ウマ娘 Big Red Story   作:堤明文

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第九話「超大国(後編)」

 

 

 国や時代を問わず、強く優れた存在が放つ輝きは、多くの人々を惹きつける。

 

 人ならざる生物が主役となる競馬の世界でも、それは同じだ。傑出した能力の持ち主は名馬と讃えられ、競馬を愛する人々から大きな夢を託される。

 

 とはいえ、そうなれる者はごく僅か。宝石のような才能を持って生まれ、不断の努力によってそれを磨き上げた、心身共に申し分ない本物の天才だけ。

 

 その日、ベルモントパーク競馬場で行われたGⅠ競走――第九十八回シャンペンステークスを制した少女は、そんな天才の一人だった。

 

「それでは勝利馬インタビューに移りましょう。優勝おめでとうございます」

 

「ありがとうございます」

 

 アナウンサーにマイクを向けられ、柔らかな笑顔で応じる。

 

 デビューしてまだ半年も経たない身でありながら、その振る舞いは堂に入っており、若さにそぐわない風格さえ漂わせていた。

 

「八月のホープフルステークスに続く二度目のGⅠ制覇となりましたが、今の率直なお気持ちを聞かせて下さい」

 

「以前から目標にしていたレースに勝つことが出来て、ほっとしています。長い間お世話になったトレーナーや応援して下さった方々に、これで少しは恩返し出来たかと」

 

「勝利を確信されたのは、どのあたりでしょうか?」

 

「GⅠレースですし、強い人が揃っていましたから、最後まで気は抜けませんでした。重圧から解放されて勝利の実感が湧いたのは、ゴールを過ぎてしばらく経ってからです」

 

「来年の大目標は、やはりケンタッキーダービーですか?」

 

「トレーナーと相談してからになりますが、おそらくそうなるかと思います」

 

「既にクラシックの大本命という声も上がっていますが、それについてはどうでしょう?」

 

「評価していただけるのは嬉しい限りですが、私自身はまだまだ足りないところばかりだと思っています。もっと練習に励んで課題を一つ一つ克服していかなければ、クラシックの舞台では通用しないかと」

 

 五ヶ月の間休みなく走り続け、十一戦九勝という破格の成績。世代の頂点を決める大レースも制し、翌年のクラシックの最有力候補と目されていた、期待の新星。

 

 それが容姿端麗な上に品行方正、温和な人柄で誰よりも向上心に溢れた努力家となれば、声望を集めない道理はない。

 

 彼女が質問に答え、透き通った美声が場内に響く度、観覧席に詰めかけていた人々は沸き立ち、胸を高鳴らせていた。

 

 多くの者が、夢を見ていたのだ。

 

 自分達の前に現れた美しき天馬が、この先も栄光の階段を上り続け、やがてはアメリカの競馬史を塗り替えるほどの存在へと上り詰める――そんな、英雄譚のように華々しい夢を。

 

「――では最後に、応援して下さったファンの方々に対してメッセージをお願いします」

 

 そう求められると、少女は僅かに顔を上げ、観衆に目を向けた。

 

 日溜まりのような微笑みを湛え、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「競馬場に足を運んで下さった皆さん、そしてテレビの前にいる皆さん、応援ありがとうございます。皆さんの温かなお声が、いつも私に力と勇気を与えてくれます。またこうして皆さんの前に立てるよう頑張りますので、今後も私の走りを見守っていただけたら幸いです」

 

 強く、気高く、美しく、穏やかで清廉な令嬢。夢幻の世界からそのまま抜け出てきたかのような、サラブレッドの理想像を体現する天馬。

 

 彼女の名は、バックパサー。

 

 後にアメリカ全土に悪名を轟かせる女の、若き日の姿だった。

 

 

 

 

 

 

「パサーさん! パサーさん!」

 

 表彰式の後、帰り支度のため競馬場内の控室に向かっていたバックパサーは、呼び止められて振り返った。

 

 自身の背後――細長い通路の真ん中に立っていたのは、見知らぬ子供。

 

 何故か赤いマスクを被った、十一、二歳ほどの少女だった。

 

「突然ですけどお願いがあります! ここにサインください! サイン!」

 

