ウマ娘 Big Red Story   作:堤明文

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第七話「超大国(前編)」

 

 

 アメリカ合衆国。

 

 五十の州、一の特別区、三の自治領、二の自治連邦区及び合衆国領有小離島からなる、連邦共和制国家。

 

 広大な国土と三億を超す人口、そして世界第一位の国内総生産を誇る、紛うことなき超大国。

 

 ヨーロッパからの移民が築いたこの国で競馬が始まったのは、まだイギリスの植民地だった十七世紀前半。以来独自の路線を行きながら発展を遂げ、第一次世界大戦後の国力増大に伴い競馬大国としての地位を確たるものにした。

 

≪ビッグレッド≫の異名で知られた赤き浮沈艦、マンノウォー。

 

 破竹の十六連勝を記録した第八代三冠馬、サイテーション。

 

 観る者全てを戦慄させた灰色の幻影、ネイティヴダンサー。

 

 マンノウォーから≪ビッグレッド≫の名を受け継いだ究極の最強馬、セクレタリアト。

 

 長く濃密な競馬史が生んだ綺羅星の如き英傑達は、競馬発祥の地イギリスの名馬と比べても遜色ないほどの評価を受け、全世界にその名を轟かせる存在となっている。

 

 競走馬の質と量で他国を圧倒し、過酷な生存競争を勝ち抜いてきた破格の名馬を数多く擁する、世界随一の競馬大国――それが、アメリカ合衆国の現在の姿である。

 

 

 

 

 

 

「ほんと、今日はびっくりしたよねー……いきなりアメリカの人達が来るなんて……」

 

 宿泊中の旅館の一階。

 

 風呂場へと続く板張りの廊下を進みながら、スペシャルウィークはそう言った。

 

 隣を歩くセイウンスカイが、苦笑で応じる。

 

「リコさんは言い忘れてたなんて言ってたけど、あれ絶対わざと隠してたよねー。私達の驚く顔が見たいとか、そんな理由で」

 

「……」

 

 言葉を交わす二人のすぐ後ろを、グラスワンダーは俯きながら歩いていた。

 

 二日目の練習を終えて宿に戻った彼女達は、汗まみれになった身体を洗うため風呂場に向かっているのだが、エルコンドルパサーとキングヘイローの姿はそこにない。

 

 合宿中だというのに、何故か二人とも「用事がある」と告げてどこかに行ってしまっていた。

 

「明日はあの人達と……一緒に練習するんだよね? 合同合宿って言ってたし……」

 

「あのノリからしてそうだろうね。何やるんだか知らないけど…………リコさんのことだから、五対五の異種格闘技戦みたいな展開になったりして」

 

「あははは…………ちょっとありそうで、怖い……」

 

 セイウンスカイの冗談に、スペシャルウィークは苦笑を返す。

 

 合宿への参加を表明したアメリカ代表チームだったが、長旅の疲れがあるということで今日の練習には加わらず、身体をほぐすための軽い運動を済ませた後は宿に移動していた。

 

 そのためまだ、日本代表チームの面々とはろくに会話もしていない。

 

 明日以降、あの無駄に濃い連中とどのような形で絡むことになるのかは、依然として不明なままだった。

 

「ま、あれこれ考えてても仕方ないね。とりあえず今日は、お風呂入ってゆっくり――」

 

 言いながら女湯の暖簾をくぐったセイウンスカイは、そこで言葉を詰まらせた。

 

 あまり広くない脱衣場の真ん中に、理解を超越したモノがあったのだ。

 

 それは一言で表すなら、逆立ちした女。

 

 しかしながら、床に両手をついているわけではなく、ぴんと伸ばした右手の人差し指だけで全体重を支えている。

 

 その上指先が触れているのは床ではなく、床の上に置かれた謎の器具――槍の穂先のように鋭い、金属製の円錐だった。

 

 ちなみに、当人は全裸だ。

 

 何故か一糸纏わぬ裸身を堂々と晒したまま、ヨガか何かの苦行としか思えない行為を黙々と続けている。

 

 何から何まで、全く意味が分からない。

 

「……」

「……」

「……」

 

 グラスワンダー、セイウンスカイ、スペシャルウィークの三名は、これまでの人生で一度も浮かべたことがないような表情を揃って浮かべたまま、脱衣場の入口に立ち尽くした。

 

 謎の全裸逆立ちを披露している異常者が何者なのかは、一応分かる。

 

 アメリカ代表チームの一人、ラウンドテーブルという名の三つ編みの女だ。

 

 しかしながら何故、旅館の女湯の脱衣場で、衣服を全て脱ぎ捨てた状態で、超人的ながらも意味不明な行為に没頭し続けているのか――そのあたりのことが、さっぱり分からない。

 

 むしろ、分かってはいけないような気さえしてくる。

 

「日本チームの娘達か」

 

「あ――は、はい!」

 

 話しかけられ、びくっとする三人。

 

 逆立ち状態を平然と維持しながら、ラウンドテーブルは言葉を紡いだ。

 

「貴殿らの噂は聞いている。才気溢れる強者が揃った豊作の世代で、日本競馬史上最強世代に推す声も少なくないとか……機会があれば是非手合わせ願いたいと、私は以前から思っていた」

 

「……」

 

「明日はよろしく頼む。競走馬としてさらなる高みに上るため、全身全霊を尽くして貴殿らと競い合いたい」

 

「…………は、はぁ……」

 

 グラスワンダー達は微妙な顔を並べ、生返事を返す。

 

 目の前の相手が真剣な気持ちで言っているのは分かるし、普通に聞けば好感が持てそうなことを言っている気もするのだが――当人の格好が気になりすぎて、話に集中出来ない。

 

 それに本音を言うと、こんな訳の分からない女とは関わり合いたくない。ここは適当に流して、さっさと風呂に入ってしまおう。

 

 という具合に、三人の思考が一致したところで――

 

「今取り組んでいるこれは修行だ。悪しき魔物共の手から無辜の民を守るため、心技体の全てを極限まで鍛え抜く修行を私は日々欠かさず行っている」

 

(何か語り出した……!?)

