下で命懸けの競走生活を送るサラブレッドが大勢いる。
自分達五人は、ワールドカップの舞台でそうした猛者達と真っ向からぶつかり合い、勝たねばならないのだ。
弱音を吐いてはいられない。努力を惜しんではいけない。本番までに残された時間を一秒たりとも無駄にせず、やれることは全てやる。
そのくらいの気概をもって臨まなければ、世界の頂点には到底手が届かないだろう。
大丈夫。やれる。
突撃に備えながら、自分にそう言い聞かせる。
鋼の砲弾が飛んでくるわけではない。少しばかり体格が良い中年女が走りながらぶつかってくるだけだ。
その程度なら、きっと耐えられる。
覚悟を決めて守りを固め、歯を食いしばって抗えば――
「うおらあああああああああ――っ!」
「――っ!?」
甘い見通しは、激烈な衝撃によって粉砕された。
相手の巨躯と接触した瞬間、靴裏が地面から離れる。成す術なく後方に飛ばされた後、受け身もとれずに背中から落下。
数分前のスペシャルウィークと全く同じ姿になり、肺の中の空気を吐き出した。
「かはっ――」
信じられない。
たった一度受けただけで、全身が罅割れたかのようだ。
いかに巨躯の持ち主とはいえ、ただの体当たりがここまで凄まじい威力になるものなのか。
ウマ科の中で最大最強の肉体を誇り、ばんえい競馬という過酷な競技を生業とする重種馬の一族――その桁外れの剛力を、キングヘイローは改めて実感した。
「力入りすぎ。確かに踏ん張れとは言ったけどね、無駄に力めばいいってもんじゃないのよヘイローちゃん。……ま、いいわ。何度もやってりゃそのうちコツ掴むでしょ。じゃ、次はエルちゃんね」
そう言って、リコは赤いマスクの少女に視線を移す。
名指しされたエルコンドルパサーは一瞬びくっと震え、視線を左右に行き来させた後、わざとらしく腹を抱えてうずくまった。
「あたたたたっ!? ワ、ワタシ、急におなかが痛く……」
「はいはい、そんな昭和感溢れるカビ臭い手を使わなくていいのよ。嫌がらずにちゃちゃっとやっちゃいましょうね」
「い、いえあの、ほんとに痛くて……少し休まないと回復しそうには……」
「いいからいいから。さっさと前出なさいって。何ならマットの上で臭い下痢便ぶちまけちゃってもいいわよ。もしそうなったら学園中に言いふらして一生ネタにするだけだから」
「それもう人生終了レベルの大惨事じゃないデスかー!? ていうか腹痛とは言いましたケド別に下痢とは――」
エルコンドルパサーが必死に抵抗していると、その横を銀髪の少女がすっと通り抜けた。
セイウンスカイだ。
普段と変わらぬ淡い笑みを浮かべた彼女は、エルコンドルパサーと揉み合っているリコに問う。
「私が先にやってもいい? リコさん」
「……? 別にいいけど……妙にやる気ね、ウンスちゃん」
「見てたら何となくコツが分かったから。多分だけど、上手くやれると思うよ」
自信に満ちた様子で告げ、今しがたキングヘイローを弾き飛ばした重種馬の前に立つ。
そして怯むことなく、相手と目を合わせた。
「じゃ、お願いします。手加減なしでいいですよ」
「……」
その佇まいから、先の二人との違いを感じ取ったのだろう。
芦毛の大女は何も言わず、真剣な顔で腰を落とした。
正面スタンド前にいる全員が注視する中、丸太のような脚が地面を踏み締め、二メートル超の巨躯を凶器に変えた突撃が繰り出される。
爆発的な加速を得た肉の砲弾が、無防備に立つセイウンスカイに迫る。
少女の華奢な身体が大女の重厚な身体に弾き飛ばされ、宙を舞う――それ以外に考えられない状況は、直後に覆された。
地面に敷かれたマットの上に倒れたのは、銀髪の少女ではなく、突撃を仕掛けた大女だったのだ。
「なっ……」
芦毛の大女は、放心した顔で声を洩らす。
他の重種馬達や傍で見ていたキングヘイロー達も、浮かべた表情は同じだった。
突撃を真正面から受けたセイウンスカイが倒れず、逆に突撃を仕掛けた側が倒れる結果となったのだから無理もない。