 溌剌とした笑顔でそう言って、マスクの少女はサイン用の色紙とペンを差し出す。

 

 バックパサーは眉をひそめた。

 

「ここは関係者以外立ち入り禁止ですよ。小さなお嬢さん」

 

「はい! 知ってます! でも私どうしてもパサーさんに会いたくって、人生初の潜入ミッションに挑戦しちゃいました! 他の人に見つかる前にトンズラしますから、ここにサインください!」

 

 悪びれもせずに言ってのけられ、さしものバックパサーも若干たじろぐ。

 

 どうやらこの子供は自分のファンで、何が何でも直筆のサインを手に入れたいらしい。

 

 そのために立ち入り禁止の区画まで入り込んでくるとは、随分と大胆な子だ。

 

 小さく溜息をついて周囲を見回し、他に誰もいないことを確認してから、差し出された色紙とペンを受け取った。

 

「……仕方ありませんね。じゃあ、今回だけ特別ですよ」

 

「やった!」

 

 少女が飛び上がって喜ぶ様を見て、苦笑する。

 

 実のところ、この手の子供に寄ってこられたのは、これが初めてではない。

 

 次代の競馬界を担う存在として注目を集めていたバックパサーには、既に老若男女を問わず熱狂的なファンが数多くおり、サインや握手を求められる機会は飽きるほどあった。

 

 よって、対応も慣れたものだ。

 

 すらすらとペンを走らせながら、優しい声音で少女に問う。

 

「あなた、名前は?」

 

「エルコンドルパサーです!」

 

「El Condor Pasa――コンドルは飛んでいく、ですか。良い名前ですね」

 

「はい! パサーさんの名前とそっくりですよね! 何かもう、すごく運命的なアレを感じます!」

 

「言語も綴りも違いますよ、私のパサーとは。それに、私の名前は――」

 

「今日もすごくかっこよかったですね、パサーさん! あの激強メンバー相手に四馬身もちぎっちゃうなんて、シビれました!」

 

「……聞いてませんね」

 

 興奮しているためか、話が今一つ噛み合わない。

 

 まあそれだけ自分を慕ってくれているということだろうと思い、苦笑しながらサインを書き終えた色紙を手渡そうとすると――

 

「――パサーさん、いつまで現役でいてくれますか?」

 

 不意を突くように、そんな問いを投げかけられた。

 

 バックパサーは戸惑う。

 

「いつまで、って……?」

 

 怪訝な顔で問い返すと、マスクの少女――エルコンドルパサーは、溌剌とした笑顔のまま言った。

 

「私、再来年には競走馬の育成機関に入ります。そこで本格的にトレーニングを積んで、レースに出て……それでいつか、パサーさんが目標にするような大レースにも出走してみせます! だから、それまで現役でいてください! お願いします!」

 

「……一緒に走りたいのですか? 私と」

 

「はい! 一緒に走りたいです! それで、パサーさんに勝ちたいです!」

 

 その言葉には、憧れだけでバックパサーに寄り集まる他の子供達とは違う、力強い意思が宿っていた。

 

「世界で一番強いサラブレッドになるのが、私の夢です! そのためにはパサーさんと同じくらい……ううん、パサーさんより強くならなきゃ駄目なんです! だから、パサーさんが現役の内に挑戦して勝たなきゃいけないんです!」

 

「……目標にしていただけるのは嬉しいですが、私が競馬界の頂点というわけじゃありませんよ。国内にも国外にも、私より強い人なんていくらでもいます」

 

「そんなことないです! 今まで色んな人を見てきましたけど、パサーさんが一番です!」

 

 目を輝かせながら言うエルコンドルパサー。

 

 澄み切ったその眼差しを受け、バックパサーは感じずにいられなかった。

 

 傷口を押し広げられるような、耐え難い痛みを。

 

「強くて、綺麗で、優しくて、他の人の何倍も努力してて……本当に、すごい人だって思ってるんです……! 私の理想です!」

 

「……っ」

 

「お父さんも、お母さんも、クラスの友達も……みんな言ってます! パサーさんは特別な人だって。神様から全部の才能を貰って生まれてきたみたいな、理想のサラブレッドだって。だから、私は――」

 

 通路に響く、乾いた音。

 

