わたしはかつて、Vtuberだった。 作:雁ヶ峰
かつてのわたしには、前世というものが存在しなかった。
無論、仏教用語でいう所の前世ではなく、所謂"配信経験"のこと。あるいはVtuber以外の活動記録のことだ。
ほかの動画投稿サイトでの動画投稿経験、配信経験がないというのは、強みでもあり弱みでもあった。強みとは、探られる腹がないということ。弱みとは、圧倒的な知識不足であったこと。
世間は未知を嫌う。面白い・興味深い対象が現れたときに、何故自身が好奇心を掻き立てられるのか、という部分に説明がつけられないと不安になる。その不安は前歴の調査という形で解消され、そこに記録が存在すれば「だからこんなに」という説明がつくのだ。
だというのに、世間は既知も嫌う。
未知にこそ面白さを感じ、新しい人材が新しいことをやってのけると盛大に評価する。逆に既知の……誰もがやっている事を沿うだけでは、高い評価は得られない。前世が有名であったり、反対にあまり伸びなかったりした配信者だと知るなり、「こいつにはこれ以上の伸び代はない」と言わんばかりに興味を失うのだ。
だから、配信者からVtuberへ転身……彼らの用語に合わせるなら転生は、一部の者には蛇蝎のごとく嫌われ、そうでない大部分にも「ああ、それで」と、手放しでの評価対象から外される。
そういった点において、かつてのわたしは大きな強みと共に活動できた。
配信経験がないのだ。声がインターネット上に記録されていないのだから、探られ様がない。もっとも、とってつけたような捏造記録、あるいはどこの誰とも知らない人と結び付けられる事もあったが、わざわざ否定はしなかった。先も述べたように彼らは不安なのだ。不安の解消権利まで奪うつもりはない。
「何を言っているんだろうなぁ」程度の感想は、わたしに不快さを覚えさせるほどではなかったのだ。
ただ、知識不足は非常に苦労した。
一年で辞める予定だったので配信ソフトは無料の物を使用していたのだが、コレの操作が難解も難解。いやいや、簡単なほうだよ、という言葉は聞き飽きた。最終的には詳しいメンバーの子にマニュアルを作成してもらって、余計な操作をしない事を遵守することでようやく円滑な配信を可能としたのだが、ひとたびトラブルが起きればどうしようもない、お手上げ状態。
結局メンバーの子に頼って直してもらって、何が悪かったのかを教えてもらって……そんな感じだった。
思えばこういうところが"妹みたいな"に繋がっているのかなぁ、なんて思う。
VR技術に関しても同じ。何ができるのか、何ができないのか。トラッキングだのセンサーだのなんだの……。
可憐ちゃんは何もしないでじっとしてて! とリーダーの子に怒られた回数は両手足の指を以てしても足りない。要望を出しても「それはどう考えても無理でしょ」とか「もしかして魔法か何かと勘違いしてる?」とか……いやだって、VRってそういう事じゃないのだろうか。なんでもできるものだとばかり。
そんなこんなで、収録も配信もみんなを頼ってばかりだったなぁ、というのを思い出した。
わたしと中学生組以外のみんなに前世があったから、というのも大きいのだろう。かなしいかな、思い返せば思い返すほどに妹ポジションである。
という話を。
つらつらと思い返しているのは、今。ここが。
面接兼オーディション会場だから、である。
●
受かった。
ひどくあっさりとしたオーディション、面接だったなぁと思う。
まぁ元々がスカウトであるというのもあるのだが、それにしたってあっさりさっぱり。レモン汁。
内容は配信経験の有無、ボイストレーニング経験の有無。あとHANABiさんとの関係も聞かれた。付き合ってるんじゃないか疑惑があったらしい。わたしとHANABiさんは二人で一つ、みたいな形で入社するため、人間関係的な部分は気にするのだろう。
どっちもがどっちもの妹みたいな関係です、と言っておいた。姉ではないことは確かだ。
そんなHANABiさんはオーディション無しの特別枠とのことで、いやはや流石だね、と讃えてあげた。爆速で返信が来て、もともと動画編集とモデリングの枠でスカウトされたから、とか、既に作品がいっぱいあるからだよ、とか……言い訳なんだか自慢なんだかよくわからない返答だったけれど、彼女のことだからこれが精いっぱいの謙遜なんだと思う。
