夕方。にも関わらずそろそろ窓の外の暗がりが目立つ時期。数週間前までは明るかったはずだが、どうも時間の流れは早いようで。蝉の声やエアコンの稼働音などは、本当に実在したのか不安に思うくらいぱったりとなくなってしまった。
昔は季節の変わり目を喜んで迎え入れていたのだったか。そうした変化をあまり嬉しく思わないようになってしまったと自覚して、なんとなく焦りを覚える。
「これ、お願いします」
なんてどうでもいい思考を巡りながら、両手で丁寧に渡された数枚の紙を確認する。一通り目を通したあと、視線を右隣の者へ移した。
一所懸命の響きが似合う様相で紙面を睨む姿が見える。今さっき書類を手渡してきた者だ。そのわきには、時代遅れにも程がある手書き書類の小山が整然と置かれている。
もうすぐのところまで減ってきたが、あと一時間ほどは
私は既に仕事を終えてしまっていた。手伝おうか悩んだが、それでは彼女のためにならないような気がして、結局その姿を眺めるまでに留めておく。
かける言葉を探しているうちに、いつしか書類を持つ手に力がかかっていた。
快適な気温になった空気に、ペンが紙面を滑る音。この時間帯に聞くことはしばらくなかったそれに、暖かい懐かしさを感じつつも、この状況では躊躇いのようなものも感じてしまっている。
間違いを指摘することにはなんの誤りもないはずだ。そう分かってはいても、ひたむきに努力している姿を見ているとどうしようもなく躊躇してしまう。
「……吹雪」
意を決して声をかけると、相手は作業を中断してこちらを振り向く。何を言われるかはだいたい察してしまっているようで、申し訳なさそうな雰囲気だ。
次の言葉が辛い。明日明後日あたりで久しぶりに胃が痛み出すかな、などと思った。
「ここの表記に漏れがある。訂正頼む」
「は、はい。すみません……」
紙面の一点を示しつつ、吹雪に書類を返す。
吹雪からの謝罪を受けて、胃が痛み出した。今だったようだ。
最初の方は誰だってこんなものなのだから、謝罪なんてしなくてもいいのだが。申し訳なさのためなのか、必要以上に萎縮してしまっている。
こんな時にかける言葉を知っていたなら、人生楽に過ごせるのだろうが。なんとか捻り出せないものだろうか。
「気にするな。誰だって最初はそんなものだ。私だって最初は彼女と──」
言葉を紡ぐより先に、司令室のドアが激しく開かれる。ノックはなかった。それだけで誰が来たのか想像がつくというか。
視線を寄越す。予想通りの人物。私と目が合うと、彼女は言葉を発しようと口を開いた。
最近の夕方は夜を思わせるほどに暗い。そのためなのか、彼女からはやたらと大きな声が響く。
「やあやあ提督!」
「……最初は、こいつと右往左往したものだ」
強めに開け放たれたドアを心配しつつ、そう零した。
「お疲れ」
「ん、ありがと」
いつも通り川内に湯呑みを差し出したあと、自席につく。そのあと、いつもとは違って吹雪にも同じものを渡す。新しく用意した湯呑みだ。
秘書艦用の席につくわけにもいかない川内は、わざわざ椅子を持ってきてまで私の左隣に座っていた。吹雪とは反対の位置。対面にいてくれた方が楽に話せていい気はしたが、隣にいてくれること自体に不都合はない。むしろありがたかった。
「吹雪も休め。休憩を挟んだ方が効率がいい」
「……ありがとうございます、司令官」
笑顔。それでもすこし自信がなさそうな表情で、吹雪が礼を述べる。なんと声をかけようか、と考えたが、そっとしておいた方がいいような気もしてきた。
しばらく考えてはみたが、結局私がいくら考えたところで正解を出せるわけがない。とにかく声をかけることくらいはするか。
「……本当に助かっているから、あまり気を落とさないでくれ」
言葉を選べているのかは分からないが、これくらいしか思い浮かばなかった。もう少し語彙力と対人能力を養った方がいい。
吹雪は変わらず笑顔で応えた。他人の機微にそこまで敏感なわけではないので気のせいかもしれないが、少し明るくなったように思う。そのまま湯呑みを傾けてくれたのを確認して、安堵が身を包む。
