「……じゃあ、とりあえず服着たら?」
明神さんはわたしを押さえつけていた腕を解くと、少し視線を右にずらしてそう言った。
へえ。最初はいけ好かないくそ野郎だって思ってたけど……どうやら、紳士なところもあるらしい。なにより、今度はちゃんとわたしを見ている。
少し気分が良くなって、わたしは地面に寝そべったまま、明神さんを見上げて言った。
「素っ裸のわたしを見て何か言うことはないんですか?」
「エロい身体してると思うよ」
前言撤回。やっぱわたしの胸ちら見してるじゃねぇかこの野郎。
でもまぁ、とりあえずわたしに対していかがわしい、男の原始的な感情はほんの少ししか抱いていないみたいだし(わたしの力はこういう時も便利だ)、そこに関しては信用することにしよう。
身体を起こして、肌についた土や葉っぱをはらう。
「明神さん」
「阿良也でいい」
言いながら、明神さん……もとい、阿良也さんは上着を脱いで渡してくれた。いくら野犬の演技をしていたとはいえ、いい加減肌寒かったので、ありがたくいただいて羽織らせてもらう。
「服、どこに置いてきたの?」
「どっかそのへんにまとめて」
「……呆れたな。野犬でも、自分の荷物を置いてきた場所くらいは覚えてるんじゃない?」
「ごめんなさい。バカ犬なんです」
手首を丸めて舌を出すと、阿良也さんは言葉通り本当に呆れ果てたといった様子で肩を竦めて、焚き火の傍に座り込んだ。わたしもそれに倣って、近くに腰掛ける。
「それで、少しはわたしのことを
「うん」
即答。にしゃり、と。無邪気な笑みが添えられる。阿良也さんが笑うと、見た目の印象よりも幼い雰囲気が表に出た。
「最初と違って、おもしろいと思ったよ」
おもしろいと思った。
きっとそれは、この人にとって相手を評価する基準の一つなのだろう。
「でも、まだ足りない」
「……足りない、ですか?」
「うん」
阿良也さんは猟銃を火に掲げて照らした。年季の入った、けれどよく手入れされていることがわかる銃口が、鈍く輝く。
「君は、銃を持ったことはある?」
「ありません」
日本に生まれて普通に生活していたら、銃を持つ機会なんてない。わたしの答えが最初からわかっていたみたいに、阿良也さんは頷いた。
「だろうね。俺もそうだった。生まれてはじめて銃を持って、その重みを両手に感じて、命を預けて……今、こうして夜を過ごしている」
その銃の重みは、実際に手にしなければわからないもので。その銃が夜の闇の中で、どれほどの安心感をもたらしてくれるか。それは、実際に山に入ってみなければわからない。
「もちろん、免許を取るために銃を何回か撃ったことはあるよ。でも、俺がこの銃を一番頼もしく感じたのは、ついさっき……君という『野犬』に組みつかれた時だ。あれは、いい経験になった。ありがとう」
「どういたしまして。わたしも身体を張った甲斐がありました」
人を実際に撃ちかけておいて「ありがとう」と言う阿良也さん。
体に風穴が空きかけたにも関わらず、それを気にしないわたし。
どちらがイカれているのか、それともどちらもイカれているのか。悩ましい問題ではあるけれど、そもそも役者という生き物はイカれているのが正解、みたいなところがあるので、正直どうでもいい。
「まあ、つまるところ……役者っていうのは、そういう生き物だと思うんだ」
「……え、どういうことです?」
「役を一人演じる度に生まれ変わる。そのために……生きてる?」
「いや、なんで疑問形なんですか?」
「うん。とにかく、そんな感じ」
「どんな感じですか!?」
説明になってないよ! わからないよ!?
最初から天然っぽい雰囲気はあったけど……この人、さては役者のくせに口下手だな?
「わたしに何が『足りない』のか。はぐらかしてないで、教えてください。阿良也さん」
「……教えるも何も、君はもう気づいていると思うけど」
そこで、阿良也さんは言葉を区切り、自分の上着を羽織っているわたしをまじまじと見た。
「……なんです?」
思わず、上着の前を強く締める。阿良也さんに『そういう感情』は一切なかったけれど、逆にそれが一切ないことが気持ち悪いというかなんというか。
「例えば、万宵は普段から裸になる?」
「なるわけないでしょう。裸族じゃあるまいし」
家の中で素っ裸で過ごす健康法、とかもあるらしいけど、わたしはそんな変態さんじゃない。
「うん。だよね」
チャキリ、と。
阿良也さんが握りなおした銃が、まるでオモチャのような音を立てた。
「普段は服を着ている君は、野犬になるために裸になった。だから、そういうことだよ」
ぬあーっ!