謙遜なんてしないで誇ってほしいな、とは思うけれど、まぁそれはそれ。
その場で合格と言われて、現在帰路である。
DIVA Li VIVAのロゴの入った名刺を渡されて、ようやく。
わたしが受けた場所を実感した。最大手の最大勢力。頭の頭痛が痛い。おっかなびっくりが後からやってくるというのは初めての経験。
マフラー越しに白い息を吐く。まだまだ寒い。
ピロン、と。通知音が鳴った。
HANABiさんからのメッセージ……ではなく、流石に設定しないとマズいだろうと思って通知音の設定をした、DIVA Li VIVAの社員さんからのメッセージだ。
社員さんというか、わたしたちのマネージャーさんというか。
「……一緒にお食事どうですか、ねぇ」
確かにまだ事務所を出てから数分と経っていない。時間もちょうどお昼時で、この辺は初めて来るから周辺地図もわからない。
ふむ。……まぁ、断る理由もないか。
お願いします、と返す。ちなみにHANABiさんは滅多に外食をしないので、多分誘ってもこない。外食どころか外出が嫌いだ、あの人は。根っからのヒッキーである。
画面を開いたまま待つこと30秒。ありがとうございます! 今どちらにいらっしゃいますか? というメッセージ。テンション高いなぁ、と若干の気後れを感じつつ、適当な場所をぱしゃりこ。地図から現在地を送信してもいいのだけど、まぁ。だいたいわかるでしょ。
わたしのメッセージに既読がついて、一分。
「お疲れ様です、杏さん、ここにいましたか」
「お疲れ様です。すみません、あまりここら辺に明るくないもので」
「いえいえ! 急なお誘いになってしまってこちらこそ申し訳ないです」
スーツを着た、メガネの……背の高い女性。
大統領秘書、という言葉を擬人化するとこの人になりそうな、そんな印象。つまりわたしが大統領。
ちなみに芸名……というかキャラクターとしての名前はHIBANaになった。HANABiさんに倣ったのだ。これ、もっと付き合ってる説加速しそう。あるいは同一人物説が。
とはいえソレを外でも呼ぶ、というのは危険オブ危険。デンジャー中のデンジャーである。なので、本名で。
「麻比奈さんは、歳、いくつなんですか? そういえば」
「あ、今年で25です」
「じゃあがっつりこっちが年下ですね。上司の見てないところではタメ口で行きましょう」
「……」
「ダメですか?」
礼節を重んじる場では重んじよう。そうじゃない場では緩くいこう。窮屈に生きるほど、生き急いではいない。
マネージャーさん……麻比奈さんは驚いたような顔でわたしを見る。まぁ面接に合格してすぐにこんなこと言いだす輩は中々。
「いえ……あぁ、ううん。そうじゃなくて、ニーナちゃんとおんなじ事を言うから、びっくりしちゃって。才能ある子はみんなマイペースなのかしらねぇ」
「ニーナちゃん? とは?」
「あー……ウチの看板娘よ」
……NYMUちゃん、本名ニーナなんだ。外国人なのか、それともあだ名なのか。なんにせよ、可愛い名前だな、と思う。
そしてこちらの要望通り敬語を取ってくれた麻比奈さん。柔軟な人みたいで良かった。堅苦しい人だと息苦しいから。
「あ、そろそろお店探さないとですよね。お昼休憩、大丈夫ですか?」
「時間は大丈夫。それより、がっつり年下ってさっき言ったけど、貴女23でしょう? 二年をがっつりなんて言わないで欲しいわ」
「小ボケのつもりだったんですけど、ガンスルーされたんだと思ってました。拾ってくれてありがとうございます」
「それと、堅苦しい言葉はそっちも取っ払ってくれる?」
「りょうかい」
んっ、と伸びをする。いやぁ肩が凝った。オーディションがあったからスーツではないのだが、こう、空気というか雰囲気というか。ふいんき(何故か変換できない)というか。ようやく緩んだ気がする。
その後、行きつけだという喫茶店を紹介してもらった。DIVA Li VIVA社員御用達、みたいな店なのだとか。所属芸能人にも理解があり、喫茶店だというのに個室まである密会をしてくれと言わんばかりのヘンな店だった。
そしてマスターはハゲだった。
喫茶店を出てすぐ麻比奈さんは仕事に戻り、わたしも今度こそ帰路に就く。麻比奈さんといるときは開かなかったSNSツールにはいくつかの通知が来ていて、その中には。
