ウマ娘 Big Red Story   作:堤明文

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第六話「失くした何か(後編)」

 

 

 ダグラス・ターナー。四十六歳。アメリカ国籍。

 

 名門キーンランド校に籍を置き、数多くの名馬を育て上げた実績を持つ、アメリカ競馬界屈指の名トレーナーである。

 

 遡ること約十八時間前。その中年男は――空港の出発ロビーで、心底から困り果てていた。

 

 とある事情により、控えめに言っても頭がおかしい問題児共を引き連れて、国外に出向かねばならなかったからだ。

 

「師よ。私のエクスカリバーが悪しき者達に奪われてしまったぞ」

 

「……うん。そりゃ奪われるよね。だってあれ剣だもの。お前真剣腰に佩いたまま飛行機乗ろうとしてたもの。そりゃ職員さん達に取り上げられるよね。常識的に考えて」

 

「どうにかして取り返してくれ。あの聖剣がなければ私は魔物と戦えない」

 

「……うん。どう考えても取り返さなくていいよね。ここファンタジー世界じゃないからね。魔物出てこないからね。聖剣使う機会ないからね絶対」

 

 一人目の問題児――長い褐色の髪を三つ編みに結わえた女は、世界滅亡の危機に敢然と立ち向かう勇者のような面構えで、荷物検査の際に取り上げられた私物(本人曰く「聖剣」)を取り返せなどという無茶な要求をしてきた。

 

 そんな要求には応えられなかったし、応えたくもなかった。

 

 剣と一緒にこいつ自身も没収されちまえばよかったのにと、ターナーは半ば本気で思った。

 

「私の薬も二割ほど没収されてしまったのだが、何がいけなかったのだろうね?」

 

「……うん。何がっていうか全部いけなかったよね。むしろセーフなとこが何一つないからね。お前のあれは。……あと二割じゃ駄目だよね。どこに隠し持ってんだか知らねーけど残り八割も没収されとかなきゃ駄目だよね」

 

「誤解があるようだが、私が開発した薬は麻薬や毒薬の類とは違うよ。ただの筋肉増強剤と骨格強化剤と皮膚角質化剤さ。幾度となく繰り返した人体実験によって効果の程も実証済みだよ。何の問題もない」

 

「……うん。聞けば聞くほど問題しかないよね。どっからどう見てもアウトだよね完全に。ていうかお前シャバ歩いてちゃいけない奴だよね。今すぐ自首してブタ箱行かなきゃ駄目だよねもう」

 

 二人目の問題児――白衣を纏った黒縁眼鏡の女は、どこまで本気なのか分からない薄ら笑いを浮かべたまま、同じく検査の際に取り上げられた自作の薬剤について語り出した。

 

 まるで冗談のような口振りだったが、ターナーは知っていた。

 

 目の前に立つ白衣の悪魔が、薬の調合や投薬実験を無免許の身で行う手遅れな犯罪者であることを。

 

「ねーねー旦那ぁー。何かあっちの野郎共があたしらをエロい目で見てやがんだけどー? ムカつくからちょっとボコってきていい?」

 

「……うん。偉いね。殴りに行く前に確認する分だけ成長したねお前も。答えはノーだけどね。トイレ行っていい? みたいなノリで殴りに行かれても困るからね。ていうかここで暴力沙汰起こされたら俺ら全員アウトだからね。大会出れなくなるからね」

 

「あはははは! 冗談だって冗談。そんなヘマするほどこっちもアホじゃねえっての。つーかマジでボコる気ならいちいち旦那に確認なんか取らねえしな! あはははは!」

 

「……うん。それ聞いて安心したよ。もう飛行機乗らなくていいやお前。お前みたいなガチクズ連れて外国まで行きたくねーわほんと」

 

 三人目の問題児――赤と黒の二色に染められたテンガロンハットを被る長身の女は、酷く物騒なことを言いながら一人で大笑いした。

 

 その下品な笑い声を聞いて、ターナーは死ぬほどうんざりした。

 

 先の二人にはまだ、理性や常識といったものがかろうじてあると言えなくもないのだが、こいつにはない。

 

 いつどこで何をしでかしてもおかしくない真性の馬鹿なので、一緒にいるだけで神経を磨り減らされてしまうのだった。

 

 以上三名。アメリカ競馬界の恥とも言うべき問題児共に囲まれ、不毛な会話をさせられ続ける時間を過ごしたため、ターナーの精神は疲弊しきっていた。最早全てがどうでもよくなっていた。

 

 三人が集まって談笑し始めたのを見計らい、少し離れたところにあるベンチに移動して腰を下ろす。

 

 天井を仰いで深い溜息をついた後、隣で携帯端末をいじっている小柄な短髪の少女に話しかけた。

 

「……なぁ、シガー」

 

「何?」

 

「……ぶっちゃけ聞くが、何であいつら集めたんだ?」

 

「集めたのはボクじゃないよ。シア姉だよ」

 

「そりゃ知ってっけどよ…………何でよりにもよって、あの面子なわけ?」

 

「レースで強いからでしょ」

 

「……うん。知ってるよ。あいつら強いよ。すっげー強い。でもやだ。あいつらすっげーやだ。俺あのアホ三匹の面倒見たくない」

 

「そこは我慢してよ。統率力ゼロでも一応チームの監督でしょ、ターナー先生」

 

「……うん。統率力ゼロでもとか微妙に傷つくよね。時々グサッとくること言うよねお前も」

 

 敬意の欠片も感じられない物言いに、ターナーのやる気はさらに削ぎ落とされた。

 

 師だの先生だのと呼ばれてはいるが、今回引率することになった五人の内四人は、彼の教え子ではない。

 

 長年苦楽を共にしてきた自慢の教え子は、チームのリーダーを務める少女だけ。

 

 その少女を信頼し、「適当に強い奴を集めといてくれ」などと言ってチーム編成を丸投げしたのが、そもそもの間違いだった。

 

 どういうわけかとんでもないキワモノばかりを揃えたチームを作られ、かつてないほどの苦労を背負い込む羽目になってしまった。

 

 やっぱ人選を人任せにしちゃいけねえな、うん――と反省したが、もう遅い。

 

 愛弟子がアメリカ各地から呼び寄せた三馬鹿は、各々の馬鹿さを助長し合うような会話をロビーの真ん中で繰り広げていた。

 

「ところでドクターよ。極東の地にはニンジャと呼ばれる異能者の集団がおり、オニやオロチなどの怪物と日夜戦いを繰り広げていると聞くが……どのあたりに行けば彼らに会えるのだろうか?」

 

「ニンジャがいるのは栃木県の日光市だよ。彼の地にはニンジャの隠れ里があり、門外不出の秘技を受け継ぐニンジャの末裔達が暮らしているという噂さ。帰りに寄ってみるかい?」

 

「日光にはサムライとかもいるって話っスよー。試しに手合わせ願ってみたらどうっスか? センパイ」

 

「ふむ、サムライか……そちらも興味深い。幼少の頃より磨き続けた私の剣技が極東の剣士相手にどこまで通用するか、是非とも知りたいものだ」

 

「ふふ……相変わらず求道者だね、ラウンド先輩は。……全くの偶然だが、剣の道を極めることに余念がないあなたにふさわしい薬がここにあるんだ。ついこの間完成したばかりの新薬さ。これを飲めばあなたの筋力は約八十パーセント上昇すると保証出来るのだが、どうだろう?」

 

「むっ……気持ちは有難いが、薬の力に頼るのは邪道。私はあくまで、母から受け継いだ剣技と聖剣に宿る神々の加護で……」

 

「ゲルマン神話の英雄ジークフリートは邪竜ファーヴニルの血を浴びて不滅の肉体を得たと聞く。真の英雄は邪悪なる力をも取り込んで自らを昇華させるものさ」

 

「むむっ……」

 

「そうそう、覚醒イベントにドーピングは必須っスよー。ドクターの薬を飲めば超絶パワーアップ間違いなしっスよー。ニンジャやサムライなんか目じゃないくらい強くなって無双出来るっスよー」

