「……あー、なるほど。つまり、幼馴染がこの前のコラボで険悪になった百城千世子と共演することになって。あんたはそれがすごく心配だ、と」
「そうなんだよ~」
まるで溶けたアイスのように。テーブルの上に伸びて呻きながら、わたしは七生さんの言葉を肯定した。
場所は我が家。時刻は休日の昼。わたしは七生さんを自分の家に呼んで、この前景ちゃんから告げられた驚愕の事実について、七生さんに相談していた。
「まさかさ~、まさかさぁ~。ひげのおじちゃんも、いきなりスターズの映画のオーディション受けさせるとは思わないじゃん?」
「ひげのおじちゃんって、黒山墨字だっけ?」
「そうだよー」
「まあ、有名な映画監督って大抵何考えてるかわからないし……ていうか、オーディションについてその子から前もって何か聞いてなかったの? どこの作品受ける、とか」
「だって最近、わたしめちゃくちゃ忙しかったんだもん。そりゃ、映画のオーディションを受ける予定がある、とは聞いてたよ? でもまさか……」
「それがスターズの。しかも百城千世子の映画だとは、思ってもいなかった、と」
「そういうことっ!」
七生さんとはすっかり仲良くなったので、敬語も抜けている。わたしは一応演技を教わっている立場にあたるので、敬語で接しようと思っていたのだけれど、七生さんの方から「敬語はいらない」と言ってくれたので、そのお言葉に甘えることにした。
「その子、スターズのオーディションには、一度落とされてるんだっけ?」
「ばっちり落とされてるよ~。だから普通、受かるわけないって思うじゃん?」
「でも、受かったと」
「がっつり受かってきちゃったんだよね……」
もちろん、景ちゃんがオーディションに受かったことはとても喜ばしい。すごく喜ばしい。でも、その主演が百城千世子となると、話が別だ。景ちゃんがわたしの親友であることを知られたら何をされるかわからないし、そもそもあの二人の演技の方向性が合うわけがない。絶対衝突するに決まっている。
「それにしても、コラボの配信で、あんたと百城千世子、結構仲良さそうに見えたけど……あれは表面上だけ仲良くしてたってわけ?」
「……あー、うん、いや、その、なんというか……演技の方向性が合わなかったっていうか、微妙に意見が食い違ったというか……まあ、そんな感じかな? 百城さん本人は悪い人じゃないと思うよ。ただ、わたしとは致命的に相性が悪かったっていうか、水と油というか、光と闇というか……」
「誰とでも仲良くなりそうな結愛がそこまで言うなんて、ちょっと意外だね」
「うう……七生さーん」
「はいはい。泣くな泣くな」
わたしは顔を溶かす場所を、冷たいテーブルの上から七生さんの膝の上に切り替えた。
はあ……なんて素晴らしい包容力。これが年上の安心感ってやつなんだね。
「まあ、信じてあげるしかないんじゃない? 結愛の親友ってことは、悪い子じゃないんでしょう?」
「うん……それはそうなんだけど」
「もしかしたら、意外と仲良くなって帰ってくるかもよ?」
うーん。そうかな……? そうかも?
いや、でもなぁ……景ちゃんだしなぁ……
悩むわたしの頭を撫でながら、七生さんの視線が時計の方に向いた。
「結愛。そろそろ時間じゃない?」
「あ、ごめんごめん! 今準備するね!」
もう少し甘えていたい気分だったけど、ここは我慢して。PCと撮影用のカメラ、その他諸々を取り出す。
「じゃあ、今日はよろしくね。七生さん!」
「……私なんかが出ても、おもしろくないと思うけど……」
「そんなことないよ! きっと盛り上がるよ!」
本日の配信は、はじめて七生さんを呼んで行う雑談回だ。舞台の宣伝も兼ねているけど、正直百城さんとのコラボ配信の時よりずっと楽しみだったし、なによりも気楽だった。
今頃、景ちゃんは映画の初顔合わせに行っているはずだ。
めちゃくちゃ心配だけど、今はその気持ちを一旦心の中から締め出して。わたしは目の前の七生さんと配信に集中することにした。
△▼△▼
同時刻。
釣り堀で、二人の男が糸を垂らしていた。
「順調みたいじゃねぇか」
「おかげさまでな」
巌裕次郎の問いかけに、黒山墨字は至極つまらなそうに鼻を鳴らした。
「おたくの役者の演技を、ガンガン食ってぐんぐん成長してるよ。こわいくらいだね。世界の巌様々ですよ」
「背中が痒くなる世辞はいらねぇよ。教えてんのは、うちの劇団の連中だ。俺はまだ直接会ってもいない」
「なんで会わないんだよ」
「いや、なに。ちょっと心の準備がな」
「は?」
「こっちの話だ」
それよりも、と。
巌は黒山が持ち込んでいるPCの画面に目をやった。
