いつもよりは長め。要らない文多いので読み流すのが一番。
夏の夜。遠くから響く喧騒と、若干蒸し暑さを感じるくらいの気温、湿度。足を踏み出すたび騒がしさが次第に大きくなり、蒸し暑さとは異なる熱量がその厚みを増していく。
軽く汗が滲む。中途半端な発汗にうっすらと苛立ちを覚えたが、それ以上の苛立ちに昇華しきることはなかった。この暑さの中に楽しさがあることを知っているからかもしれない。
夏祭りとはそういうものらしいから。
着任からすこしは時間が経ったが、鎮守府近辺の具体的な立地は未だに知らなかった。現に自身が向かっている場所もよく知らない。ただひたすらに、あたたかな光の集まる方へ、賑やかさの溢れる方へ……と、歩みを進める。
時間にはかなり余裕があった。それでも自然と歩く速度が速くなるのが分かる。
鎮守府から徒歩で20分もないころ。海へ続く緩やかな川が見える大通りに突き当たると、人の流れも騒がしさも肌で感じることができた。川沿いがこの近辺で最も賑わう場所らしい。邪魔にならない適当な場所を探し、そこで立ち止まる。
二人組が多い中一人で佇んでいる私を珍しく思うのか、通り過ぎる者達から
最新の電子機器は兎角便利なもので。先人たちからの知識を受け継いできたあらゆる技術をありがたく享受することにし、待ち合わせに指定された場所の正確な位置へと歩き始める。
自身の知る限り最も「超」と「ド」がつく田舎出身の私が、現在位置と目的地を示してくれるサービスがこんなにも身近にあるのだと知ったのは数年前のことだった。あのときほどの強い驚きはないように思う。
やはり早歩き気味になりつつ目的地へ向かう。川沿いから外れ、すこし内地に入る。そのうち交差点の向こうに喫茶店が見えてきた。赤い看板がよく目を引く。なるほど待ち合わせに適していた。
大通りに近いだけあって人波は多く、派手な看板を待ち合わせに利用している者も少なくない印象だ。見たところ店内にも店外にも浴衣姿の者が多い。私もあの中に紛れて待っていることにしよう。
もうすぐに着いてしまうが、待ち合わせよりは
横断歩道の向こうに見慣れた顔が見えたような気がして、雑多の中を見渡す。
彩度の高い赤の看板の下で、悪目立ちしない程度に綺麗に彩られた浴衣を着て──
「あ、提督! こっちこっち!」
天使はそこにいた。
*
「遅れるかもしれないって連絡きてたけど、そんなことなかったね」
喫茶店前の信号が赤から青に変わったようだ。途端に動き始めた人の流れを眺めつつの川内から、そんな言葉がかかった。人の流れになど視線を寄越している余裕のない私は、普段とは異なる装いの彼女をずっと見てしまっている。会話に集中して雑念を振り払うことにした。
「待ち合わせの時間過ぎたら店の中で待ってようと思ったけど、杞憂というかなんというか」
「……まあ、間に合ってよかった」
「私にはもう遅刻の前科があるから、今度は提督が遅刻してくれたら平等になると思ったんだけどねー」
数時間前に遅刻の連絡はしたが、待ち合わせの時刻にはまだまだ余裕があった。結局遅刻はせずに済んでいる。
私用での遅刻に関して、個人的には仕事での遅刻と同程度の重さで捉えてしまうため、なんとか遅刻を避けることができて内心ほっとしていた。
青から赤になったらしい。人波がぱったりと落ち着いたはずみで、彼女がこちらを向いた。目が合う。逸らしかけた目をなんとか保った。
「なにがあったの?」
「この騒ぎだ。高揚する気分と流れに乗じて、鎮守府の前で妙なことを騒ぎ立てる輩が出てもおかしくはなかった。それだけだ」
「……提督が対処してたんだ?」
「いや。恥ずかしいことに、私は騒ぎに気づかずずっと自室にいた。憲兵は別件に追われていたらしい。たまたま居合わせた大淀とほか数名が対処していたようだ」
