ふと、昔のことを思い出す。
映画を夢中になって観る、幼馴染の横顔を見るのが好きだった。
お母さんが死んで、あの男が家からいなくなったばかりの頃の景ちゃんは、本当に塞ぎ込んでいて。レイちゃんとルイくんの前では気丈に振る舞っていたけれど、二人には気づかれない場所で、よく泣いていた。
「景ちゃん、映画観ようよ」
息をするように映画を観る景ちゃんの習慣を作ったのは、もしかしたらわたしだったのかもしれない。
テレビのスイッチを点けて、ビデオデッキにテープを入れれば、下を向いて俯いてばかりの景ちゃんが、少なくともその間だけは前を見てくれるから。だから、景ちゃんが泣いていると、決まって一緒に映画を観るようになった。
わたしはべつに、映画が好きではない。好きな映画もない。
だって、映像の中の役者の感情は、わたしには視えないから。
もちろん、様々な表情を見せてくれる彼らの演技が、とても素晴らしいものであることは子ども心にもよくわかった。ただ、人間の生の感情を小さな頃からずっと観察してきたわたしにとって、画面越しに『観る』ことしかできない映画の世界は、どこか物足りない、嘘臭いものに感じられた。
あれは演技で、あれはお芝居で、あれは偽物だから。そんな思いが、拭えなかった。
なによりも、わたしの隣には、わたしよりもずっと豊かな心で映画の世界を楽しむ幼馴染がいてくれた。だから、映画の世界に没入するより、きれいな横顔と、キラキラした心の中を覗き視る方が楽しかったのだ。
エンドロールが流れ終わると、わたしはきまって問いかけた。
「景ちゃん。今の映画、どうだった?」
映画の感想を夢中で語る間、景ちゃんはいやなことをきれいさっぱり忘れていて。わたしはそんな景ちゃんの話を聞きながら、相槌を打つのが大好きだった。
わたしはべつに、映画が好きではない。好きな映画もない。でも、映画には感謝している。
映画は、景ちゃんを救ってくれた……綺麗な噓だから。
人間は、噓を吐く生き物だ。
小さな噓、大きな噓、取り返しのつかない噓。噓には様々な種類があるけれど、人生の中で一度も噓を吐いたことのない人間なんて、きっと一人もいないだろう。
わたしは、人の感情が読める。でも、ただ感情を読んだからといって、それが噓かどうか、すぐにわかるわけではない。言葉の意図を読み込み、こちらに向けられた感情を吟味して、口の動きと心の動きに、差がないかを判断し……そうして、ようやく発せられた言葉が噓かどうかわかる。
様々な噓を見てきた。
わたしを騙そうとする、純粋でどす黒い悪意のような噓。
わたしを遠ざけようとする、薄っぺらい誤魔化しのような噓。
わたしを気遣って発せられる、ほんの僅かな罪悪感を含んだ噓。
噓に添えられる感情は、まさに千差万別と言っていいほどに多様で、わたしはそれらの数え切れない噓のほとんどを見抜きながら、時には容赦なく暴き、時にはそっと蓋をして、今日まで生きてきた。
わたしは、それが悪いことだとは思わない。自分以外の誰かと良好な関係を築き、友情や愛情を得るために。人の口から紡がれる噓は、絶対に必要なものだ。
「結愛ちゃんは、私と一緒にいる時……仮面を被っているの?」
ねえ、景ちゃん。
仮面を被っている、っていうのは……わたしが
「……仮面、かぁ」
呟きながら、その瞳をじっと視返す。どうして景ちゃんが、わたしにその問いを投げたのかはわからない。百城さんがきっかけなのか、何か自分で気がつくきっかけがあったのか。それは、本当にわからない。
ただ、景ちゃんから発せられる感情には、悪意も疑念も、わたしを傷つけるような色はこれっぽっちもなくて。むしろ、純粋な興味と探究だけが向けられていて。
そういうところ、
口に出しかけた言葉を、黙って飲み込んだ。
こんな時に、こんな形で気付きたくなかった。それでもやっぱり、あの人と景ちゃんは親子なんだなって思ってしまう。ほんとに……ほーんっとに、そういうところだよ、景ちゃん。
でもさ。
景ちゃんのお父さんが、わたしに言ったんだよ?
すべての人に、愛されるようになればいい、ってさ。
百城さんは、その在り方を傲慢だと言ったけれど。でも、最も多くの人の視線を集めて、最も多くの人に愛される職業。それが、役者でしょう?
なら、わたしの在り方は、景ちゃんにとって理想的であるはずだよ?