私も自分の分の茶を飲むことにした。喉を通る熱さは考えを放棄するのに都合がよく、もっと相応しい言葉があったのではないかと巡る思考を、そのまま流し込めるような気がした。
……左隣からの視線。嫌な予感。に似た感覚がしたため、湯呑みを机上に置いてからゆっくりと振り向く。
「……なんだ」
「んー?」
思った通りの表情だった。煽るようなニヤつきを貼り付けて、それを堪えるように目をすこし細めている。
気まずさに目線を外したりもう一度合わせたりしていると、より一層笑顔が濃くなった。この反応も何となく察してしまっていたが、納得がいかないのでなんとか目を合わせるようにする。
「いやあ、提督がちゃんと提督してるなあって思って」
「私はいつも提督だ」
「そうだけどさ」
いまいち釈然としない言葉だったが、言いたいことは分かってしまう。
「なんというか……普段の提督、あんまり上官っぽさがないっていうか」
「……そんなつもりはなかったが」
「こんなこと言える時点でそうなんだよね」
「…………」
正論の殴打。何も言えない。
思えば、今まで多方面に威圧感だけは与えてしまっておきながら、たいして上官らしい振る舞いはできていなかったような。
「まあ……ガチガチの上下関係というのもな」
「一応戦時中だし、大事だと思うけど」
「私が苦手なだけだ」
「そんなことだろうと思った」
そう言葉を落として、川内は笑みを浮かべた。何気ないそれに、いつしか私は弱くなってしまったようで、正対して見るには数瞬が限界だった。
彼女は私のことをよく理解してくれている者だ。嬉しいことではある。同時に悔しさのようなものが沸いてもくるが。
それはいいとして、私は威厳と呼ぶべき風格にいまいち欠ける部類の人間なのかもしれない。面倒なのでそんなもの要らないとさえ考えていたが、少しは携えておくべきなのだろうか。
「提督、上官ってよりはさ」
「……友人?」
「ん、そう。友達かなってくらいの距離感になっちゃってるし、本当だったら遠慮した方がいいところも遠慮できないよねぇ」
「少しは遠慮を覚えてほしいところだ」
「ちゃんとした方がいい? こういうの」
「……まあ、友人ではありたいからそれはそれでいい」
「……へへ。そっか。それならいいけど」
気兼ねなく接することができるのは川内の良い面であると考えている。
今さら変に敬語を使われたり巫山戯ないでいられると、魅力が若干薄れる……というより、つらい。私の心が持たない。それはそれでいい刺激になるかもしれないが、好んでそうされたいとは思えなかった。
私の言葉を聞き終えると、やはり満足げに笑顔を零す。もう一度目を逸らした。
既に答えを知っているはずの問いかけ。川内によく見られる言動だ。その都度私も期待通りの答えを渡してしまうわけだが、まあそこは本音だから仕方ない。
ともかく、やはり上官として振る舞えるに越したことはない。
特に最近は自身の感情の表現に歯止めが効かなくなってしまっている。今はまだ『提督』であろうとしているはずだったが、こと川内に関してはどうもタガが外れるようで。
「……提督らしくあるためにはどうすればいい。自分で考えるべきだろうが、君の意見も聞いておきたい」
「ん? いやまあ、普段の提督はちゃんと『提督』ではあると思うよ。上官ぽさはないけど、そこは間違いなくて」
ありがたいことに、彼女の目にはまだ『提督』として写っているようだ。私の認識とは違って、彼女にとっての提督と上官はすこし意味が異なるものらしい。
そこをいまいち掴みきれていない私の様子に気付いたのか、彼女は考える素振りを見せる。
「んと、なんというか……上官として相手を気遣って言葉を選ぼうとしてるところとか、あんまり見ない気がしたってだけ」
「……ああ、なるほど」
そういうことなら、彼女が私に上官らしさを見い出せない理由は明らかだった。
「それは普段君が相手だからだ。ほとんど気を遣う必要もない」
「……えっ、なんかそこはかとなく悲しいんだけど」
川内の声はどことなく沈みかけていて、落ち込もうにも落ち込みきれないでいるようだ。言葉通りの様子だった。
そのような様子を見ていると申し訳なさが沸くような感覚がしたが、恐らく気のせいだ。
