再三の呼びかけに応答がなく、信号弾も上がっていない。それは疑いようもないトラブルのしるしだ。アッシュは操縦スティックを素早く円を描くように回し、入力された動作はモビルスーツの腕を大きく振りあげる。
人間型モビルスーツには四肢を動かす慣性を利用して、補助的な姿勢制御を行うAMBACという手法がある。推進剤をわずかでも節約し、継戦時間を伸ばせるというメリットがあるためパイロットの技量を測る目安にもなるものだ。
スラスタを使わず、一挙動でマゼランの甲板に機体の正面を合わせたアッシュはアイカメラの映像をズームし、エリーゼの姿を探した。目を見開き、どんな痕跡も見落とさないようにモニタを見つめる。
だが、何も見つからない——いや、あれは何だ。ガラスか氷の破片のようなものが散っているように見える。
その映像を確認した次の瞬間。アッシュは推進剤の残量のことも、ひざから下が吹き飛んだ機体であることも頭から蹴り飛ばし、彼女の名を叫びながら力任せにフットペダルを踏み込んだ。
確信に等しい胸騒ぎがする、透明な破片が散っている場所めがけてモビルスーツは戦艦に白兵攻撃を仕掛ける勢いで飛び込んだ。
《エリーゼ! どこだ、返事をしてくれ!》
《……ユージン、あなたの声って…スピーカーを通すと…ふふっ、最悪ね。ひどい声》
《どこだって聞いてるんだ!》
《…オレンジ色で、モノアイの馬に乗った…へんてこな王子様は、わがままね…》
破壊されたマゼラン級の荒れた甲板が、瓦礫と炎に埋め尽くされた故郷の風景と重なる。
息苦しそうなくせに減らず口を止めようとしないエリーゼの声が、あの子の姿と重なる。
いやだ! やめてくれ、どうしてこんな時に思い出すんだ僕は!? あの時とは違うんだ! それを証明するんだ、ユージン・マクソン!
直感のままコンソールを叩き、モノアイのセンサからマゼラン級のモビルスーツデッキ周辺をスキャニングする。観測画像を処理し、赤外線の温度分布から不自然な熱源を——エリーゼの場所を探せ。パイロットスーツを着ていたって生きているんだ。周りよりいくらか温かいはずだ。
《…ユージン、聞こえる?》
そうとも、彼女は生きて熱を放っている。そいつを探すんだ、1秒でも早く!
《…ああ、聞こえてるよ》
《…ユージン、あのね…》
頼むよ、マラサイ。新型なんだろう? ジェネレータだけじゃなくて、センサもコンピュータの処理速度だって、ハイザックとは違うんだろ? 助けてくれ、頼むよ!
《あたしね…いま、怖いって思ってる…すごく、こわい…》
早鐘を打つ心臓を殴りつけ、じれったい画像処理の速度に唇を噛み、アッシュはモニタを睨みつけて兆しを探す。
《ユージン…ユージン…おねがい、たすけて…! 置いて、行かないで…!》
すすり泣くようなエリーゼの声が、ヘルメットのスピーカーではなく凝視するモニタの一点から聞こえた。アッシュには、確かにそう聞き取れた。
《誰が君を置き去りにするもんか! 見つけたぞエリーゼ! 君を見つけた!》
瓦礫の故郷から遠い宇宙で、僕は君を見つけた! もう奪わせやしない、取り上げられてたまるか、エリーゼだけは取り戻してやる!
マラサイの鋼鉄の腕が伸ばされた先にあるのは、あの時と同じように瓦礫に埋もれた右手だった。炎ではなく氷の塊に拘束され、力なく垂れさがっている右手だ。彼女はモビルスーツデッキの資材庫を見つけ、そのハッチを開けてこの状況に陥ったようだ。
《ゆっくりでいい。エリーゼ、状況を教えてくれ。資材庫のハッチを開けて、中から水か何かが出てきたってことなのか? このハッチを取り除いて、君が負傷することはないか?》
《たぶん…突然で良く分からないけど、そういう事だと思う。あっという間に凍り付いて…出血もしていないはずだけど…氷の圧力で、息が苦しいわ…》
宇宙服を着ている限り、氷で体温を奪われることはない。しかし氷漬けになってしまうと身動きは取れないし、ノーマルスーツのように破片に対する防御を考えていないパイロットスーツは、液体が固体になる際に生じる圧力に耐える設計ではない。
《飲料水パックとか、冷却水やアクチュエータの潤滑油だとか…そういうやつが資材庫の中で漏れてたみたい…びっくり箱みたいに飛び出してきて…》
《もう喋らなくていい、ゆっくり呼吸するんだ。モビルスーツの腕でハッチを取り除く。少し衝撃があるから、舌を噛まないように気を付けるんだ。いいな?》
《わかった…》
《スリーカウントで行くぞ…1、2、3!》
鋼鉄の腕がハッチの残骸をめくりあげ、氷と金属の破片が水しぶきのように輝きながら舞った。ひと思いに放り上げてしまいたい衝動を押し殺し、ゆっくり持ち上げていくとハッチの裏側にはりつけられたエリーゼの姿が見える。
ほぼ全身を氷で縛り上げられ、ひどい有様だが——それ以上の外傷は見られない。手足が骨折している様子もなさそうだ。忌々しい氷を砕けば、十分に救えるに違いない。コクピットを飛び出し、アッシュは腰のホルスターから拳銃を抜く。
《ユージン…》
《喋らなくていい、銃で氷を砕く》
これまで引いてきた銃のトリガーは、すべて殺すためだった。敵を殺して、失くしたものを奪い返すために引き続けた。けれど、その末に何も戻って来なかった。モビルスーツに乗って戦場に立ち、銃口を敵に向け、数えきれないほど引いたトリガーでは誰も帰って来てくれなかった。
氷に向けて拳銃を撃ち、弾切れになった銃のグリップでひび割れた氷を殴りつけ、少しずつエリーゼを奪い返す。
《ユージン…どうして、あなたが泣いてるの?》
《…わからない。ただ、どうしようもなく悔しくて……嬉しいんだ》
上半身が解放され、涙の粒をヘルメットの中に浮かべるエリーゼの笑顔を見て、アッシュは雄叫びを上げて彼女を抱きしめた。弱々しく抱き返される腕の力を感じ、スーツごしに感じるはずのない熱に心を満たされる。
《エリーゼ、僕は…やっと、やっと取り戻せたよ…! この戦争から、君を取り戻したんだ…!》
◇ ◇ ◇
子供のように泣くじゃくってしがみつく男に、エリーゼは彼の心に残る傷を知り、その力と痛みと熱を感じた。あたしたちは、本当に鏡合わせだ。だから愛せないと思った。それなのに、アッシュはあたしを抱きしめている。こんな自分を見捨てずに、置き去りにしないでくれた。
サイド2の故郷が、『アイランド・イフィッシュ』が地球に落とされてから——あたしは誰かに『たすけて』という言葉を、一度も使わなかった。誰もそんなことができると思わなかったから。
でも、それは違うんだね。あたしが言わなくても、助けてくれる人はいたよね。ありがとうって笑いかけてくれた人も、あたしを守ってくれたイズミカワさんたちもいたよね。ユージンは命がけで助けてくれたよね。
《…ばかね、あたしたち。こんな簡単なことに、どうして気が付かなかったのかなあ。こんなに遠回りして、こんな場所までこないと気が付かないなんて、本当にばかだわ…》
《そうだな…ばかだ。君はどうしようもない大馬鹿で、僕はそれに輪をかけたクソ馬鹿だ。だからエリーゼ、笑ってくれよ。僕は思いついたよ、生き残る方法を見つけたんだ。聞いたら、君もひっくり返って笑えるやつだ!》
《なによそれ…じゃあ、ユージン。賭けをしましょ》
《…なにを賭けるんだ?》
《もし、その方法で生きて戻れたら…キスして。思い切り抱きしめて、あたしにキスして》
《僕が思い切り抱いたら、君の背骨が砕けちまう》
《加減ってもんを知りなさいよ野蛮人。あなたに王子様の役なんて、もうめぐってこないわよ?》
《君みたいな跳ねっ返りにお姫様の役が回ってくるなら、僕にだってまだチャンスは残ってるさ》
ぐいと身をそらしたエリーゼの唇は拗ねた形にとがり、握った手がアッシュの胸を軽く叩く。その仕草は少女のようだ。互いの目を見つめ合うこと数秒、砕けた氷と投げ捨てた拳銃の浮かぶ中で、また二人は強く抱きあいながら大声で笑いあった。