ウマ娘 Big Red Story   作:堤明文

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第八話「超大国(中編)」

 

 

 帯広の森陸上競技場。

 

 帯広市にある帯広の森運動公園の敷地内に設けられた、全天候型の陸上競技場である。

 

 八レーンからなるトラックはウレタン舗装で、一周四百メートル。そのホームストレート側には観覧席を備えた管理棟が併設されている。

 

 リコが皆を連れて移動した先は、そこだった。

 

「じゃ、みんなにはここで勝負してもらうわねー。走る順番とかはテキトーに決めてくれちゃっていいから」

 

「私達が走るには、少しばかり狭いコースな気がするが……一人あたり何メートルほど走ればいいのかな?」

 

 ドクターフェイガーが質問すると、リコは競技場全体を見渡しながら答えた。

 

「あんまりガチの勝負にしすぎちゃうと故障が怖いから、一人四百メートルってとこにしときましょう。このトラックを一周するごとに次の人に交代、って言えば分かるわね?」

 

「一周四百メートルのトラックを五周……全員合わせて二千メートルの勝負か。いいじゃん。面白そうだ」

 

 バックパサーが乗り気な様子で言う。

 

 他の面々も特に不満はなさそうな様子だったため、後は対抗戦の準備を済ませるだけかと思われたが――

 

「あー……話がまとまりかけてるとこ悪いんだけど……」

 

 一人だけ、全く乗り気でない者がいた。

 

 シガーだ。

 

「ボクは抜けさせてもらうね。さっき走ったばっかでダルいし。こんなお遊びで怪我でもしたらたまんないし」

 

 一方的に告げ、無人の観覧席へと歩いていく。

 

 座って観ているから自分抜きでやっててくれ、ということらしい。

 

 仮にも合宿に参加している身とは思えないその勝手ぶりには、流石のリコも一瞬唖然となった。

 

「待てシガー! そんな勝手が許されると思うか! ……的なテンプレ台詞をキレ気味に言って引き止めてくれる気はないの? アメリカのみなさん?」

 

 と言いつつアメリカ側の面々に視線を向けるが、反応は冷めたものだった。

 

「本人がやりたくねえっつってんだし、まあしょうがねえっしょ」

 

「頑固だからね、あの子は。ああ言い出したら説得するのは骨だよ。薬を使えばどうとでもなるが」

 

「やる気のない者は放っておけばよい。不都合なようなら私が二人分走っても構わん」

 

 バックパサーもドクターフェイガーもラウンドテーブルも、シガーを無理に引き止める気はないらしい。

 

 素行不良な娘に悩まされる母親のような顔で、シアトルスルーが溜息をつく。

 

「……申し訳ありませんが、四対四の対抗戦にしていただけますか? あの不心得者には後できつく言っておきますので」

 

「ま……ここでウダウダやってても仕方ないし、それでいいわ。じゃあ、こっちのチームからも誰か抜けてもらうことになるけど……」

 

「グラスでいいでしょう」

 

 口を挟んだのは、マルゼンスキーだった。

 

 どこか物憂げな顔をした後輩を一瞥してから、彼女は続ける。

 

「彼女も昨日イレネーさんとレースをしたばかりで、まだ疲労が抜けきっていません。ここで無理をさせるのは危険ですよ」

 

 進言の形をとっているが、それは事実上の強要だった。一切の反論を許さない強固な意思が、刺すような眼差しの奥から覗いていた。

 

 マルゼンスキーと目を合わせながら、リコは僅かに表情を険しくし――やがて観念するように、静かに目を瞑る。

 

「確かに、そうね……じゃあグラスちゃん、悪いけど今回は見学に回ってくれる?」

 

「……はい」

 

 グラスワンダーは頷く。その隣に立つエルコンドルパサーは親友の横顔に気遣わしげな視線を向けたが、何も言えなかった。

 

 腕時計で現在時刻を確認した後、リコは全員に告げる。

 

「てなわけでみんな、準備運動とか作戦会議とかをちゃちゃっと済ませちゃって。今から十分後に開始にするから」

 

 

 

 

 

 

 昨日の模擬レースを終えてから、グラスワンダーは口数が減った。

 

 沈んだ表情を見せることが多くなり、話しかけてもろくな反応が返ってこない状態が続いていた。

 

 それをもどかしく感じていたエルコンドルパサーだったが、どうすればいいのかは、彼女にもまだ分からない。

 

 目に見えて消沈している親友に、どんな形で接すればいいのか。

 

 どんな顔で向き合い、何を言い、何をすれば、夢を真っ直ぐに追い駆けていた頃の姿に戻ってくれるのか。

 

 いくら考えてもその答えが見つからず、思考の迷路に嵌まっていると――

 

「エルちゃん。…………エルちゃんってば」

 

 セイウンスカイの呼びかけが聞こえて、はっとした。

 

 見学に回ったグラスワンダーを除くチームの仲間達がこちらを見ていることに気付き、現在の状況を思い出す。

 

「もうすぐ始まるから、走る順番決めようよ」

 

「あ……そ、そうデスネ、スミマセン。ぼーっとしてました」

 

 対抗戦の開始まで、あと五分弱。既に両チームに分かれて話し合う段階に入っている。

 

