キャスタウェイ   作:Bingo777

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第二話

 宇宙世紀0087年、8月。

 

 白いパイロットスーツを着ていたアッシュは、いまは濃紺の軍服に袖を通していた。

 

 ティターンズ。

 

 それが、『一年戦争』と味気ない名で呼ばれることになった日々を生き延びた彼が志願し、厳しく選抜され、所属する部隊の名だった。

 

 単独撃墜、七。

 共同撃墜、二十三。

 階級は、准尉。

 

「促成教練上がりの坊やにしちゃあ、まあまあってとこだな」

 

 配属された部隊の中尉は皮肉屋らしく、出頭したオフィスで彼が手渡した軍歴の一部をいやみっぽい声で読み上げ、唇の端だけで笑った。

 

「准尉。俺もお前のことを、親しみを込めて『アッシュ』と呼んでも良いか?」

 

「はい、中尉殿。光栄であります。どうかそのようにお呼びください」

 

「よろしい。ではアッシュ、配属早々だが我が中隊は出動命令を受けている。貴様は欠員補充だ。わかっていると思うが、ティターンズに無能はいない。義務を果たせ。言うべきことも、やるべきこともそれで十分だ」

 

「はい、中尉殿。義務を果たします」

 

「明朝0600にブリーフィングを行う。せいぜい今夜は娑婆で羽目を外してこい。なに、MPなんか気にするな。もし口出ししてくるやつがいたら…こう言ってやれ。『誰が地球を守っていると思っていやがる』とな」

 

 敬礼を交わしオフィスから退室したアッシュは、上官に言われた通りベルファストの市街に向かうことにした。新兵教練を受けた思い出深いはずの街並みだが、感慨も感傷すらも湧き上がらない。

 

 自分の心は凍ってしまったのか。何を見ても色が薄く、何を食べても味がなく、すべてが遠い出来事のように感じる。この七年間で髪の色は黒く戻った。けれど、心を廃墟に置き去りにしてしまったのだろうか。

 

 任務に就いている時は、それがただの体力維持訓練であっても、命令を受けてそれを遂行している時は悩まずに済む。しかし、日も傾いていない時分から『娑婆で羽目を外せ』と言われると———どうしていいか、わからない。

 

 退屈とは違う。待機することは苦にならない。任務があれば、命令であれば何日でも待機できる。反面、曖昧な命令は困ってしまう。私服に着替えて久しぶりの余暇に浮き立つ他の兵士たちの中で、ひとりだけ軍服のまま余暇の使い道を真剣に思い悩む。それに違和感を覚えることさえも、彼はどこかに置き忘れていた。

 

◇ ◇ ◇

 

 アッシュは基地と市街を往復するバスから降りた。旧世紀の石畳を残すメインストリートを歩き、かつての風情を醸そうと苦心の跡が伺えるデザインの街灯を見上げ、歩き回ってみた。

 

 気持ちはとうに疲れ果てた。しかし体感時間と腕時計から、たった一時間しか経過していないと告げられて暗澹たる心地になる。市街に降りて、命令の半分は達成した。だが『羽目を外せ』という部分が、ひどく難しい。

 

「そこの軍人さん、暇なのかい?」

 

 途方に暮れた、という気持ちが背中ににじんでいたのか、後ろから声をかけられた。聞くからに軽薄で調子のいい男の声だ。

 

「そう、あんただよ。あんまり見ない軍服だけど、階級章は少尉…いや、准尉さんか。若いのに大したもんじゃないか」

 

「あなたは?」

 

「あっしは…そうだなあ、疲れた男たちに休息を与える仲介業者ってところさ。あなた、なんて丁寧に呼ばれたのは初めてだけどな」

 

「休息を与える仲介業者、と伺いましたが…」

 

「そう、それだ。あんた、疲れた顔してるよ。うん、相当疲れてる。あんたは心が疲れてるよ」

 

 心が疲れている。

 

 それは、単にポン引きの男が受け持ちの娼婦をあてがおうとする際の常套句に過ぎない。今のご時世、この戦況下。疲れていない兵士など、ただのひとりもいない。

 

