TSヤンデレ配信者は今日も演じる   作:龍流

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TSヤンデレ配信者は今日、演じない

 撮影の雰囲気が、大きく変わった。

 台風の影響でズタズタになったスケジュールを立て直すために、百城さんは率先して一発撮りと長回しを行うようになった。

 失った撮影期間は、一日半。その遅れは、8シーン42カットにも及ぶ。残りの撮影期間の中でそれを取り戻すのが厳しいのは、部外者で素人のわたしにも、よくわかった。

 けれど、百城さんは当然のようにスケジュールを巻いていった。

 五分以上の長い台詞を、一発で撮り切る。

 絵コンテまで把握して、時間短縮のためにスタッフと情報を共有し、時には細かい調整にまで参加する。

 リテイクなしで、しかも本来はもっと細かく分けて撮るはずだったシーンを一気にまとめて撮影してしまう百城さんは本当に場慣れしていて、さすがと言う他なくて。自分から撮影スタッフに指示を出す姿は、わたしですら思わず見惚れてしまいそうになるほどに、生き生きとしていた。

 役者の領分を超えた立ち回りに、しかし文句を言う人は一人もおらず……むしろ、百城さんを中心に現場の一体感は大きく増しているようだった。

 当然だ。間近であんな風に一生懸命な姿を見せられて、心を動かされない人なんていない。

 映画という作品に対する姿勢が、在り方が、情熱が。彼女が『役者』であることを、端的に示していた。

 

 それでも、どんなにがんばっても、人間の力ではどうにもできないこともある。

 

 

『台風22号に続き南の海上で発達した台風23号の影響で、大雨や暴風雨に厳重な警戒が必要です。気象庁によりますと……』

 

 

 撮影24日目。残り6日。

 どうやら神様という存在は、どこまでもいじわるらしい。百城さんたちの努力を嘲笑うかのように、二つ目の台風がやってきた。

 

「どうしてこの時期に……」

「最後まで撮れるのか……?」

 

 テレビから流れる気象情報に、ざわざわと騒がしい食堂の中で。景ちゃんはそんな雰囲気に流されることなく、黙々と台本を読み込んでいた。

 

「……台風、またきちゃったね」

「……きちゃったわね」

 

 あの日の問いかけ以来、わたしと景ちゃんの間には微妙にぎくしゃくとした空気が流れていて、まったく会話がないというわけではなかったけれど、ちゃんと互いの顔を見て話すような機会は明らかに減っていた。

 恐る恐る、ゆっくりと。景ちゃんの隣に腰かける。

 

「この調子だと、最後まで撮影できないかもね」

「そうね」

「……も、百城さんもすごいがんばってたのに、なんていうか、すごい残念だね」

「うん。でも、千世子ちゃんはまだ諦めてないと思う」

 

 景ちゃんは、台本に目を落としたままそう言った。

 感情が読めなくてもわかったと思うけど……でも、感情を読めるからこそ、わたしはそれを敏感に感じ取ってしまう。

 景ちゃんの気持ちは今、一切わたしに向けられていない。これっぽちも、それこそ小指の先ほども、わたしを見てすらいない。

 多分、わたしと会話をしながら……その意識の全てを、手元の台本に全て注いでいる。

 

「景ちゃんはさ」

「うん」

「お芝居、好き?」

「好きよ」

 

 呼吸をするように返ってきた返事。わたしが何かを言う前に、景ちゃんはもう一言、付け加えた。

 

「千世子ちゃんも、お芝居が好きなんだと思う。私と同じくらいか、それ以上に」

 

 うん、わかるよ、と。

 言おうと思えば言えたはずなのに、わたしはそれを口に出して言わなかった。

 

「大丈夫」

 

 そこでようやく、景ちゃんは台本から顔をあげて、わたしの顔を見た。

 

「私、絶対に結愛ちゃんを夢中にさせるお芝居をしてみせるから」

 

 

 

 ★★★★

 

 

 

 風が吹き荒れる。

 木が軋む。

 レインコートを着ていても、すき間から雨が入り込んでくる。

 それほどの豪雨の中で、景ちゃんと百城さんは、二人並んで立っていた。

 

「……うそでしょ」

 

 信じられない。

 台風が接近する中、撮影を強行するなんて。

 

「いやはや、まったく無茶をしますね」

「……プロデューサー、帰らなくていいの?」

「この嵐ではヘリも飛びませんよ」

「泳いで帰ればいいじゃん」

「それは、流れるプールみたいで楽しそうですね」

 