 

「…………そういうことなら、致し方ない。その新薬とやら、是非とも私に――」

 

「ラウンド先輩、ドクター、パサー」

 

 静かな声が、女達の名を呼ぶ。

 

 三人が振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。

 

 金貨に鎖を通したペンダントを首にかけた、黒鹿毛のサラブレッドだ。

 

「時間になりました。搭乗口に向かいましょう」

 

 淡々と告げた少女は、そのまま身を翻して歩き出し――ふと思い出したように立ち止まり、三つ編みの女に注意した。

 

「……それとラウンド先輩。ドクターが勧める薬は絶対に飲んじゃいけませんよ。高確率で病院送りになりますから」

 

「む……心得た」

 

「やれやれ、あと一歩だったのにね……また別の被験体を探さねばならないか」

 

「ったく、いいとこで邪魔すんなよー。センパイが死ぬとこ見たかったのにさぁ」

 

 三つ編みの女は素直に頷き、白衣の女は肩を竦めて苦笑し、テンガロンハットの女は残念そうに文句を垂れる。

 

 三者三様の反応を見せながら、黒鹿毛の少女の後を追う女達。

 

 その様子を見て、ベンチに座る短髪の少女は感心したように呟いた。

 

「……あんな人達だけど、シア姉の言うことは聞いてくれるんだよね。一応」

 

「……うん。すげーよなあいつ。あのアホ共をしっかりまとめられるんだからよ。そこんとこはマジで感心するわ」

 

 チームを卒なくまとめ上げる愛弟子の手腕を讃えつつも、ターナーは物凄く微妙な気分になっていた。

 

「けど…………俺って一応引率の先生的ポジションなんだが、いる意味なくねえ?」

 

「……言わないでおいてあげたのに」

 

 そんなやりとりの後、残された二人も搭乗口へ――日本への直行便へと向かうのだった。

 

 

 

 

 

 

 ばんえい競馬の起源は、明治時代の北海道開拓期に遡る。

 

 当時の重種馬は切り出した木材を運び出す作業の担い手として重用されており、そこから自然発生的に力比べで重種馬同士の優劣を決める競技が生まれた。

 

 はじめは綱引きの形だった勝負が、やがて丸太を曳く競走となり、ルールの整備と共に曳く物が丸太から橇へと変わった――という変遷を辿ったが、時代を経た今もその本質は変わっていない。

 

 求められるのは脚の速さではなく、純然たる力。

 

 重い荷物や悪路をものともせずに突き進む剛力の持ち主こそが、ばんえい競馬における「最強馬」の理想形。

 

 そうした理念に照らすなら、帯広競馬場の直線コースに設けられた二つの坂も、栄冠を求める者達の力を試すための試練と言えよう。

 

 スタート地点から三十五メートル先にある一つ目の坂は、高さ一メートル。

 

 普通に走り抜けるなら何の問題にもならない高さだが、重い鉄橇を曳いたまま上るとなれば話は別だ。

 

 平地を進む時とは比べ物にならないほどの力が必要となり、それは甚大な負荷となって曳き手の肉体を苛む。

 

 生まれながらに屈強な肉体を持つ重種馬でさえ、長年に及ぶ訓練で自らを鍛え上げなければ乗り越えられない障害なのだ。

 

 重種馬より体格面で遥かに劣る軽種馬が、一トンの橇と繋げられた状態でこの坂を踏破するなど、事実上不可能と言っていいだろう。

 

 サラブレッドの限界を超えた筋力を誇り、急坂の踏破を何より得意とする異端の競走馬――≪怪物≫グラスワンダーを除いては。

 

「アアアアアアアアアアア――――ッ!」

 

 雄叫びと共に、坂を上る。

 

 踏み込む脚に渾身の力を込めて重力に抗い、ばんえい競馬最重量の橇を曳き上げる。

 

 気力と筋力を総動員して坂を駆け上がったグラスワンダーは、その勢いのまま一気に坂を駆け下り、平地に戻った時には先行していたイレネーに並んでいた。

 

 その激走にはさしものイレネーも驚き、目を瞠る。

 

 レースを観戦していた他の重種馬達も、口々に驚愕の声を上げる。

 

 闘志に火がついたグラスワンダーの走りはさらに激しさを増し、その力は際限なく上昇。重戦車のように力強い足取りで突き進み――ついには、隣を走るイレネーを追い抜いた。

 

 追い抜かれたイレネーは坂越えで体力を消耗したのか、一旦脚を止めて荒い息をつく。

 

 その間にもグラスワンダーは気力を振り絞って前進を続け、イレネーとの差を広げていく。

 

 追う者と追われる者の立場が逆転し、勝利の天秤がグラスワンダーに傾いた――かに見える状況だった。

 

 

 

 

 

 

「やった! ついに追い抜いた!」

 

「当然デス! グラスがパワー勝負で負けるわけないデース!」

 

 正面スタンド前で観戦していたキングヘイローとエルコンドルパサーが、歓喜の声を上げた。

 

 この勝負はあくまで模擬レース。練習の一環に過ぎない――と頭で分かってはいても、目の前で競り合う二人を見れば血が騒いでしまうのが、競走馬の性というものだ。

 

 当然の如くグラスワンダーの応援に回った彼女達は、イレネーを追い抜く瞬間を見て逆転勝利を期待したが――

 

「駄目だ」

 

「え……?」

 

 横から飛んできた声が、その高揚に水を差した。

 

「あれじゃ駄目だ。すぐに抜き返されるよ」

 

 キングヘイローの隣に立つセイウンスカイは、コース上で競り合う二人に真剣な眼差しを向けていた。

 

「何それ……? どういう……」

 

「……違うんだよ。余力が」

 

 二人の走る姿から、何かを悟ったのか。

 

 強い確信を抱いた口振りで、セイウンスカイは言い切った。

 

「その通り」

 

 背後から声。

 

 キングヘイロー達が振り返ると、イレネーの仲間である重種馬の四人組がそこにいた。

 

 その内の一人――鹿毛の大女が言う。

 

「あのグラスって子……大した怪力の持ち主だね、ありゃ。まさかイレネー相手にあそこまで渡り合えるとは思わなかったよ。ばんえい馬じゃないのが惜しいくらいさ」

 

 グラスワンダーの力を認め、健闘を讃えつつも、その顔には余裕の笑みがあった。

 

 先程「体当たり役」を務めていた芦毛の大女が、橇を曳くグラスワンダーの姿を見ながら言葉を引き継ぐ。

 

「けど、たとえイレネーと互角の力が……いや、イレネーを上回る力があったとしても、あの子はイレネーに勝てない」

 

 彼女達は知っている。

 

 ばんえい競馬という競技の本質を。レースを制する上で欠かせない資質を。

 

「力の抜きどころが重要だからね。あたしらの競馬は」

 

 

 

 

 

 

 絶対に負けない。

 

 何としてでも、必ず勝ってみせる。

 

 自分自身にそう誓い、グラスワンダーは二つ目の坂を目指して突き進んでいた。

 

 一つ目の坂と七十八メートルの間隔を置いて設けられた二つ目の坂は、一つ目の坂より高く、より筋力を必要とする。

 

 だが構うものか。

 

 どれほどの難関だろうと、死力を尽くして踏破してみせる。

 

 所詮訓練の一環に過ぎない勝負だから、負けても構わない――そんな腑抜けた思考は、頭の片隅にもなかった。

 

 彼女にとって、競馬場とは戦場。レースとは真剣勝負。

 

 どんな形であれ、誰が相手であれ、勝てなくてもいいレースなど、この世には一つもないのだ。

 

 だから、この勝負にも必ず勝つ。

 

 相手が桁外れに強いならば、自分はそれより強くなる。

 

 ばんえい競馬の猛者を真っ向から打ち倒して、さらなる強さを手にしてみせる。

 

 そして世界の舞台に進み、最強の座を――

 

「――っ」

 

 突然、視界が揺らいだ。

 

 全身に漲っていた力が消し飛んでいくような感覚に襲われ、グラスワンダーは大きくよろめく。

 