狂人の対応をさせられる大淀は見てみたかった気もするが、事態の収拾がつくまでにかなりの時間を費やしたと聞いてからは同情しか抱けなかった。一人くらい私を呼びに来てくれてよかったものを。
ともかく都合悪く居合わせただけの彼女たちが不憫だ。
「あれ? 今日の分の執務って、大淀さんに任せてなかったっけ」
「ああ。問題はそこだ。大淀がその対処に時間を取られ、任せていた執務に手が回らなかった」
「あー……なるほどね」
得心のいったような頷き。おおまかな
「つまり、たまたま司令室に行ったら大慌てで書類を処理してる大淀さんを見つけたから、わざわざ軍服に着替えて手伝ってきたってこと?」
「そうなる。そのタイミングで遅刻の連絡をした」
「そっかそっか」
「提督らしいね」と、川内の頬が緩む。目をすこし細めているのは、それでもなんとか笑みが浮かぶのを堪えているらしい。優しい目付き。やけに嬉しそうな表情。わけがわからない。
数秒笑顔を浮かべたあと、今度は疑問を抱いたような絶妙な表情に変わる。なにか引っかかることがあったようだ。表情の変化が激しく、様子を見ているだけでも楽しかった。
「執務を手伝ってきたにしては……けっこう早かったね?」
「そうでもないだろう」
「まだ待ち合わせより1時間くらい早いよ?」
「……予想より早く終わった。それだけだ」
「……ふーん?」
万が一にも遅れるなどといったことがないようにしただけだ。大淀が焦りつつも着実にタスクをこなしていく隣で、私も大慌てで黙々と執務を消化していると、予想していたより数倍早く終わった。それだけのことだった。
川内が既にいることを期待して早く来たかったからとか、そうすれば少しは二人でいられるかもしれないからだとか、そんな理由じゃない。本当に。違う。違うんじゃないだろうか。
川内の頬がまた緩む。
「予想より早く終わったんだったら、服を着替える暇くらいあったと思うんだけど」
彼女が私を指して言葉を落とす。彼女の指先へ視線を移すと、普段から着慣れているものがそこにあった。数秒思考が固まったあと、自身の身体を確認する。全体的に白を基調とした服装。軍帽。軍服。軍靴。
……なるほど。着替えるのを忘れていたらしい。変に周りからの視線を感じるのはこのせいか。
「……単純に忘れていた。急いで鎮守府を出たからそれで──」
「急いでたの? 予想より早く終わってたのに? なんなら待ち合わせより1時間以上前だったけど」
「…………」
川内がニヤニヤと私を見つめているのに気付いて、失言だったと後悔する。この流れは控えめに見てもまずいのではないだろうか。後悔は役に立たない。
「なんで急いでたの?」
「…………」
「早く来たかった、とか?」
「……さあ」
せめて目は逸らさなかった。たった一つ折れないでいられるところがあるとすればここだと思った。
早めに流れを変えなければならない。逃げ場を模索することにした。
「君はどうなんだ。なぜこんな早くからここで待っていたんだ」
「早く来たかったからかな」
「……なぜだ」
「提督なら早く来てくれる気がしててさ」
「…………」
私に逃げ場はないのか。
一度彼女に会話の主導権を握られるとしばらくそのまま責められ続けるのが最近の常だ。そろそろこの流れは断ち切らなければならない……とは思うが、この状況は打破できそうにない。明日からでいいか。
川内の表情は言うまでもなかった。
「……まあそれはそれとしてさ」
「なんだ」
私の反応は十分楽しめたようで、川内自ら話題を変えてくれた。
すこし神妙な──というよりは、すこし私の表情を窺う様子で、上目遣いにこちらを見てくる。浴衣姿でそれをされると何故か普段とは異なる気まずさが湧き上がってくるもので、耐えきれずにすこしだけ目を逸らした。