 わたしの隣に立つプロデューサーは、涼しい顔で言った。

 手塚監督が、雨に濡れるのにも構わず、景ちゃんと百城さんの前に出る。

 

「危険な撮影だが、これでも僕らはプロだ! 君達のことは必ず僕達が守る! 宜しく頼む!」

「はい……!」

「はい」

 

 百城さんは、豪雨の中とは思えない涼しい顔で。

 景ちゃんは、少しだけ緊張した表情で。

 それぞれの返事が、雨音に負けることなくはっきりと響いた。

 

「これは、どのようなシーンでしたっけ?」

「……景ちゃんと百城さんのクライマックス。山場の一つだよ。元々、雨が降っている想定のシーンだけど……」

「なるほどなるほど。だから台風を利用して撮影してしまおう、というわけですか。百城千世子も、思ったより無茶をしますね」

「無茶過ぎるよ……もし、怪我でもしたら、大変なことに……」

 

 撮影が始まる。

 百城さんが演じる『カレン』と景ちゃんが演じる『ケイコ』が、黒幕の意図に気づき、手を取り合って雨の中を走る。それが、今から撮影するシーン。この映画のクライマックスだ。

 嵐の中を、景ちゃんと百城さんが駆ける。

 無茶だ。普通じゃない。おかしい。イカれている。

 そんな言葉ばかりが、わたしの中でぐるぐると渦巻いて。でも、わたしには理解できない、その芝居への情熱が、景ちゃんと百城さんをたしかに繋いでいるように見えた。

 わたしはこの撮影に参加していない。

 わたしは部外者だ。

 わたしは関係ない。

 だから、あの二人の間に入れないのは当然で、わたしがあそこに立っていないのも当然で、

 

「素晴らしいですね」

 

 不意に。プロデューサーが言った。

 

「彼女たちのような役者は、アーティストです。ああいう生き物は、いつも私の想像を超えてくる」

「アーティスト……」

「作品を作るために、時には命まで賭ける馬鹿のことを、そう呼びます」

 

 一本の映画という作品を、作るために。

 景ちゃんと百城さんは、危険を冒してまで撮影を強行した。

 いや、二人だけじゃない。この嵐の中、セットの準備をした大道具の人たちも。今にも崩れそうなイントレ……撮影用に組んだ足場に立つ、カメラマンさんたちも。声を張り上げて指示を出す、手塚監督も。全員が一丸になって、撮影に望んでいた。

 わたしが偽物だと決めつけていた映像には、数え切れない人たちの情熱が詰まっていた。

 

「A地点通過! 発破いくぞっ!」

 

 地面に仕込まれた火薬が、嵐に負けることなく起爆する。

 まるで、この映画に関わる人たちの熱意をそのまま凝縮したかのような、凄まじい爆発。この嵐の中で、間違いなく、問題なく作動する発破を仕込むために、スタッフの人たちは、どれほどの労力をかけたんだろう? 

 

『カレン! 大丈夫!?』

 

 そして、景ちゃんは……そんなみんなの期待に、120%の演技で応えてみせるんだ。

 

『伏せて! 遠くから狙われてる! 私達を近づかせないつもりだわ!』

 

 ああ、すごい。

 今、景ちゃんの目には、予め設置されていた火薬の点火が、きっと本物のミサイルの着弾に見えている。

 そして、わたしの目は、予め設置されていた火薬の点火を、まるで本物のミサイルのように見てしまった。

 百城さんを庇うその腕が、親友の無事を確かめるその横顔が、お腹の奥から張り上げるその声が、わたしの視線を捉えて離さない。

 

 あれは『本物』だ。

 

 画面の中に映る景ちゃんは、わたしの知っている景ちゃんじゃない。『ケイコ』になっていた。数え切れない人たちの、計り知れない情熱を背負って、景ちゃんは今、本物を演じている。

 役者、夜凪景の一挙手一投足に、わたしは心をかき乱される。

 

「……なるほど」

 

 パチパチ、と。

 吹けば飛ぶような軽い拍手をしたのは、プロデューサーだった。

 

「あれが、夜凪景ですか。あなたと黒山が夢中になる理由が、ようやくわかりました」

「……」

「くやしそうですね」

「……だって」

 

