おーかみさまとのごはん 作:きまぐれワン公
「マスター、これは君の大切なものじゃないかね」
「……! これは、どこで?」
「書斎だよ。上から落ちて来たんだ」
「うそ、そんなところにあったんだ……。
ずっと、ずっと探していたのよ。これ」
「フッ、それは良かった。
だが、大事なものほど見失い易いもの。
くれぐれもその辺に投げておくなどと―――」
「はいはい、わかっているわよ!
全く、小煩いわねえ……」
街に古くからその姿を留める屋敷の1つ。
広大な敷地の中に立つそこには、年若き少女と、青年が暮らしていた。
上品な家具に囲まれた部屋で、ソファーに座り紅茶の入ったカップを手に優雅な時間を過ごしていた少女―――凛へと、1冊の本が差し出される。
赤い表紙の分厚い本には、拙い字で『神さまとであった日』と書かれてあった。
「……中、見てないでしょうね」
「やれやれ、私がそんな無作法な真似をするとでも?」
「そう。なら良いわ」
胸にぎゅっと本を抱き締めた凛は、本を差し出して来た男をじとりと見上げた。
軽い溜息を吐いたその男は、肩を竦めてそう返すとちらりとその本に視線を向ける。
「ふむ。それほど見られては困ることが書かれているとなると……話は別だ。
その本は君にとっての弱点となり得る。となると、マスターたる君を守る
「はあ、回りくどいわねえ。素直に知りたいですって言ったらどうなの?」
男の斜に構えた態度に呆れた顔をした凛は、本に視線を映すと「まあ、良いわ」と呟いた。
そうしてその指で背表紙をなぞると、少しだけ瞳を朧にさせる。
まだ少女の凛にとって、過去はそう遠いものではない。しかし、その“記憶”だけは、他のものとは比べ物にならない速度で遠ざかっていくのだ。
「あれは、そう―――。
わたしがまだ、冬木に住んでいなかった頃。
……小学生の時だったかしら」
思い起こそうとする度に遠ざかる記憶を懸命に掘り起こしながら、彼女はゆっくりと口を開いた―――。
あれは、そう。とある事件が起きて、わたしのお友達が消えてしまった。
だからわたしは誰にも言わずに、この街に足を踏み入れたわ。
ええ、とても暗い夜だった。
星も月の無い、とっても暗い夜のこと。
街灯だけが照らす道を歩いて、路地に入って……。
その先がどうしても思い出せないのよ。
憶えているのは―――神社。
そこは街灯すらなかったけれど、何故か鳥居の朱色がはっきりと見えたわ。
暗くて細い路地を通って来たわたしは、それを見て“安心”したの。
不思議ね。夜の神社なんか不気味でしかないのに。
石階段を上がって、鳥居の前に立った時―――わたしは、見た。
……うん、大丈夫。でもこの先は本当に思い出せないの。
わたしは、確かにそこで……。見た。
それからずっと探している。
だって、一緒に戦ってくれた大切なお友達だもの。
形は思い出せないけれど、思い出そうとするだけで胸がぽかぽかしてくるのよ。
―――あいたい。でも、見つからないの。
普段とは違う“抑えられた”声に、鬼気迫るものを感じて男は目を細めた。
魘されるように凜は、もう一度「あいたい」と呟くと口を噤んでしまった。
***
『神様、神様、どうか……どうか私の願いを叶えてください』
『どうか、想い人に振り向いてくれますように―――』
『どうか、病気が治りますように―――』
『どうか、あの人が幸せになりますように―――』
『どうか、然るべき罰が下されますように―――』
今日も今日とて、からんからんと鈴が鳴り、手を叩く音が神社に響く。
ぴくりと耳を傾けながらも、俺は神社を飛び出した。
“人間として”“ありのまま生きる”ことはとても難しいことである。
1人の幸せが、周りの不幸せになることもあるのだ。
故に神は気紛れなのだ。むしろ気紛れでなければならない。
手と手を合わせて捧げられる願いは、千差万別。すべてを叶えていたら神といえど身が持たないというものだ。
「お、わんこ。今日も元気だなあ。
饅頭でも食べるかい?」
「おはよー。相変わらず呑気な顔してんな。
お前は良いな自由で。ああ、なんで俺はこれから出勤なんだ……。
サンドイッチでも食べるか? 胃がもたれちまって受け付けねえんだよ」
「よっ、犬コロ! 今日は何処に行くんだい。
刺身でも食ってきな。切れ端で悪ぃが、味は良いぜ!」
まあ、それでも……多少の隠れ好感度というものは存在する。
誰だって、親切にされれば親切で返したくなるし、嫌なことをされれば嫌なことで返したくなるものだ。これは人でも神でも変わりはない。
神社を出て駅の方へと少し歩くと、道行く人々が頭を撫で、餌付けをしてくれる。