 グラスワンダーのことは気がかりだが、今は目の前のことに集中しなくては。

 

 そう自分に言い聞かせて意識を切り替えたエルコンドルパサーは、仲間達を鼓舞するために普段通りの笑顔を作った。

 

「じゃあいきなりぶっちゃけますケド――実はこのリレー対決、ワタシ達にめちゃめちゃ有利デース!」

 

「「え?」」

 

 スペシャルウィークとキングヘイローが、揃って目を丸くする。

 

 セイウンスカイだけは心得ている様子で、冷静に応じた。

 

「ま、そうだろうね。有利ってのは言い過ぎかもしれないけど、勝ち目が全くないわけじゃない」

 

「……どういうこと?」

 

「普通に走ったんじゃ、向こうの面子に勝てる気は正直全然しないけど……リレーだからね、これは」

 

「バトンパスがミソデース。あっちの四人は一人で走るとみんな超強いですケド、チームプレーとか細かい芸とかには全然向いてマセーン。その手のことはてんで駄目デース。世界最低レベルって言ってもいいくらいデース」

 

「そ、そんなに酷いの……?」

 

「アメ公なんてそんなもんデース。ひたすら全力疾走して速いタイム叩き出せば勝てるとか思っちゃってる脳筋軍団デース。リレーなんかやらせたら途中でバトン落っことしたり受け渡しが上手くいかなくてグダグダになったりするに決まってマース」

 

「要はバトンパスが下手ってことだね。そこに付け入る隙がある」

 

 エルコンドルパサーの大袈裟な説明を、セイウンスカイが締め括る。

 

 キングヘイローはまだ腑に落ちない様子で、胡乱げに眉をひそめた。

 

「でも……私達だって威張れるほど上手くはないわよ? リレーなんて子供の頃にやったきりだし……」

 

「プロの陸上選手並に上手くやる必要はないデース。むしろ、ゆっくり慎重にパスするくらいが丁度いいデース。慌てなくても向こうは勝手に自滅しマース」

 

「完璧にやることよりミスしないことが重要、ってことね……それなら、まあ……」

 

 一応の納得をしたキングヘイローは、そこで気付く。

 

 隣に立つスペシャルウィークが、離れたところで話し合うアメリカ代表チームをじっと見つめていることに。

 

「どうかしたの? スぺ」

 

「……ドクターフェイガーさんは、何番目に走るのかな?」

 

「フェイガー? あの人なら、多分第一走者になるんじゃない? スタート抜群だし」

 

「なら、私がやる」

 

「え?」

 

「私が第一走者になって、あの人を叩きのめします!」

 

 その決然とした物言いには、キングヘイローだけでなく、エルコンドルパサーとセイウンスカイも面食らった。

 

 いつも走ることに対して積極的なスペシャルウィークだが、こういった形で自己主張するのは珍しい。

 

「やる気なのは結構だけど……リレーの第一走者ってスタートが上手い人がやるものよ? あなたって正直、その辺微妙じゃない? 割とよく出遅れるし……」

 

「今日は出遅れません! 誰もがあっと驚くようなロケットスタートを決めてみせます! それでそのままぶっちぎります!」

 

 かつてないほどの気迫を滾らせ、力強く言い切るスペシャルウィーク。

 

 彼女がドクターフェイガーと対決したがる理由を、セイウンスカイは察した。

 

「あー……スペちゃん、昨日お風呂でやられたからね……」

 

「やられたって……?」

 

「何か変な薬注射されて、心臓止まりかけてた。……ていうか、止まってた」

 

「……え? それもう、普通に犯罪じゃ……」

 

「とにかくっ!」

 

 囁き合うセイウンスカイとキングヘイローを黙らせるように、スペシャルウィークは声を張り上げる。

 

「今回は私がドクターフェイガーさんの相手をさせてもらいます! これだけはもう、誰に何言われたって絶対譲りませんから!」

 

「まあ……スペちゃんがそこまで言うなら、仕方ないデスネー……」

 

 自分が第一走者を務めるつもりだったとは今更言えず、苦笑を浮かべながら了承する他ないエルコンドルパサーだった。

 

 

 

 

 

 

 バックパサーは、エルコンドルパサーを見ていた。

 

 おどけた口調で陽気に振る舞い、冗談を交えながら仲間達を鼓舞している少女の姿に、鉄塊のように硬い眼差しを向けていた。

 

 そして――

 

「おい、シア」

 

 背後にいた三冠馬に、一つの要求をした。

 

「格で言うならお前がアンカーで決まりだろうが、今回はあたしに譲れ」

 

 突然そう告げられたシアトルスルーは、僅かに首を傾げる。

 

 自由気ままで傍若無人に見えるバックパサーだが、本人なりの節度のようなものがあるのか、無理に我を通そうとすることは滅多にない。

 

 それが今は、何故か強い口調で最終走者をやらせろと要求してきた。

 

 いったいどういう心境なのだろうかと疑問に思いつつ、年上の友人の背中をじっと見つめる。

 

 バックパサーとは、今回の代表チームを結成する前からの付き合いだ。しかしながらその性格には、未だ掴みきれない部分が多い。

 