そんな離れ業をやってのけた当人は、少しだけ得意げな顔になり、すぐ近くで目を丸くしているリコに言った。
「どう? 特訓の主旨とは違うかもしれないけど、こういうのもありでしょ?」
確認の意味を込めた問いかけに、リコは答えない。
代わりにキングヘイローが、半ば混乱した様子で言った。
「な……何やったのあんた、今……」
「流した」
「流したって……」
「んー……ぎゅーんと来る相手をゆらーっと待ち構えて、ふわっと受けて、しゅるっと回るとか……そんな感じ?」
「全然分かんないわよ! もっと理論的に言いなさいよ! 擬音とかなしで!」
要領を得ない説明にキングヘイローが憤慨すると、リコが納得した様子で口を開いた。
「なるほど……武道の応用ね」
銀髪の少女の暢気な顔に、鋭い眼差しを向ける。
「限界まで脱力した姿勢で受けて体当たりの衝撃を殺し、さらに自分の身体を円運動させて相手の身体を後ろに流した……詳しい理合いは知らないけど、大体そんな感じでしょ? 今ウンスちゃんがやったのは」
柔道や合気道などの武道には、相手の力を受け流す技法がある。
やり方は流派によって様々だが、基本となるのは脱力。全身を強張らせて守りを固めるのではなく、逆に弛緩させて攻撃の威力を殺し、そこから反撃に転じるのだ。
セイウンスカイが芦毛の大女を相手にやってみせたのは、その応用なのだろうが――言うほど簡単なことではない。
確かな身体操作の技術と、タイミングを見極める優れた感覚、そして攻撃を怖れない強固な胆力がなければ不可能と言っていい。
日本のサラブレッドの中でそんな真似が出来るのは、おそらくセイウンスカイだけだろう。
「私がみんなにやらせたかったこととは、確かにちょっと違うけど……まあそれも、ありっちゃありよ。要は相手との接触から身を守れればいいんだからね」
一つの手段として認めつつも、リコの表情は厳しかった。
セイウンスカイと目を合わせたまま、核心を突くように言う。
「でも……分かってる? 見た目は華麗だけど、実はとってもリスキーなやり方よ。それ」
その指摘に、セイウンスカイは反論しなかった。
彼女自身が、とうの昔に気付いていることだったからだ。
「これはあくまで初歩の訓練だから、真正面からぶつかる形にしてるけど……実戦で他馬とぶつかるケースってのはそういうもんじゃない。こっちの死角から相手が迫ってくることがほとんどだし、いつどこでぶつかることになるかも分からない。複数の相手と同時にぶつかることだってある。実戦の場で今みたいな技を完璧にきめるのは、そう簡単じゃないわよ」
どんなに華麗な技だろうと、練習の場でしか使えないなら、それは机上の空論と同じ。
実戦で使えなければ意味がない。
「そしてその手の技は、しくじれば悲惨な結果が待ってる。踏ん張りが利かない分、派手に転倒して大怪我…………もしくは、死ぬ場合だってあるわよ。運が悪ければね」
冗談でも、誇張でもない。競馬のレースには常に死の危険が存在し、実際に数えきれないサラブレッドが競馬場で命を落としている。
リコ自身も、身近な者の事故を幾度か目にしてきた。
レース中に転倒することの恐ろしさは、嫌というほど知っている。
「だからはっきり言わせてもらうわ。全てを失うようなリスクを冒したくないなら、それはやらない方が身のためよ」
指導者としての立場から放たれた、真剣な忠告。
セイウンスカイはそれを受け止め、しばし考えた後、穏やかな声音で答えた。
「……昔、ある人に言われたんだ」
遠い目をして、懐かしむように語る。
「レースなんて、所詮一か八か……負けて全てを失うか、勝って全てを手に入れるか…………そのどっちかしかないんだ、って」
彼女は笑っていた。
自らの戦術の危うさ、競馬の恐ろしさ、現実の厳しさ――その全てを理解し、受け入れた上で、穏やかに笑っていた。
澄んだ瞳の奥に、前向きな意思を宿して。
