「てーとくー」
午前11時丁度をすこし後に控える時刻。この頃はこの時間帯に執務を終えていないことの方が珍しく、終えていなかったとしても、執務を片手間に会話をするだけのゆとりがある。
資源管理も報告書の作成も艦娘の業務担当のローテーションも、今となっては時間をかける方が馬鹿らしく思えるほどで、物足りなさすらも感じる。少し前の自分にはありえない感覚だった。
「……てーとくー?」
本日は既にほぼすべての仕事を終えてしまっている。いつも通り、きっと午後からの時間は暇に蝕ばまれることだろう。演習や遠征などの報告以外の用事で司令室にわざわざ来るような、そんな酔狂な艦娘は川内以外いなかった。
そのため、川内が演習等に向かったあとの時間は、最近になってたまにふわふわと来てくれるようになった妖精を眺めるか、鈍りかけている体を動かしに外へ行くか、ぼうっと何かを見つめるかしかしていない。
今はまだ午前だが、今日は最後者の気分らしい。ぼうっと置時計を眺める。
脳内は様々な考えで埋まっていて、そのどれに対しても深い思考を与えることができていなかった。途中で行き詰まった思考はふりだしに戻り、延々と同じ自問を繰り返す。
『──今日言ってくれた労いの言葉だけで、もっと嬉しかった。今日だけの幸福じゃなくて、明日からも頑張ろうって思えた』
…………。
秒針の音が鮮明に聞こえる。昼前を示す短針に重なった秒針は、その奇跡じみた当たり前の現象の余韻に浸ることもなく、すぐに6度だけ傾いてしまった。
するりと動いていく棒を、焦点が合わない程度にうっすら眺めていると、頭の中を鳴らすセリフが再び繰り返される。
『──だから、提督のそういうところ、好きなんだ』
…………っ。
……窓の外から騒がしい声が聞こえる。午前の訓練を終えた駆逐艦たちだろうか。おそらく神通を中心とした訓練だったはずだ。大変だっただろうに、まだ元気が有り余っているらしい。
…………。
だめだ。
「……おーい提督」
頭の中をリフレインする言葉。脳内を埋め尽くしている、深くダイブしたいはずの様々な思考を妨げているのは、これに他ならなかった。
先日の彼女の言葉は、私自身が認識しているよりも、特別重い影響を与えたらしい。どう対処していいのか、とても自分では判断できな──
「提督ってば」
「……ん。あ、ああ。すまん。なんだ」
「……さっきからずっと話しかけてたんだけど」
「ああ……いや、すまない。考えごとをしていた」
声に振り返れば、不服そうな表情の者がひとり。
まさか「君の言葉を思い出して悩んでいた」などと言えるはずもなく、気がつけば無難な言い訳を探していた。
「それで、なんだ」
「……今日の夜、時間あるかなって思って」
「夜?」
わざわざ聞くようなことだろうか。午後の私が時間に追われるわけがないことくらい、彼女には聞くまでもなく分かる事だと思うが。
「夜はいつも一緒にいるだろう。私に特に用がないのも知っているはずだ」
「まあそうなんだけどさ」
「……まあいい。それで、夜に何か用か」
「いや、特になにもないけど」
「……そうか」
少し納得がいかない。用がないのに時間があるかどうか聞くものだろうか。日常的な会話としては不自然すぎるし、全く意図がないというのも不自然だ。
なにかあるのだろう。その『なにか』を話すつもりはないらしいが。
「…………」
「…………」
会話が途絶える。
なにか話さなければならないと思い、ひとまず適当な話を振ろうとしたが、会話の種にはあまりにも下らなさすぎると感じ、言葉を発するのをやめてしまった。
話題を振る段階で一度引っ込んでしまうと、取り返しがつかなくなった。会話の種を見つけてはつまらないからと取りやめ、別のものを探し始める。
十数回繰り返す頃には、既に言葉を出せる雰囲気でもなく、ずっと無言だった。
彼女に伝えておきたかったことを思い出したが、どうもこのような雰囲気では切り出すことができない。夕食後にでも話せたらいいが。
