半身ほどの夕陽の明るさが窓から射す司令室で、夕方の時刻を指す短針をぼうっと眺める。
書類処理が完了したあと、残る執務が遠征班の帰投を待つだけになり、暇になった司令室では、短針の動きはいつにも増してゆっくりなものに感じた。
時折、極限の暇の中でふと思い浮かんだ思考を共有しようと隣を振り向き、誰も座っていない椅子を確認しては置き時計に目線を戻す。
──つい先日までこの時間帯にそこにいた艦娘は、いま隣にはいない。
分かっていたことだが、執務に費やす時間が減り、彼女が訓練や演習に参加するようになってから、彼女と共にいる時間は大幅に減った。
そのことに対して寂寥感を覚えることなどは、決してしていない。しかし、1人でいる時間に何をすればいいのか分からなかった。
「やっほー提督!」
──だから、演習終わりにわざわざ私の元に来てくれるのを、私は喜んで迎え入れる他なかった。
「今日も疲れたなあ」
自身の席で机に上半身を投げ出した川内が、疲れの篭もったため息とともに言葉をこぼす。
演習を終えてそのままここに直行してくれたようで、まだ汗も乾ききっていない。そのような状態でわざわざ来てくれたことに、申し訳なさを感じる。
演習とはいえ、行うのは完全な戦闘行為だ。
艦娘が戦闘状態に移行すると、β-エンドルフィンの分泌過多と艤装の負荷増大が起こり、人間には耐えきれないほどの重圧が彼女たちの身に降りかかる。その代わりに超人的な身体能力を得るようだ。
しかし、人間より遥かに強い造りの彼女たちにとっては、戦闘状態を数時間継続したとしても、ただ全力で走り続けてきたくらいの負荷でしかない。
たとえそうだとしても、わざわざ真っ先にこんな所に来ずに、もっと休むことのできる場所に行ってもらいたくてならなかった。
「……お疲れ様」
「あれっ、提督が素直に労ってくれるの、なんか珍しいね」
「そうでもないだろう」
「いやいや、いつもは無言でお茶出してくれるとか、そういう回りくどい労い方じゃん」
「回りくどいのか」
自分なりに最善の労い方をしていたつもりだったが、そこまで回りくどいものなのだろうか。
私の感覚は、世間一般と離れていることが多すぎる。もっと普通の人間のような感覚で、もっと普通に川内と接したいものだが。
「だいぶ回りくどいよー? まあ本当にありがたいんだけどね、そういうのちょっと可愛いく思っ……あは。睨まないでよ」
「…………」
「でもいつもありがとね。直接的な言葉はないけど、お茶を出してくれるだけでも、今日も一日生きて働いてよかったって、そう思えるからさ」
「……そうか」
「まあ、でもやっぱり可愛いよね、提督」
「…………」
川内の感覚も、世間一般のそれとはかけ離れているようだ。
「それで、あの、提督。できればお茶飲みたいなー……って」
「この流れで出ると思うのか」
「あ、あはは」
厚かましい。散々からかわれた後で、私が都合よく茶を出すような人間だと思っているのだろうか。
残念だが、私がそこまで面倒見の良い人間なら、最初から無愛想で怖いなどと言われることもない。
…………。
まあ、一応出しておいてやろうか。ここで出すか出さないかで、私が無愛想か無愛想でないかが決定してしまう気がする。他意はない。
「……あれっ」
立ち上がりドア横に備え付けてある給湯器のもとへ向かうと、後ろの方から声が上がる。若干驚いたような声だったが、振り返りたくない。
無言のまま2人分の湯のみに茶を入れたあと、仕方なく振り返る。川内の表情が見えて、小さくため息が零れた。
「結局出してくれるところが提督っぽいよねえ」
穏やかな声色の言葉と共に、ニヤニヤとこちらを見つめてくる。ちくしょう。何故こうも攻めるときは強いのか。私が一方的に弱いだけかもしれないが。
とりあえず早く茶を渡すことにする。彼女の目の前に湯呑みを置こうと身を乗り出して──嗅いだことのない、いい匂いがした。
「ありがと」
「……ん? あ、ああ」
川内への反応が、一泊遅れる。この匂いに気を取られすぎていたらしい。匂いに意識を持っていかれる経験は初めてだ。酒に酔ったような浮遊感のある感覚だったが……まあいい。
ひとまず私も自分の席に戻る。椅子に座り茶を呷った。美味い。茶を嚥下するごとに喉が熱くなる感覚がする。好きだ。
湯呑みを机に置いた際、ふと気づいた。
先程までは気づいていなかったが、あのいい匂いをうっすらと感じる。とてもいい匂いだった。包まれているだけで安心できるような、懐かしい匂いだ。
「……なあ、川内」
「ん、なに?」
「なんの匂いなのか分からないが、いい匂いがしないか」
「え? ……いや、しないけど」
「……そうか」
川内には感じられない匂いらしい。とても心が温まるものなのだが、共有できないことが悔やまれた。
