ホテルでの生活は金額に見合った快適さではあったが、当然というか自宅程の安らぎを得ることは叶わなかった。チェックアウトを済ませ、顔見知りとなったフロントのホテルマンに別れを告げる。
迎えの車は既に玄関前に停車していた。
「悪いね、緒川君」
「いえ、大したことはありませんよ」
そう言って緒川君は笑顔を見せた。今回、二課には少し借りを作ってしまった。二課にもメリットはあったとはいえ、弦十郎さんは面倒な手続きを行わざるを得なかっただろう。
「あの人はどうしてますか?」
「元気ですよ。既にいくつかの研究を任せています」
「随分と信用したものですね」
「司令の判断ですよ。了子さんがいなくなって、うちも人手不足ですから」
二課としては本意ではないだろうが、マリアたち三人を人質を取っている形だからな。それでなくとも否やはないだろうが。
幸い渋滞には捕まらず、程なくして港に到着した。緒川君の案内で潜水艦の中を進む。弦十郎さんは不在のようだ。やはり忙しいのだろう。
緒川君はとある部屋の前で立ち止まると、こちらに振り向いた。
「こちらです。では、三十分後に」
「ああ、ありがとう」
緒川君を見送り、入室する。中にはひとりの女性が静かに佇んでいた。
「調子はどうですか? ナスターシャ教授」
「もはや教授ではありませんが、貴方にはお礼を言うべきなのでしょうね。すこぶる好調ですよ」
「それは良かった。ケーキを持ってきたんです。お茶をいただけませんか?」
俺が気安くそう言うと、ナスターシャ教授は小さく笑って立ち上がった。部屋の隅にある水屋から手慣れた様子で準備を整える。ものの数分で湯気の立った紅茶が運ばれてきた。
「セレナは邪魔になっていませんか?」
「いえ、そんなことは。むしろ助かっています。助手のようなことをさせていますが」
弦十郎さんには無理を言って一部屋用意してもらった。セレナは住み込みでナスターシャ教授の世話をしている。とはいえ、既に介護も看護も必要なくなっているので、仕事の手伝いくらいしかすることがないのだろう。それに、ここにいればマリアたちの情報もいち早く手に入る。
「何故、私を助けたのですか?」
「……それは以前にお答えしたはずですが」
「ここでは誰も、私を裁いてはくれません」
なるほど、罪と罰か。インテリらしい悩みだ。
ナスターシャ・セルゲイヴナ・トルスタヤという人間は既に死んでいる。宇宙で制御室から投げ出され、遺体は見つからなかった。そういうことになっている。
マリア、調、切歌は今も拘置されている。それを覆すために、弦十郎さんは今も奔走しているのだろう。ドクター・ウェルはどうなったのだろうか。捕縛したとは聞いているが、けだし罪は一番重いはずだ。
そして、彼女だけが何の罰も受けていない。死人にムチを打つ人間は、二課にはいないということだろう。
「では、こういうのはどうですか?」
紅茶を一口すすり、言葉を続ける。
「貴女が愛おしいから、貴女に生きていてほしいから、助けたんです」
俺がそう言うと、彼女は両目を見開いてこちらを見据えた。頬は赤く、染まってはいなかった。そして、大きく溜め息を落とす。
「聞いていた通り、ジョークは下手なようですね。そういうセリフは、セレナかマリアにでも言ってお上げなさい」
セレナはまあ分かるが、何故マリア?