 とても前進し続けていられず、脚を止めて荒い息をついた。

 

「くうっ……はぁっ……はぁっ……!」

 

 彼女は確かに全力だった。

 

 持てる気力と体力を総動員し、ばんえい競馬の猛者に勝とうとしていた。

 

 だが――気力や体力とは、無限に湧き上がってくるものではない。使えば使うほど減少し、やがては底をつく、有限の力でしかないのだ。

 

 そこに対する認識が、彼女には足りていなかった。

 

「だから忠告してやったんだよ。力の抜き所に注意しな、ってさ」

 

 硬く冷たい声が、後方から届く。

 

 つい先程置き去りにした筈の対戦相手――イレネーが、すぐ後ろまで迫ってきていた。

 

「ただ全力を振り絞りゃいいってもんじゃないのさ、ばんえい競馬は。そこんとこをよく覚えときな」

 

 砂煙を巻き上げ、巨躯が突き進む。

 

 ばんえい競馬のあるべき姿を示すかのように、スタート直後と変わらぬ力強い足取りで、青毛の重種馬は前進していく。

 

 体力切れで脚を止めたグラスワンダーに、抗う術はなかった。

 

 僅かな休憩で息を整えていたイレネーは、瞬く間にグラスワンダーに並び、そのままいとも簡単に抜き返したのだった。

 

 

 

 

 

 

「抜き返された……!?」

 

「そんな……どうして……!?」

 

 スペシャルウィークとキングヘイローが声を上げる。

 

 たった今目の前で起きた逆転劇に、彼女達は驚きを隠せなかった。

 

「驚くようなことじゃない。ばんえい競馬じゃよくあることさ。ああいう差し返しはね」

 

 立ち止まって肩を上下させるグラスワンダーを見ながら、鹿毛の大女が言った。

 

「イレネーが煽ったせいもあるだろうけど……勝ちたい気持ちが前面に出すぎたね、あの子は。序盤から全力を振り絞ったせいでガス欠を起こしちまった。言っちゃ悪いが、負ける奴の典型例さ」

 

「あんたらが普段やってる競馬だって、最初から全力でとばしてたら最後までもたないだろ? それと一緒だよ」

 

 芦毛の大女が補足するように言い、サラブレッドの四人組に目を向ける。

 

 その発言を聞いて、エルコンドルパサーは全てを理解した。

 

「さっき、イレネーさんが立ち止まったのは……スタミナ切れじゃなく……」

 

「そう。あえてあそこで立ち止まり、息を整えてたんだよ。最短の時間でゴールに辿り着くためにね」

 

 それは、業界用語で「刻む」と呼ばれる行為。

 

 他馬に抜かれることも承知の上で一旦脚を止め、体力の回復を図る戦術だ。

 

 ばんえい競馬は超重量の鉄橇を曳く過酷極まりない競技であり、スタートからゴールまで休まず走り続けることは、一流の競走馬でも不可能に近い。

 

 完走するためには道中のどこかで適度な休憩を取らねばならず、その巧拙が勝敗を左右する重要な要素となる。

 

 グラスワンダーとイレネーの間にある決定的な差は、まさにそこだった。

 

「ばんえい競馬で強い奴ってのは、単なる怪力馬鹿じゃない。並外れた力を持ちつつ、道中での力の抜き方を心得てる奴だ」

 

 深い敬意を込めた眼差しをイレネーに向け、芦毛の大女は断言する。

 

 他の大女達も、それに同調した。

 

「簡単そうに聞こえるかもしれないけど、案外難しいんだよねぇ。これが」

 

「自分の力を過信すればゴール前で力尽きる結果になり、逆に慎重になりすぎれば実力を発揮しきれないまま終わる……自分の限界を弁えた上で限界ぎりぎりまで力を出し尽くすってのは、相当な場数を踏んでなきゃ出来ない芸当なのさ」

 

 ばんえい競馬の競走馬として生き、帯広競馬場で数々の激闘を繰り広げてきたイレネーには、膨大な経験の蓄積があった。

 

 自己の限界の見極めを――最短でゴールに辿り着くために必要な体力の配分を、彼女は決して誤らない。

 

 いかに怪力を誇るとはいえ、ばんえい競馬について無知に等しいグラスワンダーが敵う相手ではなかったのだ。

 

「とはいえ、まあ…………一度でもイレネーを抜いただけ立派だよ、あのおチビちゃんは。普通なら――」

 

「まだ分からないよ。勝負は」

 

 言葉を被せる形で、セイウンスカイが言った。

 

 落ち着いたその面持ちには、仲間に対する強い信頼がある。

 

「確かに追い込まれた状況だけど、グラスちゃんは誰より負けず嫌いだし……それにまだ、本当の意味で全力を出し切っちゃいない」

 

 彼女に限らず、≪怪物≫グラスワンダーと対戦した経験がある者は、皆知っている。

 

 グラスワンダーが持つ、最強の切り札。

 

 ありとあらゆる常識を蹴り砕き、不可能を可能にする、異端の走法を。

 

「ね? エルちゃん」

 

「……」

 

 同意を求める呼びかけに、エルコンドルパサーは答えなかった。

 

 

 

 

 

 

 グラスワンダーを大きく引き離したイレネーは、二つ目の坂を越え、残り約五十メートルの地点まで到達していた。

 

 勝利を目前にした高揚や安堵といったものは、その顔に微塵も浮かんでいない。

 

 当然だ。元より結果が見えていた勝負。

 

 相手の底力には少々驚かされたものの、結局は体格と経験で勝る自分の独壇場となった。それだけの話に過ぎない。

 

 速さ比べの競走で重種馬が軽種馬に勝てないのと同様に、力比べの競走で軽種馬は重種馬に決して勝てない。

 

 それが自明の理というものだと、始まる前から弁えていたが――

 

「……」

 

 ほんの僅かにだが――落胆に近い感情が、彼女の胸の内にあった。

 

 脚を前に進めながら、束の間だけ思い出す。

 

 三年前の年の瀬。テレビ画面越しに観たレース。

 

 割れんばかりの大歓声と、大地を砕く剛脚の音。急坂を駆け上り、雷光のように突き抜けていった、黄金色のサラブレッド。

 

 あの時目にしたあの脚は、もっと――

 

「――っ」

 

 迫り来る気配を感じ、背筋が粟立った。

 

 砂地を踏む音が聞こえる。橇を曳く音が聞こえる。荒い息遣いが聞こえる。火砕流が押し寄せるような灼熱の気配が、後方から伝わってくる。

 

 振り返り、愕然となった。

 

 小柄な栗毛の少女が坂を越え、自分との距離を詰めてきていたのだ。

 

 燃え立つ激情を、その青い瞳に宿して。

 

「誰が……言った……」

 

 声を放つ。

 

 意地と怒りを声音に滲ませ、勝利への執念を言葉にして解き放つ。

 

「さっきの、あれが……私の全力だと…………誰が言ったッ!」

 

 呼吸を悲惨なほど乱し、疲弊し切った表情を見せながらも、その目はまだ死んでいない。

 

 どこにそんな力が残っていたのか。杭を打つように強い踏み込みで前進し、決死の追い上げを敢行していた。

 

 そして――諦めることを知らないその走りが、イレネーの胸を打った。

 

「は……はは……」

 

 ドクン、と心臓が高鳴る。

 

 口許が知らずの内に笑みを作り、久しく忘れていた感覚が蘇る。

 

 そうだ。これだ。

 

 自分は、こんな勝負がしたかったのだ。

 

 現役を退いて何年も経ち、老いを自覚する齢になった今でも、心のどこかでこんな勝負を望んでいた。

 

 力の差を見せつけられても諦めず、どんなに苦しくても立ち止まらず、身体の奥底に眠る力を一滴残らず絞り尽くして自分に挑んでくる相手を、ずっと待っていたのだ。

 

「ははははははははは――――っ!」

 

 笑声を迸らせ、脚の回転数を上げて加速。

 

 縮まっていた彼我の距離を、再び引き離しにかかる。

 