正直にならなくていい。
噓吐きになればいい。
あなたに好かれるように、あなたに愛されるように。所作も、口調も、表情も、自然な笑顔も、悲しみに暮れる涙も。すべてをコントロールして、わたしはずっと側にいた。
だから、わたしから景ちゃんに返せる言葉は、一つだけ。
「わたしは、仮面を被っている……」
景ちゃんの表情は揺らがない。
「……って。そう言ったら、景ちゃんはわたしのこと、キライになる?」
やはり、景ちゃんの表情は、揺らがない。さすがは役者さんだ。
でも、わたしは心が視えるから。だから、何を考えているか、見たくなくても視えてしまう。
「百城さん! 夜凪さん! そろそろお願いします!」
スタッフさんから声がかかる。
残念ながら、時間切れだ。
「……景ちゃん、またあとでね」
「あ、結愛ちゃん、まって……」
引き留める声を、振り払う。
足早にその場を去るすれ違い様、百城さんがポツリと呟いた。
「ズルいね」
その通りだ。
こんな力に頼って、聞きたくない答えをはぐらかすわたしは、きっと……ものすごく狡い。
△▼△▼
撮影の用意が整った。出番のある俳優が、その場から離れるわけにはいかない。景は、結愛を追いかけることができなかった。
謝らなくちゃ、と思う。
傷つけるつもりはなかった。ただ、知りたかった。千世子の言葉が本当なのか、結愛の仮面が何なのか。結愛が仮面を被っているとして、その裏側には『何が』在るのか。知りたかった。
──わたしのこと、キライになる?
嫌いになんて、なるわけがない。だって、結愛は誰よりもかけがえのない、大切な親友で……
「ねえ、夜凪さん」
衣装担当のスタッフに身を任せながら、景の隣に立つ千世子はいたって普通の世間話を振るように、言った。
「夜凪さんは、どうして役者になったの?」
問われて、景は考え込んだ。
「……」
おねーちゃん、役者さんじゃないならこわい、とレイに言われた。
お前は役者になるために生まれてきたんだ、と黒山に言われた。
お前とまた演じてみたい、と武光は言ってくれた。
演じる中で、芝居を経験する中で、少しずつ、自分と関わってくれる人が増えて、演じる理由も増えていくように思えた。
「……私は」
けれどふと、昔のことを思い出す。
幼馴染と一緒に観る、映画が好きだった。
母親が死んで、父親が家からいなくなったばかりの頃の自分は、本当に塞ぎ込んでいて。レイとルイの前では気丈に振る舞っていたけれど、二人には気づかれない場所で、よく泣いていた。そして、しばらく隠れて泣いていると、結愛は必ず自分を見つけてくれて、テレビのある居間まで連れ出してくれた。
──景ちゃん、映画観ようよ
息をするように映画を観る習慣のきっかけは、もしかしたら結愛だったのかもしれない。
食い入るように、画面を見詰めて、映画の世界に没入した。本編が終わってエンドロールが始まると、とても寂しくて、映画が終わるとまた現実に戻らなければいけないのが、本当に嫌だった。
でも、映画という夢から醒めた一番心細い瞬間に、結愛はいつも景の手を握ってくれていた。
そして、きまってこう聞いてくれるのだ。
──景ちゃん。今の映画、どうだった?
映画の感想を夢中で語っていると、また辛いことを忘れられた。だから、その時間がなによりも楽しかった。
景の役者としてのルーツの一つは、間違いなく結愛と過ごしたあの時に在る。
けれど結愛は、自分と一緒に映画を観てくれる時間の長さとは裏腹に、あまり映画が好きではないようだった。好きな作品を聞いても、曖昧に笑って誤魔化すだけで、はっきりとした答えをもらったことは一度もない。
「……私は、結愛ちゃんを夢中にさせたい。結愛ちゃんに、私の演技をみてほしいの」
自分の親友は、大切な幼馴染は、画面の中には興味がないみたいで。
だから夜凪景は、そんな結愛を夢中にさせる演技を……本物を、目指している。
☆☆☆☆
「……私は、結愛ちゃんを夢中にさせたい。結愛ちゃんに、私の演技をみてほしいの」
答えを聞いて、千世子は目を細めた。
それは、自分が『本物』だという確信がなければ出てこない言葉だ。それは、結愛とは違う意味での『傲慢』だ。
この子はきっと、噓を現実にすることを芝居だと思っている。でも、それは間違いだ。現実は決して美しくないから、だから噓は美しく加工しなければならない。
芝居とは、商品なのだから。美しくない商品は、手に取ってもらえない。
だから千世子は、景の芝居をまるごと加工しなければならない。
おもしろいな、と思う。景は結愛を大切にしていて、結愛も景を大切にしている。でも、芝居という舞台に立った時、二人の在り方はまるで正面から向かい合うように、対極に位置してしまうのだ。
偽物を振り向かせようとする、本物。
本物を騙しながら愛し続ける、偽物。
正しいのは、どちらだろう?
