窓から差し込む光によって自然と目が覚める。まだ覚醒しきっていない頭と身体を無理矢理動かし半分寝ぼけながらも服を着替える。
最近、毎日が楽しい。朝起きるのも憂鬱になっていた日々が少し懐かしく思えてくる。
「おはよう」
「あら雄二、おはよう。自分で起きられるようになって偉いわよ。さぁご飯食べましょ」
「はーい」
お父さんは仕事で俺が起きる前にいなくなってしまっているので朝は基本的にお母さんと二人だ。今日もご飯が美味しい。
「じゃあお母さん。行ってきます」
「本当に大丈夫?雄二なら大丈夫だと思うけど、もし何か嫌な事とかあったら言ってね。約束だよ」
心からこちらの身を案じてくる言葉に少し前までなら胸が痛んでいた。でももう大丈夫だ。もう嘘をつかなくてもいい。
「心配しなくていいから。それに、友達と今日も遊ぶんだ」
俺は見慣れた玄関のドアを開いて、足に力を込めて歩き始めた。
俺たちは紙を使って絵を描いたりする遊びをよくしている。気まぐれで書いていた葵の絵がとても上手かった。それを見たかったが為にお絵かきを俺がしたいと言い、それから遊びの中心はそうなって行った。
いつもはお互いの絵が描けてから見せあいをするという流れなのだが、今回は俺が早く描けてしまったのでチラチラと葵のそれを覗き見る。
普段風景や物を題材にする彼にしては珍しく、人をテーマにしているようだった。まだ途中ではあるが誰かに似ている様な気もする。どこか優しそうだ。もう少し近くで見たらわかるかもしれない。
そう考え、もう少し覗こうとすると突然視界に彼の顔が映ってびっくりする。目を細め口をとがらせている。心なしか顔も赤い。
これはムッとしている時の表情だ。頭で理解した瞬間やってしまったと思う。こうなると中々機嫌が直らないのだ。鉛筆から手を離して身体を伸ばしてからこちらに話しかけてくる。
「見過ぎ。そんなんじゃ僕も集中出来やしないじゃないか。妨害しているわけではないんだろうが、そんなんじゃ恥ずかしいだろう」
「わかった、ごめんね。そういうつもりじゃなかったんだけど」
「ああ、大丈夫。君がそういう事をしないって言うのは分かっているから。それにこれは完全にこっちの問題だし…」
それで話は終わったとばかりに机に転がされていたそれを握り、再び描き始める。今度は邪魔しないようになるべく見ないようにしよう。
でもどうしても気になる。黙々と手を動かしている。顔も無表情で真剣さが見られ、いや違うな。これはいつも通りか。
そう時間が経たないうちに手が止まる。先ほどまではサクサクと動いていたのだ。原因は間違いなく。
「はぁ。お前は本当に…」
もう声だけでわかる。今の葵はきっとゴミを見る様な冷めた表情でこちらを見ているに違いない。そしてそれを直視する勇気は俺にはない。
俺のせいで気が散ってしまったのだろう。結局絵が完成することがないままに帰りの時間になってしまった。一応明日また描けばいいのだが、こんなことは今まで無かったのでかなり責任を感じている。
謝るにしてもそもそもどう話し掛ければよいのか。一度嫌だと言われたことを繰り返してしまったのだからどうしようもない気もする。
「なぁ、今日の事で君は僕に申し訳ないと思っているか」
「もちろん。集中できなかったよね。ほんとごめん」
「な、なら今日は僕の家に遊びに来ないか。続き、描きたいし。ああ、決してそれ以上の理由は無いからな。ただやっていたものを途中で投げるというのが好きじゃないというだけで」
おずおずと上目遣いでそう言う。あー、可愛い。あんなことを言われた今でも本当に男なのか信じられない。
「行くよ。ここからそんなに遠くないんだよね。でもお母さんに帰りが少し遅くなるって連絡だけするから」
「そうか。来てくれるのか。じゃあ僕は玄関前で待っているからな」
心なしか弾んだ声で葵は素早くここからいなくなっていった。じゃあ俺も電話するか。連絡先は両親と祖父母だけだが。