「ま、まあいいや。それだけ距離が近いってことだし……うん」
自分に言い聞かせるように言葉を落とす。言い聞かせるまでもなく事実……だと私は思っているから、そこは安心してほしいところだ。
反応が面白いのでこれに関しては伝えない。
やがて自分を納得させたらしく、ため息をひとつ吐いてから、不満そうに私を見据えてくる。
「……まあ、
やたら棘のある発言だった。強調された部分は、言うまでもなく私を咎めるための言葉。への字型に曲げた口と合わせて、不満を呈しているようだ。
川内には悪いが、そうした言動は私の心拍数を跳ね上げることにしか役立たない。頬が緩みきらないよう御するのに、多大な労力を要してしまう。
「提督が慰めようとしてるのも本人には届いてるんじゃないかな。ね?」
私の方へ向いてくれない川内は、その代わりに私の右隣の方へ──吹雪の方へと視線を飛ばす。しばらくは川内の気分が戻りそうもないので、私もその視線を追った。
湯呑みを手に、にこやかにこちらを見ていた吹雪は、自分に会話が向けられているとは気づいていないようだ。
「……え? あ、わ……私ですか!」
やがて視線と質問が向けられていることに気づいたらしく、慌てた様子で破顔を崩す。
……言ってしまうと本人に怒られるかもしれないが、吹雪の存在を忘れていた。司令室に川内以外の艦娘が居ることにまだ慣れきっていない。しばらく吹雪そっちのけで二人で話し込んでしまっていたが、それにしては不服そうな気配はなかった。むしろ楽しそうな雰囲気を纏っている。
「えっと、司令官が気遣ってくれてるのは分かります。その……私が困ってると心配そうに見てくださるので……」
「わかりやすいよねー、提督の感情」
「……表情には出ない部分、ちょっとは分かった気がします」
「よかった。毎度思うけど、こういうところ積極的に出していけばいいのに。提督のダメなところだよね、ほんと」
吹雪との会話の合間にちらりとこちらを見て、川内はそう言葉を落としてくる。表情筋で口角を押さえつけた。自身の魅力、そろそろ自覚してほしいものだが。
しかしそこは正論なので何も言えないでいると、吹雪から不思議そうな声が上がった。
「……? 川内さん、いつも『そこ含めてかわいい』って言ってますよね……?」
「ちょっ!? い、いや……それは別というか!」
まったく話に入れない。川内に目を合わせてもらえないのもあるが、そもそもこんな会話に割り込める人間がいるのだろうか。いるというなら、世界は間違っている。
ここは大人しく、ダメージを負っててんやわんやしている川内を眺めることにした。
「……ふふ」
吹雪はこれ以上ないくらいの笑顔で川内を見守っている。少なからず私にもダメージが入っているわけだが、そこは考慮してくれないらしい。
駆逐艦とはここまで恐ろしい艦種だったか、と末恐ろしい気分になった。
「……ふぅ。あの。私のことはお構いなく。お二人とも話したいことが溜まっていそうですし」
川内の反応を一頻り楽しんだらしく、吹雪からそんな言葉がかけられた。
その川内は未だに騒いでいるようだが。混乱して一人で唸っている様子を確認しつつも、吹雪の発言の意図を噛み砕いて分かりやすくすることにした。
どう考えてもそのままの意味でしか受け止められない。
「……君の存在を忘れていた奴が言うのもアレだろうが、それでいいのか」
「お二人の会話で元気になれますから!」
「そうか。まあ……何も言わない」
屈託のない笑顔でそう言われてしまうと受け入れざるを得なかった。元気になれる要素がどこにあるのか甚だ疑問ではあるが、本人がそう感じるのであればいいのかもしれない。
吹雪は仕事に戻るようで、私に笑顔をくれてから手書き書類の小山に向き直った。
執務処理に追われている者の真横でどうでもいいような会話を展開することに、多分の違和感と嫌悪感と罪悪感を覚えてしまうが、恐らく吹雪はその会話を求めているのだろう。
仕方ないと割り切って、なんだかんだで燃え尽きて机に突っ伏している川内に視線を移す。
「……川内? そろそろ目くらい合わせてくれないか」
できる限り刺激しないよう、控え目に話しかける。
