会話が途切れてしまうと、コクピットの中はやけに静かだった。スピーカ出力にした救難チャネルの無線からは波音のようなホワイトノイズが流れ、全周モニタの正面には赤外線カメラによって輪郭がぼやけた月のモノクロ映像が表示されている。
「…情報機雷」
色彩が欠けたモニタを背にして、エリーゼがぽつりと言った。道端の石ころを見て、石が落ちていると言うような平坦さで呟かれたせいで、機体の応急修理プランを考えていたアッシュには良く聞こえなかった。
「え? すまない、いま何て言ったんだ?」
「ウィルスプログラムのこと。あたしたちは情報機雷って呼んでる。モビルスーツの最適動作パターンのアップデートプログラムに偽装して、ニセモノの機影をモニタに表示させるように作られてる」
コンコンとモニタの表面をノックしながら、ため息交じりに渋面を作るエリーゼは言葉を区切ってアッシュの反応をうかがった。顔の筋肉は兵士らしく固めているけれど、目が好奇心に満ちている。なんて分かりやすい男なんだろう。
サイド7でしばらく一緒に暮らした男より可愛げがあるのは認めるが———待って。あたしは今なにを考えた? ティターンズのこいつに、可愛げがある? そうじゃないでしょ。
「シミュレーション訓練をしている時に、どういう仕組みなのか質問して…エゥーゴもティターンズも同じアナハイムが作ったものなんだから、システムに大きな違いはないって言うから…うん」
「ちょっと待ってくれ、イズミカワ軍曹…君が情報機雷の発案者なのか!? 看護師で、パイロットで、エンジニアなのか? 天才か君は!?」
「やめて。半人前の看護師で、素人パイロットなだけよ。エンジニアなんて上等なものじゃなくて、ただ思いついた物を上司に話しただけ。だから天才とか、そんなのじゃない」
「それでもだ」
「それでも、なによ」
「それでも…君に感謝を。今の話でかなり推測が裏付けられた。なんとかできると思う」
そう言ってアッシュは自分の上唇を舐め、首をごきりと鳴らすとコンソールをキーボード表示に切り替え、勢いよく操作を開始した。全周モニタに次から次へと矢継ぎ早にウィンドウが開く。作業の邪魔にならないよう彼の正面から横に移動したエリーゼだったが、次第にウィンドウが彼女をパイロットシートの後ろまで追いやってしまった。
ごつくて太い指なのに、まるでピアニストじゃないかと六割ほど呆れながら感心していると、エリーゼは彼の黒髪から脂汗がひとすじ垂れていることに気付いた。横顔を観察すると奥歯を噛み締めているし、体全体が汗ばんで発熱している。
「准尉…あんた、傷が相当痛むんでしょ? 無理しないで」
「問題ない。今は頭と手を動かしてるだけだ。僕らには時間がない。一分早く軌道修正の噴射ができれば、その一分で救助される可能性を上げられる」
「それはそうだけど…」
何か手伝えることがあればいいが、アイコンをタップしたりせずにキーボードだけで見たこともない文字列ばかりの画面を凝視してるアッシュの作業は、正直なところ何をしているのかさえ分からない。
「…直接入力の作業は、見たことないのかい?」
「その、直接入力って言葉すら初耳よ」
「そっか、僕はこっちの方が性に合うんだ。ほら、情報機雷とやらの尻尾を捕まえたぞ。正規のアップデートファイルディレクトリに潜り込んで、更新履歴を偽装してるけどファイルサイズが不自然だ。やっぱり、かなり急いで作った感じで作りが雑だ。ただ、僕なら罠の一つ二つは仕込むな…」
会話なのか独り言なのか不明瞭で、思考が口から漏れているかのようなアッシュにエリーゼは眉をひそめた。熱に浮かされた患者のうわ言ではない。意味はさっぱり分からないが、論理的な思考から出ているものなのだろう。
つまり———
「あなた、ギーク?」
「そんなんじゃない。僕はエンジニア志望なだけで、ギーク呼ばわりされるのは心外だ。だいたいギークとかナードとか言ってくる連中の方がおかしいんだ。勉強しないでブルーカラーになるのは勝手だけれど、僕まで巻き込んでほしくないよね、実際の話さ! その点、このウィルスを作った奴は道理を解ってるよ。僕ならそうするって仕掛けを、小さなパッケージの中で良く作り込んでる…」
