公演終了後。
「……よかったわよ」
後片付けの最中。荷物を運ぶために二人きりになった……なるべく、他の人間が周囲にいないタイミングを見計らって、七生は結愛にそう言った。
「え?」
きょとん、と。
美人がやったらかわいい、いわゆる『小首を傾げる仕草』を、そのまま結愛はやった。そういう仕草まで様になるものだから、また腹が立つ。
──コイツは難聴系鈍感ラブコメ主人公か?
意を決して、七生は鈍感女を真正面から見据えたまま、もう一度言った。
「だから……よかったって言ってんの。あんたの演技。最初の芝居より断然、よくなってた!」
「っ……ありがとうございます!」
「うえっ!?」
それだけ言って、あとは「一応、合格って巌さんに伝えとく」と。伝えたいことだけ伝えてさっさと離れるつもりだったのに、結愛は一気に距離を詰めてきて、しかも七生の両手をしっかりと掴み取った。
「具体的に! もっと具体的に教えてください!」
「ちょ……!」
近い。なんというかもう、いろいろと近い。
具体的に? そう、具体的には、結愛の胸の女性的な膨らみ──大きめのパーカーを着ているので、そこまで目立っていなかったが──の存在感を、間近に感じるほど近い。というか、少し当たっている。
しかも、わりとがっしりと手を握られているせいで、振りほどいて逃げることもできない。手のひらの温かさと、髪の毛から香るシャンプーの香りに、心臓の鼓動が早くなる。
「どこが!? どこがよかったですか!?」
「ま、前に出過ぎないところとか……あと、他のキャストに視線とセリフを振って、流れを調節したり……まあ、そんな感じ」
だから、少し慌ててしどろもどろになってしまうのは仕方がない……仕方がないのだ。
誰も聞いていないのに、七生は心の中の自分に言い聞かせた。
「ありがとうございます! 七生さんにそう言ってもらえるの、めちゃくちゃうれしいです!」
「ちょっ……!?」
結愛のコミュニケーションは手を握るだけでは終わらなかった。終わるどころか、悪化した。
やっと手を離したと思ったその瞬間。今度は両手を大きく広げて、捕食者のようにガブリ、と……平たく言えば、正面から抱きついてきたのである。
七生は、混乱した。それはもう、大いに混乱した。とりあえず、周りに他の人間がいなくて本当に良かったと思った。
(うっわ……やっぱこの子、髪の毛めっちゃいい匂いするな……シャンプーとか何使ってんの? いやいやそうじゃなくて! ていうかマジで胸でっかい……!? かわいくて演技できてスタイルもいいとかなにそれ……いや、そうじゃなくて!)
好き勝手に抱きつかれたまま、数秒。七生は結愛の無駄に大きい胸の中から、顔を上げた。
「ちょっとあんた、いい加減に……」
「七生さん」
「なに!?」
「わたしのこと、好きになってくれましたか?」
言葉に、困った。
抱きつかれたまま、体温も息遣いも、髪の匂いすらも手に取るようにわかる、この距離で。
人を疑うことを知らないような、人に嫌われないことを疑わぬような、純度の高い透明な瞳に、こんな近くから見詰められてしまったら……
「……ま、まだわかんない」
……こんな風に、誤魔化すのが精一杯だ。
──ヘタレか?
心の中でセルフツッコミ。自分の情けなさに七生は顔を覆いたくなったが、抱きつかれて腕をホールドされているので、それすらもできない。
しかし結愛は、七生の返答に気を悪くした様子はなく、むしろその答えがはじめからわかっていたかのように、からからと笑った。
「そうですよね。わたしたち、お互いのこともまだ何も知らないわけですし」
「……当たり前でしょ。今日会ってすぐ、相手のことが好きになるわけないじゃない」
「ですよねぇ」
裏表のない笑顔と、朗らかな声音だった。
「なのでわたし、七生さんのことがもっと知りたいです」
「え?」
「わたし、まだまだ演劇初心者なので……もっとうまくなりたいんです。だから、個人的に演劇を教えてくれる人を探していました! 七生さんしかいません! というか、七生さんがいいです!」
「え……? ええ?」
「ダメ、ですか……?」
がくん、と結愛は身体を落とした。腰にすがりつくように、上目遣いにこちらを見上げる視線がひどくいじらしい。
甘え上手な子犬みたいだ、と七生は思った。捨てることなんて、できるわけがない。
「……い」
「い?」
「い、いいけど……」
「やった! ありがとうございます!」
ようやく満足したのか、手をほどいて結愛が離れる。無駄に強い圧迫感から解放されて、七生はほっと息を吐いた。
「七生さん! 連絡先! 連絡先交換しましょう!」
「はいはい」
もう、なるようになってしまえ。
せがまれるままに連絡先やら何やらを交換する。懐かれるのは嫌な気分ではないが、むず痒いものがある。
「あ、そういえば」
スマホをいじり終えた結愛が、ふと思い出したように手を叩く。
「さっき、ようやく気がついたんですけど……七生さんって、舌にピアス空けてるんですね」
「え、あ……うん。そうだよ」
何を言うかと思えば、そんなことか、と思ったが。これはある意味、ずっと握られていた会話の主導権を取り返すチャンスかもしれない。
七生はにんまりと口の端を吊り上げた。
「女子高生からみたら、大人って感じする?」
「はい! わたしたちは、校則とかもあるので……」
「そうだよね。あんま、こういうとこに空ける人いないだろうし……ていうか、ふつーのピアスもまだか。どう? 羨ましかったりする?」
七生はこれ見よがしに、結愛に向けて舌を軽く出してみせた。
特に、深い意味もなく。ただ、自分を振り回す女の子に対して、大人ぶってみたくなった。
七生の行動は、ただそれだけのことだったのだが、
「……そうですね」
結愛はそれを、否定しなかった。
ただし、あからさまに肯定もしなかった。
舌の上のピアスを興味深そうにじっと見ている。
(……あれ?)
