「あの時の、意趣返しのつもりかな?」
百城さんが言った。
「ん? べつに仕返しってわけじゃないけど……まぁ、好きなように取ってもらって構わないよ」
今夜の月が、とてもきれいなのは本当だ。
だから、わたしは噓を吐いていない。
「……何をしにきたの?」
静かな夜の海を背に。けれど、天使の口から発せられる言葉には隠し切れない棘があった。
「景ちゃんに会いに来たの」
即答すると、百城さんは「ふーん」と。まるで景ちゃんに
「万宵さんは、本当に夜凪さんのことが大好きなんだね」
「もちろん、大好きだよ」
「ここに来てから、夜凪さんのお芝居をずっと見てるけど……私はあの演技のどこがいいか、いまいちよくわからないな。あんまり、興味が湧かないかも」
「うそつき」
「……何が?」
ダメだよ、百城さん。
心を視るまでもない。感情を読み取るまでもない。特別な力に頼らなくてもわかる。
心の声が、ダダ漏れだ。
「百城さんが、景ちゃんに興味をもたないはずがないよ。だって、景ちゃんはわたしたちと違って『本物』だから」
「……俳優の使命は『本物』を見せることじゃない。観客を虜にすることだよ。素顔を晒してありのままに演じることを人間だって言うなら」
「うん。わたしたちは人間じゃないよね」
言葉尻を先んじて奪い取ると、整った表情がまた少し歪んだ。
いいね。いつものあなたより、そっちの顔の方がわたしは好きだ、ぞくぞくする。
「……顔合わせの時。はじめて夜凪さんに会った時にも言われたんだ。私のお芝居のこと「人間じゃないみたい」って」
ああ。なるほど。
「笑っちゃったよ。隣にあなたがいるのに、私のお芝居をそんな風に言うなんて思わなかった」
この子、だから怒っているのか。
案外、かわいいところあるな、なんて。
「ごめんね。景ちゃん、ちょっと天然入ってるからさ」
「天然を言い訳に使われるのはおもしろくないかな」
「心狭くない? 相手は新人だし、大らかな気持ちで見守ってあげてよ」
「……もう一度確認だけど」
「うん」
「万宵さん、ここに何しに来たの?」
「だから、景ちゃんに会いに来たんだってば」
「…………それだけ?」
「うん。それだけ」
しつこいな。
でも、ああ……そっか。
「百城さん、嫉妬してるの?」
投げかけた言葉に、天使の仮面がぴくりと反応する。いいな、と思った。
美人はかわいい。造作の整った美しい顔は、見ているだけで心が豊かになる。
でも、かわいい子というのはそもそも、笑顔でいることが多い。笑顔でなくても、自分のイメージに合った表情を作っていることが多い。だから、そのイメージの裏側を覗き見ることができるわたしは、時々思うのだ。
その表情を、もっと崩してほしい。
「景ちゃんは、あなたの仮面に気がついた。でも、わたしの仮面には気がついていない。同じ仮面を被っていても、明らかな差があるって……景ちゃんの言葉は、それを証明しているもんね」
心のままに。
感じるままに。
自分に正直に、感情を表情にのせてほしい。
「……っ」
ほら、とてもいい顔が出てきた。
百城千世子のこんな表情を見たことがあるのは、わたしくらいじゃないだろうか。
我ながら趣味が悪いと思う。
でも、仕方ないよね。
「だから、苛立つのはわかるけど。景ちゃんに余計なことを吹き込まないでほしいな」
わたしの『大切なもの』に、先に手を出してきたのはそっちなんだから。
「……ふふっ」
不意に。
荒れ狂っていた百城さんの心の波が、すっと冷めた。
険しさに満ちていた表情が、自然に和らいだ。
「……なんで笑うの?」
「ごめんなさい。でも、おもしろくて」
指先を口元に添える、上品な所作を伴って、
「────そんなに大切にしているのに、素顔で話せないんだ」
天使は言った。
「…………」
一瞬、言葉が抜け落ちた。
もちろん、わかっている。これは、安い挑発だ。わたしの煽りに対して、百城さんも煽り返してきただけ。べつに、腹をたてる必要はない。
ああ、でも。やっぱり、面と向かって、知ったような口で言われるのは────
「やだなぁ。仮面が大好きなあなたに、そんな風に言われても困っちゃうよ」
────
意地の悪い天使は、また微笑んだ。
「べつに、私は夜凪さんをどうこうしようっていうつもりはないよ。だから、それについては安心して」
「……そっか。よかった」
「うん。せっかく来たんだから、ゆっくり観ていくといいよ。私と夜凪さんの演技」
「そうだね。参考にさせてもらおうかな」
これ以上、話すこともない。
「じゃあね、万宵さん。また明日」
「うん。また明日」
それだけ言って、百城さんはまた砂浜を歩いていく。夜の闇の中を、ステップを踏むようにして。