 だって、だって……あんな表情の景ちゃんを、わたしは知らない。

 親友を庇って勇敢に前に立つ景ちゃんを、わたしは知らない。嵐の中、全力疾走する景ちゃんをわたしは知らない。

 わたしの知らない景ちゃんが、目の前にいて。

 そして、わたしの知らない景ちゃんの隣を、ケイコの親友として走るのは、百城さんだ。

 景ちゃんが『ケイコ』を演じるということは……『カレン』を、百城さんを親友だと認識し始めているということで。

 たったそれだけの事実に、わたしの心は今この瞬間も吹き荒れる嵐よりも強く、強く狂ってしまいそうだった。

 

『……カレン』

 

 立ち上がろうとする百城さんの手を、景ちゃんが掴んで引き留める。

 台本にはない動き。役に入り切っている証明。

 それは、これ以上前に進んで、カレンが傷つくことを恐れる……心の揺らぎ。これ以上ないほどに、繊細で壊れてしまいそうな、ガラス細工のアドリブだった。

 

『ケイコ、大丈夫』

 

 それでも、スターズの天使はブレない。

 百城さんは、膝を折った。座り込んだままの、景ちゃんと視線を合わせて、一言。

 

『行こう』

 

 たった、一言。けれど、景ちゃんのアドリブに対する、完璧な返答。

 柔和な笑みの中に、プライドが見える。

 百城千世子の芝居は、夜凪景には喰わせない、という……一人の女優としてのプライドが。

 だからわたしは、その一言に込められた意味に、身体が芯から熱くなった。

 景ちゃんが……いや、『ケイコ』が、ゆっくりと立ち上がる。

 

『うん。行こう』

 

 画面の先。あの中は、二人だけの世界。

 

「……景ちゃん」

 

 あの世界に、わたしはいない。

 

 

 

 ☆☆☆☆

 

 

 

 ずっと、自分の仮面は偽物なのだと思っていた。

 百城千世子には、目標にしていた役者がいた。だが、千世子が彼のようになるためには、天性の『才』とでも呼ぶべきものが、ほんの少しだけ欠けていた。どちらが上か、どちらが下か、という話ではなく。ただ、彼は『持っていて』、千世子は『持っていなかった』。ただ、それだけの話だった。

 多分、万宵結愛もそうなのだろう、と。千世子は思う。

 あの子はきっと、自分にはない『何か』を持っていて。きっとその『何か』が、彼女が被る精巧な仮面を形作っているのだ。

 磨きあげ続けてきた仮面で、上を行かれたことは、やはりショックだった。立ち回りも、表情の作り方も、細やかな所作も。役者に必要な全てにおいて、結愛の方が上に思えて……自分が負けたという事実を、千世子は受け入れたくなかった。結愛が芝居を学び始めれば、すぐに追いつかれてしまう、と。芝居の精度をさらに向上させることに、躍起になっていた。

 でも、隣を走るこの子が、夜凪景が、自分とは違う芝居の形を、思い出させてくれた。

 

 

「見えてきたよ、ケイコ」

 

 

 そう。だから、()()()()()のだ。

 芝居の台詞と、心の声が、奇しくもリンクする。

 百城千世子は、一人の女優として夜凪景の演技を肯定はしない。ただ、否定もしない。

 千世子には千世子の信じる芝居があって、景には景が大切にする芝居があった。表情の作り方に、マニュアルはない。それぞれの役者が思い描く『いい演技』の形は違う。だから役者という生き物は、常に自分の理想を思い描いて演じるのだ。

 認めよう。万宵結愛の仮面は、百城千世子よりも上だ。でもそれは『女優・百城千世子』が負ける事と、決してイコールでは繋がらない。

 千世子は、結愛の演技が……彼女の仮面が自分よりも上だと、決めつけて、諦めていた。最初から、戦うことを放棄していた。でも、違うのだ。

 

 ──だって、彼女()の隣で、主演()の芝居はこんなにも輝いている。

 

 演じることに、ワクワクしている。この映画を、最後までより良いものにしようとしている。

 映画に向ける、芝居に対する、この情熱だけは。絶対に負けない。

 

 ──だから……見てるよね、万宵さん。

 

 あなたが大好きな夜凪景だけじゃない。

 百城千世子の芝居も、必ずその目に焼きつけてみせる。

 そんな風に。

 そんな風に、らしくない熱を芝居に込めたせいかもしれない、と千世子は思った。

 

「……あ」

 

 小さく、声が漏れる。

 増水。溢れ出た水。まるで川のような水量のそれに、千世子は足を取られた。

 判断が遅れた。反応が間に合わなかった。

 

 ──まずい。流される。

 

 自分の事故は、そのままスターズの打撃に繋がる。

 顔を守れば、リテイクのチャンスはあるだろうか? 

