軌条   作:なちょす

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皆さん、こんにチカ。
田舎至上主義過激派、なちょすと申します。

長い間あれこれ考えてた妖怪物オリジナル作品となります。
遅筆の為間が空くことも多々あるかもしれませんが、何とか完結させるつもりでおりますので、気になった人は時間のある時にでも頭空っぽにしてお読みいただければなと思います。

人これを、作品の供養という。
誤字脱字等は容赦なく報告してもらえると作者が感謝の舞を踊りながら脇でおにぎりを握ります。


──蜃──

 白い靄のかかった世界。

 姿形も理も在らぬ世界。

 

 手を伸ばせど、その手は無く。

 歩みを進めど、その脚は無く。

 只只、只ひたすらに音が鳴く。

 

 

 ──カン、カン、カン、カン

 

 

 踏切。

 

 明滅を繰り返す、こっちとあっちの(・・・・・・・・)境界線。

 共に流るるは、獣と人と、化け物共の混声合唱。

 一定のリズムで反響していた音は次第に大きくなり、彼女の方へと近づいてくる。

 

 彼女は振り向いた。

 白い世界を。

 音がする方を。

 

 

 彼女の立つ場所を、汽車が過ぎ去った。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇◆

 

 

 

 

「部分的な記憶喪失ですね」

 

 目の前に座る白衣の男は、他人事のようにそう言った。

 

「取りあえず後遺症が残る心配もありません。ゆっくりと時間をかけるか、何か切欠があれば思い出すでしょう――詠さん?」

「⋯⋯あっ、すみません。僕ですよね。」

 

 一拍置いて、ようやく自分が呼ばれたのだと気づく。白衣の男は困ったような顔をして安っぽい銀縁眼鏡に手をかけた。

 

「では、これで検査は終わりです。大学もお休みなんでしょう?どこかで羽を伸ばすのも良いかもしれないですよ」

「はぁ⋯⋯」

 

 それだけ言って、男はそそくさと部屋を後にした。皺でよれよれの白衣が目に付いたが、辞書の様になったカルテを見るに直す暇も無いのだろう。

 

 ふと横を見れば、窓の向こう、灰色の街に大雨が降っている。対照的に何もかも白一色で埋め尽くされた病室は眩しい程で、LED蛍光灯が照らす灯りが鏡のように自分の顔を窓に映していた。

 前髪は眉毛の少し上で分かれており、全体的に毛先を遊ばせたりも見られない。やせ細った外見はどこかひ弱にも見えて、これが自分であり、『(さがみ) 蓮夏(れんか)』という人間なのだという事が信じられなかった。何より、前髪が白い。これのせいで余計に他人事だと感じてしまう。

 

 何も覚えていない訳では無かった。家は月3万円のボロアパートだし、住所も知っている。自分が都内に通う大学生だという事も覚えているし、趣味がお菓子作りに裁縫という、何とも女の子の様なものであるという事もだ。だからこそ、自分の顔を思い出せないというのは何とも気持ちが悪い。

 布団から出て、一度伸びをしてみる。どことなく湿気を帯びた、ジメッとした空気が纏わりついた。

 

「詠さん、お帰りですか?」

 

 少し歳のいった看護師さんが、点滴の袋を持ちながらそう言った。

 

「はい。異常は無いみたいですし。帰る場所も分かりますから」

「それはよかった。あぁそうだ、さっきお見舞いに来た女性が、これを詠さんにって」

 

 手渡されたそれは、文庫本のようだった。

 

「誰ですか?」

「さぁ⋯⋯名前は聞いてないし、綺麗な人だったってことは憶えてるけどねぇ」

「身内にそんな人――」

 

 そこまで言ってハッとした。

 

 ――身内って、誰だ?父は?母は?兄弟は?知人は?