どうにかしてこの匂いを伝えられないだろうか。
「ああ、そうだ。クチナシの匂いに似ている。感じないか」
「んー……んー? しない、かな……」
「……そう、か」
どうも、完全にダメなようだ。仕方がない。彼女に伝えるのは諦めることにする。
……それはそうと、靄がかかったように頭がぼうっとしている。それでいて感覚と思考だけが冴えていく。そのせいでより一層この匂いを感じてしまい、脳がだんだんと溶けていくような気がする。
「ね、提督。それよりさ。今日の演習、私わりと活躍したんだよねー!」
今まで感じたことのない匂いに困惑している私をよそに、川内は話題を変えてしまっている。
正直今はそれどころではなかったが、彼女が楽しそうなら乗ってやることにした。
嬉しそうな表情で、川内がこちらに身を乗り出して──
「…………!」
いい匂いが、より一層増した。
「……? 提督、なんか変だよ?」
いきなり許容量を飛び越えてきた甘い匂いに驚いていると、川内に気取られたらしい。すこし心配そうな表情で、私にどうしたのかと尋ねてきている。
匂いに気分が高揚するのとは裏腹に、だんだん思考が纏まっていく。
「……川内」
「ん」
「こんなことを聞くのはあまり好ましくないだろうと承知しているが、いつも演習や訓練が終わったあと、何をしているんだ」
「え? ここに来てるけど……」
「それはいい。その前は」
「んー……あ、シャワー浴びてきてるね」
「シャワー……」
この匂いに関係があるように感じた。川内の首筋を見ると、先程まで乾ききっていなかった汗が、既に乾いてしまったのが分かった。
……汗?
「ってやば、今日シャワー浴びてくるの忘れてた……!」
自分でその単語を発したおかげで思い出したらしく、川内が慌てふためき始めた。彼女にとって恥ずかしいことのようで、顔を赤くしている。
「ご、ごめん提督、すぐ戻るから、浴びてきていいかな……!?」
「ああ。構わな──」
反射的に認可する言葉を言いかけたが、ふと脳裏に過ぎった考えがそれを阻害した。
彼女がシャワーを浴びてこなかった今日に限って感じるこの匂いの正体を考えて、ひとつの結論に達してしまった。
「……いや。もう少しここにいてくれ」
もっとこの匂いを嗅いでいたいだとか感じていたいだとか、そのような理由ではないが、とにかく引き留めることにした。
まだ話したいことがあるだけだ。他意はないのだ。
「え、でも……」
「君の演習の話を聞けていなかった。活躍できたんだったか。話の流れを断ち切ってしまってすまない。聞かせてくれないか」
そうだ。彼女が話そうとしていた話題に興味があっただけだ。練度の高い彼女がどのように活躍できたのか興味があるだけであり、それ以外の他意はな
「……提督、なんか隠してる?」
「いや」
「ほんとに?」
「ああ」
「んー?」
「……その」
川内が詰め寄ってくる。迫ってくる怒ったような彼女の顔と良い匂いに、頭がおかしくなりそうになる。いや、おかしくなっているのだろう。
最後の声が上ずってしまったため、隠し事は恐らく悟られてしまっている。
「……わ、分かった。分かったから」
「もう……で?」
「その……」
非常に言い難い。誰かに伝えることすらはばかられることだ。それを本人に伝えるなど、私には難易度の高すぎる行動だ。
言わざるを得ない流れを作られてしまった以上、事実を伝える他ないのだが。嘘で誤魔化そうとしても、恐らくすぐにバレてしまうだろう。攻めている川内は強いのだ。
諦めた。
「君の汗の匂いが、クチナシのようでいい香りだった。引き留めたのはそれが理由だ」
彼女に面と向かって言う勇気はない。目を逸らしながら事実を伝えた。
「…………」
「…………」
反応がない。目を逸らしているため彼女の様子が見えない。見ない方がいいのではないかと思う。この世には見えない方が幸せなことがいくらでもあるのだ。
……が、つい気になってしまった。つつ、と彼女の方へと視線を寄せてゆく。
「〜〜〜〜っ!!!!」
真っ赤だった。あれだけ気持ちの悪いことを言われたのだ、ここまで怒りを露わにしてしまうのも仕方がないだろう。
なんとか怒りを堪えようとしているらしく、口元を強く結んでいる。若干潤んでいる目を見て、ここまで怒らせてしまったことを後悔した。嘘をついていた方が良かったかもしれない。
「やっぱ一回帰る!」
「いやその、すまない」
「…………もうっ!」
余裕がなさそうな言葉を発しつつ、川内は机に突っ伏した。
非常に申しわけない。冷静に考えてみると、自らの汗の匂いを嗅がれて、いい匂いだのもっといてくれだのと言われてみれば、気分が悪くなる一方に違いない。まして上官に。私なら切腹している。