『そんなわけで、次に出演させてもらうのはこの舞台です! 今日来てくれた七生さんも出るから、みんなもよかったら是非きてね!』
『き、きてねー』
その中では、完璧なスマイルの結愛と、かなりひきつった笑みの七生が、揃って手を振っている。
結愛の配信である。舞台に立つようになってから、定期的に参加した劇団の宣伝や企画の告知をチャンネル上で行っている。最初こそ、ただの客寄せパンダのように思われていたが、実際の宣伝効果と結愛の演技が広まり、少しずつだが天球を通じて他の劇団からも出演のオファーがくるようになっている。
チャンネル上での宣伝効果は、率直に言って絶大だった。
「こういう拡散効果ってやつも、馬鹿にできねえもんだな。正直、少し驚いた」
「やけに素直だな」
「認めざるを得ないだろうよ。最近の演劇は『閉じているコンテンツ』なんて言われるくらいだ」
観劇は内輪の循環だ、と。言われることがある。
舞台役者が友人に自分の舞台を勧めたり、バイト先で宣伝行為をすることは、決して珍しくない。それはイコールで、互いに課せられたチケットのノルマをクリアし合い、互いに作品を観に行くという閉じた循環に繋がる。結果、ライト層の客を取り入れられず、アマチュアの役者崩れ同士で舞台を消費し合う。
作品の種類にもよるが、舞台一本のチケットはどれだけ安くてもおおよそ二千から三千円。それだけの金を払えば、映画館で話題の作品を観ることができる。巌の言葉は映画監督の黒山から聞くと、多少の皮肉を孕んでいるように聞こえた。
「そういう時代なんでしょうよ。ジジイにゃ、ちとツラいか?」
「アホ抜かせ。俺はまだまだ現役だ。スマホはダメだったが、パソコンの使い方はウチのやつらから教わったぞ」
「最近は演劇の配信も増えてるからな」
「けっ。いろいろと思うところはあるが……しかし、まぁ、お前の言うとおりか。そういう時代なのかもしれねぇな」
年喰ったな、このジジイも。
やけに素直な巌の言葉に、黒山は思わず内心で呟いた。
「そういやぁ、お前が前に言ってた『もう一人』の方は、何してんだ?」
「心配しなくても、きっちりスターズの映画のオーディションに受かりましたよ。今日は顔合わせに行ってる」
「アリサのところの映画っつうと……あれか。『百城千世子』が主演か」
「……勘、いいすね」
「アホ抜かせ。俺を誰だと思っていやがる」
「老い先短いジジイ」
「今ここでぶっ殺すぞ」
餌を変えて、巌は再び釣り針を水面に投げる。
「しかし、お前も随分と回りくどいことをするじゃねぇか、黒山」
「回りくどい?」
「そうだろう? 万宵結愛と百城千世子は、本質が似たタイプの役者だ。ユアユアを『役者』とするならば、だけどな」
「本人達にそれを指摘したらキレるでしょうけどね」
「馬鹿言え。お前、コラボ配信で似たようなことしてただろ」
「あれは天使が自分から望んでやったことだっつーの」
黒山の発言に、巌は少々意外そうに片眉を吊り上げ、喉を鳴らした。
「くくっ……へえ。スターズの天使はアリサのお人形かと思ってたが、そうでもないか。自分が被ってる仮面を、自分の意思で磨き抜いている自負はあるわけだ」
「ていうか、あのコラボをセッティングしたのは、配信少女のバックにいる悪徳プロデューサーだ。俺が責められる理由はありませんね」
「そうかよ」
「そうだよ……おっと。きたきた」
大きめの獲物を釣り上げた黒山には目もくれず、巌は池の中を見る。
「お前が見出した夜凪景とやらがどれほどの役者かは知らん。ただ、まぁ……」
再び静かになった水面の下には、まだまだ巨大な獲物が潜んでいる。
「……荒れそうだな」
「でなきゃ、おもしろくないでしょうよ」
☆☆☆☆
同時刻。スターズ所有のビルの一室。
「……はぁ」
映画の顔合わせ、といってもそれは形式上のものだったらしい。夜凪景は、小さく溜息を吐いた。
通された応接室は、景の人生の中で一番と言ってもいいくらい、とても立派な部屋だった。壁には大きめの絵画が飾られ、部屋の中央には二十人以上が囲んで座れる大きな円形のテーブルが鎮座している。本来は、景達『オーディション組』と元から出演が決まっていた『スターズ組』が、向かい合って打ち合わせをする予定だったのだろう。
だが、十二人いるはずのスターズ俳優は、約束の時間を過ぎても誰一人として現れる気配がなかった。
「ごめんね皆! せっかく時間通り顔合わせに来てもらったのに、うちの俳優がまだ一人も到着していないんだ。全員、多忙でね。もしかしたら一人も間に合わないかもしれないけど、ま……よくあることだし、気にしないでね。どうせ現場で会えるから」