 

 誰とも関わっていないだなんて有り得ない。なのに僕の記憶は、誰かと共に過ごした記憶がすっぽりと抜けている。そんなものは初めから無かったとでも言うように。

 

「⋯⋯受け取っておきます。ありがとうございました」

「はい、どうも。気を付けて帰ってください」

 

 スマホに財布、受け取った本と、必要最低限の荷物を持ち、僕は病室を後にした。

 

「あぁ、そうそう、詠さん。彼女さんなら、大事にしなさいね」

 

 看護師は、おそらくこっちが素であろう話し方で微笑みながらそう言った。

 

「はは、善処します」

 

 口から出たのは、そんな受け流すかのような軽口だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 病院で借りた傘を差しながら、大通りを歩いていた。

 電気街の電光掲示板が言うには、すでに梅雨入りを始めたこの6月の大雨はまだまだ続くらしい。こんな天気だというのに、どこもかしこも人で溢れていた。喫茶店で友達と話している学生。大音量が漏れたパチンコ店から出て来る男。濡れた地面にガムのようにへばりついたライブハウスの広告。

 

 多すぎる。

 眼から。耳から。自分に入ってくる情報がとてつもなく多かった。自分に記憶が無いからだろうか?だから、こんなにも人に溢れているのに、こんなにも孤独を感じるのだろうか?一向に止む気配のない雨は、ビニール傘を打ち付けては地面に落ちていく。

 何となく、この街は自分が居てはいけないような気がした。

 

 病院を出て15分。大通りを離れてすぐ、閑静な住宅街に差し掛かった。人が少ない訳では無いが、先ほどの電気街に比べればまだ静かなほうだと思う。住んでいるアパートは、この住宅街を道なりに進んで踏切を渡ればすぐだ。電車がよく通るこの辺りでは、専ら長いと言われている踏切。なんでも、10数年も前からこの場所にあるらしい。

 

 その長い長い踏切が見え始めてきた段階で、僕は足を止めた。

 

 ――何だ。

 

 カン、カン、カン、と。踏切の音が、えらくゆっくりに聞こえる。遮断機は降り初め、其れは即ち電車が間もなく来るという、至極当たり前のことだ。

 

 なら⋯⋯あの子は、何だ?

 何故、遮断機の内側に(・・・・・・・)いる?

 

 心臓の音が、一音一音はっきりと聞こえる。脳が、『急げ』と言っている。

 僕は、傘を投げ捨てて走り出した。

 その小さな女の子は、こちらとは対照的に線路から動こうとしない。最悪の結果が脳裏をよぎったが、気にしている余裕など無かった。

 

 たかが数十メートルが嫌というほど遠い。視界を遮る雨が鬱陶しい。

 

 間に合え。間に合え、間に合えっ!

 心の中で何度も叫び少女に手を伸ばした時だった――。

 

 

『馬鹿者が』

「かはっ⋯⋯!」

 

 

 襟元を、誰かに思いっきり引っ張られた。

 急激に首が絞まった事でうまく呼吸が出来ず、後ろへ倒れこむ。

 

「げほっ!げほっ⋯⋯!何が⋯⋯いや、それより!!」

 

 突然のことに理解が追い付かなかったが、僕は踏切の方へと目線を向けた。

 既に電車が通っている。急ブレーキを踏んだ様子は無く、障害など無いとでも言うように走っていた。

 5車両目の電車が走り去った時――あれほど動こうとしなかった女の子はそこに居て、こちらを向いていた。

 

 ただ一言。

 

 

「ざ、んね、ん」

 

 

 自分の頭を抱えながら、そう言って、消えた。

 

 あれほど降っていた雨は、すっかり止んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自室に帰ってきてすぐ、濡れた体をシャワーで流し、ベッドに寝転がった。記憶喪失になり、全力疾走をし、良く分からない出来事に遭遇。正直理解が追い付かない。追いつかないけれど。

 

「⋯⋯生きてる、よな」

 

 天井に掲げた自分の掌を何度も握ったり、開いたりして、生を実感していた。自分が見たものが今でも信じられない。

 首を持った女の子が「ざんねん」と言った。逆に言えば明確に僕を殺そうとしていたのだろう。消える直前にこちらを見ていた瞳には、本来あるはずの者は無かった。真っ黒な、どこまでも続く深い深い闇。

 ゾッとした気持ちを紛らわせるために、看護師さんから受け取った文庫本を手に取った。

 

 あの雨の中、誰かに引っ張られて転倒したというのにも関わらず、本には濡れた形跡が無い。何もかも分からないことだらけだった。

 

「⋯⋯何だこれ」

 

 開いた本には、あろうことか何も書かれていなかった。文章も、絵も。どのページを開いても200~300ページはあろうかという冊子は、白紙で埋め尽くされている。

 

「どうなってんのさ⋯⋯ん?」

 

 ペラペラと捲っていた本の隙間から、僅かに日に焼けた紙の匂いが鼻を掠めていった。小さな紙切れの隅にはなにやら文字が書かれている。

 