「……アミちゃん、諦めないねぇ」
通知数+10という、相手が画面の向こうの他人であれば即ブロック案件なソレを見て、溜息。すっぱりさっきり諦めてくれればこっちも気が楽なんだけどなぁ、なんて。
気負ってすらいない心で、嘯いた。
●
Vtuberにとって、ダンスは重要な要素の一つである。
3Dモデルで活動を行う以上、激しい体の動きというのは"画面映えする"ポイントの一つであり、活動の幅を広げる一要素でもある。企画にせよ、曲にせよ、なんにせよ。踊れる、というだけで選択肢は広がる。
MINA学園projectのみんなは運動神経の良い子が多かった。一人壊滅的な子がいたけど、それ以外はみんな歌って踊れるアイドルを地で行く少女たちだった。
そんな彼女らの中で、わたしは中の中。いや中の下かもしれない。ダンスは上手でも下手でもない、模倣以外の何物でもない代物だった……と思う。言われたことは出来るけど、発展はさせられないし、感動を呼び起こすものもない。
当然だ。ダンスなんて習ったことがないのだから。
幸いにして運動はそこそこできたので、レッスンを受け、なんとか。なんとか形にして、毎回汗だくで収録をしていた。既に出来るみんなは最後まで練習に付き合ってくれて、壊滅的で最初から参加しない子もずっと応援していてくれた。
いやはや、暖かい思い出であると思う。
ただ、今回。
バーチャルシンガーとして採用されたわたしは、踊る必要がないと聞いた。
歌手のMVを取る感じでのゆったりとしたそれはあっても、アイドルのように激しく踊ることはないのだと。
それをありがたい、と思っている自分がいる。
ありがたいと思っている時点で、かつてのわたしは無理をしていたのかもしれないな、とも思った。
家で、姿見の前で、かつての振り付けを軽く踊ってみて。
やっぱりダンスは向いていない。そう思った。
「……カッコイイとは思うけどね」
独り言ちる。キレッキレのダンスを踊るあの子たちは、本当にかっこいいと思う。でもやっぱり、あるのは憧れでなく称賛だった。すごいな、とは思うけど、なりたい、とは思わない。
離れてみてわかる本心、というのはこういうことなのだろうか。がむしゃらだったあのころと違って、余裕があるというのも大きいだろう。
大手のバックというのは、うん。焦りがなくて良い。
ふぅ、と一息。
明日は普通に出社なので、そろそろシャワーを浴びよう。
まぁ、なんだろう。
今思えば、MINA学園projectはアイドルだったんだなぁ、なんて。
そんなことを考えて。
●
宣伝というのは、この界隈において非常に大事な事柄である。
知られなければないのと一緒、という言葉は真理だ。どれほど努力していようが、アイデアに自信があろうが、技術があろうが。知られなければ存在しない。知識外のものは、知りたいとすら思わない。知らないのだから当たり前だ。
故に宣伝という切っ掛けは何よりも大事である。
MINA学園projectは企業のそれではなかった。projectを謳っているが、その実個人配信者のユニットのようなものなのだ。多少、他の個人よりは多く……技術関係のスタッフがいる。それは結成時に集まったクリエイター達であって、あくまで個人集団、同人サークルのようなものなのである。
そんなMINA学園projectには、広報担当らしい人間がいなかった。クリエイターとライバーのそれぞれが個別に発信ツールを持っている形で、クリエイターは基本告知をしない。
だから、わたし達が。メンバー一人一人が、宣伝を行う必要があった。
宣伝とは難しいものだ。
しつこいと嫌われる。嫌われてはいけない。宣伝は知るための切っ掛けであり、そこがマイナスの印象になると、どれほど良質なものを作ってもマイナスの先入観で入られてしまう。
プラスの、ポジティブな印象を持ってきてもらわないといけない。故に宣伝は慎重に行われた。
外部コラボ、というのが……言い方は悪いが最も手っ取り早い宣伝だ。そこで興味をひければ、コラボ先の1割くらいのファンを引き込める。
ほか、大きな大会に参加する、というのも有用な手段。それはゲームであったり、歌であったり、技術であったり。良い成績を、あるいは好印象を残せれば、それはそのまま宣伝力になる。