 ダメだ。撮影期間はもうない。この撮影で決めなければ、チャンスはない。

 足か腕か。どこか怪我をしてしまえば、顔だけ無事でも残りのシーンに支障をきたす。

 ごめんね、夜凪さん、と。千世子は薄く引き伸ばした思考の余白の中で、謝罪した。

 せっかく、ここまできたのに。ようやく、自分の仮面と、演技と向き合ってくれたのに。

 

 それが、こんな終わりに──

 

 

「カレン!」

 

 

 その瞬間すらも、夜凪景は()()()だった。

 千世子は、目を見張った。

 景が伸ばした手に、手首を掴まれる。自分の腕を引き上げる力は思っていたよりも強くて、それでも景の軽い体では千世子を引き上げるには足りず……結果的に、二人の位置は入れ替わった。

 振り回すように、遠心力を活かして体を放り出される。増水した水の流れの外に、はじき飛ばされる。

 

「行って」

 

 短く。ただそれだけを言い残して。

 千世子の身代わりになった景は、水に流されて斜面を滑り落ちていった。

 夜凪さん、と言いかけた喉が、

 

 

「ケイコ!」

 

 

 別の名前を紡ぐ。

 それは、ほとんど反射のように絞り出した台詞で。

 それを言った瞬間に、千世子の頭は真っ白になった。

 

 あれ? 

 

 次の台詞は? 

 

 違う。台詞なんて言っている場合じゃない。

 

 ケイコを助けなきゃ。

 

 ケイコを助ける? 

 

 景は、何と言った? 

 

 行って、と。そう言った。

 

 ああ、そうだ。()()()、と。それが、景のメッセージだ。

 

 私は、役者だから。

 

 あの子も、役者だから。

 

 だから。

 

 言え、台詞を。

 

 作れ、仮面を。

 

 それが、私の仕事だ。

 

 最後の、台詞は──

 

 

 

「──ありがとう」

 

 

 

 

 ★★★★

 

 

 

 綺麗な横顔だと思った。

 頬を伝うそれは、雨粒と見分けがつかないはずなのに。流れるそれが涙だと、はっきりとわかった。

 わたしと同じ、仮面じゃない。本物の表情で景ちゃんへの想いを吐き出す、百城千世子の横顔がそこにあった。

 頭が真っ白になる。ただ、見入ってしまう。呼吸も思考も、すべてを忘れて。

 

 紛れもない『本物』の横顔が、そこにあった。

 

 

「カット。オーケー」

 

 呆然と呟いた手塚監督も、きっとわたしと同じ思いだったのだろう。

 事故だ、と。誰かが呟く。

 そう。あれは台本にあった動きじゃない。あれは事故だ。じゃあ、景ちゃんは……

 

『お願い! 夜凪さんを助けて!』

 

 カメラ越しに響く百城さんの悲痛な叫びは、演技ではなく肉声だった。

 それが、わたしを現実の世界に揺り戻した。

 

「……っ!」

「……結愛さん! ダメです!」

 

 プロデューサーの焦った声を聞くのなんて、いつぶりだろう? 

 でも、わたしはその制止を無視して、台風の中へ飛び出した。

 

 突風で、被っていたレインコートのフードがめくれる。

 

 ──どうでもいい。

 

「君、待ちなさい!」

 

 監督から、怒号のような制止の声と感情が突き刺さる。

 

 ──どうでもいい。

 

 雨があっという間に髪を濡らして、顔に張り付く。

 

 ──どうでもいい。

 

 景ちゃんが、景ちゃんに何かあったら、わたしは。

 それに比べたら、わたしのつまらない葛藤なんて、

 

 ──どうでもいい。

 

 走る。走る。走る。

 雨の中を、ただひたすらに走る。

 わたしは、二人の世界に入ることはできない。こうやって、二人が駆け抜けた道を、追うことしかできない。それでいい、そんなことは、本当に、

 

 ──どうでもいい。

 

 百城さんへの嫉妬なんて、

 

 ──どうでもいい。

 

 ぐちゃぐちゃになっていた、わたしの感情なんて、

 

 ──どうでもいい。

 

 

 だって、わたしは……

 

 

 

 

 △▼△▼

 

 

 

 

 

 横合いからの鉄砲水だった。

 体力には、自信があった。最適なコースを、最短で走り抜けてきたつもりだった。だから、背後で千世子が足を取られた瞬間も、頭の中は妙に冷静で、至極当然の判断を下した。

 

 私が身代わりになればいい、と。

 