「人に言わせれば間違った考えなんだろうけど、私はそれが気に入ってる。だから勝つために必要なことは何だってやるようにしてるんだ。危険を冒さず安全に走ろうなんて、最初から思ってないよ」
二着や三着を小賢しく拾う競馬はしない。
どんなに格の高いレースだろうと、どんなに相手が強かろうと、狙うのは常に一着だけ。
怪我も大敗も怖れず、ただ真っ直ぐに勝利を目指す。
競馬の世界で生きると決めた時から、そう誓って走り続けてきた。
これから先も、その生き方は変わらない。
「それが私のポリシーっていうか、譲れないとこなんだけど……ダメかな?」
「負けて全てを失うか、勝って全てを手に入れるか……ね…………どこの誰だか知らないけど、考え方が博奕打ちのそれね」
皮肉るように言ってから、リコは頬を緩める。
「――いいわ。そういうの嫌いじゃないのよ、私も」
彼女も勝負師だ。
勝利を何より優先するという点では、セイウンスカイと変わらない。
無知故に危険を冒している教え子には忠告するが、全て承知の上で覚悟を持ってやっていることならば、止める気は微塵もなかった。
「そこまで言うんだったら、やりたいようにやんなさい。ただし……ヘマこいておっ死んだりしたら、葬式で遺影に抹香ぶっかけてやるわよ。いいわね?」
「――はい」
冗談めかした激励に、セイウンスカイは笑顔で頷く。
少し離れた場所に立つマルゼンスキーは口を噤んだまま、二人のやりとりを複雑な面持ちで傍観していた。
「そんじゃ次は、そそくさと逃げようとしやがってるエルちゃんに……」
「あちらの準備が出来たようですよ。先生」
逃走を図るエルコンドルパサーの首根っこを引っ掴んでいたリコに、横から歩み寄ってきたシンボリルドルフが告げる。
彼女の視線の先には、直線コースのスタート地点に立つ二人の姿があった。
グラスワンダーとイレネー。
リコの指示により、帯広競馬場の二百メートル直線コースで模擬レースを行うことになった二人だ。
「いつでもいけるので、開始の合図をしてほしいと言っています」
「オッケー。じゃ、こっちは一旦休憩にして、向こうの勝負を観戦しましょうか。――ってこらエルちゃん! 逃げないのっ!」
ばんえい競馬のゲート式発馬機は中央競馬のそれと違い、コースの端に固定されている。
また、中央競馬がスタート後の位置取りを自由に選べるオープンコースなのに対し、ばんえい競馬は各馬が決められた走路を走るセパレートコースだ。
ゴール判定にも違いがあり、中央競馬では体の一部がゴールラインに達すれば「ゴール」と判定されるが、ばんえい競馬では橇の後端がゴールラインを通過するまで「ゴール」と判定されない。
ありとあらゆる面で、中央競馬の平地競走とは勝手が違う。
そんな未知の領域に挑むためゲートに入ったグラスワンダーは、その直後、すぐ隣に立つ対戦相手の声を聞いた。
「勝負の前だけど……一つ忠告してやるよ」
青毛の重種馬――イレネーという名の大女は、前を向いたまま静かに言う。
「レース中は力の抜き所に注意しな。いくらあんたが怪力でも、それだけで勝てるほどばんえい競馬は甘くないよ」
「……?」
不可解な忠告だった。
全力を振り絞れと言うなら分かる。だが力の抜き所に注意しろとは、いったいどういう意味なのか。
疑問を口にするかどうかを迷う暇は、既になかった。
発走台に上ったリコが赤旗を振り、開始を示す。
直後に固定式のゲートが開き、帯広競馬場の二百メートル直線コースを舞台にした模擬レースが幕を開けた。
全く同時に前へと踏み出し、橇を曳き始める二人。
しかし、すぐに明確な差がついた。僅か数歩でグラスワンダーより前に出たイレネーが、そのまま相手を置き去りにするかのように力強く進んでいったのだ。
早くも後れを取ったグラスワンダーは追いつこうともがくが、どうにもならない。
一歩前に踏み出すごとに、絶大な負荷が彼女の全身を襲う。
(重い……!?)