無理をしてはいけない。無理をして失敗して、印象を悪くすれば……それを見ていた視聴者は、しばらくはこちらに興味を示してくれない。得意なことを。楽しいと思えるものを。選択は慎重に、行動は大胆に。
MINA学園projectはメンバーがそれを徹底することで、そこそこの、中規模のファンを得ることに成功した。
「しかし超大手にはそれがいりません、と」
「まぁ、広告を打てますからね……。自社番組を持っているというのもチートです」
「すごいよね……そんなすごいとこに入ったんだ。わたしたち」
HANABiさんの部屋。
いつものソファに座って、HANABiさんの作った料理に舌鼓を打つ。
広報担当者が潤沢にいる、というのは恐ろしいなぁと。そういう話をしていた。
わたし達のことは、明日にでもDIVA Li VIVAの番組内で紹介されるらしい。話がとんとん拍子過ぎて怖いくらいだが、企画をとんとん拍子に進める事こそが企画部や実行部の仕事である。
これを普通にするのが企業だ。それが社会である。
「デビュー曲とか、決まってるの?」
「すでに9割出来てます。もともと杏さん用に書いていたものがたんまり溜まっていましたから」
「……ちなみに何曲くらい?」
「10はありますよ。まぁ、そのすべてが通るとは思っていませんから、これからも書き続けますけど」
「この前出したのもその一つ?」
「はい。ただ、あれは……その、ストレス多めです」
「不満があるってこと?」
「そうじゃなくて、……杏さんが、可憐ちゃんを辞めた事に対する……愚痴みたいな」
「ヒュウ、やっぱりHANABiさんっていい性格してるよね」
卒業一周年の前月に、辞めた本人に辞めた事に対する文句を歌わせる。なるほど、感情が込めやすいわけだ。鏡に向かって歌っていたようなものなのだから。
けど、嬉しいな。あの曲はかなり激しい曲だった。カッコイイ系の、叫びたくなる曲。
そんなに強い思いがあるんだ。なんだか、照れるね。
「そういえばあれ、50万回再生行きましたね」
「わ、そんなに? 早くない? というか多すぎない?」
「それが、NYMUさんが生配信中に言及したらしくて。大絶賛だったそうですよ」
「HANABiさんの動画が?」
「私の動画と、杏さんの歌が」
意地悪のつもりだったのに、クールに返されてしまった。HANABiさんのキョドりポイント、未だに把握しきれてないんだよなぁ。面と向かって褒めるとあんだけ動揺する癖に、世間からの評価は結構ドライに受け止めてる。
一視聴者だったころは、かなりクールな人だと思ってたくらい。あと男性だと思ってた。文章が固いから。
「期待されてる、ってことかな」
「恐らくは。……ちょっと癪ですけどね」
「NYMUちゃんに宣伝されなくても、50万くらい行けてた、って?」
「いえ、そこは無理だったと思います。私の知名度はそこまでではありませんから」
ただ、とHANABiさんは続ける。
「あの動画が上がってすぐのデビューになるのです。あの動画に彼女が言及してしまった事で、まるでHANABiとHIBANaのデビュー曲があの動画とでも言うように世間は思うでしょう。DIVA Li VIVAの作品の一部のように扱われるんです」
「でも、作詞作曲者が変わるわけじゃないじゃん?」
「……あれは可憐さんがいなくなってしまったことへの愚痴なので」
ああ。
なるほど。伝えたかった内容と伝わった内容が違う、みたいな。
込められたメッセージなんて視聴者が勝手に判断するものだ、というのはわたしの持論だけれど、HANABiさんはまた違う世界観を持っているのだろう。
そんな目的のために作った曲じゃないのに、という……まぁ、拗ねているようなものだ。
「制作秘話とか聞かれた時に話せばいいんじゃない? 可憐ちゃんのことは抜きにしてさ」
「私がインタビュアーとまともに話せるとお思いですか」
「アソレハムリダネー」
文書で聞かれるかもしれないじゃん、とは言わない。その時が来たらその時に考えればいい事だ。公式から発表してもらうものでもないし。
今度NYMUちゃんと会う機会があったら、それとなく……いや、いいかな。
いつかHANABiさんが自分でいうまで、わたしはお口チャックが正解だろう。