「…………」
「…………」
お互いが無言の状態で気まずい空気なのは、あまりないことだった。
ちら、と川内の表情を伺う。同じタイミングで彼女からも視線が送られ、ばっちりと目が合ってしまった。目を逸らす。時計。秒針。午前11時丁度を担う長針。
もう一度彼女の方に視線を寄越す。彼女はずっとこちらを見ていたようで、今度もしっかりと目が合った。少し下がった眉と、への字に曲がった口元が、彼女の心情を表しているように感じた。
「先程から不満そうな顔をしているが、なんだ」
「……なんかさぁ。なんかねぇ……」
ため息じみた吐息。と、私を責める意図を孕んだ言葉。
やはり何かしら私に不満があるらしく、彼女は
「……提督、今日なんかよそよそしくない?」
ジト目を向けつつ尋ねてくる。やけに低い声だったところを鑑みるに、本当に気にしていることのようだ。
しかしそう言われたところで、彼女に対する接し方を意識的に変えたつもりはない。
「気のせいだろう。私は普段通り君と接しているつもりだ」
「……ほんとに?」
「ああ」
彼女に対していきなり他人行儀になる理由もない。彼女の思い過ごしでしかないだろう。そうでなかったとしても、ある程度は仕方ないことであると考える。
「バイオリズムが合わない日もあるだろう。このような日に共にいても、後に響くようないざこざしか起こらない」
友人との波長が合わず険悪な空気になる日など、付き合いを続けていく最中にいくらでもあるものだ。
それが今日であっただけであって、私がいきなりよそよそしくなっただとか、そういうことじゃあ決してない。
そういう日への対処法があるとすれば、その日限りで
「……私としては、なるべく君との間に軋轢が生まれるのは避けたい。今日の執務は終わっている。君も私と同じ考え方をしてくれるのなら、今日のところは帰ってもらっても構わない」
「うーん……」
「……夕飯のあとはここに来てくれ。君もそうらしいが、私もすこし君に用があるんだ」
「…………」
このような状況で伝えたいことを話したとしても、伝えきれる自信がない。できたとしても、伝えきった感覚にならない。
すこし時間を開けるのが最善の方法なのだ。
「……いや、ここにいようかな」
「そうか」
「…………」
「……やはり、今日はあまり合わないらしい」
普段の彼女なら、提案をそのまま呑んでいたように思う。そもそも普段の彼女にはこんな提案などしないが。
とにかくここに残るようだ。どうせ昼を過ぎれば訓練に向かってしまうが、それまではこの微妙な空気を続けることになるのだろう。
その間ずっと共にいるにも関わらずお互い一言も発しないというのもおかしいか。せっかくなら話しておこう。
「なぜだ」
「え?」
「残る判断をしたのは何故なんだ」
「あ、そういうことか」
普段なら一発で理解してくれたであろう問いかけも、この日に限っては明確に言わなければ分からないようだった。
川内は考える素振りを見せている。いまいち言語化に困るような理由らしい。
「……提督とも、喧嘩とか仲違いとか微妙な空気とか、そういうのを経験してみたいんだ」
「…………」
「わかんないって顔してるね?」
「ああ。さっぱり分からない」
「合わないねぇ」
川内とは平穏に過ごしたい。絶望的だ。私と川内の間にそこまで思考の差があるとは思っていなかった。今日はとことん合わない日のようだ。
とはいえ、少しくらいは、こんな日があってもいいのかもしれない。
私と合わない点を見つけられることが、彼女との距離が縮まっている証拠であるようにも感じられてきたため、そんな感情がふと湧き出した。
「うーん……その……」
唸り。への字に小さく曲げた口元に手を当て、何事か考え込んでいる。
彼女の考えをまったく理解できない私のために、なんとか言葉を噛み砕いて説明しようとしてくれているらしい。