先程は目を合わせてくれなかったが、恐らくたいして怒っているわけではない。ただ、普段より赤くなってしまっている耳を見る限り、今度は別の意味で目を合わせづらそうだった。
「……ん」
数秒経って体を起こした川内は十分落ち着いたようで、顔の赤みさえなければ普段通りの様相をしている。
この様子なら大丈夫だと踏み、目を合わせにいく。と、視線が交錯する前に逸らされてしまった。つい苦笑いを零してしまいつつ、私からは目を逸らさないようにする。
川内は逸らした視線の先で吹雪の姿を見つけたらしい。川内を見続けているため確認はできないが、恐らく書類と睨み合いをしているであろう吹雪に、若干首を傾げた。
「……仕事させてていいの?」
「ああ。彼女がそう望んだんだ」
「そっか。ならまあいいのかな」
彼女にも吹雪の行動が理解できないらしく、そのあとに「よくわからないけど」と付け加えた。
私たちの会話を聞く傍らで仕事をしたいなどという願望は理解できないが、まあ受け止めてしまっても問題ないことなので好きにやらせていいと判断した。川内もそのような考えだろう。
──せっかく聞いてくれるなら、自信がつきそうな話題でも出してやるか。
「……しかしまあ、吹雪はよくやってくれている。今はまだミスもあるが、すぐに慣れてくれるだろう」
「へぇ。最初のころの私たちよりはよっぽど良さそう?」
「ああ。間違いない」
表記漏れの指摘に落ち込んでしまうような吹雪に少しでも自信をつけてもらおうと意図した話題選びだ。ありがたいことに、その意図に川内は気付いてくれたらしい。視線は未だ吹雪に釘付けだが。
とはいえ、当然ここは嘘を言うべきではない。正当な評価を下すことにする。
「吹雪はすごい。あの頃の私たちには捌ききれなかったであろう仕事量を、もう少しで終えてしまえそうなんだ」
「まあ、流石って感じだね。絶対向いてるって思ってた」
「ああ。まだ日が浅い段階でこれだ。私たちなどすぐに追い越されるかもしれない」
「……それはちょっと焦るなぁ」
迫り来る才能に危機感を感じたらしく、今まさに書類処理に追われている吹雪の姿をまじまじと見て、そう零した。
吹雪に秘書艦は向いているだろうとずっと思ってはいたが、既に期待以上の仕事ぶりを見せてくれている。本人は自分のミスに負い目を感じているようだが、正直それらが気にならないくらいの実力だ。
今後彼女の自信がなくなりそうなら、間接的にではなく、直接本人に伝えてみてもいいかもしれない。
「…………」
川内が唐突に黙り込む。ここでようやく私と目が合った。ぼうっと私の方を見るだけで、特に何を発するわけでもない。
「……どうした」
「ん、いや。なんでも。私も頑張らないとなってだけ」
「そうか」
尋ねてみるが、特に何も分からなかった。ただ、何か決意したような強い意志だけは感じる。
どういう心境なのか、その答えを見つけることはできなかったが、言ってしまいたい言葉は見つかった。間違っているかもしれないし、求められてもいないかもしれない。
ただなんとなく伝えてみたほうがいいような気がして、ひとまず言葉にしてみる。
「……普段の君にも、私はよく助かっている」
「え? そ、そう? それなら嬉しいけど」
困惑したような、嬉しいような、がそれぞれ混線した声。
嬉しいのは間違いないようで、突然の褒め言葉に戸惑いつつも、笑顔を浮かべてしまっている。
「秘書艦としての働きも助かるが、それとは別に色々とある」
彼女への言葉として間違いではなかったようなので、そのまま突っ切ることにした。
『提督』であるために、自制しなければならないと分かってはいる。それでもどうしようもないくらいの情動が沸いてしまう。軽い自己嫌悪に浸りつつも、まあいいかと適当に流す。
「君がいるだけでやる気が沸いてくるんだ」
「……最近の提督、やっぱり変に素直だよね」
「さあ。拗らせるよりはマシだろう。この際全部言ってもいいか」
「……えっ。いや、別にいいけど……熱でもある?」
「ない」
よほど私らしからぬ発言だったようで、病人の譫言ではないかと心配されてしまった。
即座に否定で返したが、不安げな表情は晴れない。割と本心から心配してくれているようだ。