「そういえば今日、MINA学の方で発表ありましたね。二周年企画の」
「あー、詳しく見てなかったなぁ。なんて話だった?」
「珍しい。私に匹敵するMINA学オタクの杏さんが告知を確認していないなんて」
……いやまぁ忙しかったし。
それに……なんとなく……。
「デビュー発表されるまではソワソワしちゃってさ。これでも緊張してるんだぜい」
「嘘が下手ですねぇ。私もひとの事言えませんけど。喧嘩でもしましたか。相談、乗りますよ?」
この人、コミュ障の癖に妙に鋭いんだよなぁ。人間関係のアドバイスもできるし。ホント、かっこいい。
しかし……どうしたものか、と思う。
だってこの悩みは、自分で解決しているのだ。この蟠りを解消する方法は、単純も単純。
返信をすればいい。アミちゃんの追及に対して、一言でも。
「MINA学の誰かから何か言われましたね。……亜美ちゃん辺りでしょうか」
「怖い怖い。何故その推理力を人付き合いに活かせない」
「私、他人の考えてること大体わかるんですよ。だから、悪意に満ち溢れる世界が嫌になってしまって」
「サトリ妖怪か何か?」
「嘘ですけど」
別に本当だとしても驚かないけれど。
多彩オブ多才がこの人だ。心くらい読めるかもしれない。
「んー、まぁ、当たり。どういうことですか、だってさ」
「別に杏さんは彼女らが嫌いになったわけではないんですよね? あぁ、オタクとしての好悪ではなく、人間としての話です」
「うん、嫌いじゃないよ。好きな方。みんな優しいし、かっこいいし。また一緒に遊べたらいいな、って思ってる」
「でも、関わってほしくないんですね。今は。今のあなたは、皆凪可憐ではないから。あの人たちの仲間じゃあないから」
「そう」
そう。そうだ。
彼女らが見ているのは、皆凪可憐なのだ。わたし本人ではない。
そしてわたしは、もう違う所に向かっている。もし彼女らが、単なる大学の友達とか、地元の友達とか……最初からわたしと付き合いのある人間であればこんなには悩まない。
でも、スタートラインが違う。彼女らが走り出したところにいたのは、皆凪可憐。そして彼女はもうゴールしたのだ。
「──ああ、なるほど。返事をしてしまうと、可憐ちゃんになってしまうんですね」
「そうかも。寂寥を大事にしたいよね。失われたものが簡単に蘇る世界はあんまり好きじゃない」
「……そうですか。杏さんの中にはもう──可憐ちゃんはいないんですね」
だからわたしは、あの時亡き骸という表現をした。
だからわたしは、返事をしなかった。既読すらつけなかった。
だってそれは、もういなくなった彼女を無理矢理
「それは、ふむ。なるほど。どうしようもない、ですね。ううむ、オタクとしても解釈一致です。杏さんはMINA学のオタクですもんね。余計に"そう"なんでしょう」
「醤油・琴」
「それじゃあ、可憐ちゃんが帰ってきたら、返事をしてあげてください」
「Do善処」
それがいつになるか。
……さぁね。
会話が終わる。
食事も終わった。
先にお風呂を借りる。ウチとは月と鼈、広いお風呂だ。
いつもはシャワーだから……ううん、極楽である。
●
そのメッセージは、深夜に来た。
偶然起きていた時間。そういえば聞きそびれた、MINA学の二周年記念企画の内容を確認しようとしていた時の事。
通知。音のないそれは、MINA学の誰かから。
また亜美ちゃんだろうか、と……その表示名を見て、固まった。
その名は──かつてのわたしの、同い年の。
クールで、気の強い、あの子の名前。
プレビューされたメッセージは、短く。
──"可憐、使うから"
……ふふ、と笑ってしまった。
ふふふ。ふふふふ。
変わってないなぁ。嬉しい。
ストイックで、言葉が強くて。あの子らしい。
使う、というのは多分……エモの材料にする、という事だろう。
もとより著作権はわたしに無いし、勝手にすればいいと思う。だというのに断りを入れてきたのだ。流石である。通すところはきっちりと通す。カッコイイ。
でも。
やっぱり、既読はつけない。
可憐はわたしの手元にいないから。
「……おやすみ」
改めて。一年が経とうとしている今、遅まきながら。
おやすみ、と言った。
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