「今まだ待ち合わせの1時間前なんだよね」
「ああ」
夏祭りに行こうと
……はずが、何を血迷ったか、鎮守府を出る前の私は『二人になるため』に待ち合わせの1時間前にこの場へ向かってしまった。恣意的な生き方をする私が憎くもあったが、同時にうっすらと感謝も感じていた。
「神通ちゃんたち、こんな早くからじゃまだまだ来なさそうっていうか」
「そうだな」
そこで会話は途切れた。お互い目線を交わしたまま固まる。
青から赤に変わったらしい歩行者用の信号。何度目か分からない人波の切り替わりに、なぜだか焦りを覚えた。ごちゃ混ぜになった周囲の人間の会話たちは、耳に届く頃には意味をなさない音になっていた。
「…………」
「…………」
期待の眼差しが向けられる。目はしっかりと合っていた。ここまで真正面から受け止めてしまったなら、もう逃れることはできない。もとより逃れるつもりはなかったが。
まったく汗をかかない程度まで涼しくなってきたこの場で、それでも頭の中は熱いままだった。赤から青へ。涼しさに乗じて熱気溢れる賑やかな方へ向かっていく人波。
彼女の芯の強い双眸に、今日くらいは飲み込まれてもいいような気がした。
「適当にどこか回っておかないか」
「……へへ」
「ここで駄弁っているだけというのも暇だからな」
「暇になるかな」
「……暇にはならないとは思うが、どうせなら。駄目だろうか」
「ううん、全然?」
言わされたのが悔しかった。提案したくなかったというわけではない。言わされなければ提案一つもできない私に、憤りを感じただけだった。
いつかは自発的に言えるようになればいいが。
横断歩道への一歩を踏み出す前に確認したのは、ニヤニヤ、と意地の悪い笑み。
……歩きづらいだろうから、ゆっくり歩くか。
「ほら、早く行くぞ」
点滅し始めた信号を理由にして、彼女の反応は見ないようにした。
川の見える大通りにまで戻った。このあたりに詳しくない私は、川内が立ち並ぶ建物や花火が見えやすい場所などを紹介しながら少し前で先導してくれる後に着いていく他なかった。
賑わい溢れる屋台の連なり。彼女の説明が触れる前から、そこをぼうっと眺めていた。聞けば、屋台で提供される食品に関して品質はたいしてよくないようだ。それにも関わらず多くの屋台は繁盛している。縁日や夏祭りの屋台とはそんなものだ。
地元の夏祭りを思い出して、どこか懐かしい気分になった。
「……昔からだが」
「うん?」
「屋台は……特に食品を扱う店に関しては、見るだけ派だ」
「わかるよ」
「だから、散財するつもりでは来ていない」
「まあ私も毎年そんな感じかな」
「君とはよく生き方が合うな」
「だね。ちょっと嬉しいよ」
先行しつつの川内が、振り返りぎみに笑顔を零す。今日のそれは真正面から見れず、すぐに目線を外してしまった。逸らした視線は髪の隙間から少しだけ見えるうなじへ向かう。数瞬まじまじと見つめてしまってから、また目を逸らした。
「それにしても、さすがに人が多いな」
「この地域って人口多いからね。あと夏祭りだし」
「そうか。そんなものか」
「うん。そんなもんだよ」
気は紛れなかった。だいたい会話でどうこうなるなら最初から心は動揺などしないのだ。開き直った。諦めよう。観念してうなじは程々に見ることにした。
周囲には本格的に人が多くなってきた。屋台の賑わいも大きい。すれ違う者とは既に肩がぶつかりそうな距離になっている。熱気が渦巻いていた。
「これだけ人多いとさ」
川内の声色が変わる。芝居じみた抑揚。展開の予測ができた。それ相応に対応する。
「はぐれちゃダメだって思わない?」
「はぐれたと感じたなら待ち合わせの場所に戻ればいい」
「いやまあそうだけど」
