どうしようもなく、俺のホワイトデーはまちがっている。 作:サンダーソード
その日の放課後。少々のごめん嘘、多大な緊張を孕みながら、奉仕部の扉をからりと開ける。
「…………うす」
「あ、ヒッキー来た! ゆきのん、ヒッキー来たよ!」
「見れば分かるわ。……少し待ってて。紅茶を淹れるから」
朝に昇降口で偶然由比ヶ浜に会ってからこっち、お互いに今日が何の日か認識しつつもそれに触れようとはせず、かつお互いにそれを分かっているんだろうというくすぐったい停滞の中、どうやってあいつらに切り出そうかと考えていたら光陰矢のごとし。受けた授業の記憶も薄く、ただ時間だけが過ぎ去っていた。さすがは百代の過客。
自然と止まっていた足を動かして、とりあえずは自分の席まで辿り着く。期待を隠しきれず目を輝かせてる由比ヶ浜と、いつも通りに振る舞っているようで本すら出していない雪ノ下。
軽く咳払いをするも、そもそも二人の意識がこっちに向いている状態なので意味がないことに気づき、それを誤魔化すために咳払いをしてつまりは恥を上塗る。
ああもう、なるようになれだ。
「……なあ、ちょっといいか」
「うんっ!」
「あら、それはどちらに言っているのかしら?」
「……雪ノ下、由比ヶ浜、二人にだ」
「いいわよ。何かしら?」
「……あー、その、先月、あれで、あれが、あれじゃん? で、今日が、その、あれだから」
「いや、ヒッキー何言ってんのかわかんないから」
「あなた、国語学年三位と自慢していたでしょう。今更指示語の使い方の指導が必要?」
むぐ、と詰まる。自分が喋った内容を頭の中で反芻するが、あまりの酷さに愕然とする。おい、俺こんなに日本語不自由だったか。ああ、不自由なのはコミュ力か。納得した。
深呼吸を一つ挟んで、喋るべき一文を頭の中で組み立てる。
「…………その、先月、の、お返し、を、持ってきたんだが」
「……うあ、どうしよ、思ってたよりずっと嬉しい」
「……由比ヶ浜さん、表情が緩みすぎよ」
「ゆきのんだって嬉しいくせに」
「…………」
すまし顔のまま、ぷいとばかりにそっぽを向く。その頬に赤みが差しているのが見て取れて、緊張がいや増す。
放課後まで悩み続けたが、結局手作りのクッキーと母ちゃんから譲り受けた既製品のどちらを渡すべきかの解は出なかった。
だから、二人に選んでもらうことにした。
なんとも形容しがたい、されど暖かな二人の視線に晒されながら、歪に膨らんだ鞄から化粧箱と袋を取り出し提示する。
「……その、な。一応、作って、は来たんだが……。上手く出来てるかも分かんねえし、もしそれなりに上手く出来てても、やっぱ既製品のが旨いだろうし、まあ、でも、念のため、両方持ってきはしたんだが……」
頭の中真っ白になりながらの拙い説明。最初は気力で二人の目に向けていた視線も言葉が下るに従って下がっていく。最後には長机で湯気を立てる湯飲みのパンさんと目を合わせながら両手を突き出し、一言。
「どっちが……」
「手作りの!!」
言おうとしたらその途中でがたっと音が鳴り、由比ヶ浜が食い気味に声を張り上げる。
言葉尻を奪われて視線を戻すと、椅子を蹴立てて左手を長机に前傾で、喜怒哀の入り交じる複雑な表情を浮かべていた。そのらしからぬ気色に胸が高鳴る。
「手作りのに、決まってるじゃん。ヒッキー、言ってたよね? 頑張ったことが伝われば男心は、ヒッキーの心は揺れるって。あたしも、そうだよ」
真剣な彼女の前に、頭に浮かんだいつもの愚かな混ぜっ返しも立ち消える。
「ヒッキーがあたしたちのために頑張って作ってくれたのに、すごく嬉しいのに、なんでそういうこと言うのかなあ……」
「由比ヶ浜さん」
「ゆきのん……」
雪ノ下が由比ヶ浜の手を取って軽く引く。由比ヶ浜は悲哀の感情を強めた顔で俺を見ながらも、それに従って席に着く。
「……そうね、比企谷くん。由比ヶ浜さんの作ったクッキーは、市販の物よりよく出来ていたと、そう思う?」
「…………」
苦い顔をしている自覚はある。その一言で、雪ノ下の言いたいことは大体分かった。だがやはり、由比ヶ浜の手作りと俺のそれの価値は天地だ。
「……では、私の作ったクッキーは、どう?」
すぐに売りに出せるくらいには出来もいいし、そんなことは俺も由比ヶ浜もよく分かっている。だが、ここで答えればそれはそのまま由比ヶ浜との対比になってしまう。たとえ見透かされていたとしても、答えたい問いではなかった。
「……それなら、あなたにとって由比ヶ浜さんの作ったクッキーは市販のものや私のそれより価値のないものだったの?」
「……そんなわけ、ねえだろ」