 

 行く手を阻むかのように、尋ねてもいないことを語り出されてしまった。

 

 全力で無視したいところだが、そういうわけにもいかない。

 

「何故この鋭利な先端が指に刺さらないのかと貴殿らは不思議に思うだろうが、理屈は簡単だ。普段全身をくまなく包んでいる闘気を指先の一点のみに集中すれば、その部分は鋼をも凌ぐ強度を得る。全体重をかけて乗ったところで皮一枚たりとも傷つくことはない」

 

「……」

 

「だが、闘気の一点集中を長時間続けるには並大抵ではない体力と精神力が必要不可欠。この修行を十五年続けている私でさえ、最高記録は九時間弱といったところだ。目指す剣聖の境地には程遠い」

 

「…………」

 

「ふむ、これも良い機会かもしれんな……どうだ? 貴殿らもやってみないか? 闘気を自在に操る術を身に付ければ貴殿らの競走能力と戦闘能力は飛躍的に向上し――」

 

「「「い、いえ! 結構ですっ!」」」

 

 全くありがたくない申し出を脊髄反射で辞退し、三人は脱衣場の隅に移動する。

 

 そして身を寄せ合いながら、ひそひそと囁き合った。

 

「……何? あの頭おかしい人…………ああいう人なの? あれ……」

 

「……噂は、前から聞いていましたけど…………噂通りの人だったみたいですね……」

 

「……あ、あの人と、一緒に練習しなきゃいけないの……? 私達……」

 

「……ええ……はい…………残念ながら……」

 

 真顔で「闘気」という単語を連発する真性の変人と、残りの十二日間を共に過ごさねばならない。その事実は、三人に戦慄を覚えさせるに十分だった。

 

 アメリカ競馬界の古豪、ラウンドテーブル。

 

 先日エルコンドルパサーが紹介した通り、現役最年長の部類に入るベテランで、とうに引退していてもおかしくない年齢の筈なのだが――残念ながら、そういう風には全く見えない。

 

 競走馬としての格やら何やらとは別の意味で、恐るべき女だった。

 

「大丈夫、ラウンド先輩はそんな怖い人じゃないよ。ちょっと脳細胞が発育不良だけどね」

 

「わっ――」

 

 スペシャルウィークが声を上げる。

 

 いつの間にか背後に立っていた人物に抱きつかれ、心臓が跳ね上がるほど驚いたのだ。

 

「それに、ふふ……私だってこの合宿を楽しみにしていたんだよ。アメリカ競馬は自国だけで完結している面があるからね。他国のサラブレッドとこうして触れ合える機会は、実はそんなに多くないんだ」

 

 アメリカ代表チームの一人、ドクターフェイガー。

 

 短距離戦で無類の強さを誇る快速馬は、楽しげに笑いながらスペシャルウィークと密着していた。

 

 ちなみに、彼女も全裸だ。

 

 薄いレンズの黒縁眼鏡以外、既に何も身に着けていない。

 

「細身で軽量。体高の割に胴長で飛節の角度は深め。キ甲は隆起しているが、まだ成長の余地を残している。絵に描いたようなステイヤー体型だ。……スペシャルウィークだっけ? いいね君。実に私好みの、そそる身体をしている」

 

「な、何ですか……!? ちょ、ちょっとやめ……」

 

「いいじゃないか減るものじゃあるまいし。もう少しだけ堪能させておくれよ。この素晴らしい、惚れ惚れするような好馬体を」

 

 抗議の声を封殺し、全裸の痴女は笑みを深める。

 

 勝手に抱きついたまま体中を執拗に愛撫するその所業は、いかなる観点から見ても犯罪でしかなく、グラスワンダーとセイウンスカイは本気で引いた。

 

「他国まで来て恥ずかしい真似はやめろドクター。……まったく、貴殿には常識というものがないのか?」

 

 とラウンドテーブルが窘めるが、自分のことを棚に上げているせいで説得力は皆無だった。

 

「人聞きが悪いなぁ先輩。私はただ彼女達と親睦を深めようとしているだけだよ。この国の言葉で言うなら、裸の付き合いってやつさ」

 

 嫌がる相手に無理矢理くっついて触りまくることを、裸の付き合いとは普通言わない。

 

 そして間違いなく、親睦は深まらない。

 

「ふふ、見れば見るほど可能性を感じる良い馬体だ。……しかし惜しいな。強豪国のエース級と戦うには、少しばかり馬格が足りない。それに、過剰な筋肉は持久力を削ぐとはいえ、それでももう少しくらいはトモに肉が欲しいところだ。君もそう思うだろう? ん?」

 

「え……え……? あの……」

 

「だが安心してくれ。全くの偶然だが、そんな君にふさわしい薬がここにあるんだ」

 

 いつの間にどこから取り出したのか、ドクターフェイガーの手には注射器が握られていた。

 

 その中に充填された毒々しい色の薬剤を見て、スペシャルウィークの本能は生命の危機を感じ取る。

 

「この薬を体内に注入すれば、君の筋肉と骨格は種の限界を超えた爆発的成長を遂げ、伝説の神馬エクリプスをも遥かに凌駕する究極のサラブレッドの肉体へと変貌するだろう。私が保証する。……少しばかり強めの副作用が出てしまうのが難点だが、大丈夫。君ならきっと耐えられるさ」

 

「い、いりませんいりません! そんなのいらな――」

 

「まあまあそう遠慮しないでくれよ。それっ」

 

「な、なな何勝手に刺し――――ぎゃあああああああああああっ!?」

 

 同意していないのに注射をされたスペシャルウィークは、次の瞬間悲鳴を上げた。

 

 それと共に、メキメキメキメキゴキャボキッ――と、全身の骨が肉を引きちぎりながら折れ曲がっていくような音が、脱衣場に鳴り響く。

 

「おや? また失敗かな? 今度は上手くいくと思ったんだが……」

 

「ぐげおああああああああああああっ!」

 

 不思議そうに小首を傾げるヤブ医者と、汚い悲鳴を迸らせてのたうち回る哀れな被害者。

 

 そんな終末の光景を目にした二人は、筆舌に尽くし難いほど微妙な顔を並べた後――

 

「……お風呂、入ろっか」

 

「……はい」

 

 仲間を見捨てる方向で一致。

 

 服を脱いで籠の中に入れ、タオルを手に風呂場へと向かった。

 

 スペシャルウィークのことがどうでもよかったわけではないが――色々あって疲れていたので、助ける気力が湧かなかったのだ。

 

 そういうわけで終末の光景に背を向けた二人は、風呂場と脱衣場を仕切るガラス戸を開け、風呂場のタイルを踏む。

 

 グラスワンダーが大きく目を見開いたのは、その直後だった。

 

「あ……」

 

 旅館の規模に見合った小さな風呂場の浴槽に、先客が三人。

 

 褐色の癖毛をした長身の女、バックパサー。

 

 小柄な短髪の少女、シガー。

 

 そして、アメリカ代表チームの筆頭格である黒鹿毛の少女、シアトルスルー。

 

 三年前に喧嘩別れした幼馴染が、澄ました顔で湯に浸かっていた。

 

 

 

 

 

 

 失念していた。

 