 ケイコはそう思った。そして、景もそう思ったのだ。

 自分の撮影は今日で終わる。でも、千世子の撮影はまだ残っているから。ここで怪我をさせるわけにはいかない。

 ケイコのカレンへの感情は、景の千世子への思いと、当然のように合致した。

 

「夜凪さん! 夜凪さん! 大丈夫!?」

 

 こんなに焦った千世子の声を聞くのは、はじめてだ。

 背中に当たる感触は、やわらかい。スタッフが事故を防止をするために、事前に張り巡らせてくれていたネットに引っかかったのだと、景はようやく思い至った。

 瞼を開く。

 濡れた全身が、気持ち悪い。でも、それを言うのは今更か。台風の中を走りぬけたせいで、スカートの中までぐしゃぐしゃだ。

 だけど、それよりも。一番気になるのは、

 

「千世子ちゃん。私……顔、怪我してない?」

 

 食い入るように顔を覗いていた千世子の瞳がすっと細まり、そして笑った。

 

「役者さんだもんね。大丈夫。綺麗なままだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「綺麗じゃないよ、バカぁ……」

「え?」

 

 急に横合いから割り込んできた声に、今度は景が目を丸くする番だった。

 ずっとずっと、聞き慣れている親友の……けれど、とても珍しい涙声だった。

 

「せっかく綺麗なのに、こんなに泥だらけになって……あんなに無茶して、身体も冷やして」

「私も、泥まみれなんだけど?」

 

 からかうように、千世子が言う。

 

「百城さんはいいの! でも、景ちゃんはダメなのっ! この、バカっ……バカバカ。バカっ! 景ちゃんのバカぁ!」

 

 ボキャブラリーのない罵倒を伴って、覆い被さるように抱きつかれる。

 

「結愛ちゃん……私のこと、心配してくれたの?」

「当たり前でしょバカっ! 親友なんだから!」

 

 そうか、と景は今さら気がついた。

 泥まみれになって、びしょ濡れになって、それでも抱き締められて、ようやく気がついた。

 人の気持ちがわからない。だから、親友が自分のことをどう思っているのかもわからない。景はそんな風に、そんなつまらない理由で、結愛のことを疑ってしまっていた。

 

「ほんとに……ほんっとに……心配かけないでよ……もう」

「ごめんね」

「いつも、謝ればいいって思ってるでしょ……」

「うん。結愛ちゃん、やさしいから」

「……バカぁ」

 

 でも、そんなことはどうでもいいのだ。

 

 普段の言動が、言葉が、所作が、すべて演技だって構わない。仮面を被っていたとしても関係ない。

 だって、夜凪景と万宵結愛が積み重ねてきた関係は、それだけで噓になるほど、脆くはないから。

 それに景は、自分をこんなに強く抱きしめてくれるこの腕が、冷えた身体に感じる温もりが、演技ではないことを知っている。

 

 そうだ。()()()()()()()()()

 

 本物か、偽物か。

 最初から考える必要もなかった。比べる意味もなかった。

 息を切らして走って駆けつけて、自分のために自分よりも顔をぐしゃぐしゃにして、泣いてくれる。そんな親友の言葉を、振る舞いを、本当か噓かで判断する方が間違いだ。

 ゆっくりと自分の身体に移っていく熱を感じながら、景はそう思った。

 

「結愛ちゃん……落ち着いた?」

 

 泣いている子どもを、あやすように言う。

 

「景ちゃん、ごめん……離れるね」

 

 だけど、謝る親友の声が、なぜか急にいじらしくなって。

 

「もう少し」

「え?」

「もう少し、このままでいて」

「でも……こんなにくっついたままじゃ、顔も見えないよ」

「それがいいの」

 

 今度は景の方から結愛を抱きしめた。

 顔なんて、見えなくていい。

 仮面なんて、どうでもいい。

 だって、確認する必要がないから。

 万宵結愛は、夜凪景の親友。

 景が結愛を想い続けている限り、その事実は絶対に揺らがない。心配することも、疑うことも、何一つない。

 景は、結愛の肩に頭をのせて、聞いた。

 

 表情は、見えない。

 見ないまま、聞く。

 

「ねえ、結愛ちゃん」

「なに?」

「私に、夢中になってくれた?」

 

 どくん、と。

 重ねた胸の心臓が、より一層跳ねた気配がして、

 

 

「……惚れ直したよ、バカ」

 

 

 やっぱりその顔をみておけばよかったと、景は少し後悔した。


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