距離を置くことで衝突を避けようとしていた私とは違い、どうも歩み寄ろうとしてくれているようだ。
しばらくして納得のいく言葉の羅列を見つけたようだが、躊躇うような挙動をしている。どうせ意を決して言うのだろう。
数秒もなかった。えと、と小さく洩らしてから、決心したように私の目を覗き込んでくる。ビンゴだ。
「て、提督とは、一緒に色んなことを経験して、一緒に色んなことを共有したい、っていうか……」
「…………」
「色んな感情を、一緒に感じてみたいなー、なんて。あ、あはは」
「……そうか」
誤魔化すような笑いが響く。
普段はこちらが恥ずかしくなるようなセリフをぬけぬけと言える川内だが、今の言葉は彼女にとって恥ずかしいものだったようだ。
聞く方だって恥ずかしいのだと分かっているのだろうか。
「あ、別に提督に押し付けるつもりはないからね! 私がそうしたいってだけで、その……!」
「ああ。分かっている」
「だよね、わかってるよね……」
言葉のトーンが落ちる。顔こそ笑っているが、声色は残念そうな雰囲気で、目線も落ちたのを確認した。
なるほど。変な方向に勘違いをしているようだ。正しておいてやろう。
私だって、川内と共になら、色々な感情を感じてみたい。そう思えてきた。
「……私も、そうしたいとは思っている」
「……え」
「君に押し付けられて実行するのではなく、私がそうしたい」
「……そっか」
笑顔が活き活きとしだした。求めていた類の答えだったようだ。やはり川内にはネガティブな雰囲気よりもこうしたものの方が似合っている。
ところで、お互いそう思っているのなら、もう伝えても……誘っても、いいだろうか。色々な感情を、共に感じるために。
「ところでもう夏だ」
「へ? あ、うん。そうだね」
「ああ」
「……それだけ?」
「…………」
……なるほど。どう伝えたものか、分からない。
思えば、私からこうした類のものを伝えるのは、初めてだ。とにかく喋ることにした。
「ところで盆のあたりでは、10日ほど休暇を取れる期間がある」
「あれ? 無視?」
2週間ほど後の話だが、働き詰めの艦娘たちに対する救済措置のようなものがある。さきほど説明した通りで、それ以上でもそれ以下でもない。
……とはいえ、強制的に休まされるわけではなく、あくまで休みたいなら休むことのできる期間だ。ここの鎮守府にいる者なら、私に説明されるまでもなく、前任から通達されて知っていただろうが。
私が川内に伝えたいことは、この休暇制度に関係することだ。この流れで言うことにしよう。
「ここの者全員に無理やり休暇を押し付けるつもりだが、鎮守府として完全に休むわけもいかない。前半と後半に分け、半数ずつ5日休みを与えるつもりだ」
「……ん? やっぱ無視だよねこれ。聞いてないフリしてるだけ? おーいてーとくー?」
「私は2日休めるが、恐らく前半になる。その間は大淀あたりに執務を押し付け──任せるつもりだ」
「よし、もう諦めたよ……」
いい調子で話せている。このままさっさと切り出そう。なるべくはやめに。
「ところで当鎮守府の近辺では、例年夏祭りが行われるらしい」
「まあそうだね」
「……日程的には、休暇前半と後半のどちらにも行われるようだ」
「うん。毎年行ってるけど、たのしいよ」
よし。次だ。次の発話のタイミングで、切り出すんだ。
「ところで、前半か後半のどちらに休暇を取りたいか聞いてもいいか」
「話題ころころ変わるね」
だめだ。どうしても切り出せない。頭の中に伝えるべき言葉があるはずなのに、それをまっすぐに出すことができない。
……どうすればいいのだろうか。
「…………」
「うーん……そうだね……」
川内は悩むような素振りを見せている。……が、素振りだけで、本当は悩んでいないように感じた。
彼女の頬が緩み始めている。嫌な予感がする。
「後半って言ったら、どう思う?」
「……いいんじゃないか」
「困らない?」
「…………」