 これは模擬レースで、自分はあの少女を鍛える立場にある――そんな事情など、最早どうでもいい。

 

 今はただ、純粋に勝負がしたい。

 

 命を燃やすようなあの走りに全身全霊で応え、勝利を掴み取りたい。

 

 そんな想いに衝き動かされ、ばんえい競馬の猛者はかつてないほどの力を己の肉体から絞り出した。

 

「オラどうしたぁ! そんなんじゃまだ足りねえぞ! あたしに勝ちてえなら、死ぬ気で力絞り出せ! 世界のてっぺん獲る奴の走りってもんを見せてみろッ!」

 

「はぁっ……はぁっ……くっ……はぁっ……!」

 

 挑発と激励が入り混じった言葉を浴びながら、決死の激走を続けるグラスワンダー。

 

 彼女に最早、余裕はなかった。

 

 一トンの橇という超重量の重荷を引き摺り、体力が尽きても無理に酷使してきた身体は、既に限界だ。至るところが軋みを上げ、機能不全に陥っている。

 

 それでも、負けられない。負けたくない。

 

 その想いだけで己を奮い立たせ、前を行くイレネーの背中を追いかける。

 

「負けない……誰にも……絶対に……」

 

 苦痛を押しのけ、疲労を捻じ伏せ、前に進む。

 

 限界が何だ。体力切れが何だ。体格や経験の差が何だ。

 

 そんなもの、自分には関係ない。自分の脚が生み出す理外の力に、小賢しい理屈は通じない。

 

 この程度の苦境は何度も跳ね返してきた。いつだって自分は、競馬の常識を蹴り砕いて勝ってきた。

 

 三年前の、あの日も――

 

 日本に渡るきっかけとなった、あの日のレースでも――

 

 絶望の淵で掴み取った力で、運命を切り拓いたのだ。

 

 

 

 

 

 

 三年前――グラスワンダーが競走年齢に達した年の、四月の末。

 

 キーンランド学園に程近いキーンランド競馬場で、公式戦デビューを目前に控えたサラブレッド達による模擬レースが行われた。

 

 それは一種の修了試験であり、基礎課程を終えた若駒が競走馬として必要最低限の能力を持つか否かを判定するためのものだったが、グラスワンダーにとっては実戦に等しい重みを持つ一戦だった。

 

 戦績に残らない模擬レースとはいえ、そこで記録した時計や着順は、当然ながら評価の対象となるからだ。

 

 競走馬は、出るレースを自分で決められない。

 

 レースを選択し出走登録を済ませるのは、競走馬を管理するトレーナーの仕事。

 

 不甲斐ない走りをして力不足と見なされれば、デビューの時期はそれだけ遅れる。デビュー後の使われ方や大目標に定められるレースにも、少なからず影響する。

 

 ケンタッキーダービーへの挑戦を――薔薇のレイを勝ち取る夢を断念させられてしまうことも、内容次第ではあり得るのだ。

 

 そのため必勝の気構えで臨んだグラスワンダーだったが、気構えだけでどうにかなるほど競馬は甘くなかった。

 

 ダート千四百メートルの条件で行われたレースの終盤。

 

 最終コーナーを回って四番手の位置まで進出したものの、前方で先頭を争う三人をなかなか捉えられない。

 

 走っても、走っても、全てを出し尽くすつもりで懸命に走っても、思うように上がらない自身の速度。

 

 近いようで遠い、同期生達の背中。徐々に迫ってくる、レースの終点。

 

 ――また負けるのか。

 

 そんな思いが脳裏をよぎり、心臓を締めつけた。

 

 誰かの背中を見ながらゴールするのは、もう嫌だった。

 

 勝ちたかった。ただひたすら勝ちたかった。

 

 前を行く同期生達を抜き去り、ゴール板の前を先頭で駆け抜けて、勝利の喜びに打ち震えたかった。

 

 けれど現実は、そうはいかない。

 

 現実の自分は、夢に描いた自分ほど速く走れない。トレーナーに教えられた「正しい走り方」を実践出来ない自分は、ただの不器用な劣等生。高い技術と身体能力を併せ持つ優秀な連中を追い抜く力など、どうやっても捻り出せない。

 

 そんなことは、レースが始まる前から知っていた。

 

 学園の底辺で足掻く自分を、同期生達が陰で嘲笑っていることも。

 

 競馬を辞めて別の道を歩むという選択を、故郷の両親が望んでいることも。

 

 かつて夢を語ってくれたトレーナーが、今ではもう、別の教え子にその夢を託していることも。

 

 だから――

 

「ふざ……けるな……!」

 

 土壇場で、感情が爆発した。

 

 抑えの利かない赫怒の念が胸の内で荒れ狂い、意識を赤く染め上げた。

 

「ふざけるなああああああ――――ッ!」

 

 それは、何に対する怒りだったのか。

 

 自分を蔑む周囲の者達か。結果を出せない自分自身か。

 

 現実の非情さか。抗い難い運命のようなものか。

 

 あるいは、その全てか。

 

 自分でも正体の掴めない激情に衝き動かされ――グラスワンダーは、脚を高く振り上げた。

 

 そして渾身の力を込め、靴裏を地面に叩きつけた瞬間。

 

 身体の奥深くで、巨大な炎が立ち昇った。

 

 それまでの人生で一度も味わったことのない、熱い感覚。

 

 血潮を燃やし、魂を滾らせる、爆炎の如き力の奔流。

 

 激しく迸ったその力に身を任せ、後に異国の地で≪怪物≫と呼ばれる少女は、生涯初の「全力疾走」を敢行した。

 

 踏み出す度に、地面が砕ける。蹴り上げた土が宙を舞う。

 

 爆音じみた足音が響き渡り、競馬場全体が鳴動する。

 

 前を行く三人の背中が急速に近付き、視界の端を流れて消えていく。

 

 それはまさしく、奇跡のような疾走だった。

 

 非現実的なまでの急加速で前を行く三人を抜き去り、観戦していた者達の顔に驚愕の表情を刻みつけて、栗毛の少女はゴール板の前を先頭で駆け抜けた。

 

 競馬の世界に踏み入ってから、初めて勝ち取った一着。

 

 栄光と呼ぶには、あまりにも小さな――けれど眩い輝きを放つ、劇的な勝利。

 

 スタンドにどよめきが広がる中、コース上で立ち止まったグラスワンダーは、吹き抜ける風を浴びながら思い出した。

 

 自分が、何を目指していたのかを。

 

 どこにでもいる「優秀なサラブレッド」ではない。GⅠを一つ二つ獲っただけで満足してしまうような、平凡な一流馬でもない。

 

 もっと強く、もっと気高く、比肩する者がいないほど抜きん出た、絶対の強者。

 

 唯一無二の走りで観る者の心を燃え上がらせ、あらゆる常識を蹴り砕き、運命さえも踏み越えて突き進む最強馬。

 

 幼心に焼きついた、無敵の≪ビッグレッド≫になりたかったのだ。

 

 忘れかけていた原初の想いを取り戻し、栗毛の少女は勝利の喜びに打ち震えた。

 

 

 

 

 

 

「ハアアアアアアアアアアアアア――ッ!」

 

 咆哮と共に、右脚を高く振り上げる。

 

 この絶望的な状況を覆す手段は、もう一つしかない。

 

 自身の切り札――「叩きつける走法」は、身体の奥底に眠る力を限界以上に引き出し、爆発的な加速を得る走法。

 

 一度発動すれば、その力でどんな苦境も覆せる。

 

 故郷を去り、日本の地で再出発した時から、その力だけを頼りに勝ち続けてきた。

 

 この勝負も、必ず勝つ。

 

 勝って自分の強さを証明し、胸を張って世界に行く。世界の舞台でも必ず勝つ。

 

 世界最強の座を、自分が信じる最強の走りで勝ち取ってみせる。

 

 自らの心にそう告げて、振り上げた脚を地面に向かって振り下ろそうとした、その瞬間――

 

「――グラス!」

 

 真横から、鋭い声が飛んできた。

 