「……別に構わないけれど、遊びはほどほどにね。パサー」

 

 釘を刺すように返答すると、バックパサーは振り返り、笑みを見せる。

 

 次いでその口から放たれた言葉は、奔放に生きる天馬の信条そのものだった。

 

「レースなんてもんは娯楽だろ? 遊ばねえでどうすんだよ」

 

 

 話し合いの結果、以下のような順番に決定した。

 

 日本代表チーム

 第一走者 スペシャルウィーク

 第二走者 セイウンスカイ

 第三走者 キングヘイロー

 第四走者 エルコンドルパサー

 

 アメリカ代表チーム

 第一走者 ドクターフェイガー

 第二走者 ラウンドテーブル

 第三走者 シアトルスルー

 第四走者 バックパサー

 

 

 

 

 

 

 対抗戦に不参加となったグラスワンダーは観覧席の最前列に座り、眼下のトラックを静かに眺めていた。

 

 そこに、青毛の大女が歩み寄る。

 

「隣、いいかい?」

 

「あ……はい」

 

 昨日の模擬レースで対戦した相手――イレネーだ。

 

 これから始まる対抗戦に彼女達重種馬の出る幕はないが、本人が見学を希望したため、代表チームの面々と一緒にこの場に来ていたのだ。

 

 グラスワンダーの隣の座席に腰を下ろし、イレネーは問いかける。

 

「あんたもアメリカの生まれって聞いたけど、あっちの連中とは知り合いなのかい?」

 

「いえ……齢が違いますし、アメリカは広いですから…………面識があったのは、あの黒鹿毛の人だけです」

 

「あのペンダントの奴か…………あれが一番強えんだろ? あっちの連中の中で」

 

「ご存じなんですか? あの人のこと……」

 

「いや、全然。……けど、見てりゃ何となく分かるよ。雰囲気がある」

 

 歴戦の猛者特有の直感めいたものが、鋭敏に働いたのだろう。

 

 無敗の三冠馬シアトルスルーを観察するイレネーの目は、その強さの本質まで見抜いているかのようだった。

 

「ま……雰囲気って点じゃ、あんたも負けてないけどね。種類は違うけどさ」

 

「え?」

 

「昨日のレースの時、すっごい形相であたしを睨んできたじゃないか。野獣みたいにごつい雄叫び上げながら」

 

「あっ――」

 

 グラスワンダーの顔が赤くなる。

 

 昨日の模擬レースにおける自身の言動を思い出し、火の出るような羞恥心が頭の中を染め上げた。

 

 そんな彼女を、イレネーは意地悪な笑みでからかう。

 

「あ、あれは……あれは、その……」

 

「久々だったねえ、あたしに真っ向から喧嘩売ってくる奴なんてのは。あの鬼みたいな形相見た時は、こいつマジであたしを殺す気なんじゃないかと思ったよ」

 

「す、すみません! わ、私、その……レースになると、興奮してしまって……」

 

 慌てて謝罪すると、イレネーは笑みの質を少しだけ変えた。

 

 穏やかで優しげなそれは、言葉では表せない感情をいくつも含んだ、複雑な笑みだった。

 

「いいさ。そういう奴が好きなんだよ。あたしは……あたしらばんえい馬は、みんなね」

 

 どこか遠くを見るような目をして、静かに言葉を紡ぐ。

 

「互いに譲れないもんを懸けて勝負してんだ。良い子やってる必要なんかない。喧嘩上等、罵声浴びせながらぶつかり合って当然だよ。野蛮だの何だのってよく言われっけどさ、あたしらはそれが楽しくってばんえい競馬やってたんだ」

 

 彼女とて競走馬だ。自身の半生を捧げた競技に対する誇りと信念を持っている。

 

 決して恵まれているとは言えない環境で戦いながら、胸に抱き続けてきた想いがある。

 

「だから、さ……ずっと、勝負がしたかったんだ」

 

「え……」

 

「あんたらとの勝負さ。いつもテレビの向こうにいる中央競馬のGⅠ馬と、いっぺんでいいから本気でやりあってみたかったんだ。……笑っちまうだろ? あたしも自分で笑ったよ。んなこと出来るわけねーだろ馬鹿、種族の違いとか競技の違いとか考えろよって、てめえにつっこみ入れながら……それでも何でか、そんな想いが捨てられなくって……ついあんたらの合宿にも顔出しちまった」

 

 イレネーは思い出す。

 

 昨日の模擬レースの終盤、遥か後方から追い上げてきた少女の姿を。

 

 火砕流が押し寄せてくるような、灼熱の闘志を。何があろうと燃え尽きない激情を宿した、強い眼差しを。

 

 あの時確かに覚えた、熱い胸の高鳴りを。

 

 結末は望んでいた形にはならなかったが、それでも――

 

「あんたのおかげで、夢が叶ったよ。――感謝してる」

 

 沁み透るような声音で、イレネーは告げた。

 

 そこに込められた想いの深さを、グラスワンダーは瞠目したまま感じ取る。

 

「イレネーさん……」

 

 名を呟くと同時に、昨日の苦い記憶が蘇り――湧き上がる後悔と罪悪感に、胸を締めつけられた。

 

