キャスタウェイ   作:Bingo777

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第十七話

 かつて旧世紀の海がそうであったように、西暦に別れを告げた宇宙世紀とは言っても、星の海はいまだ人が征服したとは言いきれない場所だ。

 

 見かけ上の静止状態にある戦艦や暗礁宙域のデブリ、隊列を組む僚機や交戦中の敵機など、自機と比較の対象になるものがないと宇宙空間は速度の感覚がひどく掴みにくい。実際には秒速数十キロであったとしても、静止しているかのように感じてしまう。

 

 時間にしても、宇宙には昼も夜もない。戦艦の中でも標準時に沿って勤務シフトが設定され、照明の強弱をつけることで体内時計はほどほどに機能するが———漂流するモビルスーツのコクピットにそこまで望むのは無理が過ぎた。

 

「…どのくらい経ったかな?」

 

「…一時間前のようでもあるし、五分と経っていないような気もしてきたわね」

 

 パイロットシートの前方に位置するタッチパネル式のコンソール画面と、全周モニタの正面には現在位置と速度、そして『ゼダンの門』までの距離と到達予想時刻が表示されている。速度と予想時刻の数字は修正噴射したときの数字のままで、数十万キロという距離の表示だけが焦れったく減るだけだった。

 

 漂流している状態から、いまできる最善は尽くした。あとは救難信号を出し、信号弾を上げ、誰かが気付いてくれることと船外活動のチャンスが来ることを願うことしか、することがない。

 

「緊張しているせいか、動いていないせいなのか、空腹を感じなくて済むのは有難いな」

 

「黙っててもカロリーは消費されるわよ。ダイエットはまたの機会にすることね」

 

 飲み干した飲料水パックの数から、修正噴射を実行して2日が経とうとしていた。その間ふたりは、相手の傷に触れないように、恐る恐る指先で探るような会話をした。触れる場所によってある時はくすぐったく、またある時は痛みを伴う会話だった。

 

 その甲斐があったのか、ふたりは互いを名前で呼び合うことに慣れていった。譲れないものと許せないものを抱えながら、それでも相手を尊重し、出会っていなければ命を落としていたに違いないと考えていた。

 

「パイロットはダイエットなんかしなくても痩せるだろ?」

 

「まあね、演習いちどで2キロは落ちるもの。幸か不幸か、これまでの人生でいちばん食べまくってるのに体重が増えないわ」

 

「後方勤務の女性陣に恨まれそうな話だ」

 

「あら、そっちでもそんな話があるの?」

 

「そりゃあね。隊外の人にどう見られていても、僕らだって…ちょっと待て。エリーゼ、これを見てくれ!」

 

 全周モニタに表示された宇宙空間の一部がウィンドウに拡大され、粗いピクセルの映像が上から下にスムージング処理されていく。

 

「…なにこれ? 隕石…じゃないわね。マゼラン級…?」

 

「僕もマゼラン級だと思う。もうちょっとズームしないと分からないけど、熱分布から見て撃沈されたままだ」

 

「何かあるかもしれないってこと?」

 

「ああ。ほら、見てくれ。艦橋が潰されて分かり難いけれど…主砲塔の形状からすると一年戦争の後期に沈んだ船だ。モビルスーツの運用ができるように甲板も改装されているだろう?」

 

「あたしの乗ってる『サザーランド』も似たような甲板だわ。軌道要素はどうなの?」

 

「いまの速度と軌道要素を考えると…あの船は漂流してるんじゃなく『ゼダンの門』かサイド3宙域に向けて飛ばしてるんだろう。待ってくれよ…トランスポンダの電波が入ってきた…うん、無人回収中の船で間違いない」

 

 旧世紀の戦艦と同様、宇宙世紀の軍艦も建造には莫大なコストを投じている。それを人命と一緒に湯水のごとく浪費するのが戦争だが、戦いが終わって熱狂から醒めると国家理性というものは手のひらを返して財布のひもを締めるものだ。

 

 そんな中ではあるが、新造と同等以上のコストがかかるけれど、遺品の回収という名分が有権者の支持を得られると判断した地球連邦政府は宇宙軍へ『可能な限り回収せよ』という訓令を下した。かくして、損害のわりあい軽微なものから、訓練の標的艦にするしかなさそうなものまで———軍は各拠点ごとに手近なものから順に無人の回収機を飛ばした。

 

 すでに壊れているものなので、多少のデブリや破片と衝突したところで支障はない。それよりも回収と解体にかけるマンパワーとスクラップの置き場の問題から、これら艦艇の回収はそれなりの速度と、それなりの軌道で拠点の近傍に飛んで来てくれたら十分という適当さで実行されていた。

 

「幽霊船で宝探しってことね。まるでテーマパークだわ」

 

「女性をひとりで行かせるのは心苦しいけどね」

 

「ユージン、あなたはアンテナの修理があるでしょ。エスコートが必要なほどお嬢様じゃないの。それに、ホラーハウスが得意な顔してないわよ」

 

「実は怖がり屋でね、殴れないやつには近寄りたくない」

 

「ふふっ、ホラーハウスの従業員には嫌な客ね。うっかり脅かしたら、そのゲンコツで殴られるんだから。さて、あとどのくらいで幽霊船とランデブーできるの?」

 

「マゼラン級との相対速度はこっちが優速だ、1時間もしないで追いつくよ。ただ…できる限り減速したくないから、船内探索は往復も含めて20分で戻ってほしい。トラブルが発生した場合に備えて、これは厳守してくれ」

 

「無茶なこと言わないでよ。実質10分もないじゃない」

 