 

 ――1989.8.13 『ホシキムラ、カミナテツドウにて』

 

 

 裏返すとそれは写真だった。

 どこかの山だろうか、写真の大半は、生い茂った木々によって満たされている。一直線に伸びる線路は、写真が日に焼けていても錆びてしまっていると分かった。だが何より気になったのは、その写真で唯一人写っていた小さな子供の後ろ姿だった。

 先ほど見た不気味な子供とは明らかに違う、どこか遠い景色を羨望するかのような後ろ姿は、どことなく寂しささえ感じた。

 

「ホシキ、ムラ⋯⋯」

 

 口にした瞬間、何かが嵌った気がした。遠い⋯⋯遠い昔の、知らないはずの村の線路の写真。それでも、僕は確信が持てた。

 知っていると。

 青々とした草木の香りも。

 金色の穂先を揺らす稲穂の波も。

 誰かといた記憶がある。

 顔の知らない誰か。

 

 ここに記憶があるのなら⋯⋯これが手がかりだと言うのなら。

 

「行かなきゃ」

『して、どうやって?』

 

 突然耳元で響いた声に驚き、僕はベッドから転落した。

 

「なっ、な、誰ッ⋯⋯!?」

『ククク⋯⋯そんなに驚くなよ、(わっぱ)

 

 部屋を見渡しても人の姿など無い。いや、あったらあったで怖いけれど⋯⋯。

 

「げ、幻聴⋯⋯?」

『いいや、確かに聴こえているとも。妾はここに居るし、お前はそこに居る』

「ここに居るって⋯⋯何わけわかんない事を⋯⋯」

『して?お前はどうやってその村へ行こうというのだ』

「その前に姿ぐらい見せてくれてもいいだろ!」

『答えよ。質問しているのは妾だ』

 

 声の主は、傲岸不遜に、こちらの話を聞こうとはしない。実際こちらは何も出来ないに等しいのだから、言う事は聞いておいた方が良いのだろうが⋯⋯。

 

「それは⋯⋯調べるなり聞くなりして探すよ」

『涙ぐましいのぉ⋯⋯まぁ良い。次だ。次が一番大事なんだが――夕刻見たモノを、どう思う』

「⋯⋯何の事さ」

『とぼけるな。一つしか無かろう?』

 

 夕刻見たモノ――それは恐らく、あの女の子の事だろう。

 自分の首を持ち、こちらを殺そうとしてきた少女。こっちがあまり思い出したくないものを、声の主はどう思うかと聞いてきたのだ。どうもこうも無いし、答えなんて一つしか無い。

 

「⋯⋯怖かったよ。死にかけたんだから」

『ふむ、素直なのは良い事だ。ならお前は⋯⋯あのバケモノが存在してはならぬと思うか?』

 

 僅かだが、声色が変わった気がした。飄々とした強気の口調ではなく、面接官の様な、知らない所で何かを品定めしているような声だ。

 あの子が、存在してはいけないか。

 自分を殺そうとしたものを許せるのか。

 ずっと頭の後ろから聞こえる声は、そう聴いている。

 

「あれは⋯⋯幽霊、か?」

『まぁ近しいものだ。地縛霊。怨霊。呼び方は違えどな』

「なら、別にいいと思う。存在してはいけないなんて、僕が言えることじゃない」

『ほう⋯⋯その心は?』

「あの子は、望んでああなったものではないと思うから。少なくとも順風満帆に生きてる人間は、死のうとなんてするもんか。事故だったり、追い込まれでもしない限りは」

『なら尚更、そういった者たちの恨み辛みで死ぬのは馬鹿馬鹿しかろう?』

「死ぬのはごめんだけど、否定するつもりは無い。それを認めて良いのは、本人だけだ」

『⋯⋯どっちつかずな奴だ。はっきり言わんか』

「僕は⋯⋯話を聞きたい。自分に手伝えることがあるなら手伝いたい。そうして、後腐れなく過ごしてもらいたいと思う」

 

 僕の言葉を聞いた声の主は、深く息を吸い、呆れたように呟く。

 

『綺麗事を抜かすお人よしめ。お前は、期待を裏切らない甘ちゃんで大馬鹿者の様だな』

 