 同じ宿に泊まっているのだから、いつ顔を合わせてもおかしくないというのに――風呂場で遭遇するかもしれないという想像が、何故か頭から抜け落ちていた。

 

 風呂椅子に座ってシャワーを浴びながら、グラスワンダーは浴槽の中にいる黒鹿毛の少女を盗み見る。

 

 シアトルスルー。

 

 史上十人目のアメリカ三冠馬。アメリカ競馬界の頂点に君臨する、無敵の王者。

 

 幼い頃は姉のように慕い、飽きるほど競い合った相手。

 

 三年前のあの日に喧嘩別れして以来、一度も会っていなかったし、連絡を取り合ったこともなかった。

 

 だから今のこの状況は、はっきり言って物凄く気まずい。

 

 あの少女と向き合いたくないし、会話したくないし、話すことなど何も思いつかない。一秒でも早く風呂場から出ていってほしいと切に願う。

 

 だというのに――

 

「シャワーばかり浴びていないで、湯に浸かったら?」

 

 向こうの方から、平然と話しかけてきた。

 

「これから何日も一緒に過ごすのだし、今更私を避けたって仕方がないわよ」

 

「……っ」

 

 奥歯を噛む。

 

 誰のせいで、こんな気まずい関係になったと思っている――そう内心で毒づきながらも、やむをえずシャワーを止めて立ち上がる。

 

 苛立ちを懸命に押し殺しながら浴槽に向かい、足先を湯に差し込んだ。

 

「……失礼します」

 

 身を沈め、胸の高さまで湯に浸かる。

 

 既にセイウンスカイも浴槽に入っており、狭い空間の中で五人が密集する形になった。

 

 とはいえ、そこに和やかな空気はない。

 

 アメリカ代表の三人は無言で寛ぐだけで、グラスワンダーはそんな三人と目を合わせようとしないため、どこか重苦しい沈黙がその場を包んでいた。

 

 そんな中でセイウンスカイは、黒鹿毛の少女の横顔を静かに見つめていた。

 

(これが、シアトルスルー……)

 

 海外の競馬に大して関心はなくとも、その名は知っていた。競馬の世界に関わる身ならば知らずにはいられない、名馬の中の名馬だからだ。

 

 ケンタッキーダービー。

 

 プリークネスステークス。

 

 ベルモントステークス。

 

 毎年五月から六月にかけて行われるその三競走を全て制覇したサラブレッドが、アメリカ合衆国では「三冠馬」と呼ばれる。

 

 アメリカ競馬のレベルの高さと、約一ヶ月の間に三連戦を強いる過酷な日程故に、達成難度は世界各国の「クラシック三冠」の中でも抜きん出て高い。しかしそれは栄光の重さの裏返しでもあり、達成者は至高の名馬として全世界にその名を轟かせる。

 

 そして、第十代三冠馬シアトルスルーは、歴代三冠馬の中でも特別な輝きを放つ存在。

 

 デビューから三冠を達成するまでの過程において、彼女だけが一度の敗戦も経験していないのだ。

 

 アメリカ競馬史上初となる、無敗の三冠馬。

 

 空前の大記録を打ち立て唯一無二の存在と化した、生ける伝説に他ならない。

 

(何だか……そこまですごい人には見えないけど……)

 

 湯に浸かる少女の肢体を観察しながら、セイウンスカイは首を傾げる。

 

 さほど大柄ではない。いや、どちらかと言えば小柄な方だろうか。

 

 よく鍛えられた一流馬の体つきをしているが、至高の名馬というほどの凄味は感じない。

 

 一流は一流でも、超がつかない並の一流。GⅠのタイトルを一つ獲れるかどうかの器。どこにでもいる普通の名馬。

 

 そんなわけがないと分かっているのに、どうしてもそんな印象を抱いてしまう。

 

 外見から感じる凄味という意味でなら、隣にいる長身の女の方が遥かに――

 

「今日、ばんえい馬の人とレースをしたそうね」

 

 沈黙を破り、シアトルスルーが口を開いた。

 

 話しかけられたグラスワンダーは、俯いたまま表情を強張らせる。

 

「途中までは食い下がったもののやがて敗色濃厚になり、あの走法を使おうとしたところを止められた……と聞いているけれど、それで間違いはない?」

 

「……はい」

 

 グラスワンダーが頷くと、シアトルスルーは小さく溜息をつく。

 

「……相変わらずね。努力の仕方を間違えている」

 

 呆れの中に憐れみを含んだ声で言い、諭すように続ける。

 

「レースとは必勝の気構えで臨むもの……その認識に間違いはないし、私もそのつもりで走り続けている。けれど、練習中の模擬レースまでそこに含めてはいない。練習はあくまで練習。重要なのは勝ち負けではなく、そこで得た経験を本番でどう生かすか……しっかりと先を見据えた上で自身の能力向上に努めることが、何より大切」

 

 深く透き通った黒瞳が、俯く少女を見据える。

 

 この世の全てを――他者の未来や運命さえも、冷徹に見通すかのように。

 

「そこを履き違えたままでいると、また脚を壊すわよ」

 

 静かな忠告が、鋭く深く胸を刺す。

 

 膨れ上がる怒りとも悔しさともつかない感情に、グラスワンダーは震えた。

 

 一昨年の春に骨折したという事実と、これから先また骨折するかもしれないという危惧。

 

 その二つがあるからこそ、彼女は枷を嵌められている。望むままに走れない不自由な立場に身を置かれているのだ。

 

「…………何で……」

 

 細い声で、問いを零す。

 

「何で今……日本に来たんですか……?」

 

「別にあなたに文句を言いに来たわけじゃないわ。もう聞いているでしょう? リコ監督からの合同合宿の誘いに私の先生が応じて、私もそれに賛成した。だから今、ここにいる。それだけよ」

 

 落ち着き払った様子のシアトルスルーは、目を細めながら天井を仰いだ。

 

「またこの国の土を踏むことになるなんて、少し前までは考えもしなかったけれど……これはこれで悪くない。何事も経験が大切。普段と違う環境に身を置き初めて出会う相手と競い合うことで、得られるものもあるかもしれない……そう思ったから、この合同合宿に賛成したのよ。ワールドカップの前にうちのチームとそちらのチームの戦力を比べられる、良い機会でもあるしね」

 

「比べるまでもないでしょ、そんなの」

 

 そう言ったのは、小柄な短髪の少女――シガーだった。

 

 アメリカ代表チームの中で最年少の新鋭は、浴槽の縁に座って脚だけを湯に浸しながら、酷くつまらなそうな顔をしていた。

 