意味がわからないってば!
★☆★☆
翌朝。服を回収して無事に野良バカワンコから人間に戻ったわたしは、阿良也さんに付き添って山を散策することにした。
朝の空気は気持ちよく澄んでいて、空もきれいに晴れている。だというのに、阿良也さんはどんどん山の奥に進んで、鬱蒼と木々が生い茂った森の中を突き進んでいく。
段々と周囲が薄暗くなってきた。
「そういえばこの山、本当に熊とか出るんですか?」
「出るらしいよ」
興味本位で軽く質問してみると、わりとあっさり返された。
いや、本当に熊出るんかーい。ひげのおじちゃん、そんなところにわたしを放り込むとか、どうかしてるよ……帰ったら危険手当とか請求してやろうかな?
「なんでわざわざ森の奥の方に進むんです?」
「なんでって……奥に行かないと、狩れる獣に出会えないじゃないか」
「……え、本当に狩る気なんですか?」
嘘でしょ。
「べつに熊じゃなくてもいいけど、実際に獣と対峙して銃を撃たないと、役作りにならない。ここにきた意味がないよ」
狩る気満々の阿良也さんの発言に、わたしは思わず天を仰いだ。だめだ。あんまり空の青が見えなくなってきた。つらい。
「昨日の野犬を撃てればよかったんだけど……逃したからね」
「……撃たれる前に逃げる賢い犬でしたね」
前方からは失笑の気配。最初の険悪っぷりを考えたら、軽口を叩ける仲になったのはとても良いことだけど、しかしわたしはこの人から何を盗めばいいのか。おじちゃんに出された課題の意図が、未だに見えてこない。
阿良也さんの役作りに対する姿勢は、間違いなく本物だ。それは疑いようがない。でも、わたしは別にマタギの役をやるわけじゃないし、阿良也さんの真似をして銃をぶっ放しても意味ないしなぁ……
「少し、休憩しようか」
「あ、はい」
「あっちに川があるから、顔でも洗ってくるといい」
「えっと……お気遣いありがとうございます?」
「どういたしまして」
思考はまとまらず、気分もすっきりしなかったので、お言葉に甘えてありがたく休憩させてもらう。阿良也さんに言われた通り、道に見えないような獣道を踏み分けていくと、本当に小さな川に出た。
水の中に手を差し入れると、それだけで指先がじんわりと冷えた。軽くすくって、顔をすすぐ。
「ふぅ……」
ひげのおじちゃんにも、
──おまえに足りないものは何だと思う?
阿良也さんにも、
──でも、まだ足りない
同じことを言われた。足りない、と。
何が足りないのだろう?
役作りへの熱意?
役者を続ける覚悟?
「……」
水面には、わたしの顔が写っている。他人より整っているとは思うけど、ただそれだけの女の顔だ。
景ちゃんのように、天性の才を持っているわけじゃない。
千世子ちゃんのように、少しずつ積み重ねてきた演技への情熱があるわけでもない。
わたしは……
水面には、わたしの顔が写っている。
ありのままの、わたしの顔が写っている。
──悪寒がした。
「っ……」
はっと顔をあげる。
気がつかなかった。
わたしの特別な力は、基本的に人の感情の色を受け取るものだ。だから、考えに耽っていたせいもあるけれど、あまりにも原始的で直線的なその欲求に、反応が遅れた。
川を挟んで、わずか十数メートル先。大きな茶色の塊が、わたしを見ていた。
熊だ。
どこからどう見ても、熊だ。
こちらを見ている。感情が、突き刺さる。
犬や猫と戯れる時は感じなかった。意識したこともなかった。
『食う』
ただそれだけが、向けられる。
ある日、森の中、クマさんに、出会った。
いや、いやいやいやいや……洒落にならない。
熊、クマ、くま……
熊対策、熊対策って、何をしたらいいんだっけ?
死んだふり? 木に登る? 背中を向けて走る……?
そうだ。阿良也さんなら……阿良也さんなら、銃を持っている!