 随分とボロクソ言ってくれる。姿一つ見せない、威厳に満ちた女の声は、けれどどこか、嬉しそうでもあった。

 

『合格だ』

「え?」

『明日、妾が言う場所に必ず来い。遅れるでないぞ』

「何だよそれ、何の話だよ!」

『声を荒げるな童。なに、妾が案内してやろうというのだ。来たいのだろう?ここ――ホシキムラに』

 

 見なくても分かる。

 声の主は、いじらしく、不敵に笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『声の主』から言われた場所は、北東北の一地方、秋田県の内陸部だった。昨日のうちに荷物を纏め、真っ赤な流線形が特徴の秋田新幹線に乗ることおよそ4時間。秋田駅周辺のビジネスホテルで一泊したのが昨日の事だ。

 朝早くに起き、始発の奥羽本線で『声の主』に指定された駅へ向かう。銀地の車体にピンクのラインが入った、たった2車両しかない普通列車は、乗客もまばらに乗せて木々の中をかき分けるように走っていく。

 走れど走れど、景色は一定のサイクルで廻り廻るのだ。

 野山。田んぼ。小川。そして町。

 つい昨日までは、こんな景色が見られるとは思わなかった。あの街で嫌というほど入って来た情報はここには無く、乗客が少なくても孤独感の様なものは感じなかった。

 

 始発を利用する学生達が電車のドアを開ける度、雨上がりで水をたっぷり吸い上げた6月の土の匂いが僅かに車内に入り込む。

 紫陽花が水滴を着飾り咲いている。あれは野生の紫陽花だろうか。秋になれば、車窓を流れるこの田んぼも稲穂でいっぱいになるのだろうか。

 

 自分でも分かるくらいに、僕はドキドキしていた。

 

 揺られること2時間半。到着したのは『鷹巣』という駅だった。ホームを軽く見渡せば、線路を挟んで反対側に、もう一つ線路があった。普通列車より少ないたった1車両の電車だ。都会ではまず見ないそれは、内陸縦貫鉄道と呼ばれるものだった。

 

「ここで、いいんだよな」

 

 一度改札を抜け、同じ駅にある内陸線のホームで切符を買おうと料金表を見た。

 

「あれ⋯⋯あれ!?ホシキムラなんて何処にも無いぞ!?」

 

 見れども見れども、それらしい名前の停車駅は無い。

 ここに来るまでの間胸を躍らせたのは間違いではないが、これはどうしたものか。移動だけで6時間以上かけたというのに、このままではどうすることも出来ない。肝心の『声の主』はあれから一言も声を発していない。僕は騙されたのだろうか?

 

「あの⋯⋯詠 蓮夏さんですよね」

「えっ⋯⋯はい、そうですけど――」

 

 振り返った先、見知らぬ少女がそこに居た。雪のように肌は白く、それをさらに引き立たせるかのような、黒一色のワンピース。ショートカットの髪は麦わら帽子によって隠れてはいるが、前髪の向こうから見える瞳は風鈴のように透き通り、輝いていた。

 

「よかったぁ⋯⋯人違いだったらどうしようかと思いました」

「えっと、君は?」

「蓮夏さんをホシキムラに案内するために来たんです。早速で申し訳ありませんが、電車が出てしまうので今は行きましょう」

 

 そう言って、僕の手を掴んだ少女は迷わず改札を抜けた。

 

「えっ、ちょっ、切符!!」

「ないので大丈夫です」

 

 笑顔でそう言い切った彼女は、どこかデジャヴを感じてしまった。改札を抜ける直前、切符売り場に居たおばちゃんがこちらを向いていたが、僕らの事など気にも留めないかのように自分の仕事へと戻った。

 

 手を繋いだまま列車へ乗り込んですぐ、短い汽笛を鳴らした内陸縦貫鉄道は動き出した。今この1車両しかない小さな電車の中には、僕とこの子の2人しか居ない。着いてから何もかも急だったこともあり、まだ気持ちの整理がついてはいないが、今はまずこの子が誰なのかを知りたい。性格や声を聞くに、ここを指定した『声の主』では無さそうだけれど⋯⋯。

 

「あの⋯⋯」

「はい?あっ、ごめんなさい!手を放してないですよね!すみません!」

「いや、そうじゃなくて!あ、いや、いまのは別にそういう意味でのそうじゃないっていうか⋯⋯!」

 