「うちと同じパートⅠの格付けっていったって、結局は無駄に金があるだけの競馬後進国。ちっこい島の中で仲良しこよしのしょぼいレースしてるザコしかいないとこだよ。わざわざ一緒に練習してやる価値があるとは思えないね」

 

 競馬の世界には国際的な格付けというものがあり、競馬を施行する国及び地域を、そのレベルに応じてパートⅠからパートⅢまでの三段階に分けている。

 

 最上位であるパートⅠの国は現在、イギリス、アイルランド、フランス、ドイツ、アメリカ、カナダ、アルゼンチン、ブラジル、チリ、ペルー、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、アラブ首長国連邦、日本、香港の十六ヶ国。

 

 格付けの上では、日本とアメリカは対等の関係。しかしながら、その一事をもって日本競馬とアメリカ競馬に差がないと見るのは早計だ。

 

 競走馬の質と量が、国を代表する名馬の格が、世界の競馬史に与えてきた影響が、日本とアメリカではあまりに違う。

 

「……まあそんな国だから、この人も逃げ込んだんだろうけど?」

 

 冷たい眼差しが、グラスワンダーを見下ろす。

 

「グラスワンダーだっけ? あんたのことは聞いてるよ。元々はうちの国にいたけど、挫折して日本に渡ったんだってね」

 

 遠慮も容赦もなく、シガーは思っていたことをそのまま口にした。

 

 苦悩の末に母国を捨てた少女を、唾棄すべき落伍者と断じて。

 

「よかったね。レベルの低いとこで、トップクラスになれて」

 

「――っ」

 

 これ以上ないほどの侮辱に、心が軋む。

 

 自らの足跡を否定され、誇りにしていたものを貶められて、グラスワンダーは呼吸さえままならなくなるほど動揺した。

 

 その姿を見たセイウンスカイは、険しい顔をシガーへと向ける。

 

「ちょっと…………いくら何でも言い過ぎじゃない? それ」

 

 日本競馬を蔑むだけなら、まだ許容出来た。

 

 しかし、グラスワンダーを――同期のライバルとして競い合ってきた少女を傷つける発言だけは、どうしても許容出来ない。

 

 出来るわけがない。

 

「お友達を馬鹿にされてイラっときた? 安っぽい友情だね。笑えるよ」

 

「君の言動の方が百倍安っぽいと思うけど? 自分を客観的に見れないの?」

 

「……口だけは達者だね。ザコのくせに」

 

「一緒に走ったこともないのに、どうしてザコって決めつけられるのかな?」

 

 挑発的な言葉に、セイウンスカイは毅然とした態度で応じる。

 

 シガーは冷笑を浮かべた。

 

「何? 一緒に走らなきゃ分からない? だったら――」

 

「やめなさい、シガー」

 

 闘争心を剥き出しにするシガーを、シアトルスルーが止めた。

 

「初対面の方に対して失礼よ。あなたも国の代表なら、礼節を弁えなさい」

 

「だってシア姉、こいつら――」

 

「シガー」

 

 静かだが、確かな威圧を孕んだ声。一切の反抗を許さない、氷刃の眼差し。

 

 アメリカ最強馬を怒らせかけていることに気付いたシガーは、自らの感情を鎮めるために目を瞑ってから、溜息と共に立ち上がった。

 

「……分かったよ。じゃ、無礼者は退散するねー。あとはどうぞ、ごゆっくり」

 

 皮肉るように言い捨て、風呂場の出入口へと歩いていく。

 

 その後ろ姿がガラス戸の向こうに消えると、シアトルスルーはセイウンスカイに顔を向けた。

 

「失礼致しました」

 

 頭を下げ、後輩の非礼を詫びる。

 

「私の指導が行き届かず、ご不快な思いをさせてしまい申し訳ありません。後できつく叱っておきますので、どうかご容赦下さい」

 

「い、いえ……あの……」

 

 アメリカ最強馬に謝罪されると思っていなかったセイウンスカイは、戸惑いを浮かべて口ごもる。

 

 そんな彼女に、それまで黙っていた長身の女が笑いかけた。

 

「ま……そういうこったから悪く思うなよ、白いの。それにまあ、あいつはよその奴に対しては大体あんな感じだからな。いちいち喧嘩買ってやってたらきりがねえんだ、これが」

 

「……あなたも人のことは言えないと思うけれどね、パサー」

 

 顔を上げたシアトルスルーが、呆れた様子で言う。

 

 アメリカ代表チームの一人バックパサーは、浴槽の縁に両肘を置きながら笑みを深めた。

 

「失敬な。あたしは普段はフレンドリーだぞ、こう見えても。イキって喧嘩売るのはレースの時だけって決めてんだよ」

 

「出来ればレースの時も大人しくしててほしいけど……まあいいわ」

 

 シアトルスルーはグラスワンダーに向き直る。

 

 俯いたまま目を合わせようとしない幼馴染に、彼女は先程より幾分か柔らかな声音で語りかけた。

 

「話が逸れたわね。…………とにかく、私は私なりにこの合宿を有意義なものと捉えているし、せっかくの機会だからあなた達日本チームと親睦を深めたいとも思っている。だからそんなに硬くならないでくれるかしら?」

 

「…………よく、言いますね……」

 

 グラスワンダーは呟いた。

 

 闇のように暗く、鉛のように重い、怒りと憎しみが滲む声で。

 

「三年前、あれだけ……人の全てを、否定しておいて……」

 

 三年前の冬。寒空の下で叩きつけられた、否定の言葉。

 

 それは今も癒えない傷痕として、彼女の中に残り続けている。

 

 あの出来事を記憶から消し去り、子供の頃と同じように笑い合うなど、到底出来はしない。

 

「……あの日、私が言ったことを憶えている? グラス」

 

「忘れられるわけ……ないじゃないですか……」

 

 あの時の言葉を、跳ね返したかった。

 

 自分は刹那の強者ではないと――自分の力は花火のように消えてなくなるものではないと、証明してみせたかった。

 

 その想いを胸に、懸命に走り続けてきた。

 

 だというのに、どうしてか、現実はあの時の言葉通りになりつつある。

 

 夢見た無敵の王者にはなれず、頼みにしていた「力」は使用を禁じられ、拭えない喪失感と敗北感を抱えたままの惨めな姿を晒している。

 

 それが、悔しくてたまらない。

 

「なら……」

 

 シアトルスルーの眼差しが、心の芯を打つような力強さを帯びた。

 

「あの時と同じ要求を、今ここでしたとしても……返答は変わらない?」

 

 決裂の日の最後。

 

 情け容赦ない否定を続けた末に、三冠馬シアトルスルーが口にした、一つの要求。

 

