脳髄。 作:はせがわ
「いや~、乾布摩擦ってのは、気持ち良ぇのぉ~!」
ある日の早朝、一人の老人が自宅の庭で乾布摩擦をしていました。
「おいっちに! おいっちに!」
乾いた布でリズム良く背中を擦り、{~♪」と鼻歌なんかを口ずさんでいます。とってもご機嫌です。
「――――って、寒いわボケェ!!!!」
ファックとばかりに布を地面に叩きつけるご老人。〈ビターン!〉みたいな音が鳴ります。
「こんな事して、何の意味があるんじゃボケェ!!
寒いっちゅーんじゃボケェェエーー!!」
おじいさんは「おーさむさむ」とか言いながら、イソイソと上着を着込みます。
やらんかったら良かったわいと、身も蓋もない事を口走りました。
「そもそもな? 身体を暖めたかったら風呂入るっちゅーんじゃ。
これが原因で風邪ひいたら、どないするっちゅーんじゃ。アホか昔の人は」
おじいさんは昭和の人間なので、バリバリの昔の人なのですが……それを棚に上げて暴言を吐きます。
昔と違って、今はエアコンでもファンヒーターでも使い放題じゃ。こんなもんアホのする事じゃ。皮膚とか強くせんでもええんじゃ。そう言いたい放題です。
「おっしゃ! じゃあ気を取り直して、滝でも行ってこよ!
ばあさーん! ちょっと出かけてくるでな~!」
台所の方から奥さんの「はーあーいー♪」という返事をしっかり聞いた後、おじいさんはイソイソと外へ出掛け、山に向かいます。
そして小一時間ほどかけて山道を登り、目的地であった美しい“滝“がある場所に到着しました。
「おっし! いっちょやるか!!」
おじいさんは滝に到着するなり、なんの躊躇も無くザブザブと水の中へ入ります。そして大きな滝の真下に立ち、とめどなく身体を叩きつける水の中、心頭を滅却し始めます。
「臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陣! 列! 在! 前!
りん! ぴょう! とう! しゃ! かい! じん! れつ! ざい! ぜんッ!」
キエーイとばかりに、ひたすらおじいさんは滝に打たれ続けます。おじいさんが呪文を唱える声と、滝の〈ゴゴゴゴ!〉という音だけが辺りに響きます。
「――――って、寒いわボケェェーーッ!!!!」
ファーックと雄たけびを上げて、おじいさんは滝から飛び出します。そして「おーさぶさぶ」と身体を擦りながら、速攻で陸地へ引き上げました。
「こんな事して、いったい何になるっちゅーんじゃッ!!
何回も言うけど、風邪ひいたらどないすんのじゃあボケェーーーッッ!!!!」
集中力とか忍耐力とか、こんな事せんでも付くじゃろがい。何をこんな寒い中、水の中に入っとるじゃ。アホか!!
そう言って濡れた身体を拭き、おじいさんは暖かなセーターとダウンジャケットに身を包みます。モコモコしています。
「わしもう96じゃし、今日は今までやってみたかった事を、
色々やったろうと思うとったが……、どれも全然楽しく無いやないか!!
いったいどうなっとるんじゃ!!」
何が乾布摩擦じゃ! 何が滝じゃ! 寒いだけやないか!
おじいさんはこれを考えた昔の人達へと、もうありったけの罵詈雑言を放ってやりました。
「他は何か無いかな? 今までやった事なくて、面白そうな事って何か無いかな?
わしもう96じゃし、あんまし時間ないんじゃ!!」
お迎えが来る前に、思い残す事がないよう、やりたい事は全部やろう――――
そんな想いから来た、この度の乾布摩擦や滝行でしたが、これは大失敗です。むしろやらなきゃ良かった位の物でした。
今おじいさんの口から「へっくちゅ!」と、見かけによらず随分と可愛いくしゃみが出ます。これが原因で体調崩して死ぬとかになったら、本当に最悪です。
「あ! わしあれやった事ないわ! おっし、ほなやりに行こう!!」
手のひらをポンと叩き、何やら思いついた様子のおじいさんが、イソイソと山を下って行きます。
次の目的には、海。
自宅の近所にある寂れた漁港へ、意気揚々と向かって行くのでした。
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「おーうサブちゃーん! ほなちょっと失礼するでの!」
そう顔見知りの漁師さんに断り、おじいさんは彼の漁船へと乗り込んで行きました。
「別に構わねぇけんどぉ、じいさんどしたんだぃ~?
いきなり船に乗りてぇだなんてぇ~」
「いやいや、ちょっと前からやってみたかった事があっての?