黒い空に、月明かりが一つ。白い砂浜には、落ちてきた天使が一人。寂しい背中だな、とは思ったけれど、同情する気は欠片もない。
わたしには、景ちゃんがいるから。
☆☆☆☆
おもしろいな、と千世子は思った。
あの悪魔が、あんな表情をするなんて。
★★★★
翌日。
この島に来て、二日目。全体の撮影工程で言えば十二日目……の夕方。
さすがスターズ、とまた言いたくなるような宿泊施設の大きなロビー。そこのソファーに座って、わたしは収録した編集前の映像を見ていた。
今日の撮影は、浜辺で一般客を呼び集めて行われた。半分、宣伝目的でもあったのだろう。わたしもマイクを握ってリポートを行いつつ、百城さんの演技を見ていた。が、さすがにリポートをしながら演技を観察するのは限界があったので、こうして映像を借りて観直しているというわけだ。
『カレンはいつも綺麗事ばっか! 私達に死ねって言うの!?』
ホースで降らせた人工の雨の中、百城さんと対峙する茜ちゃんが叫ぶ。
いいお芝居だ。迫力も感情も伴っていて、セリフの発声も澱みない。編集前の映像でも……いや、編集される前だからこそ、その熱をダイレクトに感じられる。
それを平然と受け止める百城千世子は、やはり異常だった。
「……うまいなぁ」
思わず、呟く。
舞台をいくつか経験して、わたしは理解した。役者の演技には、やはり感情がのる。そして、得てして感情とは不安定なものだ。不安定である以上、コンディションや体調に左右されるし、常に100パーセントのパフォーマンスを発揮できるわけではない。
でも百城さんは、どんな時でも常に、とても安定している。カメラの位置を把握して、時には共演者のミスまでカバーするほど、広い視野と余裕を保っている。常に100パーセントに近い演技を維持するその姿は、プロの鑑と言ってもいいだろう。
例えるなら、景ちゃんの演技は、過去の自分の体験を掘り出す博打である。運と感覚にオールインする、センス任せのテクニック。当たればデカいけど、当然失敗するリスクも常に孕んでいる。この場合の『失敗』とは、演技の内容やクオリティだけでなく、演出上の意図から外れること、撮影に遅れをもたらす可能性を指す。
けれど、百城さんにはそれがない。失敗が有り得ないのだ。統計に基づいて徹底的に計算され尽くした演技に、運と感覚が絡む余地はない。だから、強い。
「あ、結愛ちゃんや」
耳に入ってきたのは、柔らかい関西弁。顔をあげると、映像の中で迫力のあるお芝居を見せている生徒と同一人物とは思えない、朗らかな笑顔がそこにあった。
噂をすれば、なんとやら。湯島茜ちゃんだ。
笑顔に応えて、わたしもにっこりと微笑んだ。
「なぁに? 今日の収録分観とるん? 恥ずかしいわ~」
「茜ちゃん! 撮影、お疲れ様! すっごくいい演技だったね!」
最初は年上ということもあって敬語で話していたけど、少し喋るとすぐに仲良くなって「敬語はええよ」と言ってくれたので、そのお言葉に甘えることにしている。
「あはは。気ぃ遣わんでええよ。映像で見返してるならわかるやろ? 少しでも爪痕残したろーってがんばってみたけど……全然あかんかった」
「……」
わたしは何も言わなかった。
下手なお世辞は、却って彼女のプライドを傷つけることになると思ったからだ。
「やっぱりすごいね、千世子ちゃんは」
「それは……百城さんがスターズのトップ女優だからだよ。下手に共演させると、同じスターズの人間でも食べちゃうもん」
それだけのカリスマ性が百城千世子という女優には備わっていて、だからこの映画で百城さんと共演する役者はオーディション組が多めになっている。スターズ俳優の存在感を霞ませないように……スターズの役者同士で『共食い』をさせないようにするためだ。
正直、ずるいと思う。でも、そういうずるさと役割分担で成り立っているのが、芝居の世界だとも思う。
「でも、結愛ちゃんはその千世子ちゃんと二人っきりで、同じ画面でやり合ってたやろ? しかも、互角以上に」
「そんなことないよ。配信と演技を、同列に語ることはできないって」
「互角以上って部分は否定しないんやね」
「……えっと、それは」
「ごめんな。今、へこんでるから、ちょっといじわるなこと言ったわ」
手をたてて、軽く拝まれる。茜ちゃんから向けられるその感情に、わたしはなんとも言えない気持ちになった。いつもはこの力を便利に使い倒しているわたしだけど、こういう時は本当に嫌になる。
親しみと感謝。謝意と恥ずかしさ。陽だまりのような善意と申し訳ない気持ちがブレンドされた白い感情の中に、ほんの少しだけ。誤魔化そうとしても誤魔化しきれない、見逃そうとしても見逃しようがない、黒い感情があった。
羨望と嫉妬。
私はダメだった。でもこの子ならもしかしたら?