三コール目で聞きなれた声が聞こえた。言うまでもなく自宅にいる母だ。
『うん、そう。だから今日は帰るのがちょっと遅くなるかも。今度紹介するから。帰るときにもう一回電話する。じゃあ』
声がやや上ずった気もする。帰ってきたらきっとお母さんに根掘り葉掘り問い詰められるだろう。こちらとしても願ったりかなったりだが。
やることは終わったので俺も葵と同じく玄関まで駆けだした。
「お、来たか。思っていたよりも早かったな」
「おまたせ。それじゃあ行こうか」
葵の小さい身体にはやや手に余る、大きめの画用紙を抱えながら一緒に歩き始めた。小走りで俺の少し前を先導する。ここからそう遠くないと言っていたか。
いつもは夕方になる頃には互いの家に帰っている。なのでこの時間に二人でいることに少し非現実感があって楽しい。
「急ぐぞ。あまり遅くまで遊んでいたら君の親が不安になるだろうし、ほら」
そう言いながら手を握られ、そのまま引っ張られる。自分とは全然違う手の感触に少しドキドキしながら先を急いだ。
「ここだ。あまり綺麗な家では無いが、我慢してくれ」
「お邪魔します」
幼稚園から徒歩で5分ほどの近所にあるアパートだ。外装もそこそこだが、思ったよりも家に何もない。
何というか生活感が無いのだ。グルっと見渡してみても普通はあるはずの家具も見当たらない。
「ここに面白いものなんか何もないぞ。それより早く描くぞ。君は、明日の分でもしているといい」
それだけ言ってフローリングの床に向かって絵に集中し始めた。流石にここまで来て邪魔するわけには行かないので、大人しくしていようと思う。
ん?あそこにある紙束はもしかして。部屋の隅にあったのはこれまでの絵だった。昨日俺が描いた太陽の絵もある。相当下手なので出来れば捨ててくれるとありがたいのだが。
他のも確認してみると、あの日の分もあった。カラフルな色彩で街路樹が描かれている。かなり前の事だが、つい最近の事にも思える。
そうして昔に思いを馳せていると、後ろから何やら気配がする。振り向くと当たり前だが葵がいた。顔には清々しさが見て取れる。
「終わったぞ。待たせてしまって悪いが折角だし見てくれ」
「寧ろ見させてください」
そうして紙にたたずんでいるのは女性、だろうか。髪も長くて消え去りそうな儚い笑みと言い、そうだと思うのだが確信は持てない。でもこれ葵に似ている気がする。
「ねぇ、これって」
ドンドンドン!
話し掛けようとしたところで玄関から乱暴な大きな音が響く。押し売りだろうか。
「あぁもうなんでこんな時に来るかな。申し訳ないが、今日はここでお開きだ。そこにいるのは僕の父だ。部屋の中に入れるからそこの隅に隠れて、隙を見て帰って欲しい」
露骨に不機嫌な表情で、それでいて焦りを感じる。
「何やってんだ葵!早く開けろよ!」
「ほら、急いでくれ」
返事をする時間すら惜しく、俺は言われた通りにそこに身を隠した。それとほぼ同時に扉が開き、床から嫌な振動が伝わる。
「何で直ぐ開けなかったんだ。クソガキが」
「申し訳ない。こんなに早く帰ってくるとは思わなくてね」
「理由になってねえよ。大体お前のその気持ち悪い口はどうにか治んねえのか」
「これも物心ついた時からのものだ。礼儀は母の腹の中に置いてきたよ」
「お前舐めるのもいい加減にしろよ」
鈍いくぐもった音が部屋の中いっぱいに聞こえる。足がすくむ。怖い。馬乗りにされて何度も葵が感情をぶつけられている。拳で。足で。そんな俺に葵は目線で訴える。行け、と。
再度鈍い音が響くのを合図にしたかのように急いで玄関に走る。無我夢中のままに葵を見捨てて、逃げた。
家の前にはどうにか着くことが出来たが、どういう風についたのか全く記憶にない。夜になっても眠ることは出来ず、そのまま夜を明かした。
ちなみに園児のくせにやたらと成熟している二人ですが、雄二君の方は単に書き分けが面倒で出来ないだけでよくいるあほの子だと思っていてください。
葵はあのまんま。