 人生の転換を迫る、他の何より重大な発言。

 

 当時のグラスワンダーは、それを拒んだ。そんな要求には死んでも従わないと、強い意思を胸に言い切った。

 

 だが――

 

「あの時と同じ答えを、今も胸を張って返せるの? あなたは」

 

「……っ……それは……」

 

 この時のグラスワンダーは、以前と同じ答えを返せなかった。

 

 見えない何かに歯止めをかけられたように、胸の内にある想いが言葉にならなかったのだ。

 

「…………私は……」

 

 伏せた目に迷いを湛え、返答に窮したまま震えていると――

 

「シア姉ー、ラウンド先輩がオーラ使い果たしてぶっ倒れてるよー。あとドクターに注射された人が心臓止まってるみたいだけど、どうするー?」

 

 脱衣場の方から、シガーの声が届いた。

 

 どうやらあちらには、かなりの惨状が広がっているらしい。

 

「まったく……あの人達は……」

 

 煩わしそうに呟き、シアトルスルーは立ち上がる。

 

 そして問題児二人の不始末を処理するため、足早に風呂場を出ていった。

 

 残されたのは三人。

 

 気ままに寛ぐバックパサーと、震え続けるグラスワンダーと、それを心配そうに見つめるセイウンスカイだった。

 

「グラスちゃん……?」

 

 セイウンスカイの声は、グラスワンダーの耳に入らない。

 

 栗毛の少女は俯いたまま自己の内側に埋没し、煩悶を続けていた。

 

 微かに開いた口から、思考の断片を零しながら。

 

「…………捨てるなんて……そんなこと…………出来るわけ、ないじゃない……」

 

「……」

 

 バックパサーは、それを聞いていた。

 

 奔放に生きるアメリカの天馬は、形のない何かに囚われた少女の嘆きを、無言のまま聞き続けていた。

 

 

 

 

 

 

 合宿三日目。

 

 この日の早朝、帯広競馬場の正面スタンド前で行われた特訓は、前日と同じ内容だった。

 

 即ち、重種馬の大女達の体当たりを真正面から受け止める特訓である。

 

「ぬおああああああああああ――――っ!」

 

「ぐうっ……!」

 

 大砲の一撃を思わせる、激烈な衝撃。

 

 栃栗毛の大女の猛突進を受けたエルコンドルパサーが、強張った顔で苦鳴を零す。

 

 しかし、その身が宙に浮くことはなく――地面に敷かれたマットの手前まで後退した後、バランスを保てなくなり仰向けに倒れた。

 

 衝撃に耐え切ることは出来なかったが、内容的には格段の進歩を遂げたと評すべきだろう。

 

 前日の練習では、何の抵抗も出来ずに吹き飛ばされるだけだったのだから。

 

「おー……たった一日で随分様になってきたじゃない、エルちゃん」

 

 横で見ていたリコが、感心した様子で言う。チームの仲間達も口々に驚きの声を上げる。

 

 マットの上で上体を起こしたエルコンドルパサーは、少しだけ照れくさそうに笑った。

 

「えへへ……昨日何度も吹っ飛ばされたおかげで、だんだんコツが掴めてきた感じデース」

 

 学習能力の高さ。それは彼女が持つ大きな武器の一つだろう。

 

 セイウンスカイのように華麗な受け流しを披露することは出来ないが、僅かな経験から重種馬の突撃に対処する術を学び取り、不完全ながらも実践してみせた。

 

 慣れればある程度の対処は誰でも出来るようになるとはいえ、ここまで進歩が早い者は稀だ。優れた観察力と思考力に裏打ちされた学習能力を持つ証左と言っていい。

 

 さらに言えば、彼女の強みはそれだけではない。

 

「パワーならグラスちゃんが、レースセンスならウンスちゃんが、チームの中では一番だと思うけど……それでもやっぱり、全部ひっくるめた総合力ではあなたが一番かもね、エルちゃん。ほんと、呑み込みが早くて助かるわ」

 

 グラスワンダーは規格外の剛力を誇るが、器用さに欠ける。

 

 セイウンスカイは類稀なレースセンスを持つが、地力はさほどでもない。

 

 スペシャルウィークはスピードとスタミナの両面で優れるが、非力な面があり力の要る馬場を苦手とする。

 

 他の面々が何らかの欠点を抱える中で、エルコンドルパサーにはこれといった欠点がない。なおかつ、全ての能力が高い水準でまとまっている。

 

 グラスワンダーには及ばないが平均以上の筋力があり、セイウンスカイほどではないがレースセンスにも秀でる。春の天皇賞馬のスペシャルウィークに引けを取らないだけのスタミナもある。ハードトレーニングをものともしない頑丈さと、強固な精神力も具えている。

 

 総合力においてはチーム随一の秀才であり、隙のない強さを持つ万能の名馬。

 

 その認識は、リコを含めた日本側の誰もが共有するものだったが――

 

「しょぼいな」

 

 ここに、異を唱える者が一人。

 

 赤と黒の二色に染められたテンガロンハットを被る女、バックパサーだ。

 

 やる気の欠片もない様子でスタンドの座席に寝転んでいた彼女は、唇の端を吊り上げながら言った。

 

「そいつのこと甘やかしすぎでしょ、監督さん。そんな程度でいちいち褒めちぎってたらアホな勘違いさせちまいますよ。その世間知らずに」

 

 小馬鹿にしているとしか思えないその物言いは、エルコンドルパサーの神経を逆撫でした。

 

 額に青筋を立てながら、彼女は微妙にひきつった笑みをバックパサーに向ける。

 

「わー……態度サイアクな人が何かエラソーに能書き垂れてマース……ぶっちゃけ邪魔臭いんでさっさと国外退去処分になってほしいデース」

 

「お前のために言ってやってんだよ、間抜け。また大舞台で恥かかねえようにな」

 

「――っ」

 

 返ってきた言葉に、エルコンドルパサーは息を呑む。

 

 相手の口から出た「大舞台」が、去年の凱旋門賞を暗に示していることを悟り――煮え滾るような怒りが、腹の底から込み上げてきた。

 

「そ……そんなに言うなら、お手本の一つくらい見せてほしいデスネー。まさかご立派なのは口だけとか、そんなしょぼいオチじゃありませんよネー?」

 

 激発しそうになった感情をどうにか抑え、挑発的な眼差しで言い返す。

 

 バックパサーはそれを、鼻で笑った。

 

「……変わんねえな、お前は。今も昔も、勘違いしたまんまだ」

 

 寝転んでいた座席から起き上がり、背筋を伸ばして立つ。

 