不満そうだ。その理由は朧気ながら分かるような気がした。
予想が正しいなら、また随分と私の精神に厳しい難題を押し付けてくるつもりらしい。
「はぐれる前の対策。なんかないかなって思うんだけど……」
ちらちらとこちらを窺ってくる。答えを探るような発言だったが、既に分かっていて言っているのだろう。私も分からないわけではなかった。
……彼女がそのスタンスを貫くなら、私も分からないていで振る舞ってもいいだろう。本当は勇気が出ないだけだが。
「……少しでいい。時間をくれ」
「……しょうがないなー。その時間で考えといてね」
優しい目付き。やはりというべきか、川内には私の性格が筒抜けになっているようだった。行動に移すだけの勇気が出ない私を気遣ってくれている。
……情けない。
「あ、たこ焼き」
「繁盛してるな」
「だねー」
うっすらと感じる焼けた生地の匂いと、濃いソースの匂い。少なくとも悪印象を抱くようなものではなく、むしろ食欲をそそられる憎らしいものだった。匂いに釣られた客が並んでいる。
きっとたいして美味いわけでもないのに、何故ここまで集客効果があるのか。何故わざわざ屋台のものを食べようと思えるのか。見れば、並んでいる客には二人組が多い。
立ち止まる。僅かに先行していた川内は気付かずに歩みを止めない。
「……食べてみないか」
辿っていた思考がそのまま口から零れ落ちた。後悔が先行したが、そのうち消えた。どうせこんな形でしか言えなかったのだ。
「え?」
先程『見るだけ派』などと言っておきながらの発言に驚いたようで、川内は素っ頓狂な声を返してくる。同時に私が立ち止まったことにも気づき、数歩前の位置で彼女も歩みを止めた。
「普段なら素通りしているところだ。屋台で提供されるものが嫌いなのは変わらない」
発話に勇気の必要が伴わないうちに、思考の流れのまま言葉を落とす。屋台の方を向いているため、川内の様子は確認できない。その方が気が楽でよかった。
「……私一人ではなく、君と一緒なら、なにかが違うかもしれない。そう思ったんだ」
「…………」
「嫌ならいい。気にしないでくれ」
「ううん。並ぼっか」
言い切るより先に屋台の方へ向かっていく川内。慌てて着いていく。彼女の左隣に並ぶと、ソースの匂いをより一層強く感じた。
ふと前に並んでいる客に目を寄越す。目の前の二人組が手を繋いでいるのが確認できた。
普通ならきっと、今ではない。それでも、私に勇気が出せるのは今しかないように感じた。
『考えた末ようやく答えが見つかった』ていでいくなら、このタイミングしかなかったから。
「川内」
「なに?」
「今ははぐれようもないと思うが」
「うん」
「
右手を差し出す。すぐに温かさを感じて、頬が緩んだ。
*
「さすがにすこし暑くなってきたな」
「だねー」
屋台の熱気から外れ、比較的人のいない場所で休憩する。頒布されていた団扇で自身に風を送るが、体温とそう変わらない外気温の環境ではほぼ涼めなかった。
川内も同様であるようだった。肌に汗が滲んでいるため、すこしは効果があるかもしれないが。
「浴衣の君は私などよりももっと辛いんじゃないだろうか」
「いや、そうでもないよ。かき氷も冷たいジュースも、提督が買ってきてくれたでしょ。あれけっこう助かったから」
「……そうか。まあなんでもいい。時間も待ち合わせの時刻に近くなってきた」
「そろそろ戻ろっか」
「ああ」
一息ついて、喧騒に背を向ける。
忘れてかけていたが、精神的緩衝材役を予定していた助っ人枠の神通たちも来るのだ。今から戻れば待ち合わせ時間には十分間に合うだろう。
……とはいえ、そもそも私が呼んだのに申し訳ないが、もう既に満足してしまっている自分がいた。
適当に会話をしつつ数分歩くと、いつの間にか待ち合わせ場所に着いていた。目を引く赤い看板。やはり待ち合わせに最適だと再確認する。