結愛の喜怒哀楽は、とてもわかりやすい。相手に気持ちがある程度きちんと伝わるように。しっかりとメッセージを伴った表情をする。
けれど、その瞬間だけは、
「すごく、えっちです」
七生は、目の前の少女の感情を読むことができなかった。
立ち竦む七生の横を通り抜けながら、透明な美貌が先ほどと同じに……いや、それ以上に接近する。唇が重なるか重ならないか。そんな近くで、囁くような吐息が漏れる。
舌を、舐め取られるかと思った。
「だから、あんまり他の人に見せびらかしちゃダメですよ?」
不意打ち、だった。
犬のような少女はそのまま、軽い足取りで片づけに戻っていく。
「……意味、わかんない」
はい、とか。
いいえ、とか。
そういう答えを返す余裕すらなく。
あの不思議な少女に心を掴まれた実感だけが、心の中にじっとりと残った。
△▼△▼
巌裕次郎は、広い一軒家に一人で住んでいる。
家族はいない。演劇に打ち込み、のめり込む巌に愛想をつかして、出て行ってしまったからだ。
七生は、今日の公演が終わったあと、ここに直接顔を出すように言われていた。
「巌さん、いる?」
「おう。帰ったか」
「……なに観てるの?」
「ユアユアの配信だ」
チャイムも鳴らさず、開けっ放しの玄関からリビングに入った七生は、早速困惑した。
野球中継を暇潰しに観ているような表情で頬杖を突きながら、PCの前に座って現役女子高生の配信を観る日本を代表する演出家。正直、絵面がシュールと言うしかない。見る人が見れば、その光景に卒倒するだろう。
「舞台のあとでも、配信は欠かさねえつもりらしい」
「へえ」
「今、なんてコメントを送ろうか考えている」
「いや、聞いてないし」
「七生……おめぇ、なんかいいコメント思いつくか?」
「勝手に考えて」
結愛が絡むと途端にこうだ。相変わらずだなこの人は……と思いつつ、七生は、空いているソファーに腰を落ち着けた。
「で、どうだった?」
「よかったよ。まだまだ荒削りだけど、一気に伸びると思う」
「そうか。見立て通りだな」
見立て通りだな、と。
巌裕次郎に言わせた役者は、果たして彼の生涯の中で何人いただろうか?
七生は、唇を噛む自分の感情を自覚しないように努めた。
「で、お前……『例の物』は貰ってきたのか?」
「例のモノ?」
「ユアユアのサインだよ」
「……ああ」
そういえば、そんなことを言っていた。
「大丈夫、ちゃんと貰ってきたよ」
鞄の中から、サイン色紙を取り出す。
別れ際、結愛は他の劇団員にもサインを求められていたので、その流れに乗って書いてもらうのは簡単だった。色紙まで用意していたことを何人かにからかわれたが「知り合いがファン」ということで押し通した。事実だし、噓は吐いてない。
それを聞いた結愛は「なーんだ。七生さんにサイン書きたかったのに。ちょっと残念」などと。またあざといことを言っていた。当然、七生は自分の分のサインは断った。
「はい」
「ああ」
これは、巌に渡すためのものだからだ。
「……おい、七生。それじゃあ、受け取れねぇぞ」
「え?」
気がつけば、七生はサイン色紙を胸の前で抱きかかえていた。
──七生さんにサイン書きたかったのに、ちょっと残念
馬鹿馬鹿しい、と切り捨てていたはずの言葉が、頭の中で反響する。
必要ない、と断ったはずの紙切れが、胸の中で途端に重みを増す。
「……巌さん」
「なんだ?」
「結愛、うちの劇団に呼ぶつもりなんだよね?」
「……そのつもりだ」
ああ、よかった。
それなら、問題ない。
「だったら、結愛から直接サインもらえばいいよね?」
「いや、それはそうだが」
「これ、私が書いてもらったサインだから」
「……あ? おいちょっと待て七生!?」
巌の制止も聞かず、七生はそのまま足早にリビングから立ち去り、巌の家を飛び出した。
歩きスマホは厳禁。なので、適当な電柱の陰でスマホを開き、動画サイトにアクセスしてチャンネルを開く。配信は、まだ続いていた。
『それでそれで、すっごくお芝居がうまい女の先輩がいて……! わたしの師匠になってください、ってお願いしてきちゃったんです!』
師匠。
らしくない響きに、思わず笑ってしまいそうになる。けれどまぁ、悪くない。あの子と一緒にいれば、きっと自分も得るものがあるだろう。
『おつかれさまでした』
コメント欄に、一言と。
『次、いつ会う?』
個人用の連絡先にも、メッセージを送って。
画面の中でスマホを持って、急に喜び始めた少女の姿を眺めながら、七生はチャンネル登録のボタンを押した。
「……サイン、どこに飾ろうかな」
(好感度的な意味で)勝ったッ!七生編、完……!