 首を左右に振ってコキコキと鳴らしながら、アメリカ競馬界の至宝は悠々と歩を進めた。

 

「いいよ。こういう泥臭えのはあんま好きじゃねえけど、お望み通り手本を――」

 

「待て」

 

 制止の声。

 

 手本を見せようとしていたバックパサーの目の前を、一人の女が横切った。

 

 アメリカ競馬界屈指の古豪であり、代表チームの最年長者――ラウンドテーブルだ。

 

「久々に血が沸いた。次は私がやらせてもらおう」

 

 宣言と共に栃栗毛の大女の前に立つ彼女は、既に完全武装の状態だった。

 

 細緻な装飾が施された白銀色の板金鎧に身を包み、頭には宝冠のように美しい額当てを付け、腰に巻く革帯からは十字架を思わせる形の長剣を吊るしている。

 

 その姿は、まさに騎士。

 

 中世の絵画から抜け出てきたかのような、眩いばかりに雄々しい騎士道の体現者だ。

 

「遥か古の時代、神々と地上の覇権をかけて争ったという巨人族の末裔……相手にとって不足なし」

 

 長剣を鞘から抜き放ち、両手で柄を握る。

 

 そして日本剣術の「八双の構え」に酷似した姿勢をとり、力強く言い放った。

 

「いざ、尋常に――勝負ッ!」

 

「…………」

 

 想定外の事態に直面した時、人はすぐには反応出来ない。まるで物言わぬ石像と化したかのように、心と身体の両方が硬直してしまう。

 

 今スタンド前に集う面々がまさにその状態で、泰然と剣を構えるラウンドテーブルを除き、誰もが白目を剥いて石化していた。目の前に存在する異常者を現実のものとして受け止めたくないという思いも、強く働いたのかもしれない。

 

 そういうわけで、全てが静止した時間が続いた後――ようやく思考力を取り戻したバックパサーが、覇気の欠片もなくなった顔で言った。

 

「あー……センパイ? やる気十分なとこ悪いんスけど……そういうアレじゃないと思うっスよ。これって」

 

「そういうアレとは何だ? 具体的に言え」

 

「いや、だから……」

 

「私が言うわ」

 

 バックパサーが言い淀むと、その横からシアトルスルーが進み出る。

 

 常に冷静な彼女も、この時ばかりは若干の疲労感を顔に出していた。

 

「ラウンド先輩……大変申し上げにくいのですが、先輩は練習の主旨を正しく理解されていません。今行われているこれは戦闘訓練ではなく、レース中の接触事故に対応する能力を培うための訓練です」

 

「む……そうなのか?」

 

「ええ。ですから剣は必要ありません。鎧も練習の主旨に沿わないので脱いで下さい。今すぐに」

 

「む……しかしこの鎧は、騎士たる者の正装であり我が魂の象徴と呼ぶべきもの。真剣勝負の場に立つ以上、身に着けぬわけには……」

 

「だから勝負じゃありませんよ。皆さんお待ちしていますので、早く脱いで下さい」

 

「つーかセンパイの剣って、空港で取り上げられたんじゃなかったんスか?」

 

「あれはエクスカリバー。今手にしているこれはアロンダイトだ。私が母から受け継いだ聖剣の一振りであり、湖の乙女の加護を受けた伝説の――」

 

「あーはいはい、分かりました。大体分かったからもういいっス。聖剣かっこいいっスね」

 

「話は最後まで聞け。あまりにも強大すぎる力を宿したこの剣は、ただ存在するだけで世界に亀裂を生じさせてしまうため、戦闘時以外は現世とは位相の異なる領域に――って待てシア! 私のアロンダイトをそんな雑に放り捨てるな!」

 

「先輩の聖剣は神々だか精霊だかの加護が宿ってますから、多少雑に扱っても大丈夫ですよ。そんなことより早く鎧脱いで下さい。手伝いますから」

 

 そんな茶番が繰り広げられた末、剣を奪われ鎧も剥ぎ取られたラウンドテーブルが、栃栗毛の大女の前に立つことになった。

 

 やっとまともな姿になったと言えるのだが、本人は不満そうだった。

 

「……では、よろしく頼む」

 

 などと言いつつも、お気に入りの玩具を取り上げられた子供のように頬を膨らませている。

 

 散々待たされた栃栗毛の大女は、うんざりした様子で溜息をついた。

 

「じゃあ、やらせてもらうけど……気ぃ付けなよ。あんまりふざけてると本気で怪我するからね? アメリカのお嬢ちゃん」

 

「心配無用」

 

 ラウンドテーブルは即答した。

 

「頑丈さだけが私の取り柄だ。いかなる攻撃にも耐え抜いてみせるゆえ、全力で来てくれて構わない」

 

 剣を握っていた時とは違い、今の彼女は一切身構えることなく、自然体のまま立っていた。

 

 ともすれば緊張感に欠けると取られかねない、その佇まいは――何故か不気味な圧力めいたものを、栃栗毛の大女に感じさせたのだった。

 

「大丈夫なの? あの人…………これがどういう訓練か、全然分かってないみたいだけど……」

 

 胡乱な目をラウンドテーブルに向けながら、キングヘイローが呟く。

 

 昨日嫌というほどこの訓練を体験した彼女は、重種馬の突撃の凄まじさを思い知っている。

 

 あれは、生半可な覚悟で受け止められるものではない。

 

 十分に気を引き締め、受身の取り方まで考えた上で臨まなければ、今後の競走生活に関わる大怪我をしてもおかしくはないのだ。

 

 そのことを本人に忠告すべきかどうか迷っていると、隣にいたグラスワンダーが口を開いた。

 

「止めた方が……いいかもしれません」

 

「え?」

 

「噂通りなら、あの人は……」

 

 その言葉が終わる前に、栃栗毛の大女が地を蹴った。

 

 分厚い筋肉を纏う巨躯が砲弾と化し、風を切り裂いて一直線に駆ける。

 

 計り知れない衝撃を生む猛突進を、臆することなく正面から迎えるラウンドテーブル。

 

 無防備なその身体に、大女の全体重を乗せた肩がぶつかり――次の瞬間、信じ難い光景がキングヘイローの目に焼き付いた。

 

「なっ……」

 

 ラウンドテーブルが倒れていない。

 

 いや、それどころか、元いた場所から一歩たりとも退がっていない。

 

 自身より遥かに大きな相手と正面からぶつかったというのに、何事もなかったかのように平然と立ち続けている。

 

 あまりにも非現実的なその怪現象は、傍から見ていたキングヘイローだけでなく、当事者である栃栗毛の大女をも驚愕させた。

 

「――言った筈だ。全力で来てくれて構わない、と」

 

 目を見開いて凍りつく相手に、騎士道の体現者は言い放つ。

 

 青い瞳の奥に、静かな怒りを宿して。

 

「私が余所者だからといって、余計な気遣いは止めてもらおう。幼少の頃より鍛え抜いてきたこの身体……手抜きの一撃で揺らぐほど柔ではない」

 

「ぐっ……」

 

 栃栗毛の大女は顔を歪め、呻くように声を洩らした。

 

 挑発的なことを言われて憤ったのではない。ラウンドテーブルの胴体と接触したままの肩から、耐え難い激痛が込み上げてきたのだ。

 

 とても立っていられず、肩を手で押さえながら地面に膝をつく。

 

 大粒の汗が、その額から滴り落ちた。

 

(嘘だろ…………何だよ……こいつの身体……!?)