「…………」
「…………」
途切れ途切れの会話とともに、神通たちの到着を待つ。喫茶店の前には男女の組み合わせが多く、信号の変化に合わせて歩き始めたり立ち止まったりが繰り返されていた。
赤。立ち止まる人々。興味本位で周囲の者を観察することにした。右隣の川内の向こうに騒がしい二人組を見つけたためぼうっと様子を見つめる。
楽しみだと零す男性。笑顔で同意する女性。花火が打ち上がる時間を尋ねる男性。答える女性。浴衣姿を褒める男性。軽く感謝を述べる女性。食い下がりむしろ感謝する男性。対抗してより感謝する女性。腰を折り礼儀正しく感謝の念を伝える男性。男性を褒めだした女性。
周囲からの視線をかなり買っているが、彼らには羞恥心がないのだろうか。
……川内だけは私に視線を寄越していた。途中まで私と同じように彼らを見ていたと記憶しているが、男性が浴衣姿を褒めだした時点でこちらを向いてきた。恐らく期待が寄せられているのは分かる。応えるにしても、そこの男女のレベルまでは求めないで欲しい。求めてはいないだろうが。
「……今さらだが」
目立っていた二人組から視線を外し、真正面を向く。ちょうど信号が青に変わり、止まっていた者達の足音が聞こえだす。
今の私には川内の方を向く勇気はなかった。
「浴衣、似合っているんじゃないか」
今日待ち合わせ場所で姿を見つけてから、ずっと思っていたことを伝える。
いや、正確には伝えられていない。私の頭を占めていた思いは、私の言葉通りではなく、もっと断定的だったはずだ。
「……よく似合っている」
これも少し違った。私が思っていた通りの言葉にしては軽すぎた。そもそも浴衣だけに抱いていた感想ではない。
普段とは異なる落ち着いた雰囲気や、青を基調とした涼し気な浴衣や、後ろ髪の隙間から少しだけ見えるうなじも、たまに零す笑顔も。私が持っていたのは、そうしたものを全て引っ括めて抱いた感情だった。
似合っているだとか、もはやそんなものじゃない。
「その……なんだ。かわ……綺麗だと思──」
「提督、こんばんは」
左からの唐突な声。振り向く。見慣れた顔。
「神通かどうしたこんなところで奇遇だなどうしたなにがあった一体なんだ」
「待ち合わせをしていたと思うのですが」
「それもそうか」
もう待ち合わせ時刻に近かったようだ。話しかけてきた神通はニコニコと笑顔を振り撒いている。その背後には那珂。
……聞かれたか?
「いつからそこに」
「……? ついさっきここに着いたばかりですが」
「そうか、それならいい」
聞かれてはいなさそうだ。
こうしたもの……というより、姉の川内に関することに目敏い神通にはほとんど聞かれていてもおかしくなかったが、今日は運が良かった。どうせ煽られるのだ。聞かれていなくて安心した。
「『浴衣、似合ってるんじゃないか』からは聞いていましたが……」
「そうか、それは駄目だ」
小声で耳打ち。安心などなかった。この艦娘には勝てる気がしない。
那珂は状況が分かっていないような表情だ。彼女こそ唯一の救いなのかもしれない。
……ところで、私が発した言葉は、最後まで聞かれてしまっていただろうか。
振り返り川内の表情を伺う。顔が赤い。よし。視線変更。神通へ。
当たり障りのない会話をしよう。逃げの一手も重要なのだ。
「神通はさすがに浴衣がよく似合うな」
「そうですか? ありがとうございます」
「ああ。那珂は……」
那珂に目を移すと、期待の篭った目で私を見つめ返してきた。わかりやすい。
「私は……?」
「那珂は…………」
「うん……!」
期待の感情が声にまで現れている。そこまで期待されると応えたくなるものだ。
「行くか」
「ちょっと!!」
「なんだ騒々しい」