私はだめだった。でもこの子みたいな外見があれば?
私は駄目だった。でもこの子みたいな才能があれば?
そういう気持ちだ。
茜ちゃんはすごいと思う。きちんと自分の能力と結果を割り切って、その上でわたしと会話してくれている。それでも拭いようのない黒い感情が、わたしには視えてしまう。感じてしまう。
「……大丈夫。人間、誰だって落ち込む時はあるよ」
「結愛ちゃんはやさしいなぁ。夜凪ちゃんが懐くわけやわ」
……だから嫌いなんだ。心が視えるのは。
意図的にうっすらと、表情に不快の色をのせる。茜ちゃんはわたしの顔色の変化をすぐに読み取って、話題を変えてくれた。
「万宵ちゃんは、やっぱり夜凪ちゃんの演技、好きなん?」
「もちろん、大好きだよ」
わたしは景ちゃんの演技が好きだ。
どこまでいっても、芝居は芝居。映像の中、舞台の上の偽物でしかない。どれだけ真に迫る芝居をしようと『演じる技』でしかない。だから、百城さんのような人が業界のトップに立てるし、わたしのような偽物でもすぐに技術を吸収できてしまう。
でも、景ちゃんは違う。景ちゃんは天才だから。
「夜凪ちゃん、千世子ちゃんに食らいつこうとがんばってるよ」
「そうだね。景ちゃんは頑張り屋だから」
「きっと、千世子ちゃんみたいな演技がしたいんやろなぁ」
「……百城さんみたいな演技、かぁ」
申し訳ないけど、それはちょっと的外れかな。
たしかに景ちゃんは百城さんの技術を吸収しようとしているし、多分ひげのおじちゃんからもそれを目標にして今回の撮影に参加するように言われている。でも、景ちゃんは決して百城さんになろうとしているわけではない。あくまでも、自分の演技の完成度を上げるため、役の幅を広げるために、吸収しようとしているだけに過ぎない。
牛になるために、牛肉を食べる馬鹿はいない。肉を喰むのは、ただ食らって己の糧にするためだ。
余計なことは言わず、地味に過ごそうと思っていたけど。その一点に限っては訂正の言葉を言わずにはいられなかった。
「でも、景ちゃんの演技の到達点は、百城さんとは違うところにあると思うよ」
わたしは、景ちゃんのようにはなれない。
百城さんも、景ちゃんのようにはなれない。
景ちゃんは、わたしたちのようになる必要がない。
だから結局、わたしの演技の参考になるのは景ちゃんじゃなくて、百城さんなんだよなぁ……。いろいろ思うところはあるんだけど、そこは認めなくちゃいけないね、うん。
「せやね」
丸めた紙のように、くしゃり、と。茜さんは笑う。
「私、千世子ちゃんに言われたんよ。「皆に夜凪さんみたいな芝居をしてもらう訳にはいかない。私が主人公じゃないといけないから」ってな」
それは……またなんというか、彼女らしい言葉だ。
「だから、あー、負けた~って思ってな」
「また百城さんと共演する機会があるかもしれないよ。その時にリベンジすればいいじゃん!」
「結愛ちゃんは人を励ますのが上手いなぁ。きっと、誰とでもすぐ仲良くなれるんやろな」
「そんなことないって」
顔に笑顔を貼り付けて、真逆の言葉を垂れ流す。
そうだ。わたしは誰とでも仲良くなれる。人の心を、盗み見ることができるからだ。
その時、その人が最も欲しい言葉を、慰めを。わたしは聞こえのいい声で囁くことができる。愛らしくやさしい『万宵結愛』を、演じることができる。
「一個、聞いてもええかな?」
「……? うん。どうぞ?」
だからこそ、
「結愛ちゃんは、なんで役者をやろうと思ったん?」
その質問は、不意打ちだった。
あの時、コラボ配信をした後。演じる理由を、百城さんにも問われた。でも、茜さんが聞く「役者をやる理由」は、それとは違うように思えた。
「……えっと」
わたしが、役者をやる理由。
「景ちゃんって、昔から映画が大好きで。それで役者さんになりたいってずっと言ってたんだよね」
わたしが、役者をやる理由。
「だから、わたしもなるべく景ちゃんについて行こうと思って!」
わたしが、役者をやる理由。
────なんだろう?
「ユアユア、役者やる必要なくない?」みたいな質問も感想欄でぼちぼちあったので、読者のみなさん鋭いな~と思いつつ、そろそろ佳境です。佳境なので次回も修羅場です