俺を神扱いしているのは、13の筆神たちだけ。人から見ればちょっとばかし大きな犬なのである。
取り留めのないことを冒頭から垂れ流してしまったけれど、まあ何が言いたいかというと、俺にはそう大層な力はないということだ。
俺に出来ることは、こうして毎日冬木市を歩き回って散策することだけ。
はじめはとても不審がられてしまったけれど、今では先ほどのように頭を撫でてくれたり、食べ物をくれたりするので、住民たちと良好な関係を築けているのではないだろうか。うむ、これもまた良いことだと思う。
「―――ああっ!?」
会う人会う人に撫でまわされ、餌付けをされていると、あっという間に朝が昼になり、昼が夕方となる。今日も中々に良い一日であったと帰路に着いていると、前方からそんな叫び声が聞こえて来た。何も考えずに歩いていたので、思わずびくりと体が跳ねてしまった。
そんな俺に構うことなく、声の主はずんずんと此方へと近付いて来た。
「アンタ、こんなところで一体何してんのよ。
あんまりこの辺をうろついていると、酷い目に合うわよ」
艶のある黒髪を2つに結い上げた、勝気な目の少女は、俺のオトモダチであり“天敵”である。いやはや、この体の一番の良いところはこのような美少女が寄って来てくれるところであろう。“幼い頃”から将来有望だと思っていたが、さらにこの先が楽しみだ。
「ねえ、ちょっと! 聞いているの―――シロ!」
「きゃんっ!」
ぎゅっと尻尾を握られて引っ張られる。なんてことをするんだ、俺のふわもこな尻尾に禿げでも出来たらどう責任を取ってくれるというのか。
「なによ、文句あるの!? 吼えてないでなんか言ってみなさいよ」
犬に対する言葉とは思えないほどの暴言である。
このお嬢は、外面はとてもおしとやかだが、中身はコレだ。
この分だと番い……じゃなかった、彼氏が出来るのは当分先になりそうだと、思わず遠い目をしていると、思いっきり睨まれた。
「もうあったま来た!
今日こそは、連れて帰ってやるんだからっ……!」
トモダチであり天敵と言った理由は、これである。
一応神様となったのだから“誰にも飼われない”ことを信条としている俺に、この少女はとてもひどいことをするのだ。『極上の食材を使った料理を餌として誘き出したり』、『良いかおりのするシャンプーで洗って、丁寧にブラッシングしてくれたり』して、俺を居つかせようとする。挙句の果てには、“シロ”と勝手に命名してくれたので、いつしかそれが広がり冬木市での俺の名前は“シロ”となった。
「相変わらずポアっとした顔しちゃって。
……アンタは良いわねえ。呑気でいられて」
ひどい言い草であるけれど、その目がちょっぴり寂しそうに見えたから、特別に足に擦り寄ってあげた。するときょとんとした顔になり、すぐに嬉しそうな笑顔が咲く。
すると、少女からぽんっと“幸せの証”である桃色の玉が現れ、すうと俺の体に入っていく。これは“幸玉”というのだそうだ。例え些細なことであっても、人が幸福を感じた証で、俺や筆神たちにしか見えないものらしい。これを集めると良いことがあると、桜の精霊が言っていたっけ。
「シロ、帰るわよ」
「わんっ」
こうして俺の長い散歩は、誰かが迎えに来てくれることによって終了する。
何処に行っても誰かしらと遭遇するのだから、不思議なものである。
神様となってわかったことは、神様というのは高貴な存在であるけれど、身近な存在であるということだ。人間に紛れて生活していたり、人間の家で寛いでいたりと、何よりも近く何よりも遠い存在なのかもしれない。
「今日はどうしましょうか。
思いっきりお肉が食べたい気分なのよねえ、アタシ」
「わふんっ!」
「でしょ? アンタもそうだと思ったわ。
でも今日はアイツいないし、……ううんどうしようかしら」
「わんわん」
「アタシに料理をしろって? アンタ何様のつもりよ」
古い町並みが続く通りを2人で……1人と1匹で歩いていると、何だか懐かしいような気持ちになるのは何故だろう。ノスタルジックに浸るとはこのことか。
オレンジ色に染まる夕暮れの時は、もの悲しく、うつくしい。
迫り来る宵闇を背に、不思議と成立する会話を続けていると、不意に立ち止まった少女はくるりと振り返り俺の前に立った。
手を後ろに組んで、俺と目を合わせるその姿は……。
うん、もう完全にヒロインである。
「ま、まあ……どうしても、アンタが食べたいっていうんなら……。
特別につくってあげなくもないけど」
ああ、もう完全にヒロインである。
なんで俺この姿をしているのだろうと思うけれど、この姿じゃなかったら相手もしてくれないんだろうなあ。本当に、この世は無情である。