「…………私は……」

 

 イレネーの気持ちは、素直に嬉しい。感謝を伝えられて嫌なわけがない。

 

 けれど、昨日の自分の走りは、それを受け取るに値するものだっただろうか。本気の勝負がしたかったという真摯な想いに、十分な形で応えられたと言えるだろうか。

 

 そんなわけがない。今思い返してもあれは、恥じ入るしかないくらい無様な走りだった。

 

 ゴールにさえまともに辿り着けなかったあの結末では、たとえ相手が納得してくれたとしても、自分自身が納得出来ない。

 

 本気の勝負がしたかったのは、自分も同じだ。

 

 死力を尽くしてゴールまで駆け抜けたかった。あの勝負に勝ちたかった。

 

 自分の本当の力を、この屈強な重種馬に見せてやりたかった。

 

 なのに――

 

「はははははっ」

 

 頭上から降る、笑い声。

 

 それが聞こえた方を振り仰ぐと、三列後ろの席に座るシガーと目が合った。

 

「そいつを慰めてあげたつもり? 見た目はごついのに優しいんだね、おばさん」

 

 彼女は笑っていた。皮肉を口にしながら、グラスワンダーとイレネーのやりとりを茶番と断じて嘲笑っていた。

 

 だが、剣呑な光を放つ二つの瞳は、全く笑っていない。

 

「だから駄目なんだよ、お前らは。勝負師気取りのくせに、頭の中はお花畑だ。負けて落ち込んでる姿が可哀想だから慰めてあげようって? 温すぎて話にならない」

 

「何ッ」

 

 イレネーの表情に、はっきりと不快の色が滲む。外見に反して温厚な彼女でも、今の発言は聞き捨てならなかった。

 

 席から立ち上がり、傲岸不遜な短髪の少女を睨みつける。

 

「口が悪いのもいい加減にしなよ、チビスケ。あたしは――」

 

「GⅠ馬を間近で観たかったんだろ? おばさん」

 

 機先を制するように、シガーは言った。

 

「だったら大人しく、座って観てなよ。すぐに本物が観られるからさ」

 

 アメリカ屈指の実力者の両眼が、グラスワンダーを――母国の競馬から逃げた落伍者を、冷たく見下ろす。

 

「そいつらみたいな紛い物とは違う、本物のGⅠ馬……本物のサラブレッドの強さが、ね」

 

 

 

 

 

 

 開始一分前。

 

 エルコンドルパサーの耳は、自分に歩み寄る者の靴音を聞いた。

 

「まさか、あの時のガキと並んで走る日が来るとは……分からねえもんだよなぁ、人生ってのは」

 

 振り向いた先にいた長身の女――バックパサーは、笑みを浮かべながらそう言った。

 

 その表情は今の状況を楽しんでいるようであり、久方ぶりに会った後輩を嘲笑っているようでもある。

 

 おそらくその両方なのだろうと、表情を引き締めながらエルコンドルパサーは思った。

 

「どうしたよ? あたしとやり合いたかったんだろ? 望み通りになったんだから、もうちょい嬉しそうにしろよ」

 

「……憶えてたんですね。あの時のこと」

 

 相手の顔を見返し、素の口調で応じる。

 

 バックパサーとは親しいわけではなく、縁というほどの縁もない。しかしながら、これまで一面識もなかった他人同士というわけでもない。

 

 会って、言葉を交わしたことがあるのだ。まだアメリカにいた頃に、一度だけ。

 

 自分にとっては忘れられない出来事だったそれは、相手にとっても同じだったらしい。

 

「そりゃあな。ただでさえイラついてた時にうざったく絡んできたクソチビのことなんざ、忘れられるわけがねえ」

 

「……その意趣返しのつもりですか? さっきから、やたら私に絡んでくるのは」

 

「違えよ、バーカ。確かにあの時はマジギレしたが、今は別にイラついちゃいねえし根に持ってもいねえ。今はあれだ。単にお前とじゃれ合う気分になっただけだよ」

 

 不敵に笑ったまま、バックパサーは目を細める。

 

 値踏みするようなその眼差しに、エルコンドルパサーは言い知れぬ重圧を覚えた。

 

「世界一の競走馬になりたい……だったよな? お前の夢は」

 

「……っ」

 

「今はどうだ? ガキの頃のアホな夢は捨てちまったか? それとも――」

 

「捨てていません」

 

 きっぱりと、エルコンドルパサーは言い切った。

 

 赤いマスクから覗く双眸に、不屈の意思を宿して。

 

「私は今でも、世界一を本気で目指しています。何があっても、その夢だけは絶対に捨てない」

 

 昨年の凱旋門賞では、あと一歩のところで栄冠を逃した。

 

 けれど、まだ挑戦は終わっていない。胸の奥に灯る炎は消えていない。

 

 現役を続ける限り何度でも挑戦し、必ずや世界一の称号を掴み取る――それが彼女にとっての「競馬」であり、生きる道そのものだった。

 

 世界一を諦めるくらいなら、とうに競馬の世界から去っている。

 

「だよな。そうでなきゃ面白くねえ」

 