「まあ、少し気はほぐれました。誰に裁かれなくとも、私は私のできることで罪を償いましょう」
「ええ、それでいいんですよ。ま、セレナのことはお任せします。私はしばらく日本を離れますので」
「……私たちの余波が、そちらにまでいきましたか?」
「まさか、仕事ですよ」
あの事件――フロンティア事変と呼ばれている騒動から十日ほどが経った。F.I.S.組の処遇については、日本政府と米国政府が派手にやりあっているらしい。その余波を避けるために、装者たちは現在行方不明ということになっている。俺にしてみても、弦十郎さんから「念のため、日本とアメリカからは離れておいたほうがいい」という助言をいただいた。
渡りに船、というわけではないが、情報屋から仕事の依頼が入ったので、それを請けることにした。
近年ヨーロッパ全域で頻発している不審死の調査。以前からこういった事件はあるにはあったらしいが、最近になって増加しているようだ。特にフランスに多く発生し、その足取りを追っている。フランスに滞在して四日目、ひとつの手がかりが目の前にあった。
時刻は深夜、場所は大通りから外れた裏路地。人は疎らで時折酔っ払いとすれ違う程度。そこに場違いな少女の姿があった。中学生くらいだろうか、スカートを翻しながら、まるで獲物を探している狩人のようにも見える。そして何より、彼女からはまるで生気が感じられないのだ。生き物の気配がしない。事件に関係あるかどうかは分からないが、とてつもなく怪しい。
「お嬢さん、こんな時間にうろついてると危ないよ。最近は物騒だからね」
「――ふぅん。ま、アンタでいっか」
少女はゆっくりとこちらに詰め寄り、いきなりキスをしてきた。かなりの身長差があるはずだが、いつの間にか少女の足元には氷の足場が出来ていた。そして、俺の中から何かが吸い取られていくのが分かる。これは生命力? これが不審死の原因か?
まずは【八咫鏡】からの供給をカットした。数秒後、少女が静かに唇を離す。俺は支えを失ったような感じで、その場に倒れ伏した。
少女は薄く笑うと、俺に背を向けて歩き出す。そして、懐から取り出した何かを地面に投げつけると、少女の身体が光に包まれた。
その瞬間を逃さず、俺は少女の背後に滑り寄った。
視界が一瞬で切り替わる。裏路地から一転、場所は西洋館のような場所に移った。整ってはいるが、洒落っ気がまるでない無骨な場所だ。
「たっだいまー」
「……ガリィ、後ろの男は誰だ?」
二人の女性。その片方、紫紺の髪の女性が問う。
「あ? 後ろ?」
問われた少女、ガリィが振り向く。と同時に俺も動く。ガリィの振り向いた逆方向、死角に回り込む。
「誰もいないじゃない。レイアちゃんの冗談?」
「……中々に素早いですわね」
もう一人の、鶯色の髪の女性が感心したように呟く。
「――ふんっ!」
再度、鋭い動きでガリィが振り向く。俺は再び死角に回り込んだ。ガリィは元の位置に戻ると、今度はブリッジをするように振り向いた。だが甘い。俺はガリィの足元を滑るように正面へと移動した。
「何よ、やっぱり誰も――ふあぁっ!?」
「改めましてこんばんは、お嬢さん」
「テ、テメェ、何でここに!? つか何で生きてやがるッ!?」
「酷い言い草だ。俺にだって生きる権利はある」
「そういう意味じゃねぇよッ! 思い出は吸い尽くしたはずなのにッ!」
ああ、吸い取られていたのは思い出か。まあ、俺の思い出じゃないんだけど。それと、この二人も人間じゃないな。向こうにいる赤髪の女の子も身動きひとつどころか、瞬きひとつしないし。そもそも、手からして人間のものじゃない。
「まあ落ち着けよ。口調が乱れてるぞ。そして話をしよう」
「お前が地味に只者ではないことは分かったが、私たちと何を話す?」
「まずは名前を知りたいね。俺の名前は神宮寺紫音。通りすがりの探偵だ」
「テメェに名乗る名前なんてねぇよッ! てかアンタたち何普通に対応してんのよッ!」
「おや、憚るような名前なのかな? だとするなら、君たちの名付け親の感性を疑わなければならないが」
「その言葉、流石に捨て置くわけにはいきませんわ。いいでしょう、私の名はファラ・スユーフ。どうぞお見知りおきを」
「ちょっとファラちゃんッ!?」
「マスターの名を貶めるわけには参りませんわ」
「それもそうだ。私の名はレイア・ダラーヒムという」
「ちっ、ガリィ・トゥーマーンよ」
彼女たちにマスターと呼ばれる存在。おそらくは彼女たちを作った者だろう。交渉は彼と行うことになるな。