カラード本部 地上1階 リンクス専用ラウンジ
その夜、ダンはカラード本部のリンクス専用ラウンジに繰り出した。昼間にメルツェルから直接勧誘を受けたことによって心情に若干の揺らぎが生じた故の行動であり、何より今の彼には心の安らぎが必要だったのだ。重厚な木製の扉を開けると、店主であるレイが深夜ラジオの下世話な話をBGMにグラスを手際良く拭いている。
『いらっしゃ……おっ、一人なんて珍しいな。ダン』
『そういう気分の時くらい僕にだってあるよレイさん。ゴールドファーマーのロックとミックスナッツを貰える?』
『あいよ。――にしても一人飲みなら別の良いとこに行ったらどうだ? コーヒー出してる兼業バーのレベルなぞ高が知れてるだろ』
『コーヒーが美味い店は総じて酒も美味しいって経験則に従ってだけだよ』
『喜んでいいものかねぇ? まっ、素直に褒め言葉として受け取っておくさ』
挨拶代わりの軽口を交わしたダンはカウンターに腰掛けて注文の品が出てくる暫しの間、深夜ラジオの下世話な話に耳を傾ける。『彼女との夜の相性がすこぶる悪くどうしたらいいか』という相談にラジオMC曰く『メールだと分からないからとりあえず一回彼女を抱かせてくれ』だとか、『インテリオルのミッション仲介役が好きで堪らない。どうしたらいいか』という相談に『アレだけは止めとけ』とか、しょうも無く下らない話ばかり。しかしダンは市井は未だ一応の平和を保っているのだと実感出来るツールとしてこのラジオを非常に気に入っていた。
『――ほれ、ゴールドファーマーのロックとミックスナッツ。オマケでドライフルーツもつけといたから感謝しろよ』
『ありがとう。レイさん』
レイから差し出されたグラスではゴールドファーマーが美味そうな濃い琥珀色をしており、鼻を近づけるバニラとシナモンを合わせたような甘い匂いの中に若干のケミカルさが見え隠れする独特な香りがする。その隣にはカシューナッツやアーモンド等が入り混じったミックスナッツの小皿とリンゴとマンゴーのドライフルーツの小皿が置かれ、バーボンのアテとしてはこれ以上ないラインナップであった。
ダンはまず一口、ゴールドファーマーを
そうしてしばらく一人の時間を楽しんだダンはグラスのゴールドファーマーが空になったタイミングで、会計を済ませるために視線をカウンター内に送るが肝心のレイがどこにもいない。それどころかいつの間にか深夜ラジオの下世話な音声も消えており、まさに誰もいない空間になっている。
『……? レイさん、どこに?』
『気にするな。少し
不意に背後から男性の声が聞こえた。厳かな雰囲気を漂わせる声にダンは一瞬目を見開くも、すぐに諦めたような表情を浮かべてゆっくりと振り返った。何故なら彼は声の主の正体を知っており、自身の力でどうこう出来る相手ではないと分かっていたからだ。そこに立って居たのはクリーム色のチュニックに身を包み、威厳有る口髭を蓄え、白髪を丁寧に撫でつけ、顔に無数の深い皺が刻み込まれた老齢の男性だった。
『まさかこのタイミングで干渉してくるとは思いませんでしたよ』
『中々厄介なのに絡まれたようだな。相変わらず運のないヤツだ』
『この世界に転生させた時点で運もなにもないでしょう?』
『確かにな』
老齢の男性は薄く笑うと手の平にワイングラスを出現させ、グラスの底から芳醇な色の赤ワインを湧き出させる。この世の
『……やはり全てを救うのは傲慢なのでしょうか』
『どうだろうな。人間とは欲の生き物だ。何かを欲するのは当然だと言える。それが神への勝利だとしても』
『ずいぶん他人事みたいに喋りますね』
『このゲームの主催は
神様はそこまで言うと赤ワインを一気に飲み干して再びグラスの底から赤ワインを湧き出させた。やはり何度見ても不思議な光景にダンは思わず息をつくが、ふと気付いたように尋ねる。
『ならこのゲームの勝ち方を教えてくれませんか? そうでなくとも勝つヒントとか』
『ふっ、わざわざ敵に塩を送るやつがどこに居る』
『神vs人間なら人間側に多少のハンデがあってもいいでしょう? それともビビってるんですか? 人間に負けるかも知れないって?』
『安い挑発だな。それに乗るのはそれこそ
老人の言葉にダンは一瞬だけ喉が詰まる。ORCAに入れ。それは今日、メルツェルに明確な否定を示していた彼にとってまさに青天の霹靂だった。あまりの衝撃にダンは思わず身を乗り出す。
『どういうことですか。どういう理由でそんな……』
『ヒントだと言ったろう。あとの答えは自分で見つけろ』
『まっ待って下さ――』
『ん? どうしたダン? なんかあったか?』
ダンが神様を呼び止めようとした刹那、レイの声が耳に木霊する。振り返るとグラスを拭いていた彼が不思議そうな顔でこちらを見ていた。神の言っていた『切り離し』というヤツが切れたのだろう。いつの間にか深夜ラジオの下世話な話も戻っている。
『………いえ、なんでも』
『そうか。これ以上注文が無いなら、そろそろ店仕舞いしようかと思ってるんだが大丈夫か?』
『えぇ、問題ありません。ありがとうございました』
そうして会計を済ませたダンはラウンジを出たあと、カラード本部の屋上で夏の生温い夜風に吹かれながら情報端末を見遣り、ある番号が出て来た瞬間にスクロールをストップした。
いつの間にかジャケットのポケットに仕込まれていた一枚の名刺。鯱の影絵と電話番号だけが印字されたシンプルなものだ。そしてダンはこの番号の主を知っている。
迷うのも無理は無い。理想を掲げて戦おうとした矢先、それを捨てねば勝つことも出来ないと宣告されたのだ。なんて理不尽なのかと憤慨することは簡単だ。幼い子供のように地団駄を踏んで抗議するのも訳無いだろう。しかし、それをしたところで変わることは何も無い。有るとすれば感情的に少し楽になることぐらいか。
1か0か。
気付けば端末はコール画面に変わっていた。
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