 それを聞いた瞬間、エルコンドルパサーは言葉を止め、息を呑んだ。

 

「パサーさん……?」

 

 目に映るものが、信じられない。

 

 自分が渡した色紙が――サインをもらって、一生の宝物にするつもりだったそれが、床に叩きつけられている。

 

 目の前に立つ、憧れの人の手によって。

 

「あなたが……」

 

 震える声が、その唇から零れる。

 

 憎悪に塗れた瞳が、幼い顔を抉るように見据える。

 

「あなたみたいな、勝手な人がいるから……私は……」

 

 この時、エルコンドルパサーは見た。

 

 笑顔の仮面を被り、人々の理想像を演じ続けていた少女の、真実の貌を垣間見たのだ。

 

 そしてそれが、幼心に抱いた幻想を終わらせた。

 

「私に挑戦したいなら、勝手にすればいい。……けれど、あなたを待つような真似をする気はありません」

 

 エルコンドルパサーから視線を切り、バックパサーは歩き出す。

 

 長い通路に静かな靴音を響かせながら、最後に冷たく言い放った。

 

「あなたのような子供と違って、私は…………遊びで走っているわけではありませんから」

 

 

 その数ヶ月後、バックパサーは「変貌」した。

 

 破竹の勢いで連勝を続け、幾つもの大レースを制し、現役屈指の強豪という評価を不動のものにしていった彼女だが――暴行事件をはじめとした数々の問題行動を起こし、輝かしい経歴に自ら泥を塗るようになる。

 

 彼女に憧れ、「理想のサラブレッド」と讃える者は、一人もいなくなっていった。

 

 

 

 

 

 

 競技場に鳴り響き、重なり合う足音。

 

 トラックを切り裂く烈風と化し、熱戦を演じる二人。

 

 日本とアメリカを代表する稀代の名馬――エルコンドルパサーとバックパサーが、互いに一歩も譲らぬままホームストレートを駆け抜け、最初のコーナーに突入する。

 

「クハハハハハハハッ!」

 

 バックパサーの口から、笑声が放たれた。

 

 かつての気品に満ちていた姿からは想像もつかない、下品で獰猛な哄笑だ。

 

「四百メートルしかねえってのに、何ちんたらジョギングしてんだぁてめえ! まさかそれが全力だとか、んなクソしょぼいことは言わねえよなぁ!?」

 

「……っ!」

 

 真横から煽られ、エルコンドルパサーの顔に苦渋が滲む。

 

 彼女は力を抑えてなどいない。スタート直後から肉体の出力を全開にし、自身の限界に挑むような激走を続けている。

 

 にもかかわらず平然とついてくるどころか、愉快げに大笑いしてさえいる相手の力量には、心底から震え上がらずにいられなかった。

 

(強い……!)

 

 直線での走力が極めて高い上に、コーナーワークも完璧。

 

 先程ラウンドテーブルが見せたものに勝るとも劣らない動きで最短距離を回りながら、こちらに嘲りの目を向けている。

 

 外見も性格も、以前とは別人のように様変わりしたバックパサー。

 

 しかしながら、誰もが羨むほど圧倒的な競走能力だけは、「理想のサラブレッド」と讃えられていたあの頃のままだ。

 

 その事実が――正直なところ、受け入れ難い。

 

 バックパサーの名を騙る偽者を見ている気分になり、胸の奥の何かが激しく燃え上がる。

 

「どうしたよ! 世界一を目指すってのは口だけかぁ!? 言うだけなら誰でも出来んだよ間抜け! ご大層な夢語んのは実力が伴ってからに――」

 

「調子に――乗るなぁっ!」

 

 バックストレートの半ばを過ぎ、残りの距離が二百メートルとなった瞬間。エルコンドルパサーは上体の前傾を深め、ストライドを伸ばした。

 

 勝負の行方を見守っていた仲間達が瞠目するほどの急加速で約二馬身の差をつけ、第三コーナーに突入。今度はコーナーワークに適したピッチ走法へと即座に切り替え、距離損を最小限に抑えて突き進む。

 

 肉体にかかる重い負荷を意思力で捻じ伏せた、限界以上の激走。それによって得た僅かなリードを維持しながら、激怒を込めて言い放つ。

 

