夜凪景という少女は、ちょっと空気が読めないところがあるコミュ障ガールだったが、決して鈍いわけではない。
だから、その一言で目の前の天使の雰囲気が明確に変化したことを理解した。
「好き……だった?」
過去形。
今も結愛のことが『好き』であるのなら「好きだよ」と言えばいい。しかし、千世子は過去形で自身の感情を語った。それはつまり……
「今は結愛ちゃんのことが
スターズの天使が。
あの百城千世子が。
ものすごくなんとも言えない微妙な表情で、曖昧に沈黙した。
繰り返しになるが、夜凪景という少女は、ちょっと空気が読めないところがあるコミュ障ガールである。ついでに訂正しておくと、少し鈍いところもあるのかもしれない。
地雷を真正面から踏み抜いてスキップしていく強引なコミュニケーションで、景は全てを解決しようとしていた。あっけに取られていた千世子が、ようやく口を開く。
「……夜凪さんは、万宵さんのことが好きなんだね?」
「ええ、大好きよ」
景は即答した。
「結愛ちゃんは美人だしかわいいし、私と違って愛嬌もあるし、誰からも好かれるすごい子なの。運動神経も私と同じくらい……ううん、チームスポーツなんかは結愛ちゃんの方がずっと得意だわ。あ、そうそう! ゲームも大好きですっごく上手! 修学旅行のババ抜きとかで負けたところ、見たことがないくらい! 根が優しいから、人の気持ちをいつも第一に考えてくれるのね。昔からずっと一緒にいてくれて、私が困った時はいつだって助けてくれる大親友よ!」
長い。
さすが役者というべきか、景は一度もつっかえることなく滑らかに結愛の魅力を語りつくす。しかしあまりにもそれが滑らかで澱みなかったので、ただでさえ引いていた他の共演者達が、さらにドン引いた。
「……ふーん」
唯一、百城千世子だけが、景の親友のプレゼンを真顔と言ってもいい色のない表情で聞いていた。
「夜凪さんは、どうして私に興味をもってくれたの? やっぱり、私が親友の万宵さんと配信でコラボしたから?」
「それもあるけど……」
今、最も売れている女優が「どうして私に興味を持ってくれたんですか?」と、問う矛盾。けれど、景は物怖じすることなく千世子の質問に答えた。
「テレビで観たあなたも、今目の前にいるあなたも、とても綺麗で……」
もちろん、知っている。
百城千世子は、画面の前でその様に演じているからだ。それはいい。それは許せる。
「なのに、どちらのあなたも顔が視えないから」
ただ、
「人間じゃないみたいだなって」
あの悪魔を賛美するその口で、人間じゃない、と。
はっきり告げられた言葉が、千世子の心の琴線をぐちゃぐちゃにかき乱した。
(……あー、ダメだ)
あの日から、ずっと。思い出さないようにしていたのに。
瞬間、フラッシュバックしたのは、あの時、あの瞬間の結愛の表情だった。
──でも、わたしは天使じゃなくていいから
自分とは比較にもならないような、暗く、深く、厚く上塗りされた仮面。絶対に勝てないと悟ってしまった、傲慢な横顔。
アレを。
よりにもよって、アレを好きだと朗らかな笑顔で言いながら。この子は、私を人間じゃないみたい、と言うのか?
抑えきれない気持ちが、千世子の中でふつふつと煮立った。
「おもしろいことを言うね」
今度は、千世子が景を引き寄せる番だった。
否、正確に言えば引き寄せたわけではなかった。掴まれた手を振りほどいた千世子は、細くしなやかな手のひらを広げて景の胸に当て、軽く押した。
「え?」
とん、と。見た目の長身よりも軽い景の体がぐらついて、床に柔らかく尻餅をつく。
「夜凪さん。あなたの芝居、私も見たよ」
千世子は膝を折った。今度は、自分から景に近づいた。舐めるように顔を近づけて、景だけに聞こえるように声の音量を絞った。
それはさながら、獲物を補食する昆虫のような所作だった。
「大丈夫。あなたの芝居はちゃんと人間だったよ。私や万宵さんと違って」
きれいな瞳が、困惑でいっぱいに見開かれる。
「結愛ちゃんと同じって……それって、どういう」
「もちろん、言葉通りの意味だよ」
鈍いなぁ、と千世子は苛立った。でも、その苛立ちは景への苛立ちではない。不甲斐ない自分自身を対象にした、空へ向かって吐き捨てた唾が返ってくるような、原始的な自己嫌悪だ。
芝居とは、仮面を被るもの。だから千世子は、己が被る仮面をずっと磨き続けてきた。
しかし、いくら天使という仮面を被っていても、観客に見破られてしまえば、もう天使ではいられない。出来の悪い仮面をおどけて被って踊ってみせるのは、ただの道化でしかない。
夜凪景という少女は、万宵結愛という仮面の、その美しさと精巧さの証明だった。
結愛は、千世子と同じ種類の仮面を被っている。完璧に完成された仮面を被り続けながら、おそらく最も長く隣にいたであろう幼馴染に、その偽りを気づかれもしていない。
また、思い知らされた気がした。
百城千世子の顔は
万宵結愛の顔は
単純な話。それが目の前で千世子を見つめる少女の答えであり、覆りようのない事実だった。
だから、苛立つ。
だから、抑えきれない。
「私の仮面に興味を持つ暇があるなら……大好きな親友の仮面を先に剥がした方がいいんじゃない?」
ああ。
きっと、今の自分の横顔は、天使ですらない。
△▼△▼
顔合わせは終了した。
景はすぐに帰らず、なんとなくビルの前で空を見上げていた。
「……はぁ」
元々、オーディションの結果に、景は満足していなかった。
オーディションの内容は、他の共演者、景自身を含めて四人で行う形の即興劇。無人島に漂着した場面からスタートし、『制限時間五分以内に四人が殺し合いを始めるように演じる』ことが課題だった。自分一人では決して成立しない、周りの役者と協力しなければできない演技。奇しくもそれは、演劇で己の課題と向き合う結愛と似た境遇だった。
そして、景は失敗した。独りよがりな芝居で他の役者をかき回し、困惑させて、
──人の気持ちがわからんなら、役者なんてやめてしまえ!
