今日は朝から頭が冴えなかった。
起床して朝食を摂り、歯を磨いてから服を着替え司令室に向かうまでに5回壁に頭を打ち付けた時点で、笑えないほどぼうっとしていることに気がついた。
それでも執務には影響がなかった。見慣れた形式の書類を手慣れた手順で処理するだけであるため、特筆すべき難点など存在しなかった。
「料理とかできるといいよね」
「急にどうした」
「お昼近いから」
昼前の空腹が執務に向かう力を失わせてくる時刻。
川内は既にすべての集中力を昼御飯の想像に注いでいるらしく、料理の大切さを説いている。私も一部賛同する感覚を覚えつつ、なるべく目の前の作業に注意する。
曖昧ですっきりと冴えない曇った頭では、会話をしながら執務をこなすことすら無理難題のように思えた。
「自分で美味しい料理つくれると楽しいと思うんだよね」
「それはそうだが」
「でしょー?」
「私には気力が足りない。雑なものでも調理できるだけでいい」
「えー。料理できる男の人とかかっこいいけどなぁ」
気持ちは分かるが、そこまで辿り着くまでの過程は長い。
今まさに興味のあるものでない限り、多大な時間を費やしてまで練度を上げようとは思わなかった。私は怠惰な人間なのだ。
内容を流して読んで判を押すだけの作業に入ると、意識を彼女との会話に注ぐ余裕も生まれてきた。
「まあなんというか、私ももうちょっと家庭的になれたらいいなって。趣味も作りたいし」
先の休暇で無趣味の辛さを十二分に知ったらしい。
私がここに着任するまでは夜戦という楽しみを持っていたと聞いているが、秘書艦の立場のおかげで寝溜めができずに夜戦などできるはずもない。
そもそも、莫大な時間をかけて安全に少しずつ海域の解放をしていくつもりでいる私の指揮下では、他の鎮守府との共同作戦や大本営指導の大規模作戦時以外に夜戦を行うこともない予定だ。
私が着任して以降、この鎮守府はこれといった大きな修羅場を経験していない。私に夜戦経験は無かった。
今後川内が秘書艦を辞退することがあっても、彼女が夜戦をすることは滅多にないだろう。私の艦隊運用と川内の趣味はこれ以上ないほどに合わないのだ。
「料理なら夜戦よりはマシな趣味になりそうか」
「そうそう、けっこういい趣味になりそうって思……あれ? いまひどいこと言われた?」
「気のせいだ」
川内に夜戦をさせられないと考えると、新しい趣味を持ってくれることは都合がよかった。
ただの罵倒にすぐ気づけない川内に、少しだけ笑みがこぼれるのを感じた。表情の制限は難しくて困る。
「……鳳翔あたりなら喜んで教えてもらえると思うが」
「んー、頼ってみよっかな……」
ちらと川内の方を見ると、腕を組んで渋い顔をしている。任せた分の作業はすべて終えたようで、万年筆は書類の小山の前に置かれていた。
仕事が早い。
「……すまん」
「え?」
「私が執務を早く処理できるようになるまでは、それも少し抑えてもらわなければならない」
「あーもー、だから、謝ることじゃないって。私から秘書艦申し出たんだから。気にしてたらずっと前に辞めてるよ」
「……ああ、そうだな。私の悪い癖だ」
謝罪を口にしなければならない機会が多い社会に、随分と毒されているようだ。僅かにでも相手への蟠りを感じると、つい口をついて出るようになってしまった。
今日はぼうっとするせいでさらに口が緩まっているように感じる。気をつけなければ。
「というか提督」
「なんだ」
「それ、最後の書類だよ」
「は?」
工廠からの高速建造材使用の許可申請を受理したところでそう告げられる。
机周りを見渡す。書類が積み重なった山が右手にあるが、これは処理済みの山だ。処理しなければならない山は、いつもなら左手にまとめてある。
……ない。ほどほどの空腹とゆっくりした会話、目の前の書類の処理に、にぶい脳の処理能力はすべて占有されていたようだ。視野狭窄で気づいていなかった。
「……今日の作業量、そこまで少なかったか」
「面倒なのはいつもより少なかったけど、量は変わらなかったよ」
「……そうか」
流しながら処理できるものが多かったとはいえ、ここまで早く終わるとは予想していなかった。
しまった。やることが全くない。
「遠征と演習の結果報告、あとその資源管理がまだ残ってはいるが」