「夢も誇りも何もかも捨てて、二番手みたいな立ち位置で安穏としてるあんたが……偉そうに語るな! あんたみたいに簡単に放り捨てられるほど、私の夢は安くないんだッ!」

 

 人々の憧れの的だった頃のバックパサーは、ただ強いだけではなかった。

 

 遠目に見ても感じる気高さがあった。筋の通った信念があった。飽くなき向上心があった。競馬の世界の頂点を目指す気概があった。

 

 だからこそ多くの人々に愛され、大きな期待をかけられていたのだ。

 

 自分も、彼女の将来に夢を見た。彼女のようになりたいとさえ本気で思い、その背中を追い駆けようとした。

 

 けれど今のバックパサーには、その頃の魅力が一片も残っていない。

 

 何があったのか知らないが、彼女は気高さも信念も向上心も気概も捨て去り、見る影もないほど醜悪な姿に堕ちてしまった。

 

 幻滅するな、という方が無理な話だ。

 

 いや、自分の中に溜まったこの感情は、単なる幻滅や失望より遥かに重い。

 

 今のこいつには負けない、こんな奴には絶対に負けたくないと、魂を燃え上がらせながら強く願う。

 

 その意思を胸に肉体を限界以上に酷使したエルコンドルパサーは、第四コーナーを通過してホームストレートに入ると、再びストライドを大きく伸ばす。

 

 そしてそのまま、最後の力を振り絞ってゴールに駆け込もうとし――

 

「――勝ったつもりか? それで」

 

 声を聞いた。

 

 血が凍りつくような、冷たい声を。

 

「少し気合い入れて走って、何馬身か差をつけたから、それでもう勝てると? 十分頑張ったから、格上の相手にだって勝てる筈だと? 本気で思ってんのか、てめえ」

 

 残り約五十メートル。最早ゴールは目前と言える地点で、バックパサーは突如として走法を変えた。

 

 脚を、高く振り上げる。

 

 曇天に蹴りを叩き込むかのように、異常なほど高く。

 

「そんな甘い考えだから、安っぽい戯言にしか聞こえねえんだよ。てめえの夢は」

 

 全体重と全筋力を込め、真下に向かって振り下ろされる脚。それが地面に触れた瞬間、エルコンドルパサーは聞いた。

 

 大地が激震し、大気が爆ぜる音――天まで轟く爆音を、その耳で聞いたのだ。

 

 

 

 

 

 

 バックパサー。

 

 通算戦績三十一戦二十五勝。

 

 ホープフルステークス、シャンペンステークス、トラヴァーズステークス、ウッドワードステークス、ジョッキークラブゴールドカップ、メトロポリタンハンデ、サバーバンハンデなど、数々の大レースを制した実績を持つ、アメリカ競馬史上屈指の名馬。

 

 しかしながら、実績以上に眩い輝きを放つのは、その肉体。

 

 彼女の立ち姿を見た者はその美しさに目を奪われ、走る姿を見た者はその凄まじさに驚嘆する。

 

 神の手による芸術作品とさえ思えるほどに、その肉体は非の打ち所がないからだ。

 

 鋼の強さと絹のしなやかさを併せ持つ、硬軟自在の筋肉。

 

 激戦や連戦をものともせずに走り切る、強靭無比な骨格。

 

 底なしの持久力を生み出す、並外れた心肺機能。

 

 大きすぎず小さすぎず、太すぎず細すぎず、重すぎず軽すぎず、競走馬として最適なバランスを寸分の狂いなく成り立たせる、理想的体格。

 

 筋力、持久力、瞬発力、耐久力、柔軟性――それら全てが超一流。全てが規格外。

 

 競馬の神に愛され、全てを与えられて生まれてきたかのような、眩いばかりの才能の塊。

 

 サラブレッドの理想形と呼ぶしかない彼女を、ある専門家はこう評した。

 

「通常のサラブレッドには、およそ百の欠点がある。――しかしながらバックパサーというサラブレッドには、ただの一つの欠点も存在しない」

 

 その見解に異を唱える者は、誰一人とていなかった。

 

 

 

 

 

 

 ウレタン舗装のトラックを砕く、絶大なる衝撃。

 

 それを爆発的な推進力へと転化し、バックパサーは一直線に駆ける。

 

 高く振り上げた脚を地面に叩きつける動作を繰り返し、ダイナマイトが爆発するような音を幾度も響かせ、地を這う雷光となって突き進む。

 

 勝利を手にする寸前だったエルコンドルパサーは、懸命に目指していたゴールラインさえ見失うほど驚愕した。

 

(これは――――!?)

