脳髄。 作:はせがわ
ある日の午後、ありふれたオフィス街の国道沿いを、ひとりのピッチリ横分け七三メガネのサラリーマンが歩いておりました。
「人を救いたい。人を救いたい」
どこにでもいる、安っぽいスーツに身を包んだそのサラリーマンの男は、なにやらブツブツと己の願望を呟きながら歩いておりました。
「悲しみを消し去りたい。涙を拭いたい」
男は、世を憂いておりました。
この人々の心が冷えきり、誰もが笑顔を忘れ、ご近所付き合いという概念が希薄になってきたこの世の中を変えたいと、常々そう願っておりました。
男はどこを見るでもなく前を向き、サラリーマンらしく背筋を伸ばしてスタスタ歩いて行きます。
己の望む道を、まっすぐ進んで行きます。
「愛を伝えたい。絆を守りたい」
この先にあるのは銀行と郵便局くらいの物なのですが、それでも男は迷う事無く、まっすぐ歩いて行きます。
「微笑みを交わしたい。夢を信じていたい」
ワックスでしっかりと固められたピッチリ横分けの七三が、太陽光を反射してキラリと光っています。
男はこの世の中を変える為、そして人を救うため、平日昼2時のオフィス街を、仕事もせずにまっすぐ進んで行きます。
「――――ぬ、何事」
やがて歩いている内、男がふと視線を横に向けると、そこになにやら道路の脇で泣いている女の子の姿を発見。
男はなにげなく傍まで歩いて行き、えーんえんと泣いている女の子へ声を掛けました。
「お嬢ちゃん、どうしたと言うんだね? ホワッツハプン」
「あのね? わたしの風船が、木に引っ掛かってしまったの」
見上げてみると、今目の前にある植え込みの木の枝に、ふわふわと風に揺られている赤い風船が引っ掛かっていました。
「かなしいよぉ、かなしいよぉ。
お母さんに買ってもらった風船がとんでいっちゃったよぉ。神も仏もないよぉ」
女の子はこの世の終わりだと言うように、神は死んだとばかりに「えーんえん」と声を上げて鳴きます。
「なるほど。君が涙を流すのも頷ける。耐えがたい苦しみだ」
やがて男は女の子から視線を外し、まっすぐに空を睨みます。
「そして俺は――――今日この時の為に、生まれてきたのかもしれない」
するとどうでしょう! 突然男のスーツがメリメリと音を立てて裂けていき、中からはち切れんばかりの筋肉が露わになったではありませんか!
いま男の身体からは、まるで蒸気のような煙があがり、その筋肉が放つ凄まじいまでの熱と戦闘力を物語っています!
「この身体を維持出来るのは、およそ1分間。
そのあと俺は、全身から血を吹き出して死ぬだろう」
命と引き換えにしてまで手に入れた、尋常ならざる能力。筋肉。
しかし男の顔には、一片たりとも後悔の色はありません。
「だが今、君の涙を拭おう。その悲しみを終わらせよう」
ビキビキと目は血走り、鼻から血を出し、身体中に血管を浮き上がらせながら、男がゆっくりと木に向かって歩いて行きます。
いま男が少女の風船を取ってやるべく、力強くその手を木にかけました。
「あっ」
「あ」
男が木に登ろうと手を掛けた瞬間。ヒューっと風に吹かれた風船が枝から離れ、ふわふわと空へ登っていきました。
「……」
「……」
木にしがみついたまま、固まっている男。その姿を見て立ち尽くす女の子。
「……」
「…………」
いま男の額の血管から、ピューっと一筋の血が噴き出していきました。
「……キレイ、だね。おじちゃん」
「……あぁ」
二人はぼんやりと空を見上げ、ふわふわと天にのぼっていく風船を見つめます。
「……死ぬの? おじちゃん……」
「……あぁ」
やがて男は木から手を離し、まるで何事も無かったかの如くパンパンと服の埃を払いました。
「じゃあな、お嬢ちゃん――――」
「……うん。安らかにね――――」
…………………………やがて少女から背を向けて、男はゆっくりと歩き出します。
そして少女に後姿を見守られながら、だいたい30秒くらいした所で全身から血を吹き出し、その場にバタリと力なく倒れ込みました。
「おい! 人が倒れたぞ!」
「おいアンタ! しっかりしろアンタ!」
「……なんだこの血まみれマッチョは!? とりあえず救急車だ!」
「AED! どこかにAEDは無いか?!」
「……」
この場に通りかかった大勢の善意ある人々によって、男の身体が運ばれていく。
人だかりで見えなくなっていくその姿を、少女はいつまでも見つめ続ける……。
少女よ、泣くんじゃない。泣いてはいけない――――
ぶっちゃけ風船を無くすとかより、もっともっと悲しい事が、この先の人生いっぱいあるのだから――――
男はそう願いながら、やがて静かに瞳を閉じます。
心からの笑みを、その顔に浮かべ……男は死にました。
――――あぁ、少女の人生に幸あれ! 御身に栄光あれッ!!
男がこれまで鍛え上げてきた素晴らしい肉体美、努力の結晶である全身の
悔い無し、と。