それでも、これだけは否定しなければならなかった。由比ヶ浜がずっとしてきたという彼女なりの努力は、雪ノ下の払ってきた努力に勝るとも劣らないと俺は思う。市販のそれなど比較にもなりはしない。あれこそが、きっと……。
首を振って、益体もない考えを払う。
「お前らの作ったクッキー、正直、俺なんかにゃ勿体ないくらいだ。でも、それと俺のとでは話が」
「違わないよ」
静かな声で、由比ヶ浜が遮る。
「ヒッキーがお返しにって作ってくれたの、すごく嬉しいよ。でも、ゆきのんのならともかく、あたしのクッキーなんかとじゃ釣り合ってないかもしれないって考えちゃったりもするもん」
「なんか、じゃねえよ。お前のは……」
「だから、きっと変わらないんだよ。あたし、嬉しいもん。ヒッキーがあたしたちのこと考えて、あたしたちのために頑張って、あたしたちに返してくれようとしたのが、たまらなく嬉しい」
「…………」
もう、何も返せる言葉はなかった。由比ヶ浜も言うべきことは出し尽くしたのか、俺の顔を見るばかりで続く台詞は出てこない。
「……もう、分かったでしょう」
雪ノ下が俺に、俺に向けたとは思えないほどに仁愛の篭もった視線を投げて、その沈黙を破った。
「比企谷くんがどう思っていたとしても、少なくともこの部室において……この三人の中において、あなたの価値は、確かにあるのよ。……認めなさい」
その言葉に、胸の中でつっかえていた何かがへし折れ、温かなものがこみ上げてくる。声を上げればみっともなく震えてしまいそうで、目を逸らしたまま化粧箱を引っ込めて、代わりに両手に一つずつ持った袋を突き出すのが精一杯だ。
雪ノ下にも由比ヶ浜にも、もう憂いの感情は見えなかった。
二人は楚々として立ち上がり、示し合わせたわけでもなかろうに俺の前に並ぶ。そして照れ笑う由比ヶ浜と淑やかに微笑む雪ノ下は、袋を持った俺の手ごとその両手で包み込んだ。
驚愕と困惑と、それを向こうに感じる嬉しさとで声も出ない。
「……ありがと、ヒッキー」
「ありがとう、比企谷くん」
どんな花より美しく微笑む彼女たちに心の臓が踊り、また一つ大きな勘違いを積み重ねそうになってしまう。決して、決してまちがえたくはないのだ。たとえこの先の人生で永遠にまちがい続けることになろうとも、この二人とのことは。
目を閉じて深く息を吐く。
由比ヶ浜が諫めてくれたのは彼女の優しさであり、口にした内容は俺の台詞を引用しただけであり、一般論。雪ノ下が諭してくれたのは努力に対する公平性であり、認めてくれたのは……ああ、認めてくれたんだよな。二人にとって、価値はあると。
吐息が震える。駄目だ、深く考えると目の奥が熱くなる。そう、手作りを選んでくれたのは彼女たちの優しさで、受け取るのに俺の手を握って、今も温かく包み込んでくれているのは……いるのは……。
もう、何も思いつかなかった。目を開けて彼女たちを見る。
二人は、俺の答えを待ってくれていた。もう一度、やっぱり二度深呼吸をして、告げる。
「…………由比ヶ浜。雪ノ下。ホワイトデー、の、お返しだ。受け取って、ほしい。……それと、いつも……ありがとう」
待て、待って。今最後なんか俺いらんこと付け加えなかったか。二人ともなんか驚いてるし。待って。誰かバイツァ・ダスト持ってきて。時間戻して。
「うんっ! あたしも、いつもありがとう!」
「ええ……。こちらこそ、ね」
嬉しそうに、あるいは照れながら、まるで宝物のようにクッキーを受け取ってくれる。待って。ちょっと待って。顔熱い。あっつい。頭茹だってる気がするんだけど。ねえ。
あのガハマさん、大切そうにクッキーの袋抱きしめるのやめない? 雪ノ下も両手で捧げ持って、まるでそれしか目に入ってないみたいなんだけど。
これ以上二人を見てると茹だった頭でとんでもないことかろくでもないこととか考えそうだったので、あちらこちらに視線を彷徨わせて気を紛らわす。ふらつく目線は長机に放り出した化粧箱に止まり、そういえばクッキーの袋を両手に持ったときに出しっ放しにしてたなと思い出した。
化粧箱を手にとって鞄に仕舞おうとして、このお菓子の出所つまりマイマザーが頭に浮かんだ。
……あっ。
これ持って帰ったら絶対家叩き出されるわ。渡すまで帰ってくるなって。さりとて事情の説明なんぞ出来るはずもなく。むしろそれが出来るなら朝あんなことになってねえ。
改めて雪ノ下と由比ヶ浜を見る。二人ともまだ余韻を噛み締めているようで、ほころんだ笑顔のままクッキーの袋に意識を注いでいる。
……まあ、うん。拙い手作りに喜んでくれたのに水を差すなんて出来るわけもないし。少し待つくらいどうってこともないよね?