「『困る』って顔してるよ」
「……少し困るだけだ」
ああ、理解した。理解されていることを理解した。
彼女はもう、私の言いたかったことを察してしまっているらしい。一番避けたかった形だ。煽られる未来が目の前を覆って、他の可能性が見えない。
「提督、シャイだよねえ」
「…………」
「かわいいなあ」
「…………」
予想通りの未来だ。ニヤニヤと意地の悪い表情と、緩むのを堪えようとして上がりきらない頬が私に向けられる。
最近になって、川内のそうした表情を見ることが多くなったように思う。彼女の様々な表情を知ることができるのは嬉しいが、これに関しては悔しさのようなものがあった。
「ま、今はそれでいいよ。今は、ね」
意地の悪い表情が消える。かわりに柔和な表情を浮かべ、仕方ない、といったふうに、川内は優しく語りかけてくる。私が折れきってしまわないよう、引っ張ってくれているようだ。
……一応、艦の時代を考えなければ、私の方が歳上になるはずなのだが。年下ながらも引っ張ってくれる彼女の姿を見ていると、ありがたさや悔しさの他に、よく分からない苦しい感情が湧き上がってくる。
「……ね、提督」
「なんだ」
「今年の夏祭り、一緒に行きたいなって思うんだけど、ダメかな?」
…………。
やはり、もう完全に悟られていたようだ。言葉に詰まる。
大人しく答えることにしよう。『構わない』と一言発するだけでいいのだ。せめてここくらいは、無愛想でもいいから、普通の受け答えをしよう。
「前半に休暇を取る……ということでいいか」
この男、普通の会話ができないのだろうか。
「まどろっこしいなあ、提督は」
「……すまん」
「ううん、そこが提督らしいし」
笑顔。私のことを完全に理解してくれているような、それでいてそれを認めてくれるような、暖かい表情が私に向けられる。
川内はそうした表情を浮かべることのできる子だった。
「というか、もともと私から誘うつもりだったんだけどね。だから今日の夜あいてるか聞いたんだけど……お互い同じこと思ってたみたいで、嬉しいなぁ」
「……そうか」
「……へへ」
……夜まで待っていればよかったかもしれない。気持ちが先行して今言ってしまったが、そもそもは私も夜に誘うつもりだった。川内に先に用件を言わせていれば、恥のようなものをかかなくてもよかったのかもしれない。
「……でさ」
おそるおそる、といった声で、川内が言葉を落とす。なにか聞きづらいことを聞くときのような、微妙な表情だった。
「今日やけによそよそしかったのって……もしかして提督」
「やめろ」
「どう誘えばいいか分から」
「やめてくれ」
薄々自分で気づいてはいた。彼女の感じていたよそよそしさの原因に、すこし勘づいてはいたのだ。
仕方ないのだ。『私』として友人を普通に誘うだけなら簡単な話だった。ただ、『提督』としては、まっすぐに誘いにくかっただけで。それがよそよそしく見えていたのなら、私にはどうしようもなかった。
……バイオリズムが合わないのではなく、私が彼女に対して一方的に合っていないだけのようだった。恥ずかしい限りだ。
「……ふふ」
「……なんだ」
「んー? なんでもないよ?」
「…………」
「夏祭り、楽しみだね」
「……ああ」
再び優しい目を向けられる。一度意識してしまうと、そればかり気にかけてしまった。
もっとこの表情を向けられていたい。彼女の色々な感情を知りたい。
『──だから、提督のそういうところ、好きなんだ』
……なぜ今この言葉を思い出すのだろうか。そろそろこの言葉に振り回されるのは疲れた。今くらいは、落ち着いてくれないだろうか。
彼女は依然として優しい目を私に向けてくれている。
川内のそういうところが好きだ──なんて言えたなら、頭の中を繰り返す言葉は落ち着いてくれるのだろうか。
川内との恣意的な会話を楽しみながら、なんとなくそう思った。らしくないと思って、すぐに振りほどいた。