「
「……ど、どこ」
「きちんと寝てくれるのも助かる」
「えっと、そこもなんだ?」
「くだらない話に付き合ってくれるのも嬉しい」
「……まあ、話すの楽しいし?」
「明日を生きるための糧になっているのも事実だ」
「……あの、ちょっと褒めすぎじゃないかな」
「そんなことはない。君は生きてくれているだけでありがたい」
「や、やめてよ……恥ずかしいって……」
私の言葉につれ、川内は次第に紅潮していく。
川内に褒め殺しが効くのは分かっている。本音を言っていればいいだけであるため、楽な事この上ない。
一気に吐き出してしまいたかった。これで川内が自身の魅力を自覚してくれればいいか、などといった思考が巡る。幼少に学んだ歯止めの効かせかたを、この時に限って忘れてしまったようだ。
「それになにより、君はかわ──」
言葉を止める。流れのまま自分が何を口走ろうとしているのか理解して、そのまま固まった。
落としかけた言葉と、紡いでしまった言葉を認識して、後悔と焦りが身を蝕み始める。さすがに自制をしなさすぎたかもしれない。思いの丈を曝け出すにしたって、限度はあるもので。
唐突に止んだ言葉の流れに、川内が首を傾げる。最後に落としかけた言葉は、都合の悪いことに聞き逃してくれなかったらしく、紅潮したままの顔を近づけてきた。
詰問する体勢。やけに必死なその形相に、つい身を引いてしまう。
「……かわ?」
「噛んだ。からかい甲斐がある」
「……納得がいかないんだけど。ほんとに噛んだだけ?」
「……ああ」
「目くらい合わせてほしいな」
ジト目。耐えきれずに目を逸らすと、彼女はすぐに追求の手をかけてくる。こうなってしまえば逃げ場はどこにもないようで、都合のいい方便も持ち合わせていない私は、ただ黙り込むしかない。
ふと、彼女の上がり気味の口もとを確認する。私が言いかけてしまった言葉は、きっと分かっていて追求しているのだと確信した。
「司令官。本日の分、すべて片付きました!」
沈黙が続いてからすこし。もう直接言ってしまおうか、などと考え出した頃、吹雪から声がかかる。
振り向くと、嵩張った書類を抱えた吹雪がこちらに笑顔を向けていた。発言内容から察するに、抱えているそれらをすべて終えたらしいが。見ると、机上にあった書類の小山は綺麗になくなっている。
「……吹雪。もう終わったのか」
「はい! 司令官のおかげです!」
「私は何も……それより、仕事が早いな」
「頑張りました! 確認お願いします!」
自信に満ち溢れた声。書類の束を丁寧に渡してくる吹雪の表情には、一切のミスもありえないと確信めいたものが含まれているように思えた。
──蜘蛛の糸とはこのことか。川内の追求を逃れるためにはちょうどいい退路だった。
変わらずジト目を向けられていることが視線から分かるが、訂正すべき箇所がないか確認しなければならないのだ。それに構っている暇などない。
「……問題ない。お疲れ様」
「……よし。よかったぁ……」
痛い視線に耐えつつも、数分で確認を終える。彼女の確信は結果に強く結びついていたようで、渡された書類には全く不備がなかった。
……今の彼女なら小一時間程度必要だろうと踏んでいたが。全く問題がなかったのはいいとして、さすがに早すぎないだろうか。
「川内さんのかわいさのおかげです」
「……どういう反応したらいいのか分かんないけど、まあ、ありがと?」
疑問を感じていた私の心情を察したらしく、答えを添えてくれる。
なるほど納得のいく答えだった。川内は困惑しているようだが、私にはよく分かる。
「私、これからもかわいい川内さんとかわいい司令官のために頑張りますね!」
「……ああ、そうだな。是非川内のために頑張ってくれ」
何故私を並列に扱うのか問い詰めたい気持ちはあるが、川内が気力のもとになるというなら、それはいい事だ。所謂『推し』というものの存在は、それだけでひとつの原動力になり得る。
明日の活力になるような存在。私にとってのそれは……まあ、吹雪と同じく川内か。その存在のありがたみは実感している。
吹雪が川内を『かわいい』と評す通り、彼女の言動は私にとっても癒しになる。それを毎日見ることが叶うからこそ、日々を無駄に過ごさずにいられるように思う。