 そう言って身を翻したバックパサーは、悠然とした足取りで芝生を踏み、トラックのスタートラインへと向かっていく。

 

「気張って走れよ。アメリカ最強でさえないあたしに勝てねえようなら、夢のまた夢だからな。世界一なんてのは」

 

 遠ざかる大きな背中を、エルコンドルパサーは無言で見つめた。

 

 かつて「理想のサラブレッド」と讃えられ、人々の憧憬と羨望を一身に集めた天馬、バックパサー。

 

 その変わり果てた姿に、複雑な思いを抱きながら。

 

「あの人と知り合いなの? エルちゃん」

 

「ええ…………昔、ちょっと……」

 

 すぐ後ろにいたセイウンスカイに問いかけられ、短く答える。

 

 詳細を語る気にはなれなかった。出来ることなら忘れてしまいたいほど、苦い記憶だったから。

 

「……昨日、お風呂であの人と会ったんだけどさ…………体つきを見た瞬間、分かったよ」

 

 セイウンスカイは呟く。

 

 バックパサーの後ろ姿に注ぐ視線に、深い畏怖を滲ませて。

 

「信じられない……今まで見たことないくらいの、化物だ」

 

 

 

 

 

 

 そして、開始の時が来た。

 

 両チームの第一走者――スペシャルウィークとドクターフェイガーが、バトンを手にしてスタートラインに立つ。

 

「フェイガーさん……私は忘れてませんからね、昨日のこと」

 

 隣のレーンでスタートの体勢をとる対戦相手に、スペシャルウィークは言った。

 

「おかげさまで、あの後は地獄を見ました。……ええ、本当に地獄を見ましたよ。まさに生死の境をさまよったって感じです。シアトルスルーさんが応急処置をしてくれなかったら、今頃どうなってたか……」

 

 昨日の臨死体験を思い返しながら、額に青筋を立てる。

 

 今彼女の胸中では、怨念の黒い炎が激しく燃え盛っていた。

 

「何かもう、同じ目に遭わせるくらいのことはしても許されるような気さえしてくるんですけど……私は競走馬なので、恨みとかそういうのはレースで晴らします。今日は私の全力全開の走りであなたのプライドをへし折――」

 

「――黙れ」

 

 言葉を遮る、低い声。

 

 それは、ドクターフェイガーの口から発せられたものだった。

 

「レース前に無駄口を叩くな」

 

 スペシャルウィークの背筋を、鋭い悪寒が走り抜ける。

 

 声に反応して斜め後ろを向いた彼女は、その表情を見てしまった。

 

 硬く冷たい、氷の仮面じみた顔。黒縁眼鏡の奥で凍てついた光を放つ、猛禽の如き両眼。

 

 天を衝く岩峰を思わせる、果てしなく峻厳な気配。雑念を一片残らず削ぎ落とした者だけが見せる、極限の集中。

 

 ほんの数分前までとは、何もかもが別物だ。

 

 超大国アメリカの競馬史に、「最速」の伝説を刻んだ名馬――世界最強の短距離馬の素顔が、そこにあった。

 

「遺恨は一旦脇に置いて、レースに集中しろ。スペシャルウィーク」

 

 スターターの役を務めるシンボリルドルフが、冷静に告げる。

 

「でないと、勝負にならない」

 

「――っ」

 

 その忠告で、スペシャルウィークは悟った。

 

 自分が今、自分より遥か格上の強者に挑もうとしていることを。

 

 シンボリルドルフの言う通り、余計な感情を抱えた状態で走っては、勝負の体をなさないまま突き放されるであろうことを。

 

 脚を開いてスタートの体勢をとりつつ、気を引き締め直す。

 

 今はレースのことだけを考えろと自分自身を叱咤し、前方を真っ直ぐに見据えた。

 

 両者の準備が完了したところで、シンボリルドルフは手にしていたスターターピストルを上空に掲げる。

 

 一拍の間を置いて引き金が引かれ、競技場に乾いた音が鳴り響く。

 

 その直後、嵐が吹き荒れた。

 

「なっ――!?」

 

 スタートしてから一秒も経たない内に、スペシャルウィークは瞠目した。

 

 隣のレーンで開始の号砲を待ち、自分と全く同時に走り出した筈のドクターフェイガーが、既に自分の遥か先にいる。

 

 雄大なフォームのストライド走法でトラックを蹴り、嵐の如き烈風を生み出しながら突き進んでいる。

 

 静から動へと瞬時に転じる、非現実的なまでの瞬発力。

 

 そこからさらに急加速し、敵を置き去りにして独走状態に突入する、異次元の脚力。

 

 格の違いを思い知らせるには十分な、恐るべき走りであったが――そんなものはまだ、ドクターフェイガーの実力の一端に過ぎなかった。

 

(嘘……そんな……)

 

 スペシャルウィークは絶望の淵に落とされた。

 

 彼女自身も絶好のスタートを決め、全力を振り絞りながら走っているにもかかわらず、相手との差が広がる一方だったからだ。

 

(まだ……速くなっていく……!?)