 スタンドでレースを観戦していた、マルゼンスキーの声だ。

 

「忘れたの! ハナさんが言ったことを!」

 

 ドクン、と心臓が跳ねる。

 

 瞳に宿っていた闘志が萎み、表情が凍りつく。

 

 現役続行の許可と引き換えに提示された条件。「叩きつける走法」の使用を今後永久に禁じるという、絶対遵守の命令。

 

 自分の脚に嵌められた、重い鉄の枷。

 

 それを破ってしまえば――今度こそ、全てが終わる。

 

 自分の競走生活が、幼い頃から抱き続けていた夢が、何もかも終わってしまう。

 

「…………っ……くっ……」

 

 どうにもならないその現実に、グラスワンダーは屈した。

 

 意地も誇りも信念も放り捨て、敗北を受け入れるより他に道はなかった。

 

 

 

 

 

 

 決着は、酷く呆気なかった。

 

 グラスワンダーを大きく引き離したまま、イレネーの曳く橇の後端がゴールラインを通過する。

 

 終わってみれば接戦でも死闘でもなかった勝負の、無味乾燥な幕切れ。

 

 そのことに誰よりも打ちのめされたのは、レースの勝者となったイレネー自身だった。

 

 動揺を隠せない面持ちで、彼女は後ろを振り返る。

 

 十数秒前に見た時とは別人のような対戦相手の姿が、視線を向けた先にあった。

 

 下を向いたまま荒い呼吸を繰り返し、今にも倒れてしまいそうなほど弱々しい足取りで進み続けたグラスワンダーは、自分の身体がゴールラインに達したところで立ち止まる。

 

 そして膝に手を置いた姿勢で息を整えてから、口を開いた。

 

「やっぱり……すごく強いですね……イレネーさんは……」

 

 零れ出た細い声には、気迫が一欠片も残っていない。

 

「私なんかじゃ、全然勝負になりませんでした。……完敗です」

 

 少女が顔を上げると、そこには笑顔があった。

 

 無理に貼り付けたような、空々しい満面の笑顔が。

 

「でも、いい勉強になりました。適切なタイミングで一息入れるのが重要だったんですね……それに気付けていたら、もう少し粘れたかもしれないのに…………私ったら全然駄目で、すみません」

 

 闘志の炎が跡形もなく消えた、空洞に等しい青い瞳が、イレネーを見上げる。

 

 笑みを形作る唇が、中身のない言葉を零す。

 

「このレースで学んだことを教訓にして、これからも頑張ります。今日は私なんかの相手をして下さって、本当にありがとうございました」

 

 用意された台詞を読み上げているような、空々しくも痛々しい一連の言葉が、イレネーの胸を締めつけた。

 

 驚愕に凍りついていた顔が、苦渋に満ちた顔に変わる。

 

 違う――と、彼女は内心で呟いた。

 

 自分は、礼を言われたかったわけではない。

 

 格の違いを思い知らせたかったわけでもない。謙虚を装った卑屈な自虐が聞きたかったわけでもない。

 

 ただ、勝負がしたかった。

 

 謙虚でなくていい。傲慢でいい。負けん気が強くて構わない。口汚く罵声を浴びせてきても一向に構わない。

 

 傲慢で、強気で、荒々しくて、誰よりも勝利に飢えた≪怪物≫と、互いの全てを懸けた勝負がしたかっただけだ。

 

 それが何故、このような結末になったのか。

 

「何で……」

 

 失意のあまり、問いが零れる。

 

「あんた……何で……そんな……」

 

 その先は、言葉にならなかった。

 

 いや、あえて言葉にしなかった。口を衝いて出かけた複雑な思いをどうにか堪え、呑み下したイレネーは、栗毛の少女から視線を切る。

 

 鉄の自制心で、未練を断ち切るように。

 

「……いや、いい…………何でもないよ」

 

 寂しげなその表情から、哀惜にも似た感情を読み取ったのか。

 

 グラスワンダーの顔から笑みが消え、瞳の奥に暗い翳が差した。

 

 そうして、やや気まずい空気がその場を包み始めた時――

 

「まだ終わってないわよ」

 

 リコの声が飛んできた。

 

 先程レースのスターターを務めた彼女が、砂地を踏み締めながらグラスワンダー達に歩み寄ってきたのだ。

 

「清々しい感じに終わらせようとしてるとこ悪いんだけど、まだレースは終わってないわよ。グラスちゃん」

 

「え……?」

 

 栗毛の少女の背後にある鉄塊を、リコは指差す。

 

 小さな身体と繋がった橇の後端は、まだゴールラインを通過していない。

 

「始める前に言ったでしょ? ばんえい競馬のルールでは橇の後端がゴールラインを通過するまでゴールにならないんだって。勝ち負けに関係なく、スタートした以上は最後までちゃんと走り切らなきゃ駄目よ」

 

「あ…………す、すみません……」

 

 指摘されて過ちに気付いたグラスワンダーは、慌てて前に踏み出そうとし――思い留まって、足元に目を落とした。

 

 微かに肩を震わせ、呟く。

 

「…………でも……いいんです。もう……」

 

「いいって、何が?」

 

「自分の未熟さは、このレースでよく分かりました。それに……言い訳のしようもない完敗でしたので、悔いは……」

 

 パン、という音と共に、言葉が途切れた。

 

 リコの振るった右手が、グラスワンダーの頬を打ったのだ。

 

 突然の平手打ちに、その場にいたイレネーはおろか、遠くで見ていたエルコンドルパサー達までもが息を呑んだ。

 

「――ふざけてんのか? てめえ」

 

 威迫を帯びた、低い声。

 

 細められた両眼は、刃先のように鋭く険しい。

 

「昨日言ったよな? 胸を借りるつもりで一生懸命走れって。お前が懸命に走った結果がそれか? ゴールにもまともに辿り着けてねえそのザマで、全力を出し切ったって言えんのか?」

 

 怒りを露わにしながら、リコはグラスワンダーの無気力な走りを責め立てる。

 

「ふざけんのも大概にしろよ。そんな腑抜けた走りを観たくてこのレースやらせたわけじゃねえんだよ。オレは」

 

 容赦なくぶつけられる痛罵を、グラスワンダーは黙って受け止めるしかなかった。

 

 反論は出来ないし、したくもない。

 

 最後の最後に勝負を捨て、全力を出し切らないままゴールまでの数十メートルを進んだのは、紛れもない事実なのだから。

 

「ちょっと……! 何やってるんですか!?」

 

 見かねてその場に駆け寄ってきたのは、マルゼンスキーだった。

 

 リコは険しい眼差しで告げる。

 

「今オレはこいつと話してんだよ。引っ込んでろ」

 

「引っ込んでられませんよ! レースに負けたからって、暴力を振るうなんて…………あなたはそれでも指導者ですか!」

 

「負けたこと自体に文句つけてるわけじゃねえよ。負け方が悪すぎて話にならねえって言ってんだ」

 

 睨み合い、言葉をぶつけ合う二人。

 

 皆の視線が集まる中、その場の空気は酷く険悪なものに変わっていった。

 

「全力を尽くして負けたならいいさ。所詮模擬戦だからな。オレもそこまで勝ち負けにこだわっちゃいねえよ。……だが、全力を尽くさずに負けるのは駄目だ。腑抜けた走りで無駄に体力使うくらいなら、そこらで休憩でもしてた方が百倍いい」

 

「グラスは一生懸命走ってたじゃないですか! 重い橇を全力で曳いて、抜き返されてからも必死に差を詰めようとして――」

 

「ああ、そこまでは良かったな。気迫だけなら満点をつけてやってもいい走りだったよ。お前が余計な口出しして、全部台無しにしやがったがな」

 

「――っ」

 

「詳しい事情は知らんが、大体想像はつく。要は全力を出すなって意味だったんだろ。さっきお前がこいつに言ったのは」

 

 全てを見透かした口振りで、リコは言う。

 

 マルゼンスキーは、拳をきつく握り締めた。

 

「……私は、自分の役目を果たしただけよ。あなたにとやかく言われる筋合いはない」

 