(……どっちでもいいや)
千世子のやることは、変わらない。
いい映像を撮る。それだけだ。
「本番、よぉーい!」
この島に来てから、はじめてとなる一対一の共演。けれど、不安はない。
千世子は目の前に立つ相手への意識を、景から『ケイコ』に切り替えた。
カメラの位置を把握する。空模様が良くないから、なるべく一発で決めたい。呼吸を整え、表情を作り、視線を前に向け……発声する。
「ケイコ! よかった……無事で。他のみんなは?」
「分からない……夢中で逃げているうちに、離れ離れになってしまって」
淀みないやりとりが続く。千世子は、心の中で感心した。
本番直前に友達になりたい、なんて言ってくるものだから、どんな不安定な演技をしてくるのだろう、と身構えていたのだが。想像していたよりも、景の演技はずっと自然だった。
きっと景は、千世子の存在を『結愛』に置き換えて演じているのだろう。ついさっき、仲違いをして別れたとは思えない。安定した表情と所作だ。
本当に親友の身を案じているような表情で、景は千世子に視線を向けてきた。
(いや、違うな……そっか。夜凪さんは、本当に、今この瞬間。いなくなった万宵さんを心配しているのか)
きっとこの子は、今すぐにでも結愛を探しに行きたいに違いない。でも、それはできない。できないから、その焦燥感を千世子との芝居で、
だから、景の芝居はこんなにも真に迫っているのだ。
それが無意識の再利用だとしても。親友との仲違いすら、演技と感情の素材にしてしまう、その貪欲さは、たしかに『本物』と呼ぶに相応しい。
熱っぽい、それでいて少し湿った、感情の熱。自分に向けられるそれは、景と結愛の仲の深さを推し量るには、充分過ぎるもので……
(なんか、見せつけられてるみたいでやだな)
演技に、雑念が混じりそうになる。千世子はそれを振り払って、声を絞り出した。
「そっか。ケイコだけでも無事でいてくれてよかった」
台詞を言い切った瞬間、絶妙なタイミングで景が抱きついてくる。
想像していたより、細い身体だった。
肌が触れ合う。息遣いが近い。心臓の鼓動が聞こえる。
(万宵さんにとっては……
ふと、千世子はそう思った。
★★★★
気がつけば、ロケチームからかなり離れた場所まで、ふらふらと歩いてきてしまっていた。
「……なにやってんだろ、わたし」
自分の行動が自分でも馬鹿らしくなって、独り言を呟く。わたしはべつに、こんなところまできて景ちゃんとケンカをしたかったわけじゃない。ただ会えればそれでよかったのに。わざわざ百城さんとも揉めて、本当に馬鹿みたいだ。
そもそも、お芝居の世界に中途半端に足を突っ込んだのが今回の原因なわけで……ひげのおじいちゃんや七生さんは、わたしの演技を褒めてくれていたけど、そろそろ潮時なのかもしれない。
「……ばか。景ちゃんのバカ」
バカなのは、わたしなのに。
胸の中に溜まったモヤモヤを、吐き出さずにはいられない。
「やめよっかな……お芝居」
ぽつん、と。下を向いた地面に、雫が落ちた。一つ、二つ、三つ。とめどなく落ちるそれが、乾いた地面に滲みを作る。
今日は朝からずっと曇りで、天気が危なかった。だからきっと、雨が降り始めたのだろう。
そうに決まっている。だって、わたしは泣いてないから。
「おや……おやおやおや。珍しいこともあるものですね」
背後から響いたのは、ねっとりと全身に絡みつくような声。
慌てて、目元を拭って振り返る。
「あなたが泣いているなんて、私とはじめて会った時以来では?」
こんな島の、こんな山の中で、ビジネススーツを着こなす人物は一人しかいない。
「泣いてないし。何しにきたの……プロデューサー」
「いえ、そろそろ潮時かと思いまして。お迎えにあがりました」
わたしのプロデューサー、天知心一はそう言いながら笑うと、大仰に空を見上げて、
「ああ、使いますか?」
手に持った黒い傘を、わざとらしく広げた。