つまり、この男はどうやら屈強な軍人の皮をかぶった少年だ。大人になりきれていないどこかの日で心の時間を停めてしまって、外側だけを鋼のように鍛えただけ。こうやってコンピュータの操作をしていると、それが表に出てくるんだろう。
なんて滑稽で、むごい姿だろう。この男が妙に初心なのは、そのせいなんだ。マクソン准尉という男はティターンズの狂った選民思想の共犯者ではなくて、彼らのプロパガンダを馬鹿正直に信じているだけだ。
少し前の自分なら、なんて愚かなことだと思ったに違いない。年齢とともに、まともな判断力を身につけたなら考えられない選択だと。しかし、理解できた気がする。ユージン・マクソンという少年の心は、今も火と瓦礫の海になった故郷の四つ辻で立ち尽くしているんだ。
ティターンズのことは、今だって許せない。だが、鏡に映った自分を殴れないように、この男を憎み続けることはできそうにない。しかし、鏡の中の自分を抱きしめられないように、この男を受け入れることも難しい。なぜなら、自分も酷く———歪んでいるからだ。
やっとわかった。あたしは———あたしも、壊れている。愛していた家族と故郷を奪われて、なりふり構わず復讐のために持っているものを全部叩き売って生きてきた。自分にはそれしかないと思っていた。針のように自分を鋭くしなければ、届かないと信じていた。
でもそれは、どこに届かせようとしていたのだろう。もし針が届いたとして、その後に何が残るのだろう。ジオンやティターンズという組織に針穴を一つあけたとして、それであたしは満たされるのだろうか。
エリーゼは独り言を呟きつつ作業を進めるアッシュの後頭部に目を落とし、黒髪の流れを追いながら思考に沈んでいく。歪んでいる自分、壊れている自分、狂っている自分。そんなのはとっくに分かっていたはずなのに、どうしてこんなに辛いんだろう。
「…おかしいね」
「おかしくない。ちっともおかしくない。こんな言い方は不適切かもしれないが、君とはもっと早く別の形で会っていたかった」
意図せずこぼれた呟きに思いがけない言葉が返され、エリーゼは弾かれたように顔を上げる。だが、アッシュの目は相変わらずモニタに固定されていて、それ以上の言葉はない。
きっと偶然に会話のようなものになっただけだ。心の内を読まれたわけではなく、ただの偶然。そうに違いないと頭で考えても、おかしくないと肯定されて心は不思議なほど軽くなったように感じる。
「そうね、もっと早く…別の形で会えていたら、良かった」
この人が振り向いていなくて良かった。きっとあたし、ひどい顔してる。聞こえないように小さく鼻をすすり、エリーゼはアッシュの後頭部にブロック状の非常食とパック入りの飲料水を押し付けた。
「はいこれ、そろそろ一息ついて食べないと体力が持たないわよ。気休めだけど食後に鎮痛剤も飲みなさい。あと、熱冷ましに水のパックを首に当てるといいわ」
「うわ、冷たい! …あれ? あ、そうか…すまない軍曹。いただくよ」
非常食のブロックを食い散らかさないよう口に運ぶ大男の姿というのは、後ろから見ても中々に愉快なものだった。最低限の栄養とカロリーを固めただけの味気ないものだが、打算も下心もない(ついでに会話もない)男との食事はしばらくぶりだった。
「じゃあこれ、鎮痛剤」
「ありがとう軍曹」
「エリーゼ」
「うん?」
「あたしたち、チームなんでしょ? だったら軍曹なんてもうやめて」
「…だが、それは…」
「何か問題でもあるの?」
「いや、問題があるわけじゃない。ただ…」
チームなら、もっと距離が近くたって良いじゃないか。それとも、まだ何かわだかまりが残っているのか? 男のくせに、はっきりしないやつだ。そんな思いがエリーゼの声音を少し険のあるものに変えた。
「ただ、なんなのよ?」
「…僕は、女性をファーストネームで呼んだことが…たぶん、ない」
「はぃ?」