「お前の役目? こいつの脚に枷を嵌めて、自由に走れなくするのがそれか?」

 

 痛烈な皮肉は、マルゼンスキーの胸に深々と突き刺さり、少なからぬ動揺をもたらした。

 

 奥歯を強く噛み締め、彼女は言葉を返す。

 

「…………ええ、そうね。あなたに言わせればそうなんでしょうね。でも、その子を守るためには仕方のないことよ。間違ったことをしたとは思ってない」

 

「守ってほしいと、こいつが言ったのか?」

 

 リコは静かに問う。

 

「レースの勝ち負けなんかより身体や命の方が大事だから、どうか守って下さいって、こいつ自身がお前にお願いしたのか?」

 

 返答に窮する相手の顔を見据え、畳みかけるように言葉を連ねる。

 

「違うだろ? お前は頼まれてもねえことを勝手にやってるだけだ。お前の中で勝手にこいつを可哀想な奴にして、勝手に保護者を気取ってやがる。こいつにしてみりゃいい迷惑だ」

 

 言いながら、当のグラスワンダーに目を向ける。

 

 栗毛の少女は二人の口論に口を挟めず、気まずい表情のまま俯いていた。

 

 マルゼンスキーは声を震わせる。

 

「迷惑、ですって……?」

 

「ああ、いい迷惑だ。こいつはお前の子供じゃない。競馬場でどう走ってどう生きていくかは、こいつ自身に決めさせ――」

 

 炸裂する、重い拳撃。

 

 鋭く突き出された拳がリコの左頬を捉え、その身を宙に舞わせた。

 

 いったいどれほどの力で殴られたのか。空中で一回転したリコは、そのまま受け身もとれずに倒れ伏す。

 

 時が止まったかのように、成り行きを見守っていた全員が凍りついた。

 

「好き放題言ってくれるじゃない。何も知らないくせに」

 

 砂地に伏したリコを見下ろし、マルゼンスキーは言い放つ。

 

「いいわね。あなたみたいな、何もかも思い通りになってきた人は。勝利だの栄光だの頂点だのと、子供じみた夢ばかり追っていられて。……考えたこともないでしょう? 諦めて屈して、失っていく人の気持ちなんか」

 

 その声音には、心底からの嫌悪と、殺意に近いほどの憤怒が滲み出ていた。

 

「勝ち負けより命の方が大事? ……ええそうよ。当たり前でしょう? そう思うことの何が悪いの? 大事な後輩を死なせたくないと思って、何がいけないって言うのよ!?」

 

 マルゼンスキーが本気の怒声を放つ姿を、グラスワンダーは初めて見た。

 

 エルコンドルパサー達にとっても、それは同じだったのだろう。皆が一様に絶句し、大きく見開いた目をマルゼンスキーに向けていた。

 

 そんな中、ただ一人――シンボリルドルフだけは冷静な面持ちに戻り、他の面々とは全く別のものを見るように、両眼を鋭く細めていた。

 

 彼女だけが、理解していたのだ。

 

 マルゼンスキーの怒りの理由を。放たれた言葉の意味を。

 

「……それで」

 

 砂地に手をつき、立ち上がるリコ。

 

 口から血を流しながらも、その表情は殴られる前と少しも変わっていなかった。

 

 再びマルゼンスキーと向き合い、彼女は問う。

 

「その結果、大事な後輩が望みを遂げられずに終わっても……お前にとっては本望か?」

 

 挑発や皮肉ではない、強く真摯な意思から放たれた言葉。

 

 心の奥底にあるものを探ろうとするかのような、重い問いかけ。

 

 マルゼンスキーはそれに、敵意を剥き出しにした眼差しで応じた。

 

「その言い方は、傲慢よ」

 

 最早一片たりとも取り繕おうとせず、本音をそのままぶつける。

 

「まるで、自分の言う通りにしてさえいれば明るい未来が待ってるとでも言いたげね。四冠馬だか何だか知らないけれど、思い上がりもほどほどにしたら?」

 

 真正面から衝突し、鬩ぎ合う視線。

 

 互いに譲れないものを胸に、二人のサラブレッドは対立する。

 

 しかしながら、永遠に続くかのようだったその緊張状態も、やがて終わりを迎えた。

 

 リコが小さく息を吐き、表情を緩めたことによって。

 

「……確かにそうね。傲慢な言い方だったわ」

 

 口調を戻し、微笑みを浮かべる。

 

 唐突に普段の顔に戻った彼女は、張り詰めていた空気を解きほぐすように肩を竦めた。

 

「現役の頃は、まあそこそこやる方だったと勝手に自負しちゃいるけど……指導者としてはまだ威張れるほどの実績ないしね、私。マル子ちゃんに信用してもらえなくても、無理ないか」

 

 自嘲気味に言って、今まで口論していた相手に穏やかな目を向ける。

 

「別にマジでキレてたわけじゃないわよ。グラスちゃんがいまいち本調子じゃないみたいだったから、ちょっと体育会系のノリで喝を入れてみようとしただけ。ほらごめんねグラスちゃん。ひっぱたいて悪かったわね」

 

 グラスワンダーの頭を撫でてから、自身の左頬を痛そうにさする。

 

 拳の一撃を受けたその部分は、既に赤く腫れ上がっていた。

 

「にしても…………平手くらいは飛んできそうだなーとは思ったけど、まさかグーでくるとはね……一発で身体がきりもみ回転するとか、いったいどんなパンチ力してんのよ? もー」

 

「……謝らないわよ。その件は」

 

「いいわよ。私もグラスちゃんに手を上げちゃったから、その罰ってことにしとくわ」

 

 口から流れた血をハンカチで拭いつつ、穏やかな声音で言葉を続ける。

 

「これからは体育会系のノリは出来るだけ控えるから、怒らないでコーチ役続けてよ。マル子ちゃん。グラスちゃん達五人をレベルアップさせるためには、マル子ちゃんの力が必要だからさ」

 

「…………身体を壊すようなことをグラス達に強要しないなら、協力します」

 

「ありがと。じゃ、今後ともよろしくね。……あっ、そうそう、イレネーさんもごめんねー。駄目な昼ドラみたいなしょーもない喧嘩見せちゃって」

 

「い、いや……別に、あたしは……」

 

 リコがイレネーの方を向くと、マルゼンスキーは緊張を解いて大きく溜息をつき、グラスワンダーに歩み寄った。

 

 やや腰を落として目線を合わせ、心配そうに声をかける。

 

「……大丈夫? グラス」

 

「大丈夫です。…………すみません……ご迷惑をかけてしまって……」

 

「気にしなくていいのよ。私が勝手に怒ってただけだから」

 

 優しく言ったマルゼンスキーは、直後に気付く。

 

 俯き加減に立つグラスワンダーが、リコに打たれた頬を気にする素振りを見せていることに。

 

「……グラス?」

 

「何でも……ないです…………何でも……」

 

 暗く沈んだ顔。頬に触れたまま、微かに震える指先。

 

 焦点が定かでない瞳は、ここではないどこかを見ているかのようだった。

 

「……私は、平気です…………まだまだ……頑張れますから……」

 

 零れ出る言葉は、やはり空虚。

 

 芯の通った意思が込められているとは思えないほど空々しく、痛々しい。

 

 全力を出すことを禁じられ、レースに敗れ、手酷い叱責を受けた少女が、胸の内で何を思うのか。

 

 それを知ることは、長い付き合いのマルゼンスキーにも出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 全てが変わると思っていた。

 

 自分を取り巻く環境も、他人から向けられる目も、行く先に待つ未来も、勝利を手にすれば劇的に変わるに違いないと信じていた。

 

 だから、あの日――キーンランド競馬場で行われた模擬レースを制した直後は、気分が高揚していた。

 

 敗れた連中の口から洩れる困惑の声や負け惜しみが、耳に心地よかった。

 

 スタンドから届く関係者達のどよめきが、数万人の大歓声のように聞こえた。

 

 たった一勝。戦績に残らず、賞金もトロフィーも貰えない、小さな一勝。

 