 

 大地を揺るがす衝撃。天まで轟く爆音。火砕流が押し寄せる光景を思わせる、恐るべき灼熱の気配。

 

 間違いない。

 

 これは、グラスワンダーの――

 

「ハアアアアアアアアアアア――――ッ!」

 

「――っ!」

 

 理解した時には、もう手遅れだった。

 

 いや、事前に察知していたとしても、対処は不可能だっただろう。

 

 圧倒的暴威の剛脚により、ゴール寸前での逆転を果たすバックパサー。そのまま彼女はエルコンドルパサーに一馬身半ほどの差をつけ、ゴールラインを先頭で通過した。

 

 それが、日米対抗戦の決着。

 

 両チームの最終走者が走り終え、勝敗が決した瞬間だった。

 

 立ち止まったバックパサーは、汗ばんだ首にまとわりつく髪をかき上げた後、観覧席に目を向ける。

 

 そして唇を曲げ、視線の先で青褪めた顔を晒している少女に笑いかけた。

 

「大体こんな感じだろ? お前さんの自慢の走りは」

 

 グラスワンダーは何も言えない。

 

 両目を限界まで見開き、驚愕と困惑と恐怖が綯い交ぜになった視線をバックパサーに向けるばかりだった。

 

 当然だろう。自分だけの走法と信じていたものと全く同じものを見せられて、平静でいられるわけがない。

 

「何で……」

 

 肩で息をしながら、エルコンドルパサーが呟く。

 

「何で……その走法を……」

 

「何でそれが出来んのかって? あたしを誰だと思ってんだよ、お前」

 

 バックパサーは振り返り、不遜な笑みを敗者に向ける。

 

「ザコのしょぼい芸なんざ、動画で一回見りゃ簡単に真似出来る。てめえらとは違うんだよ。身体と頭の作りがな」

 

 その発言に衝撃を受けたエルコンドルパサーは、同時に思い出す。

 

 バックパサーというサラブレッドの真価――「ただの一つの欠点も存在しない」と専門家に言わしめた、本当の理由を。

 

 ただ脚が速いだけではない。体格に恵まれているだけでもない。

 

 この女は、全てを持っている。

 

 競馬で勝つために必要な能力を、一つ残らず神から与えられて生まれてきた、正真正銘の天馬なのだ。

 

 故に万能。真なる意味で完全無欠。馬場も距離も関係なくあらゆる条件に適応し、当然のように勝利を積み上げる、究極のオールラウンダー。

 

 自分の目標――だった存在。

 

「――半端だよ、お前は」

 

 表情から笑みを消し、バックパサーは言った。

 

「力も速さも技術も覚悟も……何もかもが、そこらの奴に毛が生えた程度だ。一緒に走ってて怖いと思える部分が一つもねえ」

 

 全ての面で自分に遠く及ばない半端者を見据え、夢の大きさに見合わない力量を咎める。

 

「あたしを本気にさせることさえ出来ねえような実力で、世界一を目指してますってか? 笑わせんな」

 

 エルコンドルパサーは反論出来ない。

 

 終始弄ばれたまま敗北を喫した彼女に、反論を口にする資格はない。

 

 地面に目を落とし、今にも砕けそうなほど奥歯を噛み締めながら、悔しさに耐えるしかなかった。

 

「お前みたいなのは万能とは言わねえ。ただの器用貧乏ってんだよ。間抜け」

 

 初めてだったかもしれない。

 

 レースで勝てないことが、これほどまでに辛く感じたのは。

 

 

 

 

 

 

 観覧席に座るグラスワンダーは、蒼白な顔で固まっていた。

 

 バックパサーが披露した、「叩きつける走法」――それによってもたらされた衝撃は、未だ消えていない。

 

 むしろ、時間が経つほどに精神の奥深くまで浸透し、彼女を支えていたものを揺るがし始めていた。

 