温厚に、優しく接してくれていた湯島茜のそんな一喝で、景のオーディションは終わった。
結果的に、共演した真咲、武光、茜の三人は全員合格だった。もちろん、景も合格だった。だが、茜に言われたあの言葉は、心の深い部分に突き刺さったまま、まだ抜けていない。
「結愛ちゃんなら……」
まるで、心が見えているかのように思いやりが深い、自分の親友なら。きっと人の気持ちがわからない、なんて言われなかっただろう。事実、結愛は黒山から紹介してもらった舞台の仕事を着々とこなし、確実にスキルアップしている。それだけではない。舞台で共演した他の役者と仲良くなって、一緒に配信動画を撮影するほどに交友の輪を広げている。今日、配信をするから帰ってきたら景ちゃんにも紹介するね、と。結愛は笑顔で言っていた。
景は、人の気持ちがよくわからない。わからないせいで、あの百城千世子を怒らせてしまった。ただ、あの苛立ちは……仮面の間から垣間見えた怒りは、自分だけに向けられたものではないように思えた。
なによりも、天使が言ったあの言葉。
「……結愛ちゃんの、仮面」
あなたの隣にいる親友も、仮面を被っているよ、と。つまるところ、千世子はそう言っていた。
今まで、考えたこともなかった。結愛が、そんな仮面を被っているなんて、想像すらしたことがなかった。でも、もし本当に千世子が言う通り、結愛が仮面を被っているとしたら、
「私は、結愛ちゃんに無理をさせている……?」
人の気持ちがわからないせいで、心の負担を親友に強いてしまっているのではないか?
呟きに、誰かが答えてくれるわけではない。答えをくれるわけでもない。
「けーいちゃーん!」
どこまでも沈み込んでいきそうな気持ちを、すくいあげてくれたのは、やはり親友の明るい声だった。
「え? 結愛ちゃん?」
「そうだよ! わたしだよっ!」
万宵結愛である。
顔を上げた瞬間、綺麗なフォームで猛ダッシュしてくるゆるふわの茶髪が、視界いっぱいに飛び込んだ。
「どうしてここに……?」
「前は景ちゃんが迎えに来てくれたから、今日はわたしの方から迎えにきちゃった!」
「でも今日、舞台の人と配信するって……」
「もちろん景ちゃんのためになるはやで終わらせてきたに決まってるじゃん! あ、七生さんはウチで待ってるから、今日はご飯一緒に食べようよ! 紹介したいし!」
「それはいいけど……」
あれ、と。結愛が首を傾げる。
「景ちゃん、元気ないね。何かあった?」
どきり、と。心臓が跳ねた。
なんでもない。もしも他の人間に聞かれていたならば、そんな風に答えて適当に誤魔化していただろう。だが、目の前の親友に噓は吐けないし……そもそも、噓を吐いたこともない。
だから、景は言った。
「うん。ちょっと、共演者の人とあんまりうまくいかなくて」
一瞬。会話の間というほどでもない、本当に一瞬。結愛の髪色と同じ瞳がうっすらと細められた。その視線に、景は体を固くしてしまう。
明るくて、朗らかで、陽だまりのような親友が……時々、氷のように冷たくなる刹那。今まではただの気のせいだと思っていたそれが、今日は嫌に長く感じられて。
「……あー、わかるよ~。そういうこともあるよね! 大丈夫! わたしも七生さんと最初から仲良かったわけじゃないし! 愚痴は家で聞くから、はやく帰ろ!」
いつものように差し出された手を取ることを、景は一瞬躊躇した。
結愛の顔を、みる。
ずっと昔から知っている、やさしい笑顔。ずっと見てきた、親友の笑顔。
そうだ。決して観ているわけでない。ずっと信じてきた親友の横顔が、仮面であるはずがない。
「……うん。帰りましょう」
繋いだ手の変わらない温かさに、景は安心した。
★★★★
嫌な予感というものは、外れてほしい時ほどいつも当たってしまうものだ。
百城千世子。
わたしの景ちゃんに、何を言った?