「みんなのアイドル那珂ちゃんの浴衣姿だよ? もっとなんかさ、ないの?」
「ああ、それもそうか。君の浴衣姿は……」
「うんうん!」
「まあ、浴衣姿だ」
「なにそれ!」
寸劇。
これがアイドルらしさなのかは分からないが、適当にあしらうだけで大きな反応を返してくれる。どこか懐かしい反応だ。数ヶ月前の川内を想起した。最近はこちらが煽られることの方が多かったため、悔しいことに嬉しささえ感じてしまった。
「ちゃんとした感想ほしいなあー!」
「なるほど。浴衣姿の女性を見る度……いや、君を見て思ったことだが」
「なになに?」
「蒸し暑いだろう。辛くないのか」
「……提督、那珂ちゃんは今とても悲しい」
「そうか。似合ってるぞ」
那珂で遊ぶのはほどほどにして、そろそろ現実と向き合うことにした。
川内の方へ振り向く。紅潮は収まっていた。その代わりになにか言いたげな表情をしていたが。
隣で騒いでいるアイドルはさておき、なにか問題があったようだ。
「どうした」
「……べつに、なんでもないよ」
「せめて表情と言葉を合わせてくれ」
不満そうな声。それとは別に、恥ずかしそうでもあった。
「提督、神通ちゃんにはすぐ浴衣の感想言えるんだ……って思って」
「……まあ、そうだな」
言い逃れできない事実だった。そんな気まで回している余裕などなかったが、今思えば確かに怒られても仕方のないことだ。
どう釈明したものか。なにか都合のいい弁明でも思いつけばいいが、そんな機転が利く者はこんな状況に陥らない。
……今日はもう、いい日かもしれなかった。自分の中の感情や考えを、思う存分伝えてもいいような気がした。
「君には……すぐには言えなかった」
「……なんで?」
「…………」
追求の手を止めてくれない。どうしても答えを聞きたいようだ。最初から言うつもりではあったが、追求のおかげで踏ん切りがついたようにも思える。
目は逸らさなかった。
「君に伝えるのだけは気恥ずかしかった。その理由は汲み取ってくれ。……それだけだ。つまらない理由ですまない」
真正面から伝える。この言葉を吐く方がもっと恥ずかしい。こんなことなら最初から彼女に伝えておくべきだったかもしれない。
川内も少し恥ずかしそうな面持ちだ。気のせいかもしれないが、若干紅潮がぶり返してきたようにも思う。尚更先に言っておくべきだった。
ふと嫌な予感がしたので振り向いた。神通の笑顔。那珂の興味津々といった表情。
「……行くぞ」
なにか言われる前に、一歩踏み出すことにした。幸いにも信号は青だ。
私が足を進めてから数瞬後、追いかけてくる彼女達の足音が聞こえた。歩調は合わせるが、顔は見ずに話も聞かないでおこう。
「て、提督!」
「ん」
「……えと」
川内の声。私が反応を返す頃には隣に追いついてきていた。
気のせいではなかったらしく、再び紅潮した顔で私を見つめる。今日だけで何度も受けてきた期待の眼差し。私の答えは既に固まっていた。
「今度は……手繋がないの……?」
「……今は、はぐれないだろう」
「…………」
「……とは言っても、これからもっと人が増えるだろうな」
無言で手を差し出す。
今日くらいはいいんだ。明日からは、明日からの私がきっとなんとかしてくれる。
「…………」
「……あ、ありがと。手」
「……こちらこそ」
それにしても、私は『期待を孕んだ視線』に弱いらしい。
今日だけで何度もこれにやられてしまった。明日からの私には気をつけてもらわなければならない。
「いいなー」
「那珂。那珂は私と手を繋ぎましょうね」
「うわあ子供扱い。やめてよねー。いいけど」
「提督たちの邪魔はできませんから。そうですよね、提督?」
左側から聞こえる会話は、先程決めた通り無視することにした。
那珂ちゃん弄りやすすぎ問題