昨日、仲間達と一緒に走った時とはまるで違う。身体の後ろにある橇が重い。あまりにも重すぎて、思うように前進出来ない。
当然と言えば当然の話。
今回の勝負で使われている橇は、昨日の橇とは別物なのだ。
実に一トンもの重さを持つ、ばんえい競馬における最重量の橇。鍛え抜かれた一流の重種馬でも易々とは曳けない代物だ。
日本競馬界随一の筋力を誇るとはいえ――サラブレッドの身でそんな代物を曳くのは、あまりにも過酷だった。
まだレースの最序盤だというのに息は乱れ、額に汗が滲む。
苦鳴を零しながら顔を上げると、一トンの橇など存在しないかのように突き進む対戦相手の背中が目に映った。
「くっ……!」
強い。
分かっていたことだが、やはりあの重種馬はとてつもなく強い。
重種馬の中でも大柄な肉体。服の上からでも見て取れる豊富な筋肉。巨躯を支える鉄骨のように強靭な骨格。橇の重さをものともしない精神力。
心身共に破格の猛者だ。
昨日初めてばんえい競馬を体験した自分とでは、格が違いすぎる。
「オラどうしたぁ! サラブレッドの日本代表ってのはそんなもんかぁ!?」
後ろを振り向き、イレネーは叫んだ。
レース前とは別人のような形相で、彼女はもがき苦しむグラスワンダーに叱声を飛ばす。
「昨日ちっと褒めてやったくれえで勘違いしてんじゃねえぞクソチビが! たかが一トンの橇もまともに曳けねえ雑魚があたしと張り合おうなんざ、百万年早えんだよボケ!」
殺気を孕んだ灼熱の眼差しが、少女を射抜く。
「あたしらばんえい馬はな、ガキの頃からここでこの橇曳いて鍛えてんだ! 雪が降ろうが嵐が来ようが関係なくな! お姫様みてえに大事にされながらぬくぬく育ってきたてめえらサラブレッドとは違うんだよ!」
ばんえい競馬の競走馬として生き、数多の辛酸を嘗めてきた女は、軟弱なサラブレッドを罵りながら前進していく。
力の差を見せつけ、積み重ねた鍛錬の差を思い知らせるように。
「こんな程度で音を上げるなら相手してやる価値もねえ! さっさと東京に帰んな! 小綺麗な競馬場でアイドルごっこしながらお遊びレースやってる方が、あんたみたいなチビガキにはお似合いだよ!」
サラブレッドの競馬そのものを蔑む言葉が、グラスワンダーの心に火をつけた。
胸の奥から、熱い赫怒の念が湧き上がる。
「…………遊びじゃ、ない……」
奥歯を噛む。
青い瞳に闘志を滾らせ、前を行く青毛の重種馬を睨み返す。
「私達だって…………遊びで走ってるんじゃない……!」
砂を踏む脚に、力を込める。
怒りと悔しさを力に変え、ばんえい競馬最重量の鉄橇を曳く。
押し寄せる苦痛を燃え盛る意思で焼き尽くし、力強く、前へと踏み出す。
「ぐっ……ううっ……うあああっ……!」
分かっている。
イレネーの罵倒が、本心からのものでないことは。
こちらの闘争心を煽って全力を引き出させ、真剣勝負の形で心身を鍛え上げるため、彼女はあえて悪役に徹しているのだろう。
そんなことは、言われなくても分かっている。
だが、それでも――
自分達のレースを「遊び」などと言われては、黙っていられない。
そんな戯言は、絶対に、この世の誰にも言わせはしない。
「うっ…………アアアアアアアアアアア――――ッ!」
雄叫びを上げ、グラスワンダーは走った。
一トンの橇が凄まじい速度で曳かれ、砂煙が舞い上がる。スタートしてから広がる一方だったイレネーとの差が縮まっていく。
激情と共に真の力を解き放った栗毛の≪怪物≫が、ばんえい競馬の王者を猛追する。
「……何だ、いい根性してるじゃないか」
背後から迫る対戦相手の姿を見て、イレネーはふっと笑った。
それからすぐに笑みを引っ込め、再び鬼の形相となって叱声を飛ばす。
闘志を燃やして挑んでくる少女と、本気の死闘を演じるために。
「遅えんだよ間抜け! 出来るなら最初からやりな! 実戦じゃ相手は待ってくれねえぞ!」
「アアアアアアアアアア――ッ!」
先を行く巨躯の王者と、それを追う矮躯の挑戦者。
二人は闘志をぶつけ合いながら、力強い足取りで前進を続けた。
コース上に設けられた一つ目の障害――高さ一メートルの急坂に向かって。