すぐ済むで、ちょっと待っとってくれの」
ちょうど漁港で荷下ろしをしていた漁師さんの所へやってきて、ちょっとだけ乗せてもらえるように頼んだおじいさん。
不思議そうにこちらを見る彼の事も気にせず、えっちらおっちらと船の上を歩き、船首の方へやってきます。
「うむ、ここでええわ。
おーいサブちゃん! ほなちょっと見とって~」
「んあ? 何だいじいさん~?」
サブちゃん(漁師さん)の見守る中……漁船の一番前の部分に立ったおじいさんは、まるで十字架のように腕を横に広げます。
そして全身で風を感じているかのような良い表情を浮かべつつ、何やらよく分からない歌を歌い始めます。
「よぉぉぉぉぉ~~~~! ひぃぃぃぃ~~~~ッ!!
うぇずなぁぁぁ~~~~~ッッ!! っしん! あてぃーーーーずッッ!!」
まるでセリー〇・ディオンが性転換し、しかも96才のめちゃくちゃ歌が下手な日本人になったような歌声が、寂れた漁港に響き渡ります。
今いるのは止まった子汚い漁船の上。ですが気分はもうタイタニックです。
おじいさんは機嫌よさげに、とても良い笑顔でマイハートウィルなんとかという歌を絶唱します。
「えんだいのぉぉぉ~~~~~うッッ!!
ざっつまはーーーーとうぃーーーる!! まいはーーーとうりーーーる!!」
素晴らしい! 素晴らしい体験です! 気分はレオナルドディカ〇リオです!!
おじいさんはまるで映画の主人公になった気分で、子汚い漁船の上、全身で潮風を感じます。
「ごーーおぉぉーーーーーん! だぁーーーーん! どぉ
「――――あ、ごめんおじいちゃん」
その時、漁船の上で作業していたお兄さんが、おじいさんの背中にトンとぶつかります。
「ぎゃあぁぁぁぁぁああああああああああああーーーーーーーーーッッ!!!!」
おじいちゃんは船の先から落ち、ドッボーーンと水しぶきを上げて海に叩き込まれました。
「おい! じいさん海に落ちたぞ!」
「でぇじょうぶかじいちゃん! でぇじょうぶか!」
「ぎゃぁぁぁぁぁああああああ!! 寒いぃぃぃぃいいいいーーーッッ!!」
先ほどまでの良い気分から打って変わり、おじいさんは今最悪の気分です。ロマンスも雰囲気もあったもんじゃありません。
ワカメや海藻が身体に絡みついた96才のディカプ〇オは、とても情けない姿で浮き輪にしがみ付き、漁港の漁師さん総出で陸に引き上げられました。
「やらんかったら良かった! こんなんやらんかったら良かった!!
何がタイタニックじゃ! 何がセリー〇・ディオンじゃ! アホか!!
90過ぎてやる事か!!」
またしても「へっくちゅん!」と可愛いくしゃみをしながら、おじいさんはドラム缶のストーブの前で暖を取ります。
ガタガタと身体を震わせながら、必死になって身体を暖めます。
「もう嫌じゃ! もうわし何もせん!!
寿命まで家で何もせんと、のんびり死ぬ!!」
やがて服と体を乾かし終わったおじいさんは、プンプンと腹を立てながら自宅へと戻っていきます。
おじいさんがいったい何に腹を立てていたのかはまったく定かではありませんが、きっと神様とか仏さまとか、そんな漠然とした物に対してだと思われます。
とりあえず自分以外の物に一生懸命に責任転嫁をしながら、今日の不運を呪いました。「わしは悪くない」とばかりに。
「おやおや、おかえりなさい貴方♪」
もうプンプンしながら家に戻ると、そこには出迎えてくれた奥さんの姿。とても優しい表情でおじいさんを迎えてくれます。
「どうしたんですか、そんなに怒って。何かありましたか?」
「おうばあさん! 何かな? 寒かったんじゃ!!
今日はやりたい事、全部やってみよう思うとったんじゃがな?
なんかやってみたら全部、寒かったんじゃ!! ことごとく寒かったんじゃ!!
わし風邪ひくかもしれん!」
「まぁまぁ。それは大変でしたね♪」
おばあさんに優しく労われながら、おじいさんは居間へと通され、いつもの席にドカッと座ります。
「もうええわ! もうずっと家おるわ!
お前とのんびりして、余生過ごす! それでええわ、わし!」
「そうですか。私は嬉しいですよ? 貴方と過ごせて♪」
優しく微笑み、暖かいお茶を持ってきてくれるおばあさん。それを受け取ってグイッと飲み干す。おじいさんの身体がポカポカと温まっていく。
「おうそうか! わしもじゃ! わしも大好きじゃ!
ほな死ぬまでのんびりして過ごそう! たまに畑したり、釣りしたりして過ごそう!
お前と一緒に!」
「ふふふ♪ そうですね貴方、のんびりしましょう♪ お供しますよ♪」
でもたまにデート行ったりしよう! ジャスコ行ったり、映画観たりもしよう! お前と一緒に!
そう言いながら、あははと笑い合う二人。
別に特別な事をしなくても、映画みたいじゃなくても、おじいさんもおばあさんも幸せそうだ。
もうそれで良いんじゃないかなと、さっき理不尽に八つ当たりされた神様や仏様達は、思いました。