「川内は本当にかわいいから、私も毎日執務に尽くすことができるのかもしれない」
「えっ」
上擦った声。声の出元に振り向くと、驚いているのか嬉しいのか絶妙な表情をした川内が、私の顔をまじまじと見ていた。信じられないものを見たような顔だ。
数秒間そのままの表情で固まったあと、やがて期待を孕んだ目を寄越してくるようになった。静かな双眸には引き込まれるものがある。
「どうした」
「えっいや……て、提督? いまなんて?」
「聞き取れなかったか。再度言うようなことでもないが、私が毎日執務に尽くせるのは、君がかわいい……から…………」
言葉が詰まる。先のセリフを繰り返し言い切るよりも先に、自身の喉を鳴らした響きの重大さに気づき、ようやく失態を認識した。
──どうも、自制して言い逃れたはずの言葉を、流れで言ってしまったようで。
目の前の川内は何も言ってくれない。ただずっと私を見つめるだけで、目を逸らすこともない。顔の赤みを増していく様子だけが、彼女の心情を知る唯一の手がかりだった。
同時にどうしても受け入れざるを得ない現実を叩きつけられる。覆水は盆に返らないらしい。
「……今のは忘れてくれ」
鼓動、身体の熱。それぞれが段階的に大きくなるのを感じ取りつつ、なんとか言葉を捻り出す。
私からの縋る言葉に、双眸の奥が揺らぐのが見えた。私の意志を最大限尊重しようとしてくれているらしいが、彼女自身の意思には反するのだろう。しばらく目を伏せたあと、申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「……ごめん、無理。……たぶん、ずっと忘れないと思う」
「…………」
結局、彼女の想いが打ち勝ったようだ。私にとってその決断は都合の悪いものだったが、困ったように眉尻を下げているのを確認してしまえば、仕方ないと割り切る他なかった。
紅潮したままのそのような表情には、どうしようもなく抗えない。
「……えっと、あの……お願い、なんだけど」
黙するままでいる私を、恐らく肯定の意を示していると受け取ってくれたのだろう。
弱った様子でそう言葉を落とす。伝えづらい思いを伝えてくれるようだ。
「さっきの言葉……も、もういっかい言ってくれないかな、って……」
単語をひとつひとつ拾ってきて繋げたような、弱く
私が好んで口にする言葉でないと分かっているはずだろうに、それでもここに関しては意思を押し通したいらしい。
「……今度でいいか」
「うん。今はまだ、ゆっくりでいいから……」
無難な返答だけが浮かんだ。私と彼女の考えを見比べて、ここが妥協できる着地点だと考えた。今はここまでだ。
「ほんとに、いつでもいいから。その……いつかはちゃんと、流れに任せてとかじゃなくて、提督自身の意思で言ってくれると嬉しいかなって」
「……ああ。すまない」
「ううん。いつかの約束をしてくれるだけで、ほんとに嬉しいから……ありがと」
震え気味の声と嬉しそうな声色。赤い頬に少し潤んだ瞳。直視できなくなるには十分すぎる刺激に、私は呑み込まれてしまった。
いつしか熱くなっていた自分の頬に手を添え、ゆっくりと吹雪の方へと向き直る。手を離すと、自身の生きている証がじんわりとした熱で感じられた。
「…………」
「これからも頑張れます! ありがとうございます、司令官! かわいいです!」
私と川内との会話がひと段落ついた頃合を見計らったようで、吹雪はちょうどいいタイミングで言葉を挟んでくる。
……どうも、吹雪は私と川内の会話を糧に生きようとしているらしい。その言葉の節々から滲み出る『ありがとう』の意思に、ため息が零れるのを抑えきれない。
「……執務も終わったことだ。夕飯、食べに行くか」
川内と吹雪に告げて、真っ先にドアの方へと向かう。赤くなった顔をこれ以上見られないよう、後を追う二人分の足音には数歩分先を行くことにする。
夕刻は既に暗い。食堂までの冷えた空気に包まれて、この煮えたぎった顔をどうにかできればいいが。
結んでしまったいつかの約束を置いて、ひとまず腹を満たすことにした。