 けれども、初めて自分の力でもぎ取ったその勝利は、確かな自信と大きな希望を彼女にもたらした。

 

 今日のこの勝利で、自分は変わった。

 

 追いつめられた状況が、この身に眠っていた力を呼び覚ました。

 

 いや、違う。取り戻すことが出来たのだ。学園に入る前、幼馴染と無邪気に走っていた頃の純真な走りを。他の誰にも真似出来ない、自分だけの走りを。

 

 随分と遠回りをしてしまったが、原点に立ち返ることで、ようやく真の強さを手にした。

 

 この力があれば、もう誰にも負けない。

 

 どんな相手にも、必ず勝てる。遠く霞んでいた薔薇のレイにも、今ならきっと手が届く。

 

 また、希望を抱いて歩んでいけるのだ。

 

 敬愛する恩師と一緒に、輝く未来に向かって。

 

「グラスワンダー」

 

 名を呼ぶ声が聞こえた。

 

 スタンドでレースを観ていた、自分のトレーナーの声だ。

 

 振り返ると、トレーナーは柵を越えてコースに踏み入り、こちらに向かって歩いてきていた。

 

 自分の勝利を祝福しに来てくれたのだろう。

 

 ――おめでとう。よくやった。素晴らしい走りだったね。

 

 そんな言葉をかけながら、頭を優しく撫でてくれるに違いない。

 

 そう思うと立ち止まっていられず、自分からトレーナーに駆け寄っていった。間近に行けば彼の顔が綻び、温かな言葉が紡がれると信じて。

 

 だが――現実は、どこまでも非情だった。

 

「…………え?」

 

 一瞬、何が起きたのか分からなかった。

 

 気付いた時には視界が大きく横に滑り、誰もいない方角を向いていた。

 

 耳に残る、パンという音。

 

 頬に残る、微かな痛み。

 

 頬をはたかれたという事実を脳が認識出来たのは、何秒か経ってからだった。

 

 恐る恐る首の向きを戻すと、酷く険しい眼差しをしたトレーナーが、そこにいた。

 

「……何だ? あれは」

 

 平手を振り抜いた姿勢のまま、男は言う。

 

「猪が突進するようなあの醜い走りは何だ? あんな走り方を誰が教えた?」

 

 怒りが滲み出た声で、重ねられる問い。

 

 冷たく見下ろすその顔は、普段とは別人のようだった。

 

 徐々に状況を理解し始めたグラスワンダーは、声を震わせながら答える。

 

「……あ、あれは……あれは、勝つために……夢中で……」

 

「レースに夢中で基本も何もかも忘れてしまったと? 呆れたな。大事な基本をいかなる時も忘れるなと、僕は言い続けてきたのだが……君の心には届いていなかったようだ」

 

 無情な言葉が、心を抉る。

 

 自信を、希望を、高揚を――胸を満たしていた温かなもの全てを、鉄槌のように重い罵倒が打ち砕いていく。

 

「ご、ごめんなさい…………で……でも……私、勝って……レースに、勝って……」

 

「勝てばそれでいいとでも思っているのか? こんな、子供の駆けっこで」

 

「……っ!」

 

「以前言った筈だ。僕が君を指導するのは、上を目指させるためだと。将来一流の競走馬になってもらうために、走りの基礎を教え込んでいるのだと。こんな模擬レースの勝ち負けなど問題ではない。正しい理論を頭に刻みつけ、正しい走り方を実践出来るようになることが、今は何より重要だ」

 

 少女が掴み取った勝利を、トレーナーの男は無価値と断じた。

 

 彼が望んでいたのは教え子が圧勝する姿ではなく、自分の教えを全うする姿だった。

 

 たとえどれほどの強さを見せられようとも、自分が正しいと信じる走り以外のものを認める気など、最初からなかったのだ。

 

「分かったなら、今この場で誓いなさい。もう二度とあんな馬鹿な走りはしない……と」

 

「…………い、嫌……です……」

 

「何?」

 

「あの走りを、捨てるなんて…………私は、嫌です……」

 

 師の命令を、グラスワンダーは拒んだ。

 

 意地と勇気を振り絞って口にしたそれが、師に対する初めての反抗だった。

 

「あれが……あの走りが……私に、力をくれて……生まれ変わったみたいになって……」

 

「錯覚だ」

 

 否定の言葉が、即座に返る。

 

「一着になれたのは、前を行っていた三人が潰し合った末に失速しただけだ。君が速くなったわけじゃない。そんなことも分からないのか?」

 

「そ、そんな…………そんなこと、ないです……あれは……あれは、確かに……」

 

「あの出鱈目な走りのおかげで勝てたと、何故言い切れる? 無意味に脚を酷使するだけの愚行に、どんな利点があると言うんだ?」

 

 詰問され、返答に窮する。

 

 元々、幼き日の憧れが生んだ走りだ。理論的な裏付けなど一切ない。何がどう良いのかは自分でも分からない。

 

 けれど、それでも信じたかった。

 

 人に言わせれば無意味で非合理なあの走りが、自分に力をくれたのだと。

 

「あ……あれは…………あれは、私の……私だけの、走りで……」

 

「自分だけの走りなど、この世にはない」

 

 トレーナーは断言した。

 

「体格や運動能力の差はあれ、身体の構造は皆同じだ。ならば最善とされるべき身体の動かし方も、おのずと一つに絞られる。自分だけに適した特殊な走法があるなどというのは、理論を知らない素人の世迷言でしかない」

 

 侮蔑と失望に彩られた暗い瞳が、少女を射抜く。

 

「そんなことさえ理解出来ないなら…………もう君に教えることはない。二度と僕の前に顔を見せるな」

 

 突き放すように告げ、身を翻して歩き出す。

 

 敬愛する恩師だった男の背中が、あっという間に遠ざかっていく。

 

 無情なその後ろ姿を、グラスワンダーは無言で立ち尽くしたまま見送るしかなかった。

 

 それから、どれだけ経っただろうか。

 

 周囲に誰もいなくなってからもコース内に留まり続けた彼女は、やがて地面に膝をつき、一筋だけ涙を流した。

 

 嗚咽や嘆きは零れなかった。悲しみよりも深い諦めと喪失感が、心を麻痺させていたからだろう。

 

 ――分かっていた。

 

 心のどこかで、本当は分かっていた。

 

 あの走りが、他人に褒めてもらえるようなものではないことを。

 

 嘲笑われ、否定されるだけのものでしかないことを。

 

 それでも、結果を出せば認めてもらえるかもしれないと、淡い希望を抱いていたが――それも儚い夢に過ぎなかった。

 

 勝とうが負けようが、結局は同じ。望んだ通りの未来に辿り着く可能性など、最初から一欠片もなかったのだ。

 

 失意の中で自分にそう言い聞かせ、打たれた頬に手を伸ばした。

 

 まだ微かにひりつくそこに指先を当て、心の中で呟く。

 

 トレーナーが自分を見放すなら、それでいい。

 

 ここに自分の居場所がないというなら、それで構わない。

 

 ケンタッキーダービーは――薔薇のレイは、もういらない。

 

 外国に行こう。

 

 ヨーロッパでも、オセアニアでも、アフリカでも、アジアでも、どこでもいい。海の向こうの遠い国に渡り、そこで一から出直そう。

 

 もう誰にも頼らない。誰にも教えを乞わない。誰の命令も聞きはしない。

 

 自分は、もう二度と、自分を曲げない。

 

 あのトレーナーが否定した「醜い走り」で、死ぬまで走る。

 

 世界中の人々に否定されようとも、自分の走りを貫き通し、勝ち続けてみせる。

 

 そして、いつの日かなってみせる。

 

≪ビッグレッド≫の名を継ぐ者として、人々の記憶に刻まれる存在に。

 

 

 凍てつくような孤独の中で、そう誓った。

 

 ――その誓いさえ捨て去る日が来るとは、夢にも思わなかった。

 

 

 

 

 

 

 スタンド前に立つエルコンドルパサーは、ゴール地点に立つグラスワンダーの姿を見つめ続けていた。

 