 

 激しく狼狽しながら、心の中で疑問を繰り返す。

 

 手加減などしていない。相手の要望通り全速力で駆け、全体重を肩に乗せ、マットの向こう側まで吹き飛ばすつもりで体当たりを見舞った。

 

 だというのに全く効いていないばかりか、逆にこちらの肩の方が壊れかけている始末。

 

 何もかもが、常軌を逸している。小さく細く脆いサラブレッドの身体とは到底思えない。

 

 まるで、地中に深く根を張る大木――いや、違う。そんな程度のものではない。

 

 これは、城だ。

 

 幾重も連なる分厚い壁に守られた、堅牢な城塞。

 

 生き物の身体をぶつけた程度では小揺るぎもしない、難攻不落の巨大建造物。

 

「次は全力で来い。でなくば――」

 

「その人は全力で来ていましたよ、ラウンド先輩。別に手は抜かれていません」

 

 横からシアトルスルーが言った。

 

 すると衝撃的な事実を知らされたかのように、ラウンドテーブルは心底から驚いた顔を後輩に向ける。

 

「……そうなのか?」

 

「ええ。先輩が頑丈すぎるだけです」

 

「……そ、それは失礼した…………その……思ったより軽かったから、手を抜かれたものかとばかり……」

 

「あーおばさん、ムカつくだろうけど怒んないでやって。その人単にアホなだけだから。別に悪気とかはねーから。…………ああそれと、その人お嬢ちゃんって齢じゃねーから。若く見えっけどあたしなんかより年上だから」

 

 冷静に指摘するシアトルスルー。申し訳なさそうに縮こまるラウンドテーブル。面倒臭そうに手をひらひらと振りながら言うバックパサー。

 

 そんな三人の様子を、栃栗毛の大女は呆気に取られた顔で見上げるしかなかった。

 

 一方、傍観者の立場で規格外の耐久力を目の当たりにしたキングヘイローは、冷たい汗を流しながら声を震わせていた。

 

「な……何よ……あの化物……」

 

 昨日セイウンスカイが披露した技にも驚かされたが、あれにはまだ理屈があった。

 

 今のこれは、違う。全く違う。

 

 あのラウンドテーブルという女はセイウンスカイと違い、受けた衝撃を殺す技巧を一切使わず、素の耐久力のみで重種馬の猛突進を防ぎ切ったのだ。平然とした面持ちを保ったまま、一歩たりとも後退せずに。

 

 ありえない。そんな真似が出来るわけがない。どう考えても物理法則に反している。

 

 だが、不可能な筈のそれをいとも簡単にやってのけた者が、今目の前にいる。

 

 人の形をした城塞の如き化物が、現実に存在しているのだ。

 

「≪聖騎士≫ラウンドテーブル……かつてボールドルーラー、ギャラントマンの二人と並び称された、黄金世代三強の一角」

 

 グラスワンダーが、謳うように言った。

 

「宿敵だった二人が引退した後も現役を続け、現在までに六十六ものレースを走り抜き、年度代表馬と世界の賞金王に輝いた経歴を誇る古豪…………肉体の頑強さではアメリカ競馬史上最高とも讃えられる、鋼の名馬です」

 

 サラブレッドの脚は、「ガラスの脚」と呼ばれる。

 

 時速約六十キロメートルもの速さで走り続けるには、その骨格はあまりに細く、あまりに脆い。

 

 事実としてほとんどの者が、遅かれ早かれ脚を壊す。

 

 練習中に故障して一度もレースに出走することなく終わる者も、決して珍しくはないのだ。

 

 加えて言えば、レベルが上がれば上がるほどレースは過酷になる。勝つために必要な練習量も増え、必然的に故障のリスクは跳ね上がる。

 

 そのため一流の実績を持つ者は二十戦前後、多くとも三十戦前後で現役を退くのが通例だ。

 

 それ以上走りたいと望んでもそう簡単に走り続けられるものではなく、仮に走り続けられたとしても、全盛期の強さを維持することはまず不可能と言っていい。

 

 だからこそ、異常なのだ。

 

 世界一の競馬大国アメリカで若駒の頃から常に頂点を争い続け、六十六もの死闘に耐え抜き、現役最年長となった今でも衰えを見せない、ラウンドテーブルの頑強さは。

 

 鋼鉄の身体を持つ名馬――そう形容するにふさわしい存在は、彼女以外にいないだろう。

 

「……なぁ、リコ」

 

 重種馬達のまとめ役であるイレネーは、隣に立つリコに問いかけた。

 

「本当に、あんたらと同じ生き物なのか? あれ……」

 

「同じ生き物だけど、タフさに関しては別格中の別格よ。ラウンドちゃんは。あんな真似が出来るような子は世界に五人も――」

 

「いや……」

 

 イレネーは首を振り、柵の向こうにある直線コースの終点を顎で示した。

 

「あの三つ編みも大概だが…………それ以上にやべえのは、あっちのチビだよ」

 

 示された場所に、リコは目を向ける。

 

 鉄橇と繋がった姿のまま地面に座り込む短髪の少女が、そこにいた。

 

「……あれも別格よ。底辺から頂点まで駆け上がった、アメリカ競馬史の奇跡。サイテーションに並ぶ十六連勝の記録は伊達じゃないわ」

 

 

 

 

 

 

 この日、シガーは人生で初となる体験をした。

 

 ばんえい競馬に挑戦し、重種馬の一人と模擬レースを行ったのだ。

 

 きっかけは、彼女が練習への参加を拒んだことだった。

 

 こんな馬鹿げた練習をするなんて聞いていない、意味が分からない、怪我でもしたらどうしてくれるんだ――と、リコを相手に抗議を続けた結果、それを聞いていた芦毛の大女から言われたのだ。

 

「それじゃあ別メニューってことで、ばんえい競馬を体験してみるかい? おチビちゃん」

 