「驚いただろ? 自分だけの技能だと思ってたものが、完璧な形で真似されて」

 

 そんなグラスワンダーを、シガーは嘲笑う。

 

「パサーにとっては造作もないことさ。あの人が完全無欠の競走馬と呼ばれるのは、パワーやスピードに優れてるってだけの話じゃないんだ」

 

 優れた肉体を持つだけなら、どこにでもいる普通の天才。

 

 その才能を十全に生かす技術と頭脳を持ち併せていなければ、完全無欠とは到底言えない。

 

「観察力、記憶力、身体操作に関する理解力……そうした部分も並外れてる。誰のどんな技能でも、大抵は一目見ただけで真似出来るんだよ。本人以上の完成度でね」

 

 戦慄を覚えたグラスワンダーは、バックパサーの姿を凝視した。

 

 シガーの言うことが誇張のない事実なら、エルコンドルパサーを一瞬で抜き去ったあの剛脚さえ、本人にとってはただの真似事――切り札でも何でもなく、ただ遊び半分に披露しただけの芸にすぎない。

 

 遊びを交えず本気で走っていれば、エルコンドルパサーを五馬身以上離して圧勝することも可能だっただろう。

 

 あれだけの強さを見せていながら、実力の半分も出してはいなかったのだ。

 

 それは、他の面々も同じ。

 

 ドクターフェイガーも、ラウンドテーブルも、シアトルスルーも、この対抗戦で見せた力が全てではない。誰もが実力を隠している。

 

 そんな連中の慣らし運転のような走りに、自分の仲間達は完敗したのだ。

 

「……っ」

 

 分かっていた。

 

 日本とアメリカが対等ではないことも、アメリカの名馬が規格外の化物ばかりなことも、まともに戦えば万に一つも勝ち目がないことも、嫌というほど分かっていたつもりだった。

 

 それでもやはり、認識が甘かったと言わざるを得ない。

 

 超大国アメリカの頂点にいる連中は――自分が背を向けた故郷の名馬達は、想像を超えて強すぎる。

 

「勝った側は、負けた側に何でも要求していい……という話だったわね? 確か」

 

 思考を断つ、鋭い声。

 

 はっとして下を向くと、観覧席のすぐ傍まで来ていたシアトルスルーと目が合った。

 

「今夜十時、旅館の裏手にある駐車場に来なさい。話があるから」

 

 敗者の側の一人であるグラスワンダーに、その要求を拒む権利はなかった。

 

 

 

 

 

 

「よう。確かコーチ役だったよな? あんた」

 

 競技場を囲うフェンスの手前に立っていたマルゼンスキーに歩み寄り、気安い調子で声をかけたのは、バックパサーだった。

 

 その顔には、獰猛な笑みが貼り付いている。

 

「暇ならちょいと相手してくれねえか? 走り足りねえんだ」

 

「……私と勝負したいってこと?」

 

「んな大袈裟なもんじゃなくたっていいさ。そこのトラックを一周か二周する程度だっていい。ザコの相手ばっかしてると身体が鈍っちまうから、たまには強え奴とやりてえんだよ」

 

 戦意を剥き出しにした申し出に、マルゼンスキーは小さく溜息をつく。

 

「そういうことなら、うちの監督にお願いした方がいいわよ。あの人なら喜んで相手してくれるでしょうから」

 

「ありゃ駄目だ」

 

 即答したバックパサーは、管理棟の前に立つリコに鋭い眼差しを向ける。

 

「史上四人目のアルゼンチン四冠馬……現役の頃は相当なバケモンだったんだろうが、今じゃその頃の力は半分も残ってねえよ。一瞬のキレは使えても、長い脚が使えなくなっちまってる」

 

 単なる侮りや見下しとは違う。非凡な洞察力を持つ天馬は、リコというサラブレッドの実体を正確に捉えているようだった。

 

 マルゼンスキーに視線を戻し、興味深げに続ける。

 

「その点、あんたは違うだろ? 老けても壊れてもいねえし、今が全盛期真っ只中だ。その気になれば、この国の頂点くらい楽に獲れる力がある」

 

「……随分と評価してくれてるようだけど、買い被りすぎよ。私はそんな大した奴じゃない。あなたほどの実力者と渡り合う力はないわ」

 