「今日もそうだったけど、報告だけ聞いて次の日に処理すればいいと思うよ」
「……遠征班が帰投するのは夕方か」
「それまでやることないよね?」
全くもって川内の言う通り、遠征班の報告を聞くまでやるべきことはない。
この場合を想定していなかったわけではなく、むしろそれを目的に日々の執務に励んでいたのだが、この日に限っては想定外が過ぎた。
頭の回転がまるでない感覚のする今日にこうなると、何をしていいのか分からなくなる。
働かない頭では思考が纏まらない。ひとまず、常々言わんとしていたことを伝えることにした。
「……これから先、日によっては日中に執務を終えることができるかもしれない」
「うん」
「そんな日には訓練を受けさせることもできる」
「それが約束だったよね」
「毎日この状況に持ち込めるかは分からない。まだ約束が達成されたとは言い難いが」
たまたま楽な作業が重なっただけで、本来ならもう少し時間がかかっていたはずだ。正式に約束を果たすことができたかと問われると、そうは思わない。
そこの意識は川内にとっても似たようなものらしく、頷きを返してくれる。
「……正直午前で終わるとは思っていなかった」
「夕方の前くらいに終わるかなーって思ってたよ」
「私もそう見込んでいた」
腕時計を確認すると、まだ朝と昼のどちらとも形容し難い微妙な時間帯だった。見込みより6時間は早い。
「本来は君の訓練時間を確保するための約束だったが……今日のこれは不測のものだ。今から訓練に行けと指示するのも酷だろう。今日はもう休んでくれていい。解散だ」
あとは自由にしろと伝える。
先程料理について語っていたが、この時間からなら鳳翔の指導を受けることもできるだろう。新しい趣味を見つけるためにも是非行って欲しいが。
なぜ私の顔を見たまま留まっているのか。
「……聞いていたか。解散だ」
「うん。自由時間ってことだよね」
「自由時間だから私の隣にいると?」
「まーやることないしさー」
「……趣味くらい作れ」
「提督がそれ言うの?」
反論できない。憐れに陰気な雰囲気を出しながら休暇を共に過ごした川内には、私の趣味の少なさが筒抜けだった。
「まあでも、秘書艦になってから夜戦もできてないし、そろそろ趣味も必要だよね」
「暇を無駄に過ごすのは辛いか」
「うん。提督もそろそろ作った方がいいんじゃない?」
「……ゲームなら趣味と呼べる」
「……封印してるよね」
「君の夜戦と同じだ。私に限っては、今はまだ趣味を我慢する時期だと把握している」
約束をきちんと果たせるまでは自粛をしなければならない。
辛くはない。努力とはそういうものだ。
「……鳳翔なら今日は休みだが」
「休日でも頼んだら料理教えてくれるかな?」
「そこは鳳翔だ」
「だよねぇ」
話を戻すと、好感触の反応が返ってくる。
いい反応だ。趣味を持ってくれるなら、私の精神的負担も少なくて済む。
「まだ昼前だ。ちょうどいい時刻だろう。聞きに行けばいい」
「んー……そうだね。教えてもらうよ」
いまいち決めあぐねているようだったため、後押しをすることにした。
きっと鳳翔なら、優しく教えてくれるはずだ。悩む必要もないと思うのだが。
「……提督は行かないの?」
遠慮がちに尋ねてくる。他人に聞きづらいことを聞くようなよそよそしい態度に、なぜかすこし腹立たしさを感じた。
やはり今日は頭が冴えていない。この苛立ちの理由も推察できないほど、思考が鈍っていた。
「……先程も言ったが、私は雑なものでも調理できるだけでいい」
「……で、でも提督、この後暇でしょ?」
「……それはそうだが」
「どうせやることないんだったら教えてもらおうよ」
未だによそよそしさを感じる川内の提案だったが、やはり反論する余裕もない。
目覚めてからずっと頭が弱い今日に限っては、彼女の意見を鵜呑みにして従うことが最善の方法だった。
苛立ちは残っていたが、原因の分からない今はひとまず無視することにする。
「……やはり趣味は作っておいた方がいいかもしれない。上官たる者、精神的に満たされず健康でない状態は好ましくない」
「……ってことは?」
「鳳翔の居場所は分からない。ひとまず空母寮に行くか」
席を立つ。川内からは既に他人行儀さがなくなっていた。
……なんなんだ。
「……へへ」
嬉しそうな響きの笑い声が聞こえたが、気のせいだと思うことにした。