サングラスが特徴的な手塚という監督はヘラヘラとした口調でそう言ったが、そんな説明で時間通りに来た人間が納得できるはずもない。むしろ、露骨に軽んじられていることがわかって、オーディション組の何人かは苛立った表情が顔に滲んでいた。
景はスターズ俳優の時間を守らないスタンスに、特に腹を立てているわけではなかったが、それでも残念なものは残念だった。
(今日は天使には会えないのかしら……)
「じゃ、台本を渡そうか。軽く読んでみるかい?」
最初から、お世辞にも良い雰囲気とは言えない部屋の空気の中に、
「ごめんなさい。遅れてしまって」
大きく扉を開けて飛び込んできた『天使』の登場は、だからこそ劇的だった。
真っ白なワンピースに、黒のチョーカー。照明が当たっているように映える、白い肌。弛緩した部屋の空気が塗り替わり、全員の視線が彼女に集中する。
女優、百城千世子はそれが当然であるかのように、柔らかく微笑んだ。
「これでも、撮影急いで巻いたんだけど」
ぐるり、と室内を見回して、一言。たったそれだけの動作で、何人かが息を飲む。
「私以外、誰も来てないじゃん、スターズ。こんな日に顔合わせなんてしたらダメだよ、カントク」
「ま、ぶっちゃけ顔合わせなんてしなくても、作品に影響ないからね」
「いや、大アリだよ! 第一、みんなに失礼だよ、これじゃ」
ここにいるのは、監督である手塚を除いて、全員が役者。今、最も名が売れている女優を前に抱く感情は、様々だった。
源真咲は、耳に心地のいいことを言って結局重役出勤じゃないか……と、反感を抱いた。
湯島茜は、磨き抜かれたその美貌に、釘付けになって見入っていた。
烏山武光は、その一挙手一投足から、売れている役者の個性を感じ取っていた。
「改めまして、遅れてごめんなさい。百城千世子です。よろしくお願いします」
そして、夜凪景は、
「はじめまして、夜凪景です! よろしくお願いします!」
目にも止まらぬ速さで椅子から立ち上がり、接近し、千世子の両手を握っていた。
ぽかん、と。それまで天使一色に染まっていた全員の視線が、唐突な奇行に吸い寄せられる。
「え、と……?」
「夜凪景、高校二年生です! 職業は役者!」
「あ、うん。ここにいる人は、みんな役者だからね」
「と、得意なことは運動と料理! 運動は短距離走とか走り幅跳びが得意で、チームでやるのはちょっと苦手で……あ、得意料理は和食なんだけど、弟と妹がいるから洋食も作れます!」
「へえ、すごいね」
「今日も筑前煮を作って持ってきたの! よかったらお近づきの印に……」
「あはは、ありがと」
千世子は笑って受け流していたが、他の人間はそうではない、
ドン引きである。特に、オーディションで景と一緒だった三人……真咲、茜、武光は、慌てて顔を突き合わせた。
「おいおいおい。どうなってんだ夜凪のやつ。まるっきり距離感ってもんが掴めてないだろ。なんだアレ。こえーよ。初対面で筑前煮押しつけてくるやつ、こえーよ」
小声で真咲がそう言うと、
「ふつーに百城さんのファンなんやろ。あと、あの子友達いなさそうやし、舞い上がってるんとちゃうか?」
オーディションで景と揉めた茜が関西弁で冷たく突き放し、
「いや、昔からの幼馴染がいると聞いたぞ! 友人がゼロということはないはずだ!」
武光が少し的外れなフォローを入れる。
三人に好き勝手に言われている景は、そんなことを気にする余裕はない。はじめて会う天使を前に仲良くなろうと必死で、頭の中はパンク寸前だった。
(どうしよう……お土産、筑前煮だけじゃ少なかったかしら)
景は友達が少ない。というか、結愛以外に友達と呼べる友達がいない。ストレートに言えば、わりとコミュ障である。
なので、ここに来る前から考えていた自己紹介のセリフを、景はそのまま言った。
「あ、あとね! 私、千世子ちゃんがコラボした結愛ちゃんと友達なの!」
ピクリ、と。
それまで当たり障りのない笑顔を維持していた千世子の頬が、ほんの僅かに跳ねた。
「ああ、そっか……夜凪さん、
「そ、そうなの! 大親友! 一番の友達と言ってもいいくらい! 結愛ちゃんとは小さい頃からお隣さんで……」
なんとなく、天使の雰囲気が変わったことは、景にもわかった。けれど、千世子がはじめてまともな反応を示してくれたことに安堵して、さらに口走ってしまった。
大親友、と。
「夜凪さんは、万宵さんのこと……好き?」
「もちろん、大好きよ!」
「そっか。奇遇だね」
天使は嗤う。
「私も、万宵さんのこと……