「枷を嵌めた状態では――な」

 

 欺瞞を暴くように言われ、マルゼンスキーは硬直した。

 

「あたしも昔は不自由を強いられてたクチだからな。見りゃ分かるんだよ。似たような奴のことは」

 

 誰よりも優れた能力を持ちながら、栄光とは無縁。

 

 無敗であっても頂点ではなく、歴代の王者と同列に扱われることもない、陰の実力者。

 

 そんな立場にマルゼンスキーが甘んじている理由を、バックパサーは見抜いていた。

 

 その脚に嵌められた見えない枷が、天馬の目には見えていた。

 

「お行儀よく走って周りに納得してもらうのも結構だが……いつもそれじゃつまらんだろ? たまには思う存分走ってスカっとしようぜ、なぁ?」

 

 誘惑するように、どこか甘い声音で言葉を重ねる。

 

 マルゼンスキーは表情を引き締め、怒りに近い感情を瞳の奥に灯しながら、返答を口にした。

 

「私は……遊びで走ってるわけじゃない」

 

 その発言は、奇しくも酷似していた。

 

 自由を奪われていた頃のバックパサーが、自身を慕う少女に放った言葉と。

 

「あなたが枷と呼ぶものは、誰かに強制されたものじゃない。私が自分の意思で嵌めたものよ。後悔はしていないし、苦痛も感じていない」

 

 同類と見なされることを拒み、冷徹に告げる。

 

「求められれば練習相手くらいは務めるけれど、そちらの期待に沿うような真似をする気はないわ。気分良くなるためだけに危険を冒すなんて、馬鹿らしいから」

 

「そうかい。そりゃ残念だ」

 

 最初から、相手が誘いに乗るとは思っていなかったのか。バックパサーは笑みを浮かべたまま、納得した様子で引き下がった。

 

 身を翻し、チームの仲間達が集まる方へと歩き出す。

 

「割とマジでやりたかったんだが、そっちがその気になってくれねえなら仕方ない。諦めてザコ共と遊んでるよ」

 

 そして、最後に――自らの意思で不自由を選んだ女に背を向けながら、自由のために多くのものを捨てた女は、独り言を呟くように告げた。

 

 かつてとは真逆の主張に、かつてより何倍も強い意思を乗せて。

 

「てめえが気分良く走れるかどうか……それが一番大事だと思うんだけどな、あたしは」

 

 

 

 

 

 

 道の脇に立つ電柱に、拳を思いきり叩きつける。

 

 激痛が脳髄を駆け巡り、顔をしかめたが、そんな痛みはどうでもいいとしか思えなかった。

 

 胸を圧し潰す敗北の重みの方が、何百倍も耐え難かったから。

 

「ぐっ……!」

 

 午後十時。旅館の外に出たエルコンドルパサーは、近くの路地に一人佇みながら、半日前の敗北を噛み締めていた。

 

 何の意味もない行動だと自覚していたが、そうせずにはいられなかった。

 

 一人になって頭を冷やす時間を作らなければ、感情が爆発してしまいそうだったのだ。

 

「何で……あんな……」

 

 あの決着の瞬間が、脳裏に蘇る。何度も何度も繰り返し蘇り、自分を支えていたものに深い亀裂を入れる。

 

 どうして自分は、あんな無様に負けてしまったのだろう。

 

 いいように弄ばれた挙句、無抵抗に等しい形で抜き返されてしまったのだろう。

 

 世界の頂点を目指して、血反吐を吐くような鍛錬を重ねてきたのに。もう誰にも負けないと、固く誓っていたのに。

 

 そんな自問を重ねたが――いくら考えても、答えは明白だった。

 

 弱いからだ。

 

 実力が足りないからだ。

 

 ありとあらゆる面で、バックパサーに遠く及ばなかったからだ。

 

 相手より劣っていたから負けたという、至極単純な理屈。悔しくて受け入れ難いが、受け入れなければ一歩も前に進めない。

 

「負けない…………今度こそ……絶対に……」

 

 電柱に触れたままの拳を震わせ、奥歯を噛み締める。

 

 今の自分がバックパサーに敵わないなら、今の自分より強くなろう。積み重ねた努力が足りないなら、さらに積み重ねよう。

 