 親友が味わった挫折の重さを、自分のことのように感じながら。

 

(グラス……)

 

 正直なところ、レースが始まる前からこの結果は見えていた。

 

 あれだけ固く禁じられた「叩きつける走法」が、こんな模擬レースで使用を許されるわけがない。

 

 ただでさえ分が悪い勝負に、切り札を使わないまま勝てるわけがない。

 

 それでも、密かに願っていた。

 

 親友の底力が奇跡を起こすことを。たとえ勝てなくても、観ていた誰もが納得するようなレースになることを。

 

 レースが終わった後に、彼女が偽りのない笑顔でいられることを。

 

 そんなことがあるわけがないと、知っていたのに。

 

 

 ――叶わない、夢でしたね。

 

 

 三日前の夜。寮への帰り道で聞いた言葉が、頭の中で蘇る。

 

 あの時グラスワンダーが零したあの言葉は、紛れもない本音だったのだろう。

 

 誰よりも強い≪ビッグレッド≫になる夢を、彼女は既に諦めていた。

 

 それなのに外面を懸命に取り繕い、再起をかけてこの合宿に参加し、世界の舞台を目指していたようだが――やはり、現実は甘くなかった。

 

 彼女を待っていたのは、走り方さえ自分の意思で選べない苦境と、それがもたらす不完全燃焼の敗北だけ。

 

 競馬に全てを捧げてきた者にとって、これほど辛いことが他にあるだろうか。

 

「……」

 

 小さな身体が、より一層小さく見えた。

 

 自分が知る≪怪物≫グラスワンダーの面影は、既に微塵も残っていない。

 

 否応なしに、思い知らされる。

 

 今、自分の視線の先にいる小さな少女は、常識を蹴り砕く≪怪物≫でも、共に頂点を目指して競い合うライバルでもない。

 

 既に夢破れ、胸に抱いていた大切な何かも失くしてしまった、空虚な抜け殻なのだと。

 

 受け入れ難いその事実に歯噛みし、拳を握り締めていると――不意に、背後から声が聞こえた。

 

 徐々にこちらに近付いてくる、数人の女の話し声だ。

 

「うわ……ボロ……ってか、狭っ…………何? 日本の競馬場ってこんなショボいの?」

 

「ここは日本の中でもローカルな競馬場だよ、シガー。他のところはもっと広くて綺麗さ。日本の競馬界はドバイの次くらいに裕福だからね」

 

「ってかここ、あたしらが知るような競馬場じゃないっしょ? あー……何だっけ? 何か知らねーけどデケー奴らが橇曳いて競走するやつ」

 

「左様。ここはばんえい馬なる伝説の巨人族の末裔が、互いの命を賭けて戦う闘技場。かの一族は修羅の一族とも呼ばれており、成人するまでの間ここで百の死闘を繰り返さねばならない武の掟があると聞く」

 

「……その知識は色々と違っていますよ。ラウンド先輩」

 

 振り返り、言葉を交わしながら歩いてくる女達の姿を見たエルコンドルパサーは、心臓が止まりかけるほど驚愕した。

 

 遠い海の向こうにいるはずの名馬達が、そこにいたからだ。

 

 

 

 

 

 

「あーそうそう、言い忘れてたけど……」

 

 グラスワンダーとマルゼンスキーに向き直り、リコは言った。

 

 本当に言い忘れていたようには全く見えない、酷く悪辣な笑みを浮かべて。

 

「今回のこれ、実は合同合宿だったりするから」

 

「合同合宿……?」

 

 マルゼンスキーが眉をひそめる。同じく疑問に思って顔を上げたグラスワンダーは、気付いた。

 

 スタンドの方から、数人の話し声が聞こえることに。

 

「ちょうど今、到着したみたいよ。――アメリカ代表の御一行様が」

 

 雷に打たれたような衝撃が、背筋を走り抜けた。

 

 ひきつった顔をスタンドに向け、目に映った光景に息を呑む。

 

 静かな靴音を重ね、悠然とした足取りでこちらに近付いてくる、サラブレッドの一団。

 

 その一人一人の顔と名を――世界に轟く埒外の強さを、グラスワンダーは知っていた。

 

「ふむ……良き場だ。強者が放つ清冽な闘気に満ちている」

 

 凛とした面持ちで辺りを見回す三つ編みの女――ラウンドテーブル。

 

 通算戦績六十六戦四十三勝。

 

 アメリカ競馬史上最高の芝馬として名高い、歴戦の古豪。

 

「同感だね。なかなか活きの良さそうな子達が揃っている。ふふ……本当に、どの子も良い被験体になってくれそうだ」

 

 笑いながら眼鏡のつるを上げる白衣の女――ドクターフェイガー。

 

 通算戦績二十二戦十八勝。

 

 短距離で無類の強さを誇る、ダート一マイルの世界記録保持者。

 

「こんなとこで人体実験しないでねドクター。普通に犯罪だからねそれ。あと何度も言うけど、ドーピングしてレースに出るのは反則だからね。バレたら普通に失格だからね」

 

 半眼で窘める短髪の少女――シガー。

 

 通算戦績三十三戦十九勝。

 

 GⅠレース十一勝を含む十六連勝を達成した、稀代の上がり馬。

 

「おっ、エルコンじゃん! 何? お前も代表に選ばれたわけ? つーか何? あっちのゴツいのがばんえい馬ってやつ? ハハハハハッ! 超デケー」

 

 エルコンドルパサーに話しかけるテンガロンハットの女――バックパサー。

 

 通算戦績三十一戦二十五勝。

 

 完全無欠の肉体を持つと讃えられる、アメリカ競馬界の至宝。

 

 そして――

 

「世間話は後にして、まずは挨拶を済ませましょう」

 

 臣下を従えるように先頭を歩く、黒鹿毛の少女。その怜悧な美貌から、グラスワンダーは視線を外せなくなっていた。

 

 深く透き通った、この世の全てを見通すかのような黒瞳。

 

 一切の無駄を削ぎ落とし、長き研鑽の末に作り上げた、極限の肉体。

 

 冬の日射しを浴びて淡く輝く、金貨のペンダント。

 

 三年前に決別した日と何一つ変わらない、その少女は――

 

「シアトル……姉さん……」

 

 幼き日に競い合った、姉も同然の存在だった。

 

 柵を越えてコース内に踏み入った黒鹿毛の少女は、一瞬だけグラスワンダーと目を合わせたが、すぐに視線を切る。

 

 そしてリコの前で立ち止まり、右手を差し出した。

 

「アメリカ代表のシアトルスルーです。直接お会いするのは初めてですね」

 

「待ってたわよシアちゃん。こりゃまた、どぎついメンバー連れてきたわねー」

 

 気さくに笑って差し出された手を握り返すリコ。

 

 握手が済むと、少女――アメリカ合衆国第十代三冠馬シアトルスルーは、澄ました顔のまま淡々と言った。

 

「人間性には少なからず問題のある人達ですが……考え得る限りで最高の戦力を揃えたつもりです」

 

 その言葉に偽りはない。

 

 彼女の背後に立つ四人は、超大国アメリカが誇る最強の精鋭。桁外れの実力と輝かしい実績を併せ持ち、引退後の殿堂入りは確実視されている、紛うことなき超一流馬だ。

 

 そして、それらを束ねる彼女こそが、アメリカ競馬界の頂点。

 

 無敗のまま三冠を制覇するという前人未踏の大偉業を成し遂げた、無敵の王者。

 

 世界最強の座に限りなく近い、歴代最優の三冠馬。

 

「ラウンドテーブル、ドクターフェイガー、バックパサー、シガー……そして私、シアトルスルーの五名は、これより当合宿に参加させていただきます。未熟なこの身にご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い致します」

 

 感情を排した抑揚のない声音で、三冠馬シアトルスルーはそう言った。

 

 その遥か後方では――

 

「だから俺抜きで話進めんなよー…………いる意味ねーじゃん俺……」

 

 髭面の中年男が、とても寂しそうに呟いていた。

 

 

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