「あら……」
やさん、と。叫ぶ前に、熊は動いた。
想像していたよりも、ずっとずっと速く。見た目よりも遥かに俊敏にそいつは動いて、わたしに向かって突っ込んできた。
身体を真横に倒して、地面を転がる。砂利が体に食い込んで、強く痛む。でも、気にしている暇はない。
はやく逃げ……
視界の隅を、大きな塊が横切った。
熊が腕を振った、と気がついたのと。わたしの体が大きく引き寄せられ、吹き飛んだのは同時だった。
(リュック……引っ張られて)
人間って軽いんだな、と。頭の冷静な部分がまるで他人事のように考えて、数瞬遅れて体に衝撃がはしった。
川の中に落とされた。そう理解するのに数秒。水の冷たさに、体が震える。
「ぅ……」
ああ。これは、ダメだ。
死ぬ。
わたしが。わたしという存在が。
食べられて。咀嚼されて。
ここで消える。消えてなくなってしまう。
「いや……」
誰かに対して、ではなく。
ただ、純粋に。わたしの唇が、言葉を紡ぐ。
「死にたく、ない」
銃声が、響いた。
「……え」
熊が大きくよろめいた、その隙を突いて。
熊とわたしの間に、割り込むようにして人影が飛び込んだ。
「デカイな」
短く、ただ一言。目の前の獲物を見定め、その
明神阿良也ではない。一匹の熊と対峙する一人のマタギは、熊の懐に向かって飛び込んだ。
「この距離なら」
その姿はまるで、本当に手練れの猟師のようで、
「外さない」
その一発で、頭を撃ち抜かれた熊は、大きくよろめいて倒れ込み、そして動かなくなった。
わたしの目の前で、命のやりとりが、終わった。
熊の荒い息遣いも、地面を踏みしめる音も、耳をつんざくような銃声も。全てが夢だったかのように、山の静けさが引き寄せられて、元に戻る。
「……はぁ、はあ、はぁ……」
わたしの吐き出す早い呼吸の音だけが、耳に入る。
「……大丈夫?」
振り返ったマタギは、もう阿良也さんの顔に戻っていた。
「大丈夫に、見えますか?」
「ううん。全然」
本当に、この人はもう……
わたしの体はびしょびしょで、頬や唇も多分切れていて、涙か水かわからないもので濡れている。とても人に見せられるような姿じゃない。
でも、
「ふふっ……くくっ……あはははっ!」
なぜか、笑い声が喉の奥から、心の奥から漏れ出た。
ああ、おもしろい。
身体が熱い。心が熱を孕んでいる。当然だ。もう少しで死ぬところだったのだから、興奮しても仕方がない。
その興奮が、とても心地良い。
「ねぇ、阿良也さん」
「なに?」
「わたし、死にたくないって思った。わたしが、死にたくないって、そう思ったの」
自然と、敬語は外れていた。
阿良也さんも、それを気にしていないようだった。
「……そりゃ、熊に襲われれば誰でもそう思うんじゃない?」
「うん。でもね……でもわたし、ひさしぶりに自分を思い出した気がする」
ずっと、人に見られることを意識してきた。より良く自分を観られようと、心を読んで、演技をして、ずっとずっと生きてきた。
でも、この山の中で、わたしを見る人は阿良也さんしかいなくて。
誰にも見られていない。
誰かに気を遣うこともない。
誰かの心を読む必要もない。
そんな自然の中で、ただの肉の塊として、生きるための餌として、あの熊はわたしを見ていた。
ただの餌として死にかけたわたしは、ただ死にたくないと。心の底から、叫んだ。その純粋な欲求が、声として漏れた。
だから、
「死にたくないと願うわたしは、間違いなく
笑う。
演技をするために、必要なもの。
ありのままの自分自身。
基準となる己があって、役を演じる基盤があって、はじめて深い演技は成立する。役に潜ってきたあと、元に戻れる。マタギの顔から、いつもの顔に戻った阿良也さんのように。
普段の生活すらも演技の延長線上にあったわたしは、そんな簡単なことを忘れていたんだ。
だから、臭かったんだ。
だらりと、猟銃を下げた阿良也さんは、こちらを見下ろして微笑んだ。
「……ようやく、少しいい臭いになったな」
火薬の香りが色濃く残っている手が、ゆったりと差し出される。
その手を取って、わたしは立ち上がった。
「阿良也さん」
「なに」
倒れ込んだ熊と、それを仕留めた阿良也さんを、交互に見詰めて。
気を遣わず、遠慮もせず、心も読まず、欲求のままに。わたしは言う。
「食べていい?」
「──」
一瞬の沈黙を挟んで、阿良也さんは破顔した。
「ああ、いいよ」