「探索を甲板上のモビルスーツデッキ付近に限定して、整備用の資材庫からコクピットの空気フィルタを探す。これを最優先とすれば間に合うと思うんだ。艦内に潜り込む必要はない。むしろ、それはリスクが高いから避けてほしい…距離と宙域の残留ミノフスキー粒子の濃度次第で、通信だって確実じゃない」

 

「はあ…心配性ねえ。でもいいわ、言う通りにする。あたしはアマチュアで、あなたはプロ。だからそんな顔しないで? はじめてのお使いに行くわけじゃないんだから」

 

「…そんな顔って、僕は普通の顔をしてるだけだ。それより、信号弾を持って行くのを忘れないでくれよ? トラブルがあったら、迷わないで打ち上げるんだ。すぐ助けに行く」

 

「はぁいママ、信号弾もハンカチもティッシュも持ったから心配しないでね」

 

 憮然とした表情で口をへの字に曲げるアッシュを見て、エリーゼは困ってしまった。彼との会話が、こんなにもくすぐったく、胸を温めるようになるなんて。これがストックホルム症候群なのか、それとは別の何かなのか分からないが———彼の視線が心地よい。愛されているのではなく、ただ純粋に案じられていると分かる。

 

 それは乾いた温かさで、まるでヘアドライヤーの風だ。いまは、それが心地よかった。

 

◇ ◇ ◇

 

《じゃあ、行ってくるわ》

 

《エリーゼ》

 

《なに?》

 

《気を付けて》

 

 開放されたコクピットのハッチに立つエリーゼは、ひらひらと手を振るとハッチを軽く蹴って飛んだ。その後姿を見送りながらアッシュは考える。手持ちのリソースは有限であり、ひとつだって無駄遣いしていいものではない。呼吸のひとつ、飲料水のひと口、すべてが貴重品だ。

 

 どれひとつ捨てて良いものは無いが、はっきりと優先順位がある。空気と水だ。人間は呼吸できなければ3分で窒息し、水がなければ3日で死ぬ。その両方があれば、食べ物がなくても2週間は耐えられる。

 

 この話は繰り返し聞かせたのだから、そこに問題はないはずだ。彼女がそうしているように、自分もやるべき事を終わらせてトラブルに備えるべきだ。アッシュはコクピット昇降用のワイヤーステップを引き出し、命綱として腰に巻き付けると『マラサイ』の頭部に飛んだ。

 

 人間なら額にあたる部分から長く伸びた一本角のようなブレードアンテナは、その基部からへし折れていた。応急修理とはいえ、これは骨が折れそうだ。パイロットスーツの船外活動許容時間には十分に余裕があるが、手分けしたのは失策だったかもしれない。

 

「一緒に行けば単純に計算して、二倍の探索ができた」

 

 そう言葉に出してみると、どんどん判断を誤ってしまったように思える。しかし、二人ともトラブルに巻き込まれた場合はどうなる。そこで、どちらも一巻の終わりだ。自分が残って万が一の時に備える、そう結論したのは自分ではないか。

 

「どれだけ考えても、完全な決断は不可能だ。決断を引き延ばした分だけ、死神が近付いてくる。二択に迷ったときは、楽じゃない方を選べ…」

 

 験担ぎにも思えるパイロットの間で語られる格言のような言葉を聖句のように暗唱しながら、アッシュは手を休めずにアンテナの応急修理を続ける。しかしその視線は数秒おきにエリーゼが探索している方に向けられ、焦りにも似た不安が募るばかりだ。

 

《エリーゼ、聞こえるか?》

 

 携帯端末に目を落とせば、もうそろそろ戻ってきても良い頃合いだ。彼女が出発したときマゼラン級の艦尾に追いすがる形だった『マラサイ』は、もう艦首付近まで追い上げている。あと10分もすれば追い越してしまうだろう。

 

《聞こえるか? エリーゼ、応答してくれ》

 

 ヘルメットのスピーカーからはホワイトノイズしか聞こえず、割れてしまったシールドを補修テープで目張りしたせいで視界は半分になっている。まさか、そのせいで信号弾を見落としたのか? いや、そんなことは無いはずだ。

 

 ならば、信号弾を打ち上げることもできない状況なのではないか。今すぐにでもモビルスーツごと救出に向かうべきなのではないか。取り越し苦労であっても、少しばかり減速する程度で済むのだ。

 

 『ゼダンの門』の近傍に到達するまでの時間が多少伸びたところで——彼女と、エリーゼと一緒に助からなければ意味がないんだ。彼女を見捨てることを軍法や倫理が許容したとしても、心の深い場所から沁み出る熱が、それを許さない。

 

《頼む、エリーゼ。頼むから返事をしてくれよ!》

 

 名を呼んでも返事が戻らない、その不安はアッシュの中で容易く恐怖へ変貌する。これじゃあ、あの時と同じじゃないか。ニューアークで助けられなかった、あの子と同じじゃないか! いやだ、あんな思いは二度とごめんだ! また同じ目に遭うくらいなら、死んだ方がずっとましだ!

 

《エリーゼ!!》

 

 顔を歪ませ、泣き出す半歩手前の少年のような表情を浮かべたアッシュは、深く呼吸をひとつ大きくして決意する。そうはさせるか、もう何も失うものか。僕たちはチームだ。何がなんでも、取り戻してやる。

 

 コクピットに飛びこんでシートのベルトを締めるより早く、アッシュは操縦スティックを握り込む。

 

《行くぞ!》

 

 姿勢制御をオートからマニュアルに戻すと、マラサイのモノアイがパイロットの意志に応えるかのように光った。

 


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