 正直、ばんえい競馬などに全く興味はなかったし、馬鹿馬鹿しいのは一緒なのでやりたくなかった。

 

 ――が、微妙にこちらを見下した様子で「おチビちゃん」などと言ってきた相手の態度が癇に障ったので、その申し出を受け入れた。

 

 相手は最初、ばんえい競馬に慣れさせるため一人で走らせるつもりだったようだが、「そんなのはいい。さっさと勝負しよう」とシガーが不遜に告げたことで、いきなり模擬レースをする運びとなった。

 

 そして現在。レースを終えた彼女は、疲れ切った顔で薄曇りの空を仰いでいた。

 

「あー……ダメだ…………ほんと、ダメすぎ……」

 

 息を切らし、肩を激しく上下させながら、自分自身への愚痴を零す。

 

「絶不調だな、今日は…………何もかもが全然なってない。何やってんだボク……」

 

 模擬レースの内容が、彼女は大いに不満だった。

 

 自己採点するなら、百点満点中二十点といったところ。スタートからゴールまで、何も良いところがなく全てが駄目だったと断言出来る。

 

 どうしてあんな無様なレースをしてしまったのかと、自らの至らなさを恥じるばかりだ。

 

 何せ――

 

「あんなおばさんと、接戦になるなんて……」

 

 涼しい顔で楽勝する予定が、接戦の末の辛勝になってしまったのだから。

 

 辛勝。

 

 そう、彼女は勝ったのだ。

 

 ばんえい競馬を初体験した身でありながら、歴戦の猛者である芦毛の大女を相手に接戦を演じ、最後は僅差で勝利した。

 

 しかしながら本人は、それを誉れとは思わない。

 

 その程度は出来て当たり前だとしか思っておらず、むしろ思い通りに圧倒出来なかったことを恥じてさえいる。

 

 目指す場所が、理想とする境地が――凡百の競走馬とは、最初から違うのだ。

 

「何を嘆く必要がある? 素晴らしい走りだったじゃないか。初めてでそれだけやれれば上出来だよシガー」

 

 勝負を観戦していたドクターフェイガーが歩み寄り、飲料の入ったペットボトルを笑顔で差し出した。

 

 それを受け取って飲みつつ、シガーはつまらなそうに言う。

 

「ダメだよあんなんじゃ……シア姉やパサーだったら、もっと余裕で突き放してる」

 

 首を回し、スタンド前にいる二人の先達の姿を盗み見る。

 

 無敗の三冠馬シアトルスルーと、完全無欠の天馬バックパサー。

 

 十六連勝の記録を作り、GⅠレース十一勝を挙げた現在でもなお、格上と認める――認めざるを得ない二人の歴史的名馬に、シガーはどこか棘のある眼差しを向けた。

 

 倒すと誓った怨敵を、静かに睨みつけるように。

 

「ふふ……相変わらず自分に厳しいね、シガーは。……全くの偶然だが、そんな君にふさわしい薬がここに――」

 

「うん分かった。話の流れは大体分かったからもういいよ。飲み物ありがとね。そのネタ聞き飽きたからもうアメリカに帰っていいよドクター」

 

「そうつれなくするなよ。飽くなき向上心を持つ君を真の最強馬にしてあげたいと、私は心から願っているんだ。この薬を血管に注入すれば君の筋力と持久力は約五倍にまで上昇し――」

 

「芸風それしかないの? 薬のやりすぎで頭イッってるの? それドーピングで失格になるよねって何百万回つっこまれれば理解出来るの? ――ってバカ! 何勝手に注射打とうとしてんだよ!? 死ねヤブ医者っ!」

 

 コースの端で不毛な格闘戦を始める二人。その数メートル後方に、敗者の姿はあった。

 

 今しがたシガーと熱戦を繰り広げた、芦毛の大女だ。

 

 彼女は屈辱に打ち震えながら、自分を破った少女の背中を凝視していた。

 

「何だよ…………あの、馬鹿げた脚は……」

 

 奥歯を噛み締め、呟く。

 

 負ける筈がない勝負だった。

 

 アメリカ屈指の強豪とはいえ、所詮は小柄で華奢なサラブレッド。筋力の差が勝敗に直結するばんえい競馬で、重種馬の自分が後れを取る道理はない。

 

 実際、勝利は目前だった。

 

 些か手こずりはしたものの、セーフティリードを保ったままレースの終盤を迎え、最後は生意気な小娘の鼻っ柱をへし折る形で完勝する――筈だった。

 

 それが、最後の最後にひっくり返された。

 

 この世のものとは思えない、恐怖さえ覚えるほどの剛脚によって。

 

「…………サラブレッドの走り方じゃねえだろ……あれは……」

 

 子供のように小さな後ろ姿が、この時芦毛の大女の目には、雲を衝くような巨獣に見えていた。

 

 

 

 

 

 

「はいはーい! みんな集合ー! そこでガチめのバトルやってる二人もこっち来てー!」

 

 リコが声を上げて全員を集めたのは、そのすぐ後だった。

 

 日本代表チーム五名。アメリカ代表チーム五名。コーチ役を務めるシンボリルドルフとマルゼンスキーに、イレネー達重種馬の面々。ついでにアメリカ側の監督。

 

 合同合宿に関わる者の全員が顔を揃えたその場で、リコは楽しげに切り出した。

 

「今日はここで普通に練習やってもらうつもりだったんだけど……アメリカのみなさんの元気いっぱいな姿見て、気が変わったわ。ちょっと予定を早めて交流戦をやっちゃいましょう」

 

「交流戦……?」

 

 唐突に出てきた単語に、キングヘイローが眉をひそめる。

 

「どういうことよ? このメンバーでレースをしろっていうの……?」

 

「ぶっちゃけるとそうなんだけど、普通に走るだけじゃちょっと芸がないわよねー? せっかく日米の代表選手が揃ったまたとない機会なんだから、もうちょい趣向を凝らしてみようかと思ったわけで……」

 

 そこで、シンボリルドルフがリコに何かを手渡した。

 

 リコは両手を胸の高さまで上げ、たった今受け取った物を皆に見せる。

 

「遊び心溢れる私は、こんなもんを用意しちゃいましたー!」

 

 長さ三十センチほどの棒が二本。色は対照的な赤と青。

 

 陸上競技で使われるバトンだ。

 

 手に持つそれを楽しげに見せつけながら、リコは眼前に立ち並ぶ十名のサラブレッドに向けて言った。

 

「日米対抗戦。五対五のリレー勝負。負けた側は一日限定で、勝った側の言うことを何でも聞く――ってのでどうかしら? 両チームのみなさん」

 

 


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