 そして、次に戦う時は勝つ。

 

 神に愛された完全無欠の天馬を、真っ向勝負で打ち破ってみせる。

 

 屈辱と悔恨を呑み下し、敗北の痛みを胸に刻みつけながら、誓いを新たにした時――

 

「悪いわね。こんな夜中に来てもらって」

 

 聞き覚えのある声を、耳が拾った。

 

 反射的に振り返ると、数十メートル先の駐車場に、人影が二つ。

 

 街灯の光に照らされるその姿を見て、エルコンドルパサーは怪訝な顔になる。

 

(シアトルスルーと……グラス……?)

 

 幼馴染の間柄らしい二人の少女が、僅かな距離を置いて向き合っていた。

 

 こんな時間に何をしているのだろうと疑問に思い、エルコンドルパサーは足音を殺してその場に近寄り、様子を窺う。

 

 二人はそれに気付かず、互いに目の前の相手だけを見据えたまま会話を続けた。

 

「……何ですか? 話って」

 

「あなたの今後についての話よ」

 

 静謐な色を湛えた瞳が、栗毛の少女の瞳を覗き込む。

 

「あなたの競走成績は、私も一応把握してる」

 

「……っ」

 

「現在までに十二戦九勝。主な勝鞍は昨年と一昨年の有馬記念、昨年の宝塚記念、そして三年前の朝日杯……立派な成績ね。充分に一流と言えるわ。ワールドカップの日本代表に選ばれたのも頷ける」

 

 幼馴染の実績を讃える言葉を述べてから、黒鹿毛の少女は冷静に続ける。

 

「けれど――最強には、程遠い」

 

 その宣告の重みを、グラスワンダーは苦い顔で受け止めた。

 

 否定したくても、否定出来ない。

 

 小さな島国の中で燻る今の自分が、幼い頃に夢見た「最強」から程遠い存在であることは、言われるまでもなく自覚していた。

 

「同等以上の実績の持ち主は日本国内に何人かいるし、世界では未だ無名に近い。イギリスのミルリーフやフランスのシーバード、オーストラリアのファーラップ……そのレベルの歴史的名馬を相手に頂点を争うだけの資格があるとは、残念ながら言えないわ」

 

「……知ってますよ。そんなこと」

 

 苛立ちを露わにして、グラスワンダーは言い放つ。

 

「だから何だって言うんですか? 資格がないから諦めろって? 人を上から見下ろして好き勝手言うのが、そんなに楽しいですか? そんなに私が――」

 

「今のままでいいの?」

 

 言葉を遮り、シアトルスルーは問う。

 

 意図の読めないその質問に、グラスワンダーは当惑した。

 

「え……?」

 

「あなた自身は、現状に満足しているのか……と訊いたのよ」

 

 澄んだ声音に強い意思を滲ませて、無敗の三冠馬は言葉を紡ぐ。

 

「別に咎めているわけじゃないわ。目標とは自分の意思で決めるもの。そこには上下も貴賤もない。今立っているその場所が、あなたが揺るがぬ信念をもって歩んだ道のゴールなら……これ以上とやかく言う気はない」

 

 幼馴染の顔を真っ直ぐに見据える眼差しは、普段の彼女が他者に向けるそれとは、何かが決定的に違っていた。

 

「けれど、そうでないなら……あなたが本気で、今いる場所より先へ進みたいと思うなら……」

 

 肌を刺す夜風が吹き抜ける、暗闇の中。

 

 迷える少女に道を示すように、シアトルスルーは告げた。

 

「アメリカに帰ってきなさい。グラス」

 

 それは、三年前の冬――否定と非難を続けた末に投げかけた言葉と、全く同じだった。

 

 その時と同じ言葉を、その時より遥かに強い想いを込めて、彼女は再び口にしたのだ。

 

 最強を目指して競い合った幼き日の親友を、輝く未来へ連れていくために。

 

「私が、あなたを生まれ変わらせてあげる」

 

 息を呑む音が、同時に二つ。

 

 偶然にも重なったそれは、当事者たるグラスワンダーと、離れたところで会話を盗み聞いていたエルコンドルパサーが発したものだった。

 

 

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