 

 ドクターフェイガーの加速が、止まらない。

 

 一秒ごとに、一歩前に踏み出すごとに、その疾走は凄絶な変貌を遂げていく。

 

 嵐が激しさを増すように、内燃機関が回転数を上げるように、速度の上限など存在しないかのように、際限なく加速を続けていく。

 

 スペシャルウィークの全力疾走など、何の意味もない。

 

 無限の加速力を持つドクターフェイガーの前では、止まっているに等しい。

 

 六馬身、七馬身、八馬身、九馬身と差は広がり、十馬身を超えてもなお広がる。どこまでも広がり続ける。

 

 速い。何の小細工もなく、ただ純粋に速い。

 

 スペシャルウィークがこれまで見てきたどのサラブレッドよりも、桁違いに速い。

 

 ダート一マイルの世界記録保持者ドクターフェイガーの脚は、信じ難いほどに速すぎる。

 

「あっ……はぁっ……はぁっ……」

 

 走り出して数秒後、スペシャルウィークは何も考えられない状態に陥っていた。

 

 四百メートルのトラックを一周するだけの、時間にすれば三十秒足らずの競走が、不思議なほど長く感じた。

 

 超大国の名馬との間にあった、覆しようがない力の差。

 

 それを思い知り、心が砕けてしまったのだ。

 

 

 

 

 

 

 観覧席に座るグラスワンダーとイレネーは、ドクターフェイガーの嵐の如き剛脚を目の当たりにして、共に言葉を失っていた。

 

 そんな二人を嘲笑いながら、シガーは言う。

 

「アメリカ競馬界には、永久に更新不可能とされているレコードタイムが、二つある」

 

 ただのレコードタイムとは違う、誰がどんな走りをしても絶対に更新出来ない、永久不滅のスーパーレコード。

 

 それを競馬史に刻めるのは、唯一無二の力を持つ究極の名馬だけ。

 

「一つは、史上最強の三冠馬セクレタリアトがベルモントステークス優勝時に記録した、二分二四秒〇。……そしてもう一つが、ドクターフェイガーがワシントンパークハンデキャップを制した時に記録した、一分三二秒二。今後百年二百年と競馬が続いたとしても決して破られないと言われる、ダート一マイルの世界レコードだ」

 

 その事実が示す通り、ドクターフェイガーはアメリカ競馬史上最速の名馬。

 

 短距離路線の絶対王者であり、競馬が続く限り忘れられることのない世界記録保持者。

 

 純粋な脚の速さという一点に限れば、全盛期のマンノウォーやセクレタリアトでさえ、彼女には遠く及ばない。

 

「坂も何もない平坦なトラック、僅か四百メートルの超短距離戦……この条件で、ドクターに勝てる奴はいないよ。世界のどこにもね」

 

 

 

 

 

 

 スペシャルウィークに記録的な大差をつけてトラックを一周したドクターフェイガーは、第二走者のラウンドテーブルにバトンを渡した。

 

 青いバトンを左手で握り、鋼鉄の騎士が走り出す。

 

 その数秒後にスペシャルウィークから赤いバトンを受け取ったセイウンスカイは、遥か先を行く相手との差を縮めようとしたが――走り出してまもなく、重大な問題に直面した。

 

(コーナーが……きつい……!)

 

 全力疾走しながら突入した、最初のコーナー。そこを上手く曲がれない。レーンに沿って無駄なく進むことが出来ず、どうしても外に膨れてしまう。

 

 走り慣れた競馬場のコーナーとの違いを、彼女は痛感する羽目になった。

 

 走る速度が上がれば上がるほど、コーナーを進む際に発生する遠心力は大きくなり、外に膨れずに走ることが困難になる。外に膨れるというのはその分だけ長い距離を走らねばならなくなるということであり、必然的にゴールに到達するまでの時間も長くなる。

 

 時速六十キロメートルもの速さで走るサラブレッドにとって、陸上競技用のトラックは狭すぎるのだ。一周四百メートルしかないトラックの急すぎるコーナーを無駄なく完璧に曲がるなど、彼女達にはまず無理な芸当と言っていい。

 

 だが――数少ない例外が、ここに一人。

 

 常識を力技で粉砕する鋼の名馬が、易々と不可能を可能にしていた。

 

(頑丈さだけが取り柄だって……? よく言うよ……)

 

 遥か先を行く相手の姿を見ながら、セイウンスカイは戦慄を覚える。

 

(何だよ……あのコーナーワーク……!)

 

 ラウンドテーブルの脚にドクターフェイガーほどの速さはない。されど、長年に渡り独自の鍛錬を積み重ねたその身体には、ドクターフェイガーとは別種の強さが具わっていた。

 

 それが、卓越したコーナーワーク。

 

 彼女は狭いトラックを何ら苦にせず、レーンの内側沿いの最短距離を見事に曲がりきっているのだ。

 

 遠心力などこの世に存在しないかのように、自身の最高速度を維持したままで。

 

(化物め……!)