 何故だろう。うまく会話が出来ない。緊張しているのだろうか?出会ったばかりの、多分自分より若い女の子に。

 

「その、ごめんなさい⋯⋯ホシキムラに人が来てくれるって聞いて、少しうれしくて⋯⋯」

「いや、こっちこそごめんっていうか⋯⋯ありがとうと言うか⋯⋯」

「なんか、熱いですね⋯⋯」

 

 隣に座りながら麦わら帽子を脱いだ彼女は、気恥ずかしそうに笑いながらパタパタと顔を仰いでいる。陽の光が差し込む車内は、さながら舞台のスポットライトの様に彼女に当てられている。静かに揺れる車内で僕は何となく彼女から目を逸らした。聞きたい事はあったのだろうが、どうもそういう雰囲気では無かった⋯⋯というより、僕が耐えきれなかっただけだが。

 

 お互い無言のまま、車窓の景色はどんどんその緑を増していく。鷹巣町を回るように抜けた後すぐ山に入り、何度か峡谷を抜けた。深い谷の下では沢が陽の光を受けながら輝いている。さっきまでの気恥ずかしさが消え去ったわけではないが、やはりこういう景色には胸躍る思いだ。

 

「あの――」

 

 ほんの少し、話題を作ろうとした。ホシキムラのこととか、この子の事とか。その為に、何気なく顔を上げただけだったんだ。

 だから、きっと、気のせいだ。

 

 流れる景色の中で、首を吊った人形が見えただなんて。

 

「どうしました?」

「いや、何でもない⋯⋯」

 

 彼女に何も言うことなく、僕はまた車内から外の景色を眺めることにした。

 

 それから30分ほど経った頃だろうか。そろそろ次の駅に着いても良いころだが、電車が止まることは無かった。それどころか、一つの違和感が僕の中に渦巻いていた。

 

「この峡谷⋯⋯通った、よな」

 

 小さく呟いた不安は彼女に聞こえていなかったみたいで、今もうつらうつらと眠気と戦っている。

 気のせいだ。そう思いたかった。強く、そう思って、窓の外を見た。

 

 首を吊った人形が、僕の視界を流れていった。

 

「なん⋯⋯で⋯⋯」

 

 気づいてしまった。景色を楽しもうと外を眺めていたことが仇になってしまった。

 この電車は、同じ道を通っている。あれから長い間、何度も、何度もだ。

 

「気づきました?」

 

 声のする方を振り向けば、少女はこちらを向いたまま笑っていた。

 

「同じ道、同じ線路、同じ景色。あなたの目に映る全てのモノは、ここにあってここには無い。彼の者が見せる、ひと時の泡沫、夢幻」

 

 麦わら帽子を被り直した彼女は、しかし笑みを崩すことなく運転席のほうに歩いて行く。

 

「何を言って⋯⋯」

「見えませんか?いえ、見えるはずです。あなたは『そういう人』だから。そうであれと『望んだ人』だから」

 

 彼女の言葉の真意を問おうとした時、運転席の遥か向こうの景色が目に入った。相も変わらず周囲の木々には人形が吊るされているが、この電車の進路のその向こう。

 景色が歪んでいる。

 正確には、(もや)がかかっていると言えばいいのだろうか。

 

 そして僕は知っていた。これから夏にかけて急増するその現象。

 人の視界に幻覚を見せる、その歪み。

 

 

 ――『蜃気楼』

 

 

「ご名答」

 

 車内に風が吹き荒れ、思わず目を瞑った。体を包む一瞬の暖かい風が止み、目を開れば先ほどまで乗っていた電車はどこかへと消え、立っているのは深い深い山の村の入り口。

 先ほどまで隣に居た少女の姿は無く、目の目に居るのは一人の女。

 獣の様な耳を生やし、腰まである長髪は陽の光を浴びて季節外れにかがやく金色の稲穂の様。切れ長の目尻には僅かな隈取が施され、靡く十二単はその重量を感じさせないほど軽やかに初夏の風を撫でている。

 

 そして、異常なのはその後ろに居る二枚貝――巨大な(はまぐり)だった。

 

「これが(しん)。これが『(あやかし)』。そして、これが妾だ。歓迎するぞ、(わっぱ)。ようこそ⋯⋯人と妖の住まう地――星祈村(ほしきむら)へ」

 

 呆気にとられる僕をからかうかのように。

『声の主』は現れた。




次回、『――朧――』
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