「はあ。恥ずかしいなあもう……」
「……怒っていたわけではないのか」
「……べつに怒らないよ。提督なら」
くぐもった声が聞こえる。川内が突っ伏しているせいで、聞き取りづらい。
怒っていなかったのは幸いだったが、恥ずかしがっていたのは、それはそれで困る。どう対処すればいいのか分からない。私にとっては難しすぎる課題だ。
そもそもなぜ恥じるのか。私の感覚で言うなら嫌悪感しかないが、やはり私の感覚は世間一般とはかけ離れているようで。
「…………」
「…………」
しばらく無言が続く。その間彼女の様子をずっと観察していたが、真っ赤な耳がそれよりはマシな赤に戻るまで、5分ほどかかった。
5分以上続く沈黙と、こんな時にでも感じてしまう彼女の汗の匂いに、少しずつ気まずさを膨らませていると、彼女がいきなり起き上がった。
そのままの勢いで、彼女は立ち上がる。目が合った。顔は赤いままだが、先ほどよりは若干落ち着いたようだ。
「…………」
「…………」
「はぁ……いったん部屋に戻って、シャワー浴びてくるね」
「ああ」
「……残念そうな顔しないでよ」
匂いが遠ざかることを残念に思っていたが、思考だけにとどまらず、顔に出てしまっていたようだ。感情が顔に出る人間ではないと思っていたのだが、私の表情筋は、この匂いに関してはそこまで律儀に性格を守っていられないらしい。
川内はドアの方へと向かい、司令室を出ようとしている。残念だ。
そのまま彼女の姿は見えなくなるだろうと思っていたが、川内はドアノブに手をかける寸前で、ピタリと動作を止めた。
そして、こちらを向かぬまま、言葉を落とし始める。
「提督」
「なんだ」
「今言うのもあれだけどさ。私、提督の淹れてくれるお茶、好きなんだ」
「そうか。それはどうも」
「だから、毎日提督のお茶を飲んで、寝る前なんかにその日あったことを振り返って……しんどい思いをした日でも、良い日だったって思えるんだけど」
「さっきそんなことを言っていたな」
「うん。……でもね」
そこで一旦言葉を切って、こちらに振り向く。
「今日言ってくれた労いの言葉だけで、もっと嬉しかった。今日だけの幸福じゃなくて、明日からも頑張ろうって思えた」
相変わらず、川内は羞恥心のネジが吹っ飛んでいるらしい。恥ずかしげもなくよくそんなセリフを言えたものだ。
「だから、提督のそういうところ、好きなんだ」
煽ってやろうと口を開き──思うように口が動かないことに気がつく。何かを発しようとして、何を発するのかを忘れてしまった。
「──それだけ。じゃ、提督。食堂でね」
私がなにも言えないままでいると、川内はドアノブに手をかけ、こちらに笑顔を投げかけてきた。
そのままドアを開け、司令室を出ていく。
「……ああ。また、夕飯の時に」
ドアが閉まってから数秒経って、ようやく言葉が落ちてきた。
そのときには既に、廊下の足音は遠ざかり聞こえなくなっていて、私の小さな言葉など、彼女には聞こえるはずもなかった。
ただ、なんとなく、彼女には届いているような気がした。
「…………」
自身の顔を触る。彼女の最後の言葉のあたりから、不思議な感覚がしてならなかった。幸いなことに頬は上がっていない。弛んだ表情を彼女に見られたわけではなかったようだ。
安堵して頬から手を離す。手に残る感覚が、いつもより温かいような気がした。いや、温かいというよりは、熱い。
「……え?」
そこで初めて、自分がどのような状態にあるのかを理解した。
心臓が痛い。早すぎる鼓動のせいで、平時の何倍も強く全身に血が巡っている。
気を落ち着かせようと、勢いよく窓の方へと駆け寄る。太陽は沈みきったようで、外は既に一面黒く塗りつぶされている。
窓に反射した私の顔が見えた。ひどいものだった。困惑した表情で、どこに向かえばいいのか分からないような、不安そうな顔をしている。
「…………っ」
反射したものでもはっきりと分かるくらいに
窓にうっすらと映る私が、なぜ赤くなっているのか、わかっているはずだったけれど、これは分かってしまってはいけないものなんだ。
目が潤むような感覚がしてきたところで──深く考えるのをやめた。
「…………」
すこしズレていた軍帽を被りなおす。
分かってしまわないようにするためには、『提督』でいることが最も好ましいと判断した。
私が提督である以上は、今のところはとりあえずこれでいい。今は、これでいいのだ。今は、これでいい。
「……はあ」
提督として振る舞い続けるためには、あまりにも精神を揺さぶられすぎていた。
彼女に次に会うとき、みっともない顔にならないよう、夕食の時間になるまで、誤魔化し続けることにする。
私1人がぼうっと佇んでいる司令室には、ふわりと香るクチナシのような匂いが残っていた。