 

 セイウンスカイは内心で毒づくが、どうにもならない。技術、経験、身体能力の全てで劣る彼女に、ラウンドテーブルの真似は到底出来ない。

 

 両チームの差は縮まるどころか、さらに広がっていった。

 

 

 

 

 

 

「ラウンド先輩をただの痛い女だと思っちゃいけない。伊達にボールドルーラーやギャラントマンとやりあってきてないよ、あの人は」

 

 疾走するラウンドテーブルに目を向け、シガーは語る。

 

「本人は頑丈さだけが取り柄だなんて言ってるけどね……あの人の真価は、こういう小回りのコースで発揮される。普通の奴ならとても曲がりきれないような急カーブでも、あの人は難なく曲がれる。最高速度を維持したまま最短距離を疾走出来る」

 

 直線で無類の強さを誇るドクターフェイガーとは対照的に、ラウンドテーブルは曲線で本領を発揮する。

 

 どのような形態のコースでも問題なく最内を突けるその技能は、最早異能の域だ。

 

 日本代表チームのエルコンドルパサーもコーナーワークを得意とするタイプだが、ラウンドテーブルのそれと比較してしまえば、雲泥の差があると言わざるを得ない。

 

「それを可能にしているのは、並外れた体幹の強さ」

 

 ラウンドテーブルの胴体の中心――鋼の筋肉で構築された体幹を、シガーの目は注視する。

 

「自分より才能に恵まれていたライバル達の背中を追い駆け、誰も真似出来ないようなトレーニングを重ね……狂気に近い執念で練り上げたあの体幹は、もうほとんど鋼鉄の柱だ。どこからどんな力が襲ってきたってびくともしない。時速六十キロの速さが生む遠心力を無視して走りきるなんて出鱈目も、涼しい顔でやってのける」

 

 体幹とは、広義においては胴体の全て、狭義においては腹腔という腹部の内臓が詰まった部位を囲う筋肉の総称。インナーマッスルとも呼ばれるそれらは言わば肉体の要であり、それらが強靭なことは姿勢の制御能力に長けることを意味する。

 

 競馬に限らずあらゆる運動競技において、一流となるためには必要不可欠とされる素養の一つだ。

 

 GⅠ級のサラブレッドは皆、鍛え抜かれた体幹を持っているが、その中にあってもラウンドテーブルの体幹の強さは突出している。

 

「……頭の方さえもう少しまともなら、素直に尊敬出来るんだけどね」

 

 世の不条理を嘆くように、シガーは呟く。

 

 この後に待つ「落ち」を、彼女は半ば確信的に予想していた。

 

 

 

 

 

 

 リレー競技においてバトンパスが行える区間を、テイクオーバーゾーンという。

 

 トラックを一周してきたラウンドテーブルがそこに踏み入りかけたところで、第三走者のシアトルスルーは走り出した。

 

 そのまま、バトンを受け取るため後ろに手を伸ばし――

 

「ハアアアアアアアアアアア――――ッ!」

 

「は?」

 

 異様な雄叫びを聞いて、珍しく呆けた顔をした。

 

 次の瞬間ラウンドテーブルがとった行動は、果たしてバトンパスと呼んでいいものだったのだろうか。

 

 全力疾走しながら何故かバトンを両手で握り締めた彼女は、そのまま剣を振りかぶるような姿勢になり、全身から純白の闘気を迸らせる。

 

 それがバトンの上端へと集中し、光輝く闘気の刃を形成。邪悪を滅ぼす聖性を帯びたその刀身を、シアトルスルーの胴体めがけて振り下ろした。

 

 当然、そんな必殺剣を受け止められる筈もなく、シアトルスルーは横に跳んで緊急回避。

 

 代わりに落雷のような一撃を受けた地面は、轟音と共に爆裂。ウレタンの破片が飛び散った後に残ったのは、底が見えないほど深い裂け目だった。

 

 シアトルスルーが避けなければどうなっていたかは、最早語るまでもない。

 

「……随分と殺意のこもったバトンパスですね、先輩…………さっき剣と鎧を取り上げたのがそんなにお気に召さなかったのですか?」

 

「い、いや……そういうわけではないのだが……何というか、こう……棒状の物を持つとつい全力で振り下ろしたくなるというか……長年の鍛錬で染み付いた癖というか……」

 

「…………いいですから、とりあえずバトン下さい」

 

 気まずそうに弁明するラウンドテーブルに、シアトルスルーは色々なものを諦めた様子で言った。

 

 そんなグダグダが続いている間に、両チームの立場は逆転。セイウンスカイからバトンを受け取ったキングヘイローが、シアトルスルーを置き去りにして突き進む。

 

「すごいけど……アホだわ、あの人……」

 

 呟きつつ、何とも言えない気分を顔に出す。

 

 ここまでは概ね、開始前にエルコンドルパサーが予見した通りの展開だ。

 

 アメリカならではの大雑把さというよりは、ラウンドテーブル個人の問題な気がするが――ともあれ、盛大にやらかしたことに変わりはない。

 

 おかげで絶望的だった大差がひっくり返り、自分達の勝利が見えてきた。

 

 無論、まだ安心出来るような状況ではない。遥か後方に置き去りにしてきたとはいえ、自分の相手は無敗の三冠馬シアトルスルー。このまま簡単にいくわけがないことは百も承知だ。

 

 凄まじい脚で猛追してくるだろうから、このリードもいつまでもつか分からない。

 

 もしかしたら、追いつかれてしまうかもしれない。

 

 だが、残りの距離はほんの数百メートル。ここから再逆転を許した後に大差をつけられるとまでは考え難い。そんな出鱈目は流石にないと信じたい。

 

 それに、こちら側の最終走者はエルコンドルパサー。

 

 総合力ではチーム随一を誇る、世界の強豪にも引けを取らない日本の怪鳥。

 

 何とかこのまま、少しでもリードした状態で、彼女にバトンを渡せれば――

 

(――え?)

 

 コーナーを曲がり終え、バックストレートに突入した瞬間。信じられない光景を目にして、キングヘイローは呆然となった。

 

 自分の前方に、誰かがいる。

 

 隣のレーン上を、黒鹿毛のサラブレッドが颯爽と駆けている。

 

 数秒後、それが置き去りにしてきた筈のシアトルスルーだと気付き、頭の中で疑問が渦巻く。

 

(何で、前に――!?)

 

 確かに抜かした筈だ。彼我の距離は相当に広がっていた筈だ。

 

 それなのに何故、置き去りにされた事実など最初から存在しなかったかのように、自分の前を平然と走っているのか。

 

 不可解だ。訳が分からない。

 

 いつ抜き返されたのか分からない。気付いた時にはもう、自分の数馬身前にいた。

 

 何故抜き返されたのかも分からない。どこか淡々としたその走りからは、力強さや凄まじさといったものを欠片ほども感じない。

 

 こちらを一瞬で抜き返すほどの速さで走っているようには見えないのに、何故――

 

(――違う!)

 

 そこまで考えて、認識の誤りを悟った。

 

 速くないわけがない。速いのだ。途轍もなく。

 

 相手が桁外れに速いからこそ自分は抜き返され、今も差を広げられ続けているのだ。

 

 にもかかわらず迫力の類を全く感じないのは、端的に言えば自然だから。

 

 トラックを蹴る動きが、流れるような脚運びが、重心の移動が、腕の振りが、呼吸のリズムが――何もかもが自然で一切の無駄がないから、速く走っているように見えないだけなのだ。

 

 その事実に気付いた時、キングヘイローの意識を占めた感情は、驚愕ではなかった。

 

 格の違いを思い知ったが故の絶望でも、これ以上離されてはならないという危機感でもなかった。

 

 彼女が抱いたのは、もっと特別な感情。

 

 一部の隙もなく完成されたものを目にした時、誰もが本能の域で抱く想い。

 

(――綺麗)

 

 美しさに見惚れるという、素朴で純粋な心の動きだ。

 

 シアトルスルーの疾走は美しい。四肢を動かして前に進むというだけの行為が、まるで磨き抜かれた至芸のような印象を見る者に与え、心を奪う。

 

 何の変哲もないごく普通の走りだが、他の競走馬のそれとは、完成度が違うのだ。

 

 凡庸でありながら非凡。誰でも出来るようでいて、その実他の誰にも出来ない、競馬の正道を極めた疾走。

 

 偉大なる三冠馬が見せた力の一端に、キングヘイローは心底から感銘を受け――

 

「ヘイローさん! 呆けてないで、早く!」

 

 エルコンドルパサーの呼びかけで、我に返った。

 

 見ればシアトルスルーは既にバトンパスを終えており、最終走者のバックパサーが走り出している。

 

 今は勝負の真っ最中。しかも残すところはあと一周のみという、重要な局面だった。

 

 エルコンドルパサーの言う通り、呆けている暇はない。

 

 早くバトンを渡さなくては。

 

「くっ……!」

 

 慌てて急加速しテイクオーバーゾーンに踏み入ったキングヘイローは、バトンを持つ手を前に伸ばす。

 

 走り出しながらそれを受け取ったエルコンドルパサーの表情は、苦渋に満ちていた。

 

 相手側に再逆転を許してしまった今、勝利はもう絶望的だ。

 

 あのバックパサーに――アメリカ代表チームの副将格とも言える相手に、遥か後方から追い駆ける形で走り出して敵うわけがない。

 

 けれど、諦めるわけにはいかない。

 

 この勝負には負けたくない。どんな形であれ、あの女には負けたくない。

 

 勝機が皆無に近い苦境だが、自分の力でどうにかしてみせる。

 

 そう思い、前方を力強く見据えたエルコンドルパサーは、次の瞬間凍りついた。

 

「――っ」

 

 数十メートル先に、赤黒のテンガロンハットを被る女が立っている。

 

 走っていない。立っている。

 

 何を思ったのかレーン上で立ち止まり、首だけを後ろに向け、こちらを見ている。

 

 鋭い眼差しに、侮蔑の色を滲ませて。

 

「可哀想だから追いつかせてやるよ。特別サービスだ」

 

 泥を投げつけるように放たれた、挑発の言葉。

 

 それを聞いた時――エルコンドルパサーの中で、何かが弾けた。

 

「舐めるなぁ――ッ!」

 

 怒号を上げ、肉体の出力を全開にして、相手の待つ場所へ敢然と駆けていく。

 

 その激情の熱を肌で感じながら、バックパサーは笑った。

 

 獰猛に。

 

 酷薄に。

 

 悪辣に。

 

 無力な虫ケラを弄ぶように、嗜虐の笑みを浮かべたのだった。

 

 


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