 しかし、アッシュにはその言葉が刺さった。軍医の言うPTSDという便利で役に立たない病名より、よほど心に響いた。だから、普段なら眉をひそめるほど馴れ馴れしく肩を抱いてくる男にも、その煙草臭い息にも気付かないまま路地裏に連れ込まれることになった。

 

「よう、お前に客を連れてきたぜ。しっかり癒して差し上げろよ」

 

 そこはいつ建てられたのか判然としない建物だった。一年戦争の戦火を耐え抜いたのが奇跡のような、外壁に焼け跡の残るアパート。鼻を衝くアンモニア臭がこびりつき、捨てられた注射器も掃除されないままの階段を三階まで上らされ、押し込められた部屋にはベッドと小さなテーブル。そして、窓際に立つ———幽霊のような女がいるだけだ。

 

 じゃあ、ごゆっくり。男は愛想笑いを深くしてドアを閉じた。

 

「ようこそ、かわいいひと」

 

 光の加減で透けてしまいそうな服の女は、そう言ってアッシュに危なげな足取りで近付いた。ゆっくりとした動作だが、裸足の左足が普通とは違う。そして、彼女の目は自分の方を向いているが、見ていない。いや、見えていないのかもしれない。

 

「ごめんなさい、どこにいるの? かわいいひと」

 

 片言で自分を探す女に、推理が裏付けられた。

 

「かわいいかどうかは分からないけど、僕はここにいるよ」

 

「こっちにきて、かわいいひと。あなたを抱きしめたいの」

 

 靴音が近付き、女はアッシュの胸に手を添えると指先を這わせて首に腕を回す。その後を追うように女の唇が押し付けられ、舌が口の中に滑り込んでくる。温かくぬめる肉に歯茎を舐め上げられ、突然の刺激に目を剥いた。

 

「のっぽさんなのね、かわいいひと。だいじょうぶ、ぜんぶ…してあげる」

 

 気付かないうちに———唇の刺激に意識を奪われているうちに、アッシュは上半身を裸にされベッドに押し倒されていた。

 

「僕は…なぜ、いつの間に服が? 君だって、どうしてそんな!?」

 

「あわてないで、だいじょうぶ…」

 

 慣れた手つきで自分の服を脱いだ女の胸があらわになる。こんな状況は大学の授業でも、軍の教練でも教えられていない。ありとあらゆる状況を想定する演習でも、単独行動中に女に組み敷かれた時の対処方法などは、文字通りの想定外だ。

 

 女は蠱惑的にくすくす笑いながら再度アッシュの唇をむさぼり、その指先を耳から首すじ、肩の傷跡を愛おしむように辿って胸へと下ろしていく。訓練を重ね、詩的な表現では火の試練と言われる初陣を経て、苦痛には慣れた。

 

 その自分の肉体が、未知の感覚にわなないている。心拍と呼吸が異常だ。体中の皮膚が発汗し、発熱も感じる。風邪をひいていても関係なく、重さ二十キロを超える歩兵の装備を身に着けて、十キロ走る訓練を飽きるほど繰り返したはずの体だ。それなのに、たやすく息が切れる。

 

 なにより、この背筋をちりちりと這い上る電流が、腰を勝手にくねらせてしまう。

 

「だいじょうぶ…だいじょうぶよ…」

 

 自由落下による無重力状態にも似た、寄る辺ない不安感が募り———女の指先が股間に伸びた瞬間。アッシュは爆発し、泣き叫んで女の胸にとりすがった。喉から出るのは理性による言語ではなく、ただの叫び。それも、軍人として規律を叩きこまれた鋼の男ではなく、抑制のかけらもない絶叫だ。

 

 新兵ならば死に際に母に助けを求めることも、珍しくない。だが、彼はティターンズだ。大地を背負い立つ神話の巨人、タイタンの名を冠する部隊の一員だ。能力と忠誠心に裏付けられた、誇りある兵士。

 

 それが、幼児のように泣いている。アッシュがその気になれば、枯れ枝を折るよりも容易く砕けそうな女の細い肩にすがり、その胸に顔をうずめている。

 

「つらかったのね、かわいいひと…」

 

 アッシュが『辛い』という言葉の意味を咀嚼したのは、黒髪を梳